爆弾テロの現場を通過したことがありました。 サンクトペテルブルグ地下鉄 [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2017年4月3日の14時40分(現地時間)にロシアのサンクトペテルブルグの地下鉄で爆弾テロがあり14人の方が亡くなりました。けが人の方も64人だそうです。実は数年前にロシアのペテルブルグに行ったことがありに、地下鉄2号線に乗ったことがあったので、そのニュースを聞いて驚きました。ただしニュースでは地下鉄の駅名までは報道されていなかったので、気になって調べてみたところ地下鉄2号線のTekhnologicheskiy Institut駅とSennaya Ploshchad駅の間で釘爆弾が爆発したそうです。実は私も2号線のTekhnologicheskiy Institut駅の近くのホテル(Original Sokos Hotel Olympia Garden)に泊まったことからTekhnologicheskiy Institut駅で乗り降りしたのでした。上の写真はTekhnologicheskiy Institut駅のホームに降りるためのエスカレーターです。地下鉄は核シェルターを兼ねていたことから深さが約100mあるのです。
私はネフスキー大通りに行くためにTekhnologicheskiy Institut駅から地下鉄2号線(M2 ━━)に乗ってNevskiy Prospekt駅で降りました。帰りは逆にNevskiy Prospekt駅から乗ってTekhnologicheskiy Institut駅で降りました。
爆弾はTekhnologicheskiy Institut駅とSennaya Ploshchad駅の間で爆発いたしました。
路線図の中の✸マークが爆弾テロのあった場所です。
地下鉄2号線の駅
英語駅名 | ロシア語駅名 | 日本語駅名 | |
Parnas | Парнас | パルナス駅 | |
Prospekt Prosvsscheniya | Проспект Просвещения | 啓蒙大通駅 | |
Ozerki | Озерки | オジョルキ駅 | |
Udelnaya | Удельная | ウジェリナヤ駅 | |
Pionerskaya | Пионерская | ピオネール駅 | |
Chornaya Rechka | Чёрная речка | 黒川駅 | |
Petrogradskaya | Петроградская | ペトログラード駅 | |
Gorkovskaya | Горьковская | ゴーリキー駅 | |
Nevskiy Prospekt | Невский проспект | ネフスキー大通り駅 | |
Sennaya Ploshchad | Сенная площадь | 干草広場駅 | |
Tekhnologicheskiy Institut | Технологический институт | 工科大学駅 | |
Frunzenskaya | Фрунзенская | フルンゼ駅 | |
Moskovskiye Vorota | Московские ворота | モスクワ門駅 | |
Elektrosila | Электросила | エレクトロシラ駅 | |
Park Pobedy | Парк Победы | 勝利公園駅 | |
Moskovskaya | Московская | モスクワ駅 | |
Zvyozdnaya | Звёздная | 星駅 | |
Kupchino | Купчино | クプチノ駅 |
ロシア語のWikipedia(Википедия)の地図も私と同じ位置にマークが入っていました。ロシア語のWikipedia→ポチッ
ロシア語タイトル Теракт в Петербургском метрополитене (2017)
テロ事件のネットの写真も掲載させていただきます。
Tekhnologicheskiy Institut駅のホームに下りてエスカレーターを撮った写真です。地下100mから沢山のケガ人の方を救出するのは大変な作業だったと想像されます。
こちらはTekhnologicheskiy Institut駅のホームです。釘爆弾が使われたとのことなので、まさに地獄のようだったと思います。亡くられた方のご冥福と、ケガをされた方の早い回復を祈っております。
Google地図に地下鉄2号線と駅と爆弾テロの位置をプロットいたしました。ただし爆弾テロの位置はTekhnologicheskiy Institut駅とSennaya Ploshchad駅の間と報道されているだけなので正確ではありません。緑色のベッドのマークが泊まったホテル(Original Sokos Hotel Olympia Garden)です。
━━━ 地下鉄2号線(M2)全区間 ━━━ 私が乗った区間
左上が泊まったホテルの前の景色で右上が泊まった部屋の写真です。夕食も紹介します。翌日、エストニアとの国境近くの小さな村に車で行きました。その時の車窓はこちらです。→ ポチッ
2014年11月13日掲載 タイトル:サンクトペテルブルグの地下鉄
オリジナル記事 → ポチッ
ベルリン(ドイツ)からサンクトペテルブルグ(ロシア)のホテルに6月29日の17時50分に着きました。この時期は白夜の季節のため遅くまで明るいので有名なネフスキー大通りに行ってみることにしました。地下鉄が便利なのでホテルの人に地図で説明してもらい、さっそく地下鉄に乗りました。ホテルの場所に近いTekhnologicheskiy Institut駅からNevskiy Prospekt駅まで2駅乗りました。驚かされたことがいくつかありました。もっとも驚かされたのがエスカレーターの長さです。東京で数十mの深さのエスカレーターは何度も乗り少々の深さのエスカレーターには驚かない自信ががありましたが、乗った瞬間、尋常ではない長さを感じました。東京のエスカレーターより遥かに深いことを直感しました。日本に帰ってインターネットで調べるとやはりサンクトペテルブルグの地下鉄は世界一深いと書かれていました。100mの深さの駅もあるそうです。この駅の深さは判りませんが地上から一気にホームまでエスカレーターで降りるのです。上の写真はTekhnologicheskiy Institut駅のエスカレーターです。
Tekhnologicheskiy Institut駅の入口です。次に驚かされたのが地下鉄の駅は建物の中にあることでした。それも地下鉄専用の建物なのです。
地下鉄の入口で、さらに驚かされたのが、扉がついていることなのです。沢山の人が出入するのにすべて扉がついていました。このような入口が建物に沢山ありました。
Tekhnologicheskiy Institut駅のホームです。両側の柱の奥に上り線と下り線がありました。どちらに乗ったらいいか迷っていると親切に女性の人が声をかけてくれて地図を見せて行きたいところを言うと乗る側のホームを教えてくれました。サンクトペテルブルグの市民の人の親切さに驚かされました。感謝です。反対に乗ってしまうと大変です。
Nevskiy Prospekt駅のホームです。大きさに驚きです。こちらの駅でも両側に柱があり、それぞれの柱の奥に上り線と下り線がありました。
地上に出ました。これがNevskiy Prospekt駅です。地下鉄専用の建物の大きさにまたまた驚かされました。沢山の人が条項するためドアの数も半端ではありませんでした。この写真はクリックすると拡大します。
切符の買い方を紹介いたします。距離は関係なく均一料金なので迷うことはありません。人数だけ手で示せば、何とか買えます。ここでも驚かされました。それは渡された切符でした。
これが、驚かされた切符です。切符は紙だと思い込んでいたので、お釣のコインと思ってしまいました。切符を受け取っていないと言うと、このコインを指差されて切符であることが判りました。クリックすると拡大した切符が見れます。
改札機にコインを入れると入れます。ただしほとんどの人がICカードで入っていました。旧式の改札機のように見えましたが最新のノータッチのIC式であることに、またまた驚かされました。
最後にもう一度世界一長くて深いサンクトペテルブルグの地下鉄のエスカレーターのすごさを実感してください。このエスカレーターはNevskiy Prospekt駅のエスカレーターです。地質の関係で深くなったとそうですが、核戦争を想定したシェルターの役割があったからこそ経済性を度外視して深い地下鉄を50年以上前に作ったと直感的に感じました。だから入口はすべて、頑丈な建物の中にある上に一人が通れる幅のドアがすべてついているのだとも感じました。サンクトペテルブルグの地下鉄が開通したのは1955年で、今回乗った2号線は1961年に開通したそうです。沢山驚かされた上に趣のあるすばらしい地下鉄でした。是非ともサンクトペテルブルクに来る機会があれば、乗って深さを体験してほしいと思いました。
モスクワの露店のお土産屋さん [ロシア]
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ホテルから赤の広場に向かうマネージ広場には沢山のお土産屋さんと思われる露店が並んでいました。時間は7時52分です。
この時間帯は、上の写真のように、ほとんどのお店が閉まっていましたが、すでに準備を始めている、お店もありました。やはりお土産屋さんでした。売られているのはロシアのお土産として有名なマトリョーシカ人形が大半を占めていました。
赤の広場から帰ってきた一時間後にはほとんどのお店が準備を始めていました。店構えが同じデザインなのも興味深いことでした。
驚いたことに全てのお店でマトリョーシカ人形が売られていました。ちなみに赤の広場では売店は一才ありませんでした。当然科もしれませんが赤の広場では露店は禁止されているのでしょうね。
下の写真が売られていたマトリョーシカ人形です。マトリョーシカ人形(Матрёшка)は、ロシアの木製の人形で、単にマトリョーシカとも呼ばれるそうです。
特徴はネットから拝借した右の写真のように胴体の部分で上下に分割できて、中には少し小さい人形が入っていることです。これが何回か繰り返される入れ子構造になっています。入れ子にするため手は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造です。6重以上の入れ子である場合が多いそうです。
1900年のパリ万国博覧会で銅メダルをとったのを機会にロシア各地でいろいろなマトリョーシカが作られるようになり、ロシアの民芸品、みやげ物として知られるようになったそうです。
このようなマトリョーシカ人形も売られていました。
それぞれの人形には女性像が描かれているのが本来のものだそうですが、大統領など有名人が描かれたもの、動物や絵柄など人間以外のものが描かれたものなどもお土産として出ているとネットに書かれていました。
露店のお土産屋さんが沢山並んでいたのがこのあたりです。広場に並んでいる白いものが露店のテントです。地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。
恋人たちの「赤の広場」 [ロシア]
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マネージ広場から赤の広場への道で撮った一枚です。二人の前に広がっているのが朝の「赤の広場」です。雰囲気が伝わってくる、お気に入りの写真です。
広い広場を散策していると、少し時間が経っていましたが、同じカップルが記念写真を撮っているのに出会いました。
見ているだけで、ほほえましい気持ちになってしまいます。国立歴史博物館を背景に写真を撮っているのだと思います。
バックの観客席は5月1日から使われるのだと思います。観客席は左のロシアの国旗と同じデザインでした。
同じ場所で別のカップルも記念写真を撮っていました。こちらは聖ワシリイ大聖堂とスパスカヤ塔の背景の記念写真ではないかと思います。
朝の赤の広場はなぜかカップルの多い場所でした。こちらの写真はクリックすると拡大します。
人が増えてきました。バックに見えるのは聖ワシリイ大聖堂です。どうやら赤の広場はデートスポットだったようです。
若いカップルも多かったです。
素敵なカップルです。旅行でしょうか。左の遠くの老夫婦の後姿も印象的です。右のロシアっぽい男3人も気になる雰囲気です。バックの建物は国立歴史博物館です。クリックすると広範囲を表示するので国立歴史博物館が判ると思います。4月28日の朝の赤の広場の報告でした。
赤の広場の航空写真です。
道路沿いのお土産屋さん [ロシア]
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この日はモスクワから往復500kmほど車で走りました。途中の売店と言えばガソリンスタンドと併設されたドライブインぐらいですが、一箇所だけお土産屋さんらしいお店が集まったところがありました。それが今回、紹介する写真です。
上の写真からお土産らしい部分を切り取りました。この中で左端の大きなビニール袋に入った軽そうな食べ物に関しては反対車線の露店でも沢山売っていました。
こちらも冒頭の写真から切り取ったものですが、同じようなお土産を別のお店でも売っていました。ロシア語がわかる人が、おられたら是非とも、このお土産が何であるのかを教えて欲しいです。
追伸
ロシアにお住まいのHiyoko-Onigiriさんから、お土産のこと教えてもらいました。Hiyoko-Onigiri さんはモスクワに在住されている方で、ブログ「モスクワの街角から」でロシアのことを沢山紹介されています。
その記事の中でクレムリや赤の広場に隣接するマネージ広場の記事を書かれていたので、そちらのコメント欄に質問を書かせていただいて、お返事をいただいたわけです。
コメントをそのまま掲載させてもらいました。ありがとうございました。
はじめまして。ブログへの訪問&コメントありがとうございました^^
さて、質問の件なのですが、左側に写っているビニール袋のようなもの、これはちょっと遠すぎるし、特に何も書いていないので分かりかねます。
「Тульские Пряники」(トゥーリスキエ プリャーニキ)、これはロシアの伝統菓子である「プリャーニキ」の事です。
柔らかいパンとケーキの間みたいな食感のお菓子で、スーパーなんかにもよく売られています。Тульскиеという事なので、まっくろクロスケさんは、トゥーラの町をちょうど通られていたのではないですか?
Тульскиеは「トゥーラの」という意味です。
それから、「Сигареты по своим ценам」と書かれている所に置かれているものは、タバコの事です。日本語に翻訳すると「タバコ-ご自分で価格を決めてください-」くらいの意味になります。
by Hiyoko-Onigiri (2011-06-04 20:36)お菓子の写真はネットから拝借いたしました。
冒頭の写真より少し手前の写真です。ほんとうに沢山のお店が並んでいました。
赤の広場の子供たち [ロシア]
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モスクワの赤の広場の別の光景を紹介いたします。
早朝の赤の広場はいくつか紹介していますが、いろんな光景に出会えます。野外授業でしょうか。先生と子供たちと思われる人達が来ていました。赤の広場のモスクワ川からの入口に近いところで説明を受けているところでした。このときの時間は8時9分でした。
正面の建物の国立歴史博物館に向かってみんなで歩いています。左側にレーニン廟が見えます。
集団行動のようですが、意外と自由に写真を撮っていました。ジャージの人は上の写真にも写っているので先生だと思います。
この写真の中にはすでに紹介したカップルも写っています。わかるでしょうか。朝、早いと人が少ないために何度も同じ人に出会いました。
モスクワ川を散策 [ロシア]
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川沿いのホテルからの景色を紹介いたしましたが、その川はモスクワ川です。成田からの直行便でモスクワについて夕刻にホテルにチェックインしましたが夕食まで時間があったのでモスクワ川の川沿いの道を散歩しました。上の建物はホテルの部屋から写真で紹介した川向のホテルRadisson Royalです。
モスクワ川(ロシア語: Москва-река、英語:Moskva River)は、ロシア西部を流れる川で、スモレンスク州とモスクワ州を流れ、蛇行しながらロシアの首都モスクワを貫流しています。ヴォルガ川水系に属するオカ川の支流で、水はカスピ海へと流れています。川の延長は503km、流域面積は17,600平方kmです。
モスクワはモスクワ川の河畔に位置し、街の名はモスクワ川に由来する。モスクワ川はほかにも修道院で有名なモスクワ郊外のズヴェニゴロド(Звенигород)、ヴォスクレセンスク(Воскресенск)、ジュコーフスキー(Жуковский)、ブロンニツィ(Бронницы)、モジャイスク(Можайск)などの街を流れ、コロムナ(Коломна)でオカ川に合流します。毎年11月から12月にかけて凍り、3月終わりごろから溶けはじめるそうです。主な支流にルザ川(Руза)、イストラ川(Истра)、ヤウザ川(Яуза)、パクラ川(Пахра)、セヴェルカ川(Северка)などがあるそうです。
向かいのホテルRadisson Royalは沢山の観光船を持っているようでした。
川沿いには趣のある工場らしき建物群もありました。煙突が沢山立っていました。
こちらは昔の観光船ですが今は別の形で使われているようでした。エンジンがかかっていたので今でも使われているようでした。
川沿いにはロシアらしい建物が沢山ありました。
水鳥も沢山泳いでいました。
追伸
白矢さんに水鳥の名前を教えてもらいました。ツクシガモと言うそうです。→ポチッ
ツクシガモ(筑紫鴨)は、ユーラシア大陸の温帯部に広く分布する大型のカモで、日本へは少数が冬鳥として渡来するそうです。
こちらも大きな建物でした。官庁関係でしょうか。?
川沿いには沢山の車が走っていましたが、横断歩道が少ないのに驚きました。簡単には道路を渡ることが出来ないのがモスクワでした。ホテルからピロシキを食べたレストランに行くために道路を渡るのも大変でした。
モスクワでは、郊外がバスで、街中が路面電車とトロリーバスでした。 [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
前記事でサンクトペテルブルグからエトアニア国境近く小さな村に行く道には沢山のバス停があることを紹介しましたが、モスクワ近郊でもバスが活躍していました。この日はモスクワと地方の往復で500kmを車で走りましたが、バスの停留所を沢山見かけました。交通手段として、バスがよく使われているようでした。
もう1枚、バスの停留所の写真を紹介します。上の写真よりは少し町に近づきました。
モスクワの町に入るとバスよりも路面電車の方が目立っていました。
路面電車を大きな写真で紹介します。
街中では路面電車に加えてトロリーバスが多く走っていました。
モスクワと、前記事で話題となったサンクトペテルブルグとエストニアとの国境近くの小さな村の位置関係を紹介します。地図をクリックすると走った道をGoogle地図で表示いたします。
モスクワ
サンクトペテルブルグ
訪問したエストニアとの国境近くの小さな村
追伸です。
ちゅんちゅんちゅんさんのコメントに応えて、1935年に開業して現在世界第二位の利用者数(下記)のモスクワの地下鉄の写真と路線図をネットから拝借して掲載いたしました。
モスクワ地下鉄 12路線 293.1km 平日 800~900万人/一日
東京地下鉄 13路線 304.1km 平均 1078万人/一日 (2011年)
右は東京の地下鉄路線網の1927年から2008年までの変遷です。
東京の地下鉄は銀座線の浅草~上野間(2.2km)が1927年に開業しました。それより12年前の1915年に郵便貨物用の地下鉄が東京駅地下に開業していたのでモスクワよりもかなり早く地下鉄が存在していたことになります。Wikipediが提供している路線図の表示間隔を圧縮して掲載させてもらいました。
辺境の地での移動はバスが一般的 [ロシア]
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サンクトペテルブルグからエトアニア国境近く小さな村に行く道沿いには沢山のバス停がありました。ほとんど人が待っていませんでしたが、沢山の人が待っている停留所がありました。すると前からすぐにバスが来ました。
その雰囲気から運行間隔は長いためにバスが来る時間に合わせて人が集まってきていたのだと判りました。
我々は赤色ラインをチャーター車で往復いたしました。今回の写真はすべてその時に撮ったものです。
同じ車に通訳として乗っていただいた右の写真のサンクトペテルブルグ大学日本語学科出身の方の話によれば、サンクトペテルブルグあたりでは鉄道よりもバスが便利で安いため旅行にバスをよく使っているとのことでした。ヨーロッパも意外と近くてバスを利用してヨーロッパに行く人も多いそうです。各方面に長距離バスも沢山出ていると話してくれました。
これバスが冒頭で説明したバスです。サンクトペテルブルグ→エトアニア国境近く小さな村まで、190kmの一般道路を2時間40分走ったにも関わらず、すれ違ったバスは写真のバス1台だけでした。
バス停は沢山ありましたが、バスとは滅多にすれ違いませんでした。帰りのエトアニア国境近く小さな村→サンクトペテルブルグでも、サンクトペテルブルグ近くを除けば、すれ違ったバスは写真の2台でした。朝夕は判りませんが、見かける頻度から推測すると昼間は数時間に1本程度と思われました。長距離の特急列車は1日に1本だったので、バスの本数が少ないのには納得でした。
サンクトペテルブルグの町に近くなってからはバスを何台か見かけました。
こちらにもバスが写っています。サンクトペテルブルグに近づくと渋滞していました。
こちらが今回、走った道の景色です。
写真をクリックするとその時の車窓を紹介した記事を表示します。
ロシアでも昼間に点灯して走っていました。 [ロシア]
ヨーロッパでは昼間でも点灯して走る車が多いことは以前に紹介いたしましたが、ロシアでも点灯して走る車が多かったです。
ロシアの車やヨーロッパの車はエンジンをかけると点灯するようになっているそうです。一緒に来るのに乗っていたサンクトペテルブルグ生まれの人に事情を聞いて判りました。点灯して走る目的の大きなものが森林の動物との事故を防止すためだそうです。つまり動物への注意喚起が目的の一つであるということでした。なるほど道路の脇の森林を見ていて納得でした。
サンクトペテルブルグに近いところです。沢山の車が点灯して走っているのが判ってもらえると思います。
モスクワから南80kmの中央分離帯のある高速道路です。
こちらはモスクワから南南東に160kmの場所です。
酒屋さん状態のドライブインにビックリ [ロシア]
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モスクワから車で500km走ったことを、すでに報告いたしましたが、高速道路沿いにはところどころに日本と同じようにドライブインがありました。ドライブインにはガソリンスタンドがあります。
高速道路からこのような感じでドライブインに入ってきます。
ドライフインにはガソリンスタンドとトイレと売店に簡単な食事が出来る建物があり、日本と同じような雰囲気です。
景観は少し違いますが日本と同じような雰囲気のドライブインがあるのですが、日本のドライブインと違うことがありました。それが今回の報告です。
下の写真のカウンターの奥にずらりと並んでいるのが、実はお酒なのです。主にウオッカとビールでした。
こちらの売店の棚にもウオッカとビールが並んでいました。一番下の段だけはソフトドリンクと水ですが、上3段はすべてアルコールでした。ドライブインでアルコールとは!!! ちょっと驚きの光景でした。写真をクリックすると拡大するのでお酒の種類がわかってもらえると思います。売っている飲み物のうち70%以上がアルコールでした。飲み物が多いので、お店全体で売られているもの中では少なくとも50%はアルコールと言えるかもしれません。まさに酒屋さん状態でした。
このような記事を書きましたが広い国土のロシアでの出来事です。きっと周辺にはお店がいないので住民のお店として役目もあるのかもしれません。くれぐれも車に乗ったらアルコール(お酒)は飲まないように!!!
追伸、安心してくださいカウンターの人はコーヒーを飲んでいるようでした。
ロシアの高速道路 [ロシア]
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モスクワから南東方向に車で往復500km走る機会がありました。赤いラインと青いラインで強調した部分を走りました。赤いラインと青いラインの違いは下記の写真で説明いたします。青いラインの始る場所よりも先に赤いラインから伸びているのがわかってもらえると思いますが、これは道を間違えて走ってしまったところです。もちろん気がついて中央分離帯が切れたところでUターンして戻って青いラインを走りました。地図をクリックするとモスクワ近郊の高速道路をGoogle地図で表示します。
ここが赤いラインの高速道路の部分です。赤いラインの部分は中央分離帯がある道路を示しています。
道路脇の木のほとんどが白樺でした。松らしき木も少しありました。この写真の真中あたりの木のように雪の重みで曲がった思われる木を沢山見かけました。
中央分離帯のある道路のあたりは立体交差もところどころで見かけました。ロシアの高速道路は料金所はありませんでした。
このフォルクスワーゲンに乗って走りました。途中のドライブインで撮りました。
青いラインの道路に入ると中央分離帯はなくなった上に片側一車線になりました。それでも100km/hを超えるスピードで走っていたので一般道路なのか高速道路なのかは判断がつきませんでした。
紹介し忘れましたがロシアでもヨーロッパのように車は昼間でもライトを点灯して走ります。
片側一車線だと当然、追い抜きが必要になってきます。これから前の車が追い抜きをします。
前の車が追い抜いているところです。
我々の車も反対車線に入って追い抜きを行っているところです。このときがもっとも緊張する瞬間です。反対車線があるところで100km/hを超えるスピードでの追い抜きは経験することは日本ではほとんどないですね。
ここから横の車窓を紹介します。人家はほとんどありませんでした。広大なきれいな自然が展開されました。特に水がある景色はきれいです。
手前に広い土地が広がり遠くに白樺の森が続いている景色はロシアの代表的な景観です。
細い道に沿って白樺が植えられていました。
車窓からの住宅のある風景 [ロシア]
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モスクワの南西方向に車で往復500km走った時のレポートの続きです。こちらでは車の車窓から見たロシアの住宅を紹介いたします。いくつかロシアの住宅の特徴を感じました。一番最初に感じたのが屋根の角度が2段になっている住宅が多かったことです。雪が関係しているのかと感じましたが、理由を聞いたわけではありません。
2つ目に感じたことはカラフルな色合いの家が多かったことです。
3つ目に感じたことは質素な家が多かったことで。写真の家が質素な家と言うわけではなく、もっともっと質素な家が多かったです。ロシアも経済発展をしていますが、昔ながらの生活をしている人も沢山入るのだとも感じました。
4つ目が家の周りの塀です。日本では家の周りに塀があるのは当たり前ですが欧米では少ないです。その欧米の雰囲気があるロシアでは家を囲む塀がある家が多いのに驚きました。上の2枚写真でも塀のある家が沢山写っていました。
いろんな塀がありますが板で隙間を作った塀が多かったです。
立派な塀の家もありました。
冒頭でロシア住宅は角度が2段になった屋根と申し上げましたが、地域によって2段の屋根の少ないところもありました。
鶏たちが道路脇で放し飼いになっている光景も多かったです。車で移動中なので鮮明な写真は撮れませんでしたが紹介いたします。
趣のある雰囲気にある家を紹介いたします。
いくつかの建物で構成されている住宅です。よく見ると鶏が庭で放し飼いになっています。
同じ車窓からの風景でもいろんな住宅地に出会えます。
ヴァスクレセンスキー門 [ロシア]
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赤の広場の記事ですでに紹介したとおり国立歴史博物館の横にはマネージ広場から赤の広場への出入口となるヴァスクレセンスキー門があります。この門は赤の広場からマネージ広場への出口にありましたがソ連時代には赤の広場での軍事パレードのじゃまになる、という理由で撤去(1931年)されていました。ソ連崩壊後、復活(1995年)したそうです。上の写真は赤の広場側からみたヴァスクレセンスキー門です。
こちらがマネージ広場側から見たヴァスクレセンスキー門です。門の真中に小さな建物があります。今回は、その建物を紹介したいのです。
その小さな建物を拡大してみました。朝の7時54分の時点では、この小さな建物の扉は閉まっていました。そしてヴァスクレセンスキー門も閉まっていました。
赤の広場からの帰りの8時49分には、その小さな建物の扉が開いていました。実は、その小さな建物は、お祈りをささげる建物だったのです。調べてみると、この小さな建物はイベルスカヤ礼拝堂でした。
この礼拝室で壁には聖像(イコン)が飾られ、多くの信者の方が祈りを捧げられていました。イベルスカヤ礼拝堂は「門の聖母マリア」とも呼ばれているそうです。女性の方が多かったです。
イベルスカヤ礼拝堂は沢山の信者の方によってまもられてきたことを実感いたしました。
イベルスカヤ礼拝堂の前からヴァスクレセンスキー門を見上げた写真です。礼拝堂の屋根には金色の像が飾られています。
屋根の上の像を拡大したしました。
モスクワ川からの赤の広場へ [ロシア]
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モスクワの赤の広場の南側にはゆっくりとモスクワ川が流れています。朝の赤の広場の散策の時はそのモスクワ川に架かる橋を渡りました。その橋の上からのモスクワ側の景色です。川の右側に広がっているがクレムリンでクレムリン大会宮殿、大統領府、大統領官邸、大砲の皇帝、鐘の皇帝、ウスペンスキー聖堂、グラノヴィータヤ宮殿、ブラゴヴェシェンスキー聖堂、イヴァン大帝の鐘楼、アルハンゲリスキー聖堂、テレムノイ宮殿付属教会、祭服教会、武器庫、大クレムリン宮殿などがあります。
モスクワ川を越えたところから赤の広場に戻ってくる景色を何枚か紹介いたします。この写真から徐々に近づいていていきます。正面に見えている教会は聖ワシリイ大聖堂です。
橋の上には2箇所ほど展望できるように出っ張った部分があります。そこからの景色です。
同じ場所から倍率を上げて撮った写真です。聖ワシリイ大聖堂や国立百貨店グムなどの建物が良く見えます。
橋は一旦下がっていきます。
橋を渡りきったところから赤の広場を望んだ景色です。すばらしく広い石畳に驚かされました。これで赤の広場シリーズの報告を終了いたします。
モスクワでビーフストロガノフを食べました。 [ロシア]
ロシアに行ったことはすでに紹介していましたが、モスクワで食べたビーフストロガノフ(Beef Stroganoff / бефстроганов)を紹介し忘れていたので記事を掲載いたします。実はロシアに入って数日が経過していたのですか、日本から到着した日しかホテルに泊まっていなかったのです。実はモスクワから列車で12時間のスタールイ・オルコスという町まで往復共に寝台特急で行っていたのです。その強行スケジュールのおかげて夜行でモスクワに帰ってきて仮眠が目的で赤の広場の近くのホテルに半泊(午前中)しました。この日の午後のフライトで日本に帰るためにホテルで昼食を食べることにいたしました。ここはホテルのレストランです。
先ずはボルシチ系のスープを頼みました。
必ずスープを頼むのがロシア流の食事でした。
そしてメインで頼んだのがビーフストロガノフでした。高級レストランで本場のビーフストロガノフを食べてみたかったことが実現できました。上のスープもビーフストロガノフもクリックすると拡大するので是非とも拡大写真を見てください。高級レストランとは思えないタイプのお皿との印象でした。合理的と言えば合理的でした。いろんなピクルスとジャガイモも美味しかったです。よく考えてみると、これらを別のお皿で出すのも不自然な気がしました。やっぱり、本場のビーフストロガノフは美味しかったです。ビーフストロガノフは16世紀初頭にウラル地方で成功した貴族ストロガノフ家の家伝の一品であったとさていますが、考案者と生まれた時代については諸説存在するそうです。
サンクトペテルブルグで食べたビーフストロガノフはこちらです。→ポチッ
是非とも比べてみてください。
上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載しました。この写真をクリックすると広範囲を表示します。
こちらのレストランの天井は素晴らしかったので紹介いたします。高い天井でした。
こちらがホテルの全景です。大きくて立派でした。こちらの写真もクリックすると拡大いたします。宿泊したホテルを紹介いたします。
名前 Hotel Metropol Moscow ホテル メトロポール モスクワ
住所 2 Teatral'nyy proyezd, Moscow
こちらがロビーです。
廊下の広さにも驚かされました。赤の広場まで歩いて5分の距離のホテルでした。半泊だけなのがもったいないくらいでした。もちろん1泊分の料金ですが、2日連続の夜行の疲れはとることが出来ました。
黄色いマーク( )が宿泊したホテルで赤いマーク( )が赤の広場です。クレムリンも目の前でした。
より大きな地図で モスクワ を表示
レーニン廟 [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
上の写真のようにクレムリンを囲む高い壁に近いところの赤の広場の中に大きな石の建造物がありました。これは1924年に死去したウラジーミル・レーニンの霊廟であるレーニン廟(Lenin's Mausoleum)です。レーニン廟(レーニンびょう)の内部には保存処理(エンバーミング)が施されレーニンの遺体が安置されています。
レイニン廟は建築家アレクセイ・シューセフの設計により1930年に恒常的な施設として完成しました。当初は木造の簡易的な施設が建てられていたそうです。
1953年に死去したヨシフ・スターリンもレーニン廟に安置されたが、スターリン批判により1961年に赤の広場の別の場所に埋葬されたそうです。
過去の赤の広場で行われる国家的行事に際しては、共産党・政府の首脳はレーニン廟のひな壇から観閲し、演説を行うのが慣例となっていました。レーニン廟に並ぶ指導者の顔ぶれや序列は、西側諸国のジャーナリスト・研究者にとって、ソ連指導部の動向を知る手がかりの一つであったそうです。
ソビエト連邦解体後は、何度もレーニン廟の撤去案が持ち上がっりましたが、その都度反対も多く、現在にいたっています。2011年1月に政権与党の「統一ロシア」が廟撤去の賛否投票を行えるサイトを立ち上げました。サイトの投票結果と2011年12月のロシア下院選挙と2012年3月のロシア大統領選挙の結果次第ではレーニン廟の撤去(移設)もありうる状況になったそうです。でも2014年12月時点で赤の広場に存在するということは、撤去案は無くなったようです。
下の写真はクレムリン側の全景写真です。遠くに見える塔はスパスカヤ塔です。壁の向こう側のドームは大統領官邸です。
レーニン廟の両側には観客席が設けられていますが、その観客席は右のロシアの国旗と同じデザインでした。写真は4月28日に撮りましたが、軍事パレードは写真を撮った11日後の5月9日に行われたそうです。この観客席が使われたのでしょう。
赤の広場の全景です。左の方にレーニン廟があります。
この写真は赤の広場の広さを実感してもらうために、いつも以上に大きく拡大するので是非ともクリックしてみてください。
ところで、レーニン廟の正面からの写真が一枚も掲載されていないことを不思議に思われた方もおられるかもしれませんが、実は赤の広場に行った時はレーニン廟が、赤の広場の中にあるとは想像もしていませんでした。知ったのは日本に帰ってからネットで赤の広場を調べて知りました。そのために、いくつかの撮った写真の中からレーニン廟を切り取って掲載いたしました。
レーニン廟は赤の広場の中でも大統領官邸(クレムリン内)に最も近い場所にありました。この建物はソ連時代の1932~1934年にかけて建設されたそうです。
航空写真でもレーニン廟を紹介します。
レーニン廟がある赤の広場は驚くほどモスクワの中心にあることが下記の地図でわかってもらえると思います。マークを立てているところが赤の広場の中心です。地図をクリックするとGoogle地図を表示します。実は、今まで赤の広場がモスクワの真ん中にあり、そこを中心に道路が、いくつも環状に走っていることを、知りませんでした。
赤の広場 [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
少し前の記事から4月25日から4月29日にロシアに行ったことはすでに紹介していますが、4月28日はスタールイ・オルコスから12時間かけて寝台特急でモスクワに帰ってきました。その前日も夜行列車と強行スケジュールだったために仮眠が目的で赤の広場の近くのホテルに半泊(午前中)しました。でもせっかく赤の広場の近くに来たので仮眠の前に赤の広場を散策することにしました。
上の航空写真に①~⑬の番号を書いていますが、写真を撮った場所です。矢印は写真を撮った方向を示しています。赤の広場はクレムリンの横の細長い広場でした。細長いと行ってもかなりの広さです。文字がわかりにくい場合は航空写真をクリックすると拡大するので読みやすくなります。
写真-①
泊まったホテルの方から赤の広場を目指しました。高い塔の間の道を登っていくと赤の広場です。道の右側がクレムリンで左側が国立歴史博物館です。目の前に広がっているのはマネージ広場です。
写真-② 道の正面から撮りました。
写真番号と航空写真の番号と照合するのはやりにくい場合は別画面にすると判りやすいと思います。→ポチッ
写真-③ 道を登っているところです。教会らしいものが見えてきました。
写真-④
赤の広場に出ました。これが赤の広場です。正面に見えるのは聖ワシリイ大聖堂です。この時は8時4分なので朝日で逆光のため少し全体が暗くなっていますが広さは実感してもらえると思います。右側がクレムリンですが高い塔の手前にレーニン廟があるのがわかってもらえると思います。ほんとうに広い石畳でした。
赤の広場(Красная площадь)は、地図で見てもらうとわかりますが、ほんとうにモスクワの真中に位置する広場でした。「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであったそうです。広場は北西から南東に長く、南西側にはスターリンや片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがあります。
写真-⑤
これが聖ワシリイ大聖堂側から見た赤の広場です。太陽を背に撮っているので上の写真より明るくて鮮明な写真になっています。この写真では左側がクレムリンですが、赤の広場を挟んでクリムリンの反対側が国立百貨店である、グムがあります。「グム(GUM)とは「国立百貨店」の略です。この百貨店はロシア最大級のデパートだそうです。
写真-⑥ ほぼ同じ場所からモスクワ川の方を撮りました。
写真-⑦ クレムリンのスパスカヤ塔です。
写真-⑧
モスクワ川の上からクレムリンを撮りました。クレムリンの中には沢山の建物があります。
写真-⑨
モスクワ川の橋を対岸まで渡ってクレムリンを撮りました。少し角度が変わっただけで雰囲気が違います。
写真-⑩
これが聖ワシリイ大聖堂(聖ワシーリー聖堂)です。1552年10月、イワン3世の孫イワン4世(雷帝)がモンゴルのカザン・ハン国の首都カザンを陥落させます。イワン4世はカザン攻略を記念して、この聖堂を1555年から建立しはじめて1560年に完成しました。この聖堂はカザンを攻略した日が生神女(聖母マリア)の庇護祭にあたったことから「ポクロフスキー聖堂(聖母マリアの聖堂)」と呼ばれました。
後にイワン4世が崇拝していた聖人ワシリーの祭室がつくられると、この聖堂は、聖ワシリイ聖堂と呼ばれるようになりました。
聖ワシリイ大聖堂の広場側にミーニンとボジャルスキーの像があります。1612年の動乱時代はモスクワはポーランド軍によって占領されていました。ポーランド軍を追放するために、この二人は大きな働きをしましたそうです。ミーニンはニジニ・ノヴゴロドの市民で、多額の軍資金を集めて軍隊を組織したそうです。ポジャルスキー公はその軍隊の指揮者でした。1612年12月、ポジャルスキーの軍隊はクレムリンを攻撃してモスクワをポーランドから解放したそうです。この二人は、ロシアの国民的英雄で、二人を顕彰するために、1818年にこの像が建てられました。現在の場所に移されたのはスターリン時代の1930年でした。
写真-⑪
赤の広場を挟んで,聖ワシリイ大聖堂と遠く聖ワシリイ大聖堂に対置して立派な建物が建っていました。それは国立歴史博物館でした。石器時代から19世紀までのロシアの歴史的資料30万点が展示されているそうです。
19世紀に建てられた赤いレンガが特徴的な建物で、内部には古代の装飾品やコインをはじめとして30万点を超えるコレクションが展示されているそうです。
その建物の上にはロシアを象徴する双頭の鷲(わし)が金色に輝いていました。
写真-⑫
国立百貨店の北側には趣のある小さな教会と思われる建物もありました。
写真-⑬
国立歴史博物館の横にはヴァスクレセンスキー門がありました。この門は赤の広場からマネージ広場への出口にありましたがソ連時代には赤の広場での軍事パレードのじゃまになる、という理由で撤去されていた。ソ連崩壊後、復活したそうです。それが今の門です。
朝に門は閉まっていましたが、ホテルに帰るころには通れるようになっていました。この時、8時49分でした。
赤の広場を拡大してみました。軍事パレードのためなのか線が沢山引かれていました。
Hiyoko-Onigiriさんのモスクワの街角からにトラックバックしています。
教会が景色になったゴルフ公園 [ロシア]
ロシアっぽい真っ白な教会の手前に広がっている緑はゴルフ場です。ゴルフ場というよりはゴルフが出来る公園と言った方がいいかもしれません。モスクワから700km離れたロシアの地方都市スタールイ・オスコル(Старый Оскол / Stary Oskol )には、このような場所もありました。一見しただけではゴルフ場とはわかりませんがよく見るとグリーがあり旗(ピン)が立っていました。
小学生か中学生くらいの子供さんがゴルフを楽しんでいる光景に出会いました。将来はプロゴルファー?
近くにはマンション群もありました。ここは新しいスポーツ施設でゴルフ以外にパターゴルフなど、いろんな娯楽施設がありました。
夜行の寝台列車に乗ってモスクワに戻るまでにたっぷりと時間があったので、チーズのフライでビールを飲んだ後に、地元出身(モスクワ在住)の方に、この場所を案内してもらえました。
この時の時刻が16時23分で、右の写真の寝台列車の発車時刻18時00分まで1時間37分でした。寝台列車はスタールイ・オルコスを4月27日18時00分に出発し12時間かけて翌日(4月28日)の6時00分にモスクワへ戻ってきました。
ランチでも、前菜とサラダとスープが付いていました。 [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
モスクワの南東250kmにある田舎町でランチを食べる機会がありました。ロシアでの食事はスープが大切なことを今回のロシアで知りました。すべての昼食で特徴のあるスープが出てきました。先ずは前菜です。
そしてサラダです。上の前菜はロシアの人の真似をして黒パンに乗せていただきましたが、美味しい食べ方でした。
そしてスープです。タマネギのスープだと思いますがボルシチを食べた時のようにサワークリームが一緒に出てきたのでお好みで入れました。サワークリームと言ってもバターとクリームの中間程度の硬さのものでした。
ロイア料理はメインがスープだと実感させてくれる一品でした。一般的に料理の量が多くメインだけでも十分ですがスープだけははずせないので、どこでも基本的にスープとメインの組み合わせを頼みました。
そして、こちらがメインデッシュです。
肉は豚肉で付け合せは、じゃがいもとアンティチョークのピクルスだと思います。どれもなかなかの美味しさでした。ロシア料理の美味しさを田舎町で知ることになりました。
この食事を食べた小さな町の風景です。このような家が道沿いに並んだ田舎の町でした。もちろんビルはありませんでした。
黄色い円のところが、今回のランチを食べた小さな町のあるところです。町の周りのカラフルなパッチワークのような模様はすべて大きな畑です。
こちらの昼食も3点セット [ロシア]
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少し前にロシアの田舎町のランチを紹介しましたが、その翌日(4月27日)は寝台列車で着いたスタールイ・オスコルから、さらに田舎に行って食べた昼食も紹介いたします。決して豪華ではありませんが、ロシアらしい食事を味わうことが出来ました。先ずは豪快な新鮮なサラダです。前日のランチでもサラダが出てきました。
そして必ず出てくるスープです。今回はキャベツと細いパスタが入ったスープでした。パスタが入ったスープは初めてだと思います。やっぱりロシアはスープです。入っているお肉は鶏肉でした。
メインは鶏肉と豚肉の料理でした。
タグ:ロシア スタールイ・オスコル
揚げチーズでビール [ロシア]
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この日(4月27日)はロシアのスタールイ・オスコル(Stary Oskol / Старый Оскол)から寝台特急に乗ってモスクワに帰りましたが、出発の18時まで少し時間が出来たので、レストランでビールを飲むことにしました。その時に頼んだのがチーズのフライでした。熱々でトロトロのチーズがすばらしく美味しかったので掲載することにしました。ナイフと比べると大きさがわかってもらえると思います。
生ビールも美味しかったです。こちらの町でも格式が高そうなレストランでした。そのためなのか、こちらのレストランではロシアのビールはなくて、デンマークのカールスバーグ(Carlsberg)でした。寝台特急の中でもカールスバーグが多かったです。これだけいろんなところで出来来ているのでロシア国内で製造しているのだと思います。
チーズのフライはお皿に、こんな形で盛り付けられて出てきました。ボリュームがあったのでつまみはこれだけでした。写真はでは6個ですが出てきた時は7個でした。
レストランです。この町出身の人につれてきてもらいました。自慢できるレストランだったようです。
生ビールは一杯140ルーブル(309円)でf5杯飲みました。
チーズのフライは上で紹介の量で160ルーブル(354円)と、意外と安かったです。レストランの格式から見ても安かったです。美味しいチーズがこんなに安いとは、さすがロシアでした。2皿頼みました。
カプチーノ1杯が80ルーブル(177円)も、日本やヨーロッパと比べると安い感じがしました。生ビール5杯、チーズフライ2皿。カプチーノ2杯の合計は1180ルーブル(2608円)でした。でもこれは地方都市ならではの値段で、モスクワではこれほどの安さはなかったです。
日本円の価格は2014年12月5日の為替レート2.21円/ループルで計算しています。
タグ:ロシア スタールイ・オスコル
ロシアと言えばやっぱり黒パンです。 スタールイ・オスコル [ロシア]
モスクワからの寝台特急でスタールイ・オスコル(Старый Оскол /Stary Oskol)に着いたのが4月27日の朝7時39分でした。さっそく朝食を食べようとレストランを探しましたが、どこも閉まっていました。そこでホテルを探して、そこのレストランで朝食を食べることが出来ました。上の写真は、そのホテルの入口です。
やっぱりロシアと言えば黒パンですね。黒パンを指定したのではなくメニューの中のBread(パン)を選ぶと黒パンが出てきました。
面白いことにバター、ジャムもメニューの中に書かれてあり必要な人は注文します。もちろん値段は無視できるくらい安いけれど合理的なのに驚きました。でも名物の黒パンが一番安いです。ジャムが44円に対してパンは1個(20グラム)が2ルーブルなので日本円で6円/個でカゴに乗っている3個で18円です。この国の主食だからでしょうね。
モスクワのウクライナ料理店でも黒パンが出てきました。
黒パンはライ麦パンでライムギから作ったパンです。ロシア、東欧、北欧、オーストリア, ドイツなどで、多く食べられています。
小麦から作るパンではイースト菌が多く使われますが、ライ麦パンでは主にイースト菌ではなくサワードウが使われるそうです。
小麦のパンより硬くて密度が高く食べごたえがあり腹持ちがいいです。
さらに小麦のパンよりビタミン、ミネラル、食物繊維が多く含まれており健康志向の食品と言えます。
パン以外はサラダと目玉焼きと紅茶を頼みました。黒パンもクリックすると拡大します。
これがサラダで名前は「Greek salad」と書かれており トマト チーズ ブラックオリーブ パセリ キュウリが入ったサラダでした。こちらの値段は94ルーブル(278円)でした。
Greek salad(ギリシャ風サラダ)のレシピをネットから探してみました。→ポチッ
目玉焼きはちょっと変わったものを頼んでみました。メニューにはFried eggs a la Bulgariaとかかれており、なかなか美味しい料理でした。こちらの値段は100ルーブル(296円)でした。普通のオムレツだと63ルーブル(186円)でした。4星ホテルのわりに安かったです。やっぱりモスクワから遠く離れるとこの値段なのですね。モスクワのホテルだと朝食で約3000円はかかります。
この写真もクリックすると拡大するように設定いたしました。
さすが四星ホテルのレストランで雰囲気も良かったです。
タグ:スタールイ・オスコル ロシア
町の中の黄色配管 スタールイ・オスコル [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
4月25日から4月29日までロシアに行っていましたが、その時に寝台特急で来たロシアの地方都市であるスタールイ・オスコルの町の中の小高い丘に登ってみました。そこは住宅地に囲まれた場所でしたが高さ2m以上の位置に沢山の黄色い配管が通されていました。これは家庭に送られるガス配管です。この配管から分岐して細い配管が各住宅につながっていました。ロシアは天然ガスの生産量も埋蔵量も世界一の国です。
日本だと地中に配管されているので地上の配管には驚かされました。地上に、むき出しの黄色い配管には違和感がありましたが電線代りのようなものかもしれません。
今回、写真は取れませんでしたが幹線道路脇には2種類の太い配管が通っていました。一本は黄色い配管なのでガス配管でした。もう一本は保温がされた配管でした。聞くと温水配管だそうです。冬の寒さは半端ではないので集中的に温水を作って供給しているのだと思います。この後に、また寝台特急に乗ってモスクワに戻りました。
モスクワのリバーサイドホテル [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
すでに前ブログで紹介しているように4月25日に成田空港から直行便でモスクワに入りました。実はロシアでホテルに宿泊したのは到着した4月25日のみでした。ホテルはモスクワ市内を流れる川沿い(リバーサイド)にあり素敵な景色だったので紹介いたします。上の写真はホテルのベランダからの22時12分の夜景です。川は総延長503kmのモスクワ(Москва)川です。
上の写真と同じ場所を明るい時間にも撮ったので掲載します。この時間は17時40分でした。この日は快晴できれいな写真が撮れました。気温も暖かくて、着ていったコートは日本に帰るまで使うことはなかったです。実はお城のように見える川向こうの建物もホテルです。名前はRadisson Royal Hotel Moscow
川の左側の方向の写真です。正面が東になります。道路を挟んだ正面の4階建ての建物の中のレストランで夕食を食べました。料理は後日、紹介いたします。
さらに左側を撮った写真です。
ロシアからは4月29日に帰国いたしました。
窓は東に向いているので4月26日は朝日を見ることが出来ました。地平線から太陽が昇りかけたところです。右の写真はクリックすると拡大します。
この正面の建物は上から3枚目の写真の中央よりやや右に写っている建物です。
下の写真は6時16分で右の写真は6時8分でした。
さらに太陽が昇って建物から太陽が昇った瞬間の景色です。時間は6時30分でした。この建物は高さ160m22階で名前はKudrinskaya Ploshchad 1です。
建築家M.M.Posokhinの設計により1954年に建てられた典型的なロシア様式の建築物だそうです。右の写真もクリックすると拡大するので是非とも見てください。
こちらの部屋からの景色でした。窓の外には大きなベランダがありました。窓の左側にベランダに出れるガラス戸があり、そこからベランダに出て写真を撮りました。
ホテルの場所です。地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。
ロシア料理(ウクライナ料理) [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
モスクワには成田空港からの直行便で4月25日に到着しました。ホテルで泊まるのはこの日だけで後は夜行列車で2泊移動のため、レストランでディナーが食べれるのはこの日だけでした。そこでロシア料理が食べたくて有名なウクライナ料理のお店に来ました。可愛らしいネームカードをレストランでもらったので右に掲載いたしました。
ウクライナ料理はロシア料理のもとになったものでウクライナ料理ですがロシア料理のタイトルを使わさせていただきました。もちろん我々にとっては区別がつきません。
ロシア料理の基本はスープとメイン料理です。その中で我々にとって有名なのが上の写真のボルシチです。我々のイメージしている肉のスープではなく野菜が主体なのが本場ロシア(ウクライナ)のスープであることがわかりました。ウクライナ料理のボルシチはアブラナ科のテーブルビートの肥大した深い赤紫色をした根を使った料理でいろんな具を使ったスープです。使われる具に取り決めはなく自由な組み合わせで作られるためボルシチの種類も無限にあるようです。
さっそくボルシチともう一つロシアで有名なスープを頼みました。それが緑鮮やかなスープでした。これ以外にタマネギのスープも有名ですが、別の日の昼食に、そのタマネギのスープが出来たのでタマネギのスープは後日紹介いたします。
私は前回、ロシアに来た時にボルシチのスープを食べた経験があるので、今回はボルシツ同様にロシア料理で有名なキャベツのスープをいただきました。一般的によく食べられているスープだけのことはあり、驚くほどの美味しさでした。ネットで調べた範囲ではスープの名前はシチーです。スープには下のサワークリーのようなものやパンなどがついてきます。これらを右の写真のように好みで入れて食べます。
下の写真はボルシチに付いてきたもので、キャベツのスープにはサワークリームだけが付いていました。
右の写真がレストランの入口の写真で重たいドアが2重にあります。
お店を紹介いたします。
店名 шинок (発音 Shinok / シノック)
шинок和訳 = 居酒屋 / パブ
住所 г.Москва,ул. 1905 года, д.2
場所 CROWNE PLAZA HOTL前
電話 +7 495 651-8101
営業 24時間
HP http://www.shinok.ru/map.html
下記の建物に今回のレストランがありました。建物の真ん中に右の写真の重たいドアがあるのがわかると思います。このドアは鍵がかかっていると思われるぐらい重たいので力いっぱい引いてください。
大きなレストランで我々はこのような階段を通って三階に案内されました。
こちらのお店はお花がいっぱいの冠をつけたウクライナ民族衣装を着た方が料理の注文をとったり料理を持ってきてくれます。
そして、こちらのお店は同じタイミングで食べる料理は全員分が同時に出されます。これはスープをテーブルの横に全員分を仮置きしているときの写真です。
下の写真は3つ目のスープを持ってきた時のもので、持っているのはボルシチで仮テーブルに置かれているのはキャベツのスープです。右の写真は4つ目のスープを持ってきた時の写真です。
こちらのレストランが面白いのはレストランには中庭があってウクライナの田舎農家の風景が再現されていることです。驚いたことに、その田舎の風景の中に本物の動物たちが飼われいていて動物園のような空間が窓越しに広がっています。さらに驚いたことに、本物のおばあさんも座っていることでした。この写真にもおばあさんと牛と山羊が写っています。別の時に撮るとおばあさんや牛が見えなくなり鶏やウサギが居ました。それでおばあさんも本物であることがわかりました。この中庭が話題のようで「Москва шинок」で検索すると記事が92400件と沢山出てきます。→ポチッ 日本語のみ ガイド記事
テーブルの周りもなかなかの雰囲気です。この石釜の写真と同じ写真がネットで出てきました。日本人が食べ始める時間は、地元の人にとっては早いようで入った時は空いていましたが、帰るころに満席になりました。予約は入れておいた方がよさそうです。
テーブルの上には趣きのあるローソクが置かれていました。
こちらのお店で、すでに紹介したピロシキをいただきました。写真をクリックするとその記事を表示します。
ロシアの食事で特徴があるのが黒パンです。この黒パンがよく出されました。黒パン(ライ麦パン)も含めて三種類のパンが乗っていました。
こちらはウクライナの無ろ過の生ビールです。最初に進められた飲んだビールでフルーティーな感じのさわやかなビールでした。
ビールを飲むとなるとメインデッシュの前にビールの肴になるものを頼みたくなります。今回頼んだのがこちらのニシンのカルパッチョ(刺身)です。
ニシンの刺身(カルパッチョ)は新鮮なので特別に写真を掲載させてもらいました。
キノコのピクルスも有名なので頼みました。少し酸味がありビールにはよくあいました。
こちらはロシアの生ビールです。ビールは沢山いただきました。
いよいよメインデッシュです。それぞれ各自が別のものを頼みました。こちらではスープにしてもメインデッシュにしても全員のものを同時に出してくれます。テーブルの横に仮置きしてから各自の前に並べられます。スープの時と同じように全員分のメインデッシュがテーブルの横に並べられました。写真が少し不鮮明なのは別のシーンの写真の中に偶然に小さく写っていた料理を切り取ったためです。
私が注文した料理以外は名前を覚えていないのですが、これは肉をキャベツで巻いて煮込んだ料理のようです。これはモスクワに永く住んでいる方が注文した料理なので、特に美味しいのかもしれません。見た目も美味しそうです。
こちらもウサギの肉を揚げた料理です。ウサギもよくロシア料理に使われる食材のようです。
こちらは魚料理です。
こちらが私の注文したキエフ風カツレツです。細い麺のようなものはジャガイモを細く切って揚げたもので、ビールのつまみに最高でした。
バターを真ん中にして鶏肉を巻いて揚げているので真ん中が空洞のようになっているのが特徴でバターと肉汁が美味しい料理でした。ネットでも「ナイフを入れると熱々バターが中からとろけ出てくるキエフ風カツレツ」とお薦めしていました。
ロシアに来たならばウオッカを飲みたくなるので150ccほど頼みました。ウオッカはボトルではなく量でも注文できるのがロシアの特徴でした。うれしいことにウクライナの民族衣装のウエイトレスさんがウオッカを注いでくれました。親指に指輪をつけているのが印象的でした。上の写真で紹介したウエイトレスさんの指輪は中指で親指にはつけていなかったので気になりまました。
ネットで親指に指輪をはめる意味を調べてみました。男性の場合は権力や指導者などの困難を乗り越える力の意味があるようですが女性がつける意味は出てきませんでした。ウクライナ独特の意味があるのかもしれません。
ちなみに日本の結婚指輪はプラチナ(白金)が多いけれどもロシアでは金をベースにしたピンクゴールドをつけている人が多かったです。我々にとって金と言えばイエローゴールトなので、すごく新鮮に感じました。18金のピンクゴールドの場合、 金75%、銀10%、銅15%だそうです。
Anak Sungaiの日々さんの露・丁出張③にトラックバックしています。
ウクライナ料理レストラン、おすすめ!にトラックバックしています。
追伸
本日2014年11月28日、上海から帰国します。14時発のフライトで成田空港に着くのは17時45分の予定です。帰国後、今回の写真の整理が出来て落ち着いたら皆様のところに訪問させていただきます。
下の写真はホテル(花園飯店)の28階の部屋からの6時37分の上海の景色です。
タグ:ロシア
本場ロシアのピロシキ [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
ロシアに来て一度は食べてみたかったのがピロシキですが4月25日にモスクワに到着して早々に食べる機会を得ました。この日の夕食は宿泊したホテルの前の有名なウクライナ料理のレストランで夕食を食べましたがモスクワに長く住んでいる人が、このピロシキを注文してくれました。
見た目は日本で食べる揚げたピロシキと違いオーブンで焼いたものでした。焼くピロシキが本場のロシアやウクライナでは一般的だと説明されました。
日本のピロシキの具は挽肉、ゆで卵、タマネギを炒めたものが一般的ですが、本場では日本などに比べて種類も多く、内容的には惣菜が中心で沢山の野菜が、なんでも入れられると説明してもらいました。
注文したのは3種類で、それぞれ形が違っていました。さっそく半分に割ってみました。タマネギが主体のピロシキとキャベツが主体のピロシキとキノコが主体のピロシキで野菜が中心で、すごくおいしい料理でした。皮であるパンの部分も日本の一般的なピロシキより、かなり薄かったです。この写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定しておりますので、中の具を見てください。美味しいパンの皮の食感もわかってもらえると思います。
レストランは泊まったホテルの前にある素敵なレストランで食べることが出来ました。空いているように思われるかもしれませんが、実は日本人の夕食タイムにはロシアの人にとっては早すぎるのです。我々が帰るころにお店が一杯になりました。それでは、お店を紹介いたします。
店名 шинок (発音 Shinok / シノック )
種類 ウクライナ料理
住所 г.Москва,ул. 1905 года, д.2
場所 モスクワ CROWNE PLAZA HOTEL 前
電話 +7 495 651-8101
営業 24時間
HP http://www.shinok.ru/map.html
民族衣装のウェイトレスさんも親切でした。
同じレストランの記事を掲載されているAnak Sungaiの日々さんの露・丁出張③にトラックバックしています。
若いお母さんと小さな子供たちの目立つ街 スタールイ・オスコルの一角 [ロシア]
ここで掲載している写真はすべて4月27日17時前後のロシアのスタールイ・オスコル(Старый Оскол / Stary Oskol )と言う名の町の景色です。寝台列車で着いたこの町の午後(17時前後)に、この町の出身の人(ご両親が今もこの町に住んでいます。)に薦められて町の中心の広場を散策いたしました。噴水の場所から真東にある道路沿いの建物(正面のビル)の地下にビールを飲んだレストランがありました。
上の噴水がこの航空写真の中心にあります。+のアイコンを数回クリックするとわかると思います。きれいな街なみであることが判ってもらえると思います。広い地域で近代的なマンション群が立ち並んでいるのは特別な感じがしました。マンションは9階あるいは10階建てですが日本と違い広い敷地にゆったりと建てられていました。すこし郊外に行くと高級そうな一戸建が広い敷地に整然と並んでいました。さらに郊外に行くと広大な畑が永遠と続き小さな村が、ほんとうに時々点在している地域でした。
高層ビルはないけれども立派なビルもいくつかありました。噴水から道路を挟んで南側にこのビルがありました。
そこで気が付いたのがベビカーと一緒にいる若いお母さんたちが沢山おられたことでした。特に意識して撮らなくても写真に沢山写るほどでした。おそらく新しいマンション群のために、このあたりは若い夫婦や若い人たち多く集まった街だったのかもしれません。
だから小さな子供たちも沢山見かけました。
広場で子供たちを遊ばしている間は、お母さんたちどうしで、つかの間の時間を楽しんでいるようでした。
将来、お母さんになる人達も沢山おられました。
ほんとうに小さな子供たちと、若いお母さんたちと若い娘さんが目立つ街でした。
上から2枚目の写真内ののアイコンを数回クリックすると、その理由が判ってくる気がすると思います。
スタールイ・オスコルの場所を地図で紹介しておきます。モスクワから青いラインを寝台特急で往復しました。
列車のルート検索をしてみると行きと帰りでは別のルートを走ったようです。それぞれ縮小しているので画面をクリックすると見やすいと思います。
タグ:スタールイ・オスコル ロシア
サンクトペテルブルグのネフスキー大通り [ロシア]
ロシアのサンクトペテルブルグに6月29日に入り、7月2日にロシアからフランクフルを経由して帰国しました。モスクワに住んでいる日本の人に日本を出る前からサンクトペテルブルグに行くのであれば、ネフスキー大通りに行くことを薦められたので地下鉄に乗って来てみました。
上の写真は地下鉄のNevskiy Prospekt駅の建物を出たところです。時間は18時30分ですが、まだまだ明るいので散策は心配ありませんでした。掲載している写真はクリックするとすべて拡大するので是非とも拡大してみてほしいです。
上の写真とは反対方向の景色です。沢山の車が走っていました。この通りには歴史のありそうな古い建物が沢山ありました。いくつか紹介いたします。
これは教会だと思います。両側の建物とつながった、面白い構造の建物でした。
これはカザン聖堂です。サンクト・ペテルブルクのカザン聖堂は、アンドレイ・ヴォロニーヒンの設計によるものだそうです。ヴォロニーヒンは、聖堂建築に当たって、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を手本に設計したそうです。1801年に着工、1811年に完成したそうです。
このような建物もありました。ロシア語で書かれているので残念ながら名前がわかりません。
追伸「etuさんにインペリアルと書ていることを教えていただきました。ありがとうございます。」
ネフスキー大通りの中でも、ひと際目立つ建物がありました。調べると旧シンガーミシン社のビル(シンガーハウス)だそうです。
建築家パーベル・シュゾール(Pavel Suzor)の設計による1902年~1904年に建てられた建物で、ロシア革命前まではシンガーミシン社のロシア支社の本社だったそうです。ロシア革命後は書店になったので「本の家」とも呼ばれていますがシンガーハウスの方が我々にとっても馴染みやすいです。
この建物の屋根のガラス張りの飾りが、この建物を目だたせています。
この下の写真だけはクリックすると特別に大きく拡大するように設定しておりますので、是非とも拡大した写真を見てください。
シンガーミシン社に関して追記させてもらいます。2010年7月10日 16時48分
シンガー社は1851年アメリカ生まれのアイザック・メリット・シンガーがニューヨークの法律家エドワード・C・クラークと共に I.M. Singer & Co. としてミシン製造会社として創業しました。1865年に Singer Manufacturing Company に改称、さらに1963年に The Singer Company に改称しました。元々は全ての製造をニューヨーク市内の工場で行っていました。
1902年から1904年にロシア支社の本社ビルとしてサンクトペテルブルクのネフスキー大通りのカザン聖堂の向かいに建設されたシンガーハウスは有名でアール・ヌーヴォー様式の美しい姿を見せており、ロシアの文化遺産となっています。
第二次世界大戦中、シンガーは各国政府と兵器製造の契約を結んだため、ミシンの製造を停止してノルデン爆撃照準器、M1ガーランドライフル、M1911拳銃などを供給し、ドイツ国内の工場はナチスに兵器を供給したそうです。
現在、シンガーはSVP Worldwide社の傘下で電子式ミシンなど各種民生品を製造しています。競合企業としては、ブラザー工業、アイシン精機、Necchi、E&R Classic Sewing Machines などがあります。
横断歩道を渡る風景です。軍人さんらしい制服の帽子がロシアらしい気がします。
さすがロシアのトロリーバスです。横幅が大きいです。
ネットのwikipediaに1890年代のニコライ駅近くのネフスキー大通りの絵が掲載されていたので拝借いたしました。
そのネットによるとネフスキー大通り(Не́вский проспе́кт)は、ピョートル大帝によって、ノヴゴロドとモスクワへの街道として建設が計画されたそうです。
現在のネフスキー大通りの沿道には、ペテルブルクを代表する建築が立ち並びます。
主なものとしては、建築家バルトロメオ・ラストレッリによるストロガノフ宮殿、ペテルブルクにおける巨大な新古典主義建築として知られるカザン聖堂、アール・ヌーヴォー様式のジンガー書店(旧シンガーハウス)、18世紀に建立された6つの教会や、啓蒙専制君主として名高い女帝エカテリーナ2世の記念碑など歴史的、宗教的施設の他、ゴスチーヌィイ・ドヴォールとよばれる18世紀のショッピングセンターや、グランド・ホテル・ヨーロッパ、ネフスキー・パレスなどのホテルが林立しています。
この他、文教施設としては、ロシア国立図書館があります。ネフスキー大通りのほぼ真ん中をフォンタカ運河が横切りますが、ここに掛けられているアニーチコフ橋は馬の銅像とともに有名だそうです。
タグ:ロシア サンクトペテルブルグ
本場のボルシチ [ロシア]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
7月2日16時10分にエストニアとの国境近くの森林に囲まれたロシアの小さな村からサンクトぺテルブルグとフランクフルトを経由して26時間10分かけて日本に帰ってきました。
そこの猫ちゃんのいた、小さなホテルの昼食で出てきたボルシチです。ボルシチと言えば肉を煮込んだスープを思い浮かべていましたが、サンクトペテルブルグあたりでは、「この赤カブの冷たいスープが代表的なボルシチ」と小さな村まで同行してくれたサンクトペテルブルグで生まれてサンクトペテルブルグ大学の日本語学科出身の右の写真の美人の方に教えてもらいました。サワークリームは必ず乗せるそうです。ちなみに、この方は交換留学生として日本にも1年間ほど住んでおられたとのことで日本語が上手でした。
赤カブは右下の写真のテーブルビートと呼ばれているものだと思われます。形がカブに似ているので赤カブと呼ばれることもあるそうです。スープの中の具は赤蕪や胡瓜などの生野菜が中心のスープサラダ言ったほうが判りやすいさっぱりとした料理でした。今回、掲載の料理の写真は3枚ともクリックするとすべて拡大するように設定していますので、気になった写真があればクリックしてみてください。我々が赤カブと呼ぶラデッシュはアブラナ科ダイコン属であり種類が違います。
門 : 被子植物門 Magnoliophyta
綱 : 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目 : ナデシコ目 Caryophyllales
科 : アカザ科 Chenopodiaceae
属 : フダンソウ属 Beta
種 : ビート B. vulgaris
亜種 : テーブルビート B. v. vulgaris
メイン料理はスズキのグリルにしました。小さいホテルなので肉料理とこの料理の2種類だけの選択肢でした。なかなか美味しかったです。ご飯が乗っていますが、ロシアではご飯が一般的に食べられていることも新たな発見でした。
飲み物として出てきたのがこれです。
甘酸っぱい飲み物でした。
アプリコット類のジュースです。
こちらもクリックすれば拡大します。
出発地は正確にはスランツイの近くの小さな村です。ここを9時(日本時間 14時)に出発して家に着いたのが翌日の16時10分でした。
すでにロシアの猫ちゃんというタイトルの記事で紹介したエストニア国境近くの小さな村からサンクトペテルブルグ空港までのルート図です。
家までの帰国ルートはスランツイ(ロシア 7月1日9時) → サンクトペテルブルグ空港(ロシア)→フランクフルト空港(ドイツ)→成田空港→家(7月2日16時10分)です。
ロシアで、やっとロシアっぽい車に出会えました。 [ロシア]
ロシアも都会ではポルシェやベンツなどの高級車が沢山走っております。高級車の類ではなくても新しい車が多かったです。田舎に行っても新しい車は沢山走っていますが、古い車が多くなってきます。そんな中でエストニアとの国境近くの小さな村で上の写真の車に出会えました。なかなか見ることは出来なくなった種類ではないでしょうか。写真はクリックすると拡大します。
ネットで調べていて、この車のことが判りました。
驚いたことに、今でも同じモデルがあるのです。下記の写真はネットから拝借いたしました。この下の写真の車は2009年モデルだそうです。メーカー名はワズ(UAZ)で1941年創業で、当初は軍事用の武器メーカーから出発し、間もなく自動車工場としてモスクワ近郊でトラックメーカーとして製造を始めたそうです。その後、ポルガ河流域に位置しレーニンの生まれた町「ウリアノスク」に移転して、世界的にも珍しい四輪駆動専門自動車メーカーとして社名も現在のウリアノスク自動車工場の略称「UAZ」となり、1958年には、今回のタイプのVAN、ピックアップの製造が始まったそうです。マークはカモメをモチーフとした飛行時におけるバランスの良さと真円は技術の正確さ、製品の完璧性を表しているそうです。
車の性能表です。
ネットの内部写真を紹介しておきます。クリックすると拡大します。
値段は日本に輸入した場合の価格です。外観は50年前と変わらないと聞いて納得です。
動画がネットにあったので掲載いたします。
追伸 タイトル:日本でも「ロシアっぽい車」がありました。
so-net内で、この車を掲載されている方がおられましたので紹介いたします。
schnitzerさんの今日も都内で…【都電荒川線 荒川車庫】です。
見たことがあるような、ないような…珍しいバンが停まってます。トラックバックさせてもらいました。
どっかの国の四駆です。ウインチまで付いてます。
どこだったっけかなぁ~。
terrybearさんがコメントで紹介していただいたVWのバナゴン(ヴァナゴン)の丸目の古い形をネットで探してみました。1963年型だそうです。このタイプのことでしょうね。私も見た記憶があります。
ベトナムとカザフスタンでもUAZを見かけました。→ポチッ
これがベトナムで撮った写真です。UAZのマークはありませんが、まさにUAZの車です。長い年月の間にマークが取れてしまったのではないかと思います。
こちらもベトナムで走っていた白い色のUAZの車です。こちらの車にはUAZのマークがちゃんと付いていました。それにしても屋根の上の荷物の量はすごいです。
こちらはカザフスタンで見つけたUAZの車です。
本記事を転用しているサイトを見つけました。→ポチッ
Tarek 〓 さんが「UAZ」に保存しました