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江戸時代の「出石城」 と 安土桃山時代の「有子山城」 [出石]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で紹介したように長男の家に訪問した後、みんなで最初に行ったのが出石城でした。上の写真の場所が出石城の御殿が建っていた本丸です。城の本丸と言えば普通は天守閣が建てられますが、出石城には天守閣は建てられなく広い御殿が建っていたそうです。上の写真の左端の建物が復元された本丸の東隅櫓で左端の石垣の上が稲荷曲輪で神社が建っています。最初に見た時は稲荷曲輪が本丸で天守閣が建っていたのだと思いました。右下の写真が復元された本丸の西隅櫓です。今回紹介する出石城は、標高321mの有子山山頂に天守のあった安土桃山時代の防御のための山城の有子山城の麓の居館と郭を改築する方法で造られた平和な江戸時代(1603年~1868年)の城です。
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 城郭構造 梯郭式平山城
 天守   建設されず
 築城主  小出吉英
 築城年  1604年
 時代   江戸時代
 廃城年  1871年  
 主な城主 小出氏松平忠周仙石氏
 遺構   櫓、石垣、堀
 住所   兵庫県豊岡市出石町内町

それでは順番に紹介していきたいと思います。福知山線と山陰本線を乗り継いで、長男の家の最寄駅に着いた後、迎えに来てくれた車で一旦長男の家に行って全員で出石城を目指しました。目的地の出石に近づいて来て出石の文字が増えてきました。
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クリックすると拡大この有子橋の前の駐車場に車を停めて出石城を目指しました。この道からも出石城には登れますが、登城橋を渡ったところにある登城門から登りました。
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駐車場の辺りから見た登城門と橋です。
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門の正面まで来ました。橋には登城橋と名前が付けられていました。
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こちらが登城門です。江戸期には石垣の中の下の部分がトンネルになった形式の埋門(うずみもん)でした。
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上の写真の登城門は沢山の人の寄付で作られたようです。500人近い人が寄付をされていて、最も高額の寄付は300万円です。
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長男の子供たちが案内してくれました。
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昔の絵図に登城門のあたりに黄色の矢印を書き込みました。本丸や曲輪なども赤色文字を書き込んでみました。車を停めた辺りは昔は三の丸だったことになります。上方向が南です。
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ネットにあった想像図にも赤色文字で本丸や曲輪など書き込んでみました。クリックすると拡大こちらも山頂方向(右上方向)が南です。出石城は山頂に天守のあった有子山城の麓にあった居館と郭(但馬守護所)のみを改築して出石城とし、山頂部分を廃城(江戸幕府に届出)にして出来たものでした。出石城の築城年も有子山城の廃城年も同じ1604年(慶長9年)なのです。江戸幕府(1603~1867年)が出来た翌年のことでした。登城門は下曲輪の文字の右側で三の丸から下曲輪に上がるところです。 
有子山城:1574年~1604年  出石城:1604年~1871年
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登城門から二の丸に上っていく登り坂です。進んで行く方が南側なので逆光の写真になっています。
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こちらは本丸の西北隅に建てられた西隅櫓(にしすみやぐら)です。1968年に東隅櫓(ひがしすみやぐら)と共に復元(模擬復元)されました。
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ここを上ると二の丸です。
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ここが二の丸です。赤い鳥居が並んだところを登ると本丸です。
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二の丸から見た出石の町です。出石の町のシンボルの辰鼓楼が見えます。辰鼓楼の楼閣本体は1871年6月1日に完成し、辰の刻の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であったそうです。その後、地元の医師が機械式大時計を寄贈し1881年9月8日に時計台として稼働し始めたそうです。同年1881年8月12日には北海道の札幌市時計台が27日早く稼働していることから、僅か27日差で日本で2番目に古い時計台となったそうです。
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この道が本丸に上る道です。稲荷曲輪まで真直ぐに伸びています。一番上から有子山城への登山道になっています。
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ここが本丸です。当時は、塀の内側に大きな御殿が建てられていました。奥に建っているのは復元された西隅櫓です。
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本丸である石碑も立てられていました。
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石が置かれている辺りは庭園があったと思われます。左の柵の皿に左側には池がありました。
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こちらが本丸御殿の絵図です。クリックすると拡大クリックすると拡大
左端に池がある庭園がありますが、上の写真の石が置かれている辺りです。二の丸と本丸とはかなりの高低差がありますが、二の丸の建物(役所)と本丸の御殿は渡り廊下でつながっていたそうです。下の絵図をクリックすると右の絵図のように、二の丸も含めた大きな絵図を表示します。この絵図は特別公開されていた西隅櫓(にしすみやぐら)の中に展示されていました。
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上の絵図の中の左端の池が、この池の場所になります。
後ろの石垣の上が、本丸の上にある稲荷曲輪です。ネットでは出石城の標高は54m(比高40m)と書かれています。標高54mは本丸の標高なのか稲荷曲輪の標高なのかは見つけられていません。稲荷曲輪の石垣の高さは但馬地域の城の石垣として最大級の高さの13.5mとの記載があることから、類推できる標高は下記のようになります。写真で見る限り二の丸と本丸の標高差は26mもあるように見えない(10m前後に見える)のでクリックすると拡大稲荷曲輪の標高が54mのように感じます。
 麓     標高14m(=54m-40m)
 辰鼓楼の前 標高14m(Googleマップ)
 二の丸   標高28m(Googleマップ) 
 本丸    標高40.5m or 標高54m
 稲荷曲輪  標高54m or 標高67.5m
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こちらが東隅櫓です。
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こちらが西隅櫓です。
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西隅櫓と東隅櫓は姫路城に関わりのある姫路の職人によって建てられたと書かれていました。
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クリックすると拡大本丸の中にあった神社です。奉納と書かれた幟には仙石科野御神木奉納と書かれていました。この社殿は感応殿と言うそうです。横に感応殿の由来の説明板があったので内容を枠内に転記いたしました。
感応殿(かんのうでん)
この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。
仙石科野大宮社御神木奉賛会
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普段は、西隅櫓は非公開ですが、特別公開されていたので入ってみました。
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西隅櫓の内部を紹介します。
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格子の間から見える景色です。
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西隅櫓の別の格子の間から撮った出石の町です。
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2階に上がってみました。
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2階に上る階段です。
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太い木が使われていました。
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ここでも長男家族の記念写真を撮りました。
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西隅櫓の中には貴重な絵図や説明がありました。上で紹介した本丸と二の丸の御殿の絵図は左上のものです。説明内容を紹介します。
稲荷曲輪
稲荷曲輪は高さ13.5mという但馬地域でも最大級の高さを誇る石垣の上にあります。出石城築城当初から今の場所に鎮座していたと伝わり、現在の社殿は江戸時代後期に建設されたものです。
本丸
本丸にはかつては御殿があり、城主の生活の場として使われていました。かつては西側には多門櫓、東側に隅櫓が備え付けられていて、本丸庭園も現在残る庭園の倍の大きさがありました。
現在は仙石氏の祖である仙石護兵衛秀久をまつる観応伝や姫路城の改修工事を手掛けている大工により復元された模擬建築東西隅櫓があります。
二の丸
二の丸は政治を執り行う役所が建てられていました。江戸時代には西に二層の隅櫓、東に一層の隅櫓が立っていました。二の丸下の曲輪とは枡形虎口で結ばれており今もその跡が残っています。かつては本丸と二の丸を結ぶ渡り廊下のようなものが存在しており、現在でも石垣に当時の面影を見ることができます。
西の曲輪
西の曲輪には1815年に仙石久道が自分の隠居所を建設した西御殿が存在していました。また、ここでは久道の趣味でコウノトリが飼われていたそうです。
山里丸
山田丸の石垣は城内で最も新しい年代のものであるといわれており、江戸時代にはおもてなしの場として利用されていたと考えられています。今は何もありませんが、かつてこの場所には小さな動物園があったそうです。
三の丸
三の丸には上級武士の屋敷などが立っていました。また、松平氏以降は現在の振興局が立っている場所に御対面所が建てられ本丸と二の丸の機能がすべてここに移されました。現在でも江戸時代の遺構として辰鼓楼の場所にある大手門の石垣跡や内堀、家老屋敷や西門跡の石垣などを見ることができます。
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西隅櫓を出たところからの本丸の景色です。左端に移っている東隅櫓のところから、右方向に稲荷曲輪に上がる階段があります。
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これが稲荷曲輪(稲荷郭/稲荷丸)に上がれる階段です。稲荷曲輪に上がってみることにしました。この鳥居の道を上がりきると稲荷曲輪です。城の麓から数えると鳥居は37基並び、石段は157段だそうです。
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階段を登り切って稲荷曲輪方向を見ると神社がありました。
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クリックすると拡大こちらが有子山稲荷神社(別銘:城山稲荷)の本殿です。創建は出石城と同じ1604年です。城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていたそうです。 主祭神は稲荷神です。狛狐が印象的です。狐は神の使いだそうです。
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狛狐には1円が沢山乗せられていました。
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稲荷曲輪の真中にある井戸は印象的でした。
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クリックすると拡大井戸のアップです。有子山城の時代のものか、出石城の時代のものかによって用途(有事の備え 生活のため等)が変わってきますが、今のところ井戸がいつの時代に作られたのかはネットで見つけられていません。かなりの深さがあるように感じましたが、右の写真のように深いところは暗くて底は見えませんでした。
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稲荷曲輪から見た本丸です。こちらは東隅櫓側です。
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西隅櫓側の本丸です。
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麓からの157段の石段を登りきったころには恵方稲荷が祀られていました。
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そこには有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
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麓までは157段の石段を真直ぐに下りることにしました。37基の鳥居も全て潜ることになります。
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石段の麓に近いところに稲荷神社の拝殿がありました。上まで登るのが難しい人のために作られたのかもしれません。
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拝殿のすぐ下に出石城の説明板がありました。
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出発地点の車の近くの鳥居のところまで降りて記念写真を撮りました。
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黄色のラインが散策ルートです。上で紹介した昔の出石城の絵図や想像図は上方向が南でしたが、この航空写真は上方向が北になります。


ここまでに書いているように出石城と有子山城は大きなつながりがあるので有子山城を少し紹介します。
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こちらすでに上の方で紹介した写真ですが、こちらが有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
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有子山城の説明板です。内容を枠内に転記する形で紹介します。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡) 平成8年11月13日指定
城史
この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名前を嫌って「有子」と命名したといわれています。しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わりました。その後、織田系の大名が城主となりましたが、江戸時代にはふもとに出石城が築かれ廃城となりました。
現状
標高321mの有子山山頂には主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。また、主郭の南東には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。石垣は織田軍の大名によって作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。
山名氏
山名氏は室町幕府において侍所の長官に任じられた、有力な大名の一人です。最盛期には全国66か国のうち11国を守護として領国支配をしていたことから「六文の一衆」と呼ばれ、後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。但馬では、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。この山名氏の最後の本城が有子山城です。
豊岡市教育委員会
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上の説明板の地形図部分に赤色文字を書き込みました。地形図をクリックすると全体を表示します。右のSVは有子山全景です。安土桃山時代は1573年~1603年であることから、まさに安土桃山時代の山城であったと言えると思います。
クリックすると拡大 城名   有子山城
 城郭構造 連郭式山城
 天守構造 不明
 築城主  山名祐豊
 築城年  1574年(天正2年)
 時代   安土桃山時代
 廃城年  1604年(慶長9年)
 主な城主 山名氏前野長康小出氏
 遺構   石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
 文化財  国の史跡
 住所   兵庫県豊岡市出石町伊木1

説明板の中に掲載されていた地形図への赤色文字の記入はタクジローの日本全国お城めぐりこにるのお城訪問記を参考にさせていただきました。
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有子山城の主郭あたりの航空写真も紹介します。


有子山城の主郭からのストリートビュー(SV)を紹介します。


有子山の等高線の入ったGoogle地図を紹介します。クリックするとオリジナルを表示します。
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タグ:兵庫県 出石
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コメント 26

トモミ

かなり本格的ですね!小さいお子さん方、エラいなぁ(笑)!!

by トモミ (2024-02-06 14:03) 

夏炉冬扇

広いですね、お城の領域。階段も多々。子どもさんには大変。いえ大人も。みなさん仲良く「達成」ですね。★★★
by 夏炉冬扇 (2024-02-06 16:47) 

ファルコ84

お城って不思議な魅力が、有りますね!
近くに小田原城があるので、季節のたびに観に行きました。
城も観光のために増改築がなされ、原型を留めるのが少ないとか!
by ファルコ84 (2024-02-06 16:48) 

SORI

トモミさん おはようございます。
天守閣は無かったけれども立派な城なのに驚きました。江戸時代の歴史がそのまま入った城だったようです。
 江戸時代 1603年~1868年(明治元年)
 出石城  1604年~1871年(明治4年)
by SORI (2024-02-07 05:32) 

SORI

夏炉冬扇さん おはようございます。
いい運動になりました。標高321mの有子山城の登るのだったら大変だったことでしょう。それに対して出石城の標高は56m(比高40m)でした。稲荷曲輪の石垣の高さは17mでした。
by SORI (2024-02-07 05:47) 

SORI

ファルコ84さん おはようございます。
近くにお城があとは素晴らしいです。四季折々美しい姿を見せてくれることでしょう。私のところは車で数十分以内に佐倉城と臼井城と本佐倉城があります。いずれも建物は復元されておらず昔の遺構のままですが、形がよく残されている方だと思います。
佐倉城  https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2013-03-28
臼井城  https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2023-02-11
本佐倉城 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2015-11-30
by SORI (2024-02-07 07:03) 

kazukun2626

本丸御殿後は広いので
立派なお城だったんですね

by kazukun2626 (2024-02-07 07:49) 

SORI

kazukun2626さん おはようございます。
想像していた以上に立派なお城でした。江戸時代の生活を想像してしまいます。
by SORI (2024-02-07 08:50) 

JUNKO

お子さんたちが案内役なんですね。たいしたものです。
by JUNKO (2024-02-07 11:02) 

溺愛猫的女人

ご家族で登城されたのですね。階段が沢山あったのに頑張って登って偉いです。
立派なお城だったのですね。素晴らしいです。
by 溺愛猫的女人 (2024-02-07 11:03) 

よしあき・ギャラリー

出石城紹介いただき、ありがとうございました。
立派なお城だということがよくわかりました。
(私の高校時代に出石さんという数学の先生がいまして、散々お世話になったのです。そのようなわけでこの地名にはとても親しみが持てるのです。^^)
by よしあき・ギャラリー (2024-02-07 11:57) 

tarou

SORIさん こんばんは
写真を見ていて、昔に行った時のことを
いろいろ思い出しました。

by tarou (2024-02-07 21:04) 

SORI

JUNKOさん おはようございます。
長男の子供たちは先頭にたって歩いていました。北海道から兵庫県に転勤になっていろんなところに行ったようです。LINEのアルバムの中には竹田城の写真もありました。
by SORI (2024-02-08 07:56) 

SORI

溺愛猫的女人さん おはようございます。
山の麓の独特の城で、規模も大きかったようです。有子山城の麓の御殿を活用したことで特徴のある城になったようです。
by SORI (2024-02-08 08:01) 

SORI

よしあき・ギャラリーさん おはようございます。
出石は結婚したころに何度も行った思い出深い場所です。その時は出石蕎麦と町の散策が目的で出石城には行かなかったので、出石城のことがよくわかってよかったです。
by SORI (2024-02-08 08:04) 

SORI

tarouさん おはようございます。
出石にも行かれたのですね。 辰鼓楼の周辺は非常に賑わっていました。日曜日だったこともあり蕎麦屋さんの行列はすごかったです。
by SORI (2024-02-08 08:07) 

kohtyan

山城なのですね、行ったことないけど、多くの遺構が残っていますね。
出石と聞くと、「蕎麦」ですね。
桂小五郎が潜伏していたと小説で読みました。
by kohtyan (2024-02-08 10:33) 

mitu

立派な石垣作りだけでも、昔は人力で大きな石を運び大変な仕事だったのでしょうね
 沢山の人の寄付と、作業員の人たちの労力と関係者の皆様の働きによって復元されたお城なのですね
 ご家族で記念撮影、いい思い出になりますね。
by mitu (2024-02-08 11:44) 

リンさん

出石城、知らなかったけど、大きなお城だったんですね。
見ごたえたっぷりですね。
近くに行く機会があったら寄ってみたいです。
古い井戸、サダ子が出てきそうな井戸ですね。
by リンさん (2024-02-08 14:02) 

SORI

kohtyanさん こんにちは
桂小五郎が出石で潜伏していたのは荒物屋「広江屋」だそうです。
蕎麦屋「本家出石皿蕎麦よしむら」の隣りに荒物屋「広江屋」跡地の石碑が建てられているそうです。
https://maps.app.goo.gl/jwhdLkUKBFGV9PMN8
by SORI (2024-02-08 17:51) 

SORI

mituさん こんにちは
ほんと石を運び上げるのは大変な作業だったと思います。記念写真はいい思い出になります。沢山の寄付が集まるのは地元に愛されているからだと思います。
by SORI (2024-02-08 17:57) 

SORI

リンさんさん こんばんは
稲荷曲輪は不思議な趣がある場所でした。リンさんさんだったら稲荷曲輪の井戸で物語が作れそうですね。

by SORI (2024-02-08 18:01) 

ヨッシーパパ

出石城は、行ったのですがすぐ上の場所まででそれ以上は上らなかったのです。
もう一度行って見たい物です。
出石蕎麦とみたらし団子は食べました。^_^
by ヨッシーパパ (2024-02-08 20:07) 

SORI

ヨッシーパパさん こんばんは
今回は出石では蕎麦屋以外に酒蔵にも行きました。今までに少なくとも4回行ったことがありましたが、目的は出石蕎麦と出石焼きでしたが出石城は初めてでした。
by SORI (2024-02-08 21:23) 

yokomi

石川五右衛門を捕らえた御方が城主だったとは....(^_^)v 標高の高い城を見るとき、高い位置の井戸なら水量は豊富じゃ無いはず。いつも「水」はどうしていたのかなぁ...と余計な心配(^_^;) 
by yokomi (2024-02-17 11:29) 

SORI

yokomiさん おはようございます。
石川五右衛門を捕えた御方が城主とは知りませんでした。さすがです。
稲荷曲輪の横には山から水が流れ出るところがありました。
いつも山頂に店主のある山城は水をどうしているのかな、といつも感じていました。水は生命線なので工夫しているのでしょうね。
by SORI (2024-02-17 11:57) 

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