カザフスタンの国内線 窓の景色編 [カザフスタン]
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カザフスタン国内でアルマトイとアクトベを往復いたしました。機内の様子や機内食に関しては以前の記事で紹介いたしましたが、今回窓の外の景色を紹介いたします。アルマトイからアクトベまでは中央席の通路側だったために帰り窓側にいたしました。表示が小さいので航空写真上のアイコンを1回クリックすると丁度良い表示になります。緑色マークのアクトベから黄色マークのアルマトイまでの景色を紹介いたします。飛行機は直線的に飛んでいたのでオレンジのラインを飛んだと思います。
アクトベ空港
アルマトイ空港
塩の湖が沢山あった場所
アクトベを飛び立ってすぐの景色です。この町がアクトベです。この後、すぐに道も木もない世界になりました。こちらの写真はクリックすると拡大するように設定したいます。
ソウルからアルマトイのフライトでゴビ砂漠の景色を紹介しましたが、似たような景色でした。ゴビ砂漠では砂漠の中の湖が印象的でしたが、ここでは同じように白い湖らしいものが点在していました。
これは上の写真を拡大したものですが、どうやら白い湖のように見えたのは塩のようでした。長い間に水が流れ込んで蒸発を繰り返しているのだと思います。季節によっては塩水湖で今の季節は干上がって塩の湖になっているのではないでしょうか。
大きな塩の湖が沢山ありました。このあたりの砂漠はキジルクム砂漠(英語:Kyzyl kum)と呼ばれており、カザフスタン、ウズベキスタンとトルクメニスタンの一部にかけて広がっています。正確にはこのあたりより南にキジルクム砂漠が広がっているようです。キジルクムはテュルク諸語で「赤い砂」を意味するそうです。
面積は約29万8000 km²で、北東にシルダリヤ川、南西にアムダリヤ川が流れています。金や天然ガスといった資源が眠り、川やオアシス周辺では農業がおこなわれているそうです。
同様に拡大いたしました。クリックするとさらに拡大写真掲載いたします。拡大写真を見てもらうとわかるように潮の中に水が残っているところも見受けられます。塩が飽和状態の塩水だと思います。
2時間近くこのような景色が続きました。
Googleの航空写真でも沢山の塩の湖が確認でしました。飛行コース全体にこのような塩の湖が点在していました。こちらも表示が小さいので航空写真上のアイコンを3回クリックすると丁度良い表示になります。
そのうちに中央アジア最大のバルハシ湖が見えてきました。この湖が見えるとアルマトイも、もうすぐです。
バルハシ湖は長さ605kmあるため飛行機の上から見ても、ほんの一部だけしか見ることが出来ませんでした。
昔はカザフスタンとウズベキスタンの国境にあったアラル海が中央アジアで最大の湖でしたが、綿花栽培のための灌漑事業により流れ込む水量が減ったためにアラル海は縮小・分裂したためにバルハシ湖(カザフ語: Balqash Köli、ロシア語: Озеро Балхаш)が中央アジア最大の湖となりました。もちろんカスピ海が圧倒的に大きいけれどもカスピ海は中央アジアの湖には含まれません。湖の西半分は淡水で東半分は塩湖という珍しい湖でもあります。
面積は16,996km²でアジアではバイカル湖に次ぎ2位、世界では14位です。長さ605km、最大幅74km、標高342m、貯水量122km³、平均水深5.8m、最大水深25.6mで、流れ込む川はイリ川などがあります。流れ出す川はなく、内陸湖です。11月~4月中旬の間は氷結するそうです。周辺にはバルハシ、サルイシャガン、レプスイなどの町があります。
近年では流入量の減少、水質汚染が危惧されているそうです。写真の水の色が異常に緑色なのは水質汚染によるもので銅精錬所の廃水の影響が大きいと聞きました。こちらも表示が小さいので航空写真上のアイコンを1回クリックすると丁度良い表示になります
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目的地のアルマトイの町に近づいて、やっと人家や道を見ることが出来ました。飛行機で飛んで2時間近くも人家も道もない世界でした。塩の湖に塩を取りに行こうと思っても命がけになると思います。
アルマトイの町です。町の奥は6000m級の山が連なっています。もっと町の近くで写真を撮りたかったけれども電子機器の電源はここで切らなくてはなりませんでした。
カザフスタンのショッピングモール [カザフスタン]
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カザフスタンの32万人の都市アクトベにあったショッピングモールMEGAです。昼間に車で横を通りました。
こちらは翌日の早朝にモスクや教会を見るために歩いて散歩した時に同じショッピングモールMEGAを撮った写真です。広大な場所に名前の通り大きなショッピングモールが建っていました。こちらの写真はクリックすると拡大します。
早朝のため駐車場には車もなく人もいませんでした。手前に写っている道は道路ではなくショッピングモールの駐車場につながる誘導路です。
すでに紹介したモスクと教会と国旗と泊まったホテルの位置関係を航空写真にマークしました。青色が中央モスクで赤色が聖ニコラス正教会です。今回のショッピングモールは教会の近くの黄色のマークの位置です。巨大な国旗があったのが緑色で泊まったホテルは空色のマークです。早朝なので散歩できましたが昼間は38℃あったので歩くのは難しかったです。
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店内も紹介します。こちらはアクトベのショッピングモールではなく同じ日にカザフスタン最大の町であるアルマトイ(アルマティー)に飛行機で戻った時に興味があったので町の中にあるお店に入ってみました。すごい広さでした。この写真はクリックすると拡大します。それぞれの売り場が大きかったです。これはクッキー売り場です。この写真に写っている2倍くらいの広さにクッキーだけが並べられていました。肉売り場はもっと迫力がありました。全ての食材がこのような規模で売られていました。お寿司も売っていました。
日本のお店では見かけないものが売っていました。横で売られているレッドブルとは関係ありません。
こちらが拡大したものですが、生ビールの販売機です。この容器にビールを入れてもらい家に帰って飲むそうです。
巨大なカザフスタン国旗 [カザフスタン]
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カザフスタンのアクトベという町を早朝に散歩してモスクと教会を訪れました。もう一つ気になっていたところに行ってみました。それがこの写真の場所です。高いポールに大きな旗が風でたなびいていました。上の写真は是非ともクリックしてみてください。高さが実感してもらえるかもしれません。
ネットで調べたけれども、これは出てこなかったので正確な高さはわかりませんが、60m~70mではないかと思えました。もしかしたら、もう少し高いかもしれません。このポールの高さをご存知の方が、おられたら教えてください。
旗も遠くなので小さく見えましたが、かなりの大きさです。
この旗がカザフスタンの国旗です。おそらく15mを越える長さの旗だと思いますが強い風のおかげで、たなびいていました。
この旗は大きな公園の真中辺りに立てられており、周りには池などもありました。
カザフスタンの1人当たりGDPは11,415ドル、失業率は1999年に13.47%あったものが下がり続けて2013年には5.3%になり、独立直後の経済状況に比べ、著しい飛躍を遂げています。この経済成長は、鉱物資源の輸出によるものであり、天然資源依存型であるといえます。採掘量が世界第10位以内に達する地下資源が9つも存在します。輸出品目も地下資源とその加工品が7割を占めています。豊富な地下資源も、何もしなければ宝の持ち腐れですが、経済発展を成し遂げた初代からの現大統領(ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領)は、絶大な人気で2011年4月3日の大統領選挙では95.5%の得票率で再選(5選)されています。大統領の写真はWikimediaから拝借いたしました。参考に日本の失業率もプロットいたしました。
ポールの根元の部分です。根元にはいろんな飾り付けや文字が書かれていました。この裏側には大統領と思われる写真も取り付けられていました。ポールは亜鉛メッキのようでした。
下から見上げるように撮った写真です。迫力がありました。
公園の入口の門からの写真です。入口から一直線に花壇が続いていました。この写真はGoogle地図のカメラマークの場所から撮りました。Google地図で確認したところ公園の入口にある門から旗までの距離は470mです。
緑色のマークのところに巨大なカザフスタンの国旗が立っていました。紹介したモスク(青マーク)や教会(赤マーク)から近いところにありました。
ネットで調べるとカザフスタンはカザフ人が63.1%、ロシア人が23.7%、ウズベク人が2.9%、ウクライナ人が2.1%、ウイグル人が1.4%、タタール人が1.3%、ヴォルガ・ドイツ人が1.1%、その他4.5%となっています。アジア系が60~70%というイメージは当たっていました。
カザフスタン共和国の国旗(1992年6月4日~現在)
カザフスタンの国旗は1991年のソ連解体後、カザフスタン共和国として独立(1991年12月16日)した際に制定(1992年6月4日)されました。 ソ連時代に使われていた赤い色はなくなりました。
青地は空、中央の黄は33本の光を擁する太陽と翼を広げて飛ぶワシ(ステップ・イーグル)をイメージし、左端の文様は民族の伝統的なアラベスク文様で、この青地は、この地域のテュルク系諸民族を示し、その諸民族の間では青地は宗教上特別な意味である神の存在を象徴するが、現在ではカザフスタンの広い空と自由を象徴しています。中央の鷲は、当時も青地に鷲の旗のもとで、この地方を支配したチンギス・ハーンの帝国を示し、カザフスタンの人々の誇りを表したそうです。
独立する前のカザフ・ソビエト社会主義共和国時代の旗を古い順に紹介します。このころは赤が主体でした。真中は第二次世界大戦のころの旗になります。一番最近のものにはブルーの色が入りました。文字もなくなりました。下の国旗はクリックすると拡大します。
1937年~1940年 1940年~1953年 1953年~1991年
首都のアスタナにも、町の中に大きな国旗が建てられていたので紹介します。アクトベの国旗よりも少し小さいようですが、それでもかなりの大きさでした。
Hotel Dastan Aktobe 日本食がブーム? [カザフスタン]
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すでにカザフスタンのアクトベのモスクや教会などを紹介いたしましたが、ここの町は下の航空写真のように15km程度の範囲に入ってしまう町でした。その町で泊まったホテルが、前記事で紹介した右の写真のHotel Dastan Aktobeです。前日はカザフスタン最大の町であるアルマトイ(アノマティー)でカザフ料理を堪能いたしましたが、こちらのアクトベでは、このホテルで種類はこだわらないでアラカルトで頼んでみました。アクトベ(Ақтөбе)はアクトベ州の州都で人口は約32万人の町です。この町で食べた料理を紹介いたします。
この地図の空色のマークの位置が、ホテルの場所です。マークをクリックすると名称を表示します。
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チーズたっぷりのシーフードサラダというところでしょうか。チーズがたっぷり乗っているところがカザフスタン風なのかもしれません。こちらもチーズがたっぷ乗った「きのこ」のクリームシチューのようなソースの美味しい料理でした。味わって見て、こちらのホテルのレストランは一流の味であることが徐々にわかってきました。昼食で食べたボルシチもすばらしかったです。
ロシアの特徴である黒パンも出てきました。
これらを肴にしてビールです。写真のピントはバックのテーブルの方にあってしまったのでレストランの雰囲気もわかってもらえると思います。写真をクリックすると背景の山の絵の拡大写真を表示するようにいたしました。
こちらのレストランでは日本風の料理も食べれるのが特徴でした。肉がたっぷりの野菜炒めです。
こちらは、まさに焼肉でした。次のような飯類もありました。
親子丼 Oyakodon 550テンゲ 310円
鰻玉丼 Una-Tama don 1500テンゲ 847円
牛丼 Gyudon 500テンゲ 282円
シーフード焼飯 Tennpanyaki rice with seafood 1300テンゲ 734円
野菜焼飯 Tennpanyaki rice with vegetables 550テンゲ 310円
ごはん Gohan 500テンゲ 282円
こちらが冒頭の写真です。究極の日本食であるお寿司もありました。これには驚きでした。ここはカザフスタンの首都アスタナでもなく、最大の年アルマトイでもなく、日本人が住んでいるとは思えない砂漠の辺境の町アクトベなのです。そこで、お寿司が食べれるとは!
辺境の地ではありますが、人口はカザフスタン5番目(38万人)の町です。サーモンと鰻のお寿司を頼みました。
メニューのお寿司の部分ですが、メニューでは日本食の部分に4ページも使うほどの力の入れようでした。メニューはカザフ語とロシア語と英語の3種類が書かれています。左側がカザフ語とロシア語で右側が英語でした。クリックすると拡大するのでメニューが読めると思います。一番下の9品の「デラックス盛り合わせ(Delux Moriawase)」の寿司の内容を紹介いたします。値段は15000テンゲ(約8470円)です。「巻き盛り合わせ(Maki Moriawase)」かが5500テンゲ(約3100円)で、「寿司盛り合わせ(Sushi Moriawase)」が6500テンゲ(約3670円)でした。単品の巻物は550~1600テンゲ(310~900円)です。ちなみに一番安いのがカッパ巻(Kappa Maki)です。
Sake Kunsei nigiri
Unagi nigiri
Izumi tai nigiri
Maguro nigiri
Hotate nigiri
California maki
Unagi maki
Maki with baked salmon
Philadelphia maki
ホームページに、こちらのレストランの動画があったので紹介します。残念ながら日本食は出てくなかったですが、雰囲気は伝わってくると思います。
実は、ここは小さいホテルでしたがカザフスタンの大統領も訪問するほどのホテルでした。ホテルの壁には有名な人と思われる方々の写真が沢山飾られていましたが、この写真はその中の一枚です。
ホテルの中は日本風の絵が沢山飾ってあったことからも日本にこだわっていることが感じられました。
地方の小さなホテルではバーはあるけれども早くしまってしまうことが多いけれども、こちらではバーも遅くまでやっておりカクテルを楽しみました。
ついカクテルの、おかわりもしてしまいました。
ホテルの部屋も紹介いたします。寝室と居間が分かれたタイプでした。
長期に滞在する人にも対応できるようにしているのでしょうか。キッチンや大形冷蔵庫もありました。
少しアクトベを紹介いたします。ネットでの記載内容です。
ラテン文字表記はAqtöbe(またはAktöbe、Actöbe)。ロシア語ではアクチュビンスク(Актюбинск)と呼ばれる。マークの場所がお寿司が食べれたカザフスタンのアクトベ(Aktobe)です。首都アスタナ(Astana)では日本食店はありません。
住民の民族構成は多彩で、カザフ人とロシア人を始めとして、ウクライナ人・タタール人・ウイグル人・チェチェン人・アルメニア人・ユダヤ人・ギリシア人などが住んでいる。ペレストロイカ以前はドイツ人の大きなコミュニティがあった。
アクトベという名はカザフ語で「白い丘」を意味し、19世紀の入植地であった丘に由来する。 1869年3月、ロシアはオレンブルクからのキャラバンルートに当たるこの地に軍事要塞を建設、周囲にスラブ人が農業のために入植を開始した。要塞は拡張され町も大きく整備された。1891年、アクチュビンスクという名の市に昇格した。1901年にはトランス・アラル鉄道も開通した。 ロシア第一革命ではボリシェビキが活発な反政府活動を展開、ロシア革命で完全にアクチュビンスクを掌握した。その後、戦略的に重要なアクチュビンスクをめぐって赤軍と白軍が激しい争奪戦を展開、1919年4月、アクチュビンスクは白軍の手に落ち、ボリシェビキの中央アジアへの連絡路は断たれた。しかし、9月になるとミハイル・フルンゼのボリシェビキ軍は激戦の上、アクチュビンスクを奪還、以降、タシュケントへの鉄路は赤軍の掌握するところとなった。1920年、キルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生し、その後、カザフ・ソビエト社会主義共和国のアクトベ州となる。 第二次世界大戦では、工場がロシアやウクライナから疎開、フェロアロイ工場やクロム工場も移転してきたため工業都市として飛躍することになった。1990年代以降、アクトベのヴォルガ・ドイツ人たちはドイツへと帰還した。
カザフスタン最大の都市アルマティー(Almaty)でも日本食店は2~3店しかないことから首都アスタナや最大の都市アルマティーから遠く離れた、この場所で寿司が食べれたことが、どれだけすごいことかが、判ってもらえると思います。
ベットルームが2つ アクトベNO.1のホテル [カザフスタン]
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前記事でカザフスタンの首都アスタナのNO.1ホテルを紹介したので、地方都市のNO.1ホテル紹介させていただきます。
その地方都市のアクトベ(Aktobe/Ақтөбе/Актюбинск/Aqtöbe)で泊まったホテルが上の写真です。
以前にカザフスタンの主要な都市の位置を紹介した地図です。マークをクリックすると都市の名前を表示します。赤色マークは訪問した町で、左から順番にアクトベ、アスタナ(Astana)、カラガンダ(Karaganda)、アルマティー(Almaty)です。つまり一番左の赤いマークが、今回のホテルのあったアクトベです。人口は地図の中のマークの都市の中では7番目で317,700人です。カザフスタンでは中堅の都市と言えます。
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その中堅の都市で泊まったホテルの部屋にはベットルームが2つありました。正面に入口が2つありますが、それぞれがベッドルームなのです。こちらが左側の入口のベットルームです。
こちらは右側の入口のベットルームです。
居間(リビング)にはキッチンや大型の冷蔵庫も設置されていました。居間も結構広かったです。
冒頭の写真ではクリスマスツリーを作っている最中でしたが夜には完成して点灯いたしました。ホテルを紹介します。
名前 Hotel Dastan Aktobe
住所 2 Bogenbay street, Aktobe, Kazakhstan, 030008
HP http://www.dastanhotel.kz/en/main
電話 07132-90-1000
ホテルの前の道路です。寒そうでしょう。いつもなら散歩をするのですが、さすがに散歩に出る気にはなりませんでした。
ホテルの壁にはホテルを訪問した有名人と思われる人の写真が沢山、飾られていました。一際、目立っていたのがカザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領の写真でした。大きくはないホテルでしたが、アクトベNO.1のホテルの証しだと思います。ちなみにヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は初代からの大統領で2011年4月3日の大統領選挙では95.5%の得票率で再選(5選)されている人気の大統領なのです。
ホームページにホテルを紹介した動画があったので掲載いたします。空港からホテルへの移動で日本の車(トヨタ)が登場します。
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カザフスタンの教会 [カザフスタン]
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カザフスタンのモスクを紹介したら教会も紹介しなければなりませんね。紹介したアクトベの中央モスク(Central Mosque)の敷地と道路を挟んだ場所に教会が建っていました。その教会が上の写真です。
イスラム教が47%に対して正教会が44%とモスクと教会の両方が沢山あるのがカザフスタンでした。
この教会をネットで調べるとSt. Nicholas Orthodox Church in Aktobe (Aktobeの聖ニコラス正教会)と出てきました。
Central Mosque(中央モスク)からはこのように聖ニコラス正教会が見えました。広い公園に隣接して建っていました。
教会からモスクを見るとこのように見えました。間にはさえぎるものがありませんでした。
青色のマークがモスクの場所で赤色のマークが教会の場所です。緑色のマークに関しては後日報告いたします。
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公園の中の配置は教会を意識したデザインのようでまっすぐにフラワーロードが教会に向かっていました。斜め前からの教会です。ヨーロッパの教会と違いタマネギ型の屋根があるのが特徴ですがロシアのロシア正教の教会がこのようなタマネギ型の屋根でした。そしてこれよりももっとカラフルな色が使われていました。
正面から見た教会です。屋根が金色なのは紹介したモスクと同じでしたが、天辺の飾りは違っていました。教会は十字架でしたが、ちょっと特徴のある十字架が使われていました。
モスクワの赤の広場のロシア正教の教会の屋根の天辺にも十字架の飾りがありましたがシンプルな十字架でした。カザフスタンでは横棒が2本の十字架で、さらに下には斜めの横棒もある特徴的な十字架の飾りでした。ろしあでもサンクトペテルブルグの教会の十字架は今回のものと同じでした。
これは八端十字架と呼ばれて東方正教会で最も多く使われる十字で、縦1本、横3本の4本の棒から成ります。ラテン十字の横棒の上に加えられた短い横棒はイエスの罪状書き、残りの横棒は処刑台の足台を意味していると言われています。「八端十字架」の名称は8箇所の先端部分が存在することに由来するそうです。
窓には絵が描かれていました。クリックすると拡大するので絵の細部がわかると思います。翼のある女性が十字架の棒と盾を持っています。
カザフスタンのモスク [カザフスタン]
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カザフスタンはイスラム教とキリスト教が半々の国です。そして、これがカザフスタンのモスク(イスラム教の礼拝堂)です。世界にはいろんな形のモスクがあります。トルコやエジプトのような丸いドーム状のようなモスクは良く知られていますが、これもモスクなのです。今までに掲載したモスクの記事です。
興味のある国のモスクと比べてみて下さい。
エジプト → ポチッ
トルコ → ポチッ
モロッコ → ポチッ
インドネシア → ポチッ
中国 寧夏回族自治区 → ポチッ
右の夜のモスクの写真はネットから拝借いたしました。残念ながらライトアップされたモスクは見ませんでした。
カザフスタン共和国(通称カザフスタン)は中央アジアの国で首都はアスタナで最大都市はアルマトイです。1991年12月16日にソ連から独立し国です。時差は日本と3時間と4時間の地域があります。
宗教の割合はイスラム教が47%、正教会が44%、プロテスタントが2%、その他7%のためモスクと教会があります。
イスラム教の人が多いといっても宗教の自由は認められているようでお酒も自由に飲めるし、女性も普通の服装の人がほとんどでした。どちらかと言うと、髪を隠す右の写真ようなスタイルの人は稀な存在でした。もちろん顔隠すような黒い服装の人はいませんでした。朝の時間帯の通勤風景です。近くのオフィスに行くのだと思います。60~70%がアジア系の感じでした。
ここはカザフスタンのアクトベ州の州都であるアクトベ(Ақтөбе)です。日本とは4 or 3時間差でした。人口は32万人ですが人口1560万人のカザフスタンとしては大きい町だと思います。カザフ人やロシア人を始めとして、ウクライナ人・タタール人・ウイグル人・チェチェン人・アルメニア人・ユダヤ人・ギリシア人などいろんな民族が住んでいるそうです。
入口のドアは木で出来ていました。これもいろんな国のモスクとは違う珍しいものでした。
屋根には金色のドームがありました。このような形式のモスクも始めて見ました。
屋根の上の飾りを拡大して見ました。カザフスタンの教会の屋根の上のシンボルは十字架でしたが、モスクは新月でした。イスラム暦(ヒジュラ暦)は新月から新月までを1ヶ月とし、12ヶ月で1年となる純粋太陰暦でとしているのが関係しているのかもしれません。イスラムの国の国旗は新月と星を使ったものが多いことから新月とイスラムの関係は強いようです。4本のミナレットの先端の飾りも新月でした。
カザフ語かロシア語だと思いますがモスクの説明でしょうか。アクトベという名はカザフ語で「白い丘」を意味し、19世紀の入植地であった丘に由来するそうです。 1869年3月、ロシアはオレンブルクからのキャラバンルートに当たるこの地に軍事要塞を建設、周囲にスラブ人が農業のために入植を開始したそうです。要塞は拡張され町も大きく整備されました。1891年、アクチュビンスクという名の市に昇格した。1901年にはトランス・アラル鉄道も開通した。 ロシア第一革命ではボリシェビキが活発な反政府活動を展開、ロシア革命で完全にアクチュビンスクを掌握したそうです。その後、戦略的に重要なアクチュビンスクをめぐって赤軍と白軍が激しい争奪戦を展開、1919年4月、アクチュビンスクは白軍の手に落ち、ボリシェビキの中央アジアへの連絡路は断たれたそうです。しかし、9月になるとミハイル・フルンゼのボリシェビキ軍は激戦の上、アクチュビンスクを奪還、以降、タシュケントへの鉄路は赤軍の掌握するところとなったそうです。1920年、キルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生し、その後、カザフ・ソビエト社会主義共和国のアクトベ州となったそうです。
モスクの近くには教会がありました。その教会から見た今回のモスクです。
Googlear地図では「Central Mosque Aktobe」と名前が書かれていました。このあたりの航空写真は鮮明ではありませんでした。
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Aktobe以外のカザフスタンの代表的な町ごとのモスクの写真をネットから拝借いたしました。写真の左上の文字は、そのモスクがある都市の名前です。写真はクリックすると拡大します。これらの写真を見るとドーム型の屋根の色は金色かスカイブルーが多いようです。高い塔であるミナレットの数は1本と2本と4本のものが見られます。Astana Almaty Atyrau
Aktau Pavlodar Kyzylorda
Uralsk Zharkent Karaganda
Aktobe-1 Aktobe-2 Aktobe-教会
上の10つの都市の位置を地図にマークしました。マークをクリックすると都市の名前とモスクの写真を表示します。赤色マークは訪問した町です。
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カラガンダのロシア料理店 [カザフスタン]
カザフスタンのカラガンダの町で昼食に入ったレストランです。
料理の種類はロシア料理でした。カザフスタンは今から22年前の1991年12月16日に旧ソ連から独立したこともあり、今のロシア的なところが見受けられます。そんなこともあり、美味しいロシア料理のお店があるそうです。
入口では大きな木彫りの熊さんが迎えてくれました。
店内です。コートなどは預かってもらう格式あるレストランでした。すでに12時30分ですが我々が最初のお客さんでした。ところが食べ終わって帰るときは沢山のお客さんでいっぱいでした。どうやらこちの昼食は遅いようでした。
レストランで店員さんも急いでテーブルの飾り付けをされていました。
これは有名な飲み物です。少し甘みのある飲み物で原料は野菜のようでしたが名前はわかりませんでした。
ヨーロッパ同様にパンは必ず出てきます。
黒パンも入っていました。おいしそうなパンでした。
サラダです。上の飲み物同様に赤い色彩の野菜が多かったです。
豆の入ったサラダです。
ガーリックトーストにトマトとオリーブが添えられていました。これもどうやら有名なもののようでした。
ロシア料理と言えばボルシチに代表されるようにスープです。今回はすすめられた透明なスープを頼みました。
私以外の日本の人はビーフストロガノフを頼みました。
やっぱり本場では食べてみたくなりますね。ご飯がついているとカレーのように感じてしまいますが、もちろん別物です。
ビーフストロガノフを調べてみると16世紀初頭にウラル地方で成功した豪商・ストロガノフ家の家伝の一品であったとされています。食事と料理が好きな当主が深夜、小腹が空いて起きたものの家人や使用人は全員眠っていたため有り合わせの材料で料理を作ってみたら旨かった事から出来た料理だと言い伝えがありますが、実際は貴族のたしなみであった『開かれた食事会』のために雇われ料理人が作ったのが真相のようです。19世紀に帝政ロシアのストロガノフ伯爵のフランス人コック長が広めたそうです。
私はステーキを頼みました。これもロシア料理ということで頼んでみました。やっぱり一流レストランの料理はおいしいです。ご飯が出てくるのが新鮮でした。
Google地図でレストランの場所を探したので紹介しておきます。マイナイのアイコンを数回クリックすると町の中のレストランの位置がわかると思います。緑のマークのところの文字は冒頭の写真の看板の文字と一致するのでレストラン名だと思います。類似の文字を探して店名を書いてみました。
若干違うようですが、こんな感じです。→TPAKTИPБ MEДBБДЬ
カザフスタンの制限速度は90km/hでした。 [カザフスタン]
年末にカザフスタンの記事を掲載させていたので続きを紹介します。12月1日にはカザフスタンを車で約500km走りました。カザフスタンでの移動は飛行機ばかりだったので、車でこれだけの距離を走ったのは初めてでした。カザフスタンでは有料の高速道路はなくすべて一般道路でした。ただし制限速度は写真のように90km/hなのでスピーだけであれば高速道路でした。写真の場所は片側2車線ですが、ほとんどの場所では片側一車線で中央分離がないのでやはり一般道路の部類になると思います。この道路を140km/hで走りましたが、追い抜きは反対車線に入る必要があるので運転する人は結構気を使っていました。140km/hで走っていても頻繁にスピードを落とすことがあったので、スピート違反の取締りがあるのではないかと感じていました。
それが、ズバリ自動速度違反取締装置(オービス)だったのです。黄色い箱が道路脇に設置されていたので運転手の人に聞くと、やはり自動取締機でした。遠くからでもよくわかるよ黄色い色に塗られているのが面白いですね。
少なくとも、だまし討ち(ネズミ撮り機)ではないといえます。
町に近くて頻繁に車が走るところの制限速度は70km/hと表示されていました。そのような場所では、そこそこスピードがまもられていました。
一般道路なので、もちろん横断歩道があることから、スピードを出すとはやはり危険だとは思います。でも広い国土なのでスピードは出さざるをえないのも実態のようです。パトカーによるスピード違反の取り締まりも頻繁に行われていました。
本当はスピード違反の取締りを行っているパトカーの写真を撮りたかったけれど、知らない国で警官の人の写真を撮るのはリスクがあるので避けました。
年末年始に車でお出かけになる方も多いと思います。くれぐれも安全運転で楽しい正月をお過ごしくださいませ。
カラガンダの町の人たち [カザフスタン]
カザフスタンむの首都アスタナからカラガンダへの道沿いの景色は何度も紹介いたしました。今回はカラガンダの町の風景を紹介いたします。上の写真はカラガンダの入口付近です。この辺りからから徐々に町の風景になってきました。ここでも信号機の横には信号が変わるまでの時間が表示されていました。
紹介する全ての写真は12月1日に撮ったものです。
建物が増えてきましたが、歩いている人はまだ少なかったです。カラガンダは、カザフスタン共和国のカラガンダ州の州都で カザフスタンでは、アルマトイ、アスタナ、シムケントに次ぎ人口では4番目の都市だそうですが、集計の仕方によっては2番目の都市だそうです。カラガンダという市名は、この辺りに群生している「オオムレスズメ」の名前(Caragana arborescens)に由来するそうです。
こちらの写真の縮小版はすでに紹介済みで。こちらはKazakh Drama Theaterと呼ばれている建物です。日本流に言えば「カザフ族演劇劇場」でしょうか。
これはカラガンダのシンボルである労働者の銅像(Miners Glory Monument)です。この像と道を挟んで大きな建物のThe house of minersがありました。昔は石炭の町で過酷な労働に耐えた鉱夫によって支えられた町のてめ、このような像や建物が建てられたのかもしれません。
こちらのクリスマスツリーを作っている写真も紹介しましたが、それがカラガンダだったのです。
ショッピングセンターのような場所でした。
その近くを歩いている人たちです。
アパートのような建物も沢山ありました。
町の中の庶民の足はバスのようでした。次から次へとバスが来ていました。
町の人たちの服装もも紹介いたします。さすが極寒の地です。私が行った時もマイナス20℃くらいでしたが今はさらに寒くなっているようです。シベリアと似た感じの服装の方が多かったです。帽子は必需品のようです。
おばあちゃんとお母さんと赤ちゃんでしょうか。ほほえましい光景でした。
小学生くらいの女の子たちです。
学校帰りでしょうか。沢山の子供たちが周りにいました。
若い女性は分厚いフード姿が多いです。冬のお洒落なのだと思います。カラガンダはドイツとの関わりが強かった町のようです。欧米系の顔の人の比率が多い気がしました。
カザフスタンの代表的な都市名を紹介します。括弧内は英語です。訪問したことがあるのはアクトベ、アルマトイ、アスタナ、カラガンダの4都市です。
アクタウ(Aktau)
アクトベ(Aktobe)
アルマトイ(Almaty)-最大の都市
アラル(Aral)
アスタナ(Astana)-首都
アティラウ(Atyrau)
バイコヌール(Baikonur)
バルハシ(Balqash)
エキバストゥス(Ekibastuz)
テュルキスタン(Hazrat-e Turkestan)
ジェズカズガン(Jezkazgan)
カラガンダ(Karaganda)
コクシェタウ(Kokshetau)、ククシェタウ、コクシェトゥ、コクチェタフ
コスタナイ(Kostanay)
クズロルダ(Kyzylorda)
オラル(Oral)
オスケメン(Oskemen)
パヴロダル(Pavlodar)
ペトロパブル(Petropavl)
ルードヌイ(Rudniy)
サルカンド(Sarkand)
サトパエフ(Satpayev)
セメイ(Semey)
シムケント(Shymkent)
タルディコルガン(Taldykorgan)、タルドゥイ・クルガン
タラズ(Taraz)
テミルタウ(Temirtau)
ジャナオゼン(Zhanaozen)
カラガンダへの道 [カザフスタン]
カザフスタンにもピラミッド? いえピラミッドの形をした近代的な建築物です。なぜか太陽も菱形の幻想的な形を見せてくれました。
上の写真は右の写真から切り取りました。
首都のアスタナからカラガンダへ車で移動したときの鉄道や雪景色や民家のある景色などはすでに紹介いたしました。景色は窓の横の景色がほとんどでしたがここでは実際に車に乗った雰囲気を味わってもらうために車の正面の景色を時間順に紹介いたします。
アスタナのホテルを9時24分に出発して6分後にアスタナを象徴する景色である平和のピラミッドが見えてきました。このピラミッドはノーマン・フォスター設計で、各宗教の宗教施設が入っています。ピラミッドが見えてきたのはホテルを出てから6分後の9時30分18秒でした。
クリックすると拡大
ピラミッドを見てから9分後の9時39分57秒の車の正面の景色です。3台のランドクルーザーが待ち合わせた場所でもありました。すでに他の車が来ていたので待つことはなくそのまま出発しました。
9時54分51秒です。
車は南東方向に進むことから、この後もほとんどの写真が逆光の景色でした。
10時13分15秒は真正面に太陽があるためにこのような景色となりました。
10時18分1秒です。片側一車線のため、この道をある程度のスピードで走るためには追い抜きは不可欠です。
10時18分25秒です。追い抜きをしているところです。
10時21分58秒は曇り空でした。
10時27分39秒です。 前から大きな車が走ってきました。カザフスタンでは昼間でもライトをつけて走る習慣がありました。
10時38分52秒には晴れてきました。 右にカザフスタン鉄道の線路が見えます。
10時51分31秒です。晴れると素晴らしい景色が展開されました。
11時8分1秒です。でも、すぐに霧でガスてきました。
11時8分57秒です。 霧の中でも追い抜きます。
11時9分6秒には、我々も追い抜きました。かなり慎重に前からの車がないことを確認していました。この後にトイレ休憩でドライブインで停まりました。
11時36分55秒には霧の中に幻想的な太陽が出現しました。この辺りから片側2車線になりました。反対車線との間には広いスペースがあり中央分離帯に相当ので、もう大丈夫です。追い抜きも心配いりません。
11時39分19秒には晴れてきました。
11時39分52秒です。珍しく立体交差がありました。それでも216km走って立体交差は3ケ所で見かけました。
11時40分18秒には山のある景色も現れてきました。
11時41分0秒の景色です。すでに報告していますが一般道路ですが制限速度は90km/hでした。
11時41分44秒です。どこまでも真っ直ぐな道でした。
11時49分55秒には雪がキラキラ輝く景色に出会えました。
11時51分12秒には製鉄所が見えてきました。
世界最大の製鉄会社であるArcelor mital傘下の製鉄所です。
11時51分56秒には製鉄所の近くのロータリーまで来ました。
ここで道が4方向に向かっています。我々はカラガンダの方向に向かいました。
12時6分22秒にはカラガンダの入口まで来ました。ここから20分後にカラガンダの町の中心にあるレストランに着きました。道路の上の丸い看板の中にҚАЗАҚСТАНと20の文字が読み取れました。2011年12月16日は独立20周年記念なのでそれを祝った飾り付けなのだと思います。
ちなみにҚазақстанはカザフ語でカザフスタンのことです。
カザフスタンのカラガンダはカザフ語でҚарағандыです。ロシア語ではКарагандаで微妙に違います。英語ではKaragandaですがGoogle地図ではKaragandyと表示されていました。
試しに検索エンジン(YahooとGoogleとGoo)での検索件数を調べてみました。最近はYahooとGoogleは同じデーターベースを使っていることからYahooとGoogleとの差はロシア語以外ではありませんでした。順位はロシア語→英語(Karaganda)→カザフ語→英語(Karagandy)→日本語でした。
Yahoo Google Goo
Karagandy 約2,040,000件 約 2,040,000 件 約21,100件
Karaganda 約6,550,000件 約 6,550,000 件 約348,000件
Қарағанды 約6,020,000件 約 6,020,000 件 約1,320,000件
Караганда 約36,900,000件 約 37,000,000 件 約1,630,000件
カラガンダ 約24,700件 約 24,700 件 約1,230件
道のルートは下記赤のラインです。空色のマークが今回紹介した写真を撮った場所です。以前に紹介した正確な時間を記入した地図から場所を特定(数百m以内)しました。この地図を作るために正確な時間を記入した地図を作ったのです。空色マークをクリックすると時間を表示します。緑色のマークが出発したホテルと到着したレストランです。黄色のマークが途中で休憩して24時間ドライブインの場所です。マークをクリックすると通過時間を表示します。
車の通過時間の確認方法 [カザフスタン]
カザフスタン国内をアスタナからカラガンダに車で移動したときの雪景色や民家を紹介しましたがその時に地図に時間の入ったマークを付けました。そのマークの入った地図です。青いマークをクリックしてもらうとマークの説明と時間が表示されます。マークの位置と時間の特定方法に関して説明いたします。
右の航空写真はカラガンダ市内です。
車で走りながら特徴的な景色や建物の写真を撮っていました。その写真の一部が下記の小さな写真です。その写真の景色と航空写真のプラスのアイコンを何度もクリックして拡大した航空写真を見比べて写真を撮った場所を特定しました。その9枚の写真の内で航空写真の3例を紹介いたします。小さな9枚のすべての写真はクリックすると本ブログ標準サイズの写真(480x360)を表示するように設定しています。
09:24 ホテル 09:43 モスク前 10:24 鉄道横断
10:34 タンク前 11:10 トイレ休憩 11:51 ロータリ
12:16 カラガンダ市内-1 12:19 カラガンダ市内-2 12:27 レストラン
例えば09:43 モスク前のあたりを拡大した航空写真がこれです。上の写真から撮影した場所が青いマークのの位置が特定出来ました。撮影時間は写真の記録から現地時間の9時43分(日本時間12時43分)であることがわかりました。
例えば10:34 タンク前のあたりの拡大写真はこれです。牧草あるいは穀物のタンクだと思いますが写真と同じように並んでいることで場所が特定出来ました。
この辺りは目立ったものがなく平原が続いていたのでいい目印になりました。
例えば12:16 カラガンダ市内-1のあたりを拡大すのと写真に写っていた建物が確認できます。試しに残りの6例の場所の特定にチャレンジしてみてください。結構苦労します。海外に行くときはGPS付のカメラがあると便利なことがわかりました。
カザフスタン鉄道 [カザフスタン]
カザフスタンの首都アスタナからカラガンダへの車での移動中の雪景色や民家の風景はすでに紹介いたしました。その道路はカザフスタン最大の町であるアルマトイ(Almaty アルマティー)にもつながっている幹線道路です。その幹線道路の横を鉄道も走っていました。3時間道路を走る間に2回ほど列車を見る機会があったので紹介いたします。道路から列車までの距離が結構あった上に振動のある高速で走る車の中からの撮影であったことから鮮明な写真ではありませんが2回とも写真に撮ることがが出来ました。
これは貨物列車です。写真はクリックすると拡大します。
2台の重量級の機関車が牽引していました。
上と同じ列車です。
カザフスタン鉄道は英語でKazakhstan Temir Zholy(KTZ)でカザフ語で Қазақстан Темир Жолы (ҚТЖ)です。そのKTZはカザフスタンの国有鉄道です。赤いラインが鉄道網です。KTZはヨーロッパや中国や東南アジアとつながった鉄道でカザフ内の3862kmの距離がヨーロッパと中国を結ぶ役目を果てしています。広い国土のために鉄道ライン延長の計画および建設が進んでします。現在のレール幅の基本は旧ソビエト連邦時代の1520mmの広軌ですが1435mmの標準軌もあります。ドルジバ駅(カザフ)~阿拉山口駅(中国)は広軌と標準軌とが単線並列で走っていることは有名なことのようです。1435mmの標準軌を敷設して他国と乗り入れができるようにしてスムーズに走れるようにする計画も進んでいます。
こちらが客車の写真です。上の貨物列車より、さらに線路が遠くでした。
ブルーの色が印象的でした。長距離を走ってきたのではないでしょうか。
色は違いますが貨物列車と同じ電気機関車2台で引いていました。機関車は旧ソ連時代のものが使われているようです。客車のブルーはカザフスタンが独立して国旗のブルーに塗装されたからだそうです。カザフスタンではスペイン製のタルゴが高速列車として走っています。中国との直通を便利にするために軌間可変車軸の車両も検討されています。
カザフスタンの24時間ドライブイン [カザフスタン]
カサフスタンの首都アスタナからカラガンダまで車で行った時に休憩した場所です。日本で言うドライブインです。滅多にありませんでしたが2時間近く走ってきたのでトイレ休憩を兼ねてドライブインの駐車場に入りました。
食事はカラガンダでするつもりなので建物の中には入りませんでした。写真のトラックの人は中で休憩しているようでした。
こちらが建物全体を撮った写真です。
看板には24の数字が大きく書かれていました。
このドライブインは24時間営業のようです。
トイレ休憩のつもりでしたが、トイレを見て昼食のレストランまで我慢することにいたしました。でも人なつっこいワンちゃんが出迎えてくれまし。
道路を撮った写真です。走っているときは晴れていることもありましたが休憩時は視界の悪い時でした。
雪も舞っていました。コートに落ちた雪はきれいな結晶を見せてくれました。
建物の近くから道路を撮った写真です。
ドライブインの周りスペースも広々としていました。
この3台のランドクルーザーで走りました。
休憩した場所は黄色のマークのところです。
民家のある風景 [カザフスタン]
車で移動した12月1日のアスタナ(Astan/Астана)からカラガンダ(Karagandy/Қарағанды)の間の雪景色を前記事で紹介いたしました。人家はほとんどない場所でした。それだけに民家を見かけると印象的でした。その雪の中の民家のある景色を紹介いたします。この一枚目の写真はクリックすると拡大いたします。
カザフスタンの民家は隙間のある板塀で仕切られているのが特徴でした。このようなところにも生活や家庭があることが伝わってきました。
晴れると雪の白と家のコントラストが素晴らしくきれいでした。
途中の小さな町には沢山の民家が道路沿いにありました。それも瞬間的なことでした。
民家にはなかなか出会えないので沢山撮らせてもらいました。
山のある景色にも出会えました。
カザフスタンは南の国境近くには天山山脈がありますがアスタナやカラガンダの近くで山に出会えるとは思ってもいませんでした。
代表的な民家の形です。 車で走ったルートはこちらです。→ポチッ
カザフスタンはクリスマスが2回 [カザフスタン]
関西に行っている間にクリスマスが過ぎてしまいました。もうすく正月で、とんでもなく遅くなりましたが、とりあえず Merry Christmas !
そこでカザフスタンのクリスマスツリーを紹介いたします。カザフスタンには11月29日から12月2日まで滞在いたしました。町のあらゆるところにクリスマスツリーが飾られていました。上の写真は首都アスタナの宿泊したホテルRixos President Hotel Astanaの中に飾られていたクリスマスツリーです。
こちらは世界最大のテントとして紹介したアスタナにあるショッピングモールの中に飾られていたクリスマスツリーです。高さ150mの大きな建物なのでクリスマスツリーが小さく見えますが、かなりの大きさのクリスマスツリーでした。
こちらはカラガンダにあったクリスマスツリーです。
車の中から建物を撮った写真の中にクリスマスツリーが写っていました。このようなクリスマスツリーが屋外でよく見かけました。この建物はKazakh Drama Theater(Театр Казахской драмы)です。
こちらもカラガンダです。ショッピングセンターと思われる建物の近くの広場に立てられていました。飾りつけはこれからのようでした。
12月1日だったので作りかけているものもありました。こちらもカラガンダです。すでにお気づきの通りカザフスタンのクリスマスツリーはきれいな円錐状ですが、その構造をこの写真で知ることが出来ました。こちらは消防自動車(はしご車)で作っていました。
アメリカなどでは生木が使われますがカザフスタンは木の少ない国なので人工的な円錐のツリーが使われているような気がしました。この写真をクリックすると拡大するのでツリーの構造がよくわかると思います。
アクトベで泊まったHOTEL DASTANの前でも偶然ですがクリスマスツリーが作られていました。こちらでは高所作業車が使われていました。
夜には完成してきれいな姿を見せてくれました。
アスタナのバイテレックからの景色の中にもクリスマスツリーがありました。大統領官邸の少し手前に円錐形のクリスマスツリーがあります。
アスタナで泊まったRixos President Hotel Astanaの部屋からの景色の中にもクリスマスツリーがありました。小さい写真はクリックすると拡大します。
カザフスタンの宗教の比率はイスラム教が47%、正教会が44%、プロテスタントが2%、その他7%とイスラム教が多いけれどもクリスマスも重要な行事のようです。
ちなみにカザフスタンのクリスマスは1月7日だそうです。ロシア正教の降誕祭がクリスマスに相当するようです。もちろん12月25日もクリスマスなので2回のクリスマスがあるような感じだそうです。したがってクリスマスツリーも1月7日までは飾られると聞きました。ネットで調べてみると「正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝う」と書かれていました。
ホテルの窓から見えた同じクリスマスツリーが写った昼間の動画です。
夜のクリスマスツリーが写った動画も紹介します。左端にかろうじて写っています。
アスタナ(赤)とカラガンダ(青)とアクトベ(緑)の場所を地図にマークを入れました。
アルマトイ(黄)はトランジトのためツリーの紹介はありませんがカザフスタン最大の町なので黄色のマークを入れました。
より大きな地図で 3都市 を表示
参考にクリスマスツリーに関するネットでの記載内容を紹介します。クリスマスツリーの用材には、常緑の針葉樹のおもに幼木が用いられる。アメリカでは、年間数千万本もの生木のツリーが流通しており、最も生産本数が多いオレゴン州だけでも700万本を超える。これら商業目的で生産されるツリーのほとんどは、規模が大きいため森林ではなく農地で生産されている(アメリカのツリー生産の統計は、農業センサスで集計されている)。この点で環境破壊と指摘されることは少ないが、クリスマス後に一度に大量に発生するツリーのゴミの方が環境問題視されることがある。このためニューヨーク州を始めとした都市部や住宅地では、2000年代以降、リユース(鉢植えで使用後に農場へ戻す)やマテリアルリサイクルを行う取り組みが見られる。
極寒の地に馬達がいました。 [カザフスタン]
12月1日の午前中にカザフスタンのアスタナからカラガンダまで車で216kmほど走りました。気温は-20℃近くまで下がっており家畜はほとんど見ることはありませんでしたが、上の馬たちを見つけました。これより以前にカザフスタンで馬を見たのはカザフスタンの最大の町であるアルマトイの近くのダムの観光用の馬だけでした。この寒さの中、で、このように放牧されたている馬を見ることが出来るとは思ってもいませんでした。
この地図の青いラインがアスタナのホテル(A)からカラガンダの昼食のためのレストラン(B)まで走ったルートです。この三台のトヨタ製LAND CRUISERで走りました。
カラガンダの英語とカザフ語とロシア語は次の通りです。
カザフ語 Қарағанды
ロシア語 Караганда
英語 Karagandy/Karaganda
羊やヤギも見ることが出来ました。ただし家畜を見ることが出来たのは馬も含めて2回だけでした。
カザフスタンでもWebチェックイン [カザフスタン]
11月29日はカザフスタンの国内線で首都アスタナからアクトベで移動しましたが、手荷物だけの移動なのでインターネットで搭乗手続きをいたしました。パスポート番号さえあればチェックインカウンターに行かなくても搭乗券を事前にプリントアウト出来るのです。プリントアウトした搭乗券が上の写真です。
これさえあれば安全検査を受けて直接搭乗口に行けるのでホテルにはぎりぎりまで滞在できました。
国内線ですが国際線なみのサービなのがカザフスタンの飛行機です。最初にオシボリと飲み物のサービスがあります。オレンジジュースを頼みました。
カザフスタンの国内線には今年の7月にカザフスタン最大の町アルマトイからアクトベ飛びました。その時は砂漠の中に真白の湖が点在していました。干上がった塩水湖と想定していました。是非ともその時の記事を見てください。→ポチッ
今回のフライトで極寒の中でも凍っていない湖が点在していたのです。おそらく非常に塩分濃度の濃い塩水湖なのだと思います。
右の写真が夏の塩の湖です。クリックすると拡大します。どうやら季節によりって塩水湖ににっなったり干上がった塩の湖になったりする前回の想定は正しかったようです。常温の水100gに対して塩は36gまで溶けたのが飽和状態です。干上がった状態と塩水湖の2種類の状態の中間の本当に濃い飽和状態の季節もあることがわかりました。
外の景色を楽しんでいると食事が出されました。
アクトベの町に近づきました。もうすぐ着陸です。1時間55分のフライトでした。
アクトベ空港です。
気体はA320でした。この町も寒かったです。
翌日はアクトベからアスタナへのフライトに乗りました。もともとは14時50分のフライトでしたが遅れて20時20分となりました。夜のフライトだったので残念ながら窓の外の景色は見ることが出来ませんでした。
来る時と全く同じサービスでした。
食事の内容も全く同じでした。
来る時のデザートは紹介していませんでしたが、デザートも同じでした。
ただしEMBRAER190という小さな機体の飛行機でした。製造メーカーであるエンブラエル(EMBRAER)は1969年にブラジルの国営航空機メーカーとして誕生した会社です。今はエアバス、ボーイング、ボンバルディアに次いで世界で第4位の航空機製造会社です。日本の川崎重工業も機体の製造に参加しているそうです。
カザフスタンでも水餃子 [カザフスタン]
カザフスタンの地方都市での昼食です。ロシア料理の定番であるボルシチともう一品を頼みました。
そのもう一品がシベリアの記事で紹介した水餃子ペリメニ(Pelmeni)でした。沢山の人が、この組み合わせで注文されていたので私も同じものにしました。
これがカザフスタンのペリメニ(Pelmeni)です。味も食感も水餃子ですがカザフスタンはイスラムの人が多いので豚肉は使われていないところがロシアやシベリアと違うところです。でもカザフスタンは中央アジアの料理だけでなくロシアの食文化が多く浸透していることを、今回の大衆的な料理で感じました。
実は別の町でもそのことを感じることが出来ました。
カザフスタンの雪景色 [カザフスタン]
12月1日にカザフスタンの首都アスタナ(Astan/Астана)からカラガンダ(Karagandy/Қарағанды)まで車で移動いたしました。天気は60%が曇り空で時々、小雪も舞っていました。10%が霧で景色がほとんど見えない状態の時もありましたが30%がきれいに晴れました。晴れた雪景色を紹介します。最近は写真の保管容量を節約するために写真をクリックすると拡大する機能は控えていますが、上の写真は拡大するように設定いたしました。
ここはマイナス20℃の世界なので降った雪は解けることもないのですが、乾燥した地域で雪が少ないため日本のように雪が深く積もることはないようです。枯草が見えていることからも、そのことがうかがえました。
道路の前方の景色です。幅の広い片側一車線の道路ですが、ここを3台のランドクルーザーで100km/h~140kmのスピードで走りました。ただし霧の時があったことと追い抜きは反対車線に入る必要があることとスピード違反の取締りが厳しいようなので結果的には目的地までの平均スピードは70km/hでした。アスタナのホテルを9時24分に出発してカラガンダのレストランに着いたのが12時27分でした。その走行距離は216kmでした。その間のトイレ休憩は11時10分から11時23分でした。
遠くに鉄道が走っていました。道路と鉄道ほぼ同じ方向に走っているために近くを列車が通ることもありました。
カザフスタンでは珍しく木の多い景色でした。どんなに太陽が照っても霧氷や樹氷が解けない景色は幻想的な世界でした。
なにもない世界を走り続けると工場のある景色も珍しく感じてしまいました。カラガンダの北にあたるこの辺りでは石炭が採れました。今は掘りつくされたそうですが、その名残りか大きな製鉄所がありました。
ここから約40km進むと目的地のカラガンダです。
走ったルートをGoogle地図で紹介いたします。
マークをクリックすると通過時間を表示いたします。