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青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年1月14日再掲載
タイトル:青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。
今は関西に来ていますが、私が住んでいる場所の近くにどんど焼き(左義長)が行われるところがあります。場所は千葉県佐倉市青菅で、ここでは「どんどれえ」と呼ばれています。今日は2024年1月14日で、毎年「どんどれえ」が行われる日であることから、過去記事を再掲載したいと思います。
青菅どんどれえは旗本川口氏が知行した江戸時代初期の頃に始まったと伝えられているそうです。2007年6月29日に佐倉市無形民俗文化財に指定されています。
今回の記事以外に「どんどれえ」を書いた記事を紹介します。
着色したタイトルをクリックすると記事を表示します。
 2012年01月15日 雪の中のどんど焼きになりそうです。青菅どんどれえ
 2013年01月15日 大雪の中の「青菅のどんどれえ」 2013年
 2014年01月15日 1月14日は青菅のどんどれえ 2014年
 2015年01月15日 2015年 青菅のどんどれえ 初めて餅を焼きました。
 2016年01月11日 2016年の「青菅のどんどれえ」は1月14日18時点火
 2017年01月21日 2017年の青菅の「どんどれえ」 子供たちが沢山参加・・・
 2017年01月10日 本記事 掲載
 2024年01月14日 閲覧数 4,205 nice! 132 CMT 36 再掲載直前
 2024年01月15日 閲覧数 4,439 nice! 165 CMT 54
 2024年01月16日 閲覧数 4,495 nice! 170 CMT 54
 2024年01月17日 閲覧数 4,552 nice! 173 CMT 56
 2024年01月18日 閲覧数 4,583 nice! 174 CMT 56
 2024年01月19日 閲覧数 4,654 nice! 180 CMT 56
 2024年01月20日 閲覧数 4,702 nice! 183 CMT 60

2017年1月10日掲載 
タイトル:青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。
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上の写真は2017年1月14日に行われる予定の「青菅どんどれえ」の以前に撮った写真です。これを立てる作業「竹立て」を2017年1月8日に見に行ったので報告させていただきます。その前に1月8日を特定するのに苦労がありました。
千葉県佐倉市青菅地区には江戸の初期から続く小正月の伝統行事があります。正月飾りを燃やす「どんど焼き」ですがここでは「青菅のどんどれえ」と呼ばれています。曜日に関係なく毎年1月14日18時から行われています。この「青菅のどんどれえ」は佐倉市の無形民俗文化財にも指定されています。この行事を知った2013年から3度見に行きましたが、その迫力に圧倒させられました。上の写真は2015年に「青菅どんどれえ」を見に行ったときに撮りました。今までに掲載した記事を紹介します。
 2013年1月14日 → ポチッ 大雪の中のどんどれえ    
 2014年1月14日 → ポチッ どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 → ポチッ 初めて餅を焼きました。
 2016年1月14日 → ポチッ 見に行けませんでした。
この「どんどれえ」を作ることを「竹立て」と言われていますが、この「竹立て」を見たいと思い何度も行きましたがすべて空振りで全て完成した後でした。クリックすると拡大そこでネット内のブログ内の記述で最近の「竹立て」が行われた日を調べてみました。その日が下記です。着色文字をクリックすると竹立ての写真が掲載された記事を表示します。
 2009年 : 1月11日  2010年 : 1月10日
 2011年 : 1月09日  2012年 : 1月08日
 2013年 : 1月06日  2014年 : 1月05日
 2015年 : 1月11日  2016年 : 1月10日
 2017年 : 1月08日予想
確認できている範囲では竹立てはすべて日曜日に行われていることから、2017年の竹立ての日としては1月8日の可能性が高いと予想して、行ってみることにいたしました。竹立ては8時に初めて11時に終わるようです。
 2017年の青菅どんどれえ:1月14日18時点火

竹立てが2017年1月8日である100%の確信がなかったので、念のため前日の1月7日(土曜)の10時に見に行きました。竹立てが行われるとしたら午前中と思うので、この時間帯に行われていないとしたら、予想した2017年1月8日(日曜)には間違いないと感じました。
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これが「竹立て」を行う前の「どんどれえ塚」です。
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これが昨年の「どうしんぼく」です。どんどれえ塚には9本の竹が立てられますが、その中心に立てる御神木がドウシンボクです。
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2017年1月8日8時33分に着くとすでに「竹立て」が始まっていました。やはり上で記載している通り8時に集合して始まったようです。下の写真は開始してから30分後ということになります。
来年以降の「竹立て」の予想日を記載します。14日の前日(13日)・前々日(12日)が日曜日の場合は、その前の日曜日に「竹立て」が行われるようです。どんどれえの前日・前々日に「竹立て」を行わないのは天候を考えておられるのかもしれません。
 どんどれえ:1月14日18時点火 曜日は無関係
 竹立て  :1月05日~1月11日の日曜日8時開始
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想像していた以上に沢山の人が分担して作業をされていました。どんどれえ塚のすぐ横にクレーン付きトラックが止められていました。
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皆さん忙しそうに仕事をされていました。
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どんどれえは太い9本の孟宗竹を立てて作ります。すでに6本の太い竹が置かれており7本目が運び込まれたところでした。
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これがいろんな場面で活躍するクレーン付きトラックです。クレーンの先端には作業用ゴンドラが取り付けています。このゴンドラは3つの大切な役目がありました。塚の上に積み上げる雑木も置かれていました。トラックには設楽造園(株)の文字が読み取れます。設楽造園(株)さんは、地元となる青菅地区の造園会社で、この「竹立て」に協力されているようです。
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トラックはしっかりと固定されていました。このような種類の作業に手馴れていると感じました。
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トラックを反対側からも撮りました。
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すでに9本の竹の内、8本の竹が並ばれてました。
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別の角度から見た主役の竹です。
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9本目の竹が竹林の方角から運ばれてきました。
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竹の櫓に詰める雑木が運ばれてきました。
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次から次へと雑木を積んだ軽トラが来ました。
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この時点で遠くから見た景色です。
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竹の枝を切る作業です。竹の頂部の枝だけを残して切っています。
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立てる竹の長さをそろえています。
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一本だけ長いのは中心に立てる「どうしんぼく」です。
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こちらは櫓の中に仕込む爆竹です。
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爆竹は沢山作っていました。
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1本目の竹立てが始まりました。この1本目は沢山のし野心で紹介します。
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人間の力だけで立てていました。
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少し上がってきました。
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もう少しで立ちます。
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ほぼ真っすぐになってきました。
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これで1本目の竹が立ちました。これは一番北東側に竹で中心の「どうしんぼく」ではありません。
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地面を固めています。
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2本目の竹が、どんどれえ塚に運ばれてきました。
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2本目の竹立てが始まりました。
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今回も人力だけで建てることが出来そうです。
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2本目が立ちました。
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3本目が立ちました
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地固めです。黄緑色のタオルを頭に巻いている人が持っているのは複式シャベルです。竹を埋めるための深い竪穴を掘る強力な武器のようです。
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4本目を立て始めました。
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少し上がったところで失敗です。竹がしなるので、綱の引っ張る力が竹を立てる方向に働かないのです。
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竹の方向を変えて私の立っている方向から起こそうとしましたが再度失敗しました。理由は同じでした。
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そこでトラックのクレーンでサポートすることにしたようです。ゴンドラの人が竹の中央当たりを引き上げる作戦です。カメラの位置は変えました。
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この方法で4本目が立ち上がり始めました。
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4本目が立ちました。成功です。
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地固めしていますが、すでに5本目の竹が運ばれてきました。
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遠くから撮りました。これから立てる5本目の竹も写っています。
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5本目の竹を同じ方法で立て始めました。
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5本目が立ちました。
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5本目の地固めを行っていますが、次の6本目が中心の竹である「どうしんぼく」です。
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爆竹作りも進んでいました。
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6本目の「竹立て」が始まりました。6本目は9本の中心に立つ「どうしんぼく」と呼ばれる竹です。
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ロープを引っ張っている様子を拡大いたしました。
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徐々に立ち上がってきました。
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6本目であるドウシンボクが立ちました。
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さすが「どうしんぼく」です。入念に地固めが行われていました。
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この「どうしんぼく」の竹立ては動画を紹介します。左手で撮っている一眼レフのシャッター音が聞こえると思います。


後は3本の竹立てを残すのみです。ここで休憩が入りました。30人以上来られていた青菅の方たちには飲み物が配られていました。全部で34~35名が来られていましたが、写真やビデを撮っているのは青菅地区以外の人のようで私を含めて3名でした。
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爆竹もすべて完成したようでした。
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こちらの2014年に撮った動画を見ていただくと爆竹が破裂する音を聞いてもらえます。


竹の先端に縄を結んでいるところです。竹を起こすためにも使いますが、主目的は竹が強風で倒れないようにするための縄です。したがって先端近くに結ぶので、起こす時に苦労したり失敗していたのだと思います。
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休憩の後に7本目の「竹立て」が始まりました。7本目はアニメーションGIFで紹介します。三脚があればきれいなアニメーションになったと思いますが、左手のコンデジカメラで動画を撮りながら、右手での一眼カメラを手持ちで撮っているので、角度が変わってしまいました。
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7本目の竹が立ちました。
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引き続き8本目の竹を立て始めました。
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8本目が立ちました。あと1本です。
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9本目の竹を立てている途中です。
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最後の9本目の竹が立ちました。
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最後の9本目の竹立ての動画も紹介します。


9本の竹が立った根本です。つまり「どんどれえ塚」の頂部です。⑨の竹の地固めをしています。
竹を立てた順番を①→②→③→④→⑤→⑥→⑦→⑧→⑨で示しました。中心の⑥の竹がドウシンボク(中心に立つ御神木)です。
 東面:①②③  北面:①④⑦  西面:⑦⑧⑨  南面:③⑤⑨
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竹の配置を図にいたしました。気になっているのが「どうしんぼく」の漢字です。ネットで探していますが見つかりません。どなたかご存知の方がおられたら教えてほしいです。候補例としては胴芯木、同心木、道神木などです。


竹を埋める9つの深い竪穴を掘るのは昔は大変な作業だったと思います。子供たちが鑿(のみ)を使って掘っていた時代もあったそうです。今はトラックの荷台の奥に写ってい複式ショベルが使われているようです。スコップだと大きな穴になって竹の周囲が柔らかくなるので細くて深い穴い竪穴にする必要があるのだと思います。
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9本の竹を縄で結んで固めます。
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周囲8本の竹の内側に雑木や爆竹を詰めて櫓を作るので、8本の竹が外に広がらないように中心の竹から引張る形で固めるのです。これは雑木などを詰め込みながら上の層でも同じように固めていきます。この綱のおかげで、高い位置でも四角い櫓の形が維持できているのだと思います。そして中央の柱(ドウジンボク)があるからこそ、高い位置でも四角い櫓の形が維持できている合理的な構造であることが判りました。驚くべき先人の知恵を感じました。
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縄で9本の竹を縄で縛る動画も紹介します。中層や上層での縄縛りも入れております。5層の内、1層と2層と3層と4層を収録しています。


竹の柱の囲い(櫓)の中に雑木を入れ始めました。この竹囲いの中に雑木や破裂して大きな音を出す竹をの高く積み上げるのが青菅どんどれえ(どんど焼き)の最大の特徴です。
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雑木の束をどんどん運んできます。最初の内は地上作業で楽ですが、高くなってくると大変な重労働になってきます。これから順番に紹介していきたいと思います。
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雑木が積み上げられました。人が上に乗っと雑木を圧縮した状態です。
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ここで2層目の縄がけをします。先ほど紹介した通り周囲の8本の竹が広がらないための目的ですが、それ以外にもう一つ大切の役目があるように感じました。それは雑木や竹を積み上げる時に、その上に乗った人を支える役目です。これが無いと高くなった時に沈んでしまって安定しないなど危険もあると感じました。この縄縛りは頻繁に行われていました。
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このように人が乗っても安定しています。
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高くなるとクレーンのアームを利用して雑木を持ち上げます。
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ここで爆竹のための竹も持ち上げて入れ始めました。
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クレーンのアームの先端に滑車をつけて素早く雑木を持ち上げています。そのロープは知事要の人間が直接上げ下げしているのです。これも素早く出来る賢い方法です。
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3層目の縄がけです。9本の竹があるので大変な作業ですが、大切な作業でもあります。
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縄がけが終ると、すぐに雑木のつみ上げです。
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左の白い服の人が雑木や竹を持ち上げるロープを操作している人です。
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離れた場所からの作業風景も紹介します。
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青菅どんどれえのもう一つの特徴が、この太い生竹を櫓の中に仕込むことです。これが炎で熱せられて迫力のある音を出して破裂するのです。本物の爆竹です。この爆竹を仕込むまでを連続で紹介します。
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爆竹を持ち上げているところです。
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上の人が爆竹を取り込もうとしています。
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櫓内に入れて並べているところです。
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その上に雑木を重ねていきます。
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だんだんと高所作業になってきました。
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4層目の縄がけに入りました。
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さらに縄の上に乗って積み上げていきます。
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雑木を吊り上げているところの遠くからの写真です。
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5層目の縄がけのための縄を下から上に降り投げたところです。上の人が受け取ろうとしています。
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上の写真では縄を受け取るところが判りにくいので拡大いたしました。
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5層目の縄がけをしているところです。丁寧に時間をかけてサギ用をしていましたが縄が無くなったようで、追加の縄を要求していました。
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青い服の人が縄を投げようとしています。
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縄を投げました。縄を空中にあります。ことあと上の人は無事に縄を受け取りました。
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その縄で5層目の縄がけ作業を続けているところです。
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丁寧に作業していて5層目の縄がけ終わると、すべての作業が終了でした。冗談で「もっと高く積まないのか」と言われていましたがしゅうりようでした。写真は上の2名が降りるところです。ここでクレーンのゴンドラが役に立ちまます。
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一人目がゴンドラに乗ったところです。
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クレーンのアームを短くしながら徐々に降りてきます。
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一人が地上に降りました。
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もう一人もゴンドラに乗りました。
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その最後の一人も地上に降りました。これが作業終了の合図です。皆さんがあとかたずけを始めました。
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クレーン付きトラックに荷物を積んでいます。
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他の軽トラックも移動して帰る準備に入りました。
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こちらは青菅地区の人が歩いて帰っていくところです。
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アッという間に無人になりました。これが完成した青菅の「どんどれえ塚」です。
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遠くから見た「青菅どんどれえ」です。2017年1月14日18時に着火します。
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北方向から見た「青菅どんどれえ」です。
青菅の「どんどれえ」に関わる動画検索 → Yahoo Google
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竹立て作業は動画にも撮りました。短い時間で見れるように4場面を同時に見れるようにいたしました。4画面のプレーボタン( )をすべてクリックして見てください。動画の中のカシャ・カシャという音は右手に持っているカメラのシャッター音です。つまり左手で動画をとりながら右手で写真を撮りました。単独で個別に見たい場合は着色タイトルをクリック願います。
     竹立ての準備 3分32秒          竹立て 7分55秒
.

   小枝や竹の詰め込み作業 6分44秒      竹立て終了 1分52秒
.

上の4つの動画を1本にしました。ただし20分の動画になるので、4画面を同時に見ることをお勧めしたのです。
それでも連続で見たい場合はこちらのプレーボタン( )をクリック願います。


私も家に帰ることにいたしました。振り返って見た「どんどれえ塚」です。
この時11時20分でした。
佐倉市青菅は人口311人(2014年2月28日)の地区です。古い歴史のある村で、記録に残っている範囲において江戸期から明治22年までは青菅村でした。現在の地名である千葉県佐倉市青菅になったのは1954年です。
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青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。
 どんどれえ塚         住所:千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  住所:千葉県佐倉市先崎233
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1.4km
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート  740m


驚いたことに「竹立て」が終って完成した「どんどれえ」がGoogleの航空写真に写っていたので掲載します。中央が「どんどれえ」です。周囲に引張っているロープも写っている上に、北側にはどんどれえ」のシルエットの影がうっています。竹立てで完成して数日で燃えてしまうのにGoogle航空写真に写っているのはすごいことです。更新されると無くなってしまうのでハードコピーを掲載しました。オリジナルの航空写真 → ポチッ
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オリジナルのGoogle航空写真も掲載いたします。埋め込み用のGoogle航空写真は別の時期の写真の場合のため上の竹立てが行われたばかりの「どんどれえ」は写っていませんでした。航空写真上のアイコンプラスを1回クリックすると上の写真と同程度の縮尺になります。
青菅の範囲を示した地図 → ポチッ-1 ポチッ-2


竹立てが行われた2017年1月8日の8時~11時は、午後から雨になるほどの暗い曇りの中での撮影だったので快晴となった2017年1月11日に完成した「どんどれえ」を撮りに行きました。上で紹介した竹の配置図の④と⑥と⑤が重なって1本になる位置(南方向)から撮ったのが下記の写真です。背景の家の位置とGoogle地図を照合した結果、④→⑥→⑤は正確に南から北のラインに乗っていました。つまり正確に真南から撮った写真になります。そのことから正方形の「竹囲い櫓」は正確に東西南北に作られていたことが判りました。
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本来は正月飾りは1月14日に外すのですが、せっかくなので外してどんどれえに置かしてもらいました。正月飾り以外に藁のヘビの小辻と松の枝も置かしてもらいました。上の写真をクリックすると置いた場所が判ると思います。さらに私以外にも沢山の方が正月飾りなどを置いておられることも分かると思います。
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2017年1月14日の天気は1月11日の時点では曇時々晴の降水確率20%でしたが、1月13日予報ではいい天気になりそうです。


とりあえず2015年1月14日に撮った「どんどれえ」の動画を掲載いたします。2017年1月14日に動画が撮れたら差し替えたいと思います。


このような小正月に行われる火祭りの行事は左義長(さぎちょう)と言われていて佐倉市青菅では「どんどれえ」呼びますが一番多い呼び方は「どんど焼き」だと思いが下記のように沢山の呼び方があります。(Wikipediaから引用)
佐倉市青菅で「どんどれえ」と呼ばれている云われは、燃える中で竹が破裂する「どん」という音と「払い」が訛って「どんどれえ」と呼ばれるようになったそうです。
写真は2014年1月14日に撮った千葉県佐倉市青菅の「どんどれえ」です。
 どんど焼き    山梨県の一部地方、愛知県の一部地方、群馬県、
          愛媛県南予地方、全国的一般的な呼び方
 とんど焼き    近畿とその周辺、東京都
 とうどうさん   愛媛県東予地方
 とんど      奈良県、広島県、岡山県
 とんど正月    兵庫県播磨地方
 とんどさん    鳥取県
 どんどん焼き   山梨県の一部地方
 どんと
 どんと祭     宮城県およびその近辺
 どんどや     九州
 ほっけんぎょう  九州
 やははいろ    東北
 左義長      滋賀県近江八幡市、岐阜県海津市今尾、全国各地
 歳の神      福島県会津地方、新潟
 三九郎      長野県松本地方
 あわんとり    千葉県南部・茨城県南部
 さぎっちょ    富山県、石川県、福井県、岐阜県、高知県、福岡県
 しんめいさん   広島県東広島市安芸津町
 墨塗り      新潟県十日町市松之山町
 おんづろこんづろ 富山県黒部市宇奈月町下立
 かんがり     長野県南佐久郡川上村
 墨付けとんど   島根県松江市美保関町片江地区
 かあがり     長野県南佐久郡小海町、南佐久郡南相木村、北相木村
 かんじょ     新潟県村上市岩船
 さいと焼き    神奈川県横須賀市鴨居八幡
 五十猛のグロ   島根県大田市五十猛町大浦地区
 塞の神      富山県下新川郡入善町上野邑町地区
 さえのかみさん  神奈川県中郡大磯町
 どんどれえ    千葉県佐倉市青菅
 お焚き上げ
 おんべ焼き
 御柴灯
 道祖神祭り
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どんどれえが行われる1月14日の意味を検索するとずばりどんど焼きを行う日と出てきました。写真は2013年1月14日の大雪・強風の日に撮った千葉県佐倉市青菅の「どんどれえ」です。
 1月14日の年中行事
  左義長・どんと祭 どんど焼きを行う日
  十四日年越し   小正月(1月15日)の前日にあたる
  飾納・松納    正月飾りや門松を取り外す日
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2017年1月14日追記 
タイトル:青菅の「どんどれえ」の点火は今日の18時
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クリックすると拡大今日2017年1月14日の18時に点火されます。ニュースで報道されているように最強寒波に見舞われ今日の夕刻から日本各地で大雪が予想されています。幸いにも千葉県佐倉市青菅のどんど焼きである「とんどれえ」が行われる佐倉市の18時~20時の天気の予報は最強寒波の影響は少なく「晴れ」との予報です。今日は「どんどれえ」を見に行くつもりなので、天気予報通りであってほしいです。ただし気温はこの時間帯にしては寒く1℃から-1℃なので、どんどれえ始まるまでの防寒対策は考えた方がよさそうです。始まってしまえば暖かいです。

気象庁の1月14日4時48分の「大雪と暴風雪及び高波に関する全般気象情報 第10号」の発表内容の一部を枠内に掲載いたします。
東日本の上空約5000mには氷点下36度以下の数年に一度の強い寒気が流れ込んでおり、日本付近は強い冬型の気圧配置となっています。あす15日にかけて、北日本や北陸地方の上空にはさらに強い寒気が流れ込み、西日本の上空にも強い寒気が流れ込むため、冬型の気圧配置はさらに強まる見込みです。


どんどれえ本番を追加しました。次に掲載した本番の記事から抜粋→ポチッ
「どんどれえ」の点火は1月14日の18時に行われるため17時43分に「どんどれえ広場」に到着いたしました。すでに周囲はカメラのセンサーが反応しないほど真暗闇でした。右の写真は露出調整したものです。1月14日は小正月(こしょうがつ)の前日で、日本各地では下記の年中行事が行われます。
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  左義長・どんと祭 どんど焼きを行う日
  十四日年越し   小正月(1月15日)の前日にあたる
  飾納・松納    正月飾りや門松を取り外す日
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今回は土曜日だったこともあり車が近くの道路には沢山駐車していました。近くの小学校の近くの駐車場にも車が停められていました。私が見学に来はじめてから一番多い気がしました。今まで土曜日と日曜日は無かったのです。ただし2018年は日曜日で、2019年は成人の日(祝日)です。
 2013年1月14日 月曜日 大雪の中のどんどれえ
 2014年1月14日 火曜日 どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 水曜日 初めて餅を焼きました。
 2016年1月14日 木曜日 見に行けませんでした。
 2017年1月14日 土曜日 子供たちが沢山参加していました。 
 2018年1月14日 日曜日 来年の「どんどれえ」
 2019年:月曜日  2020年:火曜日  2021年:木曜日  2022年:金曜日
 2023年:土曜日  2024年:日曜日  2025年:火曜日  2026年:水曜日
 2027年:木曜日  2028年:金曜日  2029年:日曜日  2030年:月曜日


耐火服を着た人や消防団の消防車も横に控えていました。
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すでに正月飾りなどが置かれていました。
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こちらで1人に1個、お餅が配られました。餅焼き用の竹も用意されていました。
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18時になると点火です。
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小学生と大人の2名が、たいまつ(松明)で点火しました。
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すぐに火が大きくなりました。
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この時は皆さんは比較的近くで見ていますが火が大きくなってくると熱いので遠くにはなります。餅を先端に付けた竹を皆さんもっています。
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反対側にも点火いたしました。
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火が大きくなるにつれて見学の輪が広がっていきます。
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火が積み上げられた雑木の上の部分まで上がりました。
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見学のわが広がっ来たのが判ってもらえると思います。
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少し離れて撮りました。火の粉が高く上がっているのが判ってもらえると思います。
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動画でも紹介します。点火すると一気に火が大きくなりました。 最後のころは仕込んだ竹が爆発する音も聞くことが出来ます。


見学の人の数も私の経験の中で一番多かったです。
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遠くからの動画を紹介します。竹の割れるが続きます。


クリックすると拡大ここで竹が倒れました。
中央の竹の「ドウシンボク」の倒れた方角で一年の豊凶を占います。青菅側(南側)に倒れると青菅が豊作、先崎側(北側) に倒れると先崎が豊作と言われています。今回は南側に倒れたので今年は青菅が豊作です。暗くて分かりにくいけれども左下に葉のついた竹が倒れています。倒れる前に、竹の先端の葉の部分に火が移ると右の写真(2015年1月14日撮影)のように炎が高く上がります。今回は火が先端に移る前に倒れてしまったために右のような写真は撮れませんでしたが、それでもすごい迫力でした。
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炎はさらに大きくなりました。
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下の部分も燃え上がっています。
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完全に炎に包まれるときもありました。
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9本の竹が倒れた直後からの動画です。


竹が倒れてしばらくすると餅を焼く人が、餅を先端に刺した長い竹や木で餅を焼き始めますが、かなり輻射熱が強烈なので、まだ大人の男性の一部だけです。すごく長い竹が用意されていた理由が判りました。
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私も焼いてみました。手前から炎に向かって竹が延びているのが判ると思います。これが私の竹です。焼けたと思ったらすぐに離れました。
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焼けた私のお餅です。餅は先端の方が燃えました。どうやら前からの輻射熱が強烈なようで来年からは餅の刺す方向を変えてみます。竹は他の人に渡して撮影に専念いたしました。
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フラッシュを使うと餅がよく見えます。こちらの刺し方の方が片面ですが、餅全体が焼けそうです。
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フラッシュなしです。
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かなり熱いので焼けたらすぐに後ろに下がります。
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動画でも餅焼を紹介します。中盤から餅焼きが始まります。


まだまだ火は強いです。
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ワンちゃんも見に来ていました。
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少し離れててみました。
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さらに離れた景観です沢山の人が見学に来られているのが判ってもらえると思います。
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さらに遠くからの景色です。
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土曜日だったこともあり沢山の子供たちが来ていました。子供たちが近づけるほどの日の勢いになって来たようです。ここから子供たちを中心にほほえましい「どんどれえ」を紹介したいと思います。
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こちにも家族で餅焼きです。
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火が弱くなってきたと言えどもまだまだ火の勢いはありました。
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クリックすると拡大どんどれえの火で焼いたお餅を食べると一年間風邪をひかないそうです。こちらの女性も2人の娘さんのお母さんで、この後、右の写真のように3人で一緒に餅を焼いていました。右の写真は小さいけれどもクリックすると大きく拡大します。
実はこのお餅の焼き方は正式なやり方なのです。
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二股に分かれた栗の枝の先にお餅を刺して焼くのが正式のやり方だそうです。
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この時の炎の具合です。
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兄弟での餅焼きの記念写真もいい思い出になると思います。


驚くほど沢山の子供たちが見に来ていました。
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子供4人でお餅を焼いています。思い出になると思います。
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動画でも紹介します。今までに見に来た中で子供たちが一番多かったです。動画はインタビューの光景から始まります。


インタビューの光景です。取材をしているのは地元のテレビ局のケーブルネット296で、近いうちにこの「どんどれえ」が放送されると思います。
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こちらの子が、たいまつ(松明)で「どんどれえ」に点火しました。
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火が少し収まってきました。門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」を持ち帰り、門口にさすと、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。
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弱まったと言えどもまだ火の勢いはありました。
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ほとんどの見学の人は帰られて、残っている人は僅かです。
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私が離れる時の火の状態です。見学の人はいなくなって、火が燃え尽きるまで見守の人だけが残っていました。
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家に帰ってさっそくお餅をいただきました。元々が柔らかいので、そのまま美味しくいただきました。偶然ですが、配られるお餅は私の知り合いの方が当日についたものです。その方にどんどれえ塚の前で会ってもう一ついただきました。そちらは家で焼餅にして醤油と海苔をつけて食べました。やっぱりつきたて美味しかったです。
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青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。近くの道に車を停めることは可能ですが、土曜日曜など混むときは下記の地図の駐車可能場所( )と記載した場所(広い空地)に車を停めることをお薦めします。
駐車可能場所( )からどんどれえ塚( )までは420mです。
 どんどれえ塚         千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  千葉県佐倉市先崎233
 駐車可能場所         千葉県佐倉市宮ノ台1丁目18-2
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1400m
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート   740m


最後に高い火柱の迫力の大きな写真(2015年1月14日)を紹介させていただきます。クリックすると拡大今回は風が強かったことから右の写真のように竹の先端に火が移る前に下が燃えて倒れたので下の写真ほどの火柱にはなりませんでしたが、それでも十分に迫力がありました。写真をクリックするとさらに大きな迫力の写真を表示します。
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下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。 ぼんてん塚 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2019年8月24日追記
タイトル:下高野の奥州講が八千代よみうりに掲載されました。 
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2019年8月24日に発行された「八千代よみうり」に八千代市下高野地区で奥州講に参った人たちによって行われている梵天飾りの行事(風習)が掲載されました。その古くから続いている行事にいつも参加されている方から記事を送っていただいたので、クリックすると拡大以前に書いた記事に追加させていただきました。私が2012年からほぼ毎年参加させていただいている年初めの右の写真の辻切り(藁の大蛇)作りに参加させていただいているメンバーの方も何人か写真に写っております。
クリックすると拡大1度だけですが、2012年に、その奥州講の行事を体験させてただいて記事を掲載させていただきました。その記事に「八千代よみうり」の記事"五穀豊穣祈る「奥州講」梵天飾り 立てて参拝"を追加させていただきました。2019年7月に八千代よみうりの担当の方が取材に来られてたそうです。八千代よみうりは読売新聞をとられている方に折り込みで入ってくるそうです。
今回の新聞記事で200年間続いてきた行事であることを知りました。確かに、右の写真のように江戸時代(1603年~1868年)中期の寛政六甲寅年(1794年)と書かれた最も古い奥州参り記念石碑が建てられてから、225年が経過していることが分かりました。この地区の庚申塔で最も古いものは享保十二年(1727年)で、古さは3番目の寛政二年(1790年)の庚申塔に相当します。

八千代よみうりの記事の内容を枠内に転記いたします。記事内の「三山拝司」の内容は2012年に拝辞として記載させていただいています。
五穀豊穣祈る「奥州講」 "梵天飾り"立てて参拝
下高野地区に200年続く風習
クリックすると拡大古くからの農村の風習を守り続けている下高野地区(立山利明区長)で、奥州参りに行った人々が、"梵天(ぼんてん)飾り"を三山塚に立てて参拝する「奥州講」が7月21日に行われ、参加者が太陽の恵みに感謝し五穀豊穣わ祈った。
奥州参りは山形県にある月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山を巡拝するもので、江戸時代に全国に広まり、八千代でも北西部を除く多くの集落で農家の長男たちが講をつくり出かけた。帰ると地元の三山塚に記念碑を建て、毎年7月下旬に参拝。同地区でも最も古い記念碑には寛政6(1794)年と記されている。
梵天飾りは、篠竹の先に稲藁の小さな俵を刺し、5色の色紙や白の半紙の飾りをつけたもので、地域によって切り方や折り方が異なる。これを6本むつくり、三山塚に刺してタコ糸つなぎ一同が三山拝司を唱える。下高野では2月14日の「ボンテンハキ(梵天祭り)」でも梵天飾りを作るほか、講のメンバーが亡くなり、その家から要望があると講の仲間が梵天を作り、その家の仏壇が見える場所に立てて三山拝司を唱え、その後、墓地に行って梵天を立て、再び三山拝司を唱える風習が現在もあるとという。
この日は朝から地区の公会堂にメンバー7人が集まり、分担作業で立石区長が茂り出してきた篠竹を削ったり、慣れた手つきで色紙を折ったりして梵天飾りを製作。トラックで三山塚に運び、塚の落ち葉を掃き清め、飾りを地面に刺して神妙な面持ちで三山拝司を三唱。クリックすると拡大公会堂に戻ると直会で親睦を深めた。
メンバーの一人で地域の民族風習に詳しい小澤一雄さんは「奥州講で梵天を飾るのは、神仏習合により仏教の梵天祭りと出羽三山信仰がひとつになったのではないか」と話している。


2012年7月22日掲載 
タイトル:下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。
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千葉県八千代市には奥州溝(出羽三山溝)と呼ばれる風習が残っています。
この辺りでは江戸時代に始まった風習です。集落の50歳前後になった長男が十数年に1度の割合で奥州参りを行い集落に戻ってきて記念碑を建てます。その記念日に奥州参りに行った人たちだけで毎年二月と七月に梵天(ぼんでん)飾りを行う風習で、八千代市の下高野では今でも、この風習が続いているのです。右の写真は奥州参りをする時のスタイルです。
上の写真が新しく作ったボンデン(梵天)です。白い梵天が一本とカラフルな梵天が五本で構成されています。私は下高野に住んでいないし奥州参りに行ったことはないけれども、下高野で続いている風習・辻切りに参加させてもらった縁で、今回の奥州溝の年行事に誘ってもらえました。
二月は14日(梵天ハギ/ぼんでんはぎ) と決まっており七月は20日前後の日曜日と決められており、今回は7月22日でした。9時にうかがって梵天を作るところから参加させてもらいました。行事のことをボンデン飾りと呼ぶとこもあるようです。写真をクリックすると大きく拡大いたします。

梵天を作るところから紹介いたします。
先ず準備するものは竹と藁に半紙にタコ糸です。


先端の飾りのために色紙も準備されていました。普通の色紙は片面だけに色がついていますが、両面ともに鮮やかなものを準備する必要がありますが、これは簡単には手に入らないとのことです。これは葬儀屋さんから手に入れられたと教えてもらいました。この辺りの葬儀の風習で、この色紙を使うことがあるそうです。
準備する色紙は黄色、青色、緑色、赤色に紫色です。真白の半紙も準備します。


色紙をカットする型板が2種類です。それにカッターのための台です。
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色紙は4分の1にカットします。先端に取り付ける白い紙は半分にカットして二つ折りにします。


色紙は溝にそってカットします。


カットしたものを、このようにおります。


私も入れて5人で色紙を折りました。


先端に取り付ける白の飾りも専用のプラスチックの型板でカットします。昔は段ボールを使っていたそうですがプラスチックにしてからは作業が、はかどるようになったそうです。


先端の飾りは対象に折っていきます。


先端の飾りは大きいものが一つに対して三角形の飾りが三つです。この三角形の飾りは出羽三山を表現しているそうです。出羽三山とは月山(がっさん)と羽黒山(はぐろさん)と湯殿山(ゆどのさん)のことです。奥州参りの時はこの三山登山も含まれています。


竹の両側は突き刺さるように鋭くカットします。


こちらは先端に取り付ける飾り用の台座を作るメンバーです。


ワラを束ねて台座を作ります。


台座が完成しました。胴に巻かれた2本のタコ糸に色紙を挟みます。


台座に色紙を取り付けているところです。


色紙をつけた台座を竹の先端に突き刺すと梵天の完成です。こちらもクリックすると大きく拡大いたします。
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これが完成した6本です。
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完成した梵天を軽トラックに積んでボンデン塚(梵天塚)に持って行きます。その時に奥州参りを行った人が全員一緒に行きます。


こちらがボンデン塚(梵天塚)です。建てられている碑は奥州参りに行った参拝記念碑(三山碑)で参加した人の名前と年月日が刻まれています。
一番古い三山塚(右の写真)は中心に立っている大きな木の右脇にありました。
寛政六申寅年と書かれていることから1794年ということになり今から218年前の参拝記念碑ということになります。
一番新しい三山塚のは右手前の大きい碑です。奥州参りが最も最近行われたのが昭和59年(1985年)なので27年前ということになります。この碑には今回の参加者の名前が刻まれていました。並んでいる三山碑の参拝日か下記のとおりです。
  寛政 6年       1794年
  文久 3年 3月吉日   1863年
  大正 7年 7月20日  1926年
  昭和15年 7月21日  1940年
  昭和28年 7月25日  1953年
  昭和34年 7月13日  1959年
  昭和44年 7月26日  1969年
  昭和51年 7月14日  1976年
  昭和59年 7月15日  1984年
この参拝記念碑を建てる行事をイシタテ(石建て)と言われています。立っている古いボンデン(飾り)は半年前(2012年2月14日)のものです。先ずは皆でボンデン塚の周りを掃除をしました。


梵天塚(三山塚)の参拝記念の石碑です。クリックすると一番右手前の昭和59年の石碑を拡大いたします。石碑には16名の名前が刻まれています。
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古い梵天(ボンデン)を抜いて新しいものに交換します。色紙の梵天を真中にしてそれを色紙の梵天4本で四角く囲みます。白い梵天は少し離れて北西方向に建てます。ボンデン塚の大きな木は「すだじい」で、クリックすると記念石碑を表示昭和51年2月24日に八千代市の保存樹木に指定されている木です。
右の写真は1985年(昭和59年)の記念碑を建てた時の記念写真と奥州講に行った時の写真をスライドショーで表示しています。つまり今回の参加者の方々の写真です。右の写真をクリックすると記念碑を表示します。ぼんてん塚は不思議な世界でした。
クリックすると記念石碑を表示

梵天を全て交換したところでタコ糸で6本の梵天をつなぎます。先ずは真中の梵天にタコ糸を結び、次に北西の方向の梵天に巻きつけ時計回りに四本の梵天をつなぎ最後に白い梵天にタコ糸を回します。プレーボタンをクリックすると動画が見れます。


これで完成です。こちらの写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。完成したところで次の手順で拝辞(おがむことば)を全員で奏(そう)します。拝辞は下高野の奥州講のことを書いた2019年の「八千代よみうり」の中の「三山拝司」にあたります。
 ① 一拝、二拍手、二拝
 ② 拝辞(三山拝司)を奏す。
 ③ 一拝、二拍手、二拝
拝辞は次の通りです。月山と羽黒山と湯殿山のことを言っているようです。
 あやにあやにくしくたふと月のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと羽黒のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと湯殿のみ山の上の御前を拝みまつる
               御前 : みまえ   拝 : おろが
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クリックすると拡大別の角度の写真も掲載します。この写真は一番手前のボンデン飾りにピントを合わせております。こちらも写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。6本の梵天飾りの配置を図式化したのが右の図です。上方向が北でボンデン塚があります。白のボンデンは北西方向に配置します。
クリックすると拡大平成20年の八千代地郷土博物館の資料によると出羽三山参拝記念碑(三山碑)が建てられている場所は34ケ所で合計で193基の三山碑があるそうです。ただし梵天飾りが行われているのは珍しいようです。右の写真は隣の上高野地区の梵天飾りですが、1本1本の飾りも違うし、配置も右下の図のように全く違っていました。クリックすると拡大1985年の奥州講は下高野と上高野が合同で参っている関係でありながら梵天飾りが全く違うのは不思議です。
下高野のボンデン塚には9基の三山碑がありますが、2012年に奥州参りが行われたとのことなので近いうちに10基になるのでしょうね。
クリックすると拡大

クリックすると拡大一週間後(2012年7月29日)の下高野のボンデン(梵天飾り)の先端の状況です。作った時に比べると少しシナッとしてきましたが雨が降っていないこともあり、まだ鮮やか姿を見せてくれていました。
右の写真が隣の地区の上高野のボンデン(梵天飾り)の先端です。赤色の梵天飾りのみ下にずれて竿の途中になってしまっています。右の写真はクリックすると大きく拡大いたします。


サンダーソニアさんのコメントで梵天飾りが、注連縄の紙垂(しで)に似ているとのコメントを頂いたので下高野の菅原神社の注連縄の写真を掲載させていただきました。下高野に注連縄作りの名人がおられます。紙垂の形も色々あるようで使い分けておられるようです。


八千代市下高野が緑色マークで、赤色マークが出羽三山の位置です。下高野から羽黒山までの直線距離は329km(━━)で、徒歩だと450km以上にもなります。実際には月山や湯殿山にも参り、沢山の宿がある場所にも行くので往復では寄り道なしでも1000kmを超えると思われます。そのため徒歩で行く江戸時代は現在のような直線的な車道もないことからさらに沢山の距離を歩いたのだと思います。ある文献によれば約2ケ月間の日程だったそうです。
 八千代市下高野 出羽三山(羽黒山月山湯殿山) 出羽三山神社

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より大きな地図で 出羽三山 を表示  より大きな地図で 徒歩ルート を表示

下高野の辻切り 2019年 大蛇作りに参加させていただきました。 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県八千代市の下高野地区では以前にも紹介した通り、疫病や災いが地区に入ってくる防ぐ願いを込めて、他地区との境界に藁の大蛇を飾り風習があります。私は下高野地区の人間ではないけれでも、大蛇作りと大蛇を飾る行事に2012年から参加させていただいており、今年も2019年2月3日に参加させていただきました。今回が6回目の参加となります。初参加のきっかけは、2010年に掲載した下高野の辻切りの記事が下高野の方の目にとまり連絡を取り合う中で行事に誘われたことでした。2010年1月の記事に下高野の方から最初にコメントを頂いたのは2011年10月4日13時06分でした。
辻切り行事は毎年1月25日に決まっている地域もありますが、下高野地区では1月25日から節分までの間の都合の良い日に行われています。上の写真は6体の藁の大蛇の中の1体です。右の写真は2010年の記事の写真です。着色文字をクリックするとその時の記事を表示しまクリックすると拡大す。
 対象年 行事が行われた日
 2010年 1月24日(日) 大蛇発見
 2011年 不明
 2012年 1月29日(日) 初参加 
 2013年 1月27日(日) 海外のため不参加
クリックすると拡大 2014年 2月02日(日) 参加
 2015年 2月02日(月) 参加
 2016年 1月31日(日) 参加
 2017年 1月29日(日) 参加
 2018年 2月03日(土) 関西のため不参加
 2019年 2月03日(日) 参加 ←今回

下高野地区を紹介します。赤色ラインで囲ったところ()が千葉県八千代市下高野です。藁の大蛇を作った場所は6つの赤色マークの大蛇を設置する中の「1」のすぐ傍、戦国時代に下高野館(下高野城)があった麓です。マイナスのアイコンを5回クリックすると東京からの位置方向が判ると思います。
 下高野の辻切り(蛇)  上高野の辻切り(蛇)  井野の辻切り(蛇)
 小竹の辻切り(注連縄)


こちらのビニールハウスが藁で大蛇を作る作業場所です。
クリックすると拡大クリックすると拡大写真の右上が小高い山になっていて戦国時代に下高野館(城)があったところです。集合時間は9時だったので8時53分に作業場所に着きました。左の2枚の地図は左側が八千代市で右側が同じ縮尺の下高野のエリアを示した地図です。
八千代市全体の0.1%以下の人口のエリアに八千代市全体の約10%の石造物があるエリアでもあります。
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クリックすると拡大作業場所のビニールハウスの中を覗くと、すでに大蛇作りに使われる藁が置かれていて、いつでも作業できるようになっていました。使われる藁は「藁すき」を済ませたもののようでした。右の「藁すき」の写真は2017年の写真は辻切りの時に撮ったものです。
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藁は2種類が用意されていました。コシヒカリの藁と、藁細工のためのミトラズ(古代米)の藁です。実を収穫しないのでミトラズと呼ばれているそうです。ミトラズは注連縄(しめなわ)を作る藁でもあります。
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そのミトラズの種もみです。つまりミトラズは実が出来ないのではなく、実をとらないで刈り取ってしまうようです。
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最初に蛇の頭を作り始めます。
今回は「千葉日報」さんと「八千代よみうり」さんの2つの新聞社の方が取材に来られていました。最後に、掲載された記事を紹介したいと思います。
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完成した蛇の頭です。
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蛇の頭が完成すると次は胴体作りです。
藁の大蛇の作り方は今までに何度も詳しく紹介したので省略いたしますが、今回初めて新しい蛇の作り方を採用したそうです。蛇の胴体には藁を沢山使うので表面の部分はミトラズで中はコシヒカリを入れるのですが、昨年までは胴の部分を編みながら内側にコシヒカリを入れて外側にミトラズを巻きながら作っていましたが、その部分で新しい作り方を採用したそうです。
胴を作る前にコシヒカリだけを束ねて2mの棒状のものを作るのです。写真は注連縄作りの名人がコシヒカリを束ねているところです。蛇全体は3mを越えるので尻尾の先の方はミトラズの藁だけということになります。


今までの記事で藁の大蛇を作るところの動画を紹介しましたが、コシヒカリの藁で芯を作るのは初めてなので記録の意味もあり動画を撮りました。1体の大蛇を作るのに、このコシヒカリの藁の芯が3本必要です。6体だと18本になります。芯の太さは同じにするそうです。動画の中でもそのことを後輩に伝授されていました。胴を編むときの胴体の太さは古代米のミトラズの藁の量で調整するのだと思います。


束ねたコシヒカリの周囲にミトラズを巻きながら胴体を編んでいくのです。昨年までは胴体の一部が太くなることがありましたが、新方式はきれいに出来上がることから採用したそうです。この方式は太い注連縄を作るときに行っていた方法とのことでした。この方法は2018年12月1日~2日のに行われた八千代市の「ふるさとの歴史展」の展示物として作った大蛇にも採用し、その経験を活かして本番の辻切りで初めて採用することになったそうです。


こちらが「ふるさとの歴史展」で展示されていた大蛇です。
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さらに胴体をきれいにするために表面をなめします。まさに注連縄のような表面になります。近隣の他の地域の大蛇では採用していないため、きれいな差別化された大蛇と言うことになります。
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作業場を離れて撮りました。軽トラックの荷台が作業台として使っているのです。写真に写っているビニールハウスが蛇を作った作業場です。
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ここまで作業が終わったところでティータイムです。恒例の鏡餅を割って作ったあられも出てきました。これはいつも大人気でした。
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次の作業は藁の蛇の飾りつけです。最初に目と舌を取りつけて、その後にヒイラギとスギの小枝と塞神のお札と幣束(ごへい)を取りつけます。写真は唐辛子の目と舌を取りつけるための針金を取りつけているところです。
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こちらはヒイラギとスギの小枝と塞神のお札と幣束(ごへい)を取りつけているところです。順番は決まりがあり、頭の方から次のように取り付けていきます。塞神のお札と幣束(ごへい)は神社でもらうそうです。お札には塞神(さいのかみ)と「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神様が書かれていました。
クリックすると拡大 ① ヒイラギの小枝
 ② 塞神のお札
 ③ 杉の小枝
 ④ ヒイラギの小枝
 ⑤ 幣束(ごへい)
 ⑥ 杉の小枝
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クリックすると拡大完成し右の記念写真を撮ったら昼食の予定でしたが、時間の関係で昼食前に①の大蛇(大辻)のみ取り付けました。初めて大辻という言葉を使いましたが、大辻は地域の境界に取り付ける大蛇のことです。大辻に対して小辻がありますが、小辻は個人宅の入口に取り付ける小型の藁の蛇のことなのです。私も大辻作りを手伝うと同時に、自宅用の小辻も作りました。6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①を取り付けた後に昼食にして②~⑥の順番に軽トラックに乗って、みんなで取り付けにいきました。境界となる地域は次の通りです。その地域の方向にヘビの頭を向けて取り付けます。頭の方向に矢印()を書き込みました。
  ① 青菅/井野  ② 上高野 ③ 米本  ④ 保品  ⑤ 先崎  ⑥ 青菅
クリックするとGoogle地図

青菅/井野との境
これは1年前に取り付けた大蛇です。これを取り外して新しいものを取りつけます。
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古い大辻を取り外しているところです。6体の大辻(大蛇)の中で最も車が沢山通る場所の大辻です。私が初めて2009年に下高野の藁の大蛇に気が付いたのもこの場所でした。
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新しい大辻を取りつけているところです。
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取付終わった大辻です。今年も迫力の大辻になりました。
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1体を取り付けたので残りは5体の大辻です。
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一旦、昼食にするので持参のお弁当を広げました。12時55分~13時40分までいろんな話題に盛りあがりました。
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上高野との境
こちらは鏡餅のあられも持ってきた方の担当の大辻です。6つの大辻にはそれぞれ担当の家があります。境に一番近い家が担当するので担当の家は決まっているのです。その家の方が大辻作りに参加されるのです。
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米本との境
6人の方で新しい方が覚えるために6体の取付(ヒモで結ぶ)を行います。ヒモの結び方が独特で1回ではなかなか覚えられないので6体とも担当するようです。今年は、この大辻の担当の家の方が最後までヒモを結んでおられました。
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保品との境
こちらの大辻も迫力の顔をしています。
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先崎との境
こちらは、私が一番お世話になっている方の担当の大辻です。写真は古い大辻でこれを取り外して新しい大辻を取りつけます。
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取りつけている途中の新しい大辻です。周囲の枝を切って、少しでも迫力の大辻が見えるようにします。
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最後の1体が荷台に乗っています。最後は青菅との境の大辻です。
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青菅との境
こちらでも、少しでも目立つように取り付ける工夫をします。
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これで6体全ての大辻の取付完了です。
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写真の左端に取り付けが完了した大辻が写っています。
取付完了と同時に佐倉市コミュニティバスが通ったので驚きました。私が知っているコミュニティバスは、ここを通らなかったのです。最近ルートが追加されて通るようになったことを教えてもらいました。クリックすると拡大確かにこの辺りはバスなどの交通機関がないので便利になったと思います。この時間帯は1時間45分に1本のバスに出会えたおかげで緑色部分のルートが追加になったことを知ることが出来ました。
 従来 ⑦→⑧→⑨→⑫
 改正 ⑦→⑧→⑨→⑩→⑪→⑩→⑨→⑫
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クリックすると拡大終わった後の夜会はお蕎麦屋さんでした。夜会と言っても始まったのは15時30分でした。先日、右の写真の藁の亀を紹介したお店です。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926
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先ずは大ジョッキで乾杯です。
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前回、鶏のモツ煮込みが美味しかったので最初に頼みました。
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揚げニンニクも頼みました。実は下高野地区で昔ながらの節分の行事を行っている方がおられて、この日に辻切りを取材に来ていた方が、そのことを知って、節分行事も取材することになったことから、その人は参加できないかもしれないと言われていましたが、遅くなりましたが参加していただいて、話が盛り上がりました。その節分の行事が載った新聞記事は最後に掲載させていただきました。
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その方もそろったのでイカ焼きなどの料理も追加しました。鶏のモツ煮込みも追加しました。
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ビールだけにするつもりでしたが、前に座った方が日本酒を飲まれていたので、私も飲んでしまいました。
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お蕎麦屋さんですから,〆はやっぱりお蕎麦にいたしました。
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翌日2月4日に、2月3日に作った写真の小辻を家の入口に取り付けました。
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こちらが取材に来られていた「千葉日報」さんの辻切りに関する記事です。辻切りが行われた翌日の2019年2月4日付けで掲載されました。さすが日刊紙です。対応が素早いです。
 社名 株式会社 千葉日報社
 本社 千葉市中央区中央4-14-10
 設立 1956年
 創刊 1956年
 種類 日刊紙
 発行 16万9899部/日
 HP https://www.chibanippo.co.jp/
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そしてこちらが「八千代よみうり」の記事です。上で紹介した貴重な昔ながらの節分の記事が赤枠で囲ったところです。緑枠で囲った部分が上高野の辻切りに関する記事です。こちらは2019年2月22日(金曜日)付けで掲載されました。今回の「八千代よみうり」は月刊紙で毎月第3金曜日(か第4金曜日)に発行されているようです。
 社名 北総よみうり新聞社
 発行 千葉東部読売会八千代支部
 住所 千葉県成田市花崎町959
 種類 月刊紙(月に1回)
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辻切りの大蛇づくり名人の作った藁の亀さん [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今年2019年も千葉県八千代市の下高野地区の辻切り(大蛇)作りにクリックすると拡大参加させていただきました。上の写真はみんなで作った6体の藁の大蛇の中の1体です。2019年の大蛇作りは2月3日(日曜)に行われました。近くの井野地区では毎年1月25日に行われていますが、下高野地区では1月月25日から節分までの間の都合の良い日に行われています。クリックすると拡大といってもほとんどが日曜日に行われました。右の2枚の写真は藁の大蛇の胴の部分を作っているところと、完成して藁の大蛇持った記念写真です。皆さん大蛇造りが上手ですが、その中でも名人と言われている方がおられます。近くの神社などの注連縄(しめなわ)を全て作られている方です。

偶然にも、その方が作られた藁の亀を見る機会がありました。辻切りの行事が終わった後にいつも飲みに行くお蕎麦屋さん「味楽庵」に飾られていたのです。その名人の方がお店のご主人のために作られたそうです。それが下の写真の藁の亀です。親亀の上に子亀がが乘っていました。
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尻尾の部分は親亀と子亀では違う稲を使って色を変えているのが見事だったので、尻尾の部分を拡大いたしました。
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顔の正面から撮った写真です。親亀と子亀が離れてしまわないに、藁の縄でつながっていました。
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つけられたお札には「鶴は千年 亀は萬年 親の背中に子をのせて 親の背を見て 子は育つ」と書かれていました。一見の価値があると思ったので、お店の場所を紹介いたします。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926
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鶴は千年 亀は萬年
親の背中に子をのせて
親の背を見て 子は育つ

追伸
2019年2月7日から2月16日まで関西に行ってきます。また皆さんのところへの訪問が難しくなることお許しください。辻切り作りに参加した記事も早く書きたいとは思っていますが、写真枚数も多くて整理に時間がかかることから、帰宅後になることもお許しください。

sigさんにすばらしい伝統行事「へび撚り」の動画をコメントで紹介いただいたので掲載させていただきたいと思います。

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ふるさと歴史展 2018年は下高野 [風習・歴史]

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千葉県八千代市で2018年12月1日~2日に、ふるさと歴史展がありました。よく見ると正確には「ふるさと歴史展」ではなく「ふるさとの歴史展」でした。今年のテーマは上に書かれているように下高野(しもこうや)地区で昔から続いている伝統文化でした。私が住んでいるのは佐倉市ですが下高野は隣接した場所で私の家から歩いて行けることから今までに下高野の伝統行事の記事を下記のように掲載させて戴いました。最初の記事に下高野のkazuさんからコメントを頂いたことをきっかけにいろんな行事に参加させていただきました。今回のふるさと歴史展に関してもkazuさんに教えていただいて12月1日に見に行きました。そのふるさと歴史展に関して報告させていただきます。ふるさと歴史展が行われたのはオーエンス八千代市民ギャラリーです。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
2018年12月 ふるさと歴史展 2018年は下高野
2018年11月 小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
2017年02月 下高野の辻切り 2017年 今年も参加させていただきました。
2016年02月 下高野の辻切り 2016年
2015年10月 下高野の例大祭の幟倒し
2014年03月 十九夜塔の建立式典 下高野
2014年02月 下高野の辻切り 2014年
2013年10月 下高野の例大祭の幟(のぼり)
2013年06月 戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた)
2013年02月 下高野の辻切り行事に参加させていただきました。
2013年01月 辻斬りではありません。辻切りです。
2012年07月 下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。ぼんてん塚
2011年10月 下高野の庚申塔
2010年01月 下高野の辻ぎり

左が八千代市の範囲で右が下高野の範囲で、同じ縮尺の地図です。下高野の人口は八千代市全体の約0.1%で、今回の多くの伝統行事が残っている地域に限ると八千代市全体の0.05%以下なのに対してに石造物は八千代市全体の数の10%近くが下高野に残っているそうです。さらに生活の中に古くからの伝統行事も沢山残されている特別な場所でもあるのです。地図をクリックするとそれぞれオリジナルGoogle地図を表示します。
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今回のテーマの舞台となった下高野の景観を動画で紹介いたします。 是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。下高野地区の雰囲気を感じてもらえるかもしれません。戦国時代の、この周辺には臼井城を守る出城(井野城先崎城小竹城など)がいくつかあった場所でもあります。前で書いている3つの城と比べると、史文書の記述は少ないようですが、下高野にも高台に下高野館(下高野城)が建っていたと伝えられているそうです。動画の中の途中でズームしていく小高い場所が下高野館があったところです。


こちらが「ふるさと歴史展」が行われたオーエンス八千代市民ギャラリーがある建物(施設)です。施設の日本語と英語の正式名は次の通りです。TRCは株式会社図書館流通センターの略称のようです。そのことからオーエンスは株式会社オーエンスのことではないでしょうか。
 日本語 TRC八千代中央図書館・オーエンス八千代市民ギャラリー
 英語  Yachiyo City Central Library & Public Gallery
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施設の航空写真です。3年前の2015年7月1日に開館したそうです。最寄駅はここから南東方向にある東葉高速線の村上駅で徒歩約10分(865m ━━)です。航空写真の中のマイナスのアイコンを2回クリックすると駅が表示されます。
右上のアイコン[拡大地図表示]をクリックすると、下高野と上高野と井野と小竹の辻切り(藁の大蛇)の設置場所を表示します。


下高野の「ふるさと歴史展」の展示場の入口です。入口の左側に小さくオーエンス八千代市民ギャラリーと書かれています。
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午後1時になるとオープニングセレモニーが始まりました。八千代市郷土歴史研究会の会長の挨拶で始まりました。
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今回のふるさと歴史展を開くに際して協力した下高野の方々も沢山参加されていました。
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八千代市の服部友則市長からの挨拶もありました。
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今回のふるさと歴史展は八千代市郷土歴史研究会の人達によってまとめられたそうですが、下高野の方々も協力して展示資料が作られたそうです。そのため郷土歴史研究会から下高野の人達に感謝状が贈られました。受け取っておられるのは下高野地区長の方で、辻切りの行事などに参加させてもらった時にはお世話になった方でもあります。
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下高野の方へのセレモニーの続きです。
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郷土歴史研究会と下高野の方の記念写真です。感謝状には八千代市下高野の皆様と書かれていました。内容は次の通りです。
感謝状 八千代市下高野の皆様
当会では本年「旧村下高野の総合研究」に取り組み大きな成果をあげると共にこのたびシ団八千代第四三号の発刊並びに市民文化祭において展示発表を行うことが出来ました。
これはひとえに下高野の皆様の絶大なご支援の賜物であります。
よってここに衷心より感謝の意を表します。
 平成三十年十二月一日  八千代市郷土歴史研究会  会長 田中 巌
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ケーブルテレビ「J:COM」の方も取材に来られていました。
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会場の風景です。奥の方に藁で作られた大蛇(辻切り)が天井から吊り下げられています。
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クリックすると拡大こちらが辻切り(藁の大蛇)です。地区長さんが作られたそうです。実は地区長さんは注連縄作りの名人なのです。藁の大蛇と注連縄は作り方が共通しているそうです。右の写真は実際に境界の辻に藁の大蛇を取り付けているところです。
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郷土歴史研究会の方々が、それぞれ研究テーマを決めて調査した内容を発表する形式だそうです。研究した方がそれぞれ説明をしていただけるのです。
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郷土歴史研究会では、下高野の歴史調査・研究は10のテーマを決めて2017年12月から2018年11月までの1年間かけて行われて今回の展示会の一部に使われたようです。10テーマは①庚申講、②天神ビシャ・初午ビシャ、③不動ビシャ、④梵天飾り、⑤天道念仏、⑥彼岸念仏、⑦奥州講、⑧ひつじまつり、⑨十九夜講、⑩菅原神社例祭でクリックすると拡大す。
ここでは④の出羽三山にまつわる伝統行事に使われる実物の6本のボンテン飾り(梵天飾り)も置かれていました。右の写真は実際に行われた伝統行事「梵天飾り」で、クリックすると拡大いたします。
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ここは百姓一揆に関する説明が展示されているコーナーです。人形も置かれていました。
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すすきの可愛い飾り物も置かれていました。
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時間と共に見学者が増えてきました。第1展示室(78.70㎡)と第2展示室(110.90㎡)と展示室ホール(84.30㎡)が使われていて可動式の仕切り壁でレイアウトされていました。
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郷土歴史研究会の活動写真や今回のポスターも展示されていました。
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下高野では今でも沢山の行事が行われています。それを説明した表があったので紹介いたします。頭の※は私が過去に記事で紹介したことがある行事です。
 庚申講      1月 正月を除いた最初の申の日
 天神ビシヤ    1月 25日
 不動ビシャ    1月 28日
※辻切り      1月 月末の吉日
※ボンテン飾り   2月 14日
 天道念仏     2月 15日
 彼岸念仏     3月 春分の日
 千葉寺 ご接待  4月 10日前後
 末祭り      7月 最初の末の日
 宮なぎ      7月 15日
 奥州講      7月 末の日曜かその前の日曜
クリックすると拡大 念仏講      8月 14日
 施餓鬼念仏講   8月 16日
 孟蘭盆念仏講   8月 24日
 彼岸念仏     9月 秋分の日
 弁天ビシャ    9月 25日
 菅原神社例大祭 10月 10日
※ 幟立て    10月 8日
※ 幟返し    10月 11日
 年始参り準備等 12月 31日
 長寿会      毎月 1日
 念仏講      毎月 12日
 お不動様     毎月 27日
 十九夜講     隔月 19日
※十九夜塔石建て 7年に一度
 庚申塔石建て  上と同時 次は2021年

クリックすると拡大クリックすると拡大下が下高野の庚申塔に関わる石造物の説明パネルです。
下高野の庚申塔に関しては私も沢山記事に書きました。下高野では24基の庚申塔が現存しています。最も古いのが享保12年の庚申塔です。現在でも7年ごとに建てられていて、最も新しいのが平成26年の庚申塔です。
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下高野の神社と寺院関係の説明パネルでクリックすると拡大す。
今まで長い間、下高野の菅原神社(天満宮)の創建時期は不詳でしたが、一之鳥居の再建時(2000年)に欅造の旧扁額の裏側に元和四戌午年正月二十三日の刻記が発見されて菅原神社(天満宮)の創建年が判明したそうです。元和4年1月23日は西暦(グレゴリオ暦)では1618年2月18日になります。干支年は戊午で、干支日は甲申 で、六曜は大安で、曜日は日曜日です。ちなみに一部の教会で使われているユリウス暦だと1618年2月8日になります。江戸幕府が始まった1603年3月24日から14年10ケ月目に創建されたことになります。
クリックすると拡大右の写真をクリックすると創建時(400年前)の扁額を拡大いたします。2000年に扁額の裏の文字を見つけたのは大発見だと思います。皆さんの探求心で、今までの謎が1つ解けたことになります。
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クリックすると拡大クリックすると拡大貴重な文化財も展示されていました。右の透明ケースに入っているのは菅原神社(天満宮)の創建時の扁額で、裏に年号が書かれています。左の透明ケースの中は天神像の版木です。この版木は太宰府天満宮にある版木の写しと言われています。右の小さな写真は版木と刷った大自在天神の版画です。
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下高野の念仏関係をまとめたもので、庚申講や天神ビシャが説明されています。
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このあたりを治めていた旗本の川口氏3代に関する記述です。
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こちらは辻切りやボンテン飾りの関わるものです。
私が初めて辻切り作りに参加させていただいたのは2012年1月29日(日曜日)でした。クリックすると記事を表示2010年01月26日に掲載した記事「下高野の辻ぎり」を下高野のkazuさんが2011年10月04日に見て、コメントを頂いたのがきっかけで実現いたしました。その時にkazuさんに指導していただいているところの写真が右です。写真の左がkazuさんで右が私です。
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こちらはボンテン飾りと天道念仏に関する説明です。
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末祭りや弁天ビシャや菅原神社例大祭の説明もありました。
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下高野に遺跡や古墳があることが判りました。これは初めて知ったので近いうちに見に行きたいと思っています。
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イメキャラ やっち
クリックすると拡大約30分のミニ講演もあり、すべて聞かせていただきました。
 14時00分~ 天明3年の佐倉藩農民一揆と下高野村
 14時30分~ 郷土の偉才 小島泰堂
 15時00分~ 菅原神社の由来を考える
 15時30分~ 下高野の石造物
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クリックすると拡大今回の発表内容は雑誌「史談八千代 第43号」にまとめられています。一年に1冊発行されているようで創刊号(1976年11月)から第42号までが展示されていました。上の列の一番右が創刊号です。
創刊号を下の写真から切り取って右に掲載いたしました。創刊号のみ製本されていなかったようです。
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また第17号までは表紙のデザインが同じでしたが、第18号以降の表紙は毎回違う絵が描かれています。
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本来は有料購入なのですが、うれしいことに下高野のことが書かれた今年の史談八千代 第43号をkazuさんから頂きましクリックすると拡大た。
史談八千代の文字の右側に「白」と「鳳」の印が押されています。これは岩波白鳳先生(千葉県書道協会顧問)の書だからです。第29号から岩波白鳳先生の書が使われているようです。また中央の絵は菅原神社本殿の脇障子の彫刻です。
ISSN 1345-9694
史談 八千代クリックすると拡大
特集 旧村下高野の総合研究
                          第43号
                          2018年12月
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八千代市郷土歴史研究会
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これが中央の絵に使われた菅原神社本殿の脇障子の彫刻です。
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こちらが目次です。145ページの大作でした。貴重な資料で参考になります。
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110ページに参考資料の一覧の中に私のブログが書かれていました。郷土歴史研究会の方に参考文献扱いしてもらえるとは光栄なことです。
 参考記事URL:https://makkurokurosk.blog.so-net.ne.jp/2014-03-08
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参考文献扱いしていただいた十九夜塔の建立式典の写真を紹介します。
細長い写真をクリックすると拡大するので32基の十九夜塔を確認することが出来ると思います。建立式典での念仏講の動画も紹介します。次の建立式典はこの時(2014年)から7年後なので2021年です。
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2018年12月28日付の新聞「八千代よみうり」に今回の「ふるさとの歴史展」が掲載されていたので紹介します。八千代市郷土歴史研究会45周年記念でもあったようです。記事のタイトルは「伝統守る里・下高野を特集 地域の義民や民俗行事紹介」でした。記事の内容に興味がある方はクリックしていただくと読みやすいと思います。
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小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾) [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2018-11-10追記 タイトル:小島泰堂のふすま絵が見つかりました。
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今年の3月に紹介した小島泰堂の追加記事です。
いつも地域の歴史や風習に関して教えていただいているkazuさんから、千葉県八千代市下高野の個人宅に小島泰堂のふすま絵が見つかったとの連絡と共に今回紹介する写真が送られてきました。この襖絵(ふすま絵)があったのは江戸時代に下高野地区の名主をされていた名家でした。
襖(ふすま)に対して絵が小さいのは、母屋を新築した時に隠居部屋にあった泰道の書のふすまを母屋のふすまにするために隠居部屋の1間半の襖に4枚あったふすま絵を2間/4枚に表装しなおしたためだそうです。4枚の絵の内中央の2枚に小島泰堂の書が書かれています。

中央の2枚の絵を拡大いたしました。
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小島泰道の落款の部分を拡大いたしました。「泰堂」の文字が読み取れます。61歳の時に書いたしょでしょうか。
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近くにある福蔵院の敷地内に小島泰堂の書の石碑があることも判り、写真を送っていただきました。今までも見ていたのに気が付きませんでした。
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確かに落款の部分に小島泰堂と書かれていました。
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2018-03-18掲載
タイトル:小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
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千葉県佐倉市宮ノ台の青菅小学校内にある史跡の大塚・小塚があります。地名の宮ノ台は1980年代に、この地域に新興住宅地が作られるにあたり青菅の一部と井野の一部が1981年11月1日に宮ノ台に町名が変更になって出来たものです。この場所の旧名は青菅でした。
大塚は前記事で紹介した通り江戸初期に青菅の領主であった下記の旗本四代の墓所で、小塚はその夫人たちの墓所でした。上の写真は大塚の写真です。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石 通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石 通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

その大塚に小島泰堂の石碑が建てられていました。小島泰堂は青菅出身で幕末から明治にかけて、教育者・歌人・諸家・製茶業経営者として活躍された方だそうです
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大塚がある青菅小学校の周辺には小島泰道に関わる場所が5ケ所あります。ただし泰楽文園の碑( )は泰楽文園のあった辺りの土地を所有されていた個人宅の庭にあることから、個人宅が特定されないように個人宅のある下高野の代表的な場所にプロットしております。
泰楽文園( )は小島泰堂が明治13年(1880年)に千葉県印旛郡青菅村に作った学校で、多いときは200名以上の生徒がいたそうです。ただし小島泰堂は泰楽文園の時代以前の天保末年(1845年)ごろから青菅村で塾(泰堂塾)を行っており、江戸に住んでいた文久元年(1861年)から明治13年(1880年)にも江戸八丁堀で塾(泰堂塾)を開いていたことから約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)も若者の教育に力を注いでいたことがうかがえます。
 小島泰堂の石碑(月読尊) 青菅地区(佐倉市宮ノ台)
 小島泰堂の墓および碑   青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園(泰堂塾)    青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園の碑       下高野地区(八千代市下高野)
 小島泰堂の製茶加工場跡  青菅地区(佐倉市青菅)
 小島泰堂の石碑(福蔵院) 下高野地区(八千代市下高野)


月読尊は小島泰堂が歌人としても有名であったことを表しています。月読尊は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」の歌から銘がつけられたようです。小島泰堂の図書を検索すると国立国会図書館に熱海調音詩歌集泰堂遺稿が保管されていることが分かります。熱海調音詩歌集の出版年は1886年なので小島泰堂の亡くなる3年前に出版されたようです。
泰堂遺稿(1892年出版)は表紙を入れて36ページで画像19コマで内容がネットで公開されています。→ポチッ
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左下には「泰堂翁謹書 時明治十九年・・・・・・」と刻まれていました。明治19年(1886年)は小島泰堂の熱海調音詩歌集が出版された年でもあり、無関係と言えないのかもしれません。
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右下には「菶蔫 小島稲子」と刻まれているそうです。菶蔫の文字だけが見ることが出来ました。
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真ん中下部には「能」と「民」の文字が読み取れます。真ん中下部には縦書きで「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているとのことなので石碑の下部はかなり隠れてしまっていることになります。
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小島泰堂の墓( )は青菅地区の正福寺にあります。
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写真に写っている墓石および石碑群は全て小島家の関係したものでした。新しいものは昭和のものもありました。
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重要な小島家に関わる石碑がL字型に配置されていました。
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特に重要な石碑と墓石がこの4つです。一番右が小島泰堂を称えた石碑です。右から2番目には「小島家先祖代々之精霊」と書かれているのて小島家を代表する墓石だと思われます。この墓石は明治25年に小島姓の人が建てたものでした。建立年から判断して小島泰堂の子供さんが建てたのではないかと思います。右から3番目(左から2番目)が小島泰堂ではないかと考えています。左端は小島泰堂が建立した墓石ではないかと思われました。
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左端の墓石の正面から見て左側には小島勘十郎の名前が刻まれています。実は小島泰堂の本名は小島勘十郎です。本人の墓石のようにも読み取れますが、正面には2名の戒名が刻まれていて、それぞれ天保十二年十月五日と嘉永三年正月三日と書かれています。天保13年は1841年で嘉永3年は1850年です。小島泰堂が14歳と22歳の時になります。そのことから小島泰堂が大人になってから建てた墓石と考えるのが自然です。すなわち両親あるいは祖父母の墓ではないかと感じました。
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左から2番目の墓石が小島泰堂(小島勘十郎)本人の墓石と考えた理由は左面に小島翁の文字が読み取れたからです。右端の小島泰堂の石碑の中に何度も小島翁の文字が出てきました。
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小島泰堂の石碑と小島家の墓石です。両方ともに明治25年に建てられていました。小島泰堂が亡くなって3年目です。
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こちらが小島泰堂の石碑です。1889年4月1日に青菅村が志津村に統合されたので4月の前と後で住所が違います。クリックすると文字が読み取れる大きさに拡大いたします。
 本名 小島勘十郎 義精
 生誕 1827年 下総国印旛郡青菅村
 死没 1889年 千葉県印旛郡青菅村 or 千葉県印旛郡志津村大字青菅
別の資料で小島泰堂に関して書かれていた内容を枠内に転記いたします。
小島泰堂は名を勘十郎、義精といい、文政十年(1826年)下総国印旛郡青菅村に生まれた。幼少の頃から人にすぐれた才能をもち、佐倉藩儒臣吉見南山の門に入り数年勉学、帰郷し24歳で名主となり翌年には五郷取締名主、28歳の時、藩主(藩候)・堀田正睦(幕府の老中首座)の命により佐倉近治各部取締頭取となり、翌年には三三ケ村組合大総代役なった。万延元年「殖産興業述記」を藩候・堀田正睦に上書してこれを嘉納さられた。文久元年に江戸の八丁堀に家塾を起こし諸生を教授の傍ら井上文雄(国学者、歌人)に就き国歌を納め、多くの文人墨客と交わった。明治13年帰郷(53歳)、佐倉藩御林を開墾し茶園をつくり、「泰楽文園」を建て子弟の教導に当たり、遠近からの諸生を授業した。明治22年、62歳で没した。
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小島泰堂の石碑の台座の周囲4面にぎっしりと寄進者と思われる名前が書かれていました。正面の一番右に建碑費金義捐人名と書かれて、正面だけで39名なので100名近い名前が書かれていることになります。クリックすると特別に拡大するように設定いたしました。金額は3円から50銭です。物によって今の価値の数千倍から数10万倍と大きく開いており、生活様式も違うので物価は簡単に比較できませんが、当時の1円は現在の3万円程度の重みがあったのではないかと想像しています。拡大して見ると今でもこの地域に沢山ある立石、小澤、深山、蕨、友野、山崎、秋山、小林、小島などの苗字が沢山あります。近隣の青菅、先崎、井野、小竹、下高野以外の上高野、米本、村上などの離れた地域の人たちも入っているのにも驚かされました。
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小島泰堂の私学校「泰楽文園」があった場所( )です。現在は農地で私学校「泰楽文園」の痕跡はありません。遠くに見える建物が特別養護老人ホーム 志津ユーカリ苑で、沢山並んでいる温室が山万ユーカリファームです。
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泰楽文園の痕跡がないように思われますが、後で紹介する泰楽文園の碑に書かれいてる一節から、佐倉藩御林を開墾し茶園を作った場所であり、この広い土地そのものが泰楽文園の痕跡であることが分かります。一節の漢文を訳したものを枠内に紹介します。小島泰堂が江戸の八丁堀から青菅に帰郷した時の楽しみが3つあったそうです。その3つの楽しみの中の、2つ目の楽しみを記載した一節です。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
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泰楽文園の場所をGoogle地図にプロットいたしました。現在は農地となっております。この土地の中に、茶畑や泰楽文園の建物(講堂)や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)がどのような配置になっていたか分かりませんが想像するだけでロマンがあります。泰楽文園の場所に次に紹介する泰楽文園の碑が建てられていたそうです。小島泰堂が亡くなった後は果樹園や農地となり、泰楽文園の碑だけは保存のために、土地の所有者であった現在の場所(個人宅の庭)に移して大切に保管されてきたようです。また泰楽文園の横にあった茶園で収獲した茶葉を茶に加工する製茶加工場は、クリックすると拡大志津小学校青菅分校(青菅分教場)の場所にあったそうです。実は以前に紹介した右の写真の青菅分教場は2代目であることも知りました。初代の青菅分教場跡は2代目青菅分教場から北西に200mの場所にあります。
驚いたことに、そこには小島泰堂が自ら発明した製茶蒸気釜が設置されていたそうです。つまり泰堂の製茶加工場跡に青菅分教場が出来たことになります。製茶加工場は泰楽文園から東に徒歩1kmの場所にありました。


泰堂の製茶加工場があった場所の写真です。製茶加工場があったことを示すものはありませんが、このあたりの近所の方にkazuさんが確認したそうです。この製茶加工場跡地に初代の青菅分教場が1903年(明治36年)に建てられたのです。写真の中に写っている石碑は奥州参りなどの碑で、青菅分教場や泰堂の製茶加工場とは関係がありません。
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こちらが泰楽文園の碑( )です。農地にそのまま放置されていたら120年を超える歳月の中で失われたかもしれない貴重な石碑です。本石碑は一般には公開されていませんが辻切り作りでお世話になっている下高野のkazuさんに紹介していただいて写真を撮らせていただきました。縁側でお茶までごちそうになりました。20歳になる猫ちゃんまで出てきてくれました。
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泰楽文園の碑は小島泰堂が自ら1886年9月(明治19年9月)に建立しました。泰楽文園が作られて6年目です。クリックすると大きく拡大するように設定いたしました。枠内に漢文の文字を記載いたします。
泰樂文園
夫人者不可不學餘自少志學焉抑文久二年東都苟開薫陶門然生徒日進月裒至明治五年凡行東修者殆一千有餘名也餘熟思老者若往于山張於茲告別于諸子因交諠之文士墨客况生徒乎各臨其宴餞賜詩歌揮毫或貨財之類載之船而帰郷焉今展之壁上以爲一樂也其間ト此地方頃鋤荒環以壘樹以茶築堂樹四楹三曲而擁庭庭前後都藝花菩門樹雙松偃蓋宛似龍翔扁挂之泰樂文園文焉易曰飛龍在天利見大人二樂也詩曰思皇多士生此王國所謂奉菅公廟園巽方祭人麿祠書棚孔与孟見于一榻如間如答餘登于茲數年間如一日是餘三樂也且當奎運隆渥負笈徒競入此門咿唔鏗々尓焉餘示之曰仁義者錬梁律禮者柱礎徳育禮者門性行育者家習育者桓體者田學之者果而其身泰而奕葉益盛也且夫可不樂哉
  時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書
 
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雰囲気を感じていただくために表面の拡大写真を掲載させていただきました。枠内に先人が漢文から和文に訳した内容を転記いたしました。貴重な内容です。
泰楽文園
夫れ人間たる者は、学問を身につけなければならない。故に、自分は幼い頃から学問に志し、佐倉に出て(天保九年)、吉見南山先生に就いて勉強と人間形成につき薫陶を受けた。文久二年、さらに江戸(八丁堀)に出て塾を開き子弟を教育する傍ら多くの人々と交流し修業した。明治五年に至って門人は前後凡そ一千余名を数うるに至った。自分の越しきたった数十年を熟々顧みて、年老いてはやはり故郷へ還ることが最も良いと思い、今まで交諠を温めてきた多くの文人墨客や、ともに手を携えてきた人々と別れることになり、その別宴を張った。その時集まった人々から詩歌や揮毫や、その上貨財の類等餞別を頂戴した。これを舟一ぱいに載せて青菅に帰郷した(明治十三年)。帰郷した私には三つの楽しみがある。
その一は、江戸をたつときの餞別の詩歌や揮毫そのた寄贈された軸物などを室内や壁に所せましとばかり披展して、しずかに此れらを鑑賞し往時を追懐する。これが第一の楽しみである。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
その三は、同じく中国の古典の詩経に「思皇多士・生ニズ此ノ王国-ニ」の語がある。それに因み菅公廟と人麿祠を奉祀し、書棚に孔子と孟子を祀り、詩経に準え、或いは問いかけ或いは答えして朝夕拝礼することを欠かさず、数年間全く一日の如く実行する。これが三楽だ。
塾のありさまをみれば奎運は多くの門人子弟たちが笈を負い来て咿唔の声が満ちあふれて、競って勉学するさまは、まさに奎運の開かれゆく思いである。仁と義し規律と礼儀と、そして特性を養うことによって心身は大いに安らぎ、ゆるやかになるのである。故に後の世まで盛に続けて楽しむようにしなければならない。これが即ち泰楽なのである。
 時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書 
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右から大きく泰楽文園と書かれているのが印象的でした。小島泰堂が若者の教育にささげた約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)の内訳は次の通りです。
 前期 1845年~16年間 青菅村 泰堂塾
 中期 1861年~19年間 八丁堀 泰堂塾  
 後期 1880年~ 9年間 青菅村 泰楽文園
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泰楽文園の石碑が庭内に保存されている家には下の写真のような見事な白壁造りの土蔵がありその中に小島泰堂に関わる毎聴講讀音と書かれた資料が保管されていたそうです。その中には塾生の習書など貴重な資料が沢山入っていたそうです。泰堂翁の「泰楽文園」の構造や塾の内容なども物証的に片鱗を見ることが出来るそうです。その資料は研究者に寄贈されて今は別のところで保管されているようです。
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その研究者の報告文献から毎聴講讀音などの資料の写真を転用させていただきました。このような貴重な資料がこちらの家に保管されていたのは、この家の先祖の方が小島泰堂と親しい子弟関係にあったことがうかがえます。真中の写真は30年前の1988年5月18日に撮影されたものです。つまり寄贈されたのは、そのころだと思われます。
一番左側の写真が襖の表に貼られていた毎聴講讀音と書かれた唐紙です。
 毎聴講讀音 明治癸未之春日書千梅花薫所 泰翁
 毎に聴く講讀の声、明治十六年(癸未)の春日梅花薫る所にて書く 泰翁
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追伸
今日2018年3月18日の朝から3月27日の夕刻まで関西に行ってきます。その間はネット環境の関係から皆様のところに訪問出来ないことをお許しください。本記事のブラシュアップも4月に入ってからになりそうです。
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古墳のある小学校 佐倉市立青菅小学校 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県佐倉市の市立青菅小学校の校庭には「大塚」「小塚」「すげの子山」とよばれる古墳のような小山が3つあります。特に大塚と小塚はきれいな円形で、まさに円墳です。
ただし、古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の墓ではなく約400年前の江戸時代初期に作られた墓所であることから、正しくは古墳ではなく、古墳のような墓所と言うことになります。この青菅の大塚は、徳川家康と「はとこ」の関係にあった旗本2500石の川口宗勝から下記の4代の墓所と言われています。二代の川口宗信の弟(三男)である川口宗重(2000石 1587年生~1654年没)の墓は佐倉市八幡台にあるそうです。川口宗勝の母は織田信長の伯母だった可能性もある上に徳川家康の又従兄弟(またいとこ/はとこ)で、主君は水野信元→柴田勝家→織田信長→信雄→豊臣秀吉→徳川秀忠の遍歴の戦国時代の名家の武将だったのです。江戸時代において四代の川口宗恒は川口家の中で最も出世し領地は青菅村だけでなく各地に加増されたようです。職を辞した後は旗本寄合席に列したそうです。元々は川口氏は平家の支流で、伊賀國から美濃国川口村に移り、宗倫のときに川口氏を名乗ったそうです。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石  通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石  通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

Google地図に大塚、小塚、すげの子山を書き込みました。
青菅の大塚は、上で記載した通り、青菅領主の旗本川口家四代の墓所ですが、小塚は、夫人の墓所と伝えられているそうです。そのことからか大塚は男塚(おとこづか)、小塚は女塚(おんなづか)ともよばれています。伝承では大塚・小塚ともに初代宗勝の時に築造され、大塚には四代すべての髻(もとどり)が埋葬されていると伝えられており、別名「もとどり塚」とも呼ばれています。
ちなみに、髻(もとどり)とは髪を頭の上で束ねた部分だそうです。


冒頭の写真は南東方向から見た大塚です。この写真は反対側の北西から見た大塚です。大塚自体は円形(円墳)ですが、周囲に一部ですが縁石が四角に並べられています。そのためか、塚を方形と書かれている方もおられますが、周囲を廻ってみると縁石は五角形に並べられていました。縁石には大谷石が使われていて、つなぎはセメントが使われていることから縁石に関しては小学校が作られた時か、それ以降に土の流失防止に作られたものと感じました。
大塚・小塚は佐倉市の市指定の史跡となっています。佐倉市のホームページによると、青菅の大塚・小塚周辺では、地域住民により「ミチカリ」がおこなわれているそうです。かつての「ミチカリ」は、塚周辺の清掃および、道に繁る枝を刈り、道を掃いたりする青菅地区の年中行事だったそうです。現在でも当時とは若干姿を変えていますが、毎年行われているそうです。「ミチカリ」とは「道刈り」のことでしょうか。今は道が整備されていますが、江戸の初期のころの大塚・小塚の周辺は一年で道がなくなってしまうほど草木が生い茂っていたのかもしれません。
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南西方向から見た大塚です。不思議なことに川口家の墓所でありながら墓石は立てられていません。ただし小さな石碑が建てられていました。これは川口家のものではなく小島泰堂の石碑なのです。小島泰堂に関してはさらに調べる必要があることから後日詳しく紹介したいと思います。
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石碑には月読尊と書かれています。手前の石で見えませんが、右下には「菶蔫 小島稲子」、左下には「泰堂翁謹書」とあり、真ん中下部には「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているそうです。この歌は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」と読むそうです。
関係あるかないか分かりませんが、川口宗勝の母親は小島信房の娘または織田信長の伯母だそうです。同じ小島姓は気になりますが、時代的には300年近い差があるので関係は薄い気がします。
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写真を撮っている方は下高野の辻切りなどでお世話になっている近くに住んでおられるkazuさんで、この時も案内していただきました。大塚・加塚や小島泰堂に関する情報も沢山教えていただきました。
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もう一つ、石碑の痕跡がありましたが、こちらの方は分かりませんでした。
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小学校の裏ての校庭に小塚があります。
川口家の墓所になる以前から古墳があったと考えている方もおられるようです。それだけ謎が多いのだと思います。ただし、龍角寺古墳群のように古墳は集まっていることが多いようですが、この周囲1kmでは見当らないことから塚の形だけで古墳であったとするには無理があるようです。一番近い縄文時代の遺跡はここから直線距離で1.9kmのところにある井野長割遺跡(国指定史跡)です。これも小学校(井野小学校)の隣りの敷地です。また佐倉市で古墳と認定されている「ひょうたん塚古墳」までは7.0kmで、八千代市の根上神社古墳までは3.7kmです。
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これが北西方向から見た小塚です。川口家の初代から4代の当主の夫人たちの墓所です。この時、小塚に植わっている木の枝を伐採しているところでした。関係する各時代の日本の総人口を記載いたします。江戸初期頃の日本の人口は現在の10分の1でした。青菅村の人数を想像してみてください。
 縄文時代  BC14000年~BC300年  2万人→15万人
 古墳時代  200年~600年末     60万人→400万人
 江戸初期  1603年ごろ        1200万人
 江戸後期  1868年ごろ        3100万人
 現在    2018年2月1日      1億2656万人
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南東方向から見た小塚です。佐倉市の文化財-史跡「墓・碑 など」は下記の通りで、この中に「青菅の大塚・小塚」と「川口宗重墓」があります。
青菅の大塚・小塚の場所は佐倉市のホームページでは青菅となっていますが、住所は千葉県佐倉市宮ノ台1丁目です。佐倉市青菅に新興住宅地が出来来たことによって青菅の一部が宮ノ台に町名が変更になったのが1981年11月1日でした。 さらに井野の一部と小竹の一部の町名がユーカリが丘に変更になったのが1985年2月1日でした。周辺地域での一番新しい町名変更は2012年8月18日で、井野の一部が西ユーカリが丘6丁目と7丁目になりました。
 太田図書墓      (臼井)
 海隣寺中世石塔群   (海隣寺町)
 川口宗重墓      (八幡台)
 桔梗塚跡       (将門町)
 佐藤泰然・舜海碑   (本町)
 勝胤寺中世石塔群   (大佐倉)
 土井利勝父母夫人供養塔(弥勒町)
 道誉上人墓      (臼井田)
 堀田正俊・正睦・正倫墓(新町)
 雷電墓        (臼井台)
 青菅の大塚・小塚   (青菅)
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青菅小学校の北西側には大塚の名前が使われた「青菅大塚公園」があります。
川口宗勝は徳川家康とは「はとこ」どうしになるのですが、関ケ原の戦いにおいては成り行きで西軍(豊臣側)でした。戦いに敗れて高野山に蟄居していましたが、第2代将軍徳川秀忠に許されて旗本になった経緯がWikipediaに書かれていたので枠内に転記いたしました。
川口 宗勝(かわぐち むねかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。徳川家康ははとこに当たる。
宗勝の祖父・川口盛祐は一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り宗勝の父・宗吉を儲けた。於富の方は水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。
天文17年(1548年)、川口宗吉の子として誕生。
当初、宗勝は水野信元に仕え、永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える。本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立したが、増田長盛・長束正家に留められたため心ならずも西軍に属した。安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。慶長11年(1606年)、徳川秀忠に許されて青菅2500石を賜り旗本となった。
慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。
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こちらが青菅小学校の3つ目の塚「すげの子山」です。運動場にあります。
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近づいて撮りました。青菅小学校のあたりは標高23mの平らな地形なので自然に出来たものとは思えませんが、この小山に関する情報は残念ながら一切ありませんでした。昔は古墳であった可能性もあるようにも感じました。
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この小山は子供たちの遊び場となっています。青菅小学校のホームページにも経緯は書かれていませんでした。学校の沿革の中で「平成2年11月5日すげの子山移動・整備」と書かれているだけでした。平成2年は私が佐倉市に引越してくる前のことでした。ご存じの方のコメント(by UMA 2018-05-31 11:36)で、すげの子山は25~28年程前に残土を使って作った盛山であることが分かりました。当時青菅小学校に通っていた教員や生徒の方しかしらないそうです。
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すげの子山(菅の子山)の上からの校庭の景色です。
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青菅小学校の門です。
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そして青菅小学校の表札です。
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参考に青菅小学校の生徒数の推移を紹介します。一旦は生徒数が減りましたがマンションが建設されたり、周辺に新しい住宅地が開発されたことから現在は生徒数が増えつつあります。
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生徒数のずれが見られますが、別の資料から転用させていただいたグラフで、学校の創立(1986年)からの生徒数の推移も紹介いたします。廃校となった志津小学校青菅分校から340mの距離に今の青菅小学校があります。
 青菅小学校が出来るまでの沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1903年 青菅分教場設立→青菅分校
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校  分離独立
  1976年 小竹小学校  分離独立
  1977年 青菅分校   廃校(1903年設立の青菅分教場)
  1986年 青菅小学校  分離独立(新しい学校として設立)
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クリックすると拡大二代・川口宗信の弟(三男)である川口宗重の墓が、佐倉市の八幡台一号公園の南西コーナーにあるとのことなので写真を撮ってきました。こちらが墓の正面です。正面に「為珉照院釈道是善根菩提也 南無阿弥陀佛 茲時承応三年甲午歳林鐘十七日」、左側面に「川口茂右衛門尉 平宗重 六十八歳逝去」、右側面に「川口作左右衛門尉 平宗忠 廿七歳建立 之孝子敬白」、裏面に「唯獨自明了」と書かれていることから、子供または孫あるいは子孫の川口作左右衛門(川口宗忠)が28歳の時に建立したようです。Wikipediaに書かれていた内容を枠内に転記いたしました。墓の位置をGoogle地図で表示→ポチッ
川口 宗重(かわぐち むねしげ、天正15年(1587年) - 承応3年6月17日(1654年7月30日))は、江戸時代初期の旗本。川口宗勝の三男、母は福富平左衛門直貞の娘。兄弟に宗信、宗之、宗利、宗澄、宗政。
慶長17年(1612年)、父の宗勝が没すると遺領のうち葛飾郡臼井500石を相続した。その後、上総、甲斐国内に加増され、合わせて2000石となる。承応3年(1654年)没する。墓は佐倉市八幡台にある。家督は長男宗徳が継ぎ、宗憲、宗建と臼井を領した。
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左・後ろ斜めから撮った写真です。写真をクリックして拡大すると、川口宗重の通称名の川口茂右衛門の文字が読み取れると思います。佐倉市のホームページ書かれていた川口宗重に関する内容を枠内に転記いたしました。
川口氏は戦国時代に織田氏に仕えていましたが、宗勝の代に関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き、一時伊達政宗に預けられました。 その後、宗勝は二代将軍秀忠の御家人となり、慶長10年(1605)印旛・葛飾両郡内にて2500石を知行しました。宗重は宗勝の三男で、慶長17年(1612)に父の遺領の内、葛飾郡臼井500石を継承しました。後には上総国・甲斐国内に加増され、都合2000石を知行しましたが、承応3年(1654)に68歳で死去しました。
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川口宗重の墓が設置されている位置をGoogle地図で紹介します。
川口宗重の墓がある八幡台第一公園は臼井八景の第八景であるクリックすると拡大右の写真の州崎青嵐(すざきせいらん)の表示板が設置されている場所でもあります。
クリックすると拡大 川口宗重の墓
 臼井八景 第八景・州崎青嵐
 八幡宮の祠


川口宗重の墓の脇が周囲より7~8m低い窪地になっていて、その窪地に八幡宮の祠があります。公園から神様を見下ろす珍しい神社です。
大雨の時に水が溜まるのではないかと心配になりますが、この公園自体が丘陵地にあり周辺の地域より17m高い(=23m-6m)ので排水路さえ確保されていれば心配は無いようです。標高の数値はGoogle地図のPrincipalement plat機能で表示された道路の標高値です。
クリックすると拡大 公園の標高 23m
 窪地の標高 15m(=23m-8m)
 周辺の標高  6m
本写真は4秒ごとに切り替わるようにいたしました。クリックするとその中の1枚を拡大いたします。
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窪地に下りて八幡宮の祠を撮りました。ネットでは本神社を「八幡宮の祠」と表現する記述が多いようですが、祠の前には狐(きつね)の像が置かれていることから本神社は稲荷神を祀る稲荷神社のようです。佐倉市のホームページの記述でも稲荷神社となっていました。住所は千葉県佐倉市八幡台1丁目-1です。
神社の右側の大木は御神木のカヤの木です。
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このカヤの木は佐倉市の指定文化財(天然記念物)でもあります。カヤは雌雄異株で、この木は雄株だそうです。老樹のため樹皮は剥離し、幹には数か所の空洞が見られるそうです。地上3mのところで幹枝を4本に分離していて、そのうち1本は大正期の神社の火事で枯れたそうですが、樹勢全体は旺盛のようです。カヤ以外にシイ、ムク、ケヤキなどの大樹もに元気に生えていました。
クリックすると拡大 界 植物界   Plantae
 門 裸子植物門 Gymnospermae
 綱 マツ綱   Pinopsida
 目 マツ目   Pinales
 科 イチイ科  Taxaceae
 属 カヤ属   Torreya
 種 カヤ    Torreya nucifera
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タグ:青菅 佐倉 古墳
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下高野の辻切り 2017年 今年も参加させていただきました。 [風習・歴史]

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先日、千葉県佐倉市井野で2017年1月25日に行われた藁の大蛇を集落の道の境(辻)に飾る「辻切り」を紹介いたしました。それと同じ伝統行事が近くの千葉県八千代市下高野にもあります。その下高野の辻切りの行事に2012年から参加させていただいています。それは2010年1月26日に「辻切り」をブログに掲載し、それを見た下高野の辻切りのメンバーから辻切り作りのお誘いをいただいたのをきっかけでした。2013年は1月24日から1月27日まで海外に出ていたために参加できませんでしたが、2013年以外は参加させてもらえる幸運に恵まれました。そして2017年も参加させてもらったので報告させていただきます。

下記の地図で赤色ライン(━━)で囲った範囲が八千代市下高野です。その中で集落の一番外側に藁の大蛇( )が飾られます。その数は6か所です。
クリックすると拡大下高野地区では江戸時代(少なくとも天保)から辻切りの風習が行われていたそうです。ただし、今の大蛇になったのは今から二十数年前で、その前はしめ縄型の辻切りだったそうです。周辺には昔からヘビ型の辻切りの風習があったことから大昔にはへび型であった可能性もあります。右の写真は近くの佐倉市小竹地区の注連縄型の辻切りです。
  八千代市下高野
  下高野の辻切り
  上高野の辻切り


上の地図の2番の辻切りの近くのから北東方向に撮った写真です。左側に人家が並んでいます。世帯数27軒は明治時代から変わっていないそうです。
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人家が密集している場所で、この写真の中で、辻切り(大蛇)作りが行われました。戦国時代には、写真の中央の木に覆われている小高い丘の上に下高野城(下高野館)がありました。
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今までに4回ほど下高野の大蛇づくりを見てきましたが、今回初めてねる作業がありました。それが写真の「藁すき」です。藁のしっかりした茎の部分を残すのが目的のようです。
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今までは、鉄の櫛で行う藁すきはすでに終わっていたようです。
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動画でも藁すき作業を紹介します。今回は新しい若い方が2名メンバーに入ったこともあり、最初はベテランの方が作業をされて、そのあと若い方が作業されていまし。


大蛇づくりには2種類が藁が使われます。名前は「みとらず」と「こしひかり」です。「みとらず」は名前の通り「実採らず」で米を採るのが目的ではなく注連縄などの藁細工専用のワラです。「こしひかり」の藁に比べて柔らかいのです。井野の辻切りづくりで藁を大槌で叩いていたのは「こしひかり」などの硬い普通の藁を使っていたためであろうと教えてもらいました。
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さっそく、ハウスの中に入って、みんなで藁の大蛇づくりを始めました。私も大蛇の頭を一つ担当いたしました。5回目となると少しは慣れてきました。
ハウスの中は暖かかったので作業はしやすかったです。3人の方が写真を撮りに来られていました。
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この二つを合わせると頭になります。
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頭が出来上がりました。後ろ側を3つに分けて胴を編んでいきます。
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胴を作るのは注連縄の技術です。先ずは2本で綱を作り、その後に1本を巻き付けて胴を作ります。
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今回のメンバーには注連縄作りの名人がおられます。周辺の神社などの注連縄をすべて作っている方です。写真の注連縄も作られました。大きな神社の注連縄も作られています。
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大辻を作ったところで、自宅用の小辻を作ります。
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10時48分になったところで自家製の甘酒と持ち寄ったお菓子で休憩です。
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恒例のかき餅も出されました。大人気でした。
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30分程度休憩して作業再開です。完成した大蛇の胴をなめして滑らかにしているところです。使っている板には注連縄の寸法が書かれていました。
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蛇の胴体をなめすところの動画も紹介します。


昼食です。いつもはメンバーの奥様がおにぎりとみそ汁を出していたいただいていたのですが、少しけがをされたために今年は弁当持参となりました。それでも美味しい漬物を出していただきました。ビールも2缶いただきます。
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13時に作業再開です。
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これが舌と目に使う大きな唐辛子です。
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その唐辛子の目と舌を付けているところです。
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大蛇の胴には小枝やお札などを突き刺します。突き刺す順番決まっていて下高野の辻切りでは頭の方から、ヒイラギの小枝、塞神のお札、杉の小枝、ヒイラギの小枝、お札をもらった神社の幣束(ごへい)、杉の小枝です。お札と幣束は村上の神社で購入するそうです。お札には次の文字が書かれていました。参考に読み方も記載いたしました。
クリックすると拡大 塞神    さいのかみ     境の神
 八衢比古神 やちまたひこのかみ
 八衢比女神 やちまたひめのかみ
 久那戸神  くなどのかみ
 三柱守護  みはしらしゅご
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6体の大蛇が完成いたしました。一番手前の大蛇のお札と幣束(ごへい)は取り付けに行った辻の近くの家で受け取って付けるそうです。
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クリックすると拡大こちらが正面から見た6体の大辻(大蛇)です。
この時、13時43分でした。9時に作業を始めたので4時間43分かかったことになりますが、休憩と昼食で1時間30分あったので実際の作業時間は3時間13分ということになります。
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完成したらすぐに取り付けに行きます。6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①~⑥の順番に軽トラックに乗って、みんなで取り付けにいきました。境界となる地域は次の通りです。その地域の方向にヘビの頭を向けて取り付けます。頭の方向に矢印()を書き込みました。
  ① 青菅/井野  ② 上高野 ③ 米本  ④ 保品  ⑤ 先崎  ⑥ 青菅
クリックするとGoogle地図

青菅/井野との境
写真は古い大辻です。
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ここだけは大蛇を作った場所から歩いて行けるので二人でもっていきます。取り付けるまでの写真を掲載いたします。



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こちらが取り付けられた新しい辻切りです。ここは車の通りが多く6箇所の中で一番目立つ場所になります。
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上高野との境
軽トラック3台で取り付けに来ました。
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米本との境
ベテランの方が、若い方にひもの結び方を伝授していました。


保品との境
頭は保品方面に向いています。
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先崎との境
先崎に向かって睨みを効かしています。
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青菅との境
ここは6ケ所の中で2番目に目立つ場所です。
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古い大蛇の取り外しから新しい大蛇の取り付け開始までの動画を紹介します。


右の3台の軽トラで5ケ所を廻って辻切りを作ったハウスに戻って解散しました。解散したのは15時20分でした。一旦家に帰って夜会に参加しました。
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家に帰ってすぐに作った小辻を取り付けました。すぐに夜会の場所である蕎麦屋さんに向かいました。杉の小枝とヒイラギの小枝は刺しましたが、塞神のお札と幣束は買っていないので刺していません。
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夜会は下記のお店でした。夜会は15時35分から始まりました。明るいうちから始まる夜会となりましたが、もちろん終わった時は真暗でした。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926


お通しです。
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さっそくビールで乾杯です。料理は薄揚げ作った餃子です。
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ワカサギの唐揚げです。
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味噌田楽です。
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鶏のモツ煮込みは美味しかったです。話が弾んで、出て来た時に撮り忘れてしまっで気が付いた時には、ここまで減っていました。
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ゲソの唐揚げです。天ぷらに近い感じでした。
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近くの地区にも辻切りの風習が残っています。隣の地区である青菅、先崎には辻切りの風習は残されていませんでした。今回で辻切り関連記事は12個になりました。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 6ケ所 八千代市下高野 ヘビ形   土曜日 or 日曜日
 5ケ所 八千代市上高野 ヘビ形   土曜日 or 日曜日
 9ケ所 佐倉市井野   ヘビ形   1月25日固定
 5ケ所 佐倉市小竹   しめ縄形
 対象年  地区        掲載  行事が行われる日
 2017年 八千代市下高野 → ポチッ 2017年1月29日(日) 参加
 2017年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(水)     見学 下見
 2016年 八千代市下高野 → ポチッ 2016年1月31日(日) 参加
 2015年 八千代市下高野 →     2015年2月02日(月) 参加
 2014年 八千代市下高野 → ポチッ 2014年2月02日(日) 参加
 2013年 佐倉市小竹   → ポチッ
 2013年 八千代市下高野 →     2013年1月27日(日)
 2012年 八千代市下高野 → ポチッ 2012年1月29日(日) 参加 小辻
 2012年 八千代市上高野 → ポチッ 2012年1月28日(土)
 2010年 八千代市下高野 → ポチッ 2010年1月24日(日)
 2009年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(日)     見学
 2008年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(金)


追伸
2017年2月3日から2月10日まで関西に行ってきます。その間はネット事情の関係から皆様のところに訪問できないことをお許しください。

井野の辻切り 2017年1月25日 新しくなった大蛇 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県佐倉市井野には「辻切り」と呼ばれる昔からの伝統行事があります。集落に病気や災いの侵入を防ぐために集落の道の境(辻)にワラの大蛇を掛ける風習です。災いを切るために辻に取り付けることから「辻切り」と呼ばれています。その藁の蛇を作って集落の境に掛けるのが井野地区では1月25日に行われることから古い「辻切り」が見られる1月24日と新しい「辻切り」が見られる1月25日に散策してみました。前日の1月24日は16km歩きましたが、この日1月25日は20km歩くことになり、薄い靴下が擦り切れて穴が沢山開いてしまい、安物の運動靴の限界を感じました。2017年1月24日の古い辻切りに関しては先日紹介いたしました。→ポチッ
今回は1月25日の新しくなった「辻切り」を紹介したいと思います。

2017年1月25日は午前(8時35分~10時55分)と午後(12時02分~14時20分)の2回ほど散策いたしました。午前中の散策では準備してところを見ることが出来ましたが、新しくかけられた「辻切り」を見ることが出来ませんでした。
午後の散策ではEの「辻切り」は1月25日13時53分の時点では、まだ新しい「辻切り」にはなっていませんでしたがE以外は新しくなっていました。
井野地区の藁の蛇が飾られる場所が下記の航空写真のA~Iなのです。行事前日(1月24日)のA~Iの写真を順番に紹介します。つまり掛けてから364日目の藁の蛇の姿です。A~I以外のマークは他の地域の辻切りです。航空写真の中のマイナスをクリックすると広い範囲が判ると思います。
 井野の辻切り
 ━━━ 1月25日午前の散策 ACEFDCEA→(車)→H→(車)→A
 ━━━ 1月25日午後の散策 ABCDEFEHIEA
  上高野の辻切り
  小竹の辻切り 
  下高野の辻切り


の辻切り
1月25日8時53分時点の古い「辻切り」です。
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Aの場所のすぐ横には井野会館がありそこではAとBの場所に飾る2体の辻切りが作られていました。8時50分には沢山の人が集まっていました。藁の蛇づくりは建物の中で作られるそうです。
井野地区の辻切りは各場所の近くの家で別々に藁の蛇が作られます。ただし、AとBの地点だけは同じ場所で作られるようです。
近隣地域で同じ辻切りがある下高野地区や上高野地区では、一か所で全ての藁の蛇を作っていますが、その点でも井野地区は違っていました。


集められてきた藁を水(又はお湯)に漬けているところです。
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さらに藁に水をかけていました。
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水に濡らした藁を「かけ矢」と呼ばれる大型木槌で叩いて柔らかくしていました。木槌で藁を叩いている動画を紹介いたします。


丁度、古い藁の蛇を取り外していること見ることが出来ました。高いハシゴに登っています。
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取り外しているところです。
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蛇の頭が落下しているところです。
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地面に藁の蛇はすべて落ちました。この後、他の場所を廻って10時53分でもまだ新しい蛇は取り付けられていませんでした。ここで待って新しい蛇を取り付けるところを撮りたかったのですが、送電線取替工事の写真も撮りたかったので一旦は離れました。
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この日1月25日の2回目となる午後の散策で12時17分に来るとすでに新しい辻切り(藁の蛇)が取り付けられていました。
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蛇の頭の部分です。お札とヒイラギの小枝を刺していました。冒頭で紹介したした写真はこちらです。高い位置なので離れた場所から100mm-400mmのレンズで目いっぱいレンズ焦点距離の400mmで撮りました。シャッタースピードは1/320秒で、ISOは125で、絞り値(F)は5.375です。
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遠くから見た写真です。新しい藁の蛇なので、中央に木に辻切りが飾られているのが判ってもらえると思います。
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の辻切り
朝の時間帯は井野会館で辻切りを作っていることが判っていたためにB地点には行きませんでした。したがって1月24日の写真を掲載いたします。
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1月25日12時25分の写真です。すでに新しい藁の蛇が置かれていました。
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こちらも頭の部分の写真を掲載いたします。
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細い道の古い竹の株の部分に辻切りが置かれていました。
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の辻切り
B地点に1月25日9時15分に来ましたが、やはりまだ新しい辻切りは取り付けられていませんでした。
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クリックすると拡大1月25日12時29分に来てみると新しい辻切りになっていました。実を以前にこのD地点で藁の大蛇を取り付けるているところに偶然にも居合わせたことがありました。それは2009年1月25日10時46分で、その時に撮ったのが右の写真です。今までの「辻切り」に関する記事は下記の通りです。
2017年1月29日に行われた下高野の辻切りの藁の大蛇造りに、役に立ちませんが参加(8時50分~15時)させていただきました。
  掲載年                行事が行われる日
  2017年 八千代市下高野 → ポチッ 2017年1月29日(日) 参加
  2017年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(水)
  2017年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(水)
  2016年 八千代市下高野 → ポチッ 2016年1月31日(日)
  2015年 八千代市下高野 →     2015年2月02日(月)
  2014年 八千代市下高野 → ポチッ 2014年2月02日(日)
  2013年 佐倉市小竹   → ポチッ
  2013年 八千代市下高野 →     2013年1月27日(日)
  2012年 八千代市下高野 → ポチッ 2012年1月29日(日)
  2012年 八千代市上高野 → ポチッ 1月25日前後の土曜か日曜
  2012年 八千代市下高野 → ポチッ 2012年1月29日(日)
  2010年 八千代市下高野 → ポチッ 2010年1月24日(日)
  2009年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(日)
  2008年 佐倉市井野   → ポチッ 1月25日(金)
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上での紹介の順だと同じようにヘビの頭の部分を紹介します。目に関しては場所によって違うようです。
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新しい辻切りは遠くからの写真でもすぐに判ります。辻であることが判ってもらえると思います。
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の辻切り
1月25日9時45分の状態です。辻切りは古いままですが、取替準備のためのハシゴがかけられていました。
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1月25日12時33分にはすでに新しい辻切りになっていました。
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こちらも蛇の頭の部分を掲載します。
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黄色の丸い円の部分に辻切りが設置されています。ここも辻です。写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしましたので、藁の大蛇を確認できると思います。
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の辻切り
1月25日は9時半ごろに来てさらに12時39分にも来ましたが、新しい辻切りになっていませんでした。他の場所を廻って再度来ることにしました。
クリックすると拡大右の写真は以前に撮った大蛇を作っている時の写真です。この時は天気もよくて暖かかったために屋外で作られていましたが、今年は寒かったので屋内で作られているようで見ることは出来ませんでした。
その時の経験から午前中に作り終えて、昼食をとって午後からした取り換えるのだと思い、一旦は次の場所に向かいました。
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他の場所を廻って13時53分にも来てみましたが、まだ新しくなっていませんでした。2009年の時は13時44分に取り換えました。E地点だけは遅い時間帯での取替になるようです。他の地域は12時までには取り換えている感じがしました。2009年の時もE地点以外は午前中の取替でした。取替がいつになるか判らないのでので一旦引き上げました。1月25日は、この場所に3度来ることになりました。
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クリックすると拡大E地点の新しい辻切りの写真を撮るために1月26日9時26分に再訪問いたしました。時間帯は分からないけれども1月25日中には取り換えられたようです。
右の写真は以前に撮った大蛇を取り付けているところの写真です。その時は最初から最後まで見ることが出来ました。その時の記事はこちらです。→ポチッ
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頭の部分です。ここの辻切りには、首に白い玉がぶら下がっています。他の地点でも見かけましたが、白い玉の中には五穀米が包まれているようでした。目の中にも入れるようです。
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ここも辻になっていました。電信柱の横の木に辻切りがかけられています。
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この場所の雰囲気を紹介します。
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動画でもE地点の辻切りと周囲を紹介します。


の辻切り
こちらには1月25日9時35分に到着しましたが、やはり古い辻切りのままでした。
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1月25日12時50分には新しい辻切りになっていました。こちらは北側から撮ったもので高層マンションがバックに写っています。コンクリートの高架はユーカリが丘線です。
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南側から撮った写真です。
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頭の部分も紹介します。舌には唐辛子が使われていました。
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遠くから設置場所を紹介します。
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歩いて2分のところにはイオンタウン・ユーカリが丘がある場所です。
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の辻切り
この辻切りは佐倉市立井野小学校校内の木に飾られているものです。1月24日の時点で新しい蛇になっていましたのて1月25日は訪問を省略いたしました。写真は1月24日に撮ったものです。
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頭の部分を拡大いたしました。
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赤い矢印( )のところに藁の蛇が飾られています。学校の敷地の隣りには国指定の文化財である井野長割遺跡があります。建物の右側です。
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の辻切り
クリックすると拡大1月25日10時43分でもまだ古い辻切りで新しい辻切りは取り付けられていませんで氏。2009年1月25日の時は10時6分に右の写真のように新しい藁の蛇の取り付け作業をされていました。
沢山の新しい建物で出来ているこの場所で辻切りが続けられているのはすばらしいと思います。
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1月25日13時14分には新しい辻切りになっていました。ここで歩いてくるのは距離があるので結構大変でした。
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ここの蛇だけが目が赤いのが特徴です。
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少し離れた場所からの写真です。
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の辻切り
ここの辻切りも1月24日の時点で新しくなっていたので、ここに寄る必要は無かったのですが、通り道だったので写真を撮りました。クリックすると拡大時間は13時37分でした。すでに紹介しているように、こちらは駐車場のフェンスに特設バーが置かれて設置されていました。少なくとも8年前は右の写真のように民家の木に取り付けられていましたが、駐車場が出来たために現在のような飾り方になったようです。おそらくこのあたりの人は平日に時間を作るのが難しくて土曜日か日曜日に作業が行われたのだと思います。お札も取り付けられていました。
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駐車場内側からし野心を撮らせていただきました。このあたりが新しい住宅地になっていることが判ると思います。見えている住宅地は新しく出来た佐倉市西ユーカリが丘5丁目です。
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頭の部分を拡大いたしました。
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少し遠くから撮りました。
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井野の辻切り 364日目(前日)の藁の蛇さんたち [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県佐倉市井野には「辻切り」という昔から続いている風習があります。集落に病気や災いの侵入を防ぐために集落の道の境(辻)にワラのヘビを掛ける風習です。災いを切るために辻に取り付けることから「辻切り」と呼ばれています。その藁の蛇を作って集落の境に掛けるのが井野地区では1月25日なのです。周辺の地域でも「辻切り」は残っていますが、節分までの土曜日か日曜日に行われるのに対して井野地区だけは平日であっても1月25日に行われます。
上の写真は以前に撮った井野地区ので藁の蛇を辻の木に掛けているところの写真です。実はこの伝統行事が今日(2017年1月25日)に行われることから、前日の2017年1月24日に古い藁の蛇の写真を撮りに行きました。

井野地区の藁の蛇が飾られる場所が下記の航空写真のA~Iなのです。行事前日(1月24日)のA~Iの写真を順番に紹介します。つまり掛けてから364日目の藁の蛇の姿です。A~I以外のマークは他の地域の辻切りです。航空写真の中のマイナスをクリックすると広い範囲が判ると思います。
 井野の辻切り
 ━━━ 歩いたルート
  上高野の辻切り
  小竹の辻切り 
  下高野の辻切り


の辻切り
頭の部分は垂れていますが全体の原型は残っています。このように境界に立っている木に飾るのが木に飾るのが基本のようです。
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遠くからの写真です。実は以前は少し離れた場所の木に飾られていました。しかしながらそのあたりの木は切り倒されたために今の場所に飾られるようになりました。その昔の場所には新しく建てられた井野会館の敷地でした。
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の辻切り
普通は木に掛けられるのですが、こちらは竹の古い株に巻き付けられるように飾られていました。これは少なくとも10年以上前から同じ場所です。
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このような小道にあります。知らないで通ると見過ごしてしまうかもしれません。中央あたりに藁の蛇が写っています。
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の辻切り
こちらの頭の部分は無くなっていました。太い木に巻き付くように飾られていました。
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こちらが少し離れて撮った写真です。木の右側に蛇の頭の部分が落ちていました。
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の辻切り
こちらは頭から尻尾まで残っていました。でも頭は垂れていました。
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こちらが遠くから撮った写真です。ここは犬の散歩やウォーキングの人が通る程度の場所で、昔ながらの風景が残った場所でした。
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の辻切り
井野地区の代表的な場所です。1月25日の井野の辻切りの行事を見に来るならばこの場所をお薦めします。冒頭の写真はこの場所なのです。
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少し離れて撮りました。右の道を進んで次の辻切り(藁の蛇)に向かいました。
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の辻切り
後ろのコンクリートの構造物はユーカリが丘線です。京成本線のユーカリが丘駅にもこちらの辻切りの写真が飾られています。
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公園の中の木に掛けられていて尻尾の方はフェンスに縛り付けられています。
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の辻切り
この辻切りは佐倉市立井野小学校校内の木に飾られているものです。すでに新しい蛇になっていました。最近、取り付けられたのだと思います。
こちらの辻切りは江戸時代から続いているのではなく、学校の教育の一環として地域の民族行事を体験する意味で長年ワラの蛇を飾ってこられているようです。 → ポチッ
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赤い矢印( )のところに藁の蛇が飾られています。学校の敷地の隣りには国指定の文化財である井野長割遺跡があります。建物の右側です。
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の辻切り
完全に住宅地ですが、今でも伝統行事が続いているようです。
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小さな木が辻切りのために残されているのかもしれません。
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の辻切り
クリックすると拡大こちらは駐車場のフェンスに特設バーが置かれて設置されていました。少なくとも8年前は右の写真のように民家の木に取り付けられていましたが、駐車場が出来たために現在のような飾り方になったようです。こちらはすでに新しい腹の蛇になっていました。おそらくこのあたりの人は平日に時間を作るのが難しくて土曜日か日曜日に作業が行われたのだと思います。お札も取り付けられていました。井野の辻切りは目に特徴があるのですが、こちらの辻切りはどちらかと言えば八千代市上高野の辻切りに似ています。Gの辻切りにも似ています。
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確かに、新しい家が多いことから平日の作業は難しいと感じました。井野の辻切りの写真は全て歩いて撮りました。この日は送電線の取替工事の写真も撮るためにも歩いたので合計で16km歩きました。
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2017年の青菅の「どんどれえ」 子供たちが沢山参加していました。 [風習・歴史]

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千葉県佐倉市青菅地区には何度か紹介しているように1月14日におこなわれる「どんどれえ」と呼ばれている江戸の初期から続く「どんど焼き」ですがが残っています。この「どんどれえ」を知ったのは2012年の「どんどれえ」が行われた後でした。2013年からは、2015年以外は毎年見に行っていました。そして今年は「どんどれえ」を作る作業である「竹立て」を初めて見学させてもらいました。竹立てが行われたのは2017年1月8日(日曜日)でした。すでに「竹立て」に関しては紹介させていただきました。本記事では2017年1月14日に行われた本番の「どんどれえ」の紹介をさせていただきます。
竹立ての記事はこちらです。 → ポチッ

こちらが2017年1月8日の「竹立て」で作られた「どんどれえ」です。この写真は「竹立て」が行われた翌日に撮りに行ったものです。9本の竹が立てられています。上の写真は9本目を立てている瞬間の写真です。
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「どんどれえ」の点火は1月14日の18時に行われるため17時43分に「どんどれえ広場」に到着いたしました。すでに周囲はカメラのセンサーが反応しないほど真暗闇でした。右の写真は露出調整したものです。1月14日は小正月(こしょうがつ)の前日で、日本各地では下記の年中行事が行われます。
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  左義長・どんと祭 どんど焼きを行う日
  十四日年越し   小正月(1月15日)の前日にあたる
  飾納・松納    正月飾りや門松を取り外す日
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今回は土曜日だったこともあり車が近くの道路には沢山駐車していました。近くの小学校の近くの駐車場にも車が停められていました。私が見学に来はじめてから一番多い気がしました。今まで土曜日と日曜日は無かったのです。ただし2018年は日曜日で、2019年は成人の日(祝日)です。
 2013年1月14日 月曜日 大雪の中のどんどれえ
 2014年1月14日 火曜日 どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 水曜日 初めて餅を焼きました。
 2016年1月14日 木曜日 見に行けませんでした。
 2017年1月14日 土曜日 子供たちが沢山参加していました。 
 2018年1月14日 日曜日 来年の「どんどれえ」
 2019年:月曜日  2020年:火曜日  2021年:木曜日  2022年:金曜日
 2023年:土曜日  2024年:日曜日  2025年:火曜日  2026年:水曜日
 2027年:木曜日  2028年:金曜日  2029年:日曜日  2030年:月曜日


耐火服を着た人や消防団の消防車も横に控えていました。
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すでに正月飾りなどが置かれていました。
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こちらで1人に1個、お餅が配られました。餅焼き用の竹も用意されていました。
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18時になると点火です。
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小学生と大人の2名が、たいまつ(松明)で点火しました。
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すぐに火が大きくなりました。
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この時は皆さんは比較的近くで見ていますが火が大きくなってくると熱いので遠くにはなります。餅を先端に付けた竹を皆さんもっています。
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反対側にも点火いたしました。
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火が大きくなるにつれて見学の輪が広がっていきます。
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火が積み上げられた雑木の上の部分まで上がりました。
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見学のわが広がっ来たのが判ってもらえると思います。
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少し離れて撮りました。火の粉が高く上がっているのが判ってもらえると思います。
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動画でも紹介します。点火すると一気に火が大きくなりました。 最後のころは仕込んだ竹が爆発する音も聞くことが出来ます。


見学の人の数も私の経験の中で一番多かったです。
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遠くからの動画を紹介します。竹の割れるが続きます。


クリックすると拡大ここで竹が倒れました。
中央の竹の「ドウシンボク」の倒れた方角で一年の豊凶を占います。青菅側(南側)に倒れると青菅が豊作、先崎側(北側) に倒れると先崎が豊作と言われています。今回は南側に倒れたので今年は青菅が豊作です。暗くて分かりにくいけれども左下に葉のついた竹が倒れています。倒れる前に、竹の先端の葉の部分に火が移ると右の写真(2015年1月14日撮影)のように炎が高く上がります。今回は火が先端に移る前に倒れてしまったために右のような写真は撮れませんでしたが、それでもすごい迫力でした。
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炎はさらに大きくなりました。
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下の部分も燃え上がっています。
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完全に炎に包まれるときもありました。
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9本の竹が倒れた直後からの動画です。


竹が倒れてしばらくすると餅を焼く人が、餅を先端に刺した長い竹や木で餅を焼き始めますが、かなり輻射熱が強烈なので、まだ大人の男性の一部だけです。すごく長い竹が用意されていた理由が判りました。
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私も焼いてみました。手前から炎に向かって竹が延びているのが判ると思います。これが私の竹です。焼けたと思ったらすぐに離れました。
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焼けた私のお餅です。餅は先端の方が燃えました。どうやら前からの輻射熱が強烈なようで来年からは餅の刺す方向を変えてみます。竹は他の人に渡して撮影に専念いたしました。
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フラッシュを使うと餅がよく見えます。こちらの刺し方の方が片面ですが、餅全体が焼けそうです。
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フラッシュなしです。
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かなり熱いので焼けたらすぐに後ろに下がります。
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動画でも餅焼を紹介します。中盤から餅焼きが始まります。


まだまだ火は強いです。
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ワンちゃんも見に来ていました。
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少し離れててみました。
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さらに離れた景観です沢山の人が見学に来られているのが判ってもらえると思います。
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さらに遠くからの景色です。
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土曜日だったこともあり沢山の子供たちが来ていました。子供たちが近づけるほどの日の勢いになって来たようです。ここから子供たちを中心にほほえましい「どんどれえ」を紹介したいと思います。
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こちにも家族で餅焼きです。
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火が弱くなってきたと言えどもまだまだ火の勢いはありました。
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クリックすると拡大どんどれえの火で焼いたお餅を食べると一年間風邪をひかないそうです。こちらの女性も2人の娘さんのお母さんで、この後、右の写真のように3人で一緒に餅を焼いていました。右の写真は小さいけれどもクリックすると大きく拡大します。
実はこのお餅の焼き方は正式なやり方なのです。
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二股に分かれた栗の枝の先にお餅を刺して焼くのが正式のやり方だそうです。
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この時の炎の具合です。
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兄弟での餅焼きの記念写真もいい思い出になると思います。


驚くほど沢山の子供たちが見に来ていました。
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子供4人でお餅を焼いています。思い出になると思います。
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動画でも紹介します。今までに見に来た中で子供たちが一番多かったです。動画はインタビューの光景から始まります。


インタビューの光景です。取材をしているのは地元のテレビ局のケーブルネット296で、近いうちにこの「どんどれえ」が放送されると思います。
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こちらの子が、たいまつ(松明)で「どんどれえ」に点火しました。
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火が少し収まってきました。門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」を持ち帰り、門口にさすと、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。
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弱まったと言えどもまだ火の勢いはありました。
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ほとんどの見学の人は帰られて、残っている人は僅かです。
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私が離れる時の火の状態です。見学の人はいなくなって、火が燃え尽きるまで見守の人だけが残っていました。
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家に帰ってさっそくお餅をいただきました。元々が柔らかいので、そのまま美味しくいただきました。偶然ですが、配られるお餅は私の知り合いの方が当日についたものです。その方にどんどれえ塚の前で会ってもう一ついただきました。そちらは家で焼餅にして醤油と海苔をつけて食べました。やっぱりつきたて美味しかったです。
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青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。近くの道に車を停めることは可能ですが、土曜日曜など混むときは下記の地図の駐車可能場所( )と記載した場所(広い空地)に車を停めることをお薦めします。
駐車可能場所( )からどんどれえ塚( )までは420mです。
 どんどれえ塚         千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  千葉県佐倉市先崎233
 駐車可能場所         千葉県佐倉市宮ノ台1丁目18-2
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1400m
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート   740m


追伸
2017年1月22日は私の誕生日でした。JALとANAとBIGLOBEと任天堂さんからメールが届いて気が付きました。個人からメールが来ないのはちょっと寂しいですね。ただし神戸での飲み会のメールが2つ届きました。実は2月3日から10日まで関西です。下の写真はBIGLOBEさんからプレゼントされた壁紙です。オリジナルサイズは1920x1080ですが480x270に縮小して紹介しています。
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こちらはANAさん
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こちらはJALさん
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こちらは任天堂さん
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下高野の辻切り 2016年 [風習・歴史]

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千葉県八千代市下高野の辻切りを初めて紹介したのが2010年1月26日でした。その記事に対して下高野の辻切りのメンバーであるkazuさんから 2011年10月4日に辻切り作りのお誘いをいただいたのをきっかけに2012年から藁のヘビ作りに参加させてもらっており今年2016年も参加させていただいたので、報告させていただきました。2012年からは、2013年以外はすべて参加させていただきました。2013年は1月24日から1月27日まで海外に出ていたために参加できませんでした。

最初に藁のヘビ作りのお誘いをいただいた2011年10月4日のkazuさんからのコメントを紹介いたします。
初めてお便りいたします。 下高野の辻切り大変良く取材されていますね、関心致しました。 私も辻切り作りのメンバーの一人です
毎年、1月の最終土曜日か日曜日に制作していますよ。 作り方は胴体部分は注連縄と同じです。頭は特殊で文章ではあらわせないんです。 お札は地区の神主さんから頂いた、塞神(さいのかみ)で「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神が刷られているお札です。そのほかにヒイラギと杉の葉を刺します。
これは他地区から入る疫病や悪霊を、痛くて入らないようにする為と言い伝えられています。
実際の作り方をご覧になられるようでしたら、上記URLにお便りください。 来年の日時をお知らせいたします。
by kazu (2011-10-04 13:06)

辻切りは集落に病気や災いの侵入を防ぐために集落の道の境(辻)にワラのヘビを掛ける風習です。災いを切るために辻に取り付けることから「辻切り」と呼ばれているようです。写真の一年前のワラのヘビを取り外して新しく作ったワラのヘビを取り付ける作業なのです。下高野の辻切りは1月の最終の土曜日か日曜日に行われることが多いようです。今回の辻切りの作業は2016年1月31日に行われました。基本的には節分前までに行うそうです。右の小さな写真は2015年の写真です。通常は日曜日に行いますが2015年のみ月曜日でした。
下高野の辻切りに関する今までに掲載した記事を紹介します。
 2010年1月24日(日) 下高野の辻ぎり
 2012年1月29日(日) 下高野の辻切り行事に参加させていただきました。
 2012年1月29日(日) 我が家にも小辻を飾りました。下高野の辻切り
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 2014年2月02日(日) 下高野の辻切り 2014年
 2015年2月02日(月) 参加 記事は未掲載(右の写真)
 2016年1月31日(日) 下高野の辻切り 2016年
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この写真で中央ち左端の中間あたりにビニールハウスがあり、そのビニールは上の中でワラのヘビを作ります。中央の木が生い茂った丘は戦国時代に臼井城を守るための出城(下高野館)がありました。
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こちらのハウスの中でワラのヘビを作ります。
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皆さん集まって作り始めました。集合は9時で、ハウスの中は暖かかったです。
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私も蛇の頭を作り始めました。 藁を7本で作りました。少し小さいので10本くらいの方がよかったかもしれません。
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編んだ頭を2つ重ねると大きな口を開いたヘビの頭が完成です。針金で2つが離れないように縛っています。
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頭が完成すると胴体を作ります。胴体はしめ縄の作り方と同じだそうです。下高野では6ケ所の境に取り付けるので6体のヘビを作るので一日仕事になります。
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10時に甘酒に漬物で一休みです。
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恒例のあられ(おかき)も出してもらえました。
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今回は写真を趣味にされている方もこられていました。うれしいことに私のブログを見て辻切りを知ったそうです。一週間前に来られて近所の方に、1月31日に辻切りを作ることを知ってこられたそうです。


胴体は3本のワラをねじって太い縄にしますが、最初2本で作って3本目をねじりながら巻いていくところです。
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胴体が出来ると飛び出したワラをハサミで切ってきれいにします。
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6匹のヘビが完成したところで自分の家の入口に飾るワラのヘビを作りました。教えていただきながらですが何とか完成しました。集落の境に飾るヘビは大きいので、通称、大辻(おおつじ)と呼ばれているのに対して、家用は小さいので小辻(こつじ)と呼ばれています。
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小辻のヘビの頭はワラ3本で作りました。大辻の場合は3本と書かれているところが7本~10本です。10本だと頭の大きな迫力のあるヘビ(大辻)になります。小辻も大辻も7列にするのは同じです。
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ここで昼食となりました。時間は11時50分でした。
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写真ではおにぎりは2個ですが、3個入っていました。ビールは2本いただいてしまいました。
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下高野のワラのヘビの特徴は胴体がしめ縄のように滑らかなことです。その滑らかにするための作業がこちらです。
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こちらの動画を見ていただくと滑らかにするための詐欺要が分かってもらえると思います。


ここまで完成いたしました。後はお札やヒイラキなどを飾り付ける作業だけです。
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こちらが蛇に飾るトウガラシとヒイラキと杉の枝です。トウガラシは目と舌になります。
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ヘビに飾り付けを行っているところです。飾り付けの順番は決まっています。取り付けるお札には塞神と大きく書かれています。塞神(さいのかみ)は八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比女神(やちまたひめのかみ)、久那戸神(くなどのかみ)の三柱の神様で、境の神でもあります。
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4本にお札が付けられたところです。残りの2蛇用のお札は辻切を取り付ける場所に板版近い家の人が十尾しているので蛇を取り付ける時に受け取って取り付けます。4匹の内、1匹の飾り付けの順番が間違えています。気が付いて辻に飾るときに位置を変えました。
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6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①~⑥の順番にみんなで取り付けにいきました。境界となる地域は次の通りです。その地域の方向にヘビの頭を向けて取り付けます。頭の方向に矢印()を書き込みました。
   ① 井野  ② 上高野 ③ 米本  ④ 保品  ⑤ 先崎  ⑥ 青菅
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最初の①の場所に取り付けます。この時13時53分でした。ワラのヘビを作ったビニールハウスの横なので歩いて持って行って取り付けます。後の場所は軽トラで持っていきます。
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脚立を使って取り付けるのはこちらだけです。
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一年間無事に境を守ってもらうので、落ちたりしないように丁寧に取り付けます。
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冒頭の写真です。取り付けが完了いたしました。井野地区方面ににらみを利かしているのです。
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個人の家の小辻は事前に個人個人作られて、すでに取り付けられていました。
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辻切りを取り付けている作業は以前にも紹介したので2番目から5番目を取り付けている写真は省略致します。この写真は最後(6番目)⑥の辻切りを取り付けている写真です。この大辻は青菅方面ににらみを利かしています。
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辻切りを取り付ける時のひもの結び方の動画を紹介します。これを覚えると便利だと思います。


終わったところで蕎麦屋さんで打ち上げとなりました。まだ15時でしたが下高野の方が電話すると快く開いてもらえました。下高野の方はよく利用されているようでした。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926


お通しです。ゴボウの料理です。
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お漬物も用意されていました。
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ここまでの料理はお任せで準備されていました。
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さっさくビールで乾杯です。
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蕎麦屋では珍しいホンビノスカイをいただきました。
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ホンビノスカイの味は濃厚です。
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こちらのから我々が頼んだ料理です。もつ煮込みです。
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野菜炒めも頼みました。
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レバー炒めを頼みました。ニラは無かったので、もやしが使われていました。これは結構おいしかったです。
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最後の締めはやっぱり蕎麦です。2時間半ほど楽しみました。それでは始まるのが早かったので18時前でした。
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翌日の②月1日に小辻を取り付けました。
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近くの地区にも辻切りの風習が残っています。隣の地区である青菅、先崎には辻切りの風習は残されていませんでした。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 6ケ所 八千代市下高野 ヘビ形
 5ケ所 八千代市上高野 ヘビ形
 8ケ所 佐倉市井野   ヘビ形    別の記事
 5ケ所 佐倉市小竹   しめ縄形

2016年の「青菅のどんどれえ」は1月14日18時点火 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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毎年1月14日には千葉県佐倉市の無形民俗文化財にも指定されている青菅地区のどんど焼き「青菅のどんどれえ」が行われています。2013年から欠かさずに見に行きました。どんどれえは、どんどれえ塚に、「どうしんぼく」と呼ばれる1本の竹を立てて、それを中心にして9本の孟宗竹を立てて、どんどれえを作るそうですが、前々から、そのどんどれえを作るところの写真を撮りたいと思っていました。すでに遅いかもしれないと思いつつ、1月11日に見に行きました。予想していたとは言え、近づいてがっかりでした。すでに建て終わっていました。先週から見に来ておくべきでした。どんどれえを建てることを「竹立て」と呼びます。参考に最近「竹立て」が行われた日をネットで調べてみました。クリックすると拡大その日が下記です。着色文字をクリックすると竹立ての写真が掲載された記事を表示します。
 2009年 : 1月11日  2010年 : 1月10日
 2011年 : 1月09日  2012年 : 1月08日
 2013年 : 1月06日  2014年 : 1月05日
 2015年 : 1月11日  2016年 : 1月 ?日
確認できている範囲では竹立てはすべて日曜日に行われていることから、来年の2017年の竹立ての日としては1月8日の可能性が高いと予想しています。8時に初めて11時に終わるようです。したがって2016年の竹立ては1月10日に行われたような気がします。右の燃えている写真は2015年のどんどれえです。非常に残念ですが、どんどれえ当日の1月14日は飲み会のために見に行けません。

どんどれえが行われる広場の一番遠いところから撮った写真です。
写真は2016年1月11日14時31分に撮りました。一般的には「どんど焼き」ですが、こちらでは江戸の初期から続く小正月の伝統行事で、この青菅地区では「どんどれえ」と呼ばれています。安永年間(1772年~1780年)から一度も欠かすことがなかった行事でもあるそうです。
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近づいて撮りました。ここで、1月14日の18時から盛大に「どんどれえ」が行われます。今までに掲載した記事を紹介します。興味のある方はポチッをクリックしてみてください。
 2013年1月14日 → ポチッ 大雪の中のどんどれえ    
 2014年1月14日 → ポチッ どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 → ポチッ 初めて餅を焼きました。
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1月14日夕刻に行われるの理由は、この伝統行事が小正月の行事であり、小正月(こしょうがつ)は1月14日の日没から1月15日の日没までのためと思われます。ちなみに佐倉市の2016年1月14日の日没は16時48分で、日出は6時49分です。
爆竹のような音は、この竹が熱で爆発する音なのです。何層にもこの竹が仕込まれており迫力を伝えてくれます。
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破裂音を出すための竹を拡大いたしました。円筒は強いので節の部分の平らなところが破裂するのだと思います。この太さですから迫力が分かってもらえると思います。
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冒頭で説明の通り、今年の1月14日は東京の八丁堀で飲み会があるため「どんどれえ」を見に行けません。そのために、本番を紹介できないので2015年の写真を掲載させていただきました。興味のある方は是非とも佐倉市の青菅まで来ていただき本物を見てほしいです。


2015年の動画も紹介します。撮った動画を6本すべて連結させたので5分53秒の動画になってしまいました。


見に行かれる方のためにGoogleの航空写真で「青菅のどんどれえ」が行われた場所を紹介いたします。赤色マーク( )の場所です。航空写真でも拡大すると、はっきりと「どんどれえ塚」がわかります。
ちなみに が庚申塔で、が辻切りのある場所です。
  最寄駅 ユーカリが丘線 中学校駅 1.5km 徒歩18分
  徒歩  https://goo.gl/maps/K1muRYQUeyr 中学校駅からの経路
  電車  https://goo.gl/maps/oJRdfGrcbQo  京成船橋駅からの経路
  駐車  周辺の道は狭いので、少し離れた場所をお勧めします。
  住所  千葉県佐倉市青菅69-2


1月14日の佐倉市の天気予報の変化を追記していきます。画像をクリックするとオリジナルページを表示します。
 1月11日19時44分時点の予報 曇時々晴 降水確率20% 4℃/11℃
 1月12日06時25分時点の予報 曇時々晴 降水確率20% 4℃/11℃
 1月12日12時30分時点の予報 曇時々晴 降水確率10% 3℃/11℃
 1月12日17時00分発表の予報 晴時々曇 降水確率10% 3℃/11℃
  クリックすると佐倉市の天気予報
1月14日18時の佐倉市の天気予報の変化を追記していきます。画像をクリックすると0時からの予報を表示します。幸いにも当日は晴天になりそうです。ただし、寒くなりそうなので暖かい服を着ていくことをお勧めします。
今朝の気温はマイナス3℃でしたが日中は11℃まであがり、どんどれえが始まる18時には4~5℃に下がりそうです。
 1月13日02時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日04時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日06時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日08時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日10時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日12時発表の予報 晴れ 5℃ 60% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日14時発表の予報 晴れ 4℃ 64% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日16時発表の予報 晴れ 4℃ 64% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日18時発表の予報 晴れ 4℃ 64% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月13日20時発表の予報 晴れ 4℃ 62% 降水量0mm/h 風速0m/s
 1月13日22時発表の予報 晴れ 4℃ 62% 降水量0mm/h 風速0m/s
 1月14日00時発表の予報 晴れ 4℃ 62% 降水量0mm/h 風速0m/s
 1月14日02時発表の予報 晴れ 5℃ 62% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日04時発表の予報 晴れ 5℃ 62% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日06時発表の予報 晴れ 5℃ 62% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日08時発表の予報 晴れ 5℃ 58% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日10時発表の予報 晴れ 5℃ 58% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日12時発表の予報 晴れ 5℃ 58% 降水量0mm/h 風速1m/s
 1月14日14時発表の予報 晴れ 6℃ 52% 降水量0mm/h 風速1m/s
  クリックすると全体表示

2016年1月14日の10時に正月飾りと辻切り(小辻 / 藁の蛇)を、どんどれえ塚に持って行って写真を撮りました。見ての通り快晴で夕方まで好天が続く雰囲気で、絶好のどんどれえ日和でした。
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持って行った我が家の正月飾りと、藁の蛇の小辻です。
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どんどれえ広場の雰囲気を紹介したいので動画も撮りました。
こちらも2016年1月14日10時ごろの映像です。

下高野の例大祭の幟倒し [風習・歴史]

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2015年10月18日追記 タイトル: 下高野の例大祭の幟倒し
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千葉県八千代市の下高野地区の天満宮の大例祭のために立てられていた2本の大きな幟(のぼり)を2015年10月15日の13時に降ろす(倒す)との連絡を前日にkazuさんからコメントでいただいたので見に行かせていただきました。13時に着くと皆さん集まっておられました。3方向に引っ張っていたロープの1方向を除き、すでに緩められていました。本来は例大祭の翌日である10月11日の13時に倒されるのですが、その日は前日の夕方からの雨のため幟が濡れていたことから、幟が乾くのを待ってこの日に決められたそうです。翌日の10月16日から雨になったことから10月15日は絶好の日となりました。

クリックすると拡大3つの木のキーと一番下の鉄パイプで、幟の支柱が固定されているのです。ロープを皆が待つと、3つのキーの内2つを外して倒す準備が完了です。ロープを緩めていくと下の鉄パイプを中心に倒れていくのです。右の写真が鉄パイプの部分を拡大したものです。鉄パイプは小さいものですが重要な役目を果たしているのです。
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結んでいたロープをほどきます。


木のキーを2本外しました。これから倒していきます。
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倒れていく方向の反対側のロープを皆が持って支柱をゆっくりと倒していきます。
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左手で持った動画用のカメラで撮影を続けながら、右手で持ったフルサイズの一眼レフのファインダーを覗いて写真を撮るので苦労がわかってもらえると思います。そんな状況での動画はある程度はぶれてしまうので冒頭の動画の揺れはご了承ください。
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小さな鉄パイプを軸にして倒れたことが判ってもらえると思います。
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その倒して行く動画を見てください。倒しはじめだけ倒していく方向のロープを引きます。途中で一眼レフの方のシャッター音が聞こえると思います。
是非ともプレーボタン( )をクリックして見てください。


支柱が倒れるとすぐに幟を外し始めます。


ロープもすぐに束ねます。


外した幟は丁寧にたたみます。若い方も参加されていました。
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支柱の一番下の鉄パイプを抜きます。支柱を保管棚に持って行くと1本目の幟倒しは終了です。


1本目が終わると2本目の幟を倒す準備に入ります。先ずはキーを抜きます。


2本目の幟を倒す作業は動画を見てください。最初に木のキーを抜いている音が聞こえると思います。キーが抜けるとすぐに倒しはじめます。
こちらも是非ともプレーボタン( )をクリックして見てください。


支柱が倒れました。
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幟を外す作業に入ります。
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横棒や支柱の天辺の飾りを外します。


天辺の飾りは榊(さかき)と笹(ささ)です。この飾りは支柱が建てられていたところの地面に突き刺すのです。
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昔は木曽の部分はコンクリートではなく、木で出来ていて取り外しが出来ていたそうです。今はコンクリートは移動できないのでコンクリートの基礎の間に笹と榊の飾りを挟み込みます。つまり昔は地面に飾りが単独で突き立てられていたのです。
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2枚目の幟もたたみます。
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皆で支柱を運び始めます。
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支柱は保管用の棚に並べます。
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支柱を保管場所に置いて概ね作業は終了です。支柱の天辺の飾り(笹と榊)がコンクリートの土台の部分に挟むように立てられているのが判ってもらえると思います。
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木のリングと幟(のぼり)は来年の10月8日まで大切に保管されます。
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無事に作業が終わって、リーダーの方からの、終了の挨拶で、解散です。
作業を始めてから18分後でした。建てる時は約50分なので半分以下の時間で出来たことになります。
下高野の天満宮には現在は常駐の神主さんはおられないので、10月10日の大例祭は、神主さんに来てもらって行われました。沢山の人が参加するのではなく5年に一度回ってくる役員の方だけが参加するそうです。したがって一世帯一人の参加なので参加者は最大で9人までだそうです。ただし5年のサイクルで考えればすべての世帯の人が参加していることになるのです。



2015年10月12日掲載 タイトル: 下高野の例大祭の幟建て

2015年10月8日に千葉県八千代市の下高野地区で大きな幟(のぼり)を建てるイベントに参加させてもらいました。先ずは幟が取り付けられた支柱を起こすところの作業の動画を紹介いたします。是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。
左手のカメラで動画を撮りながら、右手のカメラで写真を撮っているのでカメラのシャッター音が聞こえると思います。
実は一昨年の2013年10月11日に同じ幟を見せてもらったのですが、その大きくて立派な幟に驚いて、機会があれば、幟を起こすところを見たいと思っていました。前日の10月7日に子の地区の方で、いつもお世話になっている kazuさんからメールで10月8日に起こす作業があるとの連絡を頂いたわけです。
順番に幟を建てる作業を紹介したいと思います。

10月8日の8時に皆さんが集合されました。この場所に2本の幟(のぼり)が建てられるわけです。


左端に丸い穴が開いている柱が幟を取り付ける2本の支柱です。下の部分は四角く、上の方は丸くなっています。
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このコンクリ―トの基礎の部分に支柱を固定します。女性の方が運んでいるコンクリートの土管は作業がしやすいように支柱を斜めに固定するものです。
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柱の根元の基礎の部分はコンクリートですが、昔は木で作られていたそうです。これが当時の柱を取り付ける根元の部分です。
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倉庫を開けているところです。
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倉庫には支柱の上野部分とロープが保管されています。
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こちらが幟と、支柱に停めるための輪です。
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みんな総出で支柱の下の部分を保管場所から移動します。
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これから支柱を作業場所にセットするのです。
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柱の一番下にパイプを入れます。このパイプを中心に起こしていきます。
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支柱は2分割になっており、つないで長くしまう。
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支柱の上の部分を差し込んでいるところです。
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支柱に幟を取り付ける目の輪を入れます。


支柱の先端には飾りの笹を取り付けます。


横棒を支柱に取り付けているところです。


幟を横棒と支柱に入れた輪に取り付けているところです。


3本のロープを柱にしっかりと結びつけます。


このロープを使って支柱を起こすとともに起こした後に支柱が垂直になるように固定します。
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支柱に取り付けた幟をロープを引っ張って起こしていきます。左手のカメラで動画を撮りながら、右手の重たいカメラで写真を撮ったので、結構、苦労させられました。
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七雄は徐々に起きて行きました。
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垂直になったところでコンクリート基礎に固定用の木を差し込みます。
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これがコンクリートの基礎に木を差し込んだ写真です。
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この後、3本のロープを三方に引っ張って支柱を垂直にします。
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3本のロープは電柱や木にくくりつけて固定します。
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こちらのロープは大きな木の根の部分にくくりつけています。


2本目の幟も同じように建てます。別の角度からの動画なので是非ともこちらも見てほしいです。2本目の幟建ての撮影に関しては動画に専念いたしました。


2つの幟が建ちました。
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建てられた幟の前で皆さんの記念写真もいたしました。この時8時48分だったので約50分で2本の幟が建てられたことになります。


10月11日13時30日の写真です。本来は10月11日の13時から幟を降ろす作業に入るとのとのことですが、前日の夜から、この日の午前中は雨が降っていたことから幟を降ろすのは断念したようです。幟が完全に乾いてから降ろすものと思われます。
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現在は黄色の楕円の場所に2本の幟が建てられていますが、昔は2本の幟は別々に空色の楕円の部分に建てられていたそうです。保管場所から運んで建てるのが大変なことから保管場所の黄色の楕円の部分に2本まとめて建てられるようになったとのことでした。
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クリックすると拡大航空写真で場所を紹介します。
  天満宮(菅原神社)
  現在の幟(のぼり)の設置場所
  昔の幟(のぼり)の設置場所
  下高野館跡 (戦国時代の城 右の写真)



2013年10月16日掲載 タイトル : 下高野の例大祭の幟(のぼり)
2013年10月の記事→ポチッ
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クリックすると拡大いろんな伝統行事が行われている千葉県八千代市下高野地区で神社の例大祭が10月10日に行われて、2本の幟(のぼり)が立てられていると、10月10日の夕方にコメントで教えていただいたので、翌日の2013年10月11日の10時ごろに見に行きました。午後の1時に幟を倒すと教えていただいていたので午前に行くことにいたしました。教えられた通り、下高野地区の公会堂に立派な幟が2本立てられていました。2つの幟は同じように見えますが、実は違うのです。わかりますか?  答えは下に書かせていただいております。
幟を見た後に神社によって帰る途中で偶然にも、今回のことを教えていただいたkazuさんに会えて例大祭の行事のことを、いろいろと教えていただきました。
例大祭(れいたいさい / 例祭)を調べてみると、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされているものだそうです。一般的に例大祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われるそうで。例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日です。特に由緒のある日のない場合は、春祭りや秋祭りをもって例大祭としているそう。例大祭が行われる日は毎年一定で、変えることはできないものとされています。下高野でも10月10日で決まっており、変わることはないそうです。
神社は菅原道眞が祀られてしますが、菅原道眞の誕生日は承和12年6月25日(845年8月1日)で命日は延喜3年2月25日(903年3月26日)で10月10日でないので誕生日や命日とは別の由緒のある日のようです。
現在の新しい幟は1982年に奉納されたもので以前のものよりも分厚い生地が使われたそうです。
上で質問させていただいた2つの違いの答えはそれぞれが表と裏の関係になっているのです。写真だと右の幟が文字かちゃんと読めると思いますが、左の幟は文字か左右反対なのです。つまり向こう側から見ると字が読めるのです。どの方向から見てもわかるようにした先人の知恵なのかもしれません。
幟には奉納天満宮昭和五十七年十月吉日下高野氏子中紀佑民謹書の文字が書かれていました。右の写真をクリックすると拡大するので左右の違いが、わかりやすいと思います。太い竿ですが、高さがあるので上から3分の1付近を、3方向からロープで引っ張っています。3本×2で計6本の太いロープも迫力がありました。

行事は先ず10月8日に、この幟を建てもことから始まるそうです。例大祭の告知が目的なのだと思います。そして10月10日に神社で神主さんに来ていただき例大祭が行われるそうです。10月8日が雨の場合は幟は立てないで10月10日の例大祭のみが行われるそうです。そして10月11日の午後に幟が倒されて例大祭の行事が終了だそうですが、10月11日が雨の場合は倒す日を延ばしていくそうです。いずれにしても幟が完全に乾くまで待つそうです。
10月8日以降、台風24号の影響で少し雨が降りましたが、この日は強風の上に快晴で幟も完全に乾いたようなので、予定通り13時に倒すと言われていました。
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幟の布地は非常に分厚くて丈夫のようでした。以前に強風でちぎれたことがあったので分厚くされたそうです。この写真でも分厚さが感じてもらえるのではないかと思います。かなりの重さだと思います。
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これが、幟を垂直の竿に止めている輪で、木をくり抜いて作られている貴重なものだそうです。この輪は篠を火であぶって曲げ輪にしているものだそうです。木をくり抜いて作られているのは竿の継ぎ目の部分だそうです。以前に破損したことがあり、今回も強風で破損を心配されていましたが、すべて無事だったようです。これだけ立派な幟はなかなか見ることのできない珍しいのだと感じました。


幟を見た後に例大祭が行われた神社にも行ってみました。神社は以前に紹介した下高野館の記事の中で書いていた菅原神社です。その菅原神社に行く途中には八千代市で指定されている立派な保存樹の間を抜けていきます。
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こちらが10月10日に例大祭が行われた菅原神社です。天満宮とも呼ばれています。一般的に天満宮は菅原道真を祭神とする神社で、天満神社や菅原神社や天神社と呼ばれることがあるそうです。また通称として「天神さま」や「天神さん」とも呼ばれていることがあります。下高野では菅原神社となっているようです。
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鳥居には真新しい注連縄が取り付けられていました。例大祭のために新しい注連縄に取り換えられたのだと思います。あるいは例大祭の時に取り換えられたのかもしれません。その点はkazuさんに聞き忘れました。
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これが新しい注連縄です。以前に藁の大蛇を作る行事に参加した時に注連縄を作る名人の方がおられたので、その方が作られたのだとおもいます。


横に置かれていた古い方の注連縄の具合からも最近に取り換えられたことが伺えました。下高野地区には昔からの伝統行事が沢山残っています。これは地元の方々が伝統行事を大切にされてきたためだと思います。今までに体験させていただいたり、記事に書いたり、お話を聞かせていただいた下高野地区の伝統行事です。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
  庚申塔   7年ごとに奉造(次は2021年)
  庚申講
  十九夜塔 7年ごとに奉造(次は2021年)
  女人講
  藁の大蛇の辻切り
  伝統的な節分行事
  出羽三山参拝とボンデン塚の奉造
  奥州講とボンデン飾
  大師参り
  菅原神社の例大祭

風土記の丘の古民家 [風習・歴史]

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前回、自転車で行った時は朝早いために開館前で内部が見れなかったためにもう一度行ってきました。今回は内部の4枚の写真を追加したしました。
龍角寺古墳群がある場所を「風土記の丘」と呼ばれています。その風土記の丘の中に古い民家が2軒あります。「旧御子神家住宅」と「旧平野家住宅」です。自転車との記念撮影は「旧御子神家住宅」でした。

こちらが「旧御子神家住宅」を正面から撮りました。
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居間の部分です。囲炉裏が印象的ですが内部は想像以上に広かったです。
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土間には竈がありました。こちらが煮炊きを行ったのでしょう。
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こちらが「旧平野家住宅」です。大きな庭があるのですが正面からだとファインダー内に入りませんでした。
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旧平野家住宅は旧御子神家住宅よりさらに大きかったです。
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昔の道具類が並べられていました。
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古民家の航空写真を紹介します。2つの古民家は114の古墳で構成された龍角寺古墳群の中にあり、近くには旧学習院初等科聖堂や、岩屋古墳もあります。このあたりで有料の施設は昔の村を再現した房総の村と房総風土記の丘資料館だけで、後は古民家も含めて全て無料なのがうれしいです。航空写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると周辺地域が判ってくると思います。
  旧御子神家住宅    旧平野家住宅


気持ちがいい橋があったので撮られてもらいました。 散策マップを見てもらえれば、この辺りの雰囲気が判ると思います。
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房総の「八つの井戸」伝説 [風習・歴史]

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龍角寺地区および酒直地区には、きれいな水が湧く八つの井戸があり、民話にもなっているそうです。龍角寺でもらった散策マップを頼りに自転車で探し当てました。

その一つを訪ねてみました。説明には平安時代より伝わる古井戸とありました。
このあたりには7っの民話が残っているそうです。その中の一つが「八つの井戸」です。写真をクリックすると文字が読める大きさになります。
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ネットで調べた7つの民話です。
その一三ヶの岩屋」…岩屋古墳のあたりに妖怪が住んでいて、人々がそのすみかの前で膳や椀などを借りたいと願い事をすると翌朝その願いが叶えられました。
その二八つの井戸」…人々は清水の湧く八つの井戸を使っていましたが、不便さからほかの場所に井戸を掘ると、その家に必ず不幸が起こりました。
その三親は古酒、子は清水」…岩屋古墳そばの湧き水は親が飲むときには古酒で、子どもが飲むとただの清水でした。
その四坂田ヶ池の片歯梅」…坂田ヶ池で度々水害が起こるので母子を人柱としたところ、子どもがかじっていた梅の実から木が生え、その梅の実にはかじったような歯の跡がありました。
その五龍燈腰掛の松」…雨請いの祈祷をしていたとき三つに割れた龍の頭部が現れ、松の老木に掛かりました。
その六村雨返しの松」…村のはずれの松の老木を境にして一方では雨が降り、他方では降らなかったりしました。
その七不増・不減の石」…龍角寺境内の塔跡の石のくぼみに溜まった水は天気にかかわらず増減しませんでした。

この散策マップを探してもらってください。便利です。民話のことも書かれています。散策マップをクリックすると地図が出るので「八つの井戸」を探してみてください。
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八つの井戸は龍角寺から徒歩で3分の距離です。
ナビで行く人のために住所を紹介します。
  龍角寺    千葉県印旛郡栄町龍角寺239
  八つの井戸 千葉県印旛郡栄町龍角寺671付近


8ケ所の「八つの井戸」の全ての場所を紹介します。いつかはすべて見に行きたいと思います。
   八つの井戸
   龍角寺
クリックすると広範囲を表示

龍角寺 [風習・歴史]

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以前の9月5日に1300年前に開かれた龍角寺に行きましたが、後でネットで見ると見損ねたところがありました。先週は車で行きましたが、家からは往復60km程度で比較的気楽に自転車で行ける距離なので9月13日は自転車で行ってみました。前回の冒頭の写真につかわさせていただいた入口の階段です。今回、掲載した写真はクリックすると全て拡大します。気になる写真があればクリックしてみてください。

手前の建物が土蔵で出来た薬師如の収蔵庫です。向こう側の拝殿とつながっており間の扉を開けると拝殿側から薬師如を見ることが出来ます。この日は、7時半と朝早かったので、まだ扉が開いていませんでした。
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これが、前回の時に見なかった1933年(昭和8年)4月13日に国が指定した塔の史跡です。龍角寺境内の塔址 - 建立当初は33メートル程の三重の塔が建っていたと推考されています。現存する花崗岩は、塔の中心を通る柱の基礎です。またこの中心礎は"不増・不滅の石"といわれ、柱が収まる穴に溜まった水は、大雨でも日照りでも増減しなかったと言い伝えられています。
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寺の一番奥に当たる校倉作り資料庫の裏には趣きのある石碑が沢山ありました。『佐倉風土記』等の伝えるところによれば、和銅2年(709年)竜女が現れ、金の薬師如来像を祀ったのが創建とされ、天平2年(730年)釈命が寺として整備し「龍閣寺」と号したそうです。伝承によれば、翌天平3年(731年)この地域が干ばつに見舞われたとき、釈命が祈祷したところ、印旛沼の龍が天に昇って雨を降らせたが、その龍の体は3つに分かれて地上に落ちてしまい、その3つに分かれて死んでしまった龍の頭の部分をこの寺に祀り「龍角寺」と改称したといわれています。伝承では龍の腹が落ちた地の寺が龍腹寺(千葉県本埜村)、尾が落ちた地の寺は龍尾寺(千葉県匝瑳市大寺)という名前になったといわれています。
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少し趣の違う石碑もありました。当地には古代から仏教寺院が存在したことは間違いないそうです。発掘調査によって、金堂が西、塔が東に建つ「法起寺式伽藍配置」の遺構が検出され、出土する瓦の様式編年から、この地には7世紀後半には伽藍が存在したことが明らかとなっているそうです。これは上記『佐倉風土記』の伝える草創伝承よりもさらに古い年代でだそうです。
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クリックすると拡大現存する114基の古墳で構成された龍角寺古墳群のリストを作ってみました。栄町教育委員会ホームページのデーターを元にしています。全長の数値は円墳の場合は直径で、方形の方墳は1辺の長さです。右の写真は101号の円墳です。この古墳だけ発掘調査に基づき、古墳がつくられた当時の様子を復元しています。
龍角寺古墳 クリックするとオリジナルの新資料を表示します。

龍角寺( )の場所を紹介いたします。



2009年9月6日掲載 タイトル:2009年は龍角寺開基1300年

千葉に前方後円墳、円墳および方墳が判っているだけで114基もある全国最大規模の龍角寺古墳群があることはあまり知られていないと思います。そのすぐそばに龍角寺がありますが、その龍角寺も知られていないと思います。新聞に紹介されていた御蕎麦屋さんに2009年9月5日に昼食を食べに行っき、帰りに、久しぶりだったので龍角寺古墳群に行って見ました。そして、そこから龍角寺まで700mと書かれていたので散歩がてらに龍角寺まで歩いてみました。行くまでは龍角寺がどんなお寺かも知りませんでした。来てみて知ったのが、寺と言っても金堂や門はありませんが建物の跡が当初のかたちに残っている歴史的に価値のある史跡のようなお寺でした。この階段が寺への入口です。関東で最も古い寺の一つであることも知りました。
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階段を上がると地面に石の基礎らしいものがありました。これは仁王門跡です。奥の小さな建物が拝殿でその奥の収蔵庫に薬師如来坐像が安置されています。実は薬師如来坐像の頭部は1300年前のもので、歴史的に価値があると知りました。拝殿の前に立っていると住職さんらしい方から声を掛けられて拝殿の中に入ることが許されて薬師如来坐像を拝観させてもらいました。


これが薬師如来坐像です。大きさは人間とほぼ同じ大きさでした。実際に拝殿の中に入れていただき拝観させていただきました。龍角寺開基1300年記念事業として特別拝観が行われており、偶然ですが、訪れた日(2009年9月5日)がその初日だったのです。あの高野山が2015年に開創1200年を迎えることから、それより長い1300年は歴史を感じさせてくれます。
薬師如来坐像は写真撮影禁止なので拝殿の横の説明書きの写真を撮らせていただきました。薬師如来坐像は709年ごろの作と言われています。ただし火災にあい胴体は溶けてしまいましたが頭部だけが残り元禄正徳ごろに全体が修復されたそうです。すなわち胴体と頭は年代が違うそうです。と説明をしてもらいました。
薬師如来坐像は国重要文化財で千葉県内最古の白鳳仏でもあることも知りました。

建物の手前の広場が金堂跡です。建物は校倉作り資料庫です。高さ33mの塔もあったようで、その跡も史跡ととして残されています。塔跡のことは後で知りました。
 所在地  千葉県印旛郡栄町龍角寺239
 山号   天竺山
 宗派   天台宗
 本尊   薬師如来
 創建年 伝・和銅2年(709年)
 中興年 承久2年(1220年)
 中興  上総介平常秀
 正式名 天竺山 寂光院 龍角寺
 文化財 銅造薬師如来坐像(国重要文化財)
       龍角寺境内の塔址(国史跡)
       龍角寺出土遺物(県文化財)


校倉作り資料庫は茅葺ですが上をトタンで保護しています。 校倉作り資料庫は明治初期建造の物で、当初、宮内庁下総御料牧場にあった物ですが、空港建設に伴い境内に移築されたそうです。


拝殿と金堂跡の間には左右に石塔が並んでいました。こちらが右側で

こちらが左側です。龍角寺が開かれたのが709年とのことなので今年(2009年)が丁度1300年目になり、の丁度1300年目に訪れたのも偶然でした。


奥の二荒神社の近くにあった石碑です。これの年代は江戸時代のようです。薬師如来坐像の特別拝観は9月5日、9月6日、10月3日、10月4日、10月11日、10月18日、10月25日、11月3日、11月8日、11月15日と限られた日です。
詳しいイベントはこちら→ポチッ


航空写真で龍角寺を紹介します。

2015年 青菅のどんどれえ 初めて餅を焼きました。 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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1月14日は毎年千葉県佐倉市青菅地区のどんど焼き「青菅のどんどれえ」が行われています。今年もいつもと同じように2015年1月14日に「青菅のどんどれえ」が行われました。火が下火になった頃に、木の枝に刺した餅を、火にかざして焼き、その場で食べると、一年間風邪を引くことがないと言われています。2013年から「どんどれえ」を見に来ましたが、木の枝が無かったことから、焼いて食べることが出来ませんでした。地区の人のご厚意により、餅はいただけるので今年は、木の枝を用意して焼いて食べることにいたしました。今回は餅焼きを中心に「青菅のどんどれえ」を紹介したいと思います。ポチッをクリックすると記事を紹介いたします。
 2013年 → ポチッ 大雪の中のどんどれえ    
 2014年 → ポチッ どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年 → ポチッ 初めて餅を焼きました。
 2016年 → ポチッ 2016年の'青菅のどんどれえ'は1月14日18時点火

青菅のどんどれえは9本の高い竹が特徴です。下から見上げてみました。
この江戸時代初期から続く伝統行事は佐倉市の無形民俗文化財にも指定されています。
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上の写真は南側から撮ったものですが、周囲の雰囲気を紹介したいので北側に広がる田んぼから撮った写真も掲載いたします。
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正月飾りと辻切りの小辻を、どんどれえで焼いてもらうことにしました。


どんどれえ塚に置いた我が家の正月飾りと小辻です。
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餅を焼く棒を用意いたしました。この写真のように先端を尖らせています。偶々、雑木林で手に入れた枯れ木の枝が3つに分かれていたので3個の餅を焼くことが出来ます。本来は枝が二股に分かれた栗の木を使います。


嬉しいことに餅を用意していただいていました。


驚いたことに、今年は餅を焼く棒を用意していただいていました。


棒を用意していただいていましたが、やはり持っていたった自分たちの棒を使うことにいたしました。このように頂いた餅を突き刺しました。


いよいよ点火です。お神酒をかけた後に火が着けられました。3人の内、2人は小学生です。この時、18時でした。


火はすぐに大きくなりました。
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上の方にも火が回りました。大きな竹の割れる音が響き渡ります。
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全体の姿です。


炎の手前のシルエットが我々の餅です。3つの餅で判ります。


遠くから撮ると炎と火の粉が高く上がっていることが判ってもらえると思います。
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迫力を感じてもらうために縦長の写真も掲載いたしました。写真をクリックするとさらに大きな迫力の写真を表示します。


動画で見てもらうと周囲の雰囲気を感じていただけると思います。竹が割れる音も確認できると思います。


火の勢いがあるので遠巻きにしてみています。餅を先端につけた棒を持って火の勢いが落ちるのを待っています。
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別の角度からの動画でも紹介します。


まだ火の勢いがあるけれども餅焼きが始まりました。


長い棒が必要なことが判ってもらえると思います。


このように、餅だけでなく松の枝を焼いている人もいました。家の門松を焼いているのだと思います。門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」を持ち帰り、門口にさすと、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。自分の門松ではなく燃え残りでもいいのですが、門松の燃え残りを確実に持ち帰るアイデアだと思います。


一番手前の女性は赤ちゃんを抱っこして餅を焼いています。
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この時点では火の勢いが収まるのを待っている人の方が多かったです。火の粉が沢山落ちてくるのが判ってもらえると思います。黄色い線のように見えるのが火の粉です。


この時点で、私も餅を焼き始めました。


これが焼きあがった餅です。火が強いので焦げています。一番上の餅は、その場で2つに分けて食べました。焼いたその場で食べるのが意味があるそうです。残りの2個はぜんざいにするつもりで持ち帰りました。
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これが持ち帰った餅です。片面しか焼けていないので反対側をオーブントースターで焼きました。
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これが作ったぜんざいです。
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よく焦げた方の餅を入れたぜんざいです。香ばしくて美味しかったです。これで一年、風邪をひかないですごれるかもしれません。


追伸
2015年1月15日の早朝から海外(中国)に行きます。帰国する1月23日まではネット事情から皆さんのところへの訪問が難しいことを、お許しください。フライトは成田9時35分発の上海行きなので家を7時ごろに出発する予定です。

9番目の辻切りが小学校に飾られました。 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2014年4月16日追伸 タイトル:9番目の辻切りが小学校に飾られました。
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下高野の辻切りの記事で紹介している通り2014年2月2日にクリックすると拡大近くの小学校に飾ってもらうために井野地区の隣の下高野地区の方々の協力により作って、お渡しした藁の大蛇(辻切り)が、井野小学校の校庭の木に飾られていることを、4月15日に車で通りかかった時に偶然に見つけました。さっそく写真を撮り、追加掲載させてもらいました。これで9番目の辻切りが、何年かぶりに実現したことになります。2ケ月が経過して蛇の頭が、すでに垂れてしまっているのは、少し残念ですが、うれしいですね。

下高野地区で大辻と呼ばれる藁の大蛇を作った時の写真です。上に6本と手前に1本、置かれているのが判ると思います。6本は下高野地区のための辻切りで手前の1本が井野小学校に飾ってもらうために作ったものです。実は手前の1本は手伝ってもらいながら、私が作った大辻(辻切り)です。
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2013年4月14日追加 タイトル:井野の9番目の辻切り
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千葉県の佐倉市井野地区には地区の結界に藁の大蛇を飾り、外からの病気や災いを防ぐ願いをこめた風習が今も続いています。その井野地区では8ケ所に大蛇が飾られているのです。ところがワンコの散歩の時に9番目の辻切りを見つけました。上の写真の木に辻切りである藁の大蛇が少なくとも1976年には飾られていたのです。木の左に辻切りに関する1976年の説明書きがありました。

その場所は1971年に開校した佐倉市立井野小学校の校庭です。
下の地図のの空色のマークが今も大蛇が飾られている8ケ所の場所です。
今回の9番目の辻切りの場所は黒い点のある紫のマークの場所です。住宅地の大規模な造成にともない2011年6月4日に住所が変更されました。
   旧住所 千葉県佐倉市井野834
   新住所 千葉県佐倉市西ユーカリが丘三丁目1番地6


この説明の看板のおかげて見つけました。実は最近、この場所に新しい道が出来たことからワンコの散歩コースの一つになったのです。おかげで偶然ではありますが見つけることが出来ました。説明内容を枠内に記載します。
この看板は昭和51年2月1日(1976年)に建てられてものです。
井野の辻切り(民俗行事)
毎年一月二十五日、井野地区の人々は、わらで大蛇をつくり組境の立木かけて、よそからのわざわいをふせいできました。
こ丶にかけらけた大蛇は井野地区の人々のご協力によるものです。
  昭和五十一年二月一日
井野小学校   佐倉市教育委員会


最近出来た道路の反対側から撮りました。立木のバックにあるのが井野小学校の校舎です。この辻切りは昔からかけられていたものか、近所の人が学校が出来てから紹介するために、かけられるようになったのかはわかりませんが、少なくともある期間は9番目の辻切りだったことには間違いありません。


井野小学校の門の前からも辻切りの大蛇がかけられる立木が見れます。
辻切りは、地区の結界の辻に近い家の人が藁の大蛇を作って、かけのですが、この辺りは新しい造成地が作られて昔からの人が引っ越してしまったことから、この9番目の大蛇(辻切り)が、かけられなくなったものと推察されます。
3年生の人たちは1月26日ごろに近隣の辻切を探索活動を続けておられるようなので、今度は自分たちで作ってかけるのもいいかもしれません。
新しい道路がユーカリが丘駅までつながったのを機会に、是非とも、この9番目の辻切りを復活させてほしいと思います。近隣には昔の方は住まわれていないので、復活出来るとするならば、井野小学校の生徒の方々です。先生と協力して是非とも復活させてほしいです。
辻切りの作り方は1月25日の下の地図の7番目の場所の方に教えてもらうのがよいと思います。あるいは八千代市下高野地区の辻切りが作られるときに見学をお願いするのもいいかもしれません。
    井野地区  →ポチッ
    下高野地区→ポチッ

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2009年6月7日掲載 タイトル:井野の辻切り 2008年

井野の辻ぎりと言う民族的な習慣を紹介しました。
2008年にも写真を撮っていたので、その時の写真も紹介いたします。
設置された1月25日から1ケ月経過した状態です。

下の地図が井野の辻切りが設置される場所です。
①〜⑧までを、すべてを確認してきました。
   

①の辻切り
ここの蛇の目だけは赤い目でした。取り付ける地域ごとに作っているのでしょう。ここは、すぐ側を車が通る場所で取り付ける場所に苦労しているようです。
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②の辻切り
こちらも新しい家が沢山建っている場所でした。この木が一本しかないです。
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③の辻切り
昔ながらの場所でした。大きな木の高いところに取り付けられていました。
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④の辻切り
この④だけは古い辻切りのままになっており、新しい蛇が置かれていませんでした。その代りに新しいお札と木の枝が置かれていました。
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2005年の④の写真がネットに掲載されていました。
まさにこの藁の蛇さんのようです。比べてみてください。 
    ⇒ t38-④.jpg

⑤の辻切り
田んぼの中の辻でした。
IMG_3113⑤-480.jpg

⑥の辻切り
こちらも田んぼの中の辻でした。雑木林の木に取り付けられていました。
IMG_3115⑥-480.jpg

⑦の辻切り
畑の中の辻の木に取り付けられていました。
IMG_3136⑦480.jpg

⑧の辻切り
京成電鉄のユーカリが丘駅のすぐ側です。今までに何度も通りましたが、意外と気がつかないのに驚きました。尻尾の部分は公園のフェンスに括られていました。
IMG_3135⑧-480.jpg

井野にも下高野と同様に各個人の家にも辻切りと同じような習慣がありました。ただし藁の蛇ではなくて注連縄でした。いくつか紹介いたします。
こちらの家では草鞋の形の注連縄でした。
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藁縄を束ねた注連縄もありました。
IMG_3119-480.jpg

こちらは輪にした注連縄でした。家によってそれぞれなのがこの地域の特徴のようです。
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下高野の庚申塔 [風習・歴史]

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2011年10月9日掲載 タイトル:下高野の庚申塔
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小学校の校庭の庚申塔を以前紹介いたしました。江戸時代のものが中心で、クリックすると拡大手入れもあまり行われていない雰囲気でした。そこから2km足らずの場所で庚申塔を見つけました。全部で13体でした。一番古いものは1727年と小学校の校庭の庚申塔と同じように江戸時代が中心ですが、ここでは新しい庚申塔がありました。

右の写真の卒塔婆(そとば)と呼ばれる木の板もお供えされていました。まだまだ風習がつづいていることを実感させられました。
ラッキーなことに、すべて庚申塔の年代を読み取ることが出来ました。
先ず後列の右から
 1889年 明治二十二年 四月
 1822年 文政五年  十一月
 1758年 宝暦八年   十月
 1895年 明治二十八年 三月
 2000年 平成十二年  三月
そして前列の右から
 2007年 平成十九年  三月
 1861年 文久元年   三月
 1858年 安政五年  十一月
 1809年 文化六年  十一月
 1790年 寛政二年  十一月
 1727年 享保十二年  十月
 1974年 昭和四十七年 三月
 1993年 平成五年   三月
なんと平成の庚申塔が三体も入っていました。昭和の庚申塔も入れると4体が新しいものでした。
3月と11月が多いことも判ります。
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前列の左端の庚申塔だけ正面を向かずに左を向いていました。大きな道路は左にあるためかもしれません。この横向きの庚申塔は珍しく(?)白い文字で書かれていました。


一番の驚きは2007年(平成19年)にも庚申塔が建てられていることです。今も庚申信仰が続いていることを示しているのだと思います。これが平成19年の庚申塔です。
以前に掲載した「下高野の辻切り」にコメントいただいたkazuさんから説明をいただきました。それによると
今は年の始めの最初の申の日に庚申講として行われているそうです。青面金剛の掛け軸を掛け、世間話をして宴を開くそうです。
昔は庚申(かのえさる)の日に庚申講または庚申待ちとして行われていたとされているそうです。神仏を祀り、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かしたらしいです。神の信仰は猿田彦神、仏は青面金剛(しょうめんこんごう)だそうで、猿田彦神は天孫降臨の時、邇邇芸尊(ににぎのみこと)の道案内をしたとされ、庚申塔にも、三方向にその方向の地名を彫ってあるのもあるそうです。kazuさんの地区でもいろいろなところに庚申塔があり、三猿や道案内の地名を彫ってある石碑もあるそうです。
最古の庚申塔は享保12年だそうで、基本的には7年に一回庚申塔を建て、今も継続している。
そうです。


下の大きな写真の庚申塔が、13体の中で最も古いものです。 享保十二年(1727年)に建てられました。小さい方の写真が2番目に古い宝暦の庚申塔です。なかなか立派なので、これからこれらを「下高野の庚申塔」と呼びます。青面金剛の特徴を持っているものです。下高野には不思議な風習辻ぎりが残っています。
この庚申塔以降は下のように数十年に一回の割りに建てられていますが平成になってからは7年ごとです。
          奉造間隔
  享保  1727年  ↓
  宝暦  1758年 31年 31年
  寛政  1790年 32年 63年
  文化  1809年 19年 82年
  文政  1822年 13年 95年
  安政  1858年 36年 131年
  文久  1861年  3年 134年
  明治  1889年 28年 162年
  明治  1895年  6年 168年
  昭和  1974年 79年 247年
  平成  1993年 19年 266年
  平成  2000年  7年 273年
  平成  2007年  7年 280年
  平成  2014年  7年 287年


同じエリア(10m程度はなれた位置)に二十六夜塔かありました。これは月待信仰と呼ばれるものだそうです。


さらに、そのそばに小さなほこらがありました。中に石板があり薄っすらと赤い字で道祖神と書かれているのが判りました。
道祖神(どうそしん)は、路傍の神だそうです。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、 芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場しました。 村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているそうです。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっていて餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残ているそうです。


田んぼの横にも同じようなほこらがありました。豊作を願うのでしょうか。



クリックすると拡大2012年1月12日追伸 タイトル:今日は庚申講です。
今日(2012年1月12日)は千葉県八千代市下高野地区の年に一度の「庚申講」の日だそうです。kazuさんからコメントをいただいたので紹介のために本文に記載して再投稿いたします。下記にkazuさんのコメントを紹介いたします。
以前は「庚申(かのえさる)の日」(60日に一回)に行っていましたが、数十年前から年一回になりました。
年の初めの1~3日を除いた最初の申の日に行われています。
庚申(かのえさる)ですから申の日なんです。
当番は年一回になってから4軒になり、家順になっています。
再来年(2014年)は前回の石建てから7年目になります。
十九夜講の石建てと一緒に行われます。
当日は宴会と「餅投げ」が行われ、前回もみなさん一生懸命お餅を拾っていました。
(注)十二支と十干の組み合わせの「最小公倍数」は60ですから60日毎に行われていました。
ちなみに還暦はこれと同様に60歳ですよね。

庚申講は男性のための講ですので、女性は出席されません。
女性は十九夜講の方です。
前にお話ししましたように7年に一度両方の石建てを行いますので分かれているんですね。
この日はあの庚申塔の一番古い「享保十二年十月吉日」にも刻まれている「青面金剛」の掛け軸を掲げ、ロウソクとお線香に火をともして講が始まります。
昔は「フナの叩き汁」と言うような特殊の汁物も作りましたよ。
フナを一匹っまま、なた包丁で骨まで叩いて細かくし、味噌を混ぜてツミレ状にして、野菜をたくさん入れて醤油味にしたものです。
私が30歳くらいまでは行われていました。

それでは、下高野の年間行事を一覧表にしてみます。
ご興味がございましたら是非ご参加ください。
正月三が日:天満宮の合格祈願の絵馬に、願い事を書いて頂き奉納して頂きます。三が日を過ぎてもご依頼がございましたら、いつでも奉納して頂けます。

1月: 三が日を除いた最初の申の日。   「庚申講」
   25日 天満宮のおびしゃ(初天神) 「天神備社」(天神びしゃ)
   27日 毎月27日はお不動様    「念仏を唱える」
   28日 お不動様のおびしゃ     「不動備社」
   最終日曜日または土曜日       「辻切り」
2月: 最初の午の日(伏見稲荷の縁日)  「初午備社」
   14日 出羽三山に由来する     「梵天ハギ」(ぼんでん)*1
4月: 中旬 弘法大師の寺参り      「千葉寺大師参り」
7月: 最初の未の日           「未祭り」
   15日天満宮などお宮の掃除     「宮なぎ」
   20日前後の日曜日、出羽三山参り経験者 「奥州講」*2
9月25日 弁天様のお備社        「弁天備社」
10月8日  天満宮と書かれた幟(のぼり)「天満宮の幟立て」
10月10日 村社、天満宮のお祭り    「菅原神社祭礼」
10月11日 お祭りの終わり       「天満宮の幟倒し」
 
*1,2は5種類の色紙を特殊な切り方や折り方で、梵天というものを作り、篠の先に刺す。
奥州三山塚に行って、梵天を神前に刺し祝詞をあげてお参りする。
・梵天は奥州参りに行って、その後亡くなられた方への供養です。
・奥州講では同じ梵天を作り、三山塚に奉納します。

明治新政府は神仏分離令を出して、神社から仏像を一掃しました。
下高野では明治以前の行事そのままに、神仏習合として奥州三山の神社の「梵天」と仏様の梵天ハギの「梵天」を同じように作っています。
以上が下高野の行事です。ご参加されたいものや写真に残したい行事がございましたら お知らせください。

来年以降の最初の「申の日」と「庚申の日」を調べてみました。
 2012年 1月12日(木) 壬申   2月29日(水) 庚申
 2013年 1月06日(日) 壬申   2月23日(土) 庚申
 2014年 1月13日(月) 甲申   2月18日(火) 庚申
 2015年 1月08日(木) 甲申   2月13日(金) 庚申
 2016年 1月15日(金) 丙申   2月08日(月) 庚申 1月3日が初甲の日
 2017年 1月09日(月) 丙申   2月02日(木) 庚申
 2018年 1月16日(火) 戊申   1月28日(日) 庚申
 2019年 1月11日(金) 戊申   1月23日(水) 庚申
 2020年 1月06日(月) 戊申   1月18日(土) 庚申


2014年3月16日追伸 タイトル:下高野の平成26年の庚申塔
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千葉県八千代市には7年ごとに新しい庚申塔が建てられている貴重な伝統行事が残っている下高野という地区があります。すでに紹介させていただいたように、その八千代市下高野では2014年3月2日13時から女性の講中である十九夜塔の建立式典が盛大に行われました。十九夜塔も7年ごとに新しい石碑が建てられていますが、同じ日に庚申塔も7年ごとに建てられているのです。
2014年3月2日に新しく建てられた庚申塔が上の写真の前列の一番右側です。

下の大きな写真は新しい庚申塔の部分を拡大したものです。クリックするとさらに拡大します。花が供えられている庚申塔が平成26年の庚申塔で、クリックすると拡大左側が7年前に建立された平成19年の庚申塔です。新しい庚申塔の後ろの木の板は卒塔婆(そとば)と呼ばれるものです。卒塔婆は右の写真のように十九夜塔の建立式典で一旦は十九夜塔の場所に供えられて念仏が唱えられた後に庚申塔の場所に移動して供えられたものです。右の写真の右側の卒塔婆が庚申塔用で、左側が十九夜塔用の卒塔婆です。
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庚申塔の設置工事(石建)自体は3月1日に行われました。こちらの写真は十九夜塔の建立式典が行われる前の3月2日9時50分に撮ったものです。まだ卒塔婆や花は供えられていませんでした。
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新しい庚申塔は正面には鮮やかな朱色で「庚申塔」と書かれており、左面には「下高野講中」と書かれています。
右面には「奉造 平成二十六年 三月吉日」と刻まれています。287年続いている伝統行事として、今でも定期的に新しい庚申塔を建てられる地区は非常に珍しいことだと想定されることから、シンプルな庚申塔ではありますが、現時点において伝統行事として建てられた庚申塔では、全国で一番新しい庚申塔なのかもしれません。
いずれにしても平成二十六年の庚申塔は非常に貴重なものだと思います。こちらの庚申塔塚には新しい庚申塔も含めて14基が設置されていました。ネットで調べた範囲では、さわらびYさんの記事に平成の庚申塔は千葉県木更津市の戸隠神社に平成20年に復元された庚申塔が3基あるそうです。
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下高野の庚申塔の位置をでプロットしてみました。
上の写真のように庚申塔が沢山建てられた場所を「庚申塔塚」と呼ばせていただきます。その庚申塔塚が緑色マークです。
地区の十九夜塔は寺院の敷地などの一か所に建てられますが、庚申塔の場合は庚申塔塚だけでなく地区の辻などにも単独で設置されます。その辻などに設置された庚申塔が黄色マークです。
赤色マークが下高野で十九夜塔がまとめて設置されている場所です。空色マークが下高野以外の近隣地区の庚申塔です。
画面の中の右端のは佐倉市先崎の庚申塔塚です。画面外にもプロットしているので-のアイコンをクリックしてもらうと八千代市米本、佐倉市青菅、佐倉市井野、佐倉市小竹の庚申塔の場所を表示します。赤色ライン内が八千代市下高野です。紫色マークは今は移設されてありませんが、昔に庚申塔が建っていた場所です。
   庚申塔   庚申塔塚 14基 1~9 18 21~24 
   庚申塔   単独設置 10基 10~17 19 20
   庚申塔   10番の移設前の位置
   十九夜塔  32基
   庚申塔   近隣地区 先崎 青菅 小竹 米本

より大きな地図で 八千代市下高野 を表示
下高野の庚申塔を一覧表にまとめました。全部で24基です。内訳は庚申塔塚に14基で、単独に辻などに設置されている庚申塔が10基です。庚申塔が単独で建てられているのは一時期、庚申塔は「道しるべ(道標)」のして役割も果たしていたためであると推測されます。道標となっていたのは明治28年(1895年)~昭和40年(1965年)であったことが、一覧表にしてみて判りました。したがって、辻に設置された◆マークもすべて明治28年(1895年)以降になっています。
十九夜塔は32基に対して庚申塔は24基です。十九夜塔は女性の講中の石碑で、庚申塔は男性の講中であり、同じ年から始まっていることから数が8基も違うのは不思議です。これは、十九夜塔は同じ場所に建てられる石碑であることから、下高野に現存している十九夜塔は32基であると言えます。失われた数も少ないと思われるのに対して、庚申塔はいろんな場所に設置されたものも多くあることから、失われた可能性も高い上に、まだ発見できていないものもあるかもしれません。
道沿いは下高野の方(Kazuさん)も丁寧に探されたようなので、現存していて、まだ見つかっていないものがあるとすれば八千代ゴルフクラブの敷地内ではないかと思われています。八千代ゴルフクラブの敷地内には昔は道があったとのことだそうです。ただし、道標として庚申塔が建てられるようになったのは1895年からなので、現存する可能性があるとすれば、1899年、1933年前後の2基ではないかと想像されます。それ以前のものは建てられていたとしても、すでに失われた可能性が高いと思われます。庚申塔塚は複数あることも考えられることから、1895年以前の物も現存する可能性はゼロではありません。表をクリックすると十九夜塔の詳しいデーターを表示します。
クリックすると十九夜塔
               十九夜塔の建立年   庚申塔の設置場所
               ◎ :完全に一致    △:庚申塔塚
               〇:近似年に建立   ◆:辻などに単独
庚申塔の形式 ( 写真はクリックすると拡大 )
 青面 : 青面金剛像  文字 : 青面金剛(文字)    文字 : 庚申塔(文字)
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

庚申塔塚の庚申塔はすでに2011年10月9日の記事で紹介しているので、今回は、辻などの道端に単独で設置されている庚申塔と道標を兼ねた庚申塔を新しい順(18 17 15 14 13 12 11 10 9)で紹介いたします。道標と兼ねた庚申塔が限られた期間だけに存在するのは興味深いことです。庚申塔に書かれている文字を赤色文字で「正面→右面→裏面→左面」の順番に紹介いたします。

こちらが20番(1986年)の庚申塔です。
こちらの庚申塔は庚申塔塚から道路を挿んだ辻に建てられていました。辻に建てられていますが道標にはなっていませんでした。ただし庚申塔の後ろには古い道標が建てられていました。庚申塔に書かれていた文字は次の通りです。
  正面   庚申塔
  右面   昭和六十一年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   下高野講中
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こちらの辻には2基の庚申塔が建てられていました。
新しい方が19番(1979年)の庚申塔です。
道を挟んだ場所には藁の大蛇の「辻切り」が設置される場所でもあります。こちらも道標ではありませんでした。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔
  右面   昭和五十四年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   下高野講中
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こちらが19番(1979年)の傍の17番(1965年)の庚申塔です。
こちらは道標(道しるべ)の庚申塔です。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔 下高野講中
  右面   東 先崎 ニ至ル
  裏面   昭和四十年三月吉日
  左面   西 大和田 ニ至ル  正面 志津 ニ至ル
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こちらは16番(1958年)の庚申塔です。
下高野の人達が住んでいる集落の中に建てられていました。こちらも道標タイプの庚申塔です。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔 下高野講中 
  右面   北ノ方 保品 ニ至ル
  裏面   昭和三十三年三月吉日
  左面   西ノ方 米本 ニ至ル
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先崎との境界の15番(1940年)の庚申塔です。
すぐそばには下高野の馬頭観音や先崎の馬頭観音がありました。書かれている文字を紹介します。現在の地名で「當區」は見つかりません。小竹の庚申塔の中に「當村講中」と書かれたものがあることから、今は存在しない當村と関係しているのかもしれません。「區」は「区」と同じであり、「村」と解釈することが出来るのかもしれません。また當は当の意味があるようで当地区(下高野)を示している可能性もあるようです。
  正面   庚申塔  此方 米本 ニ至ル  下高野講中
  右面   此方 當區 ニ至ル
  裏面   昭和二十七年三月吉日
  左面   此方 先崎 ニ至ル
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米本に近いところに建っていた14番(1940年)の庚申塔です。「米本いなり」は米本稲荷神社だと思われます。
  正面   庚申塔 下高野講中
  右面   北 米本いなり道  東 先崎 青菅道
  裏面   ( 空白 )
  左面   西 米本 城橋道  昭和十五年三月吉日
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こちらは13番(1926年)の庚申塔です。この部分は歩道を作るために盛り土がされたようで庚申塔の下の部分は地面に埋まってしまっていました。そのために文字の下の方は読み取れませんでした。
  正面   庚申塔  米本 城橋・・・・・・
  右面   上高野道・・・・・・   大正十五年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   青菅 臼井・・・・・・
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こちらが冒頭で紹介の2014年3月25日に新しく見つけることが出来た12番(1920年)の庚申塔です。2014年3月13日にKazuさんが2基の庚申塔を発見されて、さらにKazuさんが八千代ゴルフクラブ内で大正二年の庚申塔を見つけられたことで、明治28年以降で見つかっていなかった庚申塔は3基のみとなっていましたが、今回の発見で残りが昭和8年と明治32年前後の2基となりました。その2基を探して、八千代ゴルフクラブの敷地以外の、昔の道があったと思われるところを隈なく探しましたが見つけることが出来ませんでした。これで、残りの2基の探索は八千代ゴルフクラブの敷地内ですが、無断で入ることが出来ないので、次の、なんらかの機会にゆだねることにいたします。今回発見された庚申塔に書かれていた文字は次の通りです。
  正面   庚申塔  下高野講中  西 米本いなり道
  右面   北方 米本城橋道
  裏面   大正九年三月吉日
  左面   東 青菅臼井 道
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こちらが庚申塔の裏面です。この裏面は東方向に建てられた思われますが、現在はフェンスの土台に南方向に立掛けられていたことから、フェンス工事の時に地面から抜かれて、現在の状態に立掛けられたと思われました。この庚申塔の裏面の自然の地肌を掘り込んでいるところは11番の大正二年の庚申塔に似ていました。
 場所はこちらです。 →
 ポチッ
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2014年3月16日にKazuさんから八千代ゴルフクラブ内で大正二年の庚申塔が発見されたと連絡があり、次の4枚の写真も送っていただきました。12番(1913年)を上の一覧表に追加いたしました。書かれている文字を紹介します。その道しるべに書かれている「北 保品渡船」から、大正初期には保品に印旛沼(新川)を渡るための渡し船があったものと思われます。
  正面   庚申塔  西 米本稲荷 下高野区中
  右面   南 上高野
  裏面   東 臼井 大正二年三月吉日
  左面   北 保品渡船
   正面      右面       裏面         左面
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

さっそく2014年3月24日に新しく発見された12番(1913年)クリックすると拡大庚申塔を見に行きました。ゴルフ場の中であることが判ってもらえると思います。庚申塔に書かれている西、南、東、北は実際の方向を示していることから、建てられた時の方向通りに今も建っていると思われます。一方、この庚申塔は道に背を向けて建っていることから、庚申塔の後ろの道は、後から出来たものと推察します。
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こちらは十九夜塔が設置されている福蔵院の敷地の中に建てられていた10番(1906年)の庚申塔です。元々は、こちらの庚申塔は上の地図の紫色マークの近くに建てられていたものを保護の目的で福蔵院に移設されたものです。下の写真を見てもらえると庚申塔がかなり削られているのが判ると思います。これは某大学の研究員(学生)が分析のために削って持ち帰ったようです。偶々、学生が削りに来ているところを地元の人が見つけたそうです。右下の写真が元々建てられていて石が削られた場所です。
クリックすると拡大さらに削られないように福蔵院に移設したそうです。この庚申塔の赤色の石材が珍しいそうで、分析のために削ったそうです。
  正面   庚申塔
  右面   東 青すげ道  先さき
  裏面   右 米本いなり道
  左面   明治三十九年三月吉日
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庚申塔塚の14基の庚申塔の中で、一つだけ「道しるべ」が書かれている庚申塔があります。
正面から見て左面に「北 先崎道」と書かれた大きな庚申塔が判ると思います。
それが9番(1895年)の庚申塔です。庚申塔に書かれている文字を紹介いたします。
  正面   庚申塔  西 米本城橋道
  右面   ( 空白 )
  裏面   東 青菅 臼井 道
  左面   北 先崎道  明治廿八年三月吉日
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参考に下高野の外側の近隣地域(先崎、青菅、井野、小竹、米本)の庚申塔を紹介します。いずれも古い庚申塔で、下高野のような平成の庚申塔がないことからも今も庚申塔を建て続けていることが貴重なことであることが判ってもらえると思います。


こちらは佐倉市先崎の庚申塔塚です。下高野の境界線に隣接した空色マークの場所です。
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こちらは佐倉市青菅の庚申塔塚です。
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こちらが佐倉市小竹の庚申塔塚です。
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こちらが佐倉市おだけ井野の庚申塔塚です。
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下の写真は2014年3月25日に下高野の新しい庚申塔を探すために下高野を散策した時に足を延ばして撮りに行った八千代市米本の庚申塔塚です。道路脇にきれいに並べられていました。ここには庚申塔だけでなく二十三夜塔(1基)や馬頭観音(3基)や猿田彦命(さるだひこのみこと 1基)や月讀尊(つきよみのみこと 1基)の石碑も並べられており、クリックすると拡大さらに道標の書かれた庚申塔も複数あることから10基の庚申塔の内、いくつかは後世に集められた庚申塔塚なのかもしれません。クリックすると拡大するので是非とも見てください。右の写真の2基の庚申塔は八千代ゴルフクラブの敷地内にありました。道路のすぐ脇に建っていたので撮らせていただきました。
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2014年3月17日追伸
今日の15時から3月22日夕刻まで関西に出かけます。この間はネットへのアクセス手段は空港のラウンジとネットカフェだけとなるため、記事の更新など、限られたことしかできません。皆様の記事へ本格的な訪問は3月23日からとなることをお許しください。
帰って来ましたらKazuさんが、新しく発見された大正二年の庚申塔を見に行きたいと思います。


2014年3月26日追伸 サブタイトル:24基目の庚申塔を見つけました。 
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いつもお世話になっている下高野のKazuさんが、本ブログのコピーを親しくされている下高野のTさんに見せたところ、Tさん畑の近くの道沿いに庚申塔があるとの連絡がありました。さっそくKazuさんに同行して2014年3月25日に庚申塔に探しに行きました。その結果、上の写真の大正九年の庚申塔を見つけることが出来ました。下の道標を兼ねた庚申塔を紹介している欄に詳細を追加掲載いたしました。追加したところは紫色の文字にしています。

十九夜塔の建立式典 下高野 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県八千代市下高野には2014年2月28日の時点において子安観音あるいは如意輪観音が合わせて31基が建てられている場所があります。観音像の台座に女人講中と書かれていることでわかるように、すべて「十九夜講の石碑」なのです。以降、「十九夜講の石碑」は十九夜塔と呼ばさせていただきます。
十九夜講は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、念仏などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待講)の一つです。つまり十九夜塔は月待塔の一つでもあります。文献史料では室町時代から確認されているそうで、江戸時代の文化・文政のころに全国的に流行したそうです。下高野では十九夜講で、今でも2ケ月に一回、この場所に集まられているそうです。
ネットの中に下高野の十九夜塔も入った資料がありました。→ポチッ
この研究されている方のブログによれば、千葉県で現存する最古の十九夜塔は千葉県香取市石納480番の結佐大明神にあるそうです。承応元年十二月十九日(1652年)に建てられたもので「十九夜侍之供養」と台座に刻まれているそうです。

動画でも新しい十九夜塔の設置前の2014年2月28日の時点の状態を紹介いたします。建物の中からは建立式典で行なわれる念仏を練習されている音と声が聞こえていました。台座には女人講中あるいは女人中と書かれていました。千葉県では十九夜塔が1997基ほど確認されているそうです。古い十九夜塔が注目されていますが、今も十九夜塔が7年ごとに建てられて、平成の十九夜塔が沢山立っているのは珍しいのではないでしょうか。ただし7年ごとに建立されている理由は、まだ調べ切れていませんが、昔から引き継がれてきた伝統だと思います。さらに今後も十九夜塔が12基(84年)ぶんも建てられるスペースが作られているのも非常に珍しいことだと思います。


クリックすると拡大そして翌日の2014年3月1日の10時から右の写真のように32基目の新しい十九夜塔の設置工事(石建)がおこなわれ1時間くらいで完了したそうです。3月1日の石建て日には、こちらに来れなかったので、下高野の辻切り庚申塔梵天飾りなどの件でお世話になっているkazuさんから、右の写真をメールで送っていただきました。
下の写真が十九夜塔の建立の行事の当日3月2日の朝9時57分の写真です。3月2日は、あいにくの雨であったことから十九夜塔は、まだビニールで覆われていました。私は下高野の人間ではないけれども、ありがたいことに3月2日の建立式典に参加させていただきました。この日の13時から下高野の人たちが集まって十九夜塔の建立の行事が行われための準備がすでに行われていました。十九夜塔の建立の行事の正式の呼び名は判らないので「十九夜塔の建立式典」と呼ばさせていただきます。
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建立式典の30分前、2014年3月2日12時半の写真です。きれいに飾り付けがされていました。13時から式典が始まります。
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冒頭の写真の反対方向から見た十九夜塔群です。これだけ並ぶと見事です。
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準備が出来たところで記念撮影を撮られてました。十九夜講は安産や子供の無事成長を祈る女性のための行事であることから主役の10名の女性の方たちと、世話人である4組の夫婦の方たちで記念撮影を撮られていました。私もシャッターを押す手伝いをさせていただきました。石碑の台座の横に世話人の4名の名前が彫られています。主役の女性の方は若い方なので、理由を聞くと子供が大きくなると脱退されるためだと教えていただきました。それを聞いて、まさに安産や子供の無事成長を祈る行事なのだと実感いたしました。



式典の準備が整いました。御供えのお餅は上段が赤で下が白い紅白の餅でした。真中に乗っているのはダイダイでしょうか。十九夜塔の後ろの木の板は卒塔婆(そとば)と呼ばれるものです。左側が十九夜塔用で右側は庚申塔用です。
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13時から式典が始まりました。最初は念仏が行われます。本来ならば十九夜塔の前で行なわれるのですが雨のために、十九夜塔側の窓を開けて福蔵院の中で行われました。念仏は女性の方ですが先ほどのメンバーではなく、念仏講の人たちが行っているそうです。窓の下の段ボールの中には餅投げ使われる餅やお菓子が沢山はいっていました。直会(なおらい)用のビールなども沢山置かれていました。直会は地区の皆さんが参加される神仏の前で行なわれる宴会のことです。


念仏を行っているところを小さな写真で紹介させていただきます。25分程度の長さの念仏が2回ほど行われました。計50分くらいでした。十九夜講は2ケ月に1回ですが、念仏講は月に1回だそうです。右下の画面は動画で、念仏の始まりの部分です。



念仏を動画でも紹介します。動画は念仏が始まった頃なので人は少ないけれども徐々に人が増えてきました。雨だったので出だしが遅かったようです。


念仏が終わると除幕式です。念仏が始まったころとは集まった人数が違います。これからさらに増えていきました。
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世話人の方が除幕をいたしました。
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庚申塔用の卒塔婆は、新しい庚申塔にお供えし完成です。
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参加者の方々の待望の餅投げです。お餅だけでなくお菓子も投げられるので子供たちは大喜びでした。


一人当たりスーパー袋に半分から満杯の量が巻かれました。


動画でも紹介いたします。子供たちの歓声が伝わってくると思います。


建立式典のあとに十九夜塔にはお札が張られました。お札には一枚を除いて「十九夜講中 下高野」と書かれていました。「十九夜講中 下高野」ではないお札を、写真をクリックして探してみてください。正解は一番最後の写真のところに記載いたします。
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裏側にも、お札が貼られていました。さらに翌日3月3日には近隣の佐倉市先崎の雲祥寺、佐倉市青菅の正福寺、佐倉市井野の千手院の十九夜塔にも「お札貼り」と呼ばれる行事が行われました。
下高野の十九夜塔の建立式典は概ね次の通りです。ただし直会の時期に関しては想像で書かせていただきました。
 3月1日 新しい十九夜塔の設置(石建) → 新しい庚申塔の設置(石建)
 3月2日 式典準備 → 念仏 → 除幕式 → 餅投げ → 直会
 3月3日 十九夜塔へのお札貼り → 隣接地区の十九夜塔へのお札貼り → 直会

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下高野と隣接地区の十九夜塔です。千手院には元禄十二年(1669年)の二十三夜塔がありました。平成の十九夜塔があるのは下高野だけでした。隣接ではありませんが近隣の小竹地区には観音像ではない文字だけの十九夜供養塔という平成の石碑があります。
  八千代市下高野 福蔵院の十九夜塔 32基 1727年~2014年 
  佐倉市青菅   正福寺の十九夜塔 12基 1729年~1936年(78年前)
  佐倉市先崎   雲祥寺の十九夜塔  8基 1760年~1940年(74年前)
  佐倉市井野   千手院の十九夜塔 13基 1789年~1936年(78年前)
  佐倉市小竹   西福寺の十九夜供養塔

より大きな地図で 十九夜塔 を表示
佐倉市井野の千手院の十九夜塔に行ってみました。確かにお札が十九夜塔に貼られていました。雨のために剥がれたお札もありました。下高野の十九夜塔が設置されている福蔵院は真言宗豊山派で、井野の千手院の末寺(まつじ)という関係になります。ここには十九夜塔以外に次の女人講と思われる4つの石碑も一緒に並べられていました。この4基は上の13基の数には含めておりません。
  二十三夜塔 元禄十二年 二月廿二日 1699年 315年前
  二十三夜塔 享和二年 十一月三日  1802年 212年前
  二十三夜塔 文政十三年 二月吉日  1830年 184年前
  井野村講中 文化十五年 正月廿六日 1818年 196年前
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こちらが佐倉市青菅の正福寺の十九夜塔です。やはりお札が貼られていました。柔らかい地面に直接建てられていたので地震で土台の石が傾いて倒れてしまったようです。ここは日が当たらないためか、欠けたものを除き石碑の文字はすべて、くっきりとしており年代がよく読めました。古いもの2つと新しいもの2つを紹介します。
           享保十四年 十月吉日  1729年 285年前
           宝暦二年 二月日    1752年 262年前
           大正五年 三月     1916年  98年前
           昭和十一年 四月吉日  1936年  78年前
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そしてこちらが佐倉市先崎の雲祥寺の十九夜塔です。こちらにも教えてもらった通り、お札が貼られていました。3ケ所の十九夜塔は古いものばかりです。もちろん平成の十九夜塔はありません。下高野の十九夜塔が今でも7年ごとに建てられていることが、いかに貴重なことなのかが改めてわかりました。
こちらも古いもの2つと新しいもの2つを紹介します。
           宝暦十年 十月     1760年 254年前
           文政七年 三月吉日   1824年 190年前
           大正八年 三月吉日   1919年  95年前
           昭和十五年 三月吉日  1940年  74年前
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こちらが航空写真で位置を紹介した佐倉市小竹の西福寺の十九夜供養塔です。こちらは隣接ではないので、お札貼りには行っていませんが、西福寺は「大師参り」のコースの一つのお寺ではないかと思い紹介いたしました。一番新しい十九夜供養塔は平成17年で二番目に新しかったのが平成5年だったので、小竹では12年ごとに建てているのかもしれません。写真にあるように新しいものは下高野と違い、「十九夜供養塔」と書かれた文字だけの石碑でした。「十九夜塔」と「十九夜供養塔」の違いは調べ切れていませんが「十九夜塔は、十九夜講中供養の記念として造立されたもの」との記述がありました。
「大師参り」は下高野(福蔵院)から先崎(雲祥寺)、青菅(正福寺)を経て小竹(西福寺)に行くような経路だったかと思います。Kazuさんによれば、昔は大勢で歩いてお参り(巡礼)をしたそうですが、今は少人数(昨年は16名)でマイクロバスでのお参りとなっているようです。昨年は千葉寺十善講(真言宗豊山派・奈良の長谷寺が総本部)の幟を持つお坊さんが同行されたそうです。
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それではあらためて下高野地区の十九夜塔を紹介いたします。
下高野地区の十九夜塔はすべて一か所に設置されています。雛壇のようになっており上段に1~23の23基が設置されており下段に今回設置されたものを含めて24~32の9基が設置されています。写真をクリックすると別画面で拡大写真が表示されるのでわかりやすいと思います。
左の写真が12番 13番 14番で、右の写真が18番 19番 20番の十九夜塔です。
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クリックすると拡大クリックすると拡大

クリックすると拡大八千代市下高野の32基の十九夜塔の建立時期をまとめました。建立時期は左から順番のはずなのですが、8~13に関しては入れ替わっています。実は昭和59年に大きな竜巻を含む暴風雨によってここの左側の崖が崩れて設置しなおしたそうで、その時に入れ替わったのかもしれません。地面に設置されていたものを雛壇を作って設置したのも、その昭和59年だったそうです。
昭和27年以降は十九夜塔を建立するときには同時に庚申塔も建立していることが判ります。これもすごいことだと思います。右の写真の右側が新しく建てられた平成26年の庚申塔です。現時点で24基の庚申塔が見つかっています。表をクリックすると庚申塔の詳しいデーターを表示します。
クリックすると庚申塔
       十九夜塔の観音   庚申塔の建立年  庚申塔の設置場所
        : 如意輪観音  ◎ : 完全に一致   △ : 庚申塚
        : 子安観音   〇 : 近似年に建立  ◆ : 辻など

32基の十九夜塔をすべて紹介します。28番の昭和61年(1986年)の十九夜塔には鮮やかな色の紅が残っています。写真はクリックすると拡大するので是非とも確認してみてください。
1 享保12年 1727年     2 宝暦6年 1756年     3 安永7年 1778年
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4 寛政6年 1794年     5 文化3年 1806年     6 文政3年 1820年
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7 文政10年 1827年    8 弘化4年 1847年     9 安政2年 1855年
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10 文久4年 1864年    11 天保10年 1840年    12 明治13年 1880年
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13 明治6年 1873年    14 明治21年 1888年    15 明治28年 1895年
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16 明治32年 1899年   17 明治39年 1906年   18 大正2年 1913年
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19 大正9年 1920年    20 大正13年 1924年    21 昭和8年 1933年
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22 昭和15年 1940年   23 昭和27年 1952年   24 昭和33年 1958年
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25 昭和40年 1965年   26 昭和47年 1972年   27 昭和54年 1979年
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28 昭和61年 1986年   29 平成5年 1993年    30 平成12年 2000年
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31 平成19年 2007年   32 平成26年 2014年    33 平成33年 2021年
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今回の石建ての前に撮った1番と2番の写真です。右側が1番で、左側が2番です。
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こちらが石建ての後に撮った1番と2番の写真です。こちらの写真では右側が2番で、左側が1番なのです。1番と2番の十九夜塔が入れ替わっていることが判ってもらえると思います。昭和59年に崖崩れが起きて建替えた時に最も古い十九夜塔が2番目に設置されたことから、今回の石建ての時に石屋さんに入れ替えてもらったそうです。最も古い十九夜塔の年号の部分が欠けてしまったことから今まで判りませんでしたが、下高野のKazuさんが、和暦の右半分と残った文字「十二丁未」から享保十二年の十九夜塔であることを発見されました。これは下高野に残る最も古い庚申塔と全く同じ日付「享保十二丁未十月吉日」でした。
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十九夜塔の背景にある沢山の石碑が気になっている方がおられると思います。いろんな形の石碑がありますが、全て墓石なのです。ただしこれらは昔の墓地が崩れそうになったことから貴重な墓石をこちらに移動したそうです。同時に新しい墓地も別の場所に作ったので、この場所には遺骨はないそうですが、みなさん墓参りは両方に行くそうです。いろんな墓石を紹介します。いずれも江戸時代の年号が書かれている貴重な墓石です。
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これが形から最も古いと思われる墓石で、右が正保四年(1647年)で、左が承応四年(1653年)です。先崎城址の下にあった墓石と形が似ています。そちらは1650年と1662年なので、ほぼ同年代です。


餅投げでいただいたお餅です。足元に落ちてきたお菓子も一つゲットです。


さっそく磯辺焼きにしていただきました。なにか、御利益(ごりやく)があるかもしれません。それでは上のクイズでの回答です。一枚だけ違うお札に書かれていた文字は「八千代市郷土博物館講中」でした。博物館の方(女性)が取材に来られていて、下高野の方のアイデアでお札を貼られたのだと推察いたします。

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下高野の辻切り 2014年 [風習・歴史]

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2014年2月2日に千葉県八千代市下高野地区の辻切り作りに参加いたしました。本来は1月25日に近い日曜日に行われるので例年であれば1月26日でしたが、1月26日に八千代市の郷土博物館で講演会があり、辻切り作りの方が講演されたこともあり2月2日になったとのことでした。私は下高野に住んでいるわけではないので異例のことだと思うのですが、以前に掲載したブログの記事「下高野の辻ぎり」がきっかけでした。
私の記事を下高野の辻切りの指導的立場の方が見ていただいてコメントを何度もやり取りをしたことで実現いたしました。

大蛇をつくるハウスの中を動画で紹介します。雰囲気が判ってもらえると思います。作り始めてすぐの状態です。


先ずは頭作りから始まります。前回の記事で大蛇の頭作りは詳しく紹介したので今回は省略させていただきます。


大蛇作りで難しいのは頭ではなく胴体なのです。私も2012年に教えてもらい頭だけは作れるようになりました。胴体の方はベテランの人は1人で作れるのですが、慣れてない人はベテランに教えてもらいながら2人がかりになります。


胴体の作り方を、言葉で説明するのは難しいので動画を2本撮りましたので動画で説明いたします。
胴体は注連縄のように3束の藁で出来ています。先ずは頭の後ろから出ている藁を3つに分けます。次にその3つの束の内、2本をよっていくのですが、それぞれを、ねじりながら2本を巻きつけていきます。それぞれをねじる方向と2本を巻きつけていく方向が重要でどちらかが反対だと縄にはならずにばらけてしまうので動画でよくねじる方向と巻く方向を見てください。藁が短くなると藁を足していきます。(大蛇の胴作り 1/2)


2本の束の巻きつけが完成したところで3本目をねじりながら2本の束に巻きつけていきます。これも動画からコツを学んでください。(大蛇の胴作り 2/2)


半分くらいできたところでお茶タイムです。


お茶に甘酒に漬物を出してもらいました。さらにビールまでいただきました。漬物は大根の味噌漬けです。味噌も大根も自家製だそうです。味噌を作るための麹も自家製だそうです。その麹で甘酒を作られたそうです。


恒例の揚げたオカキも出されました。これも美味しいのです。


休憩の後に作業を開始して6本の大辻と呼ばれる藁の大蛇が出来上がりました。
この後にきれいに整えてお札を付けたり柊や杉の小枝を付けて完成です。この写真の中には奥の6本と手前に1本と7本の大蛇がいることが判ってもらえると思います。実は手前の1本は手伝ってもらいながら私が作った大辻です。この大辻は近くの小学校に飾ってもらうために作ったものです。
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大辻が完成したところで昼食です。
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おにぎりです。


白菜の漬物とタクワンです。


自家製味噌のお味噌汁です。


昼食を食べて13時になったところで大蛇の最後の仕上げの開始です。先ずは大蛇の胴体は出ている藁をはさみできれいに切った後に下の動画のように「なめし」ます。


大蛇の目と舌作りです。
このため専用に作った唐辛子に取り付けるための針金を通します。
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目と舌を取り付けているところです。


目と舌が付け終わるといよいよ仕上げです。頭の方からヒイラギの小枝、お札(大)、杉の小枝、ヒイラキの小枝、お札(小)、杉の小枝の順に取り付けます。


6体の大辻が完成いたしました。辻切りは集落の境(辻 / 結界)に、この藁の大蛇(大辻)を飾ることにより、集落へ入ってくる疫病や悪霊が侵入しないように行う行事で、災難を封じて五穀豊穣と郷内安全を祈願するものだそうです。近隣では井野地区、上高野地区、小竹地区で見ることが出来ます。ただし小竹地区は大蛇ではなく注連縄が使われていました。
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さっそく大辻の取り付けです。最初の場所は大蛇を作った場所の近くなので、そのまま歩いて行き取り付けます。先ずは昨年の大辻を取り外します。


新しい大辻を取り付けているところです。


これで完成です。大辻がよく見えるように回りま枝を切りました。
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6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①~⑥の順番にみんなで取り付けにいきます。上の取り付け光景は①のところです。
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軽トラに乗せて残りの5ケ所に取り付けに行きました。
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前回の記事で全ての場所の取り付け光景を紹介しているので最後の⑥の場所の取り付けを動画で紹介いたします。


⑥の場所の取り付けが完成したところで全て終了です。
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今回も家用の小辻を作ったので家に帰ってすぐに飾りました。今回は2体です。右側の小辻はベテランの方に作ってもらったものをいただきました。左側が手伝ってもらいながら作った小辻です。上の複数の動画を1本にまとめました。→ポチッ


追伸
今日2月5日の15時20分から関西に行きます。帰ってくるのは2月9日の夕刻なので、それまで皆さんのブログに訪問できない失礼をお許しください。


2014年4月16日追伸 タイトル:9番目の辻切りが小学校に飾られました。
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上で記載している通り2014年2月2日に近くの井野小学校に飾ってもらうために作り、お渡しした藁の大蛇が飾られていることを車で通りかかった時に偶然に見つけました。さっそく写真を撮り追加掲載させてもらいました。

下記の写真の説明の看板が、今回の辻切り(藁の大蛇)が飾られた木の脇にあります。この看板は昭和51年2月1日(1976年)に建てられてものです。

1月14日は青菅のどんどれえ 2014年 [風習・歴史]

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毎年1月14日に、千葉県佐倉市青菅地区では正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」が行われています。江戸の初期から続く小正月の伝統行事ですが、この青菅地区では「どんどれえ」と呼ばれています。規模が大きく一般には「青菅のどんどれえ」と呼ばれています。わが家からは歩いて10分くらいの距離なので昨年初めて見に行きましたが吹雪のような大雪と強風で本来の「青菅のどんどれえ」ではなかったと聞きましたので、今年2014年は是非とも見に行くつもりでした、天気も良く見事な「青菅のどんどれえ」を見ることが出来ました。中々の伝統行事であったことから紹介いたします。
   2013年の青菅のどんどれえ → ポチッ

「どんどれえ」の全景は夜は見えないので昼の間に撮った「どんどれえ」の写真を紹介します。元々は「どんどれえ塚」を建てるところを撮りたかったのですが2014年1月11日に見に来た時にはすでに、この写真の状態でした。「どんどれえ塚」は「ドウシンボク」と呼ばれる1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて作られるそうです。
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どんどれえ塚には太い竹を切ったものが組み込まれています。これが爆発すると、どんという音するから、どんどれえの名前になったようです。これはかなりの迫力でした。これが本当の爆竹なのでしょう。
一般には、「どんど焼き」と言われるこの行事ですが、青菅の「どんど焼き」が「どんどれえ」と呼ばれる理由をネットで調べてみると、この竹が破裂する音にあるそうです。称念寺の先代の御住職・小島令考氏(故)によって記されたものに爆竹の「どんど」に「払い」が訛って「はれえ」となった語が続き、「どんどはれえ」が「どんどれえ」となったもので、言葉の意味としては、「爆竹の大きな音で、悪魔払いをする」そうです。この「どんどれえ」の呼び名に悪魔払いの意味が含まれているようでした。
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わが家から持ってきた今日月飾りも燃やしてもらうために置きました。この大小の2つの正月飾りが我が家から持ってきたものです。


Googleの航空写真で「青菅のどんどれえ」が行われた場所を紹介いたします。航空写真でもはっきりと「どんどれえ塚」がわかります。
赤色マーク( )の場所です。

より大きな地図で 青菅のどんどれえ塚 を表示
毎年18時きっかりに点火するそうなので家を17時30分に出発して、どんどれえ塚に17時40分に到着いたしました。ここからは時間の順番に写真を紹介いたします。
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お願いの表示があったので、初めての方のために紹介いたします。ダルマ、人形、ゴム製品、ゴミはだめです。門松、注連縄、お札などを持ってきて焼いてください。


18時が近づいてきたので、どんどれえ塚に、お神酒をかけていました。これが最初の行事でした。


18時にお孫さんと思われる小さな子供さんと二人で火を着けます。灯油を湿らせた松明に火を着けました。青菅のどんどれえは2007年6月に市指定無形民俗文化財になりました。
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どんどれえ塚に点火です。
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点火は2人だけで行ないます。塚の周りを回りながら周囲に火を着けます。
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火はすぐに大きくなっていきます。
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点火して2分で、火はこの勢いになりました。大雪だった昨年とは大違いでした。
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この時は見ている方は比較的近い位置で火が大きくなっていくのをみまもられていましたが、火がさらに大きくなってくると遠くに離れました。皆さんが持っているのは先端に餅が付けられた竹や木の棒です。
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高く積み上げられた部分に火が上って行きました。
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遠くから撮った写真です。
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クリックすると拡大火の近くの人は減ってきました。皆さん熱いので遠くに離れたのです。ちょうどこのころが冒頭の写真の時間で、18時3分でした。つまり火を着けて3分でここまで火が大きくなるのです。
以前は1月14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では区の行事として大人とともに行われています。そんな伝統があることから子供さんが火を着けていたのだと思います。周囲から燃え上がった火が、中央の竹の「ドウシンボク」に移り地面に倒れると、その倒れた方角で一年の豊凶を占います。
火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、焼いて食べると一年間風邪を引くことがないと言われています。また、門松の燃えさしを、家の門口に立てて盗難除け、魔除けとするそうです。
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火の粉も舞い始めました。これから炎が最も迫力を増してくる時期になってきます。この時が18時4分です。火を着けて、たった4分しかたっていないのです。
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木の枝や竹が積み上げられた部分が本格的に燃え上がり始めました。
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炎に包まれました。この後、迫力のある竹が破裂する音が続きました。
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爆竹の音を紹介したくて動画を掲載いたしました。動画のプレーボタンをクリックしてもらうと竹が破裂する音を聞くことが出来ます。爆竹の「どんど」という大きな音で悪魔を祓う意味があるようです。


火の粉もさらに舞い上がる勢いを増しました。
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こちらの動画でも竹の破裂音を聞くことが出来ます。


高く立てられていた竹が焼けて倒れ始めました。
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迫力の炎の伝統行事です。
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満月が出ていたので満月と青菅どんどれえのツーショットも掲載いたします。
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竹はすべて焼け落ちました。この時、18時11分でした。
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遠巻きに皆さんは見ておられました。


餅を焼くために竹の先に大きな餅を刺して待っておられました。皆さんつきたてのお餅で焼かなくても食べれるほど柔らかな餅ばかりでした。


二股の栗の木の枝に餅を刺して焼くのが正式な焼き方だそうです。簡単には長い栗の枝は手に入らないためか、ほとんどの方が竹を使われていました。


360度を紹介する動画です。全体の雰囲気が判ってもらえると思います。


まだ火が大きいことが判ってもらえると思います。皆さん、餅を焼くために近づくことが出来るまで火が弱まるのを待っているのです。


心なしか、炎が小さくなってきました。
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炎は、まだ強いけれども餅焼きが始まりました。焼いた餅を食べると一年間、風邪を引かずに健康に過ごせるそうです。


完全に焼かなくても炙る程度でよいと話されていました。何しろ熱いので餅が焼けるほど近くに居続けるのは大変なのだと思います。


沢山のお餅が焼かれ始めました。


地元のテレビ局の人が「青菅のどんどれえ」を取材に来られていました。女性のキャスターの方が小さな子供さんにインタビューをしているところを撮っているところです。放送は2月16日(日曜)の朝の番組だそうです。静止画だと完全防寒の小さな男の子が判りにくいので簡易動画にいたしました。手に持っている餅の動きでインタビューを受けている青い服の男の子が、わかってもらえると思います。


まだ火の勢いが結構あることを紹介したいので、この写真を掲載いたしました。


テレビ局の方も餅焼きの光景を撮られていました。
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偶然照明が当たった写真が撮れたので掲載いたしました。決死の覚悟で餅を焼いているのが判ってもらえると思います。この時、18時26分でした。19時に近くなると比較的楽に焼くことが出来ます。見学に来られた方は、つきたてのお餅を一つもらえるので、家内は竹を貸してもらい焼きました。それを、その場で食べたので今年は風邪を引かないと思います。
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餅を焼いている場面の動画です。


少し炎が小さくなってきました。
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短時間なら、餅を焼くところを近くで撮ることが出来るくらいの熱さになってきました。
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でも時々、崩れて炎が大きくなることもありました。
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皆さんが餅を焼き終わったのが19時53分でした。火がおさまると地元の消防団の方が水をかけるということなので、我々も家に引き上げました。
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翌日の早朝にワンコの散歩を兼ねて来てみると、どんどれえ塚はきれいに燃え尽きていました。中心の「ドウシンボク」が確認できました。青菅区自治会の方、ならびに消防団の方、ありがとうございました。遅くまでお疲れ様でした。
 So-net内の「どんど焼き」の記事→1週間 6ケ月 1年 無制限 どんどれえ
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千葉県佐倉市青菅地区で米の生産・販売IMG_8129-50.jpgされている方のホームページ「らいすぼうい」の中に「青菅のどんどれえ」に関する詳しい説明があったので、そのまま枠内に転記する形で紹介いたします。ホームページの会社も紹介します。
 【会社名】   有限会社 らいすぼうい
 【代表者】   三門 増雄
 【所在地】   千葉県佐倉市青菅272
 【電話番号】  043-487-6965
 【特徴】     あいがも農法 冬みず田んぼ
青菅の「どんどれえ」 
青菅(あおすげ)の「どんどれえ」は、千葉県佐倉市青菅で行われる小正月の行事です。江戸時代初期にこの地を知行した旗本川口氏の頃に始まったと伝えられています。市内でも数少なくなった民俗行事です。 1月14日の夕方に、正月の門松やしめ縄を「どんどれえ塚」と呼ばれる場所に一か所に集め、高く積み上げて焼きます。以前は、14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では地区の行事として大人とともに行われています。
この青菅の「どんどれえ」について、佐倉市文化財審議会委員の長さんが、昭和60年代当時、お年寄りから聞いて書き留めたもの、またご自身で調査された結果をまとめた貴重な資料がありますので、それをもとに詳しく紹介したいと思います。

◆ なぜ、「どんどれえ」?
一般には、「どんど焼き」と言われるこの行事、どうして「どんどれえ」と言うのでしょう。称念寺の先代の御住職・(故)小島令考氏によって記されたものによると、爆竹の「どんど」に「払い」が訛って「はれえ」となった語が続き、「どんどはれえ」が「どんどれえ」となったもので、言葉の意味としては、「爆竹の大きな音で、悪魔払いをする」とあります。実はこの名称は、この行事の本質を最も端的に表している言葉だったのです。

◆ 九本のご神木
青菅の「どんどれえ」では、「どんどれえ塚」に、「どうしんぼく」と呼ばれる 1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて火をつけます。その一本一本は上部に枝葉を残してあとはきれいにとってしまいます。これは、神様の依り代(よりしろ)を表しています。依り代とは、神様が降りてこられる所のことです。真ん中に立てる竹を「どうしんぼく」と言いますが、「中心にある神木」の意味です。
全国のどんど焼きや左義長では、割合多くのところで一年12ヶ月を表す12本の竹を立て、うるう年には、1本多く立てています。つまり、月々の悪魔払いをして一年の無病息災・五穀豊穣を祈願しているのです。他に36本というのもあり、これは12ヶ月と24節気を合わせた数だそうです。つまり、この行事は、暦数や天体、吉凶を占うことと深く関連があります。
青菅の場合の「9」という数についてですが、「九曜」ととらえられています。九曜に対する信仰は日本では平安時代にさかのぼります。「七曜」とは、「日・月・火・水・木・金・土」のことで、「九曜」はこれに「羅ゴウ(漢字は目へんに侯)・計都」という想像上の星を加えたものです。

◆「どんどれえ」の歴史
小島令考氏によって記されたものによると、その歴史は、青菅に旗本の川口氏がおかれた江戸時代初期にさかのぼるようです。初期の「どんどれえ」は、「小陣屋口の全戸がクズ束を持ち寄り夕暮れに点火したと伝わる」と記されています。つまり、この行事の始まりは、陣屋口からということになります。
(『佐倉市史』には、青菅は慶長 11年(1606年)から元禄11年(1698年)8月までの約93年間、徳川幕府の直轄地で、川口宗勝・宗信・宗次・宗恒の四代にわたる知行地(治めた所)であり、四代目の宗恒が出た後に、佐倉藩領になった事が記されています。この時、数人の家臣がとどまり、後に「陣屋口五姓」「郷口二姓」と言われるようになったようです。)
明治時代中ごろには、すでに子供の行事としてほぼ現在と同規模になっており、大正時代末ころまでに辺田の子供たちの参加も自由になったようです。戦時中、米軍機が飛来した数年間も日没前にごくささやかに行われ、戦後次第にかつての盛大さを取り戻していったと記されています。記録で見る限り、この行事を行わなかった年がないということになります。

  ◆昔の「どんどれえ」の様子
青菅には、幕府時代から、火災予防のため薪(たきぎ)置き場の共有地があり、そこに「木小屋(きごや)」がありました。今は電気やガス・石油など使い便利になりましたが、以前はカマドや風呂焚きなどに使う一年分の燃料(クズ)を集めるために、冬場の作業として山の中に入りました。燃料は、山林の下枝や下草で、これを刈って束ねたものを木小屋に蓄えたのです。木小屋は、通称「出土」に十数棟、「大和田台」に数棟ありました。子供たちは一軒につきクズを二束ずつもらい、荷車で「どんどれえ塚」まで運びました。(もっと前は、三束ずつ集めたようです)
子供たちは、正月三日から「どんどれえ」の孟宗竹9本分の穴掘りを始めました。周辺の竹林から孟宗竹を切り出し、一本を4~5人で運び、9つの穴に立てました。竹の間にクズ束を積み上げてその上に2人の子供が上がり、竹2本をレールにしてさらに下からクズ束を引き上げて重ねていき、最後に各家から集めた門松などを頂上に積み上げます。「どうしんぼく」に青菅側に倒すための引き綱が結ばれてこれで完成です。
14日当日、午前中にそれぞれの家で新年最初の餅つきをします。前日までに適当な大きさの栗の木を準備しておきますが、14日この木を家の大黒柱に結わえます。ついたお餅は丸餅にして12個を枝にさしたり戸主の年齢の数だけさしたりします。12個というのは、一年12ヶ月が実りある年でありますようにということなのです。これを「成り木」といい、このお餅を「成らせ餅」といいます。栗の木は、一年間繰り回しが良いようにと祈念して使われます。この時に、「どんどれえ」で焼くお餅を、また焼くときに使う長さ2~3mで先が二股に分かれた栗の木の枝も準備します。
夜6時、最上級生の男の子により点火され、炎が上空に上がると子供たちは「どうしんぼく」を青菅側に倒そうと懸命になったようです。一年の吉凶を占っているのです。青菅側に倒れると青菅が豊作、先崎側に倒れると先崎が豊作と言われています。その年一年、豊作でありますようにという祈りがこめられています。

◆無病息災・五穀豊穣を祈願
火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、この火にかざして焼きその場で食べますが、これで、一年間風邪を引くことがないと言われています。また、門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」をいただいて帰り、門口にさします。こうすると、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。また他にも、「どんどれえ」を行えば火災は起こらない、正月の焚き火は「どんどれえ」前にはやらない、正月にとった燃料は、「どんどれえ」前には燃やさない(これを犯せば火事になると信じていた)、などの言い伝えがあります。
「青菅には心から誇れる歴史も伝統行事もございます。一つの行事が、長く続いて来たということには、やはりそれなりの確かな意味を伴っております。その意味を知ってこそ、行事にたずさわる意欲そして大きな喜び、さらに郷土への誇りも湧いてくるのではないでしょうか。」と、佐倉市文化財審議会委員の長さんは、最後をこう結んでいます。
古くから青菅にある家から、小学校に通う子供は非常に少なくなってしまいましたが、今は大人が中心になって、現在もこの伝統行事を続けています。

青菅村の歴史  
印旛沼に注ぐ青菅川の北に先崎村、南に青菅村と相対している。 ・慶長十一年(1606年)以来、旗本川口宗勝領で印旛・葛飾両郡で領した二千五百石のうちの一部(宗勝は初め織田信長に任う)。
・承応二年(1653年)葛西郡青菅村田畑改帳を集計すると、田畑屋敷合わせて一町歩以上が六名、八反部以下四名(当時の佐倉領内の地村と比べて富裕である)
・元禄十一年(1698年)、治世4代で宗勝は采地が香取郡に移される。その跡は佐倉城主戸田忠昌の領となり、初めて地名に印旛郡を冠した。
・元禄十四年(1701年)、佐倉領となったのを機に、城主戸田忠昌の役所に差し出した「青菅村差出シ帳」に、「村高百四十一石六百九十五、田方十四町四反三畝二十歩、畑屋敷合四町三反一畝十五歩、御林八ヶ所」(この内訳を延享三年(1746年)、掘田城主に看わした青菅村明細帳より摘記すると「御林八町八反二畝・御塚村三町四畝・木ノ宮林二町四反五畝・西山林四反六畝・向原林三町二反六畝・別所林七反・稲荷林一町五反一畝・妙見林一反九畝」)で藩有林となった面積、争数が多いのが注目される。なお延亨三年の差出シでは他に馬数二十九疋、家数二十六軒(内、本百姓二十二軒、水呑四軒)となっている。
・天保三年(1832年)の免定(割付)では村高百四十五石七十三、納合米五十八石二百三十二、永一貫八百九十一文(野銭)、鐚四貫十三文(山銭)。寺社では浄土宗鎮西派称念寺(天正五年(1577年)創建)、真言宗正福寺(領主川口氏の菩提寺)がある。
・明治22年(年)で面積一四三町一反三畝、世帯三三、人口一九五人あった。
(出典:佐倉市史・第一章 社会生活 P41-42)

青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。
 どんどれえ塚         住所:千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  住所:千葉県佐倉市先崎233
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1.4km
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート  740m

下高野の例大祭の幟(のぼり) [風習・歴史]

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クリックすると拡大いろんな伝統行事が行われている千葉県八千代市下高野地区で神社の例大祭が10月10日に行われて、2本の幟(のぼり)が立てられていると、10月10日の夕方にコメントで教えていただいたので、翌日の2013年10月11日の10時ごろに見に行きました。午後の1時に幟を倒すと教えていただいていたので午前に行くことにいたしました。教えられた通り、下高野地区の公会堂に立派な幟が2本立てられていました。2つの幟は同じように見えますが、実は違うのです。わかりますか?  答えは下に書かせていただいております。
幟を見た後に神社によって帰る途中で偶然にも、今回のことを教えていただいたkazuさんに会えて例大祭の行事のことを、いろいろと教えていただきました。
例大祭(れいたいさい / 例祭)を調べてみると、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされているものだそうです。一般的に例大祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われるそうで。例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日です。特に由緒のある日のない場合は、春祭りや秋祭りをもって例大祭としているそう。例大祭が行われる日は毎年一定で、変えることはできないものとされています。下高野でも10月10日で決まっており、変わることはないそうです。
神社は菅原道眞が祀られてしますが、菅原道眞の誕生日は承和12年6月25日(845年8月1日)で命日は延喜3年2月25日(903年3月26日)で10月10日でないので誕生日や命日とは別の由緒のある日のようです。
現在の新しい幟は1982年に奉納されたもので以前のものよりも分厚い生地が使われたそうです。
上で質問させていただいた2つの違いの答えはそれぞれが表と裏の関係になっているのです。写真だと右の幟が文字かちゃんと読めると思いますが、左の幟は文字か左右反対なのです。つまり向こう側から見ると字が読めるのです。どの方向から見てもわかるようにした先人の知恵なのかもしれません。
幟には奉納天満宮昭和五十七年十月吉日下高野氏子中紀佑民謹書の文字が書かれていました。右の写真をクリックすると拡大するので左右の違いが、わかりやすいと思います。太い竿ですが、高さがあるので上から3分の1付近を、3方向からロープで引っ張っています。3本×2で計6本の太いロープも迫力がありました。

行事は先ず10月8日に、この幟を建てもことから始まるそうです。例大祭の告知が目的なのだと思います。そして10月10日に神社で神主さんに来ていただき例大祭が行われるそうです。10月8日が雨の場合は幟は立てないで10月10日の例大祭のみが行われるそうです。そして10月11日の午後に幟が倒されて例大祭の行事が終了だそうですが、10月11日が雨の場合は倒す日を延ばしていくそうです。いずれにしても幟が完全に乾くまで待つそうです。
10月8日以降、台風24号の影響で少し雨が降りましたが、この日は強風の上に快晴で幟も完全に乾いたようなので、予定通り13時に倒すと言われていました。
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幟の布地は非常に分厚くて丈夫のようでした。以前に強風でちぎれたことがあったので分厚くされたそうです。この写真でも分厚さが感じてもらえるのではないかと思います。かなりの重さだと思います。
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これが、幟を垂直の竿に止めている輪で、木をくり抜いて作られている貴重なものだそうです。この輪は篠を火であぶって曲げ輪にしているものだそうです。木をくり抜いて作られているのは竿の継ぎ目の部分だそうです。以前に破損したことがあり、今回も強風で破損を心配されていましたが、すべて無事だったようです。これだけ立派な幟はなかなか見ることのできない珍しいのだと感じました。


幟を見た後に例大祭が行われた神社にも行ってみました。神社は以前に紹介した下高野館の記事の中で書いていた菅原神社です。その菅原神社に行く途中には八千代市で指定されている立派な保存樹の間を抜けていきます。
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こちらが10月10日に例大祭が行われた菅原神社です。天満宮とも呼ばれています。一般的に天満宮は菅原道真を祭神とする神社で、天満神社や菅原神社や天神社と呼ばれることがあるそうです。また通称として「天神さま」や「天神さん」とも呼ばれていることがあります。下高野では菅原神社となっているようです。
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鳥居には真新しい注連縄が取り付けられていました。例大祭のために新しい注連縄に取り換えられたのだと思います。あるいは例大祭の時に取り換えられたのかもしれません。その点はkazuさんに聞き忘れました。
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これが新しい注連縄です。以前に藁の大蛇を作る行事に参加した時に注連縄を作る名人の方がおられたので、その方が作られたのだとおもいます。


横に置かれていた古い方の注連縄の具合からも最近に取り換えられたことが伺えました。下高野地区には昔からの伝統行事が沢山残っています。これは地元の方々が伝統行事を大切にされてきたためだと思います。今までに体験させていただいたり、記事に書いたり、お話を聞かせていただいた下高野地区の伝統行事です。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
  庚申塔   7年ごとに奉造(次は2021年)
  庚申講
  十九夜塔 7年ごとに奉造(次は2021年)
  女人講
  藁の大蛇の辻切り
  伝統的な節分行事
  出羽三山参拝とボンデン塚の奉造
  奥州講とボンデン飾
  大師参り
  菅原神社の例大祭

謎の伝統行事は安産祈願でした。 [風習・歴史]


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2013年6月1日追記 タイトル:謎の伝統行事は安産祈願でした。
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クリックすると拡大kazuさんのコメントで不思議な二股の枝は「ザンマタ」と呼ばれる難産を避け、子どもが無事に産まれてくるように祈る呪(まじな)であることが判りました。昨日、kazuさんに案内していただき、この伝統行事をホームページに書かれている八千代市立郷土博物館に行き話を詳しく聞かせていただきました。
今回、「ザンマタ」という呼び名がわかったことからネットで検索した結果、ほかにも「犬卒塔婆」、「犬供養」、「ザクマタ」「ザカマタ」「サンマタ」「チキショウトウバ」「フタマタトウバ」「マダガリトウバ」「マツタ木塔婆」などの呼び名があることが判りました。いずれも安産を祈願する風習でした。一般的には二股塔婆(フタマタトウバ)が判りやすいと思います。
ホームページの内容の一部を下記の枠内に転記させていただきました。全文を見たい方はホームページにアクセス願います。→ポチッ
ホームページに八千代市真木野地区と書かれていたことから、今日(2013年6月1日)に探しに行って撮ったのが冒頭の写真です。右から2つ目に真新しい「ザンマタ」が立てられていました。右の写真のように、その裏には「平成廿五年二月廿四日建立」と書かれており、今でも安産祈願が行われていることが確認できました。ちなみに電信柱の正面大きなザンマタは「平成廿四年二月廿六日建立」と書かれております。小竹地区のザンマタも2月24日だったので、確認していませんが2月に祈願する風習なのかもしれません。調べてみると、これを立てるのは子安講の縁日が多いそうです。
冒頭の写真の一番右側のザンマタには「施主 神久保子安講」の文字を見ることが出来ました。「志」は小さい文字なので神久保地区の子安講を示しているのだと思われます。子安とは「子を安らかに産むこと」なので、ここからも安産を祈願したものであることが伺えました。また「子安講」とは「安産祈願のために、婦人が集まって子安神を祭る信心講」だそうです。
八千代の歴史 25 「変わらぬ母の祈り」
昭和40年代初め頃までは都市部以外の場所では病院も少なく、八千代でも長らく村上に公立の診療所が一件あるのみでした。当時はお産になると、地元のお産婆(さんば)さんと呼ばれる出産立ち会い経験豊富な女性に頼ることが多く、自宅で出産することが普通でした。
しかし逆子(さかご)などの難産の場合、医療器具も十分でなかったため、無事に生まれてくる確率は低かったのです。八千代の真木野地区ではこのような難産を避け、子どもが無事に産まれてくるように祈る呪(まじな)いが伝えられています。
クリックすると拡大その呪いの方法は、お産を控えた婦人がYの字型の枝を見つけてきて地元の妙徳寺に持ち込み、安産のためのお経を枝に書いてもらいます。そして、道が三叉路になっている場所に立ててきます。このYの字型の枝を「ザンマタ」と呼びます。この呪いは「犬供養」と言い、犬の出産はとても軽いことから、それにあやかろうとするためだと言われています。枝の形も三叉路のイメージも出産を連想されるものであり、呪いは子安講(こやすこう)という子育て中の女性グループでの行事として行われるようです。
私は仕事柄、市内各地区に伝わる様々な伝統行事に出会ってきました。真木野の「ザンマタ」の写真は、5年ほど前に撮影したものですが、この1月に現地を確認したところ、新たな「ザンマタ」は立てられていませんでした。犬供養そのものは、近い将来、消えていってしまう民間信仰なのかも知れません。しかしいつの時代も我が子が無事に生まれ、心身共に健やかに育って欲しいと願う親の気持 ちに変わりはありません。犬供養の伝統は、そんな母親の優しさや祈りを代弁し ている伝統行事として、是非とも後世に伝えていって欲しいと願っています。
(写真:三叉路に立てられたザンマタ)

吉高の大桜の近くにもザンマタがあることが判りました。ここでは「犬卒塔婆」と呼ばれているようで安産祈願のためと書かれていました。こちら写真はネットから拝借いたしました。こちらの写真は今から8年前の2005年4月の写真です。現在の状況が知りたくてさっそく確認に行ってきました。
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こちらが本日2013年6月1日の写真です。いつもの通り自転車で撮りに行きました。かろうじてザンマタと判る枝はありましたが8年前から新しいザンマタは立てられていないようでした。
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ザンマタに関する詳しい記述がありましたので紹介します。→ポチッ

2013年4月29日掲載 タイトル:謎の伝統行事 佐倉市小竹地区
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クリックすると拡大佐倉市小竹の辻切りを探しながらのワンコの散歩の時に文字を書いた二股の枝が祀られているのを発見しました。同じ場所に古い枝も祀られていることから古くから続いている伝統行事のようです。
二股の枝の両側に「汝是畜生発菩提心諸畜生発菩提心也」と書かれていました。汝是畜生発菩提心を検索してみると「たとえ動物達が理解できずとも、法の響きは身体に浸みとおり、ついには悟りへの善き縁となる」と説明がありました。一字目が「汝」ではなく「如」の「如是畜生発菩提心」に対しては「是(か)くの如く畜生、菩提心を発(おこ)す」とありました。「汝是畜生発菩提心」も「如是畜生発菩提心」も動物の墓碑銘にも使われることがあるそうですが、この小竹地区の二股の枝の意味は不明です。小山の上に建っている石碑は庚申塔であることから庚申信仰(こうしんしんこう)と関係があるのかもしれません。

こちらが小山の上の4つの庚申塔です。青面金剛象が彫られた一番大きな庚申塔は延享二年十月(1745年)に建てられたものでした。ejto
268年前ですね。
庚申信仰とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰だそうです。
庚申塔はこの辺りでも沢山見かけることが出来ことからいくつか記事を書かせていただきました。→下高野 青菅
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こちにが裏側(庚申塔側)から見た二股の枝です。
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一番新しい枝の根元には「西講中 二月二十四日」と書かれていました。木の色合いから今年2013年2月24日に祀られたものと思われます。講中は神仏にもうでたり祭りに参加したりする集まりのことです。二股の枝は全部で7本立てられており、その中で文字が読み取れたのは3本だけでした。2本の古いと思われる枝の根元には西作講中と書かれており日付は入っていませんでした。その他の文字は表も裏も同じでした。
枝の裏側の両側には「南無遍照金剛」と書かれており根元には「合掌」と書かれていました。「南無(大師)遍照金剛」は真言宗などのお経の中で空海(弘法大師)に使われる呼び方でもあるようですが、現時点でこの不思議な二股の枝の意味は解明できておりません。ご存知の方がおられたら是非とも教えてください。


航空写真の黄色のマークのところに謎の二股の枝が祀られていました。


小竹の辻切り [風習・歴史]


千葉県の佐倉市井野地区と八千代市下高野地区と八千代市下高野地区では藁の大蛇を飾る辻切りという昔からの風習があることを紹介しました。辻切りは村の外部からの災いや疫病を防ぐ目的で村の境に藁の大蛇などを飾る昔からの風習です。
私の家の周りには昔からの地区が下記のようにいくつもあり辻切りが行われている地区があります。そこで辻切りの行事の有無も記載いたしました。青菅や先崎には辻切りの風習が残っていないと「無し」としていますが散策の範囲でのことです。下のポチッをクリックしてもらうと今までに掲載した記事を見ることが出来ます。
     地区     辻切りの有無
  八千代市 上高野   あり  → ポチッ
  八千代市 下高野   あり  → ポチッ ポチッ
  八千代市 村上    未確認 
  佐倉市  井野    あり  → ポチッ ポチッ
  佐倉市  青菅    無し
  佐倉市  先崎    無し
  佐倉市  小竹    無し→あり(今回発見で修正)
クリックするとGoogle地図を表示  佐倉市  上座   未確認
  佐倉市  上志津  未確認
  佐倉市  下志津  未確認
  佐倉市  中志津  未確認
  佐倉市  西志津  未確認
最近、井野の隣の小竹地区にも辻切りの風習があることを発見いたしました。発見したしたきっかけは小竹地区の個人宅の門の部分に藁の蛇が飾ってあったことでした。形は今まで紹介した直線的な蛇ではなく尻尾の方は丸い輪になっていました。
個人宅に小辻があったことから小竹地区として辻切りがある可能性があることを感じました。
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そこで小竹地区の結界に相当する境界近くの辻を探してみると藁が巻かれた石柱がありました。飾られている位置や、藁の大蛇ではないけれども、他の地域の辻切りと同じお札も飾られていることから、この藁の飾りも辻切りと思われました。小竹の辻切りは注連縄(しめなわ)型だったのです。この辻切りを5ケ所で見つけました。その①~⑤を紹介いたします。5つとも全てが三叉路にありました。
道標に設置
石柱の上の部分には「御大典 記念」と掘られていました。さらに昭和三年十一月と書かれていました。調べてみると昭和天皇の即位を記念して建立された道標です。
正面には「正面 先崎ヲ経テ青菅方面」と書かれており右側には「上座ヲ経テ四街道方面」、左側には「臼井ヲ経テ成田方面」と書かれていました。
付けられている神社のお札は塞神(さいのかみ;境の神)で「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神が書かれています。この「境の神」のお札が付いられていることからも、この注連縄が辻切りであると言えると思います。
写真をクリックすると道標の文字やお札の塞神、八衢比古神、八衢比女神、久那戸神 、三柱守護の文字が読み取れると思います。
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道標の左側です。立っている場所の雰囲気がわかってもらえると思います。是非ともクリックしてみてください。「臼井ヲ経テ成田方面」と書かれていることが判ると思います。「昭和三年十一月 小竹修斌會」という文字も確認できます。2007年12月16日に掲載された「佐倉市道標一覧表」に小竹修斌会の記載がありました。一部だけですが、この地域の道標などの石碑の地図をまとめられている方もおられました。
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道標に設置
正面には「御大典 記念」と「正面 臼井佐倉方面」と書かれており、右には「青菅 保品方面」、左には「井野 上高野方面」と「昭和三年十一月 小竹修斌會」が書かれていました。 
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右の面の「井野 上高野方面」「昭和三年十一月 小竹修斌會」の写真と横の石碑の写真も紹介します。こちらにも小竹修斌會の文字がありました。
横の石碑も道標で明治三十一年製でした。表で読める文字は「右 本稲荷平戸・・・」、「東 ・・・臼井 佐倉・・・」、「左 井野 萓田 高本」です。クリックするともう少し読めるかもしれません。 
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石碑に設置
この石柱には秩父三十四番と書かれており秩父三十四ヶ所参りを記念した石柱のようですが、右側には「東 臼井 佐倉 道」と書かれており左側には「西 井野 米本 萓田 道」 裏側には「北 當 小竹 區」と書かれており、やはり道しるべでした。こちらは明治三十三年一月吉日に建てられたものでした。この石碑は高橋弥右エ門さんによって建てられたようで名前が刻まれていました。
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ここには庚申塔などの石碑が沢山ありました。こちらが最後に見つけた辻切りでした。
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クリックすると拡大植木に設置
こちらには道標がないことから植木にかけられていました。こちらの写真は、お札が見やすいので植木の葉が伸びる前の3月3日に撮った写真を掲載いたしました。この時に一部の辻切りを発見しました。5つの辻切りを発見したのは今週のことでした。右の写真が今の状態です。
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畑のコーナーの植木に辻切りが飾ってあるのが見えます。この場所には小竹城がありました。奥の林のあたりに小竹城がありました。畑のあたりは外郭でした。小竹城は、臼井城の支城でもありました。小竹は、かつて交通の要衝であり、臼井しろへの西からの攻撃に対して守りを固める意味があったそうです。ここにあった城は小竹五郎高胤によって1390年頃に築城されたと伝えられています。
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道標に設置
この道標はとつゅうで折れて補修されていますが短くなってしまっているので正面は、かろうじて「御大典 記念」が読み取れますが、その他の文字は不明です。左側には「井野 上高野 方面」で、右側は「青菅 先崎 方面」が読み取れます。
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こちらにも庚申塔などの石碑が沢山ありました。写真の中の右下の藁が巻かけている石碑(道標)が辻切りです。辻切りは江戸時代から続いている風習です。道標は昭和三年に建てられたものなので、それ以前の辻切りがどのように取り付けられていたか気になるところです。近隣の地区と同じように昔は大蛇の藁だったかもしれません。
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千葉県の辻切りです。大蛇以外にいろんな形式があることが判りました。赤いしるしが蛇型の辻切りの風習が残っているところです。

参考に千葉県内の蛇型以外の辻切りを、ネットから拝借した写真で紹介いたします。
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地区の境は注連縄(しめなわ)の辻切りですが個人宅では蛇の小辻が沢山見受けられました。村の辻切りで防ぎきれなかった災いを個々の家で防ぐのが小辻です。航空写真の中にマークを付けました。個人宅の小辻も紹介します。
緑色のマーク( ①~⑤ )が小竹地区の辻切りです。
空色のマーク( Ⓐ~Ⓓ )が小竹地区内の個人宅の小辻です。
散策した範囲で見つけることが出来た小辻は下記の4ヶ所で全て蛇型でした。
航空写真をクリックすると、もっと広範囲を表示します。印旛沼や新興住宅地との位置関係がよくわかると思います。


個人宅の小辻
冒頭で紹介した民家の小辻で、蛇と注連縄を組み合わせたような、初め見る形式でした。
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個人宅の小辻
こちらも蛇タイプの小辻でした。


個人宅の小辻
こちらも蛇タイプの小辻でした。


個人宅の小辻
井野タイプの目がつけられた小辻でした。個人の家では蛇タイプの小辻を飾り、村境では注連縄タイプの辻切りなのが小竹地区の辻切りでした。


小竹地区でも鯉のぼりが飾られ始めました。Ⓒの個人宅に近い別の民家です。昔ながらの建物は鯉のぼりとよく似合います。小竹地区にはこのように古い民家が沢山あります。
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大切に見守ってくださることを期待して周辺の辻切りの位置を航空写真に記載しました。
 空色マーク 佐倉市井野   8ヶ所
 緑色マーク 佐倉市小竹   5ヶ所
 黄色マーク 八千代市上高野 5ヶ所
 赤色マーク 八千代市下高野 6ヶ所

109年前に設立された小さな小学校 [風習・歴史]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ワンコの散歩コースで桜の木が沢山植わっている場所があります。今年も桜が満開に咲きました。桜の満開の写真は2013年3月29日に撮りました。ここは昔、小学校だった場所なのです。

その校庭だった場所の写真です。小学校は廃校になりましたが、当時の桜は成長し、今も咲き続けています。ここは千葉県佐倉市青菅地区です。現在の住所は千葉県佐倉市青菅148-2です。
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少し足を伸ばしたワンコの散歩コースにある廃校となった小学校です。
この小学校は109年前の明治36年(1903年)に青菅分教場として設立され、昭和52年3月(1977年)に廃校になりました。36年前の廃校当時のままに残っているのです。


噂では映画の撮影に使われたこともあるそうです。この小学校は分校として出来ましたが、その本校(当時名 : 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校 現在名:佐倉市立志津小学校)は明治6年(1873年)に設立された歴史のある学校だそうです。


以前の桜の季節の写真も紹介します。校庭には沢山の桜の木が植わっています。


この小学校の校庭に、もう一つ珍しいものが残っています。庚申塚(こうしんづか )です。
庚申塔(こうしんとう)とも言うそうです。確かに左の石碑には庚申塔と書かれており、右側の石碑には庚申塚と書かれています。庚申塚は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうです。庚申塚の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、近世を通して多数の庚申塔が建てられたが現存するものは開発から免れたものだそうです。クリックすると拡大します。
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中心に置かれている、最も立派な庚申塔を拡大してみました。青面金剛(しょうめんこんごう)の像が鉾、弓、矢、輪宝らしいものを手に持っています。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、両足の下に邪鬼が踏みつけられています。さらに見ざる、聞かざる、言わざると思われる三猿(さんえん)が台座に近いところに掘られています。上辺の左右には日と月が描かれている のも庚申信仰の特徴です。
年号を確認すると263年前の寛延三年十一月(1750年)でした。


庚申塔.gif右の絵はネット から拝借しました。上の写真はこの絵の青面金剛の特徴を持っています。さらに傘があるのが特徴のようです。
この周りを見ると草に隠れて小さな庚申塔を見つけました。下の写真です。
この青面金剛は斧、輪宝、数珠を持っているようです。ただし邪鬼や三猿や上辺の左右の日と月は描かれていません。
年号は寛保四年正月(1744年)と上の庚申塔より少し古い物のようです。

この2つの庚申塔(庚申塚)以外の年号も調べるてみると文政九年(1826年)、弘化五年如月(きさらぎ)(1848年2月)、享和三年十一月(1803年)、明治三十年十二月(1897年)とほとんどが江戸時代でした。急に貴重なもののように思えてきました。ここから遠くない場所(昔風に言えば隣村)でも庚申塔を13体見つけました。


庚申塔の中にまぎれて一つだけ馬が急死した路傍によく建てられた馬の無病息災の神である馬頭観世音の文字が刻まれた石碑がありました


冒頭の廃校となった小学校の校区を引き継いでいるのが、下の写真の青菅小学校です。この青菅小学校自体も明治6年に開校した志津小学校の分校で昭和61年(1986年)に志津小学校から分離独立した小学校です。
 志津小学校の沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校   分離独立
  1976年 小竹小学校   分離独立
  1977年 青菅分校    廃校
  1986年 青菅小学校   分離独立
明治6年(1873年)と言えば、私が小学1年から4年まで通っていた広島の小学校も開校が明治6年でした。開校時の名前は「協心舎」で、今は広島市立井口小学校です。
その後は神戸に引っ越して神戸市立本山第一小学校から神戸市立本山中学校と進みました。ちなみに神戸市立本山第一小学校は明治8年(1975年 136年前)に田辺小学校として開校し、神戸市立本山中学校は昭和22年(1947年)に開校いたしました。


明治6年開校が偶然のようですが、実は明治5年8月3日の学制発布があったことが関係しているようです。ネットで書かれていた小学校の歴史です。
1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。
しかし、1874年(明治7年)の段階で、小学校への就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎず、3人に1人しか小学校に通っていない状況であった。1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。
1886年(明治19年)の小学校令で、尋常小学校(尋常科)と高等小学校(高等科)が設置された。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。1900年(明治33年)に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「2年または4年」とされた。その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907年(明治40年)に尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間となった。
1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者は21%、まったく進学しない者(就職等)は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。
第二次世界大戦下となる1941年(昭和16年)4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の初等科のほかに、初等科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の初等科は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、戦後の新制学校である現行の小学校に移行した。

赤いマークが廃校になった青菅分校で緑のマークが現在の青菅小学校です。青菅分校の敷地には青菅会館(公民館)があります。
  青菅分校  千葉県佐倉市青菅148-2
  青菅小学校 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17-1


神社は古墳の上にありました。 [風習・歴史]



千葉県八千代市の下高野や上高野、さらに佐倉市の井野の梵天塚を探したことがきっかけになって、奥州参り(出羽三山参り)の記念碑である三山碑を探しに千葉県八千代市の根上神社に来てみました。根上神社は住宅地の中の小高い小山の上にありました。

これが根上神社の鳥居です。
鳥居の奥に神社が見えます。こちらにも自転車で来てみました。


こちらが神社です。


こちらに立てられていた説明で根上神社が古墳の上(正確には脇)に建てられたものであることを知りました。確かに古墳と言われれば納得の地形でした。この古墳は八千代市に現存する最大の前方後円墳でした。
  全長      50m
  後円部直径 35m
  前方部幅   32m


目的の三山碑(出羽三山参拝記念碑)も10基以上ありました。神社の中にはの三山碑だけでなく伊勢参りや秩父参りの記念碑なども沢山ありました。


古いものは天保10年(1839年)でした。


平成22年の三山碑もありました。いろんなところを回って一番新しいものでした。


これが小山の下から見た根上神社古墳(ねのかみじんじゃこふん)です。市指定の文化財です。千葉県には114基の古墳がある龍角寺古墳群などの沢山の古墳が残っています。家の近くの小学校にも古墳らしき小山が3つありました。


古墳の場所を航空写真で示します。周りの駐車場はジョイフル本田・八千代店のものです。ジョイフル本田・八千代店に行ったときは覘いて見てください。地図上のマイナスのアイコンを数回クリックすると場所が判ってくると思います。

下記のグラフが八千代市内で確認されている三山碑です。もっとも古い三山碑が天明5年(1785年)がもっとも古いことから、江戸時代では、1785年から1868年1月24日までの83年間の集計としております。グラフを作ったデーターは平成20年に八千代市立郷土博物館で行なわれた「八千代市と出羽三山」の企画展の資料を使わせていただきました。
八千代市立郷土博物館を紹介いたします。
 名前 八千代市立郷土博物館
 住所 千葉県八千代市村上1170-2
 電話 047-484-9011
 時間 9:00~16:30
 休館 月曜日、国民の祝日(日曜以外)、祝日が日曜の場合は翌火曜日
 HP  http://www.city.yachiyo.chiba.jp/sisetu/rekisi/rekisi.html
八千代三山碑

下高野の辻切り行事に参加させていただきました。 [風習・歴史]



2012年1月29日掲載 
タイトル:下高野の辻切り行事に参加させていただきました。

上の写真は八千代市下高野地区の辻切り(つじぎり)です。下高野の辻切りは以前に掲載させてもらいましたが、今回は藁の大蛇(大辻)を作るところから各辻に大辻を取り付けるところまでに参加させていただいて新鮮な経験をさせていただいたので報告いたします。私は下高野に住んでいるわけではないので異例のことだと思うのですが、以前に掲載したブログの記事「下高野の辻ぎり」がきっかけでした。
私の記事を下高野の辻切りの指導的立場の方が見ていただいてコメントを何度もやり取りをしたことで実現いたしました。

下高野の辻切りは1月の最終の土曜日か日曜日の制作されていますが今年は日曜日の2012年1月29日でした。そこで辻切りの制作場所で9時に待ち合わせをさせてもらったわけです。この場所が藁の大蛇を作る場所で私が行ったときは八千代市の広報の方と私を誘ってくださった方が来られていました。その後、徐々に人数が増えてきました。


すでに原料の藁が用意されていました。この藁は普通の藁ではなく実が出来る前に刈り取った藁で注連縄などを作るものだそうです。品種も3種類くらいを使い分けられていました。
来年の大蛇のための藁を作る種籾は右の写真のように大切に保管されていました。


先ずは蛇の頭を作ります。辻に取り付ける大蛇である大辻は10本程度の藁を束ねて編んで行きます。順番に藁の束を水平に置いていき前の藁を下側に折りたたんで水平の棚を7段作ります。この状態で10本の束を水平に置き現在の水平の束の両端を下に折り返すのです。水平の束は穂先を右→左→右→左と互い違いに置いていきます。


これが7段出来て完成したところです。つまり8束の藁で頭を作るのです。


皆さんで分担して大辻を6匹作るのです。


私は練習を兼ねて家庭の門に設置する小辻の頭を2種類作りました。藁を2本で作る小型のものと5本を使った中くらいの頭です。この写真は小さい方のものです。


作ったものを2つ重ねて頭が完成です。針金でしっかりと縛ります。


この辺りで甘酒を出してもらえました。米麹を使った本格的な甘酒です。


オカキも出してもらいました。醤油の香ばしい味でおいしかったです。鏡餅で作ったそうです。


いよいよ蛇の胴と尻尾を作り始めます。先ずは頭の後ろの藁の束を3つに分けます。その中の2つに藁を足しながらねじって編んでいきます。しっかりと締めこみながら作るので2人一組で編んでいきます。私も少し手伝いました。


クリックすると小辻を指導してもっているところ2本で尻尾まで出来上がったところで残った1っ本を藁を足しながら、ねじりながら巻きつけていきます。これは私も手伝いました。小さな写真の右側が私です。
小辻も同様に2体完成いたしました。うれしいことに1体をいただいたので家の入口に取り付けました。そちらは別と報告させていただきます。


静止画ではわかりにくいと思いますので動画を紹介いたします。


蛇が出来上がると挟みで飛び出た藁を切って表面をきれいにします。丁寧にすればするほどきれいな蛇が出来上がります。


その蛇を板で挟んで回転させるとやわらかな蛇が出来上がります。私も自分の作った小辻、2匹をやらしてもらいました。一通り経験することが出来ました。


こちらも動画をアップさせてもらいました。この作業は下高野の特徴です。他の地域と違う滑らかの雰囲気になります。


手前が出来上がった大辻です。今回は八千代市の広報の方2名以外に写真の趣味の方が3名来られていたので沢山のカメラの前での作業ととなりました。私は作業の合間に少しだけ写真を撮って今回の記事に掲載させていただきました。


ここまで作業が終わったところで一休みで昼食です。ビールを用意していただいていたのでいただきました。自家製のタクワンと白菜の漬物も出していただきました。


そしておにぎりです。お米を作っておられる方のおにぎりです。格別のおいしさであることは想像してもらえると思います。つい2つもいただいてしまいました。


自家製味噌のお味噌汁も出していただきました。昔から作り続けている自家製味噌だから美味しさも格別でした。


こころ温まる雰囲気を経験出来ました。


昼食を食べ終わると残りの作業開始です。京都の品種の大きな唐辛子を目と舌に使います。


ヒイラギと杉の枝と八千代市村上の山本神主さんからいただいた塞神(さえのかみ)の御札を刺して6体が完成です。6体のの大辻をじっくりとみてもらうために、こちらの写真はクリックすると拡大するように設定いたしました。
クリックすると拡大

下高野の方々が大辻を持って記念撮影もいたしました。八千代市の広報の2名の方と四街道市と千葉市と佐倉市の写真を趣味にされている方3名が写真を撮られました。八千代市の広報誌「やちよ」の2月1日号あるいは2月15号に掲載される可能性があります。←kazuさんから情報が入りました。掲載は2月15日号だそうです。


6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①~⑥の順番にみんなで取り付けにいきました。6ケ所全ての取り付け光景と取り付け後の大辻を紹介いたします。罫線でそれぞれの場所の写真を区切らさせていただきました。
クリックするとGoogle地図


に大辻を取り付けているところです。辻切りは集落へ入ってくる疫病や悪霊が侵入しないように行う行事で、災難を封じて五穀豊穣と郷内安全を祈願するものと教えていただきました。


取り付け終わりました。これではまた一年、しっかりと守ってくれるのだと思います。冒頭の写真は①番の辻切りです。ここは井野地区との結界の場所です。



となりのトトロ 引っ越しシーンつけ終わると軽トラックでの場所に移動しました。ここでの取り付け風景です。
軽トラックに乗せていただきましたが、アニメ「隣りのトトロ」の最初の引越しのシーンを思い出させてくれる経験でした。ただしアニメの中では自動三輪車でした。


去年のものは首が採れてしまっていたので、今年はしっかりと取り付けました。ここは上高野との結界になるのだと思います。



番の位置は離れた場所でした。米本方面の結界となる位置のようです。


取り付けているお札の塞神(さいのかみ;境の神)は「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神様です。こちらの大辻は顔つきから結構、睨みがきいている気がします。



こちらが番目に取り付けた場所です。北方向の地域に睨みをきかせる場所のようです。


こちらも無事に取り付けが終わりました。お札はこの近くの人が持っているとのことなので後からつけるそうです。



の場所です。古い大辻を外して新しい大辻を取り付けます。古い大蛇は首が取れてしまっていました。頭と胴のつなぎの部分が弱いので今年は針金でしっかりと縛っておられました。


ここは先崎方面との結界のようですが、現在は本来の境とは違うので江戸時代の境であろう言われていました。



こちらが最後の番の場所です。古い辻切りは色が変わっていますが、しっかりと残っていました。


新しい辻切りを取り付けました。こちらは青菅地区方向の結界のようです。


2012年2月16日追記 
タイトル:下高野の辻切り 「広報やちよ」に掲載されました。
クリックすると大きな画像PDFを表示
広報やちよ2012年2月15日号の表紙です。画像を拝借させていただきました。画像では文字が読みにくいと思いますので枠内に転記いたしました。
上の画像をクリックするとオリジナルのPDFを表示します。
 広報やちよ → 全記事   2012年2月15日号
ワラの大蛇で災いを祓う 地域に伝わる伝統行事「辻切り」
昔から蛇は、神に関わる神聖な生き物とされてきました。市内を歩いてみると、道端にワラで作られた蛇が掛けられていることがあります。これは、病気や災いの侵入を防ぐため、集落の道の境にワラ蛇や注し めなわ連縄を掛ける「辻切り」という風習。
下高野地区では、手作業で刈り取った稲を使い、1月下旬に2メートル近いワラ蛇を作ります。かつては市内の多くの地域で行われたこの行事も、作り手の高齢化などが進み、続けられない地域が増えてきました。今年一年の村の安全を祈り、市内7か所で脈々と受け継がれているこの伝統行事。あなたの家の近くでも、見つけられるかもしれません。
写真 : 杉や柊ひいらぎの葉、魔よけのお札を刺し、トウガラシで目や舌を付ければ完成。下高野では6か所の境に供えます



2013年2月14日 6時追記 
タイトル : NHKニュース「おはよう日本」で辻切りが放送されました。

今朝(2013年2月14日)のNHKニース「おはよう日本」で八千代市下高野の辻切りが放送されました。昨年お世話になった方々が写っていました。うれしいです。
枠内が今回の放送に関するネットでの記載内容です。
2013年2月14日放送 5:00 - 6:30 NHK総合
NHKニュース おはよう日本 とれたてマイビデオ
内山昌一さんの撮影した映像を紹介。千葉県八千代市にて、地元の人達が集まり藁を使ってヘビを作る様子が映されていた。完成したヘビは街のいたるところに飾られる。これは「辻切り」と呼ばれる行事で、こうすることで災いが街の外から入ってこないと言われているという。

今回の放送は「とれたてマイビデオ」のコーナーで内山昌一さんが投稿されたようです。藁の蛇を作っている光景を見ると参加させてもらった時のことが思いだされます。今年も沢山の方が見学に来られていたようです。


是非とも皆さんもビデオを投稿してみてください。 送り先は
〒150-8001 NHKおはよう日本「とれたてマイビデオ」係 です。
NHKに代わってお願い申し上げます。


2013年2月14日 18時追記
タイトル : 下高野の伝統的な節分行事も放送されました。

今朝の5時27分に八千代市下高野の辻切りがNHKで放送されたことを報告させていただきましたが、同じ本日の昼ごろに辻切りに参加されている方の家の伝統的な節分行事がNHKで放送されました。番組は「こんにちは いっと6けん」です。

こちらのお家では焼いた鰯の頭とトゲのある草木を用意するそうです。ヒイラギや豆殻などと一緒にまとめた物をいくつも造ります。それらは神棚や祠(ほこら)に供えます。さらに大きなカゴにも取り付けつけて軒先にかけて鬼を捕らえるという行事だそうです。


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井野の梵天塚 [風習・歴史]



八千代市の下高野の伝統行事に参加させてもらい梵天塚(ボンデン塚)が出羽三山参り(奥州参り)に行った記念碑を塚に集めた場所であることを知りました。隣の地区である同じ八千代市の上高野にも梵天塚があったので紹介しましたが、八千代市の隣の佐倉市に梵天塚というバス亭があることを思い出したので行ってみました。

想像した通り、バス亭の場所に梵天塚がありました。それも15基もありました。場所は千葉県佐倉市の井野のあたりです。佐倉市の井野は八千代市の下高野の隣の地区でもあるのです。


15基の出羽三山参拝記念碑(三山碑)に記載されて参拝の日を調べてみました。
江戸時代の古い記念碑は供養塔という呼び方だったようです。
 文政 3年 2月    1820年
 弘化 4年11月    1847年
 明治 7年 4月    1874年
 明治22年 4月    1889年
 明治35年 7月17日 1902年
 昭和12年 7月20日 1937年
 昭和17年 1月 5日 1942年
 昭和26年 7月16日 1951年
 昭和29年 8月 1日 1954年
 昭和38年 7月26日 1963年
 昭和43年 7月28日 1968年
 昭和49年 8月 5日 1974年
 昭和62年 7月17日 1987年
 平成12年 8月27日 2000年
 平成12年        2000年


こちらの2基ともに平成12年の最も新しい記念碑です。同じ年のものがあるのは初めてでした。経緯は判りませんが左の碑の土台は新しいものなので別の場所にあったものを移動してきたものかもしれません。


こちらにも自転車で行ってみました。


すぐ近くには庚申塔もありました。こちらの塚には5基の庚申塔がありました。万延元年(1860年)、寛政4年(1792年)、文政10年(1827年)の文字が読み取れました。
結構、立派な庚申塔でした。庚申塔は今までにも沢山見つけことが出来たので、梵天塚に比べると庚申塔が建てられている場所は沢山あるようです。昔の小学校でも庚申塔を見ることが出来ました。


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