平林寺 三十三番 観音菩薩順礼道 [宝塚]
前記事「伊和志津神社」の中でこの日は平林寺と宝塚神社と伊和志津神社を廻りましたが、最初に行ったのは本記事で紹介する平林寺(へいりんじ)です。平林寺は聖徳太子の時代につくられた摂津国武庫七大寺の一つで、歴史のあるお寺だったのです。寺伝によれば飛鳥時代に用明天皇の命で聖徳太子が創建し、平安時代に如一尼が再興されたそうです。1578年(天正6年)に 荒木村重の反乱に巻き込まれて焼失しましたが、江戸時代に再興されたそうです。
所在地 兵庫県宝塚市社町4-7
山号 武庫山
宗派 単立
本尊 釈迦如来
創建年 伝・飛鳥時代
開基 伝・聖徳太子、用明天皇(勅願)
札所等 摂津国三十三箇所第2番
摂津国八十八箇所第73番
写真の逆瀬川駅の西側から平林寺に向かいました。
こちらが多逆瀬川駅からの参道になります。阪急電車の線路と住宅地の間の道を登ります。
阪急今津線がよく見えました。
登り切ったところに平林寺の墓地と石碑がありました。石碑には忠魂碑と書かれていました。日露戦争(1904年2月6日~1905年9月5日)で戦死した人の慰霊碑でした。
上の忠魂碑の左側に58名の名前が刻まれた石碑がありました。日露戦争でのこの地域の戦没者なのかもしれません。
忠魂碑からは下ります。右に見える屋根は平林寺の観音堂です。
石像は大切にされているようでした。
こちらは御地蔵さんでしようか。
急坂を下りるとお堂が見えてきました。
坂道を下りてくると2つのお堂が建っていました。2つ共に平林寺の中の建物で手前が薬師堂で奥が観音堂です。
薬師堂を正面から見た写真です。
鬼瓦が沢山置かれていました。
鬼瓦の正面からの写真も紹介します。
宝塚市指定の文化財である石造露盤があったので、とりあえず説明板の写真を撮りました。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
石造露盤の写真は単独では撮らなかったので2021年8月1日に取り直して写真を差し替えました。確かに文化財に値するものでした。
こちらが観音堂で摂津国三十三ヶ所第2番札所となっています。
観音堂の横に建っていた祠です。
趣きのある大きな石塔が建っていたので写真を撮りました。
平林寺の本堂が見えてきました。
こちらが平林寺の本堂です。本堂は摂津国八十八箇所第73番になっています。中に安置されている釈迦如来坐像は室町時代初期のもので、宝塚市指定文化財になっています。
扁額に平林寺の文字がありました。聖徳太子が四天王寺を開創した後につくられた摂津国武庫七大寺の7寺の内で分かっている6寺は平林寺、中山寺、小林寺(廃寺)、塩尾寺、塩尾寺、円国寺(廃寺)、金龍寺だそうです。塩尾寺(えんぺいじ)は以前に記事に書かせていただきました。
平林寺の本殿に置かれていた像です。
不動明王と思われる像もありました。鉄柱は後ろの木の枝を支えているもので不動明王とは関係はありません。
手水も写真を撮っておきました。
最も離れた場所から撮った平林寺の本堂です。
こちらが表参道参道です。つまり逆瀬川駅からの道は裏参道的な存在ですが、こちらから来ると遠回りになってしまいます。少し表参道を下りてみることにしました。阪急電車のガード下をくぐります。
参道のと途中に四国八十八ケ所巡拝の記念の像が立てられていました。お砂踏み所と書かれていました。
阪急電車のガード下あたりから平林寺をふり返って撮った写真です。本動画小さく見えます。
阪急が通ったのですこし高いところに急いで上がって撮りました。
ガードをくぐって表参道を下って平林寺川を撮りました。沢山の尾寺が建っていました。
もっと遠くに離れて撮りました。月極駐車場の看板には平林寺と書かれているので沢山のお寺は平林寺と関係があるようです。
よく見える位置からお寺群を撮りました。Wikipediaには次の4寺が塔頭と書かれていました。正面に見えているのは宝寿院で他の3寺は参道沿いにあります。いずれも平林寺の本堂に向かって右側で遠い方から成福院、西光院、成就院です。
成就院 東寺真言宗
西光院 高野山真言宗
成福院 真言宗大覚寺派
宝寿院 真言宗大覚寺派
参道と成福院と西光院と成就院の4枚の写真をスライドショーで表示いたします。
表参道を本堂まで戻ってきました。
本堂の右側に道が続いていたので進んで見ることにしました。
最初に目に入ったのがこちらの石像でした。台座には第丗三番と書かれていました。
古い石碑が沢山ありました。
古い石碑が沢山並べられていました。長い歴史の中で作られた石碑や墓石類だと思われました。
第丗一番と書かれた石像には第31番と書かれていました。妻に最初の目に入った第丗三番と台座に書かれていた石像は第33番目の石像だったのです。寺の裏には第28番~第33番があったことからどこかに第1番~第27番もあると想像され、さらに第34倍いじようもあるかもしれないと思いさらに散策して見ることにいたしました。
三十三所發起者と書かれた石碑がありました。
更に三十三番観音菩薩順礼道と書かれた看板がありました。つまり第1番から第33番の観音菩薩が設置られていることが判りました。
それでは第1番から順番に初会したいと思います。赤色ライン(━━)が順礼道です。右回り(時計回り)に歩きました。
鐘楼のまでの間の道の左側に第1番と第2番があります。
こちらは鐘楼です。1つき20円と書かれていたので、20円を入れて鐘をつかせていただきました。
全ての観音菩薩像の写真を紹介します。写真をクリックすると拡大写真を表示するように設定いたしました。
第一番 第二番 第三番
第四番 第五番 第六番
第七番 第八番 第九番
途中に次の訪問場所の宝塚神社の境内に入る入口がありました。
観音菩薩順礼道の小道です。
第十番 第十一番 第十二番
第十三番 第十四番 第十五番
第十六番 第十七番 第十八番
観音菩薩が並んだ小道は雰囲気がありました。ここは蚊が多いために、蚊が群がって襲ってきたので第十八番と第廿二番と第廿三番と第廿六番はピントが甘くなってしまいました。そのために2021年8月1日に取り直して差し替えました。着色文字をクリックするとピントが甘かった写真を表示します。
第十九番 第二十番 第廿一番
第廿二番 第廿三番 第廿四番
第廿五番 第廿六番 第廿七番
第三十番(第30番)だけは池の真中に設置されていて特別の存在のように感じました。
第廿八番 第廿九番 第三十番
第丗一番 第丗二番 第丗三番
平林寺の観音菩薩順礼道のストリートビューが登録されていたので紹介します。
平林寺の敷地を紹介します。緑色に着色した部分が平林寺で橙色の部分が宝塚人者の敷地です。ただし、平林寺と宝塚神社の間は実際に境界を示すものはなかったので仮に境界を決めさせていただきました。阪急電車の東側(右側)の敷地には塔頭4寺である成就院と西光院と成福院と宝寿院などがあることが判ります。宝塚神社の創建は平林寺と同時期と言われています。赤色ライン(━━)が三十三番所・観音菩薩順礼道です。紫色ライン(━━)が平林寺の表参道で、逆瀬川駅からの裏参道が臙脂色ライン(━━)です。マイナス(-)のアイコンを2回クリックすると逆瀬川駅との位置関係が判ると思います。
夏越大祓の「茅の輪くぐり」 伊和志津神社 [宝塚]
以前に宝塚の逆瀬川駅の近くの宝塚聖天さんを紹介させていただきました。逆瀬川駅の近くには宝塚聖天さん以外にも寺院や神社がいくつかあるので写真を撮りに行ってみることにいたしました。この日に廻ったのは順に平林寺と宝塚神社と伊和志津神社(いわしづじんじゃ)です。その中で本記事では伊和志津神社を紹介したいと思います。実家に住んでいたころにはしらなかったのですが、平林寺は以前の記事「塩尾寺(えんぺいじ)」の中で、聖徳太子の時代につくられた摂津国武庫七大寺の一つであると記載されていただいたように、意外にも由緒ある寺院や神社が身近なところにあったことを知りました。上の写真が逆瀬川駅から歩いて5分のところにある入口の鳥居です。
鳥居の右側の柱の近くの木の幹にピンクのしめ縄が巻かれているのが印象的でした。
鳥居から真っ直ぐに伸びる参道です。この参道を進むと左に曲がります。そこに2つ目の鳥居があります。周辺は住宅ですが、神社の境内だけは緑豊かな環境になっています。
これが2つ目の鳥居です。真っ直ぐに進むと本殿正面に出ます。突き当りまで行くと左に本殿が見えます。
上の写真の参道を真っ直ぐに来ると左正面に本殿が見えます。驚いたことに本殿正面に「茅の輪(ちのわ)くぐり」が設置されていました。訪れた日は夏越大祓(なごし・おおはらえ)だったのです。Wikipediaによれば主祭神の須佐之男命は摂津国武庫郡伊孑志村(いそしむら)の産土神で、もとは伊蘇志臣の祖神が祀られていたと考えられているそうです。
所在地 兵庫県宝塚市伊孑志1-4-3
主祭神 須佐之男命
社格等 式内社(大)論社 旧村社
創建 9世紀以前
創建者 不明であるが伊蘇志臣の可能性あり
本殿様式 一間社春日造、?葺 江戸時代中期の建築
別名 伊和志豆神社
実は平林寺と宝塚神社の後は宝塚南口駅の近くにある宝塚市立文化芸術センターに行き、その後に伊和志津神社に来ました。つまり冒頭の逆瀬川駅近くの鳥居は最後に撮った写真で、最初に撮ったのはこちらです。背中側が宝塚南口駅方向で、左の道を真っ直ぐ進むと仁川駅の近くを通ります。
真っ直ぐに進むと車道も歩道もトンネルになっていました。我々が宝塚に住み始めた時には、この車道も歩道も無かったことから、道路をつくるにあたり、盛り土をして境内の下に道路を通したのだと思います。トンネルの入口まで来ましたが、境内に入る入口が見つからなかったことから、道路の向かいある駐車場の入口から入ることにいたしました。後でわかったことですが、歩道のトンネルの中に境内への入口がありました。
こちらが道路の向かいにあった駐車場の入口です。ここから入ってトンネルの上を行けば本殿まで行けるはずです。伊和志津神社の境内の広さを実感いたしました。
駐車場側の境内にも鳥居から始まる参道がありました。本殿から見ると東側になります。駐車場は写真の右奥の方にあります。つまり一旦、外に出て本写真を撮りました。
鳥居をくぐって撮った参道の写真です。本記事の最後に掲載した航空写真の説明で書いているように伊和志津神社の表参道です。つまり上の写真の鳥居が表参道の入口の鳥居なのです。
後から作られた道路のトンネルの部分です。階段を上がると道路の上の境内を進むと本殿側に同じような階段がありました。
上の写真の階段の左側に歩道のトンネルからも境内に入れることが出来る入口があることを知りました。
歩道のトンネル内の写真です。車道のトンネルの両側にある歩道のトンネルはどちらからも境内に入れました。
道路を越える高い部分に上がると本殿が見えました。右側の一番手前にあるのが手水舎(てみずや or ちょうずや)です。真新しい夏詣の幟が目を引きました。
こちらが正面から撮った手水舎です。水盤舎(すいばんしゃ)とも言われています。よく見ると水盤の部分に花が浮かべられていました。花手水(はなちょうず)と呼ばれています。
花手水(はなちょうず)の写真を紹介いたします。
花の部分を拡大いたしました。
斜めから花手水を撮った写真です。
こちらも拡大いたしました。
後ろ側からも撮りました。写真を撮られている方が多かったです。
屋根の部分も飾られていました。ガラスの風鈴と小さな笠です。
折り紙で作られた風車も飾られていました。これにはLEDと思われる照明がつけられていました。
上のLEDからは太陽光蓄電池と思われるものに配線されていたので暗くなるときれいに光るのだと思います。
女性の方が沢山来られていました。男性は私以外に1人見ただけでした。
本殿と「茅の輪くぐり」です。極力、人が写らない角度でタイミングで撮りました。写真の印象よりは沢山の女性の方が訪れていたのです。
「茅の輪くぐり」を正面から撮りました。
横の「茅の輪くぐり」の説明板です。写真をクリックすると説明分が読める大きさに拡大いたします。
クリックが面倒な方のために内容を枠内に記載いたします。
さっそく茅の輪くぐりを潜って本殿を正面から撮りました。伊和志津神社の祭事は次の通りです。この中の大祓の日に偶然にも訪れることが出来たのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた春祭と秋季大祭と大祓です。
春祭 4月23日24日
大祓 6月30日
夏祭 7月27日28日
愛宕祭 8月24日
秋季大祭 10月23日24日
御火焚祭 12月15日
本殿の扁額です。
車椅子でもお参りできるようにもなっていました。江戸時代の中期の建物ですが、きれいに手入れされていました。
少し離れて撮った本殿です。ここにも花で飾られた手水が写っています。
上の写真の中の手水です。
5つの石碑が納められた遥拝所がありました。
上の写真の右側のお堂の中にも沢山の石碑が納められていました。
その石碑です。
境内の遠い場所から本殿方向を撮った写真です。右側の東屋で休んでいる人が、私以外の唯一の男性だった人です。灯篭が並んだ参道を左方向に行くと冒頭の写真の逆瀬川駅に近い鳥居のある入口に行けます。加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った虎を境内で飼育したと伝えられているそうです。
右上の緑色マークが伊和志津神社で左下の橙色マークが逆瀬川駅です。臙脂色マークは以前に紹介した塩尾寺の方向を示す道標があった場所です。逆瀬川駅と宝塚南口を結ぶ古い街道(良元街道)沿いにありました。
伊和志津神社の境内の範囲を表示します。道路が境内の下を走っていることが判ると思います。このトンネルによって県道16号線と県道337号線が短い距離でつながりました。紫色ライン(━━)が冒頭の逆瀬川駅近くの西側の鳥居からの参道で、赤色ライン(━━)が東側の鳥居からの参道です。東側の鳥居からの参道が表参道となっています。阪急電車が通って逆瀬川駅が出来たことで人の流れが変わったのかもしれません。
鳥居の右側の柱の近くの木の幹にピンクのしめ縄が巻かれているのが印象的でした。
鳥居から真っ直ぐに伸びる参道です。この参道を進むと左に曲がります。そこに2つ目の鳥居があります。周辺は住宅ですが、神社の境内だけは緑豊かな環境になっています。
これが2つ目の鳥居です。真っ直ぐに進むと本殿正面に出ます。突き当りまで行くと左に本殿が見えます。
上の写真の参道を真っ直ぐに来ると左正面に本殿が見えます。驚いたことに本殿正面に「茅の輪(ちのわ)くぐり」が設置されていました。訪れた日は夏越大祓(なごし・おおはらえ)だったのです。Wikipediaによれば主祭神の須佐之男命は摂津国武庫郡伊孑志村(いそしむら)の産土神で、もとは伊蘇志臣の祖神が祀られていたと考えられているそうです。
所在地 兵庫県宝塚市伊孑志1-4-3
主祭神 須佐之男命
社格等 式内社(大)論社 旧村社
創建 9世紀以前
創建者 不明であるが伊蘇志臣の可能性あり
本殿様式 一間社春日造、?葺 江戸時代中期の建築
別名 伊和志豆神社
実は平林寺と宝塚神社の後は宝塚南口駅の近くにある宝塚市立文化芸術センターに行き、その後に伊和志津神社に来ました。つまり冒頭の逆瀬川駅近くの鳥居は最後に撮った写真で、最初に撮ったのはこちらです。背中側が宝塚南口駅方向で、左の道を真っ直ぐ進むと仁川駅の近くを通ります。
真っ直ぐに進むと車道も歩道もトンネルになっていました。我々が宝塚に住み始めた時には、この車道も歩道も無かったことから、道路をつくるにあたり、盛り土をして境内の下に道路を通したのだと思います。トンネルの入口まで来ましたが、境内に入る入口が見つからなかったことから、道路の向かいある駐車場の入口から入ることにいたしました。後でわかったことですが、歩道のトンネルの中に境内への入口がありました。
こちらが道路の向かいにあった駐車場の入口です。ここから入ってトンネルの上を行けば本殿まで行けるはずです。伊和志津神社の境内の広さを実感いたしました。
駐車場側の境内にも鳥居から始まる参道がありました。本殿から見ると東側になります。駐車場は写真の右奥の方にあります。つまり一旦、外に出て本写真を撮りました。
鳥居をくぐって撮った参道の写真です。本記事の最後に掲載した航空写真の説明で書いているように伊和志津神社の表参道です。つまり上の写真の鳥居が表参道の入口の鳥居なのです。
後から作られた道路のトンネルの部分です。階段を上がると道路の上の境内を進むと本殿側に同じような階段がありました。
上の写真の階段の左側に歩道のトンネルからも境内に入れることが出来る入口があることを知りました。
歩道のトンネル内の写真です。車道のトンネルの両側にある歩道のトンネルはどちらからも境内に入れました。
道路を越える高い部分に上がると本殿が見えました。右側の一番手前にあるのが手水舎(てみずや or ちょうずや)です。真新しい夏詣の幟が目を引きました。
こちらが正面から撮った手水舎です。水盤舎(すいばんしゃ)とも言われています。よく見ると水盤の部分に花が浮かべられていました。花手水(はなちょうず)と呼ばれています。
花手水(はなちょうず)の写真を紹介いたします。
花の部分を拡大いたしました。
斜めから花手水を撮った写真です。
こちらも拡大いたしました。
後ろ側からも撮りました。写真を撮られている方が多かったです。
屋根の部分も飾られていました。ガラスの風鈴と小さな笠です。
折り紙で作られた風車も飾られていました。これにはLEDと思われる照明がつけられていました。
上のLEDからは太陽光蓄電池と思われるものに配線されていたので暗くなるときれいに光るのだと思います。
女性の方が沢山来られていました。男性は私以外に1人見ただけでした。
本殿と「茅の輪くぐり」です。極力、人が写らない角度でタイミングで撮りました。写真の印象よりは沢山の女性の方が訪れていたのです。
「茅の輪くぐり」を正面から撮りました。
横の「茅の輪くぐり」の説明板です。写真をクリックすると説明分が読める大きさに拡大いたします。
クリックが面倒な方のために内容を枠内に記載いたします。
夏越大祓(6月30日)
茅の輪くぐり
①正面から茅の輪を左回りにくぐり正面に戻ります。
②右回りにくぐり、正面に戻りもう一度くぐって、神前に進み御参拝下さい。
大祓とは古来らり人々が、日々生活の中で知らず知らずのうちに、犯した過ちや罪・穢れを祓い清める日本古来よりの伝統的な神事です。茅の輪くぐり、清らかな心身に返り、この夏を健康で無事に過ごせるよう願いましょう。
さっそく茅の輪くぐりを潜って本殿を正面から撮りました。伊和志津神社の祭事は次の通りです。この中の大祓の日に偶然にも訪れることが出来たのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた春祭と秋季大祭と大祓です。
春祭 4月23日24日
大祓 6月30日
夏祭 7月27日28日
愛宕祭 8月24日
秋季大祭 10月23日24日
御火焚祭 12月15日
本殿の扁額です。
車椅子でもお参りできるようにもなっていました。江戸時代の中期の建物ですが、きれいに手入れされていました。
少し離れて撮った本殿です。ここにも花で飾られた手水が写っています。
上の写真の中の手水です。
5つの石碑が納められた遥拝所がありました。
上の写真の右側のお堂の中にも沢山の石碑が納められていました。
その石碑です。
境内の遠い場所から本殿方向を撮った写真です。右側の東屋で休んでいる人が、私以外の唯一の男性だった人です。灯篭が並んだ参道を左方向に行くと冒頭の写真の逆瀬川駅に近い鳥居のある入口に行けます。加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った虎を境内で飼育したと伝えられているそうです。
右上の緑色マークが伊和志津神社で左下の橙色マークが逆瀬川駅です。臙脂色マークは以前に紹介した塩尾寺の方向を示す道標があった場所です。逆瀬川駅と宝塚南口を結ぶ古い街道(良元街道)沿いにありました。
伊和志津神社の境内の範囲を表示します。道路が境内の下を走っていることが判ると思います。このトンネルによって県道16号線と県道337号線が短い距離でつながりました。紫色ライン(━━)が冒頭の逆瀬川駅近くの西側の鳥居からの参道で、赤色ライン(━━)が東側の鳥居からの参道です。東側の鳥居からの参道が表参道となっています。阪急電車が通って逆瀬川駅が出来たことで人の流れが変わったのかもしれません。
宝塚聖天からの塩尾寺への山越えの道 [宝塚]
青色ラインが宝塚聖天(了徳密院)から右の写真の塩尾寺(えんぺいじ)までの山越えルートです。黄色のラインは下の写真を撮った位置からの目標方向の線です。撮影した場所からは宝塚聖天も塩尾寺も手前にある建物や山に隠れていて直接は確認できないため周辺の岩倉山反射板や鉄塔(A~D)の位置や鉄塔と鉄塔の角度の比率から計算で求めて宝塚聖天と塩尾寺(えんぺいじ)の位置をプロットするための線です。
こちらが前記事「宝塚の聖天さん 七宝山 了徳密院」でも紹介した逆瀬川駅近くの高台から撮った写真です。上の航空写真の青色ライン(━━)は左端の聖天と書かれていた場所から、宝塚市立光ガ丘中学校が立つ山の奥の裏側を通って、右端の甲子園大学の近くまで行き、そこから塩尾寺まで行くルートです。先ずは聖天を出発するところから紹介したいと思います。右に2023年2月21日に撮ってきた阪急電車の岩倉山反射板の写真を掲載させていただきました。
この写真をクリックして表示される拡大写真は2021年6月24日にYahoo知恵袋のベストアンサーに引用されています。
宝塚聖天(了徳密院)の裏門(遍照閣の脇の門)を出て、進んでいく方向を撮った写真です。前記事で紹介の通り、見えている建物は兵庫県住宅供給公社の宝梅園団地です。
宝塚聖天の横を流れている支多々川(したたがわ)です。武庫川の支流の一つです。
団地を左に見ながら登っていきます。
団地を抜けたところの景色です。登り切って右から上がってきた道に合流したところで、左に曲がって上がっていきました。
閑静な住宅が並んでいるところを登りました。左に入る一番手前の道に曲がりました。
右に曲がると真っ直ぐに急な上り坂でした。突き当りまで登り左に曲がりました。
上の写真の突き当り近くにあった公園の辺りが景色がよさそうなので写真を撮りました・右端の小山は甲山です。六甲山の東の裾野にある有名な山です。
この坂道をさらに登っていきました。このような景色は六甲山の山麓の住宅地の特徴です。道の正面に見えている住宅のところを右に曲がりました。
緑がやっと見えてきました。正面の建物のところが、今回の山越えのルートの中で最も高い場所でした。山越えモートで最も高いところは山の中と思っていたので意外でした。
ことらか今回の山越えルートで一番高いところにあった建物です。建物は光ガ丘自治会館でした。Google地図での標高は209mでした。ここを右に曲がりました。この場所が光ガ丘の住宅地で一番高い場所ではなく、ここから左に曲がって進むと最も高い場所に行けます。道路の傾斜でも判っていただけると思います。
光ガ丘自治会館のところを右に曲がってすぐに撮った写真でする。逆瀬川駅の近くの高台から撮った写真で山の上理建っている見えていた光ケ丘中学校が正面にありました。少し進んで左に曲がりました。
下っていく形で進むと山の裏側の景色が見えてきました。右にある門は光ケ丘中学校の裏門です。
光ケ丘中学校の裏門の辺りからは急な下りになり住宅地からも離れて山の中になりました。
下りの急カーブです。
右の向こう側から下りてきてUターンする形で左に下りていきます。右側には車止め設置されていて、左側にも車止め兼二輪車止めが設置されていました。つまりこの道は車もバイクも通れない道でした。
二輪車止めが設置された下り坂を正面から撮りました。
こちらが甲子園大学方面への下り坂です。
道の脇には川が流れていました。
下り坂は続きました。
車止め兼二輪車止めは何重にも設置されていました。この時は数え忘れましたが5ケ所以上設置されていました。二輪車止めが何度も突破されたことから追加されたのではないかと思えました。完全に担がないと通れない構造です。何度も担がないと通れないので、数で諦めさせる作戦なのでしょう。
振り返って降りてきた方向を撮りました。
この場所から塩尾寺に行く道があると思いましたが、フェンスがあるために登ってみることが出来ませんでした。
フェンスの隙間から撮った塩尾寺に登れるかもしれないと思っていた場所の写真です。
ここは中学生の通学路なので安全のために山に入れないようにフェンスがつけられているように感じました。
やっと住宅地に出てきました。
山を越えてきて右の方(光ガ丘中学へと書かれた方向)から降りてきたのです。毎日通う中学生は体力が付くと思います。自転車で下りてくるとスピートが出るため本人も歩いている人も危険なので二輪車止めを何重にも設置したのかもしれません。
右の方に行くと塩尾寺と甲子園大学があります。
とりあえず山越えの道を歩く目的は果たせたので、塩尾寺には登らずに、以前歩いた道で実家の方に帰りました。山から下りてきた写真の場所の標高は106mです。出発地点の宝塚聖天の標高は127mなの最高点の208mまでは81mの登りですが、逆瀬川駅の標高は47mであることから逆瀬川駅からは181mほど登ることになります。