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関西はキンメダイ(金目鯛)も新鮮でした。 [兵庫県]

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実家の宝塚に着いた2021年2月7日の夕食を買うために実家の近くのスーパーに行くと、新しそうなキンメダイ(金目鯛)が売られていたので迷わず買いました。この日は金目鯛の刺身にすることにいたしました。キンメダイ(金目鯛)は世界各地の深海に生息しているキンメダイ目キンメダイ科 キンメダイ属の深海魚です。色が赤いことからタイ(鯛)の名が名前に入っているようですが、スズキ目タイ科マダイ属のマダイ(真鯛)とは、かなり離れた種です。金目鯛はいろんなサイズが売られていますが、ある研究によれば1歳魚で17.7cm、2歳魚で23.4cm、3歳魚で28.3cm、5歳魚で35.8cm、10歳魚で46.5cm、15歳魚で51.1cmだそうです。金目鯛の寿命は15~20年程度だそうです。生息場所は未成魚が水深100~250メートルで、成魚になるとともに300~800メートルの深部へ移動するそうです。だだし夜間は150~300メートル付近まで浮上するとのことです。
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  門 脊索動物門   Chordata
 亜門 脊椎動物亜門  Vertebrata
  綱 条鰭綱     Actinopterygii
 上目 棘鰭上目    Acanthopterygii
  目 キンメダイ目  Beryciformes
 亜目 キンメダイ亜目 Berycoidei
  科 キンメダイ科  Berycidae
  属 キンメダイ属  Beryx
  種 キンメダイ   Beryx splendens
 英名 Splendid alfonsino

お皿にそのまま盛り付けました。3種相掛カレーなどで紹介した砥部焼のお皿です。目の色もきれいだし、刺身もプリプリ感が伝わってきました。私の住んでいる近くではとても手に入らないような新鮮な金目鯛のように感じました。
試しにキンメダイで検索してみると今までにキンメダイを食べた記事は4度掲載していました。着色文字をクリックするとその記事を表示します。→我家での食事 九十九里の旅館 三宮の人気魚料理店 大手町でイタリアン
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刺身のプリプリ感を感じてもらいたくて刺身の部分を拡大いたしました。もちろん我が家の近くのスーパーにも金目鯛の刺身が゛並ぶことがありますが、プリプリ感がある刺身に出会うことはまずないまで、迷わず買ってみたわけです。ただし食べるまでは判りません。
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刺身以外に長茄子の焼き茄子も用意いたしました。長い長茄子だったので、そのまま乗せられる皿が無かったことから半分に切りました。以前に紹介したように熱々のまま乗せています。
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冷やっこも用意いたしました。醤油の色が赤いと思いませんか?
キッコーマンの特選醤油です。昔から実家ではキッコーマンの醤油を使っていたので赤色の醤油が美味しく感じられてしまいます。
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さっそく刺身を食べてみるとキンメダイとは思えない硬さがありプリプリの刺身でした。味も鯛とは違う甘さのある身で、関東だと料亭でしかお目にかかれないような味とプリプリ感のある食感でした。
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金目鯛らしい薄皮のついた刺身の写真も紹介します。
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この時は冷蔵庫に正月のために買った日本酒が入っていることに気が付かなかったので、ビールにいたしました。
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頭も目もきれいでしたので拡大いたしました。この時、母が「頭は焼かないの ?」と言われて、は!と気が付いて食事をしながら、コンロのグリルで焼き始めました。-ほんとうはキンメダイは煮付が美味しいのですが、手軽に出来るので焼くことにしたわけです。
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焼きあがったキンメダイの頭です。カマの部分は母に渡して、頭は私が食べました。塩もかけないでそのまま焼きました。
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焼いた身も美味しかったです。
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こちらは目の周りのゼリー状のものです。目の周りのゼリー状の身は美味しいと聞いていましたが、何となく食べる気にはなりませんでしたが、見ていて新鮮そうに感じられたので少し味見をした見たところ、薄っすらと塩味があり美味しかったので、結局、すべて食べてしまいました。初めて目の周りのゼリー状の部分を食べました。
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価格は1580円でした。値段の相場の知見はありませんが、この鮮度で、この美味しさならば安いのではないかと思いました。新鮮で美味しい刺身が食べれただけでなく新鮮な甲焼きも食べれてキンメダイを買ったのは大正解でした。高知県産のキンメダイでした。関西は新鮮な魚が多いので、離れた場所からでも少しでも新鮮な状態で口に入るように流通に気を使っているのだと思います。このスーパーは年末にトラフグを買うお店でもあります。右の小さな写真は以前の記事で紹介した同じお店で買った大きな活き車海老の写真です。
クリックすると拡大 店名 KOHYO(コーヨー/光洋) 逆瀬川店
 住所 兵庫県宝塚市逆瀬川1-2-1 アピア1 B1F
 電話 0797-71-5400
 営業 9:00~21:00
 定休 無休
 創業 1973年01月(資本金250万円) 現在42店舗(大阪 兵庫 京都 奈良)
 沿革 2000年11月逆瀬川店開店 2007年12月14日イオン傘下
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2020年2月7日から関西に来ていて、ネット環境の関係で皆様のところには訪問できていないことお詫びいたします。2月14日に帰宅する予定です。家に帰るとやりたいことが溜まっているので2月17日以降に皆様のところに本格的に訪問したいと思っております。
今回のキンメダイが分類されているキンメダイ属にはキンメダイと.ナンヨウキンメとフウセンキンメの3種があります。切り身として販売される場合はナンヨウキンメやフウセンキンメをキンメダイとして流通することもあることから、区別するために本キンメと表示される場合があるそうです。もちろん今回のキンメダイは本キンメだと思います。写真で見る限り細身で大きいのがキンメダイです。
 名 前  学 名 成魚体長  漢 字
キンメダイ   Beryx splendens 50cm越え 金目鯛
ナンヨウキンメ Beryx decadactylus 40cm前後 南洋金目
フウセンキンメ Beryx mollis 30cm前後 風船金目
 キンメダイ(本キンメ)    ナンヨウキンメ      フウセンキンメ
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タグ: 刺身 夕食
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第80回ハイク打ち上げ飲み会 三田の酒場 わっしょい  [兵庫県]

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第80回ハイクでの丹波篠山の町の下の篠山城とデカンショ館と武家屋敷と歴史美術館の4ケ所を見学をした後は、もう一つの楽しみが打ち上げ飲み会です。前記事で記載の通り10名のメンバーの内5名は宝塚方面からJRで帰るのですが、5名は三田駅で神戸電鉄に乗り換えて神戸方面に帰るので、時間的な効率を考えるならばJR篠山口駅の周辺で飲み会をするのが1番でしたが、どこも16時台は開店していなかったので三田駅で飲み会を行うために、篠山口16時08分発の大阪行き丹波快速に乗りました。上の写真は篠山口駅のホームから撮った回送電車です。左側の方向が三田や宝塚や大阪方向です。
クリックすると拡大 すでに紹介した第80回ハイクの記事
  篠山城
  丹波篠山デカンショ館
  安間家(武家屋敷)
  一休庵(昼食/手打蕎麦)
  歴史美術館
     着色文字をクリックすると記事を表示 

篠山口から三田に着くまではこの写真のような風景が続きました。
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三田駅の3番線に16時37分に着きました。3番線ホームから上がって改札前で撮りました。進学塾の看板が目を引きました。私が小学校4年の時に広島市立井口小学校から転校してきた神戸市立本山第一小学校でもクラスから1名あるいはそれ以下程度しか入れなかったのが灘中でした。その難関度は変わっていないようでした。クリックすると拡大大きな町でも17時前から開いている居酒屋は少ないので、自分たちの足で探すのは諦めて、迷わず、三田駅の右の小さな写真の観光案内所(三田市総合案内所)に入って聞くと、すぐにこの時間に開店しているお店の名前と場所の答えが返ってきました。さすが案内所でした。
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それも駅から1~2分の距離のお店でした。驚いたことに14時から営業しているお店でした。案内所ですぐに答えが聞けたのは、14時から営業していることが有名だったのかもしれません。営業時間および定休日は新型コロナ感染拡大以前の情報です。左側の地図の一休庵が昼食を食べたお蕎麦屋さんです。
 名前 三田の酒場 わっしょい
 住所 兵庫県三田市駅前町8-37
 電話 079-562-3939
 営業 14:00~翌02:00 ただし日曜日は14:00~24:00
 定休 なし
 最寄 JR三田駅 徒歩2分 神戸電鉄三田駅 徒歩1分


すぐにビールを頼んで乾杯でした。
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こちらのお店では延長可能な飲み放題システムがありました。60分飲み放題が988円で、30分延長するごとに290円です。ただし生ビールは単独で頼んでも290円と安いので、1時間に1人平均4杯(1160円)以上、2時間で6杯(1740円)以上飲むグループに飲み放題がお勧めです。参考に14時から飲んだ時の飲み放題料金を計算してみました。隣で飲んでおられたグループは盛り上がりの雰囲気から5~6時間のように感じました。我々のグループはお酒が飲めない人が3人おられる上に沢山飲む人は限られているので飲み放題にはしませんでした。
 1時間 14時~15時   988円   1.5時間 14時~15時半 1278円  
 2時間 14時~16時 1568円   2.5時間 14時~16時半 1858円
 3時間 14時~17時 2148円   3.5時間 14時~17時半 2438円
 4時間 14時~18時 2728円   4.5時間 14時~18時半 3018円 
 5時間 14時~19時 3308円   5.5時間 14時~19時半 3598円 
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いろいろお得なセットが用意されていました。この「ちょい呑みセット」を頼みました。生ビールが290円なので料理が210円(=500円-290円)ということになります。お酒が飲めない人の生ビールは飲む人がいただきました。この会では、お酒を飲まない人の会費は少なく設定しているので遠慮なしに沢山飲めるのです。実は2枚上の生ビールの写真はこのセットの生ビールです。
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こちらのお店の売りは安いことのようです。つまみも278円の皿が沢山ありました。驚いたことに机はビールのケースを使ったものでした。
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椅子も清酒ケースを利用して作ったものでした。机も椅子もオーダーなので意外と費用は掛かっているかもしれませんが、雰囲気を出すためにビールケースや清酒ケースを使っているのかもしれません。
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最初に出てきた料理は「ちょい呑みセット」の中の「牛どて盛」でした。
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七味ではなく八味でした。ハバネロ入りと書かれていました。
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次に出てきたのは一番人気の秘伝の自家製若鶏のから揚げでした。
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ネギがたっぷり乗った鶏の唐揚げも頼みました。
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鯵の刺身も頼みました。
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打ち上げ飲み会でいつも頼んでいるだし巻き玉子も頼みました。
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この段階でのテーブル雰囲気を紹介します。お店の人に撮ってもらった右下の記念写真から切り取りました。すでにビールが空の人もいます。私は一番奥の壁際にいます。新型コロナの感染拡大のために、この2020年2月15日の飲み会のクリックすると拡大7日後の7日後の2月22日の別の飲み会を最後に、現在まで飲み会が行われていないのです。つまり最後から2番目の貴重な飲み会なのです。次の飲み会はワクチンが開発されて、世の中が落ち着いてからになるのかもしれません。
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オニオンスライスがたっぷりと入ったサラダも出てきました。
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こちらのお店は焼き物が豊富で焼鳥にも力が入っているように感じました。おまかせ5本盛りです。
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お店の中に昔の三田まつりと思われる写真が飾られていました。右下の小さな写真のカーニバル風の神戸まつりの影響を受けているように感じます。クレックすると拡大小さな写真をクリックすると私が掲載した昔の神戸まつりの記事を表示するので14枚の写真と比べてみてください。下の写真もクリックすると拡大いたします。写真の中にマカラズヤや岡本荒物店の文字が見受けられます。第1回の三田まつりは1978年に開催され、神戸まつりは1971年に開催されたそうです。ただし神戸まつりの前身となるイベントは1933年からあったそうです。
クリックすると拡大マカラズヤを調べてみると、且つて神戸の三宮センター街にあったお店であることから、もしかしたら神戸まつり又は前身の神戸カーニバルか、みなと祭りの写真かもしれません。マカラズヤの近くにはミッチャン(舶来雑貨店)やフナキヤ(シャツ)やフタバ(家具屋・雑貨屋・インテリア)などのお店があったそうです。ちなみにマカラズヤの語源は料金は値札から一切まかりません(安くしません)にあるそうです。
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サッカーJ1のヴィッセル神戸の大崎選手と小川選手のサインの色紙も飾られていたので写真を撮らせていただきました。25番がDF大﨑玲央選手で13番がFW小川慶治朗選手の色紙です。色紙には「わっしょいさんへ」と書かれていたので、ここに飲みにこられた時にサインをされたのだと思います。
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茄子の料理も頼みました。
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おにぎりを頼んだ方がおられました。ただしまだ締めではありません。やっぱり日本人はおにぎりです。
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288円のフライドポテトも頼みました。
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この「わっしょい焼きそば」がいろんな席で注文されていたので、最後ですが頼んでしまいました。今までに参加したハイクの打ち上げ飲み会の場所を紹介します。飲み会の2次会までしたのは私が初めて参加した第72回ハイクだけでした。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 第72回 2019年04月20日 箕谷:いけや食堂 三宮:海鮮居酒屋・海流(2次会)
 第76回 2019年10月19日 十三:漁師めし
 第77回 2019年11月16日 十三:磯丸水産
 第80回 2020年02月15日 三田:わっしょい
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飲み会が終わったのは、18時25分と早いように感じますが、それでも16時台から飲み始めたので十分に楽しむことが出来ました。
クリックすると拡大右の小さな写真はお店から出てきたところです。この時は新型コロナの感染が拡大して飲み会が出なくなってしまうとは思ってもいませんでした。上でも書いているように7日後の2月22日(土)にゴルフ帰りの人から誘いがあって我家の近くのお店で参加した飲み会が現時点においては最後の飲み会になりました。つまり6ケ月も飲み会のない生活が続いていることになります。
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三田駅から神戸の新開地駅まで行くルートは基本的に次の3つがあります。時間によってルート表示が2つになったり3つになったり4つになったりします。
5名が①のルートで神戸まで行き、他の人は②のルートで宝塚まで行き、そこから、それぞれのルートで家に帰りました。私は宝塚で阪急に乗り換えて2駅目の逆瀬川で下りて実家に帰りました。
 ① 三田→(神戸電鉄)→新開地
 ② 三田→(JR)→宝塚→(阪急)→新開地
 ③ 三田→(JR)→尼崎→(JR)→三ノ宮→(神戸高速鉄道)→新開地

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丹波篠山歴史美術館 第80回ハイク [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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第80回ハイクでの3つ目の訪問場所の武家屋敷・安間家を見た後、昼食をとって、お土産屋さんを廻って4つ目ので最後に向かったのが丹波篠山歴史博物館(丹波篠山市立歴史博物館)でした。上の写真は館内に展示されていた源氏物語絵巻の須磨・明石です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国的に残っていない貴重なものだそうです。
クリックすると拡大 すでに紹介した第80回ハイクの記事
  篠山城
  丹波篠山デカンショ館
  安間家(武家屋敷)
  一休庵
着色文字をクリックすると記事を表示 

航空写真です。昼食をとったお蕎麦屋の一休庵を出た後、黒豆大福を買った大福堂に寄った後、丹波篠山歴史美術館に向かいました。本記事では丹波篠山歴史美術館( )を紹介したいと思いますが、大福堂( )を出発するところから記載いたします。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。クリックすると拡大
クリックすると拡大  丹波栗菓匠大福堂
  丹波篠山歴史博物館 SV
  春日神社バス停
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こちらが本記事の出発点である大福堂です。前記事で紹介した通り、ここで私の次の人で売れ切れた黒豆大福を買いました。
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右の小さな写真が大福堂から歴史美術館に向かって歩いている写真です。下の写真は歴史博物館の入口の門です。大福堂からこの門の写真を撮ったところまでの距離は98mでした。驚いたことに丹波篠山の歴史博物館は木造建物でした。それもかなり古くて歴史のありそうな建物でした。
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こちらが門を正面から撮った写真です。藩庁時代の門だそうです。門の右の柱にかけられている大きな表札には丹波篠山市立歴史美術館です。
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門をくぐると大きな木造の建物がありました。これが歴史美術館の本館の建物のようでした。美術館本館の建物は日本最古の木造裁判所「篠山地方裁判所」を使用されていたのです。篠山裁判所は篠山藩庁の建物を使用して明治3年(1870年)に発足しました。明治23年(1890年)に民・刑事の一審のみを 取り扱う地方裁判所になり、翌年の明治24年(1891年)に完成したのが、今回の歴史美術館の建物だったのです。裁判所としては1981年6月まで使用されていました。この建物を使って歴史美術館が開館したのは1982年4月でした。開館に当たっては建築物を解体せずに、そのままの状態で移動する曳家工法(ひきやこうほう)で建物の向きを90度回転させ従来の姿を残し、美術館にふさわしい内部を改装したそうです。
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門から建物入口までの間に石柱がたてられていました。石柱には「丹波篠山五十三次 篠山歴史美術館」と書かれていました。丹波篠山五十三次とは篠山町制100周年と篠山築城380年記念事業として社寺仏閣・歴史的遺産など95ヵ所を選定し、さらに53ヵ所を絞り込んで丹波篠山五十三次としたそうです。2つの事業は平成元年(1989年)から2ヵ年だそうです。平成元年頃はだったので多紀郡篠山町篠山歴史美術館と呼ばれていたのだと思います。篠山藩時代は多紀郡篠山(城下町)には篠山東新町、篠山西新町、篠山南新町、篠山北新町、篠山乾新町、篠山山内町、篠山河原町、篠山小川町、篠山立町、篠山呉服町、篠山二階町、篠山魚屋町、篠山西町が存在したそうです。歴史美術館があるのは現在の住所である丹波篠山市呉服町から、その時代の篠山呉服町と思われます。1889年の篠山町の発足は多紀郡篠山の上記の13町と黒岡村の飛地で構成されていたそうです。本歴史美術館は篠山町立歴史美術館(1982年)→篠山市立歴史美術館(1999年)→丹波篠山市立歴史美術館(2019年)と正式名は変わりました。
 篠山藩時代     丹波国多紀郡篠山(篠山藩の城下町)
 1870年(明治03年)      篠山裁判所発足(藩庁建物内)
 1971年07月14日  廃藩置県により篠山藩は篠山県となる
 1971年11月02日  篠山県は豊岡県に編入
 1876年08月22日  兵庫県多紀郡篠山 兵庫県の管轄となる
 1889年01月08日  兵庫県多紀郡篠山町発足 町村制の施行
 1891年(明治24年)      本建物が地方裁判所として完成
 1981年(昭和56年)      本建物での裁判所の90年の幕を閉じる
 1982年(昭和57年)      本建物が篠山町立歴史美術館として開館
 1999年04月01日  篠山市の発足 篠山町・今田町・丹南町・西紀町が合併
 2019年05月01日  篠山市→丹波篠山市へ改名
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建物から車寄せの屋根が飛び出しているところが歴史美術館の入口です。
 明治(1868年~1912年) 1891年 地方裁判所として建物完成 
 大正(1912年~1926年)
 昭和(1926年~1989年) 1982年 篠山町立歴史美術館として開館
 平成(1989年~2019年) 1999年 篠山市立歴史美術館となる
 令和(2019年~     ) 2019年 丹波篠山市立歴史美術館となる
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昔の裁判所前での記念写真を紹介します。この写真は建物の中の法廷の部屋に飾られていました。昭和10年代の写真だそうです。
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車寄せ部分の屋根の天井も趣きがありました。
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階段で高くなっていているところにつけられた入口は建物の大きさに比べて意外と小さかったです。これが明治24年の裁判所の入口だったのです。当時、どんな思いでこの入口をくぐったのだろうかと思ってしまいました。
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入口の上には篠山歴史美術館と現代とは反対の右から書かれた扁額が入口の上にありました。未確認ですが古さから見て開館当初の1982年に掛けられたように感じます。
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明治24年時の篠山裁判所の平面図です。左下の法廷と書かれている部屋は当時のままに保存されていて公開されています。他の部屋の間取りは当時のままでねそこに美術品なのが展示されていました。玄関を入って右に行き、左廻りに見学しました。法廷は写真撮影は許可されていますが、残念ながら法廷以外の場所では写真撮影は禁止されていました。
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美術品などの写真撮影は禁止されていたので、先ずは129年前の1891年当時の法廷を紹介したいと思います。右端が裁判官席で椅子が沢山並べられた左端が傍聴人席です。裁判官席の前の机が書記管席で、奥が検察管席で手前が弁護人席です。証人台でしようか、真ん中の半円上の立ち席が印象的でした。
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こちらが傍聴人心得です。
 傍聴人は法廷において次の事項を守らなければならない
 一、静粛を旨としけん騒にわたる行為をしないこと。
 一、不体裁な行状をしないこと。
 一、みだりに自席を離れないこと。
 一、裁判長の命じること及び裁判長の命を受けた裁判所職員の
   指示することに従うこと。               以上
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傍聴人席側の右端から撮った写真です。古い裁判所を見たのは2度目だと思います。初めて見たのはハワイのアリイオラニ・ハレ(Aliʻiōlani Hale)で、こちらは今も現役で使われていました。
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こちらが弁護人の席です。弁護人になったつもりで法廷内を見てください。対じする形で正面に検察管席があります。
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こちらが検察管席です。
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傍聴席です。
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こちらが書記官席です。
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法廷の最後の写真として裁判官側から撮った写真を紹介します。
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法廷室以外での写真は禁止されているため丹波篠山市立歴史美術館ブログや新聞社が公開している写真を転用させていただいて歴史美術館の雰囲気を紹介します。屏風や貴重な資料や巻物が展示されていました。この部屋と同じように別の部屋も展示室になっていました。別の部屋にあった長い巻物は特に興味深かったです。嬉しいことに展示物の説明をしていただきました。
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興味深い屏風も展示されていました。上の写真の正面に飾られている屏風がこちらです。歴史美術館の展示品は、篠山城主であった青山家の家蔵品を中心に城下町篠山に伝わる武具、漆芸、絵画、蒔絵のなどの美術品や、篠山藩の御用窯として開窯した王地山焼の名品の数々のほか、古代の埋蔵文化財が展示されています。
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掛け軸も沢山展示されていました。10秒ごとに画面が切り替わります。
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春日神社の祭礼で使われる懸装品なども掲載されていました。本しを中心に祭に関する貴重な資料を展示しております。本写真が掲載されていた丹波篠山市立歴史美術館ブログの記事のページはこちらです。→ポチッ
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いただいた資料の展示品の写真も紹介します。
屏風絵はどれも圧巻でした。こちらは東海道・中山道・甲州街道屏風です。江戸時代の主要な三街道の屏風で江戸から山科までの各地の名所・旧跡などが描かれていて当時の様子がわかります。ここでは全体の一部のみ掲載しています。
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こちらは源氏物語絵巻の須磨・明石です。篠山藩第12代藩主青山忠裕が、源氏物語中最も名文であるとされている須磨・明石の巻を後世に残すために、お抱えの狩野派絵師・栄保典繁(えいほ みちしげ)らに描かせた絵巻です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国でも残存しておらず、人物や風景が細密に描かれた逸品(いっぴん)だそうです。須磨巻が三巻と明石巻が三巻の 計六巻が所蔵されているそうです。
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左は二十八間筋兜(にじゅうはちけんすじかぶと)で右は篠山藩主青山家の祖の忠勝所用の黒紅糸威大袖具足(くろべにいとおどしおおそでぐそく)です。


藩鎌で焼かれた王地山焼も展示されていました。王地山焼は江戸末期の文政年間に始まった篠山藩のお庭焼で、京焼の奥田潁川に師事した金古堂亀祐が指導に当たり、柳亀堂亀七などが活躍したそうです。1871年の廃藩とともに、わずか50年で廃窯となった吉ような焼きものです。
左は鶴形蓋物で右は燈籠です。灯籠は市指定文化財です。


左は金梨地葵唐草紋蒔絵御衛府太刀(きんなしじあおいからくさもんまきえごえふたち)で、右は七鈴鏡(しちけいきょう)です。七鈴鏡は市内の宝地山古墳群の2号墳から出土したもので、直径16.9cmで、縁に7個の鈴が付いていることから七鈴鏡と呼ばれているそうです。全国的に数例しか知られておらず兵庫県指定文化財になっています。
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クリックすると拡大いただいた丹波篠山歴史美術館の資料を紹介します。右の小さな画面は文化財の写真が載った裏面です。クリックすると両方共に特別に大きく拡大するように設定いたしました。
 名前 丹波篠山市立歴史博物館
 住所 兵庫県丹波篠山市呉服町53
 電話 079-552-0601
 時間 9:00~17:00
 休館 月曜日 年末年始 新型コロナによる臨時休館あり
 備考 無料ガイドあり 新型コロナにより20名の入館制限中
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見終わった後に案内いただいた歴史美術館の方に記念写真を沢山撮っていただきました。その中の一枚を紹介します。
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丹波篠山歴史博物館の見学が終わったのが15時28分でした。すぐに最寄のバス停・春日神社に向かいました。
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バス停の前に春日神社がありました。見学しようという話は出ませんでした。すでに、第80回ハイクの打ち上げ飲み会に気持ちが切り替わったからです。
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バスは1時間に2本しかないのですがタイミングよく15時35分のバスに乗れました。乗り遅れていたら16時5分まで待たなければなりませんでした。
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JR篠山口駅に向かっていくところです。
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篠山口駅に着いて打ち上げ飲み会が出来るところを探しましたが、残念ながら16時に開いているお店はなく、どこも開店は17時でした。
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とりあえず三田駅に行くことにしました。10名のメンバーの内5名は宝塚方面からJRで帰るのですが、5名は三田駅で神戸電鉄に乗り換えて神戸方面に帰るので、三田駅で飲み会を行うのが都合がよかったのです。篠山口16時08分発の大阪行き丹波快速に乗り三田駅に16時37分に着きました。問題は16時台に開いているお店があるかどうかでした。
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丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 第80回ハイク [兵庫県]

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クリックすると拡大少し前の記事で紹介したデカンショ館の次は右の共通券の左上の武家屋敷(安間家住宅)を見に行きました。安間家住宅は下の航空写真で分るように篠山城の西側に南北に走る紫色ライン(━━)の御徒士町(おかちまち)通りにあります。江戸時代の篠山城の周囲には沢山の武家屋敷がありましたが、明治の廃藩置県によって、江戸詰めの家臣の多くは丹波篠山から引き払いましたが、安間家があった御徒士町の武士のほとんどは丹波篠山に留まったそうです。その後も御徒士町の人達は屋敷の手入れを怠らなかったことから、当時「御徒士町」と呼ばれた今の「御徒士町通り」には武家屋敷の面影を残す建物だ沢山残っています。

航空写真です。青紫マークのデカンショ館から紫色マークの安間家までを順番に紹介したいと思います。安間家の敷地の部分を赤枠で囲んでいます。御徒士町の武家屋敷の敷地の間口は平均で8間であったそうです。1間は6尺なので8間は14.545mになります。Google地図で安間家の間口を計ってみると21mなので平均より少し広い間口であったようです。1間が6尺と定義されたのは明治24年(1891年)で、織田信長の時代は6尺5寸で、豊臣秀吉の太閤検地で6尺3寸となり、江戸時代は6尺1分でした。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。


クリックすると拡大天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図から上の航空写真の部分を切り取りました。この絵図は明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図です。紫色ライン(━━)が武家屋敷が並んでいる御徒士町通りです。赤枠の部分が安間家(あんまけ)の敷地です。クリックすると絵図全体を表示します。拡大すると安間の文字が読み取れます。クリックすると拡大安間の下に名前と思われる5文字が書かれていますが、そこまでは読み取れませんでした。拡大した全体図を見ると篠山城は沢山の武家屋敷で囲まれていたことも判ります。絵図を見ているとタイムスリップして、この時代を見てみたいと思ってしまいます。
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デカンショ館があった青山歴史村から武家屋敷の安間家住宅までを順番に紹介していきたいと思います。この写真は青山歴史村の入口となっている長屋門です。この長屋門は篠山藩藩士であった澤井家の門でした。
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青山歴史村から武家屋敷の方向である西方向に向かうと左側に篠山城の堀が見えます。石垣の上には大書院が見えます。ようこくんさんが篠山城の桜の記事を掲載されていました。篠山城に桜開花基準木があったのです。→ポチッ
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クリックすると拡大篠山城を撮った写真の中から桜開花基準木の表示板が写った写真を探して表示板の部分を拡大しました。写真をクリックすると周囲が写った写真を表示します。右の写真が下の写真を切り取ったオリジナルの写真です。
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篠山城の大書院の辺りを拡大いたしました。新型コロナの感染も小規模であった2月15日だったので観光バスも沢山駐車していました。
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案内標識が建てられていました。標識が建てられていたのは右下の絵図の橙色の丸印()のところです。篠山城跡や大手門跡方向から武家屋敷群や安間家資料館方向に歩きました。クリックすると拡大
上で紹介の丹州篠山城郭之絵図を見ると、武家屋敷長屋門と書かれている方向は現在の住所で西新町で、当時は郡代などの高五十石~高百五十石の武士が住んでいた西堀端で、その西堀端の通りの入口に左番小屋があり御徒士町の通りの入口には右番小屋(左番小屋とも読める)がありました。ちなみに大手馬出しの前あたりは大目付などの高百七十石~高二百石の武士が住んでいました。
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上で紹介した右番小屋(または左番小屋)があった場所に、御徒士町武家屋敷群(Okachimachi Samurai Residences)の大きな看板が建てられていました。ここから左に方向の道が御徒士町通りで、道の両側に武家屋敷や武家屋敷であった面影が残った今でも使われている住宅が沢山並んでいます。御徒士町通りは重要伝統的建造物群保存地区となっているようです。
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上の写真の看板の所を所を左に曲がって見える御徒士町通りの景観です。ここから武家屋敷の安間家住宅に到着するまでの間は御徒士町武家屋敷群を紹介したいと思います。
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萱葺の建物がいくつか見えます。江戸時代はこの道の両側は全て武家屋敷でした。その子孫の方々の住んでおられるのだと思います。
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古さが伝わってくる建物が並んでいました。
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御徒士町武家屋敷に関する説明板が立てられていました。慶長14年(1609年)に篠山城が徳川家康によって築かれて、その翌年から10年ほどかけて城下町の整備が行われたそうです。ちなみに江戸時代は417年前の1603年から1868年でした。武士と町人の住む場所は区分されて、城を取り囲むように武家町が配置されたそうです。武家町でも武士の身分によって住む場所が決められていたそうです。御徒士町は、戦時は徒歩で戦う徒士(かち)という身分の武士(下級武士)が住んだ武家町だあったそうです。平時は役人として藩に仕えたとのことです。2004年に御徒士町を含む篠山城下町の一部が国の重要伝統建造物郡保存地区に選定されて街並みの保存が行われているそうです。下級武士の徒士(かち)の人が住む町だから御徒士町(おかちまち)と名付けられたのでしょうか。下級武士と言えども屋敷を見る限り、庶民とは別格であったと思われます。馬上の資格がある武士が士官に相当し、徒士は下士官に相当します。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別されていたそうです。徒士は藩や地域によっては小組(越後長岡藩)や歩行(飫肥藩)や御徒(柳河藩、江戸)とも呼ばれていて東京の御徒町(おかちまち)の地名の由来になっているそうです。調べ切れていませんが江戸(東京)以外の地方の城下町では御徒士町(おかちまち)が多く使われているように感じます。
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武家屋敷として残っている鈴木家の門です。
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上の写真の右上に写っている茅葺の屋根をです。
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天保元年(1830年)に大火があり御徒士町の大部分の武家屋敷も焼失したと伝えられています。復興に際して屋敷は道路より6尺後退させ、火徐地をつくって火災に備えたと言われています。今でも道路と土塀の間に犬走し(いぬばしり)の空き地があるのは、その時の火徐地に由来するそうです。犬走りは、垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分で、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから呼ばれるようになったようです。
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古い建物も活用して今も使っている家もありました。手前が昔のままの屋敷で奥が新しい住居だと思いますが、昔の雰囲気を壊さないような配慮がうかがえるすばらしい住居です。
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立派な塀の屋敷も沢山ありました。
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武家屋敷が続いていました。
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門の前の説明板には「西07雄山家住宅主屋保存修理工事」と書かれています。
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ここに篠山城を中心とした城下町の地図がありました。ここから安間家の武家屋敷まで徒歩で2分と書かれていました。
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三社之宮跡の石碑が建てられた空間がありました。
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進んでいく方向の御徒士町通りの景色です。
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昔からの建物と住居ですが、武家屋敷通りの雰囲気を壊さない努力が伝わってきます。
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安間家武家屋敷(Anma-Family Samurai House)に到着到着しました。武家屋敷の建物は資料館(Samurai House Anma Historical Museum)にもなっています。ここからは武家屋敷の安間家住宅を紹介したいと思います。
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入口の門を正面から撮った写真です。
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敷地の内側から門を撮りました。井戸も印象的でした。
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屋敷の全景です。武家屋敷として多くみられる曲屋形式(L字型配置)の建物です。下級武士(徒士)の一家が住む標準的な武家屋敷です。
安間家の禄高は天保8年(1837年)時点で「高十ニ石三人扶持(ふち)」であったそうです。「高十ニ石三人扶持」が、どの程度の収入かは分かりませんが、あるネットでの記載では「三十石二人扶持」の年収が14両に相当すると書かれていたことから「高十ニ石三人扶持」の価値が想像されます。
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建物の間取り図を紹介します。上方向が北で書かれています。母屋は正面を東に向け、間口6間半(約13m)、奥行7間半( 約15m)あり、部屋割りは正面に向かって左に玄関、右奥に庭園に面した8畳の座敷を配置し、玄関奥には台所、座敷の奥には仏間、居間が続いています。建設当初の姿を今によく残していることから1994年に町指定文化財(:現市指定文化財)となり、半年かけて全面改修して公開したそうです。
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航空写真でも建物の形を紹介します。
安間家武家屋敷をGoogle地図でも紹介します。→GoogleのSV 拡大航空写真
現在の住所:兵庫県丹波篠山市西新町95


玄関から靴を脱いで「次の間」に上がって台所方向を撮った写真です。
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萱葺屋根の裏側です。
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「次の間」の隣りの「座敷」です。広さは8畳です。床の間には甲冑が飾られていました。
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訪れたのが2月15日だったためか雛人形が飾られていました。
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弓や槍や長刀も座敷に飾られていました。
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仏間で奥の部屋が居間です。
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仏間には漆器などが展示されていました。資料館になっているのです。
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仏間から見た庭の景色です。
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庭から見た縁側です。左側が仏間で奥に座敷があり、右側が台所です。
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天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図が飾られていました。もっと鮮明な写真を撮るチャンスでしたがその時は気が付きませんでした。鮮明な写真であれば安間家の所に書かれている文字も正確に分かったと思います。
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それでも何とか読みたくて90度回転して鮮明化を行ってみました。名前は「安間熊五郎重明」のように読み取れます。その横の文字は「???石三人扶持」と読み取れます。ネット内の説明資料には「高十ニ石三人扶持」と書かれているので「???」は「高十ニ」になるはずですが、文字の感じでは「高」ではなく「米」のように感じます。右隣の家には「米八石三人扶持」と書かれていることから「米?二石三人扶持」のように読み取れます。参考ですがクリックすると堀沿いの家も含めて表示しますが、その中では、郡代には「高百五十石」、表御用人には「高七十石三人扶持」、教導方の小林三郎次宋福には「十人扶持」の表現が使われています。教導方の小林家の場所には今でも古い茅葺の建物が建っています。→GoogleのSV 航空写真
禄高の「高」と「米」の違いは分かりませんが十二石相当の現金と三人扶持の玄米が支給されていたと読み取れます。一人扶持は1日にあたり玄米5合なので三人扶持は年間で一石七斗七升×3倍となります。安間家は禄高は十二石ですが、御徒士町の武家屋敷の禄高は絵図を見る限りでは四石~八石がほとんどなので、この辺りの下級武士の中では裕福だったのかもしれません。
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貴重な資料も展示されていました。上が鍵槍皆伝目録(かぎやり・かいでんもくろく)で、下が槍術皆伝目録(そうじゅつ・かいでんもくろく)です。
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こちらは松に折鶴亀甲蒔絵の四段重箱です。
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台所と書かれた部屋台所の間()には戸棚がありました。
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戸棚を拡大いたしました。
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別の角度から見た台所の間です。障子の向こう側が土間になっていて、竈(かまど)が見えます。
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こちらが土間で竈(かまど)などがあることから炊事場になっていたようです。
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こちらが竈(かまど)です。
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土間の所にはお土産用の丹波焼が並べられていました。比較的新しいものだと思いましたが、写真を見て売られていたお土産であることに気が付きました。じっくり見ればよかったと後悔しています。興味がある方は写真をクリックしてみてください。特別に大きく拡大いたします。
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右端の出入口が土間から庭に出る場所です。そこから庭に出てみました。石燈籠が置かれているところが水琴窟と呼ばれる仕掛けがあるところです。
建物自体は天保元年(1830年)の大火の後に建てられたそうなので、その前の建物は残念ながら大火によって焼失したと想像されます。
 1603年 江戸幕府の誕生
 1609年 篠山城の築城(徳川家康が大阪城の包囲網として築城)
 1610年 城下町の整備 ~1620年ごろまで
 1614年 大阪冬の陣
 1615年 大阪夏の陣
 1830年 篠山城下町で大火
      大火の後に安間家の現在の建物が建てられた
 1837年 丹州篠山城郭之絵図が描かれる(安間熊五郎重明 米十ニ石三人扶持)
 1868年 王政復古 江戸幕府終了
 1995年 安間家建物の全面的な改修(1994年10月~1995年3月)
 1995年 安間家建物が篠山市指定文化財に指定される(1995年5月20日)
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丹波・水琴窟と書かれています。水琴窟(すいきんくつ)は江戸時代に考案されたと言われている日本独特の庭園の仕掛けです。手水鉢の近くの地中に空洞を作り、そこにしたたり落ちる水の音色を楽しむものです。
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水琴窟の音を竹筒で聞いているところです。金属音がしました。
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ここの水琴窟の音を聞いていただきたくてネット内の動画を掲載いたしました。プレーボタン( )をクリックすると水琴窟の音が出る部分から開始するように設定いたしました。動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。


武家屋敷を背景に10名全員で記念写真を撮りました。一番左が私です。
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庭には瓦葺の土蔵があり展示室になっていました。この土蔵も昔からのものだそうです。
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土蔵の中の展示室に飾ってあった丹波焼の大壺です。
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入口でもらった武家屋敷の説明書を掲載いたします。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。クリックすると拡大
私の住んでいる千葉県佐倉市にも右の写真の武家屋敷があります。その中で建物の内部が公開されている武家屋敷が3つあるので見学したことがあります。その時の記事も書きました。右の写真をクリックするとその時の記事を表示いたします。
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裏側には沢山の説明が書かれていました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するので、興味のある方はクリックしてみてください。
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丹波篠山デカンショ館 第80回ハイク [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大入社時の神戸事業所の仲間との第80回ハイキングでは最初に篠山城を訪れました。その後は右の写真の共通券の残りの3ケ所を見ることにして、篠山城の次に向かったのは青山歴史村の中にある丹波篠山デカンショ館でした。篠山城の記事の中で紹介した二階町バス停から篠山城に向かう途中のお堀の傍に建っていたクリックすると拡大篠山藩地方役所門をくぐってデカンショ館に向かいました。篠山藩地方役所門は明治初期に置かれた篠山藩庁舎の遺構で、篠山城大手門から真っ直ぐ北に進んで篠山郵便局の手前にありましたが、丹波篠山デカンショ館周辺の整備を機会に現在の場所に移設したそうです。役所門が建っていた元の場所には右の写真の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が建てられていました。碑には篠山ではなく笹山の文字が使われています。

ネットで調べていると郵便局横の場所も元々の場所ではなく、下記写真のように昭和57~58年頃に南側(城方向)から解体せずにコロ引きで郵便局横の場所に移動している動画が掲載されていました。移動元の位置は判りませんが篠山藩庁舎の通用門であったとのことなので詳しく調べることが出来れは分かるのだと思います。5枚の写真を6秒ごとに表示していますが、4枚の写真には郵便局が写っているのが分かっていただけると思います。2枚は移動中の写真で1枚は郵便局の近くに設置され塀も新しく作られた写真で、1枚は門が撤去された後の写真で、1枚は現在の場所でのお披露目式の写真です。5枚の写真の内、2枚は動画から、1枚はGoogle地図のストリートビューから、2枚はネットから転用させていただきました。Google地図のストリートビューには上で紹介の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が写っています。
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篠山藩庁舎の場所を調べてみると、明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、 当時の藩主であった青山忠敏が改めて篠山藩知事に任命されて、明治3(1870年)に篠山藩庁舎は篠山城を出て大手馬出しの東に設けられたと丹波篠山市の資料の「2.2 社会環境 1)行政区の成り立ち」の部分に書かれていました。さらに別の資料には大手馬出しの東の地方役所を増改築し篠山藩庁舎が置かれ、その後、篠山県庁、豊岡県支庁、篠山区裁判所として明治 24 年まで使用したと詳しくかかれていました。現在の場所は昔は大手馬出の中に当たるので、もっと東にあったことが想像されます。現在の丹波篠山市役所の位置に篠山藩庁舎があったとの資料もあります。なお、本地図から判断して、今回の記事のデカンショ館は大手馬出し(北馬出し)の西端あたりに作られたことになります。下記の絵図は天保8年(1837年)に描かれ明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図でクリックすると拡大図を表示します。丹州は丹波国の別称です。
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クリックすると拡大篠山藩地方役所門は切妻、本瓦葺、三間一戸、4本の親柱に2本の控え柱がある趣のある門でした。
本来は青山歴史村も見ることができるはずでしたが地方役所門に貼られている説明板(右に拡大)にあるように青山歴史村は改修工事のために、見ることは出来ないのでデカンショ館のみの見学となりました。青山歴史村の資料の一部はデカンショ館に移して展示されていると書かれています。
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青枠で囲ったところが青山歴史村です。紫色の枠の所がデカンショ館です。本来は青山歴史村の長屋門から入り、青山歴史村側からデカンショ館に入るのですが、我々は駐車場から直接にデカンショ館に入りました。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。


デカンショ館でもらった青山歴史村の資料に掲載されていた配置図です。この配置図を見ていると青山歴史村が見れなかったのが残念に思えてきました。
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こちらが駐車場側のデカンショ館の入口です。
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デカンショ館の説明資料です。3画面を8秒間隔で切り替えています。内容を読みたい方は画面をクリックすると1枚の大きな画面を表示するので読めると思います。
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こちらがシアター室です。
デカンショ節と言えば「デカンショデカンショで♪ 半年暮らす♪ あとの半年寝て暮らす♪」を思い出される方もおられると思います。全国的によく知られたフレーズですが、放映されているビデオによってデカンショ節が丹波篠山と大きな関りがあったことを知ることになりました。デカンショ館に入ると最初にシアター室でビデオを見ることをお薦めします。そうすることで展示されている資料を興味深く見ることができると思います。内容はデカンショ節の発祥と変遷です。
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バーチャルデカンショ踊りブースです。ここではAR(拡張現実)を活用してデカンショ踊りが再現されています。
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このコーナーには昔の写真やポスターが展示されていました。
デカンショ節は学生歌として広く歌われていることから、いろんな歌詞が創作されています。その中で最もポピュラーな歌詞を紹介します。
 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
  あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
  花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
  お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
  おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
  猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
  文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
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展示されていた昔の写真の写真を紹介します。
デカンショ節が全国に普及したの明治時代です。そのきっかけになったのが東京一高(現在の東京大学と千葉大学)の学生たちでした。明治になり廃藩置県により篠山藩も廃藩となりましたが、旧篠山藩青山家の奨励によって、郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成したことは有名な話ですが、遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(現在の館山市)を銷夏地としてやってきていたそうです。明治31年(1898年)の夏にその江戸屋の2階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて郷土の盆踊りの唄を歌っているのを、ちょうど階下に居合わせた東京一高の水泳部員たちがこれを聞いて、気に入り篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放に唄い多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、デカンショ節が全国に広まったと言われているそうです。そんなことからデカンショ節は学生歌として全国にひろまったようです。
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昔のデカンショ祭りの写真も展示されていました。デカンショの語源は諸説ありますが、篠山町七十五年史(1955年)では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採用しているのに対して、篠山町百年史(1980年)では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているそうですが、みつ節の中に「デコンショ デコンショで半年暮らす あとの半年泣いて暮らす」のフレーズもあることから「出稼ぎしよう」も有力な語源だそうです。
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デカンショ祭りにはクイーン神戸も参加されていました。デカンショ節は明治大正時代に全国的に学生歌として広まりましたが、元は江戸時代から歌われていた篠山地域の盆踊りの民謡「みつ節」でした。
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デカンショ節の元となった三つ節(みつ節)の動画を紹介します。
前半は音声が無いのでプレーボタン( )をクリックすると音声が出る部分から開始するように設定いたしました。ただし動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。
1979年に丹波篠山市後川新田原で撮影された「みつ節」の歌や踊りの映像で、唄っているのは小島健次郎さんです。


昔の写真をもう一枚紹介いたします。
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デカンショ祭の動画も紹介します。掲載しているのは2018年の第66回デカンショ祭です。毎年8月15日と16日の2日間行われていますが、第67回は台風10号の被害で8月16日の1日間だけの開催となったそうです。2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で第68回の開催は厳しいのかもしれません。第58回から67回の映像を紹介します。→第67回 第66回 第65回 第64回 第63回 第62回 第61回 第60回 第59回 第58回


丹波篠山の郷土品も置かれていました。
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外に出て次の武家屋敷方向に歩いていると、2017年4月25日にお披露目となったデカンショ節の踊り子人形がありました。白い繊維強化プラスチック製で、高さは165cmだそうです。青山歴史村の入口辺りです。
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見事な長屋門がありました。
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その長屋門が青山歴史村の入口でしたが、すでに紹介の通り整備中のために中に入ることは出来ませんでした。
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せっかくなので頂いた青山歴史村の説明資料を掲載します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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こちらが説明し利用の裏側です。
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JR篠山口駅とデカンショ館や篠山城との位置関係が判る地図を掲載いたします。篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。
オリジナル地図はこちらです。→Google地図
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丹波の篠山城 第80回ハイク [兵庫県]

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今回は、私にとっては4回目の参加となる第80回ハイクの記事を掲載させていただきます。今回は兵庫県の丹波篠山の散策ですが、その中のメインイベントは篠山城の訪問です。上の写真は篠山城の石垣です。本記事では、その篠山城を紹介させいてただ来ます。80回続いている本ハイキングは私が入社して配属になった神戸事業所の方が数年前に初められました。私は第72回に初めて参加させていただきました。メンバーは関西に住んでおられる入社当時の人たちで懐かしい人たちなのです。私のみ関東在住なので関西に行ったときに参加させていただいています。
先頭の☆マークが参加あるいは参加予定のハイクと飲み会です。※印の第81回と第82回ハイクは新型コロナウイルスの感染拡大のために中止との連絡が入りました。次は安心して集まってハイキングをして飲み会も出来るようになってからになるそうです。このハイキングに参加するきっかけは2018年12月26日の忘年会への参加でした。
☆    2018年12月26日(水) 忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
☆第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
☆    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
☆第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
☆第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
☆    2019年12月25日(水) 忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
☆第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
※第81回 2020年03月21日(土) 青春18きっぷによる敦賀市内散策
※第82回 2020年04月16日(木) 明智光秀の居城・福知山城を巡るハイク
 第81回 2020年06月20日(土) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
☆:参加  ※:新型コロナにより中止

クリックすると拡大集合はJR福知山線の篠山口駅に10時のため実家の最寄駅の阪急・逆瀬川駅で8時48分発の電車に乗るために8時半ごろに実家を出発いたしました。写真は逆瀬川駅の名前の元となった逆瀬川(武庫川の支流)です。右側の川沿いの道を登っていくと六甲山に行けます。見えている山が六甲山のの東の端になる東六甲エリアです。高校時代から関東に転勤になるまではよく歩いたところです。自転車でもよく六甲山を登りました。今は判りませんが、そのころは競輪選手がトレーニングのために自転車で登る道でもありました。川の左側の建物のために見えませんが建物の向こうに甲山があります。川の右端まで戻ると甲山が見れます。次は甲山も入れた写真を撮りたいと思います。
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上で川の端まで戻って写真を撮ると書きましたが、川の端では甲山は見えなかったので道路の端まで戻って撮ってみました。この位置だと甲山を撮ることが出来ました。六甲山の裾野も写っています。
六甲山は「ろっこうさん」と読みますが、甲山は「こうさん」「かぶとさん」ではなく「かぶとやま」と読みます。六甲山(ろっこうさん)は百万年前以後の六甲変動と呼ばれる地殻変動によって隆起し約1億年前に地下深くで生まれた花崗岩が露出した山ですが、甲山(かぶとやま)は1200万年前に噴火して出来た山で、岩質は輝石安山岩で出来ています。六甲山の名前の由来は諸説ありますが、最も夢が込められた説は、神功皇后が朝鮮遠征から帰還する途上に反乱者に襲われ、反乱者六人を捕らえ、その六人の首と兜を埋めたのことから六甲山の名前がついたというものですが、、六甲の字が使われ始めたのが江戸時代の元禄の頃なので信憑性はないようです。甲山の名前も諸説ありますが、確信が持てるまでは至っていないようでが、「かぶと」と読むことから形に由来しているように感じます。
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こちらが逆瀬川駅です。8時48分発の電車に乗る予定でしたが余裕で8時42ふんの電車に乗れました。
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こちらがJR宝塚駅です。
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そして、こちらがJR宝塚駅の改札口です。お袋と年4回行く山口県への墓参りの時に必ず使っている駅です。ここから新大阪駅まで乗り換えなしで行けるので利用させていただいているのです。その時に乗り換え時のお袋の車椅子の貸し出しをお願いしていて親切な対応に感謝している駅でもあるのです。
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8時50分発の新三田行の普通電車がありましたが、残念ながら新三田は篠山口よりは手前の駅なので、予定通り9時2分発の篠山口行きの快速電車を待つことにいたしました。
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改札からホームに降りると8時50分発の新三田行の普通電車がすぐに入ってきました。
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日本海側にある城崎温泉に行く特急こうのとり75号の写真もとることが出来ました。
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私が載った9時2分発の篠山口行きの快速電車です。この写真を撮るために先頭斜視量に乗りました。今回のハイキングの参加者は10名で全員がこの電車に乗っていたことは篠山口のホームに降りて初めて知りました。ただし宝塚駅から乗ったのは私を含めて6名で他の4名は神戸電鉄で新三田まで来て乗り換えたそうです。宝塚から乗った6名の方の中の1名の方とは電車に乗ってすぐに気が付いたので話しながら電車の旅を楽しむことが出来ました。
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道場駅の近くの景色です。電車に沿って流れているのが武庫川で、正面から流れてくるのが有馬の方から流れてくる支流だと思います。合流部分に岩があり小さな滝になっている景観でした。
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篠山口駅に着きました。ホームの階段の近くで全員が待っておられました。
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篠山口駅の改札口から外に出ました。
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篠山口駅は町から離れているので、このバスで町の中心地に近い二階町まで移動しました。すぐに出発したので駅の周辺の写真は撮れませんでした。
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そこでバスの車内から撮ったJR篠山口駅の写真を紹介します。写真の中の右側のバス乗場からバスに乗りました。
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こちらがバスの車内です。
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JR篠山口駅から篠山城の近くの二階町バス停までのバスルート(━━)です。ただしGoogleで自動で表示されたルートなので実際のバスルートとは多少は違うかもしれません。オリジナルはこちらです。→Google地図
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篠山の町に入ると昔の雰囲気のある街並みがあちらこちらにありました。
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二階町に着きました。
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二階町では我々だけでなく沢山の人が下車されました。


バス停の前で町の中をどのように廻るかを決めて出発しました。とりあえずは篠山城に行くことにいたしました。
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途中に大正ロマン館があったので中に入りました。昔、篠山町役場だったそうです。
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大正ロマン館の中には趣のあるカフェもありました。
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こちらが土産物売り場エリアです。私は黒豆パンをお土産に買いました。
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こちらがお土産で買った黒豆パンです。
大きな丹波篠山の黒豆が入ったパンでした。
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やはり大正ロマン館は篠山町役場でした。説明を読むと大正11年11月に新築上棟式を行い大正12年4月から篠山町役場として使われてきたそうです。役場として引退したのは平成4年3月なので約70年間町役場として活躍した建物でした。大正ロマン館として第2の活躍が始まったのは平成5年6月3日だそうです。この後、すぐに篠山城に向かいました。
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大正ロマン館館を出て城に行く途中に趣のある建物群と門がありました。クリックすると拡大建物群は青山歴史村で新しい建物のようでしたが、門は地方役所門で古いもののようでした。右の写真は大正ロマン館を出たところでした。このころも新型コロナウイルスの感染者が出ていましたが、まだ少なかったけれどもハイキングに参加した人の多くはマスクをしていました。
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地方役所門の場所から振り返ると篠山城の台形状石垣と堀が広がっていました。1609年(慶長14年)に城が築城されていましたが明治維新で廃城令により大書院以外は取り壊されたそうです。その大書院も1944年1月6日の夜にに火災により焼失したそうです。その大書院は地元の方々の長年の思いにより2000年3月に復元されたそうです。台形状の石垣の上の三角形の屋根が復元された大書院です。
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上の写真は本地図の北堀と書かれた位置の左側(西側)の道の辺りから撮りました。二階町バス停や大正ロマン館は、そこから北方向(上方向)に行ったところにあります。正方形の城を外堀の北堀、西堀、南堀、東堀が囲む平山城でした。
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上の地図に書かれていたa、b、c、dの部分の説明資料の中の写真を紹介します。b以外のa、c、dに関しては私が撮った写真も下の方で掲載しています。
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航空写真を紹介します。航空写真内の+のアイコンを1回クリックすると上の図と同程度の縮尺になります。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。


こちらが北堀です。かなりの幅の広さです。これからも防御に徹した城であったことがうかがえます。
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北堀を渡って三の丸から撮った篠山城の中枢部の写真です。クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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石碑の前で記念写真を撮りました。左側の道を進むと城の中枢部であった天守台、本丸、二の丸、大書院に行けます。篠山城は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康がクリックすると拡大豊臣氏の大阪城の包囲と豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするために篠山盆地に築いた城です。築城工事は西日本の15カ国20諸侯の大名に夫役を命じて普請方式で行われ、僅か1年足らずの1609年(慶長14年)に完成したことは有名な話です。
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この道を上がっていきました。この道は北廊下門跡でもあります。両側に高い石垣がある部分に表門(大手門)がありました。大きな門であったことが石垣の高さから想像できます。ようこくんさんが篠山城の桜の記事を掲載されていました。篠山城に桜開花基準木があったのです。この写真を拡大して見ると右側の桜の木が桜開花基準木であることが分かりました。
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クリックして探すのが面倒な方のために桜開花基準木の部分を切り取りました。写真をクリックすると広い範囲を表示ので位置が分かると思います。
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北廊下門の両側は堀(内堀)になっていました。こちらが東側の内堀です。
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そしてこちらが北廊下門の西側の内堀です。
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表門跡を通過したあたりです。
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表門を右に曲がったところに中之門がありました。枡形と呼ばれる構造で侵入した敵軍の動きを妨げるための広場です。
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この辺りに中之門があったようです。見事な石組みです。角の部分の出角の部分は「算木積み(さんぎづみ)」の工法が使われていて、その他の部分は自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」です。石積みは滋賀・近江の穴太衆(あのうしゅう)によって行われたそうです。
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石垣に使われている石にはマークが入れられたものがありました。何のためのマークかは中で放映されている映像を見てもらえれば判ると思います。
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マークを拡大いたしました。いろんな場所で見ることが出来ます。
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門が取り付けられている場所に鉄門がありました。表門(大手門)からこ鉄門の部分が最終的な防御線だったようです。
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ここに鉄門がありました。
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鉄門跡を抜けると大書院が見えてきました。
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クリックすると拡大北廊下門から鉄門までの防御の構造説明図があったので紹介します。この説明図は右に小さく表示している二の丸御殿整備図の一部を切り取ったものです。整備図から石垣に使われている石は黒系花崗岩と白系花崗岩と錆系花崗岩であることが判りました。画面をクリックすると二の丸御殿整備図全体を表示します。
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正面に見えているのが大書院の入口です。先ずは大書院の内部を見学してから城をみることにいたしました。
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大書院だけのチケット400円ですが、街の中にある武家屋敷(200円)と青山歴史村(デカンショ館 300円)と歴史美術館(400円)をセットにした共通券にすると600円で見れることから共通チケットを購入いたしました。単独で入ると合計で1300円になるので共通券を買うことをお薦めします。
クリックすると拡大それぞれの場所に行くとコーナー部の三角形が切り取られます。右上のコーナーが大書院なので写真を撮る間もなくその場で切り取られしまいました。
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チケットを買った時にいただいた4つの歴史館の資料を掲載いたします。クリックすると面積で16倍に拡大するようにいたしました。これならば内容を読むことが出来ると思います。
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こちらが資料の裏側です。
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大書院の中では先ずは展示室を見ました。篠山城の歴史が判ります。
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藩主の正室が嫁入り道具として持参した「古今集かるた」も展示されていました。
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天保10年3月5日(1839年)に12代将軍・徳川家慶が13代藩主・青山忠長に与えた知行宛行朱印状です。
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明治初期の大書院です。一部だと思われますが、まだ銃口のある城壁が石垣の上に残っているが判ります。
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シアター室で13分の映像による説明が行われていました。
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大書院の内部を見学させていただきました。入口近くの部屋です。
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大書院で最も広い虎之間です。広さは36畳です。もうすぐ雛祭りの時期だったので雛人形も飾られていました。上の写真も虎之間です。
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雛人形を紹介します。正面からの写真です。
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斜めからの写真です。建物内の写真はOKですが、文化財保護の観点からフラッュは禁止されていました。
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髪形が面白いので拡大いたしました。
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襖(ふすま)の前に柵が置かれて「入室はご遠慮ください。」と書かれた闇リ之間(くらがりのま)がありました。残念ながら襖が開いていなかったので部屋を見ることは出来ませんでしたが、大書院の建物の中心にある18畳半の部屋です。襖が閉まって照明が無ければ、昼間でも名前の通り真っ暗の部屋なのだと思います。今回、唯一見ることが出来なかった部屋です。
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回廊沿いの隣りの部屋(手鞠之間)には鎧(甲冑)も沢山展示されていました。
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大書院の中央には9つの畳の部屋があり、周囲に回廊のように板床の広縁がありました。内部の保護のためか板戸(雨戸)は少し隙間を開けて締められていました。チケット売り場でいただいた資料には9つの部屋のうち8つの部屋に名前が書かれていました。
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板戸の隙間から撮った北方向の外の景色です。山の景色は昔と同じと思うと感慨深いものがありました。
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クリックすると拡大その広縁(回廊)も見事でした。回廊の先の左側に車寄せがあると思われます。右の小さな写真がチケット売り場でいただいた説明書に載っていた車寄せです。車寄せを外から撮れる場所には行けなかったので説明書の写真を使わさせていただきました。
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大書院の模型が置かれていました。前に置かれているのはオリジナルの鬼瓦だと思います。模型で入口のようになっているところが、上で説明した車寄せです。現在は展示館の方(模型の右側)から出入いたします。
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鬼瓦の一つを拡大いたしました。
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別の角度から見た大書院の模型です。模型が置かれていたのは源氏之間です。
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金屏風が置かれている部屋もありました。名前は草花小禽図屏風(そうかしょうきんびょうぶ)です。篠山藩主青山家に伝えられていた屏風で、江戸時代後期に狩野養川によって描かれたものだそうです。
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金屏風が置かれている部屋の前の広縁は、文化財の保護のためか暗くなっていました。実は上の写真はかなり暗くて絵が見えにくかったのですが、パソコン(PC)で露出調整をして絵が見えるようにいたしました。部屋の名前は葡萄之間(21畳)でその前に車寄せがあります。つまり写真の左端の柵が写っているところが来るの寄せです。写真撮影は許されていますが、フラッシュを使っての撮影は文化財保護のために禁止するとの表示もありました。
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由緒ある篠山城の梵鐘も展示されていました。この梵鐘は4代藩主・松平安信が1672年(寛文12年)に二世安楽を願って作り、篠山城内の道場にかけていたそうです。その後、京都の新熊野権現社や蓮花寺に移されていましたが、310年ぶりの1983年に篠山に戻ってきたそうです。
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大書院で最も格式の高い上段之間です。部屋には付書院、大床、天袋、違棚、帳台構を備えた正規の書院造りの見事な部屋でした。右端の絵が連なった部分が帳台構です。
本写真も絵が見えるようにPCで露出調整させていただきました。こちらは隣の部屋(次之間)の前の広縁(回廊)から撮りました。写真の右下のコーナー部分の1段低くなっているエリアが次之間です。
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こちらの部屋の絵も見事だったのでPCで露出調整いたしました。上段之間の隣の次之間です。上段之間と次之間の間には襖(ふすま)はなく一つの部屋のようになっていますが上段之間が一段高くなっています。この写真は上段之間側の広縁から上段之間越しに撮った写真なので左下コーナー部分に少しだけ上段之間の畳が写っています。
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抹茶や和菓子が楽しめるエリアもありました。このエリアの前の部屋は孔雀之間で、この部屋にも甲冑が展示されていました。
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こちらが孔雀之間の甲冑です。最初に紹介して甲冑が置かれていた部屋は別の部屋です。全員ではありませんが記念写真も撮りました。
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珍しく小さな部屋があったので写真を撮っておきました。写真を撮った順番などから上段之間の帳台構の裏側(上段之間と孔雀之間の間)にある9つ目の部屋と思われます。この部屋にも入ることが出来ません。後でわかったことですが、この部屋には帳台之間という名前が付いていました。
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大書院の平面図を紹介します。上段之間と次之間の位置関係が判っていただけると思います。すでに紹介した大書院で最も広い虎之間や、金屏風が置かれていた葡萄之間や、甲冑が置かれていた手鞠之間と孔雀之間や、大書院の模型が展示されていた源氏之間の位置も判ると思います。クリックすると拡大唯一、写真が撮れなかったのが闇リ之間ですが、虎之間にあった闇リ之間の入口の右の写真の襖(ふすま)は撮りました。
 入れる部屋  孔雀之間 虎之間 手鞠之間 
 入れない部屋 上段之間 次之間 葡萄之間 源氏之間 闇リ之間 帳台之間
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上の平面図の中の1~6の部分の写真が説明書に乗っていました。その6枚を紹介したいと思います。1と6以外は掲載した私の写真の中に写っています。探せば見つかると思います。
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広縁を一周してしてきて雛人形の置かれている部屋に戻りました。我々が来たときは人が少なかったけれども沢山の人が見学に来られていました。きっとNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の影響が篠山城にも影響しているのだと感じました。もちろん明智光秀の時代には篠山城は作られていませんが明智光秀の居城の福知山城が近いのです。
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大書院の内部を見た後は外から大書院を見たり本丸や二の丸エリアを見学いたしました。写真は西南西方向から見た大書院です、
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クリックすると拡大こちらは南南西方向から見た大書院です。大書院の前の大きな広場は二の丸御殿があった場所です。地面には、そこに何があったのかが右の写真の白いタイルで表示されていました。大書院の左の建物は資料館です。
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防御に徹した城と言うことで、沢山の井戸が掘られたことも有名です。その中のいくつかが今も残されていました。
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井戸の上には転落防止用の細かい目の鉄格子が取り付けられていますが、その間から中を撮りました。目では全く判りませんでしたが、PCで露出調整してある程度は見えるようにいたしました。
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二の丸の最も南から撮った大書院です。
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その場所に門がありました。名前は埋門と呼ばれていて非常時には埋めて遮断することになっていたもんだそうです。後で知りましたが近くの石垣には普請総奉行の池田輝政の刻印が残っているそうです。門を出てすぐ右(西側)の石垣にあるそうです。
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ダメ元で、撮った写真の中から探してみると、刻印が写った写真がありました。これが普請総奉行の池田輝政の刻印です。もらった説明書に乗っていた写真と見比べてみた結果、正真正銘の池田輝政の刻印でした。
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反対側(東側)の石垣も紹介します。こちらには刻印らしいものはありませんでした。
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門の外側から内側を撮りました。足場がないので、この写真を撮った位置よりも遠くからは写真は撮れませんでした。石段の上に見えている屋根は大書院の先端です。
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次に行ったのは本丸のあったエリアです。本丸エリアには神社が建てられていました。
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大書院の説明板が建てられていました。クリックすると説明が読める大きさに拡大いたします。
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大書院の間取りが書かれていたので掲載いたします。上で紹介した間取り図とは南北が反対です。こちらの間取り図は下方向が北になります。この図でわかったのが大書院の中の部屋を紹介した時に名前が無い小さな部屋を紹介しましたが、帳台之間(帳台の間)という名前が付いていることが判りました。つまり名前の付いている部屋が8つではなく次の9つだったのです。
 入れる部屋  孔雀之間 虎之間 手鞠之間 
 入れない部屋 上段之間 次之間 葡萄之間 源氏之間 闇リ之間 帳台之間 
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青山忠誠公追墓碑がありました。篠山藩第5代藩主青山忠良の十男で、明治時代の華族(子爵)だそうです。陸軍軍人で数少ない華族出身の将校の1人だそうです。
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神社を別の角度からも撮りました。
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天守台です。建っていた建物が見てみたいです。
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これが天守台の上です。景色が見事でした。
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本丸エリアの井戸も保存されていました。
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明治維新で廃城令により大書院以外は取り壊され、現在は外堀と内堀のの間に篠山小学校が建てられています。この小学校で勉強したことは一生の思い出となることでしよう。
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本丸エリアから二の丸エリアに戻って大書院の写真を撮りました。地面に白いものが見えると思いますが、上で紹介した二の丸御殿の中の設備の位置が書かれているのです。
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二の丸御殿の設備の場所を示す白いタイルです。ここに側用人詰め所があったことを示しています。
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二の丸御所の配置図です。立派な建物だったと想像できます。黒色の四角が設備の場所を示した白いタイルの位置だと思います。
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Googleの航空写真を拡大すると南北が反対ですが二の丸御殿の輪郭と白いタイルが確認できます。画面左端の中央に二の丸御殿整備図と記載した赤色長方形が上の説明図か書かれていた表示版です。表示版にGoogle地図の航空写真とQRコードを張り付けてGoogle地図で確認できることを追記すれば興味を持ち、その場でスマホを操作して確認する人も出るように感じます。


別の角度から見た大書院です。上の2枚上の二の丸御殿の配置図で説明するならば左下角方向から撮った写真です。Google地図であれは右上方向から見た構図になります。
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最後に大書院の前で記念写真を撮りました。右端が私です。
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入口でいただいた大書院の資料も掲載したいと思います。こちらのクリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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こちらが裏側です。
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この後石垣で囲まれた坂道を下りて次の目的地の青山歴史村(デカンショ館)を目指しました。その後に武家屋敷に行き、昼食(そば処 一休庵)のあとに歴史美術館に行き、最後にお土産を買うために丹波栗菓匠大福堂に行きました。
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丹波篠山の場所を紹介します。電車マークは篠山口駅で、篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。緑色マークの場所が丹波篠山で、そこに篠山城があります。青色マークが福知山城で、大阪城の場所にも黄色マークを付けました。最後の武将名は築城主です。
 篠山城  1609年築城 徳川家康
 大坂城  1583年築城 豊臣秀吉
 福知山城 1579年築城 明智光秀


追伸
2020年3月19日から関西に来ています。関東に帰るのは3月27日にその間はネット環境の関係から皆様のところに訪問できないことをお許しください。
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芦屋で初めて居酒屋にいきました。 大地 [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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少し前に兵庫県の芦屋川(9つ前記事)と南芦屋浜(4つ前記事)を紹介しましたが、今回紹介する芦屋の居酒屋での飲み会に参加するために高校時代を過ごした懐かしい芦屋に来たので、飲み会の前に芦屋川や南芦屋浜(人工島)を散策して撮った写真を紹介したのでした。
クリックすると拡大今回の飲み会は神戸の事業所に勤めていた時の同期と1年後輩が主体の右の写真の7名でした。普通ならば神戸や三宮で飲むことになるのですが、偶然ですが私の高校3年の時のクラスメイト(入社配属課も同じ)が1人いて、クリックすると拡大その人がお店を選んでくれたのでした。関東に住んでいる私以外は、芦屋より東側の阪神間に住んでいるのも芦屋を選んだ理由の一つでした。お店を選んでくれたクラスメートは隣駅の夙川に住んでいます。JR芦屋駅の改札口でみんな待ち合せて歩いてきました。今回のお店はJR芦屋駅の改札口から歩いて285mで、芦屋駅北口から直線190mの場所にあり、見ての通り左側は車が通る道ですが、雨に濡れないで来れる場所でした。2016年9月にホテル竹園芦屋で行われた同窓会を除いて、高校を卒業して以来、芦屋で飲むのは初めてでした。

お店の入口にあったメニーを撮りました。今回はコース料理でしたが、単品料理も充実しているようでした。クリックすると料理名や価格が読み取れる大きさに拡大いたします。
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我々7名のために用意していただいていたテーブルです。大きな掘りごたつ形式で、ゆったりと座ることが出来て話もはずみました。クリックすると拡大飲み放題メニューにはサワー、カクテル、ハイボール、ノンアルコール、ソフトドリンク、冷酒、ワイン、チューハイ、日本酒、ビール、焼酎の順で書かれているのも土地柄なのかもしれません。こちらのお店では「飲み放題」ではなく珍しい「呑み放題」が使われていました。使われる比率は5840万 vs 18.5万です。
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テーブルのセッティングです。左側の小さな器に入っているのは刺身用の醤油です。淡い色から分かるようにこちらの店は食材にこだわったお店でした。
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最初の前菜です。ホタテと牡蠣の前菜は特に美味しかったです。
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次にお刺身が出てきましたが、こちらのお店では朝獲りの魚が入れられているのが特徴です。少なくとも左端の白身の刺身は朝獲りと思われます。メニューを見ると全国100箇所以上の漁港から直送で、朝獲れた天然活魚を仕入れて夕方にはお店で提供しているそうです。
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ホタテも新鮮でした。ホタテのヒモも添えられていました。
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紹介した淡い色の醤油です。
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次にサラダが出されました。
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次は揚げ物でした。食事の進み具合を見ながら料理をしているようで、いつも熱々を食べることが出しました。
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次は炭火焼きですが、この日はサバの炭火焼きが出されました。クリックすると拡大焼きたては美味しいです。やはり焼くタイミングを考えてくれているようでした。順番に出てくるのでテーブルの上はいつもスッキリしています。
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鮮魚を売りにしている居酒屋ですが、牛肉は淡路島で育った淡路和牛にこだわっていました。写真が淡路和牛の炙り焼きです。
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〆は漬け鮮魚の出汁茶漬けでした。最後にデザートが出されましたが写真を撮り忘れてしまいました。話が盛り上がったためだと思います。お店を出た後、阪急芦屋川駅経由で帰るメンバーと、すぐ横の焼き鳥屋「まさや」で二次会になってしまいました。
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高校3年の卒業記念写真です。高校の同窓会とは無関係の会社関係の飲み会ですが今回の7名の内2名が写っています。珍しいので掲載いたしました。印が私です。もう一人は最後列の左から3番目です。背景に写っている海岸(砂浜)は芦屋の打出浜です。現在は埋め立てられて、海岸は遠く沖合にあります。
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阪急芦屋川駅です。時間は22時18分でした。意外と乗る人が多かったです。この22時19分発の電車に乗って実家のある逆瀬川駅まで行きました。ルート検索で調べると逆瀬川駅に着いたのは22時40分なので実家に着いたのは22時50分くらいだと思います。
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お店を紹介いたします。地図の中の中央寄りの臙脂色マーク( )が今回のお店の場所です。左端の (まさや)は二次会の場所です。ただし、帰宅ルートで阪急芦屋川駅から乗る人だけでした。
 店名 朝獲れ天然活魚 居酒屋 大地(だいち)
 住所 兵庫県芦屋市松ノ内町1-20-111 アルパ芦屋1F → SV
 電話 0797-23-2007
 営業 11:30~14:00 17:00~22:30
 定休 日曜日
 最寄 JR芦屋駅(2F改札口から285m) 阪急芦屋川駅 阪神芦屋駅

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芦屋川の河口から南芦屋浜の海岸まで歩きました。 [兵庫県]

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先日の記事「芦屋川」で阪急・芦屋川駅から旧海岸線の河口までを紹介しましたが、今回は、その旧海岸線から現在の海岸線まで歩いてみました。上の写真は現在の海岸線の辺りから夕陽を撮った写真です。

こちらが旧海岸線の出発地点です。場所は兵庫県芦屋市です。
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左の堤防沿いを歩いて現在の南の海岸線を目指しました。
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コーナー部分の手摺は2018年9月4日に襲った台風21号の高潮で壊されていました。
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こちらの道を進んで南の海岸を目指しました。
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歩きながら振り返って芦屋川の河口方向を撮りました。
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陸続きで行けるのはここまででした。この先は埋め立てられた人工島になっているのです。
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右側が1997年1月(平成9年)に完成した人工島です。この場所は埋立で出来たところではありますが、昔の陸からの陸続きなので、現在の海岸線と言えるのかもしれません。ただし、この海の部分を航空写真で見れば、運河のように細いので、イメージ的には人工島の南側が現在の海岸線と言えるように気がします。したがって最初に決めた目的地は人工島の南側の海岸と言うことになります。人工島側に渡るためには見えている橋を渡る必要があると思われるために、橋まで歩くことにいたしました。
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橋が見えてきたので、その橋を渡るために堤防の海側から陸側に行くために堤防を越える必要がありそうでした。
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堤防の陸側に移動いたしました。橋まで行くと橋に上がるための階段がありました。
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クリックすると拡大その階段を登って橋に上がりました。橋の上から人工島の方向を撮った写真です。
橋の名前は潮風大橋(しおかぜおおはし)です。
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南西方向です。高架道路の阪神高速5号湾岸線(1991年開通)は人工島の最も北側を通っていることが判ります。
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橋の上からの東方向の写真です。芦屋の陸側から人工島に渡る橋は潮風大橋を含んで3本あります。潮風大橋の一つ東にあるのは、あゆみ橋で元も東側にあるのが浜風大橋です。あゆみ橋は名前から連想できるように歩行者・自転車専用橋です。写真に小さく写っている橋があゆみ橋です。
クリックすると拡大芦屋浜(埋立地)と南芦屋浜(人口島)がはさむ幅140m長さ1500mの水路は芦屋キャナルパークと呼ばれていてドラゴンボートレースやカヌー競技やウェイクボード競技が行われるなど、ヨットやカヌーのマリンスポーツが楽しめる場所となっているそうです。
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橋を渡り切って山側(北側)方向を撮った写真です。この道を歩いて水路を渡ってきたのです。
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橋から人工島の地上に下りると、その辺りは公園になっていました。
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公園には下の案内板で示しているようにスポーツ施設が沢山ありました。
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道路を挟んで公園の反対側も何らかの施設のようでした。この施設には南芦屋浜ウォーターパークと書かれていました。
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南の海岸に向かう道路沿いは住宅地になっていました。
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住宅地の中には水が流れる公園も作られていました。海の中の人工島とは思えない造りでした。
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この公園がある場所のバス停の名前は海洋町でした。背景に見えている高層ビルは南芦屋浜団地のビル群です。
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住宅地案内板が設置されていました。いろんな業者の住宅の分譲が行われているようでした。住宅地の総称は潮芦屋と呼ぶようです。
いくつかの分譲地の中で特徴的なのが芦屋マリーナに隣接した係留施設付きの住宅用地(レジデンシャルコーヴ/Residential Cove)です。ネットで調べてみると、その中の現時点の最高価格は238,000,000円でした。
この人工島の埋め立て工事は埋め立てが始まってすぐにオイルショックで1977年に中断し、工事が再開したのは10年後の1987年でした。そして埋め立て工事中の1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生して大きな影響が出て、最終的に人工島(南芦屋浜/潮芦屋)完成したのが1997年1月で、入居が始まったのは1998年3月でした。着工した1971年11月から26年4ケ月目でした。
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潮芦屋ビーチに出ました。人口のビーチです。2018年の台風21号の高潮では9個のコンテナが浜に打ち上げられたそうです。
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潮芦屋ビーチの別の角度からの写真です。見えている山は六甲山です。
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やっと、最も南側の海岸線に近づきました。
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拡大すると分かるように、防波堤では釣りをしている人が沢山いました。
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ここが、今回の目的の現在の南の海岸線です。こちらの手摺も台風で壊されたようです。手摺が壊れる前の写真はこちらです。→Google SV
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旧海岸線の芦屋川の河口から現在の南の海岸線まで歩いた道を紹介します。下のGoogle地図で2つの埋め立て地を紹介します。右の細長い地図で芦屋市の範囲を示しています。
 ━━ 芦屋川
 ━━ 私の高校生時代の海岸線(打出浜)
 ━━ 歩いたルート(芦屋川河口→海岸)
  鵺塚(ぬえづか)
  高校の卒業記念写真の撮影場所


人工島(南芦屋浜)の埋め立て当時の航空写真を紹介します。
   埋め立て開始当初          1993年5月
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   1995年5月             2014年1月
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海の景色を紹介します。
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南西方向です。神戸側の人工島は芦屋川よりさらに南に延びていて、コンテナ専用の港(コンテナターミナル)が見えました。
見えている場所は六甲アイランドです。
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精一杯のズームで撮った西方向の景色です。見えている橋は橋長217.6mの六甲アイランド大橋で、形式はダブルデッキローゼ橋です。
写真をクリックして拡大すると判ると思いますが、六甲アイランド大橋の奥に重なって見えるのが、世界初のダブルデッキ連続トラス式斜張橋の六甲大橋(全長:400m 支間長:220m)です。
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釣り人が並んでいた防波堤です。上の写真の景色がこの写真の中にあります。太陽の方向です。
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東方向を見ると沢山の人が釣りをしていました。上の写真の防波堤も入れた直線距離は940mです。これだけの人が釣りをしているということは、何かが沢山釣れるのだと思いしばらく見ていました。
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釣り上げた写真です。細長い魚を釣り上げました。ここにあった上の写真のような手摺は台風で流されたようです。応急対策として支柱穴に鉄筋を立ててトラロープ(Tiger Ropes)が張られていました。
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拡大してみるとタチウオ(太刀魚)であることが判りました。
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こちらでもタチウオを釣り上げでいました。
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15分くらい見ている間に5人の人がタチウオを釣り上げました。美味しい魚が沢山釣れるので、沢山の人が釣りに来るわけです。
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帰り始めたころに太陽がきれいな夕陽を見せてくれました。
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冒頭の写真です。雲に太陽が隠れ始めたところです。
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クリックすると拡大太陽が雲に隠れる瞬間です。右の写真は下の写真の太陽の部分を切り取ったものです。
雲が多かったので雲に沈む夕日となりましたが、晴れていたらきれいな夕陽を見ることが出来たと思います。
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住宅地の水が流れる公園まで戻ってきました。来るときは逆光のためによく見えませんでしたが、この写真で川のようになっていることが判ってもらえると思います。見えている橋は全長885m(支間長485m)の東神戸大橋です。橋のタイプは斜張橋でです。
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来るときに渡った潮風大橋(しおかぜおおはし)を山側方向に歩いて夜の飲み会の待ち合わせ場所であるJR芦屋駅を目指しました。
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埋め立て地の住宅街を通りました。
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旧海岸線を越えると国道43号線に出ました。この国道の歩道橋には驚いたことにエレベーターが設けられていました。
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片側3車線の計6車線で、中央の阪神高速の橋脚の部分を入れると実質は8車線の幅があるために年配者や足の弱い人は信号では時間が短すぎるために歩道橋で道路を渡る必要があるのです。そんなことからエレベーターが設置されたのだと思います。
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国道43号線の写真を紹介します。中央の高架道路が阪神高速道路3号神戸線です。
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せっかくなので、私が通った高校にもよってみました。校庭ではクラブ活動が行われていました。
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懐かしいので何枚も写真を撮りました。
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高校からJR芦屋駅に向かう道です。
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途中で国道2号線を越えました。
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やっとJR芦屋駅に着きました。


JR芦屋駅に集合した後は下の写真の大地(居酒屋)で、7名での飲み会となりました。お店の料理も、近いうちに紹介したいと思います。
この日、芦屋で歩いたルートは行きが阪急芦屋川駅→芦屋川側道→芦屋川河口→芦屋浜(埋立地)→潮風大橋→南芦屋浜(人工島)→潮芦屋ビーチ(海岸)で、帰りが潮芦屋ビーチ(海岸)→南芦屋浜(人工島)→潮風大橋→芦屋浜(埋立地)→高校→JR芦屋駅→居酒屋・大地→居酒屋・まさや→阪急芦屋川駅です。その後、阪急電車で逆瀬川駅まで帰りました。逆瀬川駅からは別の日に列車を乗り継いで自宅に帰りました。
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芦屋川 [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真は阪急・芦屋川駅のホームから海側(南側)方向を撮った写真です。右側(西側)から道路、歩道、川が写っていますが、その川が本記事のタイトルの芦屋川です。六甲山から流れ下りてきた川は一直線に海に向かっています。

こちらが阪急・芦屋川駅のホームです。右の電車が乗ってきた神戸三宮行きの普通電車です。
この日は兵庫県のJR芦屋駅の近くの居酒屋・大地で18時30分から飲み会があったことから実家のある阪急・逆瀬川駅から早めに来てみました。逆瀬川駅から阪急電車に乗って芦屋川駅で降りて海側に歩くのは懐かしいルートなのです。実は芦屋市の浜側には私が高校時代に通っていた学校があったことから、そのルートを歩いて学校を見るのも目的の一つだったのです。
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駅を降りて阪急・芦屋川駅方向に振り返って撮った写真です。見えている山が標高931.25mの六甲山です。右の写真は開業(1920年)から数年後の阪急芦屋川駅です。当時は阪急芦屋川停留所と呼ばれていたようです。1957年には現在のように道路と立体交差の駅になりました。モロクロの写真はネットから転用させていただいたものです。右の駅舎の写真は昭和初期に撮られたため大正末期に創業した牛肉の佃煮で有名な芦屋軒は駅舎の奥(西側)1分に建っていたいたことになります。
クリックすると拡大この芦屋川の種別などは次の通りです。
 水系 二級水系 芦屋川
 種別 二級河川
 延長 8 km
 水源 六甲山(兵庫県)
 河口 大阪湾(兵庫県)
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少し離れて芦屋川駅を撮りました。
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上の写真と同じ場所から海方向を撮った写真です。今は遥か沖合まで埋め立てられていていますが、とりあえずは私が高校に通っていた時代の海岸だった位置まで歩いてみることにいたしました。阪急芦屋川駅から昔の海岸までにある線路と主要道路は北から順番に次の通りに並んでいます。この写真に写っている橋は月若橋です。現時点で名前の判らない歩道橋の名称を教えていただけたら幸いです。東京駅から神戸駅までの在来線を東海道本線と呼びます。ちなみに山陽本線は神戸駅から門司駅までです。
 阪急電鉄・神戸線      鉄橋+駅
               月若橋
               芦屋川隧道(トンネル)
               大正橋
 JR東海道本線       トンネル
 国道2号線         業平橋
               公光橋
 阪神電鉄          鉄橋+駅
               歩道橋(名前は平田橋
 国道43号線 阪神高速道路 芦屋川橋
              (永保橋 今は無き橋 1938年に流失)
               鵺塚橋
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芦屋川駅から2本目の橋(大正橋)の中央から山側を撮った写真です。見えている山は六甲山です。
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カメラのズームいっぱいに拡大いたしました。見えている橋は月若橋です。六甲山(六甲山系)は約1億年前(中生代白亜紀)に地下深くで出来た花崗岩が100万年前(第四紀)からの六甲変動と呼ばれる地殻変動によって隆起して出来たそうです。現在も変動が続けているそうです。
緑に覆われているように見えますが六甲山は風化花崗岩で出来た地質のため多くの場所で地表の草木が除かれ土壌が露出して、雨によって崩壊しやすい山でもあります。
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同じ場所からの海側の景色も紹介します。
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ズームいっぱいに拡大いたしました。上の写真では教会の尖った屋根が小さく写っていますが、こちらの写真でははっきりと形が判ります。川は少しだけ右に曲がっていますが、ほぼ一直線なのが六甲山から海に流れるすべの川の特徴なのです。この場所だけ石組の川底になっていて、その先は滝のような落差で水が流れ落ちる構造になっているのです。実は、石組みの川底の下にJR山陽本線が通っているのです。それは六甲山から海に流れる川のもう一つの特徴からこのような構造になっているのです。それは周辺の地域の地面より川の方が標高が高い天上川と呼ばれる川だからです。太古の時代から大雨の時に六甲山から流れ出た土砂がつもって徐々に高くなってきたのです。沢山の人が住むようになってからは山の中に沢山の砂防ダム作られて災害を防いでいるのですが、神戸市の方の川では昔(私が生まれる前と神戸に住む前)に鉄砲水と呼ばれる現象によって、被害が出たことがあることは聞いたことがありました。芦屋川でも戦前の1938年に大きな被害が出たそうです。その時、六甲山周辺全体で5,732戸住宅が全壊(流失・倒壊・埋没)し715名が亡くなり、130ケ所の橋梁が喪失し、109,370戸の住宅が浸水し、8,630戸 の住宅が半壊したそうです。そのため翌年の1939年から六甲山の砂防事業は国の直轄事業に移って今日に至っているそうです。車が沢山写っている橋は国道2号線です。
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JR東海道線が芦屋川の下にトンネルが通っている部分の下流側から撮った写真です。この写真は今回ではなく2014年10月にケーキを買いに行った時に撮りました。この時は川の中央まで草が生い茂っていました。
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クリックすると拡大右は蒸気機関車が芦屋川の下のトンネ ルを走っていた時代の写真です。下は現在の川の下のJR東海道線のトンネルです。川底を支えている沢山のコンクリートの支柱を確認してもらえると思います。川の下のトンネルと言うよりは川が橋になったというイメージです。
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国道2号線の橋(業平橋)から撮った海側の写真です。
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ズームで拡大いたしました
2本目のクリーム色の橋のように見えているのが阪神電鉄の鉄橋です。阪急と同じように川の上が橋になっています。高い高架は阪神高速道路です。
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国道2号線から山側を撮りました。
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阪急・芦屋川駅から国道2号線までは川の西側の道を歩いていますが、ここからは東側の道を歩いて海方向に向かいました。
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芦屋川に生息して動物たちを紹介した看板が立てられていました。
カワムツとカワヨシノボリとカワセミとウナギです。高校時代にカワヨシノボリは何度も獲りました。1度だけですが大きなウナギを獲ったことがあり、私が入っていた生物部の部室として使っていた部屋の水槽で長く飼っていました。小魚が沢山泳いでいたので、それがカワムツだったことを今回初めて知りました。芦屋川でカワセミを見たことがなかったことから、今回初めて芦屋川にカワセミが住んでいることを知りました。
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阪神電鉄に一番近い橋から撮った山側の写真です。
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恒例通り拡大いたしました。
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阪神電鉄を潜ってから川に下りて阪神電鉄の駅を撮りました。川の中には側道ががあり散歩をしている方が沢山おられました。
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阪神・芦屋川駅の写真を拡大いたしました。電車が停車していました。
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海側を見ると高架道路がありました。高架道路は阪神高速道路3号神戸線です。その真下にある橋が国道43号線です。
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阪神高速道路3号神戸線(1961年制定)と国道43号線(1953年制定)を拡大いたしました。国道43号線の橋の名前は芦屋川橋です。
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国道43号線の橋の下です。沢山の重量車両が通過する主要道路だと実感させられました。
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国道43号線の橋の下からの海側の景色です。
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川の中央に下りてみました。国道43号線の橋の下です。
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きれいな水が流れていました。私が高校生時代も水質は良くて、クリックすると拡大クリックすると拡大きれいな川にしか住めない右の写真のプラナリアが生息していました。ただし阪急電鉄線より上流側で獲っていました。ここでも住めそうな感じでしたが、時間の関係もあり確認はしませんでした。
プラナリアは非常に高い再生能力を持つ扁形動物で生物の実験などに使うために獲っていたのです。
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動画でも水の流れを紹介します。
https://youtu.be/D0eFYHZGFFs


永保橋という名のバス停がありました。ただし、永保橋は今はありません。1938年7月3日から7月5日にかけて発生した阪神大水害で流失してしまったそうです。古い地図で確認すると国道43号線の芦屋川橋の場所にあったようです。その永保橋の石柱が見つかった記事が2018年7月3日の朝日新聞に掲載されていたそうです。隣の神戸市で「昭和の3大水害」と呼ばれた次の水害の中で、芦屋川が大きな被害を受けたのは1938年の時だそうです。芦屋川の水害の詳しいことは判りませんが、六甲山の南側の河川はいずれも短いため鉄砲水と呼ばれる現象で大きな被害が発生したようです。そのために上でも記載しているように沢山の砂防ダムが建設されました。記載している人数は死者+行方不明者で、戸数は住宅の全壊+流失数です。数値は兵庫県(全国合計)で表示しています。1938年の被害は全て六甲山周辺(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市)です。その中でも神戸市の被害が人命95%/住宅89%を占めていました。
 1938年 昭和13年阪神大水害  715名(715名) 5732戸(5732戸)
 1961年 昭和36年梅雨前線豪雨  41名(357名)   ? (1758戸)
 1967年 昭和42年7月豪雨    100名(369名)  363戸( 901戸)
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さらに海側に歩いて山側を撮った写真です。高架道路が阪神高速道路です。
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今はなき永保橋の一つ下流にかかっている鵺塚橋(ぬえづかばし)です。クリックすると拡大難しい呼び名の橋ですが、橋の近くにぬえ塚と書かれた右の写真の石碑があるそうです。石碑の「え」の部分には漢字の「江」が元となる変体仮名( クリックすると拡大)が使われています。ちなみに石碑の中の「あしや」の中の「や」にも「屋」から変形した変体仮名( クリックすると拡大)が使われているようです。
クリックすると拡大(ぬえ)は、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇の妖怪で、京都で退治されたとされていて死骸を埋めた場所も謎ですが、それがこの芦屋の鵺塚だそうです。ただし鵺塚は京都と大阪にもあるそうです。京都の鵺塚は古墳時代の墳墓と判明しているそうでクリックすると拡大す。
一つの説は江戸初期の地誌「蘆分船」を根拠にしたもので、鵺の死骸は悪疫を招くということで退治された京都から丸木船で川に流されて、大阪の都島に漂着し土に葬られ祠が建てられたと言い伝えられています。もう一つの説は「平家物語」を根拠にしたもので、一旦は豊島に着きましたが、その都島から悪疫を嫌い更に舟で死骸を流した結果、芦屋の浜に漂着し、ここの人々が祟りを恐れて丁寧に葬ったのが、この鵺塚がある地だそうです。古くて有名な平家物語を根拠にしているので、芦屋説は重みがあるように感じます。右上の鵺塚の写真はネットから転用させていただきました。阪急芦屋川駅から1つの歩道橋を含んで7つ目の橋で、これより先には橋がないので芦屋川最下流の橋になります。
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川の中には何か所にも渡石がありました。
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渡石を使って東側から西側にわたりました。渡石から撮った写真です。
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渡石で西側に渡って海側を撮った写真です。海の上に道路が走っています。
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やっと昔の海岸線近くまで来ました。
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上の写真から昔の海岸線の位置を拡大いたしました。この場所は思い出の場所でもあるのです。今は埋め立てられて陸が見えますが、昔は人の立っている先は海しかありませんでした。写真の下の方に小さく鳥が写っています。
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近づいて鳥を拡大してみました。白鷺だと思われますが、他の地域の白鷺と違い近づいても恐れることもなく逃げることもありませんでした。河口にはウミウと思われる鳥が何度も潜っていました。
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旧海岸線の芦屋川の河口から撮った写真です。画面いっぱいに海が広がっていた昔の景色を想像してみてください。二人の女性が水の中をのぞき込んで何かを探していました。その横でワンちゃんが待っているのが印象的でした。海の上の高架道路は阪神高速5号湾岸線(1991年開通)です。
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ワンちゃんを拡大いたしました。
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旧河口から山側を撮った写真です。
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ここが私が高校生時代の海外線の位置です。そして上の方で紹介したように思い出の場所でもあったのです。
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上の写真の場所で卒業アルバムの写真を撮った場所だったのです。背景に写っているのが打ち出浜です。今は無くなりました。黄色の丸印が私です。
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動画でこの辺りの景色を紹介します。この後、埋め立て地を歩いて現在の海岸線まで行きました。そちらは次の記事で紹介したいと思います。
https://youtu.be/mP28LYvtEV8


このGoogle地図で芦屋川(━━)と、昔(私の高校生時代)の海岸線(━━)を紹介します。海岸の名前は打出浜(芦屋浜)でした。空色マーク( )が以前に紹介したマミズクラゲが発生した県立芦屋高等学校(芦屋高校 / 芦高 / 県芦)の池の場所です。右の細長い地図で阪急より下流側の橋名を紹介します。現時点で歩道橋の名前だけは判りません。
 ━━ 芦屋川
 ━━ 私の高校生時代の海岸線(打出浜)
  阪急・芦屋川駅
  阪神・芦屋駅
  鵺塚
  卒業記念写真の撮影場所
  飲み会の場所 大地
  JR・芦屋駅
  県立芦屋高等学校


旧海岸線の沖合を埋め立てたばかりの頃の航空写真を紹介します。
クリックすると拡大この時の更地部分(芦屋浜)の大部分は右の写真のような住宅地になりました。平成5年ごろからは、さらに沖合を埋め立てて人工島(南芦屋浜)を作る工事も始まりました。人工島が完全に完成したのは平成9年1月でした。南芦屋浜は潮芦屋とも呼ばれています。
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今後の教訓のために80年前の1938年の阪神大水害時の芦屋市内の写真をネットから転用させていただきました。上側と左下の3枚の写真は松ノ内町付近で、4枚目の写真は3mの深さの泥水に埋まった国鉄線路です。皇軍萬歳の看板が太平洋戦争に入る3年前という時代を感じさせてくれます。
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上流から流れてきた流木や土砂が1枚目の写真の阪急の鉄橋によって堰き止められて右の図のように濁流が左右の堤防をこえ、東西両方向にあふれ出て、そこから海岸まで流れていったそうです。2枚目の写真は阪急芦屋川駅北側で、3枚目の横長の写真は国道2号線が通っている業平橋付近です。
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イチジクのタルト 御影高杉 [兵庫県]

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先日、2015年10月11日に「イチジクのタルト」というタイトルで記事を書きました。千葉県八千代市のソレイユのイチジクのタルトを記事にしたものでした。→ポチッ
関西に帰省している時に、武田尾温泉で叔父さんに会う時にお土産として渡す焼き菓子を買うために神戸市のスイーツ店である仏蘭西菓子・御影高杉に行きました。そこで自分たち用にはケーキを買うことにいたしました。そこで買ったのも上の写真のイチジクのタルトでした。

ケースには沢山のケーキが並んでいました。左から、B&F、カリフォルニア、はちみつ風味、大人のミルクチョコレートとオレンジのケーキ、オレンジのピール入りチョコレートケーキ、ポワール、コーヒーケーキの王様、チーズケーキです。上の段は、はちみつムース、ショコラです。
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本当に沢山並んでいたので写真も沢山撮らせてもらいました。左から、ガトー・オランジュ、ウイークエンド、ガトー・フリュイ、パヴェ、ミルフィーユ・オ・ピラミッド、フルーツ入りシュークリーム、りんごとクリームチーズのハーモニー、ほろ苦チョコレートケーキです。上の段はフォンダンショコラ・ジャンジャンブル、焼きリンゴ洋風です。
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見ていると迷います。左から、りんごとクリームチーズのハーモニー、ほろ苦チョコレートケーキ、モデレ、クープ・ド・ティラミス、マンジュマング、マロンタルト、苺のショートケーキです。ショートケーキで一番高いマロンタルトは1080円でした。上の段は、焼きリンゴ洋風、南瓜のクリームケーキ、ガトー・フレーズ・ヌーボーです。
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季節限定と書かれていた真中あたりの2種類のケーキを選びました。こちらのお店で一番の人気で話題になっているのが左端の苺のショートケーキです。写真は左から、苺のショートケーキ、マロンクリーム、鳴門金時といちじくのタルト、B&F、カリフォルニア、はちみつ風味、大人のミルクチョコレートとオレンジのケーキ、オレンジのピール入りチョコレートケーキです。上の段は、ガトー・フレーズ・ヌーボー、はちみつムースです。
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これが選んだ2種類のケーキです。一つが「鳴門金時といちじくのタルト」で、もう一つが「B&F」です。両方ともに季節限定と書かれており、両方ともにイチジクが使われていました。
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こちらのお店は、しっかりとした梱包でした。多少、乱暴に扱ってもケーキは大丈夫そうでした。実家に帰省した時は電車に乗って歩いて持ち帰ることがほとんどで、気を付けていても傾いてしまうので、助かりました。今までに別のお店でケーキを買って持ち帰る時に3度傷つけてしまった経験があるのです。
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ケーキだけを残して写真を撮りました。全くケーキはきずついていませんでした。さすがプロの仕事でした。
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これが「鳴門金時といちじくのタルト」です。こちらの写真はすでに冒頭で紹介しています。鳴門金時は、鳴門海峡、旧吉野川、吉野川などの砂地で作られるさつまいもです。ケーキにサツマイモが使われているのは初めての経験でした。名前を写真で確認するまでサツマイモとは気がつきませんでした。
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イチジクの実がよく見える角度の写真も紹介します。サツマイモを使ったケーキは珍しいので、サツマイモのタルトと呼んでもいいかもしれません。
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こちらがもう一つのケーキである「B&F」です。イチジクが使われているのが判ると思います。上に乗っているもう一つの果物はバナナです。
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私の娘がドイツ旅行のお土産で買ってきた紅茶があったので頂いて見ることにいたしました。


紅茶は、このような網に入ったティーパックでした。
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紅茶との2ショットの写真も紹介します。
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もう一つのケーキの2ショットです。
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ケーキは半分づついただきました。


叔父さんたちのお土産として買った焼き菓子は、こちらの中から選びました。
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小さ目の箱にぎっしりと詰めてもらいました。


味見のためら焼き菓子を3種類買いました。
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こちらはガトーマロン(Gâteau marron)です。値段は350円でした。中央の色が濃い部分がマロンでした。
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前回の時に撮った写真です。栗が丸々使われていました。
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こちらはダクワーズでアーモンド入りのメレンゲ生地に、ヘーゼルナッツクリームをサンドしていました。値段は206円でした。
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ピスタチオナッツ入りクッキーです。8個入り540円でした。こちらのお店は一度紹介したことがあります。
 店名 仏蘭西菓子 「御影高杉」 西宮阪急店
 住所 西宮市高松町14-1
 最寄 阪急西宮北口駅より徒歩3分
 電話 0798-62-1381
 営業 10:00~20:00
 定休 不定休 西宮阪急と同じ
 本店 神戸市東灘区御影2丁目4番10-101号
 URL http://www.mikage-takasugi.com/
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下の写真は前回に食べた苺のショートケーキです。ショーケースの写真からケーキ名前と値段を整理してみました。
・ショートケーキ
  540円 ミルフィーユ・オ・ピラミッド
  486円 フルーツ入りシュークリーム
  562円 りんごとクリームチーズのハーモニー
  508円 ほろ苦チョコレートケーキ
  508円 モデレ
  562円 クープ・ド・ティラミス
  508円 マンジュマング
 1080円 マロンタルト、
  627円 苺のショートケーキ
  594円 マロンクリーム
  562円 鳴門金時といちじくのタルト
  540円 B&F
  508円 カリフォルニア
  508円 はちみつ風味
  508円 大人のミルクチョコレートとオレンジのケーキ
  540円 オレンジのピール入りチョコレートケーキ
  508円 ポワール、
  562円 コーヒーケーキの王様
  508円 チーズケーキ
  562円 焼きリンゴ洋風
  562円 南瓜のクリームケーキ
・その他のケーキ
 1620円 ガトー・オランジュ
 1620円 ウイークエンド
 1944円 ガトー・フリュイ
 1620円 パヴェ
 1620円 フォンダンショコラ・ジャンジャンブル
 3003円 ガトー・フレーズ・ヌーボー
 2592円 はちみつムース
 2592円 ショコラ
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ショーケースに入った苺のショートケーキを紹介します。
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開店30分前から並んで夙川クッキーローゼを買いました。 ミッシェルバッハ(Michel Bach) [兵庫県]

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2015年8月10日追記 タイトル : 並んで夙川クッキーローゼを買いました。
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2015年3月20日に売れきれで買えなかった、上の写真の「夙川クッキーローゼ」を買うために2015年8月9日にミッシェルバッハ(Michel Bach)に行ってきました。前回の経験と開店前から並ぶとの話から、今回は開店10時の30分前に行くために宝塚の逆瀬川駅9時10分発の電車に乗りました。

計画通り9時30分に、お店に近づきましたが写真のように、すでに待っている方がいるようでした。人はそんなに多くないように見えますが、実は行列が左の道に続いていたのです。


すでに18人近い方が並んでおられました。この時9時31分でした。この後、9時45分までは人が増え続けて50人近くまで増えました。9時45分以降は人は増えませんでした。


本来の開店時間は10時ですが、9時49分に開店したので列が進みました。あと9人くらいでお店の中に入れます。お店から出ていく人は、みんな大きな紙袋をさげでいるので、クッキーが売れきれてしまい買えないのではないかと、心配になってきました。


やっとお店に入れると、夙川クッキーローゼの40枚入(3000円)と50枚入(3550円)はすでに売れ切れていました。幸いにも18枚入(1450円)は残っていたので7箱注文いたしました。7箱の内、2箱が実家と我が家用で5箱が知り合いへのお土産用です。私が買った後、5人目で、18枚入も売り切れてしまいました。その時10時7分でした。開店前に並んだ50人の内、25人くらいの人は夙川クッキーローゼは買えなかったことになります。つまり逆瀬川駅で一本後の電車に乗っていると買えなかったことになるわけです。ほんとラッキーでした。もし、30分近く並んで買えなかったらつらいものがありました。この日は日曜日の上に、お盆休も近かったことから特別だったのではないかと感じました。
夙川クッキーローゼ以外に焼き菓子を2箱とケーキを2個買いました。
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実家に戻って夙川クッキーローゼを食べてみました。包装紙を外したところです。
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これが夙川クッキーローゼです。花の形のクッキーでチョコレートとバニラが9個づつ入っていました。
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拡大したクッキーローゼです。
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買ったケーキの名前を紹介したかったのでネームカードの写真を撮らせてもらいました。ドーム形のケーキが多いのがお店の特徴のようです。写真をクリックすると名前が見れますが、達筆のため読めませんでした。
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昼食の後にケーキをいただきました。こちらは「プルミエ」です。英文字は解読不可能ですがイメージ的にはIoco Smmbeiseのような感じでした。
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こちらは「モモ」です。英文字はCassis momoと読みとれました。
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両方の味を知りたかったので、半分づつ食べました。
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もちろんケーキは紅茶でいただきました。
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2015年3月29日掲載 タイトル:30分で売れきれる「夙川クッキーローゼ」
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2015年3月21日の山口県への墓参りで、お世話になっている叔父さんへのお土産に夙川の名店であるミッシェルバッハのクッキーを持って行くために前日の10時42分にお店に行きました。ところが開店から42分しか経っていないのに、一番人気の「夙川クッキーローゼ」の3種類のパッケージが、すでに完売で売れきりでした。どれくらいで売れきりるのかをお店の方に確認すると、開店から30分で売れきれるとのことでした。そして開店前から人が並ぶとも教えてもらいました。
しかたがないので、別の焼き菓子を買いました。お土産には量が少ないので、駅への帰り道にある別の人気店のエルベランでティフレンド(TeaFriend)を買って両方のお土産を持って山口県に行きました。今回、買えなかった「夙川クッキーローゼ」は次の機会に買いたいと思います。夙川クッキーローゼの3種類のパッケージです。
  角ケース 18枚入り 1450円 80.6円/枚
  丸ケース 40枚入り 3000円 75.0円/枚
  角ケース 50枚入り 3550円 71.0円/枚

夙川クッキーローゼは、生地を丸めて1日寝かせて、型を抜いて1日寝かせて焼き上げるそうです。さらに仕上げるのに1日を使うので計3日かけて作るクッキーだそうです。この手間ひまかけたやり方は創業当時(1982年)から変わらないそうです。食べていませんが、サクサクで、口の中でふわっととろけるような独特の食感が楽しめるクッキーだそうです。まわりには真っ白なパウダーシュガーがたっぷりかかっていて、見ての通り花のようなクッキーです。チョコレートが乗ったチョコレートクッキーと、アプリコットジャムが乗ったバニラクッキーの2種類があります。
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お店を紹介します。写真をクリックすると建物全体を表示します。
クリックすると拡大 店名 ミッシェルバッハ Michel Bach
 住所 兵庫県西宮市久出ケ谷町2-28
 電話 0798-74-3789
 営業 10:00~19:0
 店長 須波宏晋 オーナーパティシェ
 創業 1982年 初代 : 須波保弘
 最寄 阪急電鉄夙川駅より徒歩6分
 定休 月曜日・火曜不定休
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お店の場所を紹介します。マーク B がミッシェルバッハの場所です。私が1歳から2歳まで住んでいた所から直線で560mの距離でした。
以前に紹介したエルベランがマーク A です。
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美味しそうなケーキが並んでいたので家用に買うことにいたしました。買ったのは下の段の右端のケーキと右から3番目のケーキです。
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苺のホールケーキもお洒落だったので、上の写真から切り取った写真を拡大いたしました。


左がエルベランの紙袋で、右がミッシェルバッハの紙袋です。
 エルベラン     お土産用クッキー + 家用クッキー
 ミッシェルバッハ お土産用焼き菓子 + 家用ケーキ


ケーキの名前はモンブラとカシスヨーグルトです。モンブランの方は持ち帰る時に箱が傾いて、少し崩れてしまいました。右のカシスヨーグルトはネットで調べてみるとヨーグルトドームという名のケーキに似ています。
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こちらがモンブランです。崩れたのは残念ですが、味は同じです。
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こちらがモンブランの断面です。
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ケーキは紅茶でいただきました。
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カシスヨーグルトの断面です。モンブランもカシスヨーグルトともに味のセンスはすばらしかったです。
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夙川のクッキー名店でケーキを買いました。 [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で2014年12月26日に夙川で買う予定だったのが、こちらのクッキーでした。12月29日に帰省していた実家の母に頼まれて数箱ほど買に行きました。その中の一つを我が家のお土産用に貰いました。これは66枚入りです。

有名なお店なので、パッケージを見るとお店を思い出す方もおられると思います。
お店の名前はエルベランです。エルベランのクッキーと聞くとご存知の方もおられると思います。「食べ始めたら止まらない」の言葉は、このクッキーのためにあるような気がします。一箱があっと言う間に無くなります。
確かに名前の通りティフレンド(TeaFriend)でした。
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やっぱり名店に来ればケーキを買いたくなります。抹茶のケーキとラズベリーのケーキを買いました。
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こちらが抹茶のケーキです。
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こちらがラズベリーのケーキです。
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両方ともに食べたいので半分づつにいたしました。今回も紅茶でいただきました。
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半分づつのケーキを拡大いたしました。エルベランの美味しさの原点はケーキであることを納得です。
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お店を紹介します。マーク A がエルベランです。夙川辺りには有名な焼き菓子店がいくつかあります。マーク B もミッシェルバッハという有名な焼き菓子店です。
クリックすると拡大クリックすると拡大右の大きな写真がオーナーシェフの柿田衛二さんで、小さな写真が初代(社長)の柿田衛さんです。
私は0歳から2歳まで夙川駅から東南東の若松町に住んでいたそうです。次に帰省した時に正確な場所を母にクリックすると拡大確認してみます。右下の写真は51年前の1964年創業当時のケーキの写真です。これらのケーキがエルベランの原点だそうです。
クリックすると拡大 店名 エルベラン ÉLBÉRUN 
 住所 西宮市相生町7-12
 電話 0798-74-4349
 営業 8:00~18:30
 店長 柿田 衛二 オーナーシェフ
 創業 1964年 初代 : 柿田衛
 最寄 阪急電鉄夙川駅より徒歩3分
 URL http://elberun.e-mon.co.jp/
 定休 火曜日+月数回 不定休が多いのでHPでの確認が必要です。
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クリックすると記事を表示夙川に住んでいたころの懐かしい写真があったので掲載しました。父、母、姉と私です。私は6~7ケ月目ぐらいだと思います。2歳の時に広島に引越しましたが、お店の出来た1964年には阪急岡本駅の近くに住んでいました。
子供のころに電車に乗って近くの苦楽園口に塾通いをしたことを思い出しました。この時、夙川で甲陽線に乗り換えるのです。
下の地図で夙川の場所を紹介いたします。
  A  御影
  B  岡本
  C  芦屋
  D  夙川  
   阪急電鉄 神戸本線  :神戸三宮  :梅田(大阪) 
御影~夙川が住宅地のスイーツ銀座と言えるのかもしれません。
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御影のケーキ屋さん [兵庫県]

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昨年の2014年12月27日は実家の宝塚からお袋と日帰りで山口県に墓参りに行きました。いつも新岩国駅とお墓の往復に車を出してくれているのが岩国に住んでいる叔父さんです。その叔父さんへのお土産の一つに関西の焼き菓子を持って行きます。前回の時はすでに紹介の通り、芦屋の人気店の焼き菓子にしました。今回は夙川の焼き菓子にするつもりで、念のために12月26日にお店が開いていることをネットで確認すると12月23日(火曜日)の代休で休みだったのです。前回の芦屋のお店も、別の夙川のお店もすべて12月26日は代休でお休みでした。そこで阪急西宮ガーデンズにある阪急百貨店に行ってみました。そこには沢山の焼き菓子店がありました。その中で気になったのが御影の焼き菓子店「高杉」でした。そこの焼き菓子をお土産として買いましたが、自分たち用にケーキも買いました。そのケーキが上の写真です。

こちらが、私が食べたイチゴのショートケーキです。ホームページを見た印象では御影高杉の看板ショートケーキのようで、ボリューム感のある美味しいケーキでした。
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こちらが息子が食べたバナナとイチジクのケーキです。
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こちらがお袋が食べたモンブランです。写真を撮る前に食べ始めてしまったので、飾りの栗などは無くなっいました。
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こちらは、自分たち用に買った焼き菓子です。お土産の味見を兼ねて買いました。
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こちらの焼き菓子はガトーマロン(Gâteau marron)で栗が使われていました。
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焼き菓子の中に栗が丸々使われていました。
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自宅用に買ってきたクッキーです。ピスタチオナッツクッキーです。
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今回のお店のあった阪急西宮ガーデンズは西宮球場の跡地に2008年11月26日にオープンしたショッピングセンターです。現在は広いショッピングセンターが沢山ありますが、オープン時は国内3番目の広さだったそうです。
敷地面積は71,000m²で、延床面積は247,000m² だそうです。核テナントである阪急百貨店(西宮阪急)の面積は25,000m²あります。その他にTOHOシネマズやイズミヤがあります。屋上庭園のスカイガーデンは9,000m²の広さがあり、六甲山系に自生する樹木や桜、果樹などが植えられて、オルゴールの音色に合わせて踊る噴水も設置されているそうです。ケーキ屋さんを紹介します。がお店の場所です。
クリックすると拡大 店名 仏蘭西菓子 御影高杉・西宮阪急店  
 住所 西宮市高松町14-1
 最寄 阪急西宮北口駅より徒歩3分
 電話 0798-62-1381
 営業 10:00~20:00
 定休 不定休 西宮阪急と同じ
 本店 神戸市東灘区御影2丁目4番10-101号
 URL http://www.mikage-takasugi.com/
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偶然ですが私が生まれて12ケ月目前後のときの写真に西宮球場が写っていました。私は10ケ月ほどで歩いたとのことでした。その時は阪急夙川駅の近くに住んでいて、2歳の時に広島市に引越しました。写真の左の建物が阪急西宮球場で、右手に見える山は六甲山です。
阪急西宮球場は2004年に取り壊されましたが、阪神甲子園球場に対抗して、今から78年前の1937年5月1日に完成した大きな球場で、57000人収容の球場は当時としては日本屈指の大きさだったそうです。
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本場・明石で玉子焼を食べました。 [兵庫県]

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先日、十年以上も食べていなかった明石焼きを東京で食べたことを紹介したばかりでしたが、本場の明石で、その明石焼きを食べる機会がありました。上の写真がその明石焼きです。朱塗りの板は手前が低くて奥が高くなっていました。
食べやすく配置されるのが本場の明石焼きでした。

メニューの最初のページに、ど~んと載っていました。中に使われている蛸は地元の明石タコが使われて10個で400円は安いです。お店の中で食べさせていただきましたが、持ち帰りに何人も買いに来られていました。


焼くところを撮らせていただきました。普通のたこ焼きは金属の千枚通しのようなキリを使いますが。こちらでは2本の竹ベラを使っていました。やわらかいので竹ベラ(あるいは菜箸)なのだと思います。
たこ焼きが鉄板を使うのに対して明石焼は銅版を使うのも特徴の一つです。
銅板の上に朱塗りの板をかぶせて銅板ごと、ひっくり返して板の上に明石焼きをきれいに並べるのです。銅板の淵の部分が高くなっているのがミソです。この高くなった淵のおかげで板を上にかぶせてひっくり返せるわけです。柔らかな玉子焼(明石焼)を作る工夫が集約された道具なのだと思いました。
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玉子焼を拡大してみました。ふわふわ感が伝わるでしょうか。写真をクリックするとさらに拡大するので、ふわふわ感と美味しさが伝えられるかもしれません。
明石の玉子焼は見た目はたこ焼きに似ており柔らかく直径5cm程度の球形が自重で押し潰れたような形をしています。江戸時代の終わり頃から食べられていて、たこ焼きの元になった食べ物といわれているます。
玉子焼は、約160年の歴史を持つと言われていますが、現在の玉子焼を商売としてはじめたのは、95年前の大正八年(1919年)から玉子焼の屋台を引いていた、現在の樽屋町にお住まいだった向井清太郎さんと言われています。向井さんの玉子焼は評判となり、口コミで広がり人気があったそうです。そして大阪にもその評判が伝わり大阪から業者が見学に来る程、有名になったそうです。
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材料に鶏卵を使う点、生地が非常にやわらかい点、小麦粉以外に沈粉と呼ばれる小麦でんぷんの粉を使う点、焼き板が熱伝導が良い銅製である点、明石焼きを裏返すのに銅製の焼き板を傷つけないよう、金属製の道具を用いず菜箸を使う点、具が基本的にタコのみである点などが、いわゆる大阪のたこ焼きとは異なります。
小さなまな板状の木製の皿に盛り付けられ、添えて出される出汁に浸けて食べます。この出汁に浸して食べるスタイルこそが、玉子焼きの最大の特色です。出汁も美味しく飲めました。
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地元といえども明石蛸は値段が高いですから「明石だこ」が使われているのはうれしいです。明石蛸の美味しさの秘密は、先ずは美味しい餌が豊富なことだそうです。明石海峡には海老や蟹(特に大好物のフタホシイシガニ)が繁殖して、それを食べています。次の理由が海流です。明石海峡の早い潮流の中、蛸を大好物と狙う敵に身を隠しながら、すばしっこく暮らさなければならないことが筋肉質な体を作り出し、かみ締めるほどに味の出る、超一流の明石蛸の味の秘密だそうです。
明石では玉子焼とよばれています。明石以外では明石焼とよばれます。明石市のなかでも特に明石駅の南側の魚市場・魚の棚あたりにある店舗が有名で、明石を目指す観光客の目的の一つにもなっています。「明石焼」のみの表記の店舗(玉子焼の表記がない店舗)には老舗は少なく、むしろ観光客向けの店舗だそうです。
私の入ったお店は明石駅の近くではなく西明石駅前にあるお店「玉子焼ピコ」です。こちらでは玉子焼と明石焼の両方が使われていました。
写真の中で気になるものが右の「揚げピコ」です。3個が130円で6個が250円と書かれています。これはどうやら明石焼を油で揚げたもののようです。ワンコインセットが500円と書かれていますが明石焼+生ビールが500円なのです。つまり生ビールが100円で飲めるサービスです。ここは、明石駅の近くのように観光客の多いところではないので、味のよくわかった地元の人がお客さんのため、味は本物だと思います。
お店の中では明石焼以外に、いろんな酒の肴がありました。明石は魚が美味しいところなので刺身も新鮮なのが食べれそうでした。隣のテーブルでは玉子焼や酒の肴に焼酎のお湯割で盛り上がっていました。
  店名 玉子焼ピコ
  住所 兵庫県明石市西明石南町1丁目4−13
  電話 078-922-8590
  最寄 JR西明石駅
  SV  http://goo.gl/maps/b6Utj


作り方をネットで調べてみました。ただし本レシピは専門店のレシピではないので参考としてください。
 材料(4人分)
  ・明石ダコ 適量
  ・卵     3個 
  ・だし汁   2カップ 前日から昆布を浸けておいた水に塩やカツオで味付
  ・小麦粉  60g
  ・じん粉   60g
  ・つけ汁  適量   だし汁にカツオ・薄口醤油を加えて煮立てる
 手順
  1.タコを塩でもんでぬめりを取り、水でよく洗う。
  2.タコをたっぷりのお湯でゆで、1センチ角程度に切る。
  3.小麦粉とじん粉をふるいにかけ、だし汁で溶く。
  4.さらに卵を溶き、加える。
  5.熱した鉄板に仕込んだ4.を注ぎ、そこへタコを1個ずつ入れる。
  6.形を丸く整えながら、丁寧にひっくり返し、ふっくらと焼き上げる。
  7.お好みでつけ汁に三つ葉を加え、お熱いうちに召し上がれ。
   ※つけ汁は熱くても冷たくても、どちらでもお好みに合わせて。
下記の地図の臙脂色マーク( )が、お店「ピコ」の場所です。明石市には沢山の明石焼のお店があります。観光協会に登録されているお店だけで34軒もありました。神戸市須磨区に住んでいる頃(29歳~37歳)によく行ったのは明石の魚棚にある「明石焼 よし川」というお店です。今はTVや雑誌でとりあげられている有名店になりました。

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芦屋のケーキ屋さん ポッシュ・ドゥ・レーヴ [兵庫県]

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クリックすると拡大お彼岸の墓参に山口県の叔父さんのところにお土産に右の焼き菓子を持って行きました。小さい方の箱が人気No1の和三盆リングサブレ8個セット1380円です。大きい方がサブレ、ブリアン、パウンド、マドレーが入ったセット3430円です。本来は実際に食べてから美味しいことを確認してから持って行くべきでしたが、そのステップを怠っていました。お袋が年四回ほど墓参りに行くので次も買う機会があるので事後ではありますが、味見だけはしておきたかったのです。今回、宝塚の実家に行く機会があったので、味の確認のために焼き菓子を買いに行きました。上の写真がジャパンケーキショー連合会会長賞を受賞した、人気NO.1の和三盆リングサブレです。三盆糖リングサブレは四国和三盆糖が使用されているそうです。ホームページの説明通り、 和三盆の上質な甘さと、ナッツのザクッとした食感がとてもよかったです。手作りの為、サイズには差が出るようです。和三盆リングサブレ(160円)は皆が食べれるように8個買いました。

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和三盆リングサブレ以外で買った焼き菓子はショコラヌガティーヌ(160円)、本和香くるみサブレ(160円)、ノワゼット(160円)、塩バニラサブレ(160円)、抹茶フリアン(190円)、ガトーピスタチオ(200円)、バニラフリアン(200円)、メープルフリアン(190円)、ピスタチオサブレ(150円)、抹茶ゴマブレ(160円)、ピニョンショコラ(160円)、ゴマサブレ(130円)の12種類でした。この美味しさなら、次の時にお土産に持って行って大丈夫であることを確認いたしました。
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こちらは抹茶フリアンです。宇治の最高級抹茶を使用したフリアンだそうです。フィナンシエと作り方は同じですが、フィナンシエ は金塊という意味で、こちらの店ではオーバル型という型で焼成している為に 「フリアン」という呼び方をしているそうです。
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こちらはピスタチオサブレです。ネットで調べてみるとイタリアシシリー産ピスタチオの香りが活きているサブレでした。右端に少し見えているのはピニョンショコラです。こちらは高級な松の実を使用し、フランスヴァローナ社の カカオ分の強めのショコラを贅沢に使用したビターな大人のショコラサブレだそうです。
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お店を紹介いたします。
 店名 Poche du Rêve ポッシュ・ドゥ・レーヴ芦屋
 住所 兵庫県芦屋市公光町9番7号モントルービル
 電話 0797-32-0302
 営業 10:30~19:00 水曜日のみ9:30~17:00
 定休 火曜日
 創業 2009年1月10日
 店長 伊藤 福子 オーナーパティシエ
 HP  https://www.poche-du-reve.com/
 最寄 阪神電車 芦屋駅 北口から75m
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今回もケーキを買いました。味見のための焼き菓子を買いに行ったと冒頭で説明をいたしましたが、千里の親しい知り合いの家にお土産のケーキを買うのも目的の一つだったのです。自分も食べると言う前提で4つ買いました。知り合いの家に着いてさっそく頂きました。次のルートで行きました。
逆瀬川→芦屋川(阪急)-[徒歩992m]→Poche du Rêve-[徒歩75m]→芦屋(阪神)→梅田→千里中央
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今回のケーキを紹介します。こちらはタルトアプリコット(430円)です。
アプリコットのタルトで、アプリコットの酸味と、生地に使っている、チーズとアーモンドのクリームとの相性が良いケーキでした。オープン以来唯一店頭に並び続けている商品でもあるそうです。
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こちらはフロマージ(460円)です。
ベイクドフロマージュに相性の良いベリーフルーツのコンフィチュールを流し込み、フロマージュブランのムースと合わせたそうです。
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こちらはロトンヌ(480円)です。現在、ホームページでの説明がないのですが、食べた中で一番評判がよかったです。
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こちらが、栗のショートケーキ(460円)です。こちも、ホームページに掲載が無いので説明できないのですが、季節を感じさせてくれる美味しい一品でした。
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ケーキには、やっぱり紅茶ですね。私は栗のショートケーキをいただきました。
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紅茶もいいものを出してもらいました。
MARIAGE FRERES(マリアージュ フレール)です。


紅茶もアップいたしました。お店に訪問したのは次の2回でした。
  1回目 2014年09年21日 → ポチッ
  2回目 2014年10月12日 ← 今回
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阪神電車・芦屋駅のホームから見た芦屋川です。六甲山から海側に流れてくる川は砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高く なった天井川という形式の川が多いのですが、芦屋川も天井川という形式の川です。写真ではわかりにくいのですが、川の両岸も広い範囲で周辺の平面地よりも高くなっています。
阪神電車や阪急電鉄はその川の上を高い高架で走っていますが、JR東海道線は川の下を走っています。→芦屋川 住吉川
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JR東海道線が芦屋川の下をくぐっているところです。くぐらすために川底が下流側よりかなり高くなっていることが判ると思います。
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兵庫陶芸美術館 立杭焼の里 [兵庫県]

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すでに紹介した焼き物の里である兵庫県篠山市今田町の立杭地区と川を挟んだ山の裾野に陶芸美術館があります。室町時代から大正時代に兵庫県内で作られた焼き物の美術館で正式名は兵庫陶芸美術館です。本記事ではその兵庫陶芸美術館を紹介いたします。JR相野駅を9時35分発(始発)に乗ったバスはこの兵庫陶芸美術館行きで、ここに着きました。
兵庫陶芸美術館が建てられた立杭の焼き物は平安時代からの歴史があり、丹波立杭焼、あるいは丹波焼、あるいは立杭焼ともいわれて、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に六古窯の一つに数えられています。山のふもとの斜面に建つ白い建物が兵庫陶芸美術館です。

こちらはすでに紹介した記事「丹波立杭焼の里」の中で掲載した兵庫陶芸美術館の写真です。川の名前は四斗谷川(しとだにがわ)で、陶芸の里らしく壺が飾られた橋の名前は「ほとけ橋」です。
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登り坂の入口に作られた兵庫陶芸美術館の看板です。
英語の名称はThe Museum of Ceramie Art, Hyogoです。


看板を過ぎで坂を登っていくと陶芸美術館が見えてきます。


エレベーターで上がった後、この渡廊下で美術館に向かいます。


ガラス張りの渡廊下からは立杭の集落が見えました。私が乗ってきたバスも右端に少し写っています。


正面が美術館の入口です。ここには9時50分に着きました。Openの10時まで周りを散策させてもらいました。小さな陶器のランタンが沢山並べられていました。日が暮れるときれいな景色が見れるのだと思います。
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美術館の入口から上の写真を撮った場所の方向の写真です。沢山の石が景色を作っていました。
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石だと思ったのは陶器でした。
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割れ目を作っていないと陶器とはわからない色合いと地肌でした。これらは杉浦康益さんの一つの作品で作品名は「丹波逍遥・語り合う沈黙2005」です。
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クリックすると拡大こちらが入館券です。この時の観覧料は本来は600円でしたがJAFの会員カードを持っていたことから団体と同じ500円になりました。
名前 兵庫陶芸美術館
    The Museum of Ceramie Art, Hyogo
住所 兵庫県篠山市今田町上立杭4
電話 079-597-3961
営業 11月~3月 10:00~18:00
    4月~10月 10:00~19:00
    特別イベント 10:00~21:00
休館 月曜日 12月31日~1月1日
料金 展覧会ごとに異なるそうです。
    ネットで割引券入手可
HP  http://www.mcart.jp/ 
開館 2005年10月1日
所蔵 1700点
     この時に展示されていたのは152点でした。
構成 展示室5室(1階:2室、2階に2室、地下:1室)
展示 丹波焼(丹波) 出石焼(豊岡) 八鹿焼(養父) 三田焼(三田) 王地山焼(篠山)
    東山焼(姫路) 珉平焼(淡路) 赤穂焼(赤穂) 明石焼(明石) 舞子焼(神戸)
    明浦山焼(明石) 鷺脚焼(姫路) 盈進舎(出石) 永世舎(姫路) 淡陶舎など
  

美術館では新収蔵品展「美の再発見 兵庫のやきもの」が行われていました。会期は2013年12月7日~2014年2月16日でした。
美術館内は写真撮影禁止なので、展示室の雰囲気を感じてもらうためにネットから下記の写真を転用させていただきました。展示は部屋ごとに4章に分かれて132点が展示されていました。
 2F 第1章 丹波                   1 ~ 42 室町前期~江戸後期
 2F 第2章 出石と八鹿              43 ~ 65 江戸~明治~大正
 B1 第3章 三田・王地山そして東山・赤穂  66 ~ 94 江戸~明治~大正
 1F 第4章 明石・珉平そして清風与平     95 ~132 江戸~明治~大正



これらの写真はパンフレットとHPから転用させていただいた陶器7点です。
 左側の写真が室町時代後期の丹波焼の壺です。
 右側の写真が江戸時代後期の三田焼の青磁牡丹文角皿です。


 左側の写真が明治時代の出石焼の白磁梅樹文龍耳花瓶です。
 中央の写真が江戸時代後期の王地山焼の赤絵金彩唐人物図花瓶です。
 右がの写真が江戸時代後期の東山焼の染付騎馬人物鹿図耳付花瓶です。


 左側の写真が江戸時代後期の明石焼の色絵亀甲文手桶形水指です。
 右側の写真が明治~大正時代の淡陶社の色絵花鳥図鉢です。


同じ館内の1F(一階)で、田島悦子展も行なわれていました。ガラスと黄色の陶器を組み合わせた作品でした。14点が展示されていました。こちらは2013年9月21日~2014年2月19日までの開催でした。併設して江戸時代前期の丹波焼の壺も6点展示されていました。作品は「灰釉山椒壺」が3点、「灰釉六角朝倉山椒壺」が1点、「灰釉六角面取山椒壺」が2点でした。


陶芸美術館に隣接して「立杭陶の郷」があり、こちらには沢山の観光バスが停まっていました。この中には立杭の窯元が54軒集まった窯元横丁があり、じっくりと見て作品を買うことが出来ます。ただし私は知らなかったのでこちらには来ませんでした。
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こちらがホームページから転用させていただいた窯元横丁の写真です。
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今回は知らないでいかなかったのですが、紹介する値打ちがありそうなのでホームページから転用させてもらった窯元横丁の地図を掲載します。この地図からも雰囲気が判ってもらえると思います。私が今回買った吟兵ヱ窯や以前に壺を買った丹京窯もあります。前記事で紹介した窯元は、すべてそろっています。
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赤色マークが陶芸美術館で、黄色のマークが窯元横丁などがある「立杭陶の郷」です。左側の緑色マーク(窯元案内板)や空色マーク(登り窯)がある集落が、沢山の窯元がある立杭地区です。窯元を訪ね歩くのも懐かしくて楽しかったです。

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丹波立杭焼の里 [兵庫県]

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2014年2月5日~9日まで関西に行って宝塚の実家に泊まっていました。2月7日に時間があったので関東に引っ越してからご無沙汰になっていた丹波立杭焼の里である兵庫県篠山市今田町の立杭地区に行ってきました。
丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は丹波焼あるいは立杭焼ともいわれています。起源は平安時代にまで遡るといわれ、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に六古窯の一つに数えられて主に生活雑器を焼いてきました。江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出したそうです。窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代になって、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼と呼ばれるようになったそうです。
丹波立杭焼の特徴は、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すことだそうです。

JR福知山線の宝塚駅を9時6分発の篠山口行きの快速に乗って相野まで行きそこからバスかタクシーで行くつもりでした。バスの時刻は判らないので、とりあえず立杭に10時くらいに着く電車を選びました。


相野駅が見えてきました。
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相野駅のホームです。


相野駅には9時30分に着き、出発寸前のバスに飛び乗りました。戻ってきたときに確認するとバスは9時35分発でした。ゆっくりとトイレに行ってからバス停に行ったのでギリギリだったわけです。


すぐにバスに乗れたので頻繁にバスがあるのかと思いましたが、下の時刻表を見てもらえればわかるようら一日に6本しか走っていないバスに偶然に乗れたのでした。それも始発でした。なんという偶然なのでしょう。平日が6本で土曜、日曜、祝日が8本なので、電車で行かれる方のために時刻表を掲載いたしました。帰りも気をつけないといけないことが判ってもらえると思います。降りる時に親切な運転手さんに帰る時のバス停留所が時間帯によって違うことを教えてもらいました。この時刻表をクリックすると下立杭の時刻表を表示します。
クリックすると下立杭の時刻表を表示

なんとバスは相野駅から終点の陶芸美術館まで私一人でした。


バスはこの坂を登って見えている県陶芸美術館に到着いたしました。県陶芸美術館で兵庫県のいろんな時代の陶器を見た後に立杭の集落の方に向かいました。


立杭の集落に向かう途中で見える陶芸美術館の景観です。川の名前は四斗谷川(しとだにがわ)で、陶芸の里らしい橋の名前は「ほとけ橋」です。
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立杭の周辺の景色を紹介します。北の方向を撮った写真です。正面に見える山は白髪岳(721.8m)だと思います。丹波富士とも言われています。
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こちらは立杭の集落です。左の方が下立杭で右の方が上立杭です。現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区に約60軒の丹波立杭焼の窯元があるそうです。
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集落の中に入りました。ほそい路地が趣がありました。その路地に「窯元路地歩き」の看板が立てられるだけのことがありました。その路地にはそれぞれ「アベマキ坂」「こやすさん坂」「窯の壷坂」「なかみち通り」「やきもの通り」などの名前が付けられていました。
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この路地を登ったところにも窯元がありました。
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路地を歩いていると小さな社(やしろ)もありました。真っ赤な鳥居には稲荷大明神と書かれていました。


それぞれの窯元も趣があります。こちらは俊彦窯(としひこがま)です。清水俊彦(S20)さんと清水剛(S50)が作られているそうです。
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こちらの窯元は丹波・山キ窯・喜仁です。
こちらの「山キ」は文字ではなく「山キ」=なのです。つまり「丹波窯」です。こちらは大上喜仁さん(S31)がやられています。
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こちらも大きな窯元でした。こちらは茶陶丸カ窯です。
こちらの「丸カ」も文字ではなく「丸カ」=なのです。つまり「茶陶窯」です。こちらは市野年彦さん(S31)がやられています。
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こちら窯元は丹窓窯です。写真の中の右端に登り窯が写っています。
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遠くから撮った写真に、その登り窯が写っていました。
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これが登り窯です。
全国的に中世には轆轤(ろくろ)を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られていたそうです。江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、ここ立杭では今でも沢山の登り窯が残っているようです。
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反対側から見た登り窯です。
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クリックすると拡大立杭の登り窯の特徴は先端の「蜂の巣」と呼ばれる煙出しの部分です。この煙出しの部分は「くど先」「火さき」とも呼ばれています。右の「蜂の巣」から炎が噴き出している写真はネットから転用させていただきました。最近は煙突が付けらりることが多くなったことから、「蜂の巣」から炎が噴き出す美しい光景は少なくなったそうです。
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登り窯は山麓の傾斜地に「そだて石」とよぶ石を並べて基礎とし、割り竹を縄で編んだものを支えとして、両側から「まくら」を半円形に積み上げられるそうです。このまくらは、山土を型に入れてこしらえた立方体の日干し煉瓦(れんが)で、現在では鉄板を支えとして積まれることが多いようです。このとき出入り口や燃料の投入口も設けられ、最後に「ごぢん」とよぶ窯内部の床を厚く塗り固めて完成します。この図はネットから借用させていただきました。
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こちらが窯詰の出入口です。中の煉瓦の表面から高温で焼かれることが判ってもらえると思います。
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ここには複数の登り窯がありました。煉瓦の煙突が建てられた登り窯です。これらは上立杭にあった登り窯です。
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下立杭の方に下りていく途中に大きな木の下にクリックすると拡大社が立てられているところがありました。この木はアベマキで、「上立杭の大アベマキ」として平成元年12月12日に郷土記念物に指定されました。木の姿が扇を開いたように見えるので「おうぎの木」あるいは「おみの木」とよばれ、地域の神木として崇められています。アベマキとしては、兵庫県位置の巨木です。ここから右に行く道が「アベマキ坂」と名付けられています。鳥居には「正一位稲荷大明神」と書かれていました。
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「おみの木」の脇を上がっていく道です。この奥にも窯元がいくつかありました。
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こちらの道にも沢山の窯元がありました。
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立杭の集落のメインストリートです。
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窯元マップがあったので写真を撮りました。クリックすると拡大します。左方向が北方向になります。この看板に書かれている窯元を紹介いたします。
樫山窯 大雅窯 英一窯 省三窯 末晴窯 陶幸窯 山五陶勝窯 大熊窯 丹水窯 (かねと)窯 茶陶窯 丹波窯 製陶所 源右衛門窯 義治窯 窯 丹波窯 窯元やまの 丹窓窯 雅峰窯 珀耀窯 俊彦窯 こおほ窯 陶芳窯 義年窯 丹京窯 丹泉窯 新右エ門窯 信行窯 炎丹久窯 豪人窯 稲右衛門窯 昇陽窯 伝市窯 陶山窯 丹山窯 丹満窯 悟窯 忠作窯 吟兵ヱ窯 松本製陶所 直作窯 圭泉窯 丹誠窯 丹久窯 林造窯 鎮台窯 寿庵 壺市
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緑色マークが窯元マップが立てられていたところです。空色マークが登り窯で、すでに紹介したのが、北側(上側)の登り窯です。赤色マークが陶芸美術館で、黄色のマークが54軒の窯元の作品が広いスペースに窯元ごとに並べて売られている「立杭陶の郷」です。

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上の地図の南側(下側)の登り窯です。沢山の登り窯があることが判ってもらえると思います。


こちらの登り窯は兵庫県の指定文化財です。この窯は現在も共同で使用されています。長さは47mで9袋を持っているそうです。記録によると今から119年前の明治28年(1895年)の構築で、立杭に置いては現存の登り窯のなかで最も古いそうです。
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上の写真と反対側から撮ったものです。
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上の方向からの写真も紹介します。
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宝塚の実家に住んでいたころに同じ登り窯を撮った写真が残っていました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大入社してすぐのころは車で気楽に行けたので何度も社内の友達同士や、家族で行きました。右の写真はお袋と姪っ子(私の姉の長女)です。
近世における丹波焼は、慶長16年(1611)ごろ、朝鮮式半地上の登り窯が導入されて穴窯時代から登り窯時代になったといわれています。その頃は釜屋の山麓に登り窯が築かれていたので「釜屋時代」「山麓時代」ともよばれていたそうです。人が住む下立杭や上立杭に登り窯が作られたのは宝暦2年(1752)で、里に登り窯が作られたことから「里窯時代」とよばれたそうです。
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昔の写真で煙出しの「蜂の巣」の写真がありました。蜂の巣から吹き出される真っ赤な炎は美しいと思います。
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横には別の登り窯もありました。
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横には丹京窯という窯元がありました。
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実は、昔、こちらの丹京窯で大きな壺を買いました。その壺は今も実家にあります。今は息子さん(清水昌義さん)が窯元をやられているそうです。つまり先代(清水丹京さん)の作くられた壺になります。今度、実家に帰った時に写真を撮って紹介いたします。
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追伸
こちらが、昔に買った清水丹京さんの壺です。
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拡大してみました。クリックすると拡大

添えられていた説明書きです。
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久しぶりに立杭に来たのでお土産を買おうとしましたが閉っているお店も多かったです。寒い時期の平日のため、立杭の集落では、ほとんど人は見かけませんでしたが10月の第3土曜、日曜日には「陶器まつり」が開催され、普段は人通りもまばらな窯元の立ち並ぶ小路まで多くの人々が繰り出し終日賑わうそうです。年間で十万人が訪れるそうです。お土産に買ったのがこちらの吟兵ヱ窯です。


店内を撮らせていただきました。今の窯元の名前は吟兵ヱ保宏(大西保宏)です。私が関西に住んでいたころの窯元のお孫さんだそうです。時間がたったことを感じました。吟兵ヱ窯を紹介します。
  窯元 吟兵ヱ窯(ぎんべいがま)
  陶工 吟兵ヱ保宏(大西保宏) 先代は大西寿
  住所 兵庫県篠山市今田町下立杭187-1
  電話 079-597-2065
  詳細 http://www.tanbayaki.com/kamamoto_shosai/59.htm
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壁際に並べられているのが薪で焼かれた陶器です。手前の方にガス窯および電気窯で焼かれたものが並べられていました。せっかく立杭に来たので薪で焼かれたごはん茶碗を買いました。薪を燃料とした場合は登り窯と穴窯の両方があるようです。
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これが購入した、ご飯茶碗です。
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お土産も買ったので帰ることにいたしました。立杭公会堂前が12時30分のバスで、乗ったのは一停先の下立杭だったので12時32分でした。このバスを逃すと15時25分までバスがありませんでした。心配していましたが時間通りに相野駅行きのバスが来ました。


次の電車は13時3分でした。


相野駅の写真を紹介します。
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この電車で宝塚まで帰りました。
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翌日は学生時代のサイクリング部のOB交流会に出た後、2月9日は雪のためにべた遅れの飛行機に乗って家に帰りました。
さっそく立杭焼きの茶碗で、ご飯を頂きました。趣のある茶碗で食べるご飯は美味しかったです。
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これらが我が家のごはん茶碗です。
クリックすると拡大クリックすると拡大右の3枚の写真は1998年に買った2っの笠間焼と1999年ごろに買った益子焼の茶碗ですが、最近、割ってしまいました。ちょっと残念ですが、使うことを前提に買っているので仕方クリックすると拡大がないことなのです。
下の写真の上段の左が砥部焼で、真中が割った茶碗と一緒に買った笠間焼です。上段の右の茶碗と下段の右の茶碗が益子焼です。下段の左が今回買った立杭焼の茶碗です。大事に使わさせていただきます。
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立杭の場所を紹介いたします。兵庫県篠山市今田町上立杭および兵庫県篠山市今田町下立杭が立杭集落です。赤色ラインが相野駅~立杭のバス路線で、緑色ラインが宝塚~相野のJR福知山線です。

より大きな地図で 立杭集落 を表示

天空の白鷺 姫路城 [兵庫県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2013年9月13日に兵庫県姫路市にある世界遺産の姫路城に行ってきました。
クリックすると拡大ただし、今は上の写真のような天守閣を見ることが出来ません。
2009年から45年ぶりの改修工事に入って天守閣が右の写真のように改修工事用の仮設建物(素屋根)で、すっぽりと覆われてしまったからです。
上の写真は2007年5月11日に撮ったものです。2006年からは姫路城には3回来ており今回が4回目でした。それ以前は中学校時代に、さかのぼります。私の人生では5回目になります。
全国で、1940年時点において江戸時代の天守閣は20ほど存在していましたが、その後の焼失などで現在の現存天守は12天守です。それにしても姫路城の国宝8棟・重要文化財74棟は群を抜いています。
 現存12天守
   天守建造 城名          文化財
   1601年 姫路城  国宝8棟 重要文化財74棟 特別史跡 世界遺産
   1606年 彦根城  国宝2棟  重要文化財 5棟 特別史跡 
   1615年 松本城  国宝5棟          史跡
   1601年 犬山城  国宝1棟
   1852年 松山城       重要文化財21棟 史跡
   1747年 高知城       重要文化財15棟 史跡
   1810年 弘前城       重要文化財 9棟
   1681年 備中松山城     重要文化財 3棟 史跡
   1660年 丸亀城       重要文化財 3棟 史跡
   1607年 松江城       重要文化財 1棟 史跡
   1666年 宇和島城      重要文化財 1棟 史跡
    不明  丸岡城       重要文化財 1棟
 焼失 8天守(1940年以降)
   戦争 : 水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城
        広島城は原爆により、他は空襲により、すべて1945年に焼失
   失火 : 松前城(1949年)

太平洋戦争で日本中の多くの天守閣が失われましたが、姫路城も紙一重で焼失を免れた幸運の城でもありました。特に大天守に直撃した焼夷弾が不発だったことは奇跡に近い幸運だったのかもしれません。枠内にWikipediaの内容を転記しました。枠内の写真は天守閣を隠すため擬装網がかけられた姫路城です。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。
クリックすると拡大しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。
当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。

今回、姫路城に見学に来た目的は素屋根(仮設建物)の最上階から同じ高さで天守閣の最上階の屋根を見ることでした。
その仮設建物の素屋根は2014年1月中旬から解体に入ることから、仮設建物(素屋根)内部から天守閣を見ることが出来るのは2014年1月15日で終わってしまうため、最後のチャンスと思い、兵庫県宝塚の実家に帰省していた機会に見に行きました。逆瀬川駅から阪急電車に乗り三ノ宮でJRの新快速に乗り換えて姫路を目指しました。
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姫路駅から正面に姫路城を見ることが出来ます。やはり天守閣はすっぽりと素屋根に覆われていました。
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姫路駅と姫路城の中間地点から見た景色です。素屋根には姫路城の実物大の絵が描かれていました。
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町の中にも昔の城壁跡が残されていました。現在の姫路城の敷地は結構広いのですが、昔はそれの数倍の広さがあったのでした。こちらが大通りから東側です。
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こちらが大通りの西側の城壁跡です。


この石碑に特別史跡・姫路城跡と書かれています。石碑の左面に1956年11月26年に特別史跡に指定されたことが書かれていました。


姫路城前まで来ました。
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桜門橋を渡ると姫路城の敷地に入ります。
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桜門橋前の堀です。敷地はこの水堀で囲まれていました。
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大手門です。江戸時代には桜門と桐二門と桐一門の3つの門で構成されており、石垣を組み合わせた二重枡形虎口となっていて、通り抜けるには180度の方向転換を強いられる構造になっていました。しかし、城としての役目を終えた後、それらは取り壊され、桜門の前の橋も無くなり濠は埋められました。今ある大手門は桐ニ門があった場所に1938年に再建され物です。現在の大手門を桜門と呼ぶこともあるようです。
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大手門脇の石垣の上からの桜門橋の方向の景色です。
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反対方向から見た桜門橋です。
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城の城壁から見た水堀です。
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横から見た大手門です。
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大手門をくぐると三の丸広場が広がります。目の前に天守閣を覆う素屋根が大きく見えてきました。右側に伸びる工事用の鉄骨橋が印象的でした。
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Google航空写真で姫路城を紹介します。2013年9月30日時点では天守閣を覆う素屋根が航空写真に入っています。

ここで仮設建物(素屋根)に覆われる以前の天守閣の写真を紹介します。
2006年と2007年に突然に3回も行く機会を得ました。中学校の遠足以来でした。4月の桜の季節と5月の新緑の季節と12月のクリスマスイブの日です。この写真は冒頭の写真ですが5月の新緑の季節の遠くから見た姫路城です。
姫路城 は内曲輪(うちくるわ)以内の面積は230,000m2で外曲輪(そとくるわ)以内の面積は2,330,000m2です。内曲輪の面積だけで甲子園球場のグラウンド(14,700m2)の約15.9倍になるそうです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載します。クリックするとさらに拡大します。
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こちらは4月の満開の桜の季節に行った時の写真です。これはラッキーでした。
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっているそうです。
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横(西方向)からの天守閣の姿です。細っそりしています。
天守閣の高さは姫山(標高45.6m)+石垣が14.85m+建物が31.5mで合計海抜92mになります。
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横(東方向)からの天守閣の姿です。こちら方向は、一般的には、あまり人が来ない場所なので珍しい景観かもしれません。でも、こちら側からの景観も高さがあり、すばらしいです。
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姫路城の天守台は大天守閣と3つ小天守で構成されており、その華麗な姿が特徴です。
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お城の地図を見ると迷路のようになっていることがよく判ります。天守閣が見えてもなかなかたどり着かないことは実際に歩いてみるとわかります。ここから下の写真は要塞の要の門を中心に写真を掲載いたします。


正面は壮大な姿です。木造建築では美しさも兼ね備えた日本建築最大級のものと言えると思います。
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こちらが大天守閣を覆う素屋根の図です。上の写真の右側(東側)から見た図面になっています。見学スペースが最上階の8階と7階と1階に設けられておりエレベーターで上がることが出来ます。緑の部分が見学者が入れるエリアです。天守閣自体は木造の昔のままで急な階段で足の不自由な方や車椅子の方は登ることは出来ませんが、この素屋根がある時期だけは同じ高さに登ることが出来るのです。車椅子で入りたい方は、特別なルートがあると思うので問い合わせをしてみてください。
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素屋根「天空の白鷺」に入館するには事前予約の方法と当日に入る方法があります。私は予約のことは知らなかったので当日で入りました。両方ともに料金は同じたと思います。平日では特に予約の必要はないと思います。当日の場合は先ず姫路城の入口で400円を支払、素屋根建物(天空の白鷺)の入口で自動販売機で200円を支払います。予約の人は一括で600円を支払うのだと思います。
  大人 400円(姫路城)+200円(天空の白鷺)
  小人 200円(姫路城)+100円(天空の白鷺)


工事予定表です。一番下の欄に「素屋根内見学可 (H26 1/15まで)」と書かれている通り2014年1月15日で見学終了となります。クリックすると拡大するので見やすくなると思います。2011年3月26日(開館)から2014年1月15日(閉館)までの天空の白鷺(素屋根)への入場者数は次の通りでした。
     2011年3月26日~2011年3月31日   12,057人
     2011年4月01日~2012年3月31日  549,732人
     2012年4月01日~2013年3月31日  622,286人
     2013年4月01日~2014年1月15日  659,331人
                         合 計 1,843,406人
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入場口を過ぎると「葵の門」が目に飛び込んできます。
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こちらは「葵の門」の前から天守閣を見た景色です。
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「菱の門」は美しい大きな門でした。この門をくぐるとすぐに右手に天守が見えます。攻め込んできた敵はすぐに天守に向かって突き進もうとしますが、道は三国濠とよばれる水だまりで狭められ、攻め込んできた兵は流れを悪くさせられます。さらにその奥にある「るの門」は「菱の門」からは見えない角度の石垣に作られた小さな門で、一度に多数の人が通ることが出来ず、束ねられた敵兵を待ちかまえて撃ち取りやすくするという巧妙な戦術がそこには隠されているそうです。この写真は2007年に撮ったものです。


正面から見た「葵の門」です。
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まっすぐに天守閣を目指しました。途中にお菊の井戸がありました。
お菊という女性の亡霊が「いちま~い、にま~い」と皿を数える、1741年に大坂豊竹座で初演された浄瑠璃の怪談話『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」で、姫路城の沢山の伝説の中の一つです。
詳しくは説明文が建てられているので読んでみてください。
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現在は車椅子の方の仮設のスロープが設けられていました。車椅子の方1名と付き添いの方2名がスロープを登られているところです。
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スロープは素屋根「天空の白鷺」までつづきます。まさに今が車椅子の方が姫路城に行けるチャンスなのです。
 ホームページの車椅子利用→ポチッ


工事用の搬入鉄骨の下をくぐります。


素屋根「天空の白鷺」の入口に入場券の自動販売機があり200円の入館券を買いました。


入口を入った一階のホールです。フラッシュなしの写真撮影はOKでした。工事の方に配慮して「フラッシュ撮影」「動画撮影」「描写行為」は禁止されています。あとタバコは禁煙でペットの入館と飲食も禁止されています。
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エレベーターで最上階まで登れます。


この写真のようにエレベーターからは修復中の1階から8階まで連続で天守閣を見ることが出来るのです。


エレベーターの中から1階から8階までの8枚の景色を下から順番に紹介いたします。最上階に着いたとたんに上からの光で明るくなります。





最上階は大きな部屋になっていました。置かれているのは予備あるいは取り外された昭和のシャチホコです。このシャチホコの裏が内部を見る大きな窓になっています。おそらく反射を防ぐために見る位置を暗くする配慮だと思います。
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大きな窓から修復中の天守閣を見ることが出来ました。
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姫路城の修復の様子をビデオで見ることも出来ました。
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この景色を見たかったのです。姫路城の天守閣の屋根を水平目線で見ることが出来ることが出来るのは修復中の今だけなのです。
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大天守閣をすっぽりと覆う素屋根の大きさに圧倒されました。
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次の改修工事はいつになる判りませんが、今回は徹底した改修であり、簡単には出来ない工事であることから現在生きている人にとって、2013年が見ることのできる最後のチャンスなのかもしれません。
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避雷工事が徹底されていることが判りました。
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瓦の端には紋が掘られており2種類が交互に配置されていました。
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これが平成の鯱瓦(しゃちがわら / しゃしほこがわら)です。すでに天守閣の上に乗っていました。クリックすると鯱瓦の避雷設備も徹底していることが判ってもらえると思います。
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クリックすると拡大こちらが江戸時代からの四代のシヤシホコです。今回(平成)の鯱瓦は昭和のものとそっくりです。昭和の鯱瓦はの高さは6尺1寸5分(約186cm)で総重量は約278kgです。おそらく今回(平成)の鯱瓦も近いと思います。鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。それを模して屋根に使われる装飾・役瓦のことで、一字で鯱(しゃちほこ)あるいは鯱鉾とも書かれます。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されているそうです。
右の看板は最上階に飾ってあった昭和の鯱瓦の横にあったものです。写真は4枚共にクリックすると拡大します。
    江戸時代                     明治時代
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    昭和時代                     平成時代
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最上階の景色です。これだけ広けた景色も今だけのものです。
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最上階(8階)から7階に降りる階段です。車椅子の方はエレベーターが利用できます。


こちらが7階から見た天守閣です。
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上の方を見た写真です。大きな一枚のガラスになっており全体を撮ることは出来ませんでした。
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ガラスに照明の光が反射しないように斜めに撮っています。
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7階からの景色です。ガラス窓も広いことからすばらしい景色でした。これは西方向です。
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こちらは北東方向の景色です。お城が広がっていました。
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こちらは南方向の景色です。正面が姫路駅です。
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7階の部屋です。こちらが7階の西方向です。広さが実感してもらえると思います。


こちらが7階の東方向です。エレベーターの降り口が奥にあります。


江戸時代の姫路城の図面です。左側は最近発見された1682年~1704年の間の詳細な図面です。現在と同じ範囲の図面です。右は城全体の図面で姫路城が現在の市街地まで広がった広大な城であったことが示されています。いずれの図面も北を上方向に回転させて掲載しているので展示(東が上 と 西が上)とは方向が違っています。
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7階からエレベーターで1階に降りてきました。石垣を見ることが出来ます。これは素屋根がなくなっても見ることが出来る場所です。ガラス越しに見れるのも今だけです。


1階の展示室です。


ここが天守閣に上がる入口でした。今は上がることが出来ません。
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今は入ることは出来ませんが天守閣の内部を2007年に撮った写真で紹介します。
姫路城のすごいところは昔のままの木で出来ているところです。日本でも鉄筋コンクリートのお城が多い中でこれだけの大きさの木造建築はすばらしいです。


天守閣の中です。中は結構広いことが判りました。


天守閣の一番上には神社が祭られていました。刑部神社と呼ばれています。


大天守閣は今は見ることは出来ませんが、大天守閣の西側には3つの小天守を見ることが出来ます。
その中で一番大きいのが乾小天守で天守台の西北隅(乾の方角)に位置して、外観3層・内部は地下1階・地上4階の造りになっています。
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見上げると小天守と言えども大きいことが判ります。
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防御のための工夫がされていました。
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ここから天守閣以外を紹介いたします。
姫路城は華麗な姿である一方で、堅固な要塞としても必見の価値があります。要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。この門は「水三門」で天守閣の北西側の門です。
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2007年に撮った「水三門」の写真も紹介します。西小天守の下に位置する小さな門です。この先、天守閣への順路には水四門、水五門、水六門と続きます。


「水三門」から順番に紹介します。「水三門」の外側に位置するのが「水二門」で、これは「水二門」です。沢山の通路と門が入れ組んで迷路のようになっているため城内の地図がないと攻め込んでも迷ったと思います。
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反対側から見た「水二門」です。
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水二門の外側にあるのが水一門です。これが水一門の内側です。
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左側の門が「水一門」の外側です。いろんな方向に通路や門がありました。土色の壁は油壁です。山土に豆砂利を加え、もち米のとぎ汁とかお粥などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので秀吉築城の名残の壁と言われています。油壁の右側を降りたところが「ほの門」です。
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「ほの門」を降りる前に「口ノ渡櫓」と呼ばれる場所があり、その建物の中には井戸などがありました。
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油壁の右側を降りたところの「ほの門」です。


外側から見た「ほの門」です。天守閣のすぐ近くなのに、この奥に沢山の門があり入り組んだ構造になっていることが判ってもらえると思います。
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「ほの門」の外側にあるのが「にの門」です。門には見えませんが、こちらが「にの門」です。
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建物の下が天上の低いトンネル状の通路になっているのです。建物の中でトンネルはでL字に曲がっているのです。


門の扉があります。狭い通路になって攻めるのを難しくしています。


その狭い通路です。
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狭い通路側から見た「にの門」です。「にの門」の外側にある「はの門」をくぐり、さらにまっすぐ天守の方へ延びる坂を上ると、今度は急に180度反対の方向へと進まされ、天守から徐々に遠ざかることになります。そして迷路のような道の先にある「にの門」は薄暗い空間で、敵兵が入ってくると二階から槍や鉄砲で攻撃される仕組みになっているそうです。


「にの門」の外側にあるのが「はの門」です。これが「はの門」です。
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奥に見えるのは「はの門」です。「はの門」へは天守にまっすぐ延びるような坂を上っていきます。この坂を上りそのまま駆け上がろうとする敵兵を、進入させにくくするために、「はの門」をくぐってすぐ前にある石段はわざと角をとり足を滑らせやすくしているそうです。
右に見える鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は997だそうです。
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2007年に撮った、ほぼ同じ場所からの写真です。やはり細い通路で敵を防ぐ構造だったのと思われます。「はの門」の門の外側にあるのが「ろの門」でその外側にあるのが「いの門」でその外側が「葵の門です。つまり今回、降りてきたルートを攻める場合は桜門→桐二門→桐一門→葵の門→いの門→ろの門→はの門→にの門→ほの門→水一門→水二門→水二門→水三門→水四門→水五門→水六門と通っていくことになります。


「葵の門」からは別のルートでも天守閣につながっています。別の門も紹介します。三層の門なので「ぬの門」だと思います。この門は重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。


これは「への門」だとおもわれます。東小天守の下に位置する小さな門です。姫路城の門を分類すると次のようになります。
 棟門(むねもん)   ちの門、、水一門、水ニ門
 櫓門(やぐらもん)  菱の門、はの門、と一門、ぬの門 (ぬの門は二重櫓)
 埋門(うずめもん)  ほの門、水三門、水四門
 穴門(あなもん)   るの門
 高麗門(こうらいもん)いの門、ろの門、への門、とニ門、と四門、りの門 
(への門は潜戸付、他5門は脇門付)


白い土塀に囲まれたところが徳川家康の孫娘である千姫が住んでいた西の丸です。天守閣の内部には入れませんが、実は姫路城で屋内が見学できる場所があります。
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それは西の丸の周囲の回廊です。「ワの櫓」から入り。ワの櫓→渡櫓→ヲの櫓→ルの櫓→西の丸長局(百閒廊下)→ヌの櫓→化粧櫓と見ることが出来ます。
くりっくすると拡大姫路城と言えば千姫(1597-1666)です。千姫が住んだのが西の丸です。西の丸の中央に建っていた住居部分は残っていませんが、化粧櫓や長局(百間廊下)、土塀等13棟の重要文化財が現存しており、そのあたりも散策の場としていたのではないでしょうか。
千姫といえば、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の長女です。千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁ぎました。しかし、徳川方と豊臣方は激しく対立しました。その結果、秀頼は大坂夏の陣で自害し、千姫は夫に死別するという運命をたどったのです。そのあと千姫は、姫路城主の本多忠政の長男である本多忠刻に嫁ぐことになります。その際、将軍家から10万石の化粧料をもらったそうです。
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西の丸の南側の回廊も修復工事中でした。
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城壁も美しいです。コーナーにあるのは「ワの櫓」です。
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修復工事前の2007年の西の丸の城壁の写真も紹介します。コーナーにあるのが「ワの櫓」です。


渡櫓のあたりからの内側の景色です。長い回廊が続いているのが判ります。
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この渡櫓の廊下からは城の内側と外側を見ることが出来ました。


こちらの廊下は内側には部屋が並んでいました。左側の部屋は、ここでは大きな部屋の方でした。


沢山の侍女たちが暮らした長局で、百間廊下の呼び名がついているだけのことはありました。


回廊の内側には、このような部屋が無数にありました。このような部屋に侍女たちが暮らしていたのだと思います。


一番端の化粧櫓には大きな部屋がありました。
化粧櫓とは現代風に言えば美容院なのでしょうか?
上で紹介した沢山の部屋には侍女たちが住んでいたと思われるので美容院のような場所が必要だったのかもしれません。これは勝手な想像です。
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百人一首を楽しんでいる姿も再現されていました。ここは「化粧櫓」の中です。徳川家康の孫の千姫が本多忠刻に嫁ぎ、姫路城にやってきたとき、当時幕府の方針で城の改築は禁止されていましたが、将軍の孫娘とあって特例として千姫の化粧櫓が建てられたそうです。
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2007年の時は貝あわせを楽しんでいる姿が再現されていました。この時は「化粧櫓」の中には入れませんでしたが、今は入ることが出来ます。赤い着物姿の女性は千姫をモデルにしているようです。
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「化粧櫓」の中からの景色です。昔も、このような景色が見えていたのだと思うとロマンを感じます。
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千姫が遊んだ羽子板も展示されていました。


クリックすると拡大右の写真の「ぬの門」を登ったところにある「リの一渡櫓」では改修に伴い姫路城の瓦などの展示も行われていました。上で紹介した江戸と明治と昭和の3つの鯱瓦も、こちらの「リの一渡櫓」で展示されていました。
「リの一渡櫓」は「お菊井戸」の近くでもあります。


ここは「リの一渡櫓」の展示室の内部です。葵の御紋の瓦です。


これは昔の道具です。


皆さん熱心に見られていました。


沢山の甲冑類の展示もありました。天守閣内に展示されていたものも入っていると思います。
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全体のイメージを感じていただくためにWikimediaから拝借した明治初期の姫路城の鳥瞰図を紹介いたします。日本の天守閣は下記のように分類されています。現存天守と復元天守以外は数が多く調べ切れていない可能性があるため天守数に関しては参考程度とお考えください。すばらしいことに、名古屋城は木造復元天守にするためにSRC造の天守の解体工事が始まりました。木造復元天守の完成は2022年12月だそうです。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 岸和田城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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天守閣のある城は上で紹介しましたが、それ以外に日本には沢山の城があります。下記リストはWikimediaで調べた日本の城です。これで全てではありません。小さな城はさらに沢山あると思います。着色された文字は今までに、その城に関連した内容の記事を書いた城です。着色文字をクリックすると記事を表示します。

北海道
松前城 五稜郭 四稜郭 志苔館 弁天台場 シベチャリチャシアイヌ民族の古城 モシリヤチャシアイヌ民族の古城 根室半島チャシ跡群アイヌ民族の古城

青森県
蠣崎城 田名部城 奥瀬館 七戸城(柏葉城) 野辺地城(金鶏城) 横浜館 櫛引城 新井田城 根城 八戸城 相内館 上名久井城 剣吉城 平良ヶ崎城 三戸城(留ヶ崎城・糠部城) 田子館 聖寿寺館(本三戸城) 浅水城 中市館 法師岡館 伝法寺館 沢田館 蓬田城 高畑城 油川城 尻八館 高田城 浅瀬石城(汗石城) 横内城 黒石城 田舎館城 大光寺城 浪岡城 藤崎城 福島城 唐川城 青柳館 石川城(大仏ヶ鼻城) 弘前城 小栗山館 堀越城 和徳城 大浦城(八幡城・賀田城) 種里城 元城(深浦館)

岩手県 
軽米城 小軽米城 種市城 野田城 久慈城 石峠館 千徳城 田鎖城 払川館 大槌城 鱒沢館 鍋倉城(遠野城) 火渡館 横田城 金田一城(四戸城) 九戸城 姉帯城 一戸城 浄法寺城 一方井城 葛巻城 雫石城(滴石城) 平館城 盛岡城(不来方城) 志波城(斯波城) 厨川柵(古代城柵) 乙部館 郡山城(高水寺城、志和館(城)) 徳丹城(古代城柵) 長岡城 樋爪館 見前館(見舞館) 大迫城 寺林城 新堀城 岩崎城 江釣子城 鹿島館(鬼柳城) 黒沢尻柵(古代城柵) 二子城 十二丁目城 花巻城(鳥谷ヶ崎城) 十八ヶ城(本館 (陸奥国)) 世田米城 片寄城 鳥海柵 嫗戸柵 岩谷堂城 人首城 胆沢城 水沢城 岩谷堂城 金ヶ崎城 衣川館 上口内城 前沢城 薄衣城 豊田館 一関城 白鳥舘 平泉館 接待館 伽羅御所

宮城県
仙台城(青葉城) 白石城(益岡城) 岩出山城(岩手沢城) 若林城 船岡城 松森城 涌谷城 笹森城 松山城(千石城) 川崎城 不動堂城(鶴頭城) 吉岡城 丸森城(丸山城) 鶴楯城(下草城) 中新田城 東光寺城 利府城 岩切城 角田城 多賀城 寺池城(登米要害) 金山城 北目城 根添城(根添館) 高清水城 佐沼城 岩沼城(鵜ヶ崎城) 平沢城 小堤城 亘理城 坂元城(蓑首城) 宮沢城 今泉城 名生城 大窪城 古川城

秋田県
久保田城 秋田城(古代城柵) 払田柵(古代城柵) 大館城 岩崎城 角館城 本堂城 本荘城 亀田城 横手城(韮城) 金沢柵 大鳥井山遺跡 吉田城 稲庭城 十狐城 湊城 紫島城 檜山城 脇本城 毛馬内城 花輪城

山形県
山形城(霞城) 朝日山城 左沢城 大山城 亀ヶ崎城(東禅寺城) 城輪柵(城輪柵跡) 寒河江城 小国城 鮭延城 清水城 白鳥城 新庄城(沼田城、鵜沼城) 高畑城 楯岡城 舘山城 鶴ヶ岡城(大宝寺城) 上山城(月岡城) 天童城(舞鶴城) 中山城 成生城 成沢城(鳴沢城) 長谷堂城 畑谷城 東根城 真木山城 松山城(松嶺城) 丸岡城 溝延城 谷地城 山野辺城 米沢城 出羽柵

福島県
若松城(鶴ヶ城) 白河小峰城 神指城 磐城平城(龍ヶ城) 小高城 谷地小屋城(蓑首城、新地要害) 駒ヶ嶺城 中村城(馬陵城) 高倉城 大館城(飯野平城) 長沼城 三春城(舞鶴城) 須賀川城 棚倉城 福島城 宇津峯城 猪苗代城 桧原城 八丁目城 石母田城 新宮城 二本松城(霞ヶ城) 鎌田城 水久保城 三芦城 小浜城 小手森城 桑折西山城 梁川城 大森城 大鳥城 霊山城 懸田城 陣ヶ峯城 北田城 鴫山城(南山城) 久川城 搦目城(白川城) 守山城 中丸城 柏木城 宮森城

茨城県
水戸城 伊佐城 牛久城 太田城 小田城 笠間城 久下田城 栗橋城 古河公方館(鴻巣御所) 古河城 頃藤城 多気城 土浦城 豊田城 助川海防城 逆井城 馬坂城 高井城 下館城 上条城 木原城 月居城 東林寺城 野口城 真壁城 松岡城 結城城 依上城 今泉城 守谷城 馴馬城 龍ケ崎城

栃木県
宇都宮城 飛山城 多気山城 真岡城 岡本城 西明寺城 茂木城 籠谷城 八木岡城 生田目城 中村城 古山城 勝山城 鹿沼城 壬生城 小山城 鷲城 中久喜城 羽生田城 唐沢山城 佐野城 足利城 足利氏館 皆川城 川崎城 矢板城 玉生城 松ヶ嶺城 山田城 伊佐野城 喜連川城 烏山城(臥牛城) 大田原城 黒羽城 千本城 福原城 成田城 山根城

群馬県
高崎城 館林城(尾曳城) 岩櫃城 大胡城 小泉城 白井城 膳城 反町館 高津戸城 倉賀野城 根小屋城 国峰城 新田金山城 名胡桃城 沼田城 柄杓山城(桐生城) 平井城 前橋城(厩橋城) 松井田城 箕輪城 安中城 中野城 山名城

埼玉県
川越城 青鳥城 岩槻城 小倉城 柏原城 河越館 雉岡城 児玉城 菖蒲城 杉山城 高見城 天神山城 難波田城(南畑城) 花園城 本庄城 松山陣屋 毛呂城(山根城) 蕨城 深谷城 鉢形城 吾那蜆城(大築城) 大堀山城 忍城 騎西城(根古屋城) 北秋津城 寿能城 菅谷館(城) 高坂館 滝の城 仲山城 根古屋城(龍谷城) 花崎城 羽生城 松山城 源範頼館 石戸城 山口城(児泉城)

千葉県
館山城 山下城 高月城 三原城 金山城 岡本城
勝浦城 金山城 山田城 鶴ヶ城 大多喜城 根古屋城 佐貫城 造海城(百首城) 百首城(造海城) 飯野陣屋 大戸城 久留里城 千本城 真里谷城 久保田城 大網城 小西城 坂田城 田中城 古城 高田城 宮崎城 山中城 坂田城 津辺城 富田城 成東城 松尾城 森城 今泉城 千田城 根古屋城 丸山城 榎本城 高山城 一宮城 小林城 本納城 牛久城 高田城 根古屋城 引田城 村上城 佐倉城 本佐倉城 大椎城 小弓城 亥鼻城 土気城 馬加城 生実城 高品城 大草城 御茶屋御殿 金堀城 中野城 中山城 鷺沼城 実籾城 米本城 臼井城 小林城 飯野城 高岡城 長沼城 鷺山城 中野城 大崎城 大戸城 山崎城 白井城 長岡城 山崎城 牛尾城 今泉城 和田城 内山城 長岡城 横須賀城 吉田城 高根城 金杉城 米ケ崎城 夏見城 大野城 国府台城 国分城 深井城 関宿城 増尾城 松戸城 栗ケ沢城 根木内城 小金城 佐津間城 小竹城 井野城 下高野館 先崎城

東京都
江戸城(皇居) 赤塚城 奥沢城 小田野城 葛西城 片倉城 勝沼城 辛垣城 品川台場 渋谷城(金王丸城) 志村城(板橋城、篠田城) 八王子城 石神井城 浄福寺城 深大寺城 世田谷城 高月城 滝山城 戸倉城 練馬城 初沢城 平塚城 小野路城 成瀬城

神奈川県
小田原城 足柄城 進士ヶ城 鷹之巣城 岡崎城 住吉城 玉縄城 浦賀城 三崎城 津久井城 石垣山城 石垣山一夜城) 大庭城 河村城 衣笠城 深見城 淵野辺城 荻野山中陣屋
小机城 笹下城 榎下城 茅ヶ崎城 大塚・歳勝土遺跡 枡形城 小沢城

新潟県
春日山城 北条城 高田城 長岡城 勝山城(落水城) 渟足柵 沼垂城 磐舟柵 村上城(本庄城・舞鶴城) 鳥坂城 栖吉城 栃尾城(舞鶴城) 蔵王堂城 新潟城 木場城 蒲原津城 上杉館 根知城 猿毛城 下田城 畑野城(熊谷城) 上条城 新発田城 村松城 三条城 津川城(麒麟山城) 赤谷城 五十公野城 河原田城(獅子ヶ城) 箕冠城 本与板城 与板城(直江城、直江山城) 与板城(与板陣屋) 赤田城 新津城 田中城 鮫ヶ尾城 坂戸城 平林城 福島城 雁金城 安田城 (越後国刈羽郡) 安田城 (越後国蒲原郡) 天神山城 長峰城
羽茂城

富山県
富山城 阿尾城 安楽寺城 安田城 安養寺城 井口城 井波城 一乗寺城 猿倉城 鴨城 岩木城 願海寺城 宮崎城 弓庄城 魚津城 源氏ヶ峰城 古国府城 御峰城(土山御坊) 今石動城 今泉城 寺家新屋敷館 柴田屋館 守山城 宗守館 小出城 庄ノ城(壇城) 松倉城 上見城 城生城 高岡城 城端城 赤丸城 千代ヶ様城 浅井城 増山城 太田本郷城 大村城 大峪城 池田城 (越中国射水郡) 池田城 (越中国新川郡) 中村山城 長沢西城 長沢東城 天神山城 湯山城(森寺城) 道坪野城 日宮城(火宮城) 日方江城 白鳥城 飯久保城 富崎城 布市城 福光城 放生津城 名畑城 木舟城 野尻城 蓮沼城

石川県
金沢城(尾山御坊) 小松城 大聖寺城 松任城 鳥越城 二曲城 津幡城 高尾城 松根城 朝日山城 岩倉城 荒山城 日谷城 今江城 虚空蔵城 南郷城 檜谷城 柏野城 高松城 森城 多田城 舟岡城 竹橋城 朝日山城 堅田城 一瀬城 七尾城 小丸山城 末森城 穴水城 天堂城 崎山城 (能登国) 末吉城 松波城 正院川尻城 飯田城 甲山城 幾保比城 石動山城 棚木城 荒屋城 棚懸城 勝山城 荒山城 金丸城 柴峠砦 石動山城 三日城 新宮城 富来城 木尾嶽城

福井県
一乗谷城 福井城(北ノ庄城) 金ヶ崎城 敦賀城 丸岡城 杣山城 小丸城 大野城 勝山城 三国湊城
後瀬山城 小浜城 国吉城 高浜城 箱ヶ岳城

山梨県
躑躅ヶ崎館(武田氏館) 甲府城(舞鶴城・一条小山城・府中城) 新府城 白山城 能見城 勝沼氏館 谷村城(谷村館) 上野原城 岩殿山城 小山城 勝山城 (甲斐国都留郡) 勝山城 (甲斐国八代郡) 要害山城 積翠寺城) 若神子城 谷戸城 御坂城

長野県
松本城(深志城) 上田城 小諸城 林城 井川館(井川城) 桐原城 山家城 埴原城 村井城(小屋城) 平瀬城 小岩嶽城 青柳城 大峰城 麻績城 真田本城(松尾城) 塩田城 岡城 丸子城 長窪城 内山城 志賀城 海ノ口城 春日城 (信濃国伊那郡) 龍岡城 戸石城(砥石城) 尼巌城 井上城 葛山城 旭山城 横田城 横山城 栗田城 生仁城 霞城 室賀城(原畑城、笹洞城) 松代城(海津城) 高遠城 塩崎城 清滝城 髻山城 長沼城 吉窪城 葛尾城 屋代城 荒砥城 牧之島城 古山城 割ヶ嶽城 飯山城 高梨氏館 鴨ヶ嶽城 内池館(市河氏館) 上原城 桑原城(高戸屋城) 高島城 望月城 春日城 (信濃国佐久郡) 春山城 羽場城 福与城 箕輪城 飯田城 鈴岡城 松尾城 (信濃国伊那郡) 大島城 道本城 福島城(木曽福島城) 妻籠城 森城 矢筒城

岐阜県
岐阜城 (稲葉山城) 郡上八幡城 阿木城 伊木山城 一柳城(大洞城) 鵜沼城 猿啄城(猿ばみ城、勝山城) 下切館 加治田城 加納城 革手城 刈安城 関城 岩村城 顔戸城 久々城 久々利城 金山城 戸狩城 広恵寺城 高桑城 黒野城 今城 根本城 (美濃国) 妻木城 細野城 鷺山城 三井城 山口城 篠脇城 十七条城 小原城 小倉山城 小野城(迫間城) 小里城 松尾山城 大垣城 上茜部城 跡部城 川手城 川田城 曽根城 太平城 大桑城 大森城 竹ヶ鼻城 長山城 長森城(切通陣屋) 椎倉城 鶴ヶ城 東殿山城 藤橋城(杉原砦) 堂洞城 八神城 飯羽間城 苗木城 伏屋城 米田城 片山城 菩提山城 北方城 墨俣城 本郷城 本城山城 無動寺城 明知城(明智城) 明智城 (美濃国可児郡) 毛利山城 柳津城 揖斐城 和知城 鉈尾山城
帰雲城 向小島城 広瀬城 江間氏下館 高原諏訪城 高山城 桜洞城 山下城 小鷹利城 小島城 松倉城 神岡城 増島城 東町城 萩原諏訪城 萩町城 尾崎城 馬籠城 松倉城 田代城

静岡県
駿府城 江尻城 興国寺城 葛山城 深沢城 花沢城 大宮城(富士城) 久能城(久能山城) 興津城(横山城) 蒲原城 沼津城 三枚橋城 持船城 丸子城 田中城 長久保城
韮山城(龍城) 山中城 深根城 高谷城 鎌田城 下田城(鵜島城) 長浜城 熱海城 戸倉城
掛川城 浜松城 高天神城 二俣城 天方城 犬居城 高根城 (遠江国) 諏訪原城 井伊谷城 宇津山城 堀江城 久野城 馬伏塚城 横須賀城 横地城 小山城 相良城

愛知県
清洲城(清須城) 名古屋城 那古野城 勝幡城 古渡城 末森城 守山城 岩倉城 小牧山城 犬山城 黒田城 入尾城 岩崎城 鳴海城 沓掛城 上条城 小折城 大高城 緒川城 大草城(知多市) 大草城(小牧市) 大野城(常滑市) 大野城(現一宮市) 大野城(愛西市) 一宮城 小田井城 楽田城 下大留城 下奈良城 下之一色城 白山城 早尾東城 吉田城(柏井城) 西溝口城 光明寺城 今村城 (尾張国) 横山城 (尾張国) 大留城 苅安賀城 木ノ下城 高田城(河田城) 九之坪城 奥城 竜泉寺城
岡崎城 安祥城 刈谷城(亀城) 西尾城(西条城) 東条城 上ノ郷城 寺部城(寺部陣屋) 真弓山城(足助城) 山中城 牛久保城 二連木城 牧野城 吉田城(今橋城、豊橋城) 田原城 長篠城 野田城 田峰城 井田城 大給城 大津城 亀山城(作手城) 挙母城(七州城) 中島城 形原城 上条城 (三河国) 上菱野城 川口城 月ヶ谷城 五本松城 古宮城 深溝城

三重県
長島城 亀山城 上野城(伊勢上野城) 長野城(中根城) 桑名城 田丸城(玉丸城) 津城(安濃津城) 神戸城 松ヶ島城 松坂城 大河内城 霧山城 多芸城 五ヶ所城 白米城 高城 枳城 家城城 鳥羽城 波切城 上野城(伊賀上野城・白鳳城) 名張城 丸山城 (伊賀国) 福地氏城 千賀地氏城 赤木城 中村山城 (紀伊国) 鬼ヶ城 仲氏館 関山砦 山ノ神砦 三木城 (紀伊国) 長島城 (紀伊国)

滋賀県
彦根城 安土城 大津城 小谷城 坂本城 佐和山城 膳所城 長浜城 水口城(碧水城) 水口岡山城(水口古城) 横山城 望月城 鎌刃城 上平寺城 東野山城 山本山城 水茎岡山城 観音寺城 山崎山城 八幡山城 壺笠山城 宇佐山城 日野城 箕作城 清水山城 大溝城 三雲城 朽木谷城 荒神山城 河瀬城 肥田城 鯰江城 高宮城 寺村城 矢守城

京都府
二条城(二条御所) 勝竜寺城 聚楽城(聚楽第) 山科本願寺 伏見城(桃山城) 槇島城 嵐山城 鹿背山城 淀古城 淀城 船岡山城 山崎城 (山城国)(宝寺城、天王山城) 堂ノ庭城 将軍山城(瓜生山城、北白川城) 福知山城 亀山城(丹波国) 八木城 (丹波国) 神尾山城 園部城
建部山城 田辺城(舞鶴城) 宮津城 弓木城

大阪府
大坂城(錦城) 池田城 茨木城 三宅城 芥川山城 芥川城 高槻城 丸山城 (摂津国能勢郡) 野田城 福井城 (摂津国) 安威城 安威砦 榎並城 太田城 (摂津国) 江口城 堀城 柴島城 大塚城(茶臼山陣城) 大和田城 普門寺城 郡山城 (摂津国) 吹田城 原田城 地黄城(地黄陣屋) 石山本願寺 佐保来栖山砦 岸和田城 淡輪城 深井城 畠中城 雨山・土丸城 千石堀城 貝吹山城 積善寺城
若江城 高屋城 飯盛山城 交野城 枚方城 高安城 上赤坂城 下赤坂城 野田城 岡山城 田原城 野崎城 千早城 平石城

兵庫県
姫路城(白鷺城) 三木城(釜山城) 英賀城 明石城 置塩城 淡河城 加古川城 上月城 白旗城 御着城 龍野城 利神城 波賀城 枝吉城 赤穂城 神吉城 光明寺城 小谷城 (播磨国) 感状山城 大嶋城 丸山城 (播磨国) 山崎城 中道子山城 豊地城 善防山城 船上城 満久城 妙見山城
伊丹城(有岡城) 尼崎城 越水城 瓦林城 丸山城 (摂津国有馬郡) 富松城 滝山城 (摂津国) 花隈城 兵庫城 山下城 三田城(車瀬城) 茶臼山城 鷹尾城 上津城 新田城 松岡城 (摂津国) 下田中城 道場城 有子山城 出石城 竹田城 豊岡城 此隅山城 八木城 朝倉城 宵田城 宿南城 八上城 黒井城 篠山城 岩尾城 洲本城 養宜館

奈良県
高取城 多聞山城 柳生城 五条二見城 信貴山城 龍王山城 二上山城 (大和国) 山田城 (大和国) 上庄北城 郡山城 (大和国) 宇陀松山城 筒井城 小泉城 (大和国) 片岡城 辰市城 福住中定城 椿井城 十市城 宿院城 森屋城

鳥取県
鳥取城(久松城) 丸山城 (因幡国高草郡) 丸山城 (因幡国邑美郡) 岩崎城 雁金山城 桐山城 景石城 山崎城 市場城 私部城 鹿野城 蛇山城 若桜鬼ヶ城 新山城 大崎城 天神山城 道竹城 二上山城 布勢天神山城 防己尾城 妙見山城 鵯尾城 宇部山五本松城 雨滝七曲城 奥崎丸尾城 奥谷城 岡崎神社所在古城 河原高座城 梶原城 釜谷城 観音山城 亀後城 狗尸那城 栗谷城 午房山城 向山城 荒神山城 香音寺城 高平城 今衣山城 坂谷城 三津ヶ崎本陣山城 山王社裏山城 山根式田城 山本城 七曲城 秋里城 勝山城 小畑高尾城 小平田蔵谷城 松茸尾城 城山城 杉が尾城 生山城 青谷大平城 赤子田城 善田すけたい城 早牛城 早牛矢島城 大滝谷城 大平田城 猪子山城 鳥ヶ城 釣山城 唐櫃城 藤山城 徳吉城 鍋山城 南中尾城 楠根山根城城 楠城 婆ヶ城城 伏野城 法楽寺城 北村城 北尾山城 鳴滝不動山城 養郷小丸山城 淀山城 露谷城 河原城 米子城(久米城、湊山城) 羽衣石城 岩倉城 尾高城 江尾城 鏡山城 八橋城 堤城 法勝寺城 石井垣城 田内城 打吹城 船上山城 淀江城 小浪城 不動ガ嶽城 河口城 俣野の土居城 手間要害

島根県
月山富田城 松江城(千鳥城) 牛尾城(三笠山城) 布部城 熊野城 白鹿城 大西城(高麻城) 三沢城 三刀屋城 高瀬城 真木城(夕景城、馬木城) 神西城 赤穴城(瀬戸山城、衣掛城) 十神山城 鳶ヶ巣城 平田城(手崎城、薬師寺城) 満願寺城 佐世城(金剛山城) 玉造要害山城(湯ノ城) 檜ヶ山城 荒隈城 新山城 津和野城 七尾城(益田城) 浜田城 三隅城 周布城 本明城(音明城) 福光城 山吹城 温湯城 藤掛城 青杉城 鵜の丸城 三宅御土居

岡山県
岡山城(烏城) 乙子城 奈良部城 砥石城 三石城 富山城 茶臼山城 天神山城 亀山城(沼城) 金川城 虎倉城 飯盛山城 (備前国) 舟山城 明善寺城 中島城 保木城 常山城
矢筈城 大別当城 竹山城 三星城 美和山城 稲荷山城 津山城(鶴山城) 岩屋城 高田城 麓城 勝山城 神楽尾城 嵯峨山城 高野城 荒神山城 備中松山城(高梁城) 高松城 鬼ノ城 鬼身城 幸山城 猿掛城 鶴首城 成羽城(成羽陣屋) 笠岡城 楪城 下津井城 福山城 庭瀬城 撫川城 鴨山城 竜王山城 青佐山城 佐井田城 茨城

広島県
広島城(鯉城) 亀居城 吉川元春館 吉田郡山城 宮尾城 鏡山城 桂城 己斐城 五龍城 御薗宇城 高山城 佐東銀山城(銀山城) 桜尾城 三入高松城 小倉山城 新宮城 新高山城 仁保城 水晶城 曽場ヶ城 草津城 多治比猿掛城 鳥籠山城 槌山城 頭崎城 日野山城 白山城 八木城 米山城 木村城 矢野城(保木城) 福山城(葦陽城・久松城) 稲村山城 茨城 旗返山城 亀山城 九鬼城 五品嶽城 甲山城 桜山城 三原城(浮城) 蔀山城 常城 神辺城 相方城 南天山城 比叡尾山城 比熊山城 鷲尾山城 鞆城

山口県
山口城(山口藩庁) 大内氏館 高嶺城(鴻の峰城) 若山城 徳山城 鞍掛山城 蓮華山城 右田ヶ岳城 岩国城 須々万沼城 萩城(指月城) 勝山城(且山城) 霜降城 櫛崎城(串崎城) 青山城 長門城 矢田城 深川城 青景城 荒滝城 賀年城(賀年勝山城) 亀山城

徳島県
徳島城 一宮城 夷山城 撫養城 土佐泊城 立江城 牛岐城 川島城 上桜城 仁宇城 岩倉城 重清城 秋月城 日和佐城 海部城 勝瑞城 脇城 大西城 白地城 田尾城 西条城 木津城 板西城

香川県
高松城(玉藻城) 丸亀城(亀山城、蓬莱城) 天霧城(雨霧城) 引田城 勝賀城 本台山城 雨滝城 虎丸城 藤尾城 羽床城 笠島城 詫間城 星ヶ城 屋島城 十河城 香西城 昼寝城 作山城 前田城

愛媛県
伊予松山城 今治城 湯築城 高穴城 荏原城 甘崎城 霊仙山城 犬尾城 一之森城 萩森城 高峠城 象ヶ森城 米津城 仏殿城 甲之森城 黒瀬城 龍王城 恵良城 港山城 土居城 国分山城 告森城 吉岡山城 岡本城 金子山城 常磐城 宇和島城 大洲城 横山城 花見山城 縦淵城 忽那山城 能島城 来島城 石城 法華津本城 大森城 岡崎城 高尾城 世田山城 鹿嶋城 三滝城 松前城 河後森城 土山城 大浜城 鷺ノ森城 海辺城 畠山城 松葉城 曽根城

高知県
岡豊城 高知城 浦戸城 安芸城 本山城 朝倉城 吉良城 蓮池城 姫野々城 中村城 久礼城 崎浜城 宿毛城 柏井城 森城 大津城

福岡県
福岡城(舞鶴城) 小倉城 久留米城 名島城 岩屋城 水城 蒲池城 黒崎城 立花山城 蔦ヶ嶽城 香春岳城 岩石城 秋月城 益富城 古処山城 城井谷城 柳瀬城 稲光城 南原城 覗山城 宝山城 蓑島城 旭城 大宰府(大宰府政庁跡) 障子ヶ岳城 長岩城 大野城 柳川城(舞鶴城) 榎津城 酒見城 貫城 門司城 三角山城 寒竹城 山隈城 怡土城(高祖城) 長野城 (豊前国) 発心城 上伊良原城 山下城 大坂山城 小倉山城 繋城 舞岳城 岳山城 白山城 豊前松山城 花尾城 高野山城 八木山城 馬ヶ岳城 若松城

佐賀県
勢福寺城 佐賀城 姉川城 臥牛城 勝尾城 三瀬城 鬼ヶ城 千葉城 梶峰城 蓮池城 名護屋城 唐津城 岸岳城 獅子城 伊万里城 唐船城 佐嘉飯盛城 武雄城 蟻尾城 吉野ヶ里

長崎県
島原城 原城 桟原城 玖島城(大村城) 厳原城 金田城 鶴亀城 日野江城(日之江城) 大垣城 深江城 金山城 多比良城 神代城 鍋島陣屋 守山城 山田城 釜蓋城 里城 陣笠城 田平御館 河原城 小峰城 三城 深堀陣屋 平戸城 清水山城 金石城(厳原城・府中城) 三城城 勝本城 石田城 勘次ヶ城 高津城 風早城 樋詰城 生池城 船匿城 古舘 郡城 鶴翔城 覩城 鉢形城 亀尾城 魚見岳台場 福江城 富江陣屋 勘次ヶ城 出島(築島)

熊本県
熊本城(銀杏城) 宇土城 田中城 岩尾城 鞠智城 菊池城 鍋城 佐敷城 山鹿城 木山城 山田城 人吉城 八代城(古麓城) 八代城(麦島城) 八代城(松江城) 水俣城 本渡城 富岡城 竹迫城 南関城 御船城 堅志田城

大分県
岡城 中津城(扇城) 臼杵城(丹生島城) 大友館 上原館 杵築城 佐伯城 高崎山城 栂牟礼城 角牟礼城 玖珠城 府内城(大分城) 長岩城 永山城(丸山城) 日田城(大蔵城) 日出城(暘谷城) 日隈城 真玉城 光岡城 龍王城 高田城

宮崎県
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鹿児島県
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門戸厄神 東光寺 [兵庫県]



2013年2月5日に愛蓮で海鮮焼そばの昼食をとったあとに門戸厄神に行きました。上の写真が阪急電車の今津線・門戸厄神駅の近くから見える門戸厄神東光寺です。略して門戸厄神と呼んでいました。今まで神社とばかり思っていましたが高野山真言宗の別格本山に格付けされている寺院だったのです。正式名は松泰山東光寺です。あらゆる災厄を打ち払うという厄神明王(門戸厄神)が有名なことから通称「門戸厄神東光寺」あるいは「門戸厄神」となったのかもしれません。最寄駅名も「門戸厄神」なのです。
マンションや家が増えてしまったことからお寺の全景は見ることが出来なくなってしまいました。ちなみに丘の上に見える建物は聖和短期大学の図書館だと思います。この丘の上には神戸女学院大学や関西学院大学も建っています。

こちらが正門です。表門まで上がる階段で表門まで42段(25段+17段)あります。この階段は男厄坂42段と呼ばれています。階段脇の青いカゴに注目してください。
  住所  兵庫県西宮市門戸西町2-26
  山号  泰山
  宗派  高野山真言宗
  寺格  別格本山
  本尊  薬師如来
  開基  空海、嵯峨天皇(勅願)
  創建年 天長6年(829年)
  正式名 松泰山 東光寺


こちらが正門となる表門です。門戸厄神(松泰山 東光寺)は日本三大厄神です。
ちなみに日本三大厄神とは
   摂津門戸の「松泰山 東光寺」
   紀州高野山の麓「天野明神」 (高野町・和歌山)
   山城男山の「石清水八幡宮」 (八幡市・京都)     です。
それでは関西の三大厄神は
  門戸厄神       松泰山 東光寺
  加古川宗佐厄神  宗佐厄神八幡神社(加古川市・兵庫)
  多井の畑厄神   多井畑厄除八幡宮(神戸市・兵庫)     です。


表門をくぐると目の前に中楼門がありました。中楼門は威厳のある構えで、入口には巨大な提灯がつられており提灯には大村昆さんの名前があるそうです。この中楼門に上がる両方の階段が女厄坂になっています。


中楼門からの厄神堂です。毎年1月18・19日に厄除大祭が、2月3日に星祭が行なわれます。厄除大祭では数多くの屋台が出店され、何万人もの参拝者で賑わいを見せるそうです。


中楼門の内側境内です。中楼門が最も目立った存在でした。


これが中央にある厄神堂です。ここには日本三躰の秘仏・厄神明王像が祀られています。このお堂で一年間祈願者の厄除け開運諸願成就のご祈祷を行っているそうです。


こちらが御本尊の薬師瑠璃光如来が祀られている薬師堂です。正面から見て厄神堂の右側にありました。正面が本尊ではなく厄神堂なのが門戸厄神らしいです。


もう一つ大きな建物がありました。これは大黒堂・愛染堂で大黒天と愛染明王を祀られていました。


大黒堂・愛染堂の左手には、大師堂があります。ここには真言宗の宗祖弘法大師・空海上人が祀られています。


おみくじを買われる人も沢山おられました。


こちらが南門です。お参りした人の出口になっています。関西の三大厄神とは
  門戸厄神     松泰山 東光寺
  加古川宗佐厄神 宗佐厄神八幡神社(加古川市・兵庫)
  多井の畑厄神  多井畑厄除八幡宮(神戸市・兵庫)         です。


まだまだ紹介したいしたい写真があるので小さな写真を掲載いたします。
住宅地を通って門戸厄神にむかうのですが、大きく日本三体門戸厄神と書かれています。日本三体を調べてみると、空海が嵯峨天皇の勅により刻んだ三体の両頭愛染明王(りょうずあいぜんみょうおう)のことだそうです。東光寺のと同時に作られた他の二体は、高野山天野明神と石清水八幡宮に納められたそうですが、現存するのは東光寺だけとなったそうです。こちらの右の写真は正門の右側にある門です。こちらの門の右の柱には高野山真言宗東光寺と書かれており左の柱には門戸厄神と書かれていました。


表門に真っ直ぐ伸びる参道の入口の両側に建っていた灯篭です。住宅街の中を道が通っており参道の雰囲気を残した唯一のものでした。


願い事を絵馬に書きますが、こちらでは絵馬もありましたが扇子もありました。裏手の方には稲荷社もありました。高安稲荷大明神と書かれていました。


表門に上がる42段の階段が男厄坂で次の中楼門へ上がる33段の階段が女厄坂です。女子の厄の年にちなんで33段になっているそうです。階段の横に籠があり階段を下りる毎にお賽銭を置くことで自分の厄を落とすのだそうです。これはお寺の人が置いたのではなく、お参りする人が勝手に置かれたようです。男厄坂も同様に男子の厄の年にちなんで42段になっており一段づつ登る事で厄を落とすと言われています。


左が男厄坂の階段に置かれていた賽銭籠です。百度参りの石もありました。


左が宝輪杉で右が延命魂です。これらは高野山奥の院、弘法大師御廟近くの山道に、高さ60m、樹齢800年を経た老杉で平成10年(1998年)の台風倒木してしまいそれを高野山金剛峯寺より賜った霊木だそうです。


門戸厄神東光寺は「西国薬師霊場第20番」「西国愛染17霊場第2番」「摂津国八十八箇所第76番」です。そのことにちなんでか四国八十八ケ所めぐりが作られていました。


こちらが一番と八十八番です。


駅からお寺までの道には屋台や厄除まんじゅうのお店などがありました。ちなみに厄除まんじゅうを買って帰りました。


今までの紹介の写真を動画にしてみました。 YouTubeしてフルスクリーンでも写真を見ることもできます。是非とも見てください。

ネットから拝借した境内の地図を掲載いたします。位置関係がわかると思います。

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