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叔父さんからのお土産の「岩国寿司」の仕入れ先(作っているところ)が判りました。 [山口県]

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母は昔から山口県の周防久保駅の近くにある私の父方のお墓に年に4回(3月 8月 9月 12月)に一人で墓参りに行っていました。母は足が少し不自由なことから2013年3月の墓参りから念のために、私か姉が一緒に行くようになりました。その中で私が一緒に行ったのが下記のリストです。2019年9月までは岩国に住んでいる叔父さん(母の弟)が車で新岩国駅からお墓まで行き、帰りは新岩国まで送り届けてくれました。一緒に昼食を食べて、錦帯橋でソフトクリームを食べて、新岩国駅でお土産を渡されるのが恒例になっていました。そのお土産の中に上の写真の岩国名物の岩国寿司が必ず入っていました。その岩国寿司は新岩国駅の売店に予約を入れていて別れるときに渡されました。叔父さん夫婦の話だと岩国にもっとも人気のある岩国寿司だと言われていたので、作っているお店が気になっていました。叔父さんは2019年9月末に運転免許を返納して会えなくなってしまったことから、岩国寿司のお店の場所は分らずじまいになっていました。2019年12月はレンタカーで母と一緒に行きましたが、新型コロナの感染リスクがあるので2020年3月と8月は中止して、2020年9月からも私一人で墓参に行きました。のマークは錦帯橋に行ってソフトクリームを食べた時です。
  墓参り年月  地元の移動  叔父さんからのお土産 岩国寿司の購入場所
  2013年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭 新岩国駅の売店に予約
  2013年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2013年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2014年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭
2016年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2017年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2018年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2019年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年12月 レンタカー  母と一緒に岩国の母方のお墓にも行く
  2020年09月 岩徳線+バス JR在来線で広島まで行く
2020年12月 岩徳線+バス  初めて、むさし店でソフトクリームを食べる
  2021年03月 岩徳線+バス 錦川清流線に乗る
2021年09月 岩徳線+バス  錦帯橋近くで岩国寿司を購入 本記事
  2021年12月 従妹の車   下関にある従妹の両親の墓にも墓参り

2020年09月以降に一人で墓参りに来た時も岩繰寿司を買いたかったのですが、新岩国駅では予約を入れないと手に入らないので、母へのお土産は、もみじ饅頭と広島菜の漬物と広島のお好み焼きと穴子めしになっていましたが、2021年09月に錦帯橋に行ったときに錦帯橋の入橋券の購入窓口で岩国寿司のお勧めのお店を教えてもらって、吉川家墓所などを見学した後に最後に寄ったお店がこちらです。お店の名前が岩国寿司のお店とは思えないけれども、入ってみました。お店の右隣りが岩国市観光協会の建物で観光案内所があります。
 店名 Panser(パンサー)
 住所 山口県岩国市岩国1丁目5-11
 電話 0827-41-2707
 定休 不定休
 営業 9:00〜16:00
 SV https://goo.gl/maps/qfzda9PRDee4Y7Ja9
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さっそく店内に入ってみました。イメージは料理店あるいは居酒屋という雰囲気でしたが、すでにお客さん(地元の方のようでした。)が来ていて鯖寿司などを沢山買い込んでおられました。そのお客さんが帰られた後に岩国寿司を注文しました。注文してから作るので少し待たされました。その代わり出来立てを持って帰ることが出来るのです。一度はお店で出来立てを食べてみたいものです。机の上の赤色のリッックは私のです。
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クリックすると拡大こちらが食事のメニューです。クリックするとお酒類を含む飲み物やスイーツやソフトクリームなどのメニューも表示します。新型コロナがなければ、メニューの料理でビールを飲みたいところでした。
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地元の方と思われる先客は左側の岩鯖寿司を沢山買い込まれていて、から揚げなども買っておられたので家で飲み会をする雰囲気でした。次の機会があれば、岩国寿司だけでなく岩鯖寿司も買いたいと思います。
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こちにが今回買って帰った岩国寿司です。これ(1個入り)を2つ買いました。上の説明のように2個入りもありました。今までに何度も岩国寿司をお土産にいただいて食べていたので、不覚なことに蓋を開けたお寿司を全体の写真を撮り忘れました。しかし切り分けてから気が付いたのですが、海老とレンコンが並べられている雰囲気がそっくりなので、叔父さんたちが新岩国駅の売店に予約して買っていたのはパンサーの岩国寿司ではないかと感じたのです。
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そこで昔の岩国寿司の写真を探して製造者を確認すると、やはりお土産でいただいていたのはパンサーの岩国寿司でした。こちらが2013年3月の時のパッケージです。冒頭のリストではすべて新岩国駅の売店に予約と記載していましたが、3度ほど予約出来なかったので別のお店の岩国寿司となりましたが、現時点では特定できないのですべて「〃」としました。確かに別のお店よりはパンサーの岩国寿司が良かったことだけは記憶しています。少なくとも2016年9月はパンサーでないことは分っています。スーパーで売られている岩国寿司も食べてみたかったので、お願いしてスーパーで売られていた2種類買ってきてもらったのです。墓参りの帰りに下松SAに買いに行ったこともあります。一般道側にも駐車スペースが作られているのです。
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上が今回(2021年9月)で、下が2013年3月の時の表示です。どちらも製造者の住所は同じ山口県岩国市岩国1丁目5-11でした。名前は斉藤良人から斎藤伸也に代わっていますが同じ斎藤(斉藤)の姓なので関係者だと思います。今回の人が若かったので息子さんなのかもしれません。
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上で記載したスーパーで売られていた2種類の岩国寿司を紹介します。2016年3月に叔父さんにお願いした2016年9月に買ってお土産としていただいた岩国寿司です。
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パッケージから出したスーパーの岩国寿司です。パンサーの岩国寿司とはかなり違いました。両方ともに錦糸卵の下に具が隠れています。
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2017年9月には製造者は今と同じ斎藤伸也さんになっていました。
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パッケージを開けた2017年9月の岩国寿司です。大きな海老です。
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2017年12月の岩国寿司です。この時は2個入りのパッケージで、今も1個入りと2個入りがあります。
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こちらが2018年8月の岩国寿司です。2018年8月にはパッケージに書かれている岩国寿司の字体が今と同じになりました。
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2018年8月と2021年9月を並べると字体だけでなく全体が、ほぼ同じであることが判りました。左が2018年8月で右が2021年9月です。
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今回は岩国寿司以外に、乗り換え駅の広島駅で穴子めしと広島のお好み焼きを買いました。
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こちらが広島のお好み焼きです。
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お好み焼きと穴子飯があったので、岩国寿司は少しだけ食べて、残りは翌日の昼にいただきました。海老が冒頭の写真と同じように乗っているのが判っていただけると思います。
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岩国寿司を購入したPanser(パンサー)の場所を航空写真で紹介します。
航空写真の中の赤色マーク( )が人気の岩国寿司を製造販売しているパンサーです。オレンジ色(橙色)のラインが錦帯橋です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックすると沢山の赤色マークが出てきますが、その赤色マークが今回初めて訪れたところです。


2013年3月22日に掲載した「岩国寿司」の記事はこちらです。→ポチッ

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迷路としても楽しめる「岩国藩藩主の吉川家墓所(きっかわけぼしょ)」 [山口県]

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今回の墓参で錦帯橋の周辺を下記の記事で紹介してきましたが、実は最も紹介したかったのが今回の「岩国藩藩主の吉川家墓所」でした。何度も錦帯橋に来ているのに吉川家墓所は初めて知ったのです。また、これほど第1代から第13代の藩主の墓をはじめとして家族の墓がまともっていることにも驚かされました。上の写真が吉川家墓所の入口の門です。

最初の門をくぐったところにもう一つの門があります。こちらの門には入れません。ただし沢山の墓がある吉川家墓所は左方向に曲がったところにあります。門の左にある説明板は吉川家の移り変わりや13代藩主までの歴史が書かれています。吉川は「よしかわ」ではなく「きっかわ」と読みます。つまり、吉川広家は「きっかわ ひろいえ」です。
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説明板を拡大いたしました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたしました。下記の名前は吉川元春からの当主です。吉川広家が岩国藩の初代であり、それ以降は吉川家の当主が岩国藩(岩国領)の藩主(領主)でもあります。ちなみに江戸幕府は1603年~1867年(大政奉還)です。右下の写真はWikipediaから転用させていただいた初代藩主・吉川広家です。吉川家(吉川氏)の名は寿永2年(1183年)まで遡りますが、岩国藩(周防国大島郡+玖珂郡南部)を治める藩主としての吉川家の祖は吉川元春(安芸国吉川氏としては14代目)となるそうです。
 吉川家当主(1550~1586) 吉川元春 毛利元就の次男で吉川氏へ養子
 吉川家当主(1586~1587) 吉川元長 広家の兄
  初代藩主(1600~1614) 吉川広家 当主(1587~1614) 岩国城を築城
  2代藩主(1614~1663) 吉川広正
  3代藩主(1663~1679) 吉川広嘉 錦帯橋を建造
クリックすると拡大  4代藩主(1679~1696) 吉川広紀
  5代藩主(1696~1715) 吉川広逵
  6代藩主(1715~1764) 吉川経永
  7代藩主(1764~1792) 吉川経倫
  8代藩主(1792~1803) 吉川経忠
  9代藩主(1803~1806) 吉川経賢
 10代藩主(1807~1836) 吉川経礼
 11代藩主(1837~1843) 吉川経章
 12代藩主(1844~1868) 吉川経幹
 13代藩主(1868~1871) 吉川経健 明治元年~明治4年(廃藩置県)
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大きな建造物がありました。あとでネットで調べると吉川家納骨堂であることが判りました。
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こちらが吉川家墓所の配置図です。写真を撮った墓に赤色の番号(①~㉟)を書き入れました。つまり①→㉟の順に歩いたのです。白壁の塀で仕切られていてタイトルで書かせていただいたように、まさに迷路のようでした。実際に訪れて写真を掲載させていただいた墓石は下記のリストのように35塔です。写真を撮っていないのが2塔あるので、全体でお墓が37塔あることになります。写真を撮っていない2塔は印の宣姫(10代・経礼の長女)と順姫(7代・経倫の次女)です。岩国藩主は13代まで続きましたが藩主の墓は9塔しか見つかりませんでした。理由は後ほど説明させていただきます。
 藩主   9塔 2代 3代 4代 5代 7代 8代 9代 10代 11代
 正室   9塔 8塔が藩主の正室 1塔が吉川元春の正室
 後妻   1塔 継室
 息子   6塔
 娘    9塔 姫
 合祀   1塔 息子 4名 姫 2名
 合計 35塔 
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Googleマップの航空写真表示画面に回った順番①~㉟をプロットしました。画面の中の③と㉝のマークは半分しか見えていません。マイナス(-)を1回クリックすると広い範囲の表示になるので欠けたマークはなくなります。航空写真の中の印が写真を撮り損ねた宣姫と順姫のお墓の2塔です。
 藩主   9塔  ①⑩⑪⑱⑳㉑㉓㉔㉕
 正室   9塔  ②⑫⑰⑲㉒㉘㉛㉞㉟
 後妻   1塔  ㉖
 息子   6塔  ⑦⑭⑮⑯㉙㉚
 娘    9塔  ③④⑤⑥⑧⑨⑬㉗㉝
 合祀   1塔  ㉜


納骨堂方向から歩いてきて最初に目に入る景色がこちらです。複雑な白壁の塀の中に墓あるのです。迷路のようだと少し感じていただけると思います。まっすぐに進んでいきました。
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①② そこにあったのは8代藩主の吉川経忠(左側)とその正室の喬松院の墓(右側)でした。いきなり、その大きさに驚かされました。
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墓にはタイル製の説明板がつけられていました。正室の喬松院は経忠の死後41年後に亡くなったことが判ります。こちらの区画にも
 吉川経忠 8代藩主
  戒名 招徳院殿孝運祖沢大居士
  没年 享和3年(1803年)5月30日 享年38歳
 喬松院 8代藩主経忠の正室
  戒名 喬松院殿妙境日悌大比丘尼
  没年 天保15年(1844年)1月30日 享年61歳
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次の区画に最初の場所に小ぶりですが立派なお墓がありました。こちらは6代藩主の吉川経永の3女の益姫のお墓でした。近くに6代藩主の吉川経永の墓はありませんでした。この区画には7つの墓があり、その中の6つが藩主の姫で、1つが藩主の息子でした。
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説明板を見ると3歳という幼さで亡くなった姫の墓であることが判りました。可愛かった娘が幼くして亡くなった悲しみが伝わってくる立派なお墓でした。偶然かもしれませんが、吉川家墓所で見た9人の姫の墓の内、1歳と5歳と13歳が1~2人なのに対して、驚いたことに5人が3歳でした。享年3歳は数え年のため満年齢では2歳ということになります。
 益姫 6代藩主経永の3女
  戒名 亨恵大童女
  没年 延亨2年(1745年)6月15日 享年3歳
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同じ区画で次に見たのは7代藩主・吉川経倫の長女の万千代姫の墓でした。多くの墓は丸石が使われていますがこちらは長方形の石が使われていました。
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説明板を紹介します。こちらも5歳という幼さで亡くなった姫の墓でした。亡くなった月を?月と書いているは木の葉で数字が見えないためです。
 万千代姫 7代藩主経倫の長女
  戒名 英雅大童女
  没年 安永3年(1774年)?月2日 享年5歳
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こちらもこちらも立派なお墓でした。12代藩主吉川経幹の娘の数姫のお墓です。
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説明板です。こちらも3歳で亡くなりました。
 数姫 12代藩主経幹の娘
  戒名 玉光映珊大童女
  没年 安政5年(1858年)5月26日 享年3歳
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こちらはこちらは6代藩主・吉川経永の4女の三千菊姫のお墓です。ことらも享年は3歳でした。
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説明板を紹介します。
 三千菊姫 6代藩主経永の4女
  戒名 智玉大童女
  没年 宝暦9年(1759年)閠7月7日 享年3歳
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初めて藩主以外の男子の墓です。10代藩主・吉川経礼の長男の憲太能のお墓です。
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説明板を紹介します。享年は不明となっていますが、今回見た藩主の息子の墓の説明板では2歳と5歳と7歳と、いずれも幼くして亡くなっていることから、こちらも幼くして亡くなったものと推察されます。可愛い盛りだったと思います。
 憲太能 10代藩主経礼の長男
  戒名 知憲院殿慈厳玉容大童子
  没年 文政5年(1822年)6月30日 享年不明
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この区画の雰囲気を紹介します。左橋が健太能のお墓でその右側に2の墓が並んでいます。次にそちらを紹介します。
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⑧⑨ 4代藩主・吉川広紀の娘の礒姫(左側)と6代藩主・吉川経永の次女の佐久姫(右側)のお墓です。
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2つの説明板を紹介します。礒姫は1歳で佐久姫も1歳でした。
 礒姫 4代藩主広紀の長女
  戒名 円珠大童女
  没年 元禄3年(1690年)10月12日 享年1歳
 佐久姫 6代藩主経永の次女
  戒名 慈忍大童女
  没年 寛保2年(1742年)9月8日 享年1歳
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不思議な迷路の入口のようなところがありました。
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その奥には第十一代藩主のお墓があることが書かれていました。
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こちらが11代藩主吉川経章のお墓です。藩主のお墓で丸ではなく四角の石が疲れけているのを見ました。今回見た見た中で藩主のお墓として四角い石が使われていたのは2つで、他派すべて丸い石が使われたお墓でした。
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墓に近づけないので説明板があることに気が付きませんでした。あとで写真から左下に写っていることに気が付きました。
 吉川経章 11代藩主
  戒名 亮功院殿英山道雄大居士
  没年 天保14年(1844年)11月19日 享年50歳
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⑪⑫ 岩国藩七代藩主吉川経倫の木製の看板があったので道を入っていきました。
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突き当りを右に曲がった瞬間に前が開けて2つ大きなお墓(塔)が現れました。
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2つ大きなお墓(塔)は7代藩主の吉川経倫(右側 ⑪)と、その正室の華厳院(左側 ⑫)でした。目線の2.5倍ほどの高さの巨大のお墓(塔)でした。
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説明板を紹介します。
 吉川経倫 7代藩主
  戒名 大乗院殿前城門郎即心円通大居士
  没年 享和3年(1803年)9月7日 享年58歳
 華厳院 7代藩主経倫の正室
  戒名 華厳院殿梅玉妙聯大姉
  没年 安永5年(1775年)5月18日 享年21歳
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7代藩主の吉川経倫のお墓の前にあったのがこちらのお墓です。経倫の3女の勝姫のお墓です。お墓の場所からして大切にされていたのではないかと推察します。 
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説明板です。これによると13歳ででなくなりました。
 勝姫 7代藩主経倫の3女
  戒名 仙寿院殿桃顔倍香大姉
  没年 寛政3年(1791年)6月13日 享年13歳
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こちらが7代藩主経倫の次男のお墓です。案内板によれば、7代藩主のお墓があるエリアにはこれ以外にもう一つお墓があります。そちらは経倫の次女の順姫ですが、正室の墓の左奥にあったことから気が付きませんでした。
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こちらが次男のお墓の説明板です。
 吉五郎 7代藩主経倫の次男
  戒名 崑岳良瓉大童子
  没年 安永6年(1777年)9月23日 享年2歳
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塀の外に出ると白塀に囲まれた道がまっすぐに山の方に伸びていました。正面に木の門が見えますが、先ずはその手前で左に入ってみました。
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こちらは説明板を撮り損ねたので名前はわかりませんでしたが、案内図から6代藩主吉川経永の長男の友千代であることが判りました。説明板を撮っていなかったので戒名や没年や享年はわかりません。吉川経永の男子はいずれも夭折(幼くして死去)したため、養子として迎えたのが、後の7代藩主の吉川経倫ですが、吉川元春以来の血筋はここで絶えることになったそうです。
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上の友千代の墓の写真の右端に写っている灯篭が、こちらも6代藩主吉川経永の息子(次男)である代八の墓です。
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代八の説明板を紹介します。
 代八 6代藩主経倫の次男
  戒名 徳岸院殿恩樹日長大童子
  没年 宝暦4年(1754年)1月12日 享年7歳
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立派なお墓です。5代藩主の吉川広逵の正室である正理院のお墓です。友千代や代八からだと祖母になります。正室のお墓が立派なのは次の藩主(息子)の母という立場もあるのかもしれません。
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正理院の説明板を紹介します。
 正理院 5代藩主広逵の正室
  戒名 正理院殿妙常日久代比丘尼
  没年 天明元年(1781年)1月12日 享年86歳
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㉑⑳⑲⑱㉒ 上で紹介した白壁の塀に囲まれた通路の先にあった木の門の中には大きなお墓が5つありました。藩主のお墓が3つと正室のお墓が2つで構成されていました。クリックすると拡大徐々に初代の藩主である吉川広家のお墓に近づいている予感がしてきました。
左側からは次の通りです。
 ㉑ 9代藩主    吉川経賢
 ⑳ 3代藩主    吉川広嘉
 ⑲ 2代藩主の正室 高玄院
 ⑱ 2代藩主    吉川広正
 ㉒ 10代藩主の正室 円成院
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外側からでも5つはお墓を1枚の写真に収められなかったので、左側と右側に分けて撮りました。こちらが左側の3つお墓(⑲⑳㉑)の写真です。
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こちらが右側の3つお墓(⑱⑲㉒)の写真です。
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先ずは中央の3つ(⑳⑲⑱)を紹介したいと思います。
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⑱⑲の説明板です。
 吉川広正 2代藩主
  戒名 浄性院殿前倉部鉄堂宋閑大居士
  没年 寛文6年(1666年)5月5日 享年66歳
 高玄院 2代藩主広正の正室
  戒名 高玄院殿超誉珠英大姉
  没年 正保元年(1644年)9月10日 享年45歳
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⑳の説明説明板です。
 吉川広嘉 3代藩主
  戒名 玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
  没年 延宝7年(1679年)8月16日 享年59歳
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左端㉑は9代藩主の吉川経賢のお墓です。
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吉川経賢の説明板です。吉川経賢は16歳の若さで亡くなった藩主でした。
 吉川経賢 9代藩主
  戒名 文恭院殿徳巌道馨大居士
  没年 文化3年(1806年)12月16日 享年16歳
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こちらが5つの大きなお墓の左端のお墓(㉒)です。10代藩主の吉川経礼の正室のお墓です。正室の名前は円成院です。
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円成院の説明板です。
 円成院 10代藩主経礼の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 文化10年(1813年)6月11日 享年 不明
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㉓㉔㉕ すぐそばに3人の藩主の墓がありました。この場所も木の門がありました。4代藩主の吉川広紀と5代藩主の吉川広逵と10代藩主の吉川経礼です。
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こちらが3つの藩主のお墓で右側から5代藩主・吉川広逵(㉓)、4代藩主・吉川広紀(㉔)、10代藩主・吉川経礼(㉕)です。10代藩主・吉川経礼は四角の墓石でした。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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こちらが丸い墓石の5代藩主・吉川広逵(㉓右側)と4代藩主・吉川広紀(㉔左側)です。
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説明板を紹介します。藩主と言えどもこの時代は長生きする人は少なかったようです。
 吉川広逵 5代藩主
  戒名 涼雲院殿玉顔元鮮大居士
  没年 正徳5年(1715年)6月19日 享年21歳
 吉川広紀 4代藩主
  戒名 普恩院殿前少府郷徳峯祖天大居士
  没年 元禄9年(1696年)7月13日 享年39歳
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10代藩主・吉川経礼(㉕)の四角の墓石を正面から撮りました。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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説明板を紹介します。
 吉川経礼 10代藩主
  戒名 謙光院殿慈雲藤蔭大居士
  没年 天保7年(1836年)11月26日 享年44歳
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上の3人の藩主(㉓㉔㉕)のお墓に正面に建てられていた立派なお墓がありました。10代藩主・吉川経礼の継室(後妻)の成豊院のお墓でした。
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成豊院の説明板を紹介します。すでに㉒の墓として紹介した10代藩主・吉川経礼の正室の墓の円成院は文化10年(1813年)6月11日に亡くなっていて30年の差があることから正室の円成院は若くして亡くなったと推察できます。
 成豊院 10代藩主経礼の継室(後妻)
  戒名 成豊院殿慈観瑟大姉
  没年 天保14年(1843年)7月17日 享年53歳
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上の㉖の成豊院のお墓を見た後は、最も山側(北側)のエリアで最初に訪れたのが8代藩主・吉川経忠の長女のお墓でした。名前は修姫です。
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修姫のお墓の説明板です。
 勝姫 8代藩主経忠の長女
  戒名 真峯知影大童女
  没年 享和2年(1802年)5月18日 享年3歳
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修姫のお墓(㉗)のあたりから見た最も北側(山側)のエリアの写真です。山に登っていく道も写っています。このエリアにも沢山のお墓がありました。その中に3つの大きなお墓がありました。
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山側で3つ大きなお墓の一つです。3代藩主・広嘉の正室の天長院の墓でした。
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3代藩主・広嘉の正室の天長院の説明板を紹介します。19人の成人のお墓で3番目の長寿です。最も長寿なのが86歳の正理院(5代藩主の正室)の86歳で2番目が吉川広正(2代藩主)の66歳です。ちなみに4番目は吉川広嘉(3代藩主)の59歳です。
 天長院 3代藩主広嘉の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 元禄10年(1670年)4月12日 享年63歳
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㉙㉚今までに見てきたお墓に比べて比較的小さなお墓がありました。2代藩主・吉川広正の 7男の新八郎と9男の道祖太郎のお墓です。
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説明板を紹介します。7男は満1歳で亡くなり9男は4歳で亡くなったのでした。
 新八郎 2代藩主広正の7男
  戒名 幻漚大童子
  没年 万治2年(1659年)2月22日 享年2歳
 道祖太郎 2代藩主広正の9男
  戒名 自照大童子
  没年 寛文5年(1665年)8月15日 享年5歳
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こちらは吉川元春の正室の慈光院お墓です。吉川元春は岩国藩の藩主の家系となった吉川家の初代当主です。吉川元春の子が初代藩主の吉川広家です。吉川元春は毛利元就の次男で養子となって毛利元春から吉川元春に改名したそうです。
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慈光院のお墓の説明板です。新庄局(しんじょうのつぼね)とも呼ばれています。初代藩主の吉川広家の母になります。
 慈光院 吉川元春の正室
  戒名 慈光院殿玉窓芳珪大姉
  没年 慶長11年(1606年)12月11日 享年 不明
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小さなお墓がありました。今回のお墓の中で唯一の合葬(合祀)のお墓でした。初代藩主と2代藩主の6人の子供たちが埋葬されたものでした。
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説明板に書かれていた6人の子供たちです。初代藩主・広家の3男は享年不明となっていますが幼くして亡くなったものと推察されます。
 初代藩主 広家の 3 男 俗名不明 享年不明
 2代藩主 広正の10女 竹搥姫  享年4歳
 2代藩主 広正の11女 千代松姫 享年4歳
 2代藩主 広正の 4 男 長吉   享年4歳
 2代藩主 広正の 5 男 金三郎  享年2歳
 2代藩主 広正の 6 男 大助   享年2歳
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㉙㉚㉛㉜が並んだ写真です。
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こちらは6代藩主・吉川経永の長女の富姫のお墓です。
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こちらが富姫の説明板です。
 富姫 6代藩主経永の長女
  戒名 本如大童女
  没年 享保9年(1734年)6月13日 享年3歳
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㉞㉟ 最後に紹介する大きなお墓です。石の柵に囲まれた立派なお墓でした。
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説明板を紹介します。4代藩主の正室の蓮得院と6代藩主の正室の瑞蓮院のお墓でした。結局は初代藩主の吉川広家の墓はありませんでした。
 蓮得院 4代藩主 広紀の正室
  戒名 蓮得院殿玉妙諦日観大淑姉
  没年 享保2年(1717年)2月7日 享年47歳
 瑞蓮院 6代藩主 :経永の正室
  戒名 瑞蓮院殿徹底妙心日境大比尼
  没年 明和6年(1769年)5月25日 享年57歳
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㉖の成豊院のお墓を見た後は、㉗~㉟のお墓が建つエリアに移動しました。最も山側のエリアでした。
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上の写真はこちらの案内図の右上端に描かれている階段のところから撮りました。上の写真の左端に写っている横の方向に大きな墓石が5つ並んでいるところが、すでに紹介した㉑⑳⑲⑱㉒(9代藩主 3代藩主 2代藩主の正室 2代藩主 10代藩主の正室)のエリアです。その5つの墓石を除く大きな墓石は上の写真の右側に並ぶ㉘と㉞と㉟でした。しかしながら、いずれも正室のお墓で、藩主のお墓ではありませんでした。
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こちらは階段を上に登って撮った同じエリアの写真です。
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実は階段をさらに登っていくと初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったのです。今回、見たのは地上の墓所は「寺谷のお塔」と呼ばれていて、山の上の墓所は「山のお塔」と「実相院山のお塔」と呼ばれています。山の上には19塔のお墓があるので地上の37塔のお墓と合わせると56塔のお墓が吉川家墓所にあることになります。
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つまり、写真に写っている道を登ると初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったわけで、すべての藩主のお墓を見ることが出来るので機会があれば行ってみたいと思います。山の上の4つの藩主のお墓と今回見た9つの藩主のお墓を合わせると4+9=13となりなり初代から13代の藩主のお墓が吉川家墓所にすべてそろっていることになります。
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クリックすると拡大航空写真では木が多くて「山のお塔」と「実相院山のお塔」の位置が判らないのでネット上の右の地形図から大まかな感じを黄色の枠で書き込んでみました。
感で書き込んだので正確ではないことをお許しください。


吉川家墓所(①~㉟)と錦帯橋と吉香公園との位置関係が判る地図を紹介します。

タグ: 岩国 錦帯橋
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吉香公園のシンボル 城の石垣をイメージした大噴水 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前々記事で紹介した武家屋敷/旧目加田家住宅を見た後向かったので吉香公園の中央あたりに作られている噴水です。遠くからは何度か見ていて気になっていたので見に行くことにしました。武家屋敷あたりから噴水方向を撮った写真です。そっそく画面の左半分に写っている大噴水と名前がつけられている場所に向かいました。ここを訪れたのは2021年9月18日でした。実は前日の9月17日に台風14号が近くを通過していました。

これが大噴水です。岩国城の石垣をイメージして作られた大噴水であることはすぐにわかりました。大噴水の前が浅い「ちびっ子プール」になっていました。小さな子供さんを連れた家族の方が沢山来ていたので岩国の人たちの憩いの場所になっているのだと感じました。岩国には米軍基地があるためか外人の子供連れの家族が半分近くを占めていました。
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噴水を出している石垣の面は単純な左右対称ではなく変化を持たせていました。高い噴水は4本なのに対して低い噴水は3本でした。
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近くからだと噴水は高く上がっていて全体が撮れませんでした。
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上の写真と合わせてみてください。城の石垣をイメージした大噴水であることがわかっていただけると思います。
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少し離れて撮った大噴水です。大放射噴水あるいは放射噴水と表現されているサイトもありました。検索エンジンで "吉香公園のシンボル" で検束するとほとんどが大噴水(大放射噴水/放射噴水)の記事でした。→Yahoo Google   
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以前(2020年12月23日)に来た時に大噴水が映り込んだ写真もスライドショーで紹介します。この時に遠くから大噴水を見て、いつか近くで見てみたいと思っていました。
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もう一つ気になる噴水がありました。石がきれいに敷き詰められた噴水です。名前が知りたくてネットで調べてみると夏に人気の噴水でした。結局は名前はわかりませんが子供たちがびしょびしょになりながら遊んでいる写真が沢山掲載されていました。でも今はロープが張られていて中には入らないようです。
おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため クリックすると拡大はいらないてください。」と書かれた立看が設置されていました。ネット内の2011年2012年の記事ではロープや立看はなく右の写真のように子供たちが楽しそうに遊んでいました。今は遊べませんが仮の名前として「水遊び噴水」と名付けておきます。
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全体が円形をしていて真ん中が通路になっています。その通路の両側に半円状に石が敷き詰められていて全体が円形をしています。半円状の大きさは左右が違うように作られています。この写真だと左側(南側)の方が大きいです。
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半円状に部分の真ん中に円形状に石が並べなれていて水が真上に向かって噴き出していました。円形状の大きさも南側と北側で違います。北側は小さいな円形が1つですが、南側は大と小の円形で構成されています。この写真の南側なので2つの円形が確認できると思います。
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こちらが北側の半円状の部分です。
噴水パイプの溝が大きくて深いので確かに遊ぶのは危なそうです。クリックすると拡大したがって仮の呼名は「水遊び噴水」から「石畳噴水」にしたほうがよさそうです。さらに検索してみると「ゴロタ噴水」が正式名でした。右の小さな写真が「おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため はいらないてください。」と書かれた立看板です。2011年や2012年のネットの写真では噴水パイプの部分は水が沢山入っていて見えない状態でした。
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ゴロタ噴水は吉香公園の別の場所(旧目加田家住宅の南東側に隣接した場所)にもあるようなのでストリートビュー(SV)で紹介したいと思います。画面の左下に例の立看板が見えます。画面の正面にある建物が武家屋敷の旧目加田家住宅で、その右側の高い建物は柏原美術館(岩国美術館)です。このSVは2021年1月にpotaro67さんによって 掲載されたもので、ロープと立看が写っています。2017年9月にCHAN LAM YEUNGさんによって掲載されたSVもありました。→ポチッ


真ん中の通路を進んで噴水の方向に振り返って撮った写真です。遠くに石垣をイメージした大噴水があります。
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モニュメントが2つあったので紹介します。手前が山内壮夫(やまうち たけお)の「和」で、後ろの石の塔のような作品は澄川喜一(すみかわ きいち)の「石の翼」です。
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今回、紹介した噴水とモニュメントの位置をGoogle地図で紹介します。その位置に赤色マーク( )をつけました。


ネットに掲載されていた大噴水のライトアップの動画を紹介します。プレーボタン( )をクリックしていただくと、点灯式(2020年12月18日)の中でライトアップが点灯した瞬間(2分43秒)から紹介します。クリックすると拡大最後まで見ていただくと先頭に戻ります。ちなみに先頭は岩国市の福田良彦市長の挨拶から始まります。右の小さな写真は岩国市公式Webサイト「岩国 旅の架け橋」から転用させていただいた大噴水のライトアップで、クリックするとサイトのオリジナルを表示します。

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武家屋敷 旧目加田家住宅 [山口県]

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2021年11月21日更新 タイトル:旧目加田家住宅の2度目の訪問
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前記事で紹介した白山比咩神社の次は、2020年12月に一度訪問したことがある武家屋敷である旧目加田家住宅に来てみました。2020年12月の時は岩国城の天守間に登るために時間的制約からあまり時間をさけなかったことから十分に見れなかったので、今回はじっくりと見ることにしました。上の写真は白山比咩神社方面から来た場合の入口です。前回はこちらから出て岩国城の天守閣が建つ山に登るロープウェイに乘りました。

この門の内側の庭のエリアには前回は入らなかったのです。最後の部分に追加いたします。またそれ以外に撮った写真は前回の記事の途中に差し込みます。その写真には<追加>と記載いたします。
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2021年02月17日掲載 タイトル:武家屋敷 旧目加田家住宅
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年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。

旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財  旧目加田家住宅  指定年月日 昭和49年2月5日
旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。
建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。
建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。
平成31年1月         岩国教育委員会
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ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。旧目加田家住宅で風呂が置かれていた場所が気になるところですが、湯殿などの記述がありません。170石の武家の家なので風呂はあったと思います。他の武家屋敷では1畳程度の土間がある部屋に風呂が置かれていることから、風呂が置ける場所の候補としては、建物の最も右上の1畳半の部屋か、厠の「たたき」か、台所の横の板の間か土間などです。クリックすると拡大右の写真は参考として掲載させていただいた千葉県の佐倉藩の300石の武家屋敷の風呂(湯殿)です。ちなみに佐倉藩の150石と50石の武家屋敷の平面図には湯殿はありませんでした。西日本の風呂と言えば五右衛門風呂が有名ですが、江戸時代は鉄は貴重であったことから全鉄製の五右衛門風呂は高価で、まだまだ普及はしていなかったようです。
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3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。右端の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。
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今回は厠の写真を撮りました。 <追加>
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裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。
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平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。
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クリックすると拡大前回掲載した時の冒頭の写真に写っている「建物について」と「両袖瓦について」の説明板を紹介します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。右の写真は両袖瓦の説明板の中にある写真と同じ位置を撮った写真です。ただし、撮った角度と範囲は少し違います。右の写真も拡大します。 <追加>
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前回は撮っていない角度からの写真を紹介します。
右端に井戸があります。 <追加>
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井戸を単独で撮りました。 <追加>
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井戸の石組も見事でした。 <追加>
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少し離れた位置からの全景の写真を紹介します。 <追加>
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こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。
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二階への上り階段の下の2段はには引き出しが付いていました。 <追加>
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遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。170石は米俵が約425俵に相当します。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 千葉県 佐倉   佐倉の武家屋敷 3軒     300石 150石 50石
 兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 高12石3人扶持
 山口県 岩国   旧目加田家住宅        170石
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岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。


Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色のラインが岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。黄色のラインが2021年11月の更新で紹介した初めて庭のエリアに入ったルートです。


岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。
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クリックすると拡大目加田家あたりを拡大いたしました。「目加田」の文字が読めると思います。目加田の後ろの一文字は名前と思われますが、折り目部分で滲んでいるために現時点では読み取れていませんが、我家で検討した結果の名前の第一候補は甫(はじめ)です。もし名前が正しいとすれば古地図が描かれた時の主の氏名は目加田甫(めかだ はじめ)ということになります。下の古地図の右端の大きな文字は御城跡です。御城跡と書かれている場所は現在は吉香神社となっています。ホリ(堀)は現在も同じ配置で存在しています。
古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ
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Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。
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クリックすると拡大上の回転させた古地図に近い範囲を表示させたGoogleマップです。本地図で堀が昔のままだあることが分かっていただけると思います。右の小さな写真は堀の写真で、堀の写真の中の建物は錦雲閣です。



初めて入った庭の部分の写真をこの下に追加します。ここから下の写真は全て今回(2021年11月)に追加したものなので<追加>は省略いたしました。
この写真の中の小さな門から庭に入りました。
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こちらがその門です。飛び石が門から続いているのが判っていただけると思います。
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庭に入る門の位置から撮った景色です。家の中からの庭の景色が想像されます。
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こちらが庭の写真です。
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庭の方から建物を撮った写真です。広い縁側部分が印象的でした。右側の部屋が次の間で、左側の部屋が表座敷です。次の間も表座敷も客用の部屋です。つまり客用の部屋の前に手入れされた庭があったようです。
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部屋についての説明板がありました。1977年と1978年の修理の時に改築されていた部分を建設当時の間取りに復元したそうです。説明内容を枠内に転記いたします。
部屋について
旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり江戸時代岩国の武家住宅の様相を残しています。昭和49年(1974)に国重要文化財の指定を受けた後、昭和52年(1977) 53年(1978)の修理によって、これまでに改築がなされた部分を建設当時の間取りに復元しています。
クリックすると拡大 座敷は客を迎え入れる表座敷と家族が利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋があります。
このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間(ちゅうげん)がつめる中間部屋などがあります。
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庭のコーナー(西方向)からの建物の全景写真です。
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厠(かわや/便所)につながる廊下がよくわかります。
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目加田家に関する説明板も紹介します。これに寄れは目加田家は元々は近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)の出身だそうです。その出身地の滋賀県愛知郡愛荘町に今も残されている目賀田城跡の写真が掲載されていました。ネットでの目賀田城の説明では目加田城とも記載されていました。岩国に関する記述も出てきました。目賀田家(目加田家)は分家も多くあったと書かれていたことからその中の一つではないかと想像されます。説明内容を枠内に転記いたしました。
目加田家について
目加田家は元々、近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)出身の豪族です。天正年間(1573-93)に吉川元春に仕え、関ヶ原の合戦後、吉川広家に従って出雲国富田(島根県安来市)より岩国に移り、以降吉川氏の家臣として明治まで仕えます。屋敷地は江戸中期の屋敷割図によると現在地のままであり、この地で続いていたことが伺えます。
吉川氏の家臣達の系図を編纂した「御家中系図」によると、天保年間(1831-45)は御用人役と呼ばれる藩の政策を審議する役所の政務官を勤め、知行(武士の身分に与えられる俸禄)は170石でした。

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目賀田城跡
(滋賀県愛知郡愛荘町教育委員会提供)
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クリックすると拡大以前に紹介しましたが建物は一見は平屋に見えますが、2階建であることはこの角度の写真だと良く分かると思います。右の写真の2階部屋は洪水の時の避難場所として設けられたと考えられています。数回の床下浸水は記録されているようです。
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敷地外からの旧目加田家住宅の景観を紹介するためにGoogleのストリートビューSV)を掲載させていただきました。このSVは真下を是非とも見てほしいです。画面を真上にスクロールすると真下が見れます。

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白山比咩神社 岩国 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

シロヘビ館の次に訪れたのは白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。本記事では白山比咩神社を紹介したいと思います。敷地内の建物の配置をGoogle地図の航空写真で紹介します。クリックすると拡大
 A 一の鳥居
 B 手水舎
 C 錦川水神社
 D 桜門
 E 白山比咩神社 拝殿
 F 御霊神社 拝殿
 G 御霊神社 本殿
 H 倉庫 ?
 I 白山比咩神社 本殿
水色のラインが白山比咩神社境内の散策ルートです。錦帯橋の右岸側から一の鳥居までの距離は徒歩で約500mで、左岸側からだと約710mです。錦帯橋の左岸からだと錦帯橋を渡ることになります。

こちらが白山比咩神社の一の鳥居(A)です。鳥居の正面に見えているのが手水舎です。本写真をクリックすると全体の写真を特別に大きく(面積で16倍に)拡大するように設定させていただいたので、手水舎も確認できると思います。
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上の写真の右端に写っている説明版です。説明の内容を転記する形で枠内に紹介します。説明文では現在の社殿は1897年に建てられたものと書かれていますが、社殿の中で一番大きな建物の拝殿は2004年5月13日に火災により焼失したことから、2005年12月に再建された建物です。
しら やま ひ め じん じゃ
白山比咩神社
この神社は白山比咩神社(別命菊理媛の命)大己貴の命(大国主命の別命)を祭っている。創建年代は明らかでないが、伝えられるところによると、加賀国(石川県白山神社の分霊を移し祭ったものという。永興寺伝記によればもとこの社は永興寺の鎮守社であったと記してあり、永興寺所蔵の神輿には永禄二年(一五五九年)正月の字が刻まれている。萩の近藤清石の風土記によれと、鎮守云々は誤りで一時永興寺僧徒の奉仕したことが推し図られるとしている。
社前の石鳥居は元禄七年(一六九四年)吉川広紀(第四藩主)のご寄進で石柱に宇都宮遯庵(漢学者)の碑文がある。享保十二年(一七二七年)に再建された大規模の社殿は明治二十三年(一八九〇年)に焼失した。現在の建物は明治三十一年二月(一八九八年)に完成したものである。
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鳥居の正面に見えた手水舎(B)です。ここを右に曲がると神社の拝殿や本殿に進みます。
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手水舎を拡大いたしました。
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クリックすると拡大手水舎の水盤を拡大いたしました。正面に取り付けられている紋は岩国藩の藩主の吉川家の家紋です。クリックすると拡大
右の大きい方の写真は下の写真から家紋の部分を切り取ったものです。クリックすると拡大いたします。
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手水舎の前から進行方向を見た写真です。正面に見えているのは錦川水神社(C)で、左に見えている建物は白山比咩神社の社殿入口の楼門です。
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こちらが錦川水神社(C)です。右の石柱には恭仰神徳と書かれていて、左の石柱には揁謝水恩と書かれています。左の揁謝水恩は水の恵みに感謝する意味だと思われます。恭仰神徳は神に敬意表す言葉のようです。ちなみに8月には錦川の豊かな恵みに感謝する祭である水恩感謝祭が行われるそうです。
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錦川水神社の本殿です。御祭神は弥都波能売神(みづはのめのかみ)です。
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真横から見た錦川水神社の本殿です。
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錦川水神社の由来の説明板です。転記する形で枠内に説明内容を紹介します。
  錦川水神社
  御祭神 弥都波能売神(みづはのめのかみ)
岩国市を貫流する錦川は古代より優れた水質と豊富な水量によって近代産業誘致の原動力となり一面天下の奇橋錦帯橋によって観光面に於いても岩国市今 日の繁栄をもたらしたものであるが近来世情一般に動もすれば此の偉大な水恩に対する感謝の念薄れつつ有るを愁へ岩国市観光協会会長坂井正夫氏が発起して神社を建立して永々錦川の守護神として崇め水恩に感謝すると共に岩国市永遠の発展を祈念すべし昭和四十九年十一月十日竣工せしものにて偶々前年第六十回伊勢神宮式年御遷宮に際会し神宮の古材の一部の御分譲を得て当白山比咩神社境内に建立せしもので有ります。  以上
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錦川水神社から見た白山比咩神社の桜門です。
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白山比咩神社の社殿の門の桜門(D)です。これより内側が社殿です。
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桜門を拡大いたしました。
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門には見事な龍の彫り物がありました。


門から見た拝殿(E)です。
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左の石柱は瑞拱紅雲日月光と書かれていて右の石柱には祥開黄道乾坤潤と書かれています。
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石柱の注連縄をくぐって撮った拝殿です。祭神に関してはサイトによって祭神1と祭神2の記載がありました。大己貴神および大己貴命は、有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)のことです。古事記に記される因幡の白兎の神話に大国主命が登場するのは有名な話です。
 名称  白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ) 
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 祭神1 白山比咩 (しらやまひめのかみ) 
     大己貴  (おおなむちのかみ
 祭神2 菊理媛  (きくりひめのみこと
     小白山比咩(こしらやまひめにみこと
     大己貴  (おおむなちのみこと)大国主
 SV  https://goo.gl/maps/9vedyiS8mVP2EXoG8
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拡大した拝殿の写真を掲載しました。拝殿の後ろには本殿があります。クリックすると拡大こちらの写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
右は青木哥彦が描いた白山比咩神です。神社の名前になっている祭神である白山比咩神は菊理媛神と同一神とされていて、古事記には記載されていませんが日本書紀の一書(第十)に一度のみ出てくる神(命)です。記載の原文を枠内に記載します。白山比咩神(菊理媛神)のことはほとんどわかっていませんが、伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされているそうです。
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。 時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。 是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
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拝殿の前には立派な青銅製の灯篭がありました。こちらの写真もクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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斜め方向から撮った拝殿です。
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参拝のしかたの説明板がありました。神拝詞(となえことば)が書かれているのは珍しいので写真に撮りました。
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拝殿の後ろには本殿(I)があります。左の建物が拝殿と社務所です。
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本殿には近づけないので写真を拡大いたしました。
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拝殿の横には湧き水が流れ出るところがありました。
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湧き水はこちの溝を流れて最終的には錦川に流れていくのだと思います。さすが境内に錦川水神社があるだけのことはあります。
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こちらは白山比咩神社の拝殿の横にあった御霊神社です。こちらの建物は御霊神社の拝殿(F)で後ろに本殿がありました。御霊神社には鎌倉権五郎命を祀っているそうです。
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こちらが御霊神社の本殿(G)です。由来は調べ切れていませんが、立派な本殿を持つ神社でした。
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謎の建物の前に対の四角い石灯篭が置かれていました。
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こちらが謎の建物(H)です。倉庫のようにも感じる建物がネットで見てもわかりませんでした。
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以前の記事で紹介したように1884年(明治17年)に建立された吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたものを1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。つまり1728年~1884年にはこちらの社殿は白山比咩神社の境内にあったことになります。
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古地図(作製年不明)の中に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。クリックすると拡大この時は吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから白山比咩神社は吉香神社より前からあったことが判ります。白山社の文字の左側に治功社の文字が読み取れます。吉香神社は明治5年に吉川家の氏神社3社(治功社、高秀社、鎮昭社)を統合した神社だそうです。今は治功社の鳥居が建っていたあたりに柏原美術館(2020年10月1日に岩国美術館から改称)が建っています。ネットで調べてみると明治4年の廃藩置県の後、吉川経健は東京移住を命ぜられたときに治功社と高秀社と鎮昭社は廃社となる筈ででしたが岩国城下の旧士民が吉川家に請うて、高秀社と鎮昭社の二社を治功社に併合して、明治6年に吉香神社と号したそうです。さらに明治18年4月(1885年)に白山神社境内から治功社(吉香神社)が居館跡(御城跡)に移転したことが判りました。岩国藩藩主の吉川家は藤原氏南家の支流で駿河国入江庄に住んで入江氏を称した維清3代の孫、入江景義の嫡男経義が寿永・文治の頃(1183~86)入江庄吉川(静岡県清水市)に居館を構え、吉川と称したのが始まりだそうです。
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白山比咩神社を広い範囲の地図で紹介したいと思います。赤色マーク( )は私が3歳から10歳(少学4年)まで住んでいた場所(井口)です。通っていた幼稚園は聖モニカ幼稚園で、小学校は広島市立井口小学校でした。今は大きな小学校のようですが私が通っていた頃は1学年が1クラスでした。私のクラスは34人だったので全校生徒数は約200人の規模でした。0歳~2歳までは兵庫県に住んでいました。10歳~36歳までは主に兵庫県に住んでいて、その後は千葉県に住んでいます。

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シロヘビ館 白へびの赤ちゃん「ラブちゃん」 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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以前に錦帯橋に来た時に、シロヘビ館を新しく(リニューアル)するために、仮設のシロヘビ観覧所がソフトクリーム店の前に作られていたので、子供の時以来初めてシロヘビを見たことを報告させていただいたことがあります。その仮設シロヘビ観覧所でシロヘビを2015年12月26日に見て以来、リニューアルされたシロヘビ館を訪れたいと思っていました。5年半以上経ちましたが、やっと今回2021年9月18日に実現させることが出来ました。上の写真は2020年10月31日に生まれたばかりの白ヘビの赤ちゃんです。手のひらに乗っているので大きさが判ってもらえると思います。この写真が載ったパネルが掲載されていたので、そのパネルを撮った写真から切り取りました。これが白ヘビなのかと思われる方がおられると思いますが、生まれたばかりの赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けることからオレンジ色の模様が浮き上がって見えるそうです。クリックすると拡大成長して大きくなると模様がなくなり、右の写真のように白色かクリーム色になります。名前はラブちゃんです。頭の額にハートマークがあったことから命名されたそうです。あとでラブちゃんの今の姿を紹介したいと思います。頭の模様はいろんな形が現れるそうですがハート型は珍しいそうです。

シロヘビ館を最初に入った部屋の展示物です。江戸時代の白へびと人々の関りを表したものです。岩国ではネズミなどを捕ってくれる白へびを大切にしていたのです。
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展示されていた古地図に米蔵の場所が書かれていたことから上の写真は、その米蔵を再現したものなのかもしれません。
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入口て写真のタッチペンが渡されました。このタッチペンで展示物の操作を行うことが出来るのです。主に子供たちが興味深くタッチペンで操作していました。指でも操作できるのですが、新型コロナ対策として消毒したタッチペンを渡しているのだと感じました。


展示物の一部を紹介します。細長いものは脱皮したヘビの皮です。
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こちらがガラス張りのシロヘビの展示室です。多くのシロヘビは岩の下にいるのですが表に出てきていたのは1匹でした。左端に見える円筒状のケースには冒頭で紹介したシロヘビの赤ちゃんのラブちゃんが入っています。ただし、生まれて11ケ月経つのでオレンジ色の模様はありませんでしたが、体は小さな赤ちゃんヘビでした。
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上のシロヘビも岩の下に入っていきました。爬虫類の4目の中でヘビが属する有鱗目は7160以上の種がいる最大のグループで、その中のヘビ亜目(ヘビ)は3000以上の種がいます。右の写真が旭山動物園のアオダイショウです。岩国のシロヘビ(白蛇)はアオダイショウが白化したヘビです。クリックすると拡大
 カメ目       Testudines   約500種
 ムカシトカゲ目   Sphenodontia  2種のみ
 ワニ目       Crocodilia    23種
 有鱗目       Squamata   
  トカゲ亜目    Sauria     4000種以上
  ヘビ亜目(ヘビ) Serpentes   3000種以上
  ミミズトカゲ亜目 Amphisbaenia 約160種
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岩の下に沢山のシロヘビがいました。
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こちらがラブちゃんが入ったケースです。真ん中に大きな拡大鏡になっていますが、ラブちゃんは地面にいました。
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こちらが現在のラブちゃんです。オレンジ色の縞模様は少なくなっていました。ハートマークまでは確認できませんでした。ネットで確認した結果、2021年3月3日の時点ではハートマークが確認できました。
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ハートマークの赤ちゃんシロヘビのラブちゃんの説明を紹介します。枠内が転記した内容です。
ラブちゃん 恋愛の神様の使い!?
シロヘビの赤ちゃんにロマンチックなハートマークを発見!!
このようにハートに見えるものは、飼育員でもめったに見ることが出来ません。拝めば、ラブ運上昇かも!!
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シロヘビの赤ちゃんは皮膚が薄いのでオレンジ色の模様であることの説明が書かれていました。
生まれた時はオレンジ色
赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けるため、オレンジ色に見えます。特に頭部にはいろんな形の模様を見ることができます。
しかし、成長すると模様は次第に消えていきます。大人になる頃には、体の色は白色またはクリーム色になります。
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シロヘビ館の外観を撮り忘れていたのでストリートビューを掲載させていただきました。


航空写真で見たシロヘビ館です。右斜め下方向が前記事で紹介した鵜飼育施設(吉香 鵜の里)です。


錦帯橋のシロヘビ館を紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。


以前に掲載したシロヘビの記事「岩国のシロヘビ 天然記念物」を紹介します。

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鵜飼育施設「吉香 鵜の里」 吉香公園 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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岩国高校記念館の次に訪れたのは鵜飼育施設(う しいく しせつ)「吉香 鵜の里(きっこう う の さと)」です。案内板の左後ろある建物が鵜の飼育施設です。錦帯橋の鵜飼」は、日本三名橋の一つ「錦帯橋」を背景に清流錦川で行われます。錦帯橋の鵜飼の起源は古く、今から約380年前と言われているそうです。長い歴史の中で一時中断していましたが、1952年に復興され現在に至っているそうです。
フリー百科事典のWikipediaによれば、鵜飼い・鵜飼・鵜養は飼いならした鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る伝統的な漁法です。中国や日本などにみられる漁法ですが、日本では平安時代から貴族や武士などが鵜飼見物を行ってきた歴史があり、現代でも各地で観光としての鵜飼が行われています。一方、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間はスポーツとして行われたそうです。
書物以外の日本での鵜飼に関する物証としては、5〜6世紀に築造されたとされる群馬県の保渡田八幡塚古墳から、頸に紐を巻きつけ嘴には魚をくわえた形状で鵜飼の様子を表現した「鵜形埴輪」が出土したそうです。

こちらが右の写真の錦帯橋のそばで行われる鵜飼(うかい)に使われる鵜の飼育施設です。クリックすると拡大吉香・鵜の里の施設は鵜飼育施設と左後ろの建物の鵜飼に関する展示施設です。吉香・鵜の里は吉香公園の施設の一つで無料です。と言ってもシロヘビ館や美術館以外のほとんどが無料です。
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こちらの施設は鵜飼(うかい)で使われる鵜(う)を間近で見ることが出来るのが特徴です。日本の鵜飼いは中国からもたらされたと思っていましたが、隋書に倭国(日本)の鵜飼いが書かれた時代(600年)には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法で、その後に中国においても鵜飼い漁法が定着したそうです。
中国の史書「隋書」の開皇二十年(600年)の条の記載内容は、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として「以小環挂鸕鷀項 令入水捕魚 日得百餘頭 (小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る)」だそうです。つまり、鵜飼は世界に誇れるユニークな漁法と言えます。
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中央の金網に近いところに水槽があり、よく泳いでいました。時々羽を広げで羽ばたくので写真のように金網の外まで水が飛んでくるので注意してください。見ている間に4~5回は水をかけられました。
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水槽の横はガラスになっていて水中を潜って泳ぐ姿も見ることが出来ます。日本に生息しているウ科は、ウミウ(海鵜)とカワウ(川鵜)とヒメウ(姫鵜)とチシマウガラス(千島鵜鴉)です。日本では体の大きいウミウが鵜飼に使われていて、内陸部が圧倒的に多い中国ではカワウが使われているそうです。属の分け方には諸説あるようです。
クリックすると拡大  界 動物界     Animalia
  門 脊索動物門   Chordata
 亜門 脊椎動物亜門  Vertebrata
  綱 鳥綱      Aves
  目 カツオドリ目  Suliformes
  科 ウ科      Phalacrocoracidae
  属 ウ属      Phalacrocorax
 種1 ウミウ     Phalacrocorax capillatus
 種2 カワウ     Phalacrocorax carbo 
 種3 ヒメウ     Phalacrocorax pelagicus
 種4 チシマウガラス Phalacrocorax urile
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ウミウ(海鵜)とカワウ(川鵜)の分布図です。ウミウは日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシア南東部に分布しているのに対して、カワウは世界の内陸も含めた広い範囲に分布していることが判ります。
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鵜の飼育ゲージの隣の建物の展示コーナーです。こちらにはトイレや授乳室が備わっています。
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全国の鵜飼も紹介されていました。西方向から紹介します。
日本で鵜飼に使われるウミウは、下で紹介している12ケ所の鵜飼のうち11ケ所には茨城県鵜の岬ウミウ捕獲場で捕獲されたウミウが供給されているそうです。右の浮世絵は渓斎英泉作の「河渡 長柄川鵜飼(木曽街道六十九次)」です。右の下段の小さな写真は全国で唯一船を使わず徒歩で鵜飼が行われている有田川の鵜飼です。現在においては和歌山県有田市(ありだし)の有田川(ありだがわ)の鵜飼は地元で捕獲したウミウが使われている唯一の鵜飼でもあります。
クリックすると拡大 筑後川の鵜飼  福岡県朝倉市
 日田の鵜飼   大分県日田市
 大洲のうかい  愛媛県大洲市
 錦帯橋のう飼  山口県岩国市
 三次の鵜飼   広島県三次市
 有田川の鵜飼  和歌山県有田市
 嵐山の鵜飼   京都府京都市
 宇治川の鵜飼  京都府宇治市
クリックすると拡大クリックすると拡大 ぎふ長良川鵜飼 岐阜県岐阜市
 木曽川うかい  愛知県犬山市
 小瀬鵜飼    岐阜県関市
 笛吹川石和鵜飼 山梨県笛吹市
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クリックすると拡大鵜飼は錦帯橋の傍の上流側で行われます。川の水量が少なくても上流側は鵜飼や屋形船が出せるように写真のように深く作られているのです。こちらの写真は以前に岩国国際観光ホテルで食事をしたときに右の写真の部屋から撮った写真です。
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鵜飼が行われるエリアの航空写真も紹介します。
錦帯橋と、その上流にある錦城橋の間のエリアで鵜飼が行われます。漁の対象となる鮎(あゆ)は北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布していますが、日本がその中心的存在のようです。
クリックすると拡大  界 動物界      Animalia
  門 脊索動物門    Chordata
 亜門 脊椎動物亜門   Vertebrata
  綱 条鰭綱      Actinopterygii
  目 キュウリウオ目  Osmeriformes
 亜目 キュウリウオ亜目 Osmeroidei
 上科 キュウリウオ上科 Osmeroidea
  科 キュウリウオ科  Osmeridae
 亜科 アユ亜科     Plecoglossinae
  属 アユ属      Plecoglossus
  種 アユ       Plecoglossus altivelis


過去も含めて錦帯橋の鵜飼の写真は撮っていなかったので、岩国旅なび岩国市観光協会HPに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を転用させていただきました。吉香・鵜の里の飼育設備の鵜たちが活躍している姿です。2021年の鵜飼が行われたのは鮎釣り(鮎漁)解禁日の6月1日から9月10日でした。つまり鵜飼が見れるのは3ケ月です。右下に長良川の鵜飼のサイトから鵜舟や鵜飼の名称の説明図を転用させていただきました。
鵜の手縄(たなわ)を持っているのが鵜匠です。
 期間 6月1日(火) ~ 9月10日(金)
 時間 19時~21時
    トイレ休憩あり
 料金 大人(中学生以上) 2,200円
    小人(小学生)   1,100円
 予約 5月6日(木)より
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吉香・鵜の里の場所をGoogle地図で紹介します。赤色マーク( )が今回初めて訪れた場所です。
 初めて訪れた場所
 今までに訪れた場所(今回も訪問)
 今までに訪れた場所(今回は行かず)


錦帯橋の鵜飼いを紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。

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岩国高校記念館 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事で紹介した香川家長屋門の次に来たのは岩国高校記念館(岩国高等学校記念館)です。上の写真は岩国高校記念館が建っている広場の入口で二本の石の門柱は昔の岩国高等学校や岩国高等女学校に使われていた門柱と似たものです。右の写真をクリックすると大きな写真を表示するので比較しやすいと思います。下向きの黄色の矢印が私の母です。

下側の赤色マーク( )が香川家長屋門で、上側の赤色マーク( )が岩国高校記念館です。
錦帯橋→佐々木屋小次郎商店(ソフトクリーム)→香川家長屋門→岩国高校記念館→吉香鵜の里(鵜飼育施設)→岩国シロヘビ館→白山比咩神社→旧目加田家住宅→吉香公園の噴水→吉川家(岩国藩主)墓所→永興寺→錦帯橋と紫色ライン(━━)を反時計回りに歩きました。
広場に入ってすぐに右側を向くと正面に緑の中に岩国高校記念館が見えました。
岩国高校記念館は山口縣立岩國高等女學校の校舎の一部を基にして1916年に旧制岩国中学校(現在名:山口県立岩国高等学校)に建てられた御大典記念武道場です。当時の岩国高等学校及び岩国高等女学校のの雰囲気を今に伝えている唯一の建物のようです。御大典記念武道場には岩国高等女学校の建物の一部が使われて建てられたとの記載もありました。
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クリックすると拡大こちらが岩国高校記念館です。建物の中が知りたくてネットで確認すると右の写真が掲載されたサイトがありました。卒業生から講演「岩国高等学校の歴史を学ぶ」を在校生が聞く場面の右の写真が掲載されていました。想像していた以上に立派できれいに整備されていると感じました。
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こちらが正面の入口です。右側にかけられている看板には横山自治会館と書かれていることから、自治会館としても使われているようです。
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入口の屋根の部分を拡大いたしました。
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斜めから撮った岩国高校記念館です。
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宇野千代さんの石碑が建てられていました。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校の跡地の記事の中で紹介したように宇野千代さんは山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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花水木(ハナミズキ)も有名なようです。1912年(明治45年)に日本からアメリカに3000本の桜の苗木が送られてワシントンのボトマック湖畔で見事に花を咲かせたことは有名な話ですが、その桜の苗木の返礼として1915年に花水木が送られたことはあまり知られていない話です。そのことの75周年を記念して植樹されたことを記載した説明版でした。
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こちらの出口から次の目的の吉香 鵜の里(鵜飼育施設)に向かいました。
現在の広大な吉香公園は旧山口県立岩国高等学校の跡地に造られた大公園で、日本歴史公園百選にも選ばれたそうです。岩国中学校は藩校「養老館」の流れをくみ、明治13(1880)年に養老館の跡地に創立され、明治18(188))年に現在の岩国徴古館の位置に移された後、明治34(1901)年に吉香公園の地に移転したとネットに書かれていました。岩国高校記念館は岩国中学校〜岩国高等女学校〜山口県立岩国西高等学校(後の岩国高等学校)で使われてきた由緒ある建物とも書かれていました。
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私が3歳の時の錦帯橋の前で撮った記念写真です。真ん中が岩国高等女学校に通っていた母で、1番右が岩国高等学校に通っていた叔父さんです。1番左が母方の祖母です。手前の子供が私と姉です。母も叔父さんも岩国駅近くの家から学校までの通学のために毎日約10km(往復)を歩いて通っていました。
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山口県立岩国高等学校の沿革を紹介します。2021年は創立141年になり、藩校の養老館からだと174年目になります。クリックすると拡大
一番下の写真はネットから転用させていただいた山口県立岩国高等学校・川西校舎の写真です。撮影は1963年なので5年後の1968年に岩徳線の向山の新校舎に移転いたことになります。この航空写真の場所には、元々は右の写真の母の通っていた山口県立岩国高等女学校がありました。右上の小さな写真をクリックすると9枚の写真を表示します。
青色:男子校 赤色:女子校 黒色:共通 黄緑色:参考
 1847年       前身となる藩校「養老館」が設立
 1868年10月23日 明治元年
 1880年08月15日 横山上口の養老館に山口県立岩国中学校が創立
 1884年03月01日 統合により山口県立山口中学校岩国分校となる
 1885年04月    校舎が完成(現在の徴古館の場所)
 1885年~      吉香公園(横山公園)の前身となる吉香神社の庭園整備
 1887年03月    山口中学校岩国分校が廃止、岩国高等小学校別科が設置
 1887年12月    岩国学校に改称
 1888年01月    山口県玖珂郡岩国学校に改称
 1890年04月01日 防長教育会の管理のもと私立岩国学校に改称
 1897年09月01日 私立岩国学校が県立移管 山口県尋常中学校岩国分校
 1899年04月01日 中学校令の改正により山口県山口中学校岩国分校に改称
 1900年04月01日 山口県山口中学校より分離し山口県岩国中学校に独立
 1901年05月15日 山口県立岩国中学校に改称
 1902年04月01日 山口県玖珂郡立実業補修女学校が創立(明治35年)
 1903年04月01日 横山の元・岩国中学校舎に移転
 1907年04月01日 山口県玖珂郡立岩国女学校と改称
 1909年04月01日 山口県玖珂郡立岩国高等女学校と改称
 1914年03月    宇野千代が岩国高等女学校を卒業
 1915年01月13日 岩国町大字川西の新校舎に移転 現:川西第一街区公園
 1916年06月    御大典記念武道場(現在の岩国高校記念館)が完成
 1918年10月31日 校旗を制定 八稜鏡の絵を背景に「高女」の文字を置く
 1923年04月01日 県立移管 山口県立岩国高等女学校に改称(大正12年)
 1929年04月05日 岩徳線が開業
 1940年04月01日 岩国市発足 岩国町 麻里布町 川下村 愛宕村 灘村が合併
 1941年12月08日 太平洋戦争の開戦
 1944年       光海軍工廠などへ学徒動員が開始
 1945年04月    学校での授業を停止。ただし学徒動員は継続
 1945年08月15日 太平洋戦争の終結
 1945年09月    学校での授業を開始
 1947年04月01日 学制改革 六・三制の実施
 1948年04月01日 新制高等学校 山口県立岩国高等学校(男子校)が発足
 1948年04月01日 新制高等学校 山口県立岩国第一女子高等学校が発足
 1949年03月31日 併設中学校を廃止
 1949年04月01日 統合により山口県立岩国西高等学校・川西校舎となる
 1950年04月01日 統合により山口県立岩国高等学校に改称
 1960年04月16日 川西駅が開業
 1960年11月01日 岩日線(現:錦川清流線)が開業
 1968年04月18日 岩国中学校敷地跡の吉香公園が都市計画総合公園となる
 1968年06月01日 全学年を向山の新校舎に移して川西校舎を廃止
 1999年04年01年 川西校舎跡地に川西第一街区公園を開設


昔の岩国高等学校の写真を紹介したくてネットから山口県立岩国中学校(男子校)とクリックすると拡大山口県立岩国高等女学校の写真を転用させていただきました。こちらが門の表札の通り山口県立岩国中学校です。今でも存在している吉香公園と紅葉谷公園への右の案内板が写っています。右方向が吉香公園で左方向が紅葉谷公園です。背景にある山の形状は吉香公園の岩国高校記念館あたりから岩国城天守方向の形に似ています。→ポチッ
そのことからこちらの建物は現在の広くなった吉香公園の中に建っていたと想像されます。つまり、この時代にも吉香公園があったけれども、山口県立岩国中学校の敷地外に広くなる前の吉香公園が山口県立岩国中学校の敷地外にあったように感じます。調べてみると吉香公園は1885年に旧岩国藩主であった吉川家の氏神社である吉香神社が現在の所在地(吉川氏の居館跡)へ移設されたのに合わせ、同神社の境内および付属地が庭園として整えられたのが始まりで、その時のを公園が右上の案内板で示している公園で、その後、山口県立岩国中学校が川西地区に移転して1968年4月18日に都市計画公園の総合公園の指定を受けて今に至るとのことです。
山口県立岩国中学校の名前が使われていたのは1880年08月15日~1884年02月29日と1901年05月15日~1948年03月31日です。
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こちらが山口県立岩国高等女学校の写真です。山口県立岩国高等女学校の名前が使われていたのは1923年04月01日~1948年03月31日です。門の石柱が、冒頭の写真の広場の入口の石柱と同じ形のなのが判っていただけると思います。
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今は宝塚の実家に住んでいる母の岩国女学校時代の写真を紹介します。黄色の矢印(↓)が母です。クリックすると2倍(面積で4倍)に拡大するので矢印が判りやすいと思います。表示された写真が小さい場合は、その写真をもう一度クリックしてみてください。
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タグ:岩国 錦帯橋
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香川家長屋門 岩国藩家老の家の表門 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で紹介の通したソフトクリームを食べた後に錦帯橋の北西側(錦川の右岸側)の横山地区(旧 横山村)を散策いたしました。最初に訪れたのが上の写真の岩国藩の家老香川氏の表門です。香川家長屋門と呼ばれています。1693年 (元禄6年) に香川正恒(かがわ まさつね)が大工の大屋嘉左衛門に命じて建立したと伝えられています。岩国市の建造物としては最も古いものの一つで、当時の武家屋敷の構えをよく残しています。塀の内側は個人宅のためになどには入れません。ちなみに城や武家屋敷があった錦川の右岸(錦帯橋の北西側)が横山地区であるのに対して、商人たちが住んでいた錦川の左岸(錦帯橋の南東側)は錦見地区です。

場所は佐々木屋小次郎商店から歩いて1分ほどの距離です。この航空写真内の赤色マーク( )のところです。
錦帯橋→佐々木屋小次郎商店(ソフトクリーム)→香川家長屋門→岩国高校記念館→吉香鵜の里(鵜飼育施設)→岩国シロヘビ館→白山比咩神社→旧目加田家住宅→吉香公園の噴水→吉川家(岩国藩主)墓所→永興寺→錦帯橋と紫色ライン(━━)を反時計回りに歩きました。
 香川家長屋門
 佐々木屋小次郎商店
 食事処 むさし


門の正面から見た入口の部分です。桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きで、正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉がしつらえていて、門の左側に茶屋が設けられており、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、馬屋に当てられていたそうです。
一般的に長屋門は上級武士の住宅の表門で、江戸時代に多く建てられた門で、門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用されたそうです。始まりは、諸大名が自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟としたのが長屋門だそです。
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正面からの長屋門の全景が撮れなかったので離れた道からのストリートビュー(SV)を2画面紹介します。木が沢山あって判りにくいけれども入口は長屋門の中央ではなく向かって左寄りにありました。下段が真正面ですが木が多いので上段も掲載したわけです。



こちらが香川家長屋門の説明板です。クリックすると読める大きさに拡大しますが、内容を枠内に転記いたします。
山口県指定文化財
 一 建造物   香川家長屋門一棟
 一 指定年月日 昭和四十一年六月十日 山口県有形文化財
 一 管理団体  岩国市
説 明
 香川家長屋門は岩国藩家老香川氏の表門で今から二百七十年余前香川正垣が建造したもので建築面積123,14平方メートル江戸時代の武家門造の典型として城下町岩国をしのぶ好個の資料である。
 香川家は初め芸州(広島県)八木城主で吉川広家が岩国に移封された当時客分から家老に取り立てられた名門であり、かの歴史的に有名な陰徳太平記は正垣の父正矩苦心の作で正垣の弟景継が大成したものであります。その他香川家からは為政者あるいは歌人の優れた人物が輩出しています。この長屋門は昭和三十年一月二十五日山口県指定文化財顕彰規定により指定されていますがその後昭和四十年山口県文化財保護条例が制定さら同四十一年六月十日山口県有形文化財の指定を受けました。
 なお、この建造物は当主香川晃氏から昭和三十年十月二十五日、岩国市に寄贈されています。
岩国市教育委員会
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古図に書かれていた香川家の場所を紹介します。緑色で囲ったところが香川家の敷地です。赤色で囲っているのが以前に紹介した目加田家です。御城跡と書かれているところが、麓の岩国城(御土居)の跡で現在は吉香神社があるところです。
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長屋門を過ぎて塀に沿って歩いて右に曲がったところの景色です。右の塀は長屋門から続いていました。
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香川家長屋門の紹介の30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。


この奢侈化のように、錦帯橋のソフトクリームを紹介したやまぐち映像図鑑動画の背景にも香川家長屋門が出てきました。下の写真は動画のハードコピーで、クリックすると香川家長屋門が出てくるところからの動画を表示します。
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タグ:錦帯橋 岩国
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佐々木小次郎店で恒例の錦帯橋のソフトクリームが食べれました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前回に錦帯橋に来た2020年12月23日は、いつもソフトクリームを食べていた「佐々木屋小次郎商店」が右の写真のようにクリックすると拡大閉まっていたので、その時の記事で紹介した通り対抗店の「食事処むさし」で初めてソフトクリームを食べました。2013年から14回ほど錦帯橋に来ていたので、もしかしたら新型コロナの影響で閉店してしまったのではないかと心配していましたが、上の写真の通り2021年9月18日に来てみると、うれしいことに営業していました。周辺ではたくさんの人がソフトクリーム食べておられたので、一先ず安心ました。

さっそく食べてみることにいたしました。
今回、ソフトクリームを佐々木小次郎店で食べたので前回紹介したリストを下記のように更新いたしました。昼食場所に人数を書いていないのは、叔父さんと叔母さんと母と私の4人です。
  墓参り年月 昼食場所     食べた店 ソフトクリームの種類数
  2013年03月 山賊
  2013年08月 山賊
  2013年09月 錦果楼
  2014年03月 山賊
  2014年09月 山賊
2014年12月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年03月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年08月 山賊       小次郎
2015年12月 山賊       小次郎
2016年03月 山賊       小次郎
2016年09月 山賊       小次郎
2016年12月 山賊       小次郎
  2017年03月 山賊
2017年09月 山賊       小次郎  165種(むさし)
2017年12月 山賊       小次郎  165種(むさし)
  2018年03月 岩国四川飯店 6人
2018年08月 よ志だ新館    小次郎
2018年09月 わたぼうし    小次郎
2018年12月 山賊       小次郎    
2019年03月 岩国四川飯店 5人 小次郎
  2019年09月 アリス(新岩国駅前)
  2019年12月 たんぽぽ 2人
  2020年09月 列車内 1人
2020年12月 列車内 1人     むさし  170種(むさし)
  2021年03月 列車内 1人
2021年09月 列車内 1人     小次郎
          小次郎:佐々木屋小次郎商店  むさし:食事処むさし
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今回はじっくり時間をかけて選んでみることにしました。
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その時に目に入ってきたのがトッピングでした。好きなソフトクリームにトッピングができるのです。ソクトクリームの種類を選ぶ前に、6種類あるソースの中からベリーベリーソースをトッピングすることを先に決めました。そしてベリーベリーソースに合うソクトクリームを選ぶことにしました。
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選んだのが中央のフローズンヨーグルトでした。シンプルな味がクリックすると拡大ベリーベリーソースに合うと思って選びました。下の写真は右の写真から切り取りました。右の写真をクリックするとソフトクリームの名前が判る大きさに拡大いたします。
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そのソフトクリームがこちらです。自分を褒めてあげたくなる選択でした。ベリーベリーソースは6種類のベリー(ラズベリーやブラックベリーなど)を使っているそうです。ソウトクリームを乗せるコーンにはレギュラーコーンとワッフルコーンがありますが、ワッフルコーンにいたしました。
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食べながら上からの角度でも撮りました。
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食べながらお店の写真を撮りました。
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お店の方にピントを合わせて撮ったソフトクリームとお店のツーショットの写真も紹介します。ソフトクリームのトッピングには次の6種類がありました。右の写真はクリックすると特別に大きく拡大します。
クリックすると拡大 パラパラ        30円
 チョコレートソース   60円
 キャラメルソース    60円
 コーヒーソース     60円
 いちごソース      80円
 ベリーベリーソース 100円
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錦帯橋のソウトクリームを紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。ベリーベリーソースのかかったソフトクリームの画像の部分からスタートするように設定いたしました。動画が終わると頭から再度流れるように設定いたしました。スタート画面の背景にある門は、次の記事で紹介する香川家長屋門です。


2014年12月から食べたソフトクリームの写真を紹介します。残念ながら2014年12月と2018年08月は私が食べたソフトクリーム自体は撮っていませんでした。ソフトクリームの写真をクリックすると大きく拡大いたします。
  2014年12月      2015年03月      2015年08月
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  2015年12月      2016年03月      2016年09月
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  2016年12月      2017年09月      2017年12月
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  2018年08月      2018年09月      2018年12月
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  2019年03月      2020年12月       2021年09月
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むさし店と佐々木小次郎店の位置を地図で紹介します。長州屋の位置も判ると思います。右下の橋が錦帯橋です。マイナス(―)のアイコンを1回クリックすると錦帯橋全体が表示されます。クリックすると拡大
 店名 佐々木屋小次郎商店
 住所 山口県岩国市横山2-5-32
 電話 0827-41-3741
 営業 09:00~19:00 冬場は早仕舞いあり
 定休 不定休
 SV https://goo.gl/maps/Tu8ugoD171DZLqRw6


追伸
前記事(錦帯橋 2021年台風14号通過直後の動画)の追伸の中で紹介していたお台場の撮影スタジオで撮った娘のウエディング写真が届いたので紹介します。

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錦帯橋 2021年台風14号通過直後の動画 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で紹介の通り錦帯橋には2021年9月18日の13時32分に着きました。台風14号が近くを通過した翌日です。

錦帯橋周辺には何度も来ていますが、気になっていたけれども行ったことがなかったのが沢山残っていたので訪れることにいたしました。初めて訪れた場所が赤色マーク( )のところです。次回以降にそれらを紹介したいと思います。本記事では台風の後の錦帯橋を動画を交えて紹介したいと思います。紫色ラインがサンサクルートで、錦帯橋→佐々木屋小次郎商店(ソフトクリーム)→香川家長屋門→岩国高校記念館→吉香鵜の里(鵜飼育施設)→岩国シロヘビ館→白山比咩神社→旧目加田家住宅→吉香公園の噴水→吉川家(岩国藩主)墓所→永興寺→錦帯橋と紫色ラインを反時計回りに歩きました。錦帯橋を渡ってパンサーで岩国寿司を買い岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーで新岩国駅まで行き16時35分の新幹線で帰りました。
 初めて訪れた場所
 今までに訪れた場所(今回も訪問)
 今までに訪れた場所(今回は行かず)


クリックすると拡大こちらが錦帯橋の近くに立てられていた案内板です。クリックすると文字が読みやすい大きさに拡大します。吉香公園には昔の岩国高等学校(岩国高校)があり叔父さんが岩国駅の近くから徒歩で通っていました。右の錦帯橋を背景に撮った小さな写真の中の右端が、その叔父さんです。あとは祖母と母と姉と私です。
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こちらは前回の2020年12月23日に錦帯橋に来た時の写真です。普段は第三橋と第四橋の部分だけに水が流れる程度ですが、今回は台風の後だけに冒頭の写真のように第一橋~第五橋の全ての下を水が流れていました。第三橋と第四橋の部分であっても普段は橋脚の下は水に洗われることはないようですが、今回は全ての橋脚が水に洗われていました。
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 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 348年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m
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台風の後だけあって水が勢いよく流れていました。その様子を動画を撮りました。興味のある方は是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。


静止画(写真)でも水の勢いがある下流側を紹介します。
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箸の上流側静かでした。実は橋の部分で少し水を堰き止められていて水が少ない時でも鵜飼が出来るようになっているのです。
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この写真を見ていただくと、上流側と下流側の水野勢いの違いが判っていただき目と思います。右側が上流側で左側が下流側です。
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この松が以前にも紹介したことがある槍倒し松(やりこかしまつ)です。橋の上からは初めて撮ったので紹介させていただきました。
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ここからが戻りの時に撮った写真です。下流側の写真です。水の勢いは変わっていませんでした。右端に写っている松が「槍倒し松」です。
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水の緩やかな上流側で釣りをされている方がおられました。水面に映った錦帯橋の影が印象的でした。
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写真を拡大されていただきました。
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下流側でも水の静かなところで釣りをされている方がおられました。今回の台風14項のルートはことらです。→ホチッ
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追伸
2021年10月5日の早朝から、また関西に行きます。今は関西に滞在する機会が増えているのですが、結婚した娘たちとの記念写真を撮るために関西から10月1日に関東に帰ってきました。新型コロナのため結婚式はお預けなので記念写真だけは撮ることにしたようです。10月2日にお台場にある撮影スタジオ(ルミナス/LUMINOUS)に行って撮ってきました。いろんなセットがあって下の写真はその中の一つです。娘たちがそれぞれの独身寮から新居に引っ越したのは9月23日と9月25日でした。


撮影に立ち会ったのは1時間程度だったので、撮影が終わるまではこちらの写真の待ち合わせ場所のテレコムセンター西棟の5階にあるラウンジで過しました。14時30分から始まって、こちらのラウンジで会えたのは20時だったので準備なども含めて撮影には5時間30分かかったことになります。ゆっくりと話が出来ました。撮影スタジオは東棟7階でした。
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台風14号の後の山口県への墓参り 岩徳線 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2021年9月18日に兵庫県の宝塚の実家から日帰りで、山口県の周防久保に墓参りに行ってきました。クリックすると拡大実は前日の9月17日に台風14号が山口県を通過することはわかっていましたが、9月17日の朝に天気予報を確認すると周防久保あたりは9月18日は朝から晴れているとの情報により9月18日に墓参りに行くことにしました。早朝に出発することから前日の9月17日に切符を購入いたしました。上の写真は新大阪で撮った「さくら541号」です。

下記が新大阪から周防久保までの実際に乗った列車とバスです。実は新大阪6時50分発の「さくら543号に」に乗っても徳山で9時00分発のバスには間に合うのですが、ある理由により6時25分発の「さくら541号」に乗ることにしたのです。切符は自由席にしていたので変更は問題ないのです。
早朝に起きて運行状況を確認すると岩徳線が台風のために運行見合わせになっていたのです。周防久保に行くまでは問題ありませんが、墓参りの後は岩徳線に乗って川西駅まで行き、錦帯橋のあたりを散策して新岩国から帰ることにしていたからです。完全に運行停止になっていた場合は、徳山からタクシーで墓との間を往復して徳山から帰ることに変更する判断を、徳山駅でする必要があったからです。新大阪6時50分発に乗ると、確認したり、判断する時間がほとんどなかったからです。
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広島で乗り換えてからは快晴に近い天気でした。
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こちらは徳山駅です。JRの駅員の方に確認すると11時に復旧させるようにしているとのことで、予定通りバスで周防久保まで行き墓参りの後はクリックすると拡大周防久保11時34分発(徳山11時14分発の列車)の岩徳線に乗ることにいたしました。周防久保駅は無人駅なので、運行状況をどのように知ればよいかを聞くと徳山駅から放送が右の写真のスピーカーから流れると教えてもらったので、安心してバスに乗って墓参りに行きました。スピーカーの写真は周防久保駅で撮りました。
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予定が決まるとお腹がすいてきました。朝早く宝塚の実家を出てから朝食を食べていないのを思い出しました。この日は車内販売がなかったのです。駅のコンビニでおにぎりとお茶を買いました。広島菜と高菜のおにぎりがあったので即買いました。
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こちらが「広島菜と鮭わかめ」のおにぎりです。麦も入ったおいしいおにぎりでした。
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こちらが「高菜炒め」が入ったおにぎりでした。
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予定通り9時発の兼清行のバスに乗りました。
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予定通り9時33分ごろに久保駅前に着きました。教会のの左側にある建物が岩徳線の周防久保駅の駅舎です。以前にも紹介した通り無人駅です。バスの本数も少なく、タクシーもないので、もし岩徳線が止まったらかなり苦労する場所なのです。
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墓に向かう道端の彼岸花は満開でした。
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お墓のあるお寺に着きました。周辺を掃除して持ってきた花を飾って、線香に火をつけてお彼岸のお参りをした後に、母や姉に見せるために右の記念写真を撮りました。私が着いた時には菊の花が飾られていたので、私の前に父方の従妹が来てくれたのだとわかりました。父方の従妹は下関と広島に住んでいるのです。
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墓参りの後はとりあえず周防久保駅まで来ました。台風14号による倒木は周防久保(すおうくぼ)と大河内(おおかわち)の間であったとの情報がネットに書かれていました。近いところで倒木があったのに驚かされました。
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徳山駅の駅員の方が教えてくれた徳山駅からの放送スピーカーがありました。乗車予定の11時34分までは時間があったので気長に待つことにいたしました。
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復旧予定の11時になっても放送がないので、少し不安になってきました。ネットで運行状況を確認しても「運転見合わせ」のままで、運行再開の情報はありませんでした。徳山駅に電話して確認しようと電話番号を調べているときに、11時30分に復旧見込との放送が流れました。さらに写真のように列車が到着するランプも点灯いたしました。
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岩徳線の運行再開が遅れる場合は、12時:47分発あるいは13時32分の防長バス で徳山に行くこともありうるので、岩徳線の乗車券(切符)を買わないで待っていました。遅れているけれども列車が来ることが分かったので川西駅までの切符を買いました。実はここからが長かったのです。
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放送の内容が判るように動画を撮りました。興味のある方は是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。この放送の後に隣の生野屋(いくのや)駅に着いたとの放送がありました。本来ならば生野屋から5分で周防久保に着くはずなのですが、15分近く待たされました。


スマホの運行状況画面です。
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列車に乗り込んで5分で着くはずなのが15分もかかった理由がわかりました。線路上の安全を確認するために恐ろしくゆっくり走っていたのです。感覚的な速度は15km/hでした。つまり自転車でゆっくり走ると程度のスピードだったのです。台風が通過後に初めて走行するので仕方がないと思いました。
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かなり遅れることを覚悟していましたが、単線のすれ違い駅である周防高森駅を過ぎると順調に走り始めました。対向車が周防高森駅より先は線路上の障害物の有無を確認しているので、通常のスピードで走り始めたのだと思います。
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順調に走り始めた動画を紹介します。以前に紹介した錦川清流線との合流地点の動画も入っています。列車のスピードを比較できると思います。


川西駅に着きました。結局12時21分到着予定が13時19分になったので58分遅れで済みました。最初の調子だし1時間30分は遅れると感じていたのです。
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川西駅を降りる階段です。
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岩徳線の全駅をプロットいたしました。左端(西端)が徳山駅で右端(東端)が岩国駅です。徳山駅から4つ目の駅が周防久保駅で、岩国駅の2つ手前の駅が川西駅です。真ん中あたりの単線のすれ違い駅である周防高森駅があります。


錦帯橋には13時32分に着きました。前回来た時に見れなかったところを散策しました。次回からそれらを紹介したいと思います。本写真をクリックすると特別に大きく拡大(面積で16倍)するように設定いたしました。
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今回の台風14号のルートをアニメーションで紹介します。周防久保に台風が接近した時(2021年9月17日21時ごろ)にアニメーションを一旦停止(8秒)させています。その時の中心気圧は992hPaで最大風速は23m/sでした。台風14号のアニメーションを転用させていただいたサイトです。→ポチッ
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山口縣立岩國高等女學校・跡地 川西第一街区公園 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大クリックすると拡大上の路線ルート情報は2021年3月17日に周防久保に墓参りに行った時の清流新岩国から周防久保までのものです。この墓参りではすでにいくつかの記事で紹介しているように、墓参りの前に錦川清流線に乗ってみました。清流新岩国から錦川清流線に乗って根笠駅で折り返して川西駅に着いたのは10時49分でした。岩徳線の徳山行きの発車時刻11時31分まで42分あったことから、母が通っていた山口縣立岩國高等女學校(山口県立岩国高等女学校)の跡地に出来た川西第一街区公園(Kawanishi Daiichi Gaiku Park/かわにしだいいちがいくこうえん)に行ってみることにいたしました。公園の住所は山口県岩国市川西1丁目21です。
川西駅から川西第一街区公園までの距離は337mと歩いて4分で行ける距離なので、墓参りの往復のルートを決めた時から計画に入れていました。目的は写真や動画を撮って母に見せるためでした。母は岩国市街地にあった家から往復8kmの距離を歩いて通っていたそうです。山口縣立岩國高等女學校の校歌は2番まであって作曲は進藤ユキだそうです。
ネットから転用させていただいた約100年前に撮られた「山口縣立岩國高等女學校」と書かれた門の表札(看板)の写真(左側)と、今回撮った公園の門柱の写真(右側)を並べてみました。同じものかどうかは分かりませんが同じ形式の門柱のようです。公園の門柱のの下側の蝶番の位置を昔の門柱の蝶番の位置を合わせました。つまり公園の門柱は当時よりも深く埋められている可能性があります。

こちらが撮った写真と動画と昔の女学校の写真などで編集して作った動画です。バックで流れているBGMはIndian Walk(2分39秒)です。興味のある方は是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。

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薄赤色に着色したところが川西第一街区公園です。母の記憶などから女学校の敷地は、今の川西第一街区公園よりは広かったようです。岩徳線は走っていましたが川西駅はなかったそうです。川西駅が出来たのは1960年4月16日なので岩日線(現在:錦川清流線)の開業(1960年11月1日)を見越して作られたものと思われます。クリックすると拡大今は建物があって岩徳線は見えませんが、当時は建物が無く校庭から岩徳線や錦川の土手が見えたと母が話してくれました。現在は住宅に囲まれていますが、当時は周辺の住宅はまばらだったようです。右の図は1965年時点の統合後の川西校舎です。この図から校舎と岩徳線の間の敷地は運動場であったことが判りました。航空写真内の想定される「想定される女学校の敷地」は山口県立岩国高等学校に統合後の川西校舎と同じとして薄紫色に着色いたしました。
 ━━ 川西駅→女学校跡地への徒歩ルート 337m
 ━━ 川西駅→錦帯橋への徒歩ルート   1326m


川西駅の最も岩国側のホームの端から女学校跡地方向を撮った写真です。矢印の位置が女学校跡地(川西第一街区公園)の中心位置です。写真をクリックすると矢印のない拡大写真を表示します。ただし、周囲の建物のために川西第一街区公園を確認することは出来ません。上の航空写真の黄色の直線が方向を示すライン(直線距離 248m)です。線路方向に見える山は岩国山(標高277.8m)です。
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ネットから1925年(大正14年)の山口縣立岩國高等女學校の写真を2枚転用させていただきました。クリックすると拡大母が入学する前の体育会の写真のようです。岩徳線が開業する前で、女学校が山口県玖珂郡立から山口県立に変わって2年後の写真です。
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山口県立岩国高等女学校と関連事項の.Wikipediaに書かれていた沿革を紹介します。学校の歴史は1902年から119年続いて、その間に女学校の呼名が使われていたのは1902年から1949年の47年間です。今回の場所が学校として使われたのは1915年から1968年の53年間で、その間に女学校の呼名が使われていたのは1915年から1949年の34年間です。写真は上の写真と同じ1925年(大正14年)に撮られたものです。動画の最初に出てくる山口懸立岩國高等女學校跡地と刻まれた石碑は川西第一街区公園が開設された翌年の2000年(平成12年)に建立されました。4年後の1929年に右半分の小高くなっている部分と住宅の間あたりに岩徳線が建設されました。右の遠くに霞んで見えている山は岩国山と思われます。
 1868年10月23日 明治元年
 1902年04月01日 山口県玖珂郡立実業補修女学校が創立(明治35年)
 1903年04月01日 横山の元・岩国中学校舎に移転
 1907年04月01日 山口県玖珂郡立岩国女学校と改称
 1909年04月01日 山口県玖珂郡立岩国高等女学校と改称
 1914年03月    宇野千代が岩国高等女学校を卒業
 1915年01月13日 岩国町大字川西の新校舎に移転 現:川西第一街区公園
 1918年10月31日 校旗を制定 八稜鏡の絵を背景に「高女」の文字を置く
 1923年04月01日 県立移管 山口県立岩国高等女学校に改称(大正12年)
 1929年04月05日 岩徳線が開業
 1940年04月01日 岩国市発足 岩国町 麻里布町 川下村 愛宕村 灘村が合併
 1941年12月08日 太平洋戦争の開戦
 1944年       光海軍工廠などへ学徒動員が開始
 1945年04月    学校での授業を停止。ただし学徒動員は継続。
 1945年08月15日 太平洋戦争の終結
 1945年09月    学校での授業を開始
 1946年04月    修業年限が5年となる
 1947年04月01日 学制改革 六・三制の実施
 1949年04月01日 統合により山口県立岩国西高等学校・川西校舎となる
 1950年04月01日 統合により山口県立岩国高等学校に改称
 1960年04月16日 川西駅が開業
 1960年11月01日 岩日線(現:錦川清流線)が開業
 1968年06月01日 全学年を向山の新校舎に移して川西校舎を廃止
 1999年04年01年 川西校舎跡地に川西第一街区公園を開設
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ネットから転用させていただいた1963年の航空写真を紹介します。
クリックすると拡大山口県立岩国高等女学校は上で紹介している沿革のように統合されて名前は山口県立岩国高等学校になっています。母が通っていた時の右の集合写真などから判断して運動場に沿った細長い校舎は母の時代にはなかったと思われます。2枚の集合写真が交互に表示されていますが、1枚は校舎を背景に運動場で撮られたもので、もう1枚はいくつかの校舎の間の庭で撮られたものと思われます。校舎が建てられた場所は運動場よりは高くなっていることが集合写真やネットの右下の写真で分りました。クリックすると拡大もしかしたら錦川の氾濫に備えた対策だったのかもしれません。運動場の手前には岩徳線も写っています。1963年なので川西駅はすでにできていますが、写真より左の方なので写っていません。左上に写っている道路は現在の山口県道112号藤生停車場錦帯橋線ですが、当時はまだ県道にはなっていませんでした。
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校舎内の写真もネットから転用させていただきました。ただしいずれの写真も母の時代より少し後に撮られた写真と思われます。左上から順番に職員室、階段教室、作法室、調理教室(1951年)、廊下です。
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門に「山口縣立岩國高等女學校」の表札がかかった写真もネットの約100年前の玖珂郡からクリックすると拡大転用させていただきました。右の写真は女学校の建物ではありませんが、女学校の校舎の一部を基にして1916年に旧制岩国中学校に建てられた御大典記念武道場で、今は岩国高校記念館として吉香公園に保存されています。白黒写真の女学校の建物の色を想像していただくために役立つと思います。
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川西第一街区公園の入口の写真です。門柱と門柱の間が広いし、女学校の門はもう少し山口県道112号線に近い方(背中方向に進んだ場所)にあったので当時の門柱を移設して建てたのかもしれません。いずれにしても門柱自体は当時の門柱だと思われます。記事の冒頭で紹介した公園の門柱の写真は本写真の右側の門柱です。門柱には扉を取りつける蝶番の金具がついています。下側の金具は地面に近いので門柱は当時よりも深く埋められているように感じます。当時の航空写真から判断すると、この広場は運動場ではなく校舎が建っていたエリアのようです。


以前の記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」の中の女学校に関しての記載内容を転記する形で掲載いたします。

写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。クリックすると拡大日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立した右の写真の曻地三郎(しょうち さぶろう)が岩国高等女学校の教員だったことがあり、その時に母は授業を受けたことがあるそうです。受けた科目は修身(1890年~1945年に存在)で今で言えば道徳のようなもののようです。 その後1948年に姓が山本から曻地に変わったので母は山本先生と呼んでいます。右の写真をクリックすると曻地三郎が105歳の時の動画を表示します。
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新岩国駅前のカレー専門店で食事をしました。 アリス [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事の「清流新岩国駅 錦川清流線」で、2019年09月の墓参りの時に昼食で利用させていただいたアリスの写真を掲載させていただいたのを機会に、その時の昼食を紹介させていただきます。実は2019年9月の墓参りは叔父夫婦と行く最後の墓参りだったのです。叔父さん運転免許を2019年9月末で返納したしまうからだったのです。そのため新岩国駅前のレストランで食事をしてみることにしたわけです。ここならば運転免許を返納後も錦川清流線かタクシーかバスで来てもらって会うことが出来ると思ったからです。上の写真がアリスです。2021年3月に新岩国駅から清流新岩国駅につながった連絡通路から撮った写真です。

今までに周防久保の墓参りに行った時に昼食を食べた場所( )を紹介します。山賊(いろり山賊、桃李庵、竈)は離れているので2枚の地図を掲載いたしました。
2013年3月からの墓参りの時の昼食を食べたお店を紹介します。2012年12月以前は母が1人で新岩国まで行き、そこから車で迎えに来た叔父夫婦の3人で墓参りをして昼食を一緒に食べて新岩国から母が1人で帰っていました。墓参りは基本的に3月と8月と9月と12月の年に4回ですが、抜けている部分は私の姉と母と叔父夫婦の4人で行っていたはずです。
2019年12月以降は叔父さんが運転免許を返納したため、母と私(レンタカー)、又は母と姉(タクシー)の予定でしたが新型コロナのため、2020年3月と2020年8月の墓参り中止し、2020年9月以降は私1人の墓参りとしました。2020年3月はレンタカーを予約していましたがキャンセルいたしました。
山賊は、新岩国とお墓のある周防久保の間にあることから、ほとんどの昼食は下記のリストのように山賊でいただきましたが、岩国四川飯店と'わたぼうし'は事前に予約して入ったお店です。右の写真は上から山賊(15回)、錦果楼(1回)、岩国四川飯店(2回)、よ志だ 新館(1回)、わたぼうし(1回)、アリス(1回)、たんぽぽ(1回)です。括弧内数値は食事をした回数です。写真をクリックすると山賊は掲載記事を表示し、他は拡大写真を表示します。リストの頭に SC-00.jpgが付いている時に錦帯橋の傍で名物のソフトクリームを食べました。→ポチッ1 ポチッ2
  墓参り年月  人数 昼食場所   移動手段       料理の写真
クリックすると拡大  2013年03月 4人 山賊     叔父さんの車
  2013年08月 4人 山賊     叔父さんの車
  2013年09月 4人 錦果楼    叔父さんの車
  2014年03月 4人 山賊     叔父さんの車
  2014年09月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大2014年12月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年03月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年08月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年12月 4人 山賊     叔父さんの車
2016年03月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大2016年09月 4人 山賊     叔父さんの車
2016年12月 4人 山賊     叔父さんの車
  2017年03月 4人 山賊     叔父さんの車
2017年09月 4人 山賊     叔父さんの車
2017年12月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大  2018年03月 6人 岩国四川飯店 叔父さんの車
2018年08月 4人 よ志だ新館  叔父さんの車
2018年09月 4人 わたぼうし  叔父さんの車
2018年12月 4人 山賊     叔父さんの車    
2019年03月 5人 岩国四川飯店 叔父さんの車
クリックすると拡大  2019年09月 4人 アリス    叔父さんの車
  2019年12月 2人 たんぽぽ   レンタカー
  2020年09月 1人 列車内   路線バスと岩徳線
2020年12月 1人 列車内   路線バスと岩徳線
  2021年03月 1人 列車内  錦川清流線と岩徳線
クリックすると拡大         4人:叔父夫婦と母と私
         5人:叔父夫婦と母と姉と私
         6人:叔父夫婦と従妹夫婦と母と私
         2人:母と私
         1人:私のみ(新型コロナのため)



アリスの店内の写真です。アリスはGoogle地図やぐるなびなどには「カフェ&ランチ アリス」と登録されています。営業時間と定休日は上方が古い可能性があるため電話での確認をお薦めします。
 店名 カフェ&ランチ アリス
 住所 山口県岩国市御庄1-107-10
 電話 0827-46-0107
 営業 11:00~14:00 17:00~23:00
 定休 第3木曜日
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注文したカレーライスです。
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アリスはカレーとハンバーグのお店でした。メニューを見るとカレーの種類が豊富なのでタイトルにカレー専門店と書かせていただきました。沢山のカレーが書かれていたので紹介します。上の写真は一番シンプルなカレーライスでした。書かれていたカレーの種類を紹介します。つまり、上の写真のカレーライスが最もシンプルなカレーだったのです。
カレーライス、お子様カレー(ジュース付き)、エビフライカレー、とりからカレー、あじフライカレー、カツカレー、カキフライカレー、メンチカツカレー、ハンバークカレー、ふわとろオムカレー、石焼カレー、チーズカレー、焼きカレー、納豆チーズカレー、カレードリア、超・激辛カレー
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こちらがエビフライカレーです。
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私はハンバークカレーにいたしました。カレーとハンバーグのお店なので両方味わいたかったのです。
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ハンバークを切ったところを拡大いたしました。
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もちろんビールをいただきました。ハンバーグがビールに合いました。もちろんお替りいたしました。
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今までであれば昼食の後は錦帯橋に移動してソフトクリームを食べました。こちらのお店にはソフトクリームはありませんでしたが、かき氷があったので、デザートにかき氷をいただきました。
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こちらが私が食べたかき氷です。
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クリックすると拡大みぃにゃんさんとkazu-kun2626さんから上の写真のかき氷がブルーハワイと教えていただいたので、上から2枚目の店内の写真(右の上段の写真)の中で、探した結果、下の写真のようにブルーハワイの文字を見つけました。ブルーハワイ以外にイチゴとレモンとグレープと抹茶が書かれていました。ミルクのかき氷はメニューにはなく特別に頼んで作っていただきました。クリックすると拡大この写真をクリックすると今月のお薦めが、骨付フライドチキン(250円)とQUEENセット(特製ハンバーグのオリジナルソースカレーセット 1500円)であることが分かっていただけると思います。予約して食べに来られる方もおられるレストランでした。
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錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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山口県の周防久保の墓参りをした2020年12月23日の帰りに錦帯橋や岩国城や武家屋敷や吉香神社に行きました。岩徳線の川西駅から岩国城に行く時は、上の写真の奥側から手前側に錦帯橋を渡り、帰りは手前側から奥側に錦帯橋を渡って岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行き実家の宝塚まで帰りました。奥側から手前に歩いた時は動画を撮ってすでに紹介いたしました。本記事では手前から奥側に歩いた時に撮った写真を紹介したいと思います。上の写真は山の上の岩国城から撮った錦帯橋です。写真をクリックすると文字なしの拡大写真を表示します。

上の岩国城から撮った写真の奥側(南東/左岸/岩国市岩国)側から手前側(北西/右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。地上から撮った下の写真にも第一橋~第五橋を書き込んでみました。錦帯橋に関しては2020年10月07日にも詳しい説明の記事を掲載いたしました。→ポチッ
クリックすると拡大 橋名 錦帯橋
 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 348年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m
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江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二橋、第三橋、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一橋、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りです。錦帯橋は単に昔の橋が残されているのではなく伊勢神宮のように架け替えの技術が伝承されてきた橋なのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示         架け替え
 第一橋  約40年ごと 10回
 第二橋  約20年ごと 14回
 第三橋  約20年ごと 14回
 第四橋  約20年ごと 16回
 第五橋  約40年ごと  9回


Googleマップの航空写真でも錦帯橋()の第一橋~第五橋の位置を紹介します。さらに橋脚の部分は薄黄緑色に着色いたしました。クリックすると拡大
橋の上流側(右上方向)は川の水量が少ない時でも水を湛えていて、屋形船に乘ったり右の小さな写真の鵜飼を見ることが出来ます。
クリックすると拡大右の小さな写真が錦帯橋の入橋券です。山頂の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。


写真は撮った順に紹介します。つまり第五橋から第一橋に向かって紹介していくわけです。こちらの写真は第五橋に足を踏み出す前に撮った錦帯橋です。右側が錦川の下流側です。川は左側から右の方向に流れたいます。
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同じ場所から橋の渡る方向の正面を撮った写真です。
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同じ場所から上流側をとりました。写っている橋は錦城橋で、その橋の右側の大きな建物が岩国国際観光ホテルです。上の航空写真のところで説明させていただいたように、水が湛えていることが分かっていただけると思います。
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第五橋から見た錦川の上流側の水面です。この日は水量が少なくて橋から離れると鏡のような水面でした。橋がある部分の川底は石垣のように石が組まれています。これによって大雨で激流になっても川底がえぐられることを防ぐとともに、上流側に水を貯めているのだと思います。
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上の写真と同じ場所から第四橋を撮りました。第四橋には階段が付いていました。階段が付いているのが第二橋と第三橋と第四橋です。
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第五橋と第四橋の間の橋脚の部分まで来ました。
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橋脚の部分から第四橋の階段を撮った写真です。
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第四橋のトップの部分まで上がると階段はありませんでした。次の第三橋が見えます。
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第四橋のトップからズームで第三橋と第二橋を撮った写真です。
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第四橋と第三橋の間の橋桁の上流側です。水嵩が増しても水が切れるように上流側は尖っています。
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錦帯橋が作られた初期の頃に激流により橋脚が流された経験が今の橋脚に行かされているのだと思います。見るからに頑丈そうです。
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石の楔で石どうしつないでいました。橋の上の雨水を流す樋上の溝も橋脚に掘られていました。
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第三橋の上から見た下流側の景色です。
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第三橋と第二橋の間の上流側の橋脚です。
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第三橋と第二橋の間の下流側の橋脚です。橋脚の上流側と下流側は同じ形をしていることが分かりました。石をつなぐ楔や雨樋がありました。
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第二橋を登り始めた位置からの下流側の景色です。一番高いところが城山の山頂だと思われます。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った第二橋の階段です。右側が下流側の欄干です。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った上流側の欄干と岩国国際観光ホテルです。
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第二橋のトップから撮った下流側の左岸の方向の写真です。
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第一橋を渡り切った位置から第一橋と第二橋を撮った写真です。右側の山の上に岩国城の天守閣が見えます。この写真は左岸から岩国城に行く時に撮った写真です。、
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左岸の上流側から撮った写真です。この後、冒頭で説明したように岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行ったわけですが、ホテルで大失敗をしてしまいました。
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ホテルの入口の写真は撮っていなかったのでSVを掲載させていただきました。
タクシーが来るまで少し時間がかかるとのことで、ホテル内でタクシーを待っていて乗ったわけですが、カメラをホテル内に忘れてしまったのです。気がついたのは新岩国の改札を通った時でした。いつも手にカメラをぶら下げているので手ぶらなので気がつきました。携帯(スマホ)のバッテリーが切れかかっていたし、新幹線がすぐに到着するために電話して見つかっても取りに行けないので、実家に着いてからホテルに電話することにしました。


実家に着いて右の小さな写真の岩国国際観光ホテルに電話するとカメラはすぐに見つかりました。クリックすると拡大着払いで送ってもらった時の宅急便の伝票です。ほんと、助かりました。カメラが無くなってしまっていたら本記事を含めて次の8つの記事を書くことが出来ませんでした。新年の挨拶の記事も内容が変わっていました。
 錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。
 岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ)
 武家屋敷 旧目加田家住宅
 錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。
クリックすると拡大 岩国城
 岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流
 岩徳線の動画 その1 柱野駅到着
 岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色
 新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦
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岩国国際観光ホテルの方には大感謝です。岩国国際観光ホテルを利用させていただいたのは4度記憶にあります。2003年と2007年は法事で利用させていただきました。2003年には両親と姉と私の4人が泊まりました。2003年の写真は法事の翌朝の朝食時の写真で、父と母と姉と叔父さんと叔母さんが写っています。2018年と2019年は墓参りの時の昼食で四川飯店を利用させていただきました。
     2003年09月14日           2007年04月14日
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     2018年03月25日           2019年03月23日
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2007年04月14日には桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。
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2003年09月14日から2020年12月23日までの間に少なくとも錦帯橋に13回来ていますが、錦帯橋を渡ったのは2020年12月23日のみです。ただし子供の頃は何度も渡っているはずです。桜が咲いていた2007年04月14日の錦帯橋の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに面積で16倍の拡大写真を表示します。
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往路の時に撮った錦帯橋の動画は一度掲載させていたたきましたが、あらためて紹介させていただきます。第一橋から第五橋に向かって歩いた動画です。


溺愛猫的女人さんから金鳥のCMに錦帯橋が出てきたのを聞いて探してみました。小柳ルミ子さんが歌う渦巻音頭です。 


記事の最初の方で小さな写真で説明していた岩国旅なび岩国市観光協会HPに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を紹介します。
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2021年2月23日22時19分に累計アクセス数(累計閲覧数)を確認すると1500万アクセス数を越えて15,001,655アクセス数になっていました。
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 累計アクセス数 15,001,655 件
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今までに到達アクセス数を報告したのは次の6回で、今回が7回目となりました。
クリックすると拡大     初記事掲載      2009年05月05日15時ごろ
     1,000,000アクセス 2010年11月17日12時ごろ
     2,000,000アクセス 2011年10月09日22時ごろ
     2,277,777アクセス 2012年01月31日07時34分
クリックすると拡大     5,000,000アクセス 2014年03月30日16時44分
     9,229,999アクセス 2016年12月01日03時40分
    10,000,000アクセス 2017年07月04日06時26分
    15,000,000アクセス 2021年02月23日22時ごろ

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岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ) [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真は山口県岩国の錦帯橋の近くにある吉香神社の一ノ鳥居です。真直ぐに進むと順にニノ鳥居、神門、拝殿、本殿があります。
吉香神社は前記事の武家屋敷 旧目加田家住宅で紹介した古地図の中の御城跡と書かれている場所に1884年(明治17年)に建立されました。吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は元々は西側に隣接した白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたもので1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。

クリックすると拡大クリックすると拡大古地図(作製年不明)の中に吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから、古地図が描かれたのは幕末から吉香神社が建立された明治17年までの間に作られたと思われます。さらに絞り込むとするならば廃城令が出た1873年(明治6年)から1884年8(明治17年)の間の可能性が高い気がします。右の小さな古地図に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。
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クリックすると拡大上の古地図を部分的に切り取った全体の古地図である旧岩国城下図(横山)を紹介します。旧岩国城下図(横山)は錦川の右岸(上流から見て)の地図で、上流から見て左岸の地図が右の慶応絵図「岩国城下図(錦見)」です。右の小さな古地図をクリックすると横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を表示します。
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現代の航空写真で吉香神社と白山比咩神社と武家屋敷(目加田家住宅)の位置関係を紹介します。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に吉川広家が築き始めた城です。戦時のために山上と、住むために麓の2ケ所に城が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。山上の城は4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。明治になった、その麓の城(御土居)跡に白山比咩神社から社殿が移築されて吉香神社になったわけです。
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吉香神社の部分を拡大して参道が水平になるように回転させました。左端の掘から拝殿までを撮った写真で紹介したいと思います。
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堀を渡る石橋の上からの景色です。写真の中の建物は錦雲閣(きんうんかく)です。錦雲閣は旧藩時代の矢倉に似せて1885年(明治18年)に造られた絵馬堂です。岩国市の登録有形文化財となっています。
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岩国城の天守閣からは錦雲閣を見ることが出来ました。クリックすると拡大拝殿や本殿は木が多くて全体は見れませんでしたが黄色の丸印(〇)の部分に本殿の屋根を見ることが出来ました。写真をクリックすると本殿の屋根が写った写真を表示します。
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冒頭の写真の一ノ鳥居です。
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進んでいく道の右側に茶店のような建物がありました。調べてみると星出茶屋で食事などが出来るようです。
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更に進むとニノ鳥居がありました。
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こちらが社殿の入口の神門です。12月23日ですが既に門松が置かれていました。
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神門を拡大いたしました。本写真をクリックすると特別に大きく(面積で16倍)拡大いたします。
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神門から拝殿に向かう途中の左側の景色です。


こちらが吉香神社の拝殿です。奥に本殿があります。
吉香神社は岩国藩主の祖先吉川元春公が、天文年間安芸国山県郡新庄村日の山城主の時、一祠を建て祖霊を奉祀したことに始まるそうです。慶長5年吉川広家は関ケ原役後雲州から岩国に移封されたが、このとき当地横山に居館を構え築城し、正徳年間に本社をこの地へ奉遷し、居館の西、城山のふもとに社殿を造営したそうです。明治4年に廃藩置県の令があり、同年5月に吉川経健は東京に帰住後、有志数百人と相はかり同7年本社を後世に残すべく認可をうけて8神を合祀して吉香神社と称したそうです。
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内部が写っている部分を拡大いたします。格子の奥が本殿です。
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本殿の位置を紹介するためにGoogleマップの航空写真を掲載いたしました。マイナスのアイコン(-)を5回クリックすると岩国城天守と錦帯橋が表示されます。


堀に架かる石橋から拝殿前までのストリートビュー(SV)を紹介します。
さらに調べてみると二ノ鳥居から岩国城の山頂駅までの徒歩ルートもSVで見ることが出来ました。→ ポチッ① ポチッ②
山頂への道は徒歩はOKですが、自転車を含む車両は通行できません。→ ポチッ


上で触れた横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を紹介します。吉香神社のところは屋敷と書かれていることや岩国村の文字があることから江戸時代の古地図だと思います。古地図は山口県文書館などから転用させていただきました。錦帯橋も描かれています。
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錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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我家の父方の墓は山口県の周防久保にあり、父が亡くなってからは母は一人で3月と8月と9月と12月の年4回ほど墓参りに行っていました。2013年からは私か姉が付き添い始めました。2019年9月までは叔父さん(母の弟)が新岩国駅まで車で迎えに来ていただき昼食を一緒に食べて新岩国駅まで送っていただきました。2019年9月末に叔父さんが運転免許を返納したことから、2019年12月はレンタカーを新岩国で借りました。2020年3月もレンタカーを予約していましたが、新型コロナ感染拡大のために墓参り中止しました。2020年8月も墓参りを中止しました。2020年9月と12月は母への感染防止のため私一人で墓参りに行ったわけです。1人で身軽なためにレンタカーは使わずに岩徳線と路線バスを利用して墓参りいたしました。叔父さんが車を出していただいている時に下記のリストで小次郎とかかれている時に錦帯橋までソフトクリームを食べに連れてきていただいたのです。すべて佐々木小次郎店でソフトクリームを食べたので、むさし店でも食べたいと思っていました。今回(2020年12月23日)は錦帯橋と岩国城に訪問したので、むさし店でソフトクリームも食べました。佐々木小次郎店が新型コロナのため閉まっていたので、むさし店で食べました。小次郎店が開いていたら迷ったと思いますが、迷わずにすみました。したがってタイトルの通り初めて「むさし」で話題のソフトクリームを食べることが出来ました。それが上の写真です。今回が錦帯橋で食べた14回目のソフトクリームになります。昼食場所に人数を書いていないのは、叔父さんと叔母さんと母と私の4人です。
  墓参り年月 昼食場所     食べた店 ソフトクリームの種類数
  2013年03月 山賊
  2013年08月 山賊
  2013年09月 錦果楼
  2014年03月 山賊
  2014年09月 山賊
2014年12月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年03月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年08月 山賊       小次郎
2015年12月 山賊       小次郎
2016年03月 山賊       小次郎
2016年09月 山賊       小次郎
2016年12月 山賊       小次郎
  2017年03月 山賊
2017年09月 山賊       小次郎  165種(むさし)
2017年12月 山賊       小次郎  165種(むさし)
  2018年03月 岩国四川飯店 6人
2018年08月 よ志だ新館    小次郎
2018年09月 わたぼうし    小次郎
2018年12月 山賊       小次郎    
2019年03月 岩国四川飯店 5人 小次郎
  2019年09月 アリス(新岩国駅前)
  2019年12月 たんぽぽ 2人
  2020年09月 列車内 1人
2020年12月 列車内 1人     むさし  170種(むさし)
  2021年03月 列車内 1人
          小次郎:佐々木屋小次郎商店  むさし:食事処むさし

こちらが、むさし店てす。テレビ朝日のナニコレ珍百景で紹介されたようです。右の小さな写真がいつもソフトクリームを食べていた佐々木小次郎店です。写真のように閉まっていました。
クリックすると拡大 店名 食事処 むさし
 住所 山口県岩国市横山2-1-23
 電話 0827-43-6340
 営業 09:00~18:00
 定休 無休
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2020年の時点で170種類のソフトクリームが食べれました。錦帯橋では1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。
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私は真ん中の紫いもソフトクリームを頼みました。
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これが紫いもソフトクリームです。ただしカメラのピントは前のお店に合わせています。その正面に見える長州屋の前にある縁台でソフトクリームを食べることにいたしました。一時期は長州屋でソフトクリームが売られていて3店で競争している時期もありました。
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むさし店を背景にして撮った紫いもソフトクリームです。今までに錦帯橋で食べたソフトクリームの写真を掲載した記事は次の3つあります。
 2015年03月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2015-03-25
 2015年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2016-01-23
 2017年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2020-10-08
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クリームの食感を感じてもらうためにクリームの部分を拡大いたしました。写真をクリックすると特別に大きく拡大たします。
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クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
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むさし店のソフトクリームの種類数が偶然写った写真を紹介します。
 2014年12月 140種  2017年09月 165種  2020年12月 170種
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2014年12月から食べたソフトクリームの写真を紹介します。残念ながら2014年12月と2018年08月は私が食べたソフトクリーム自体は撮っていませんでした。ソフトクリームの写真をクリックすると大きく拡大いたします。ちなみに2017年12月5日に17歳8ケ月で亡くなった我が家のワンコの名前が「むさし」でした。その「むさし」の写真を空いた最後の空間に入れました。
  2014年12月      2015年03月      2015年08月
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  2015年12月      2016年03月      2016年09月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2016年12月      2017年09月      2017年12月
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  2018年08月      2018年09月      2018年12月
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  2019年03月      2020年12月       むさし
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むさし店と佐々木小次郎店の位置を地図で紹介します。長州屋の位置も判ると思います。


昼食を食べた山賊以外のレストランの位置も紹介します。地図内の臙脂色マーク( )が昼食を食べた「錦果楼、岩国四川飯店、よ志だ 新館、わたぼうし、たんぽぽ、アリス」で、橙色のソフトクリームのマーク( )が「佐々木屋小次郎商店、食事処 むさし」です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックして広い範囲を表示させると山賊も出てくると思います。

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岩国城 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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川西駅(JR岩徳線)から錦帯橋を通って岩国城までの道沿いの景色を2021年1月13日の記事で紹介しましたが、本記事では岩国城に関して記載したいと思います。道沿いの景色を紹介した時にも記載しましたが、岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(御土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。上の写真の現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。
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山上の岩国城の配置図です。
実は現在の天守閣は1608年に完成した天守閣より意識的に南方向に約30mずらして建てられているのです。下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本配置図の北は右上方向です。配置図の中の赤枠()の部分が元の天守閣の位置で、青枠()の部分が現在の天守閣です。復興天守に分類されるのは大阪城や岐阜城や小倉城など14天守あります。名古屋城は木造復元天守へするための工事中です。着色文字は記事として書いたことがあるお城です。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 福山城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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岩国城と錦帯橋の位置関係が判るようにGoogleマップの航空写真に城の絵のマークを入れてみました。地図記号の史跡・名勝マーク(⛬)は昔の天守間の跡があるところです。


昔の天守間の跡と現在の天守間の位置関係を航空写真で紹介します。北は上方向です。クリックするとオリジナルの航空写真を表示します。
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天守閣が建っている辺りから錦帯橋を咲かしてみると木の間に見つけることが出来ました。木が多いことから広く見渡せるところがないので、天守閣に入って上から見ることにいたしました。
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こちらが天守閣への入口です。
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この入城券を買って天守閣に登りました。
こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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急な階段で最上階まで上がりました。
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こちらが最上階です。
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。すでに紹介したように遠くまで見渡せました。錦帯橋が中央にあります。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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錦川がカーブしている範囲を拡大いたしました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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錦帯橋あたりの景色です。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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岩国城から見た錦帯橋を紹介したので、地上から見た岩国城の写真を掲載しました。
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屋根瓦の写真も撮りました。
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東方向の景色です。
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最上階以外には刀剣や鎧や火縄銃などの古い品が展示されていました。特に刀剣の数はすごかったです。
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刀剣が並べられているエリアです。
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見事な長刀もありました。江戸中期の御太刀で銘には「陸奥守藤原包保作 於好以南蛮鉄鍛之」とクリックすると拡大なっていました。全長2mを越える刀から、佐々木小次郎の刀「物干し竿」を連想しました。ただし佐々木小次郎の「物干し竿」の刃長が約3尺なのに対してこの刀の刃長は約5尺(151cm)です。
クリックすると拡大 刀身重さ 5.0kg
 全重量  8.5kg
 刀身長さ 197cm
 刃長   151cm
 全長   210cm
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こちらは甲冑です。鎖鎌も展示されていました。
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外に出て天守閣の周囲を廻ってみました。
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北東方向から天守です。
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天守を見上げた景観です。守りの仕掛けもしっかりと再現されていました。
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石垣の写真も紹介します。
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石垣と天守閣です。
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冒頭の写真より少し遠くから撮った写真です。
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二の丸広場の花木園の中に建っている四阿(しあ/あずまや)です。この後、ロープウェイ乗場に向かいました。
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ロープウェイ乗場の近くに岩国のパノラマ写真があったので紹介します。岩国基地や飛行場や海の向こうの島々も写っていました。クリックすると特別に大きく拡大するので島の名前も読むことが出来ると思います。島の名前を左から読むと大黒神島、倉橋島、鹿島、甲島、柱島、周防大島、前島です。
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パノラマ写真が置いてあるところから写真を撮ればよかったのですが、遠くが霞んでいたので撮らなかったのでロープウェイのゴンドラから撮った写真を紹介します。かすみが無くなると上の写真のようにきれいだったと思います。
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錦帯橋の写真です。奥側(上流から見て左岸側)から第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。クリックすると面積で16倍に拡大するので是非とも見てほしいです。
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ロープウェイの上りは2人だけでしたが帰りは沢山乗られていました。
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すれ違った上りにも沢山乗られていました。時間帯でかなり違うようでした。
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JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図で岩国城の位置を紹介します。城の絵のマークのところが岩国城の天守閣です。

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岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2020年12月23日に墓参りに来た時に岩徳線車内で2本の動画を撮ったことを前記事「岩徳線の動画 その1」で紹介したので、もう1本の動画を本記事で紹介したいと思います。2020年9月25日にも同じように墓参りに来て同じように岩徳線に乗って錦川清流線(にしきがわせいりゅうせん)があることを知りました。錦川清流線は岩徳線に乗り入れて岩国まで行っているのですが、そう合流地点の動画を撮ろうと出発前から思っていて実行して撮ったのが上の動画です。9月25日の時は合流部の写真を2枚しか撮れなかったので動画を撮ろうと思ったわけです。プレーボタン( )をクリックすると錦川清流線が見える頭から2秒のところから動画が始まるように設定いたしました。

岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。錦川清流線の横の道路は山口県道1号岩国大竹線で、もう少し左側で岩徳線と錦川清流線の下をくぐります。
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岩国方面(右側)から来た岩徳線が中央あたりで左上と左下に別れます。左上に別れて思案橋あたりを通っているのが錦川清流線で、左下に行っているのが岩徳線です。


9月25日の時に撮った2枚の写真がこちらです。
錦川清流線は1987年7月25日に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線でが、前身の国鉄岩日線は1960年11月1日に開業しました。つまり路線として開業してのは1987年7月25日になります。この時は河山駅開業でしたが、1963年10月1日に錦町駅まで延伸開業して現在と同じ営業区間となりました。1987年7月25日に錦川鉄道に移管された時に錦川清流線に改称されました。
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上の2枚以外に錦川清流線が写った写真を探してみると前記事で紹介した柱野駅に到着後に撮った写真の中に御庄川(錦川の支流)を渡る錦川清流線が写っていました。写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。その1の動画の51秒~56秒に川の上流に写っているはずですが小さすぎて確認できませんでした。こちらの写真は9月25日に柱野駅を発車直後に目いっぱいのズームでクリックすると拡大撮った写真です。Wikipediaに掲載されていた銀川清流線の車両のNT3000形気動車(せせらぎ号)を右に紹介します。4両が運用されていて4両が番号順にブルー、ピンク、グリーン、イエローなっていて、愛称も一般公募された名前がそれぞれに付けられています。
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上の写真で古びた鉄橋の手前にある橋は思案橋(しあんばし)です。その思案橋の右端からのストリートビュー(SV)で見た錦川清流線の鉄橋です。思案橋は長崎市四日市市大阪市にもあります。


上の鉄橋の川西駅側の端に列車が走っているストリートビュー(SV)を見つけたので追加で掲載しました。上のSVを右側に進んで見て列車を見つけました。1日に錦町方面は10本で川西方面10本であることからSVに列車が写り込むことは一瞬のことなので非常に珍しいことだと思います。新岩国から車で墓参りに行った時はこの鉄橋の下を必ず通っていましたが、列車は見たことはありませんでした。車両は左側から右奥側つまり錦町駅行の車両で、Googleの撮影車は向こうの思案橋側から手前方向に走ってきて撮影されたSVです。SVが更新されると列車は消えてしまうので画面のハードコピーを掲載しました。写真をクリックするとオリジナルのSVを表示します。 車が進んでいく順番のSVです。→SV0 SV1 SV2 SV3 SV4 SV5 SV6 3両SV(錦町) Google撮影車(錦町)
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上がSVのハードコピーで、こちらが本物のSVです。したがって、こちらは拡大や縮小が出来る上に水平方向に回転も出来ます。このSVから車両が消えたらSVが更新されたことを示しています。


SVが更新されて車両が消えてしまう可能性があるのでハードコピーを残しておきます。最後はGoogle撮影車が錦町の車両の車庫の窓に写った画像です。写真をクリックすると拡大写真を表示し、着色文字をクリックするとオリジナルのSVを表示します。錦町でのSV撮影は2013年5月に行われ、思案橋でのSV撮影は2018年4月です。
     SV1          SV2          SV4
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     SV5        3両SV(錦町)      Google撮影車
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Wikipediaに掲載されていた4両を紹介します。3段目の数値は車両番号です。上のSVの車両は「きらめき号」であることがわかりました。写真をクリックすると拡大いたします。
  ブルー      ピンク      グリーン     イエロー
  せせらぎ号    ひだまり号    こもれび号    きらめき号
  3001     3002     3003     3004
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川西駅から銀川清流線の終点の錦町までのルート図です。時間帯に寄り表示が変わります。川西駅の錦町駅行は 7:06 8:39 10:02 11:20 14:28 16:13 17:52 19:13 20:26 21:42の10本です。
別画面で表示したい場合 → 任意別画面 標準別画面 Yahooルート情報
別画面で表示した場合はストリートビュー(SV)が使えます。
ルート選択方法は下記の4つが選べます。
 最適なルート     Le meilleur itinéraire
 最少の乗換      Le moins de correspoins
 最小の歩行量     Le moins de marche à pied
 車椅子でアクセス可能 Accessible en fauteuil roulant


錦川清流線の終点の錦町に行く途中の川を挟んだ道から見た錦川清流線です。ここに列車が走っていると最高の景観になったと思います。中央付近に鉄橋のように見えているのが清流みはらし駅で、イベント列車のみしか停車しない上に、歩いて行くことも困難な秘境駅で近くに滝もありました。SVで列車を探していて見つけました。画面の中のプラス()のアイコンをクリックすると清流みはらし滝があることを確認出来ると思います。清流みはらし駅の最寄駅の南桑駅から清流みはらし駅の対岸までの往復の距離は3.1kmです。新大阪を朝一の新幹線に乗ると根笠駅に9時22分に着き、次の川西駅行きが10時08分発であることから歩いて写真を撮りに行けます。下流側にある南桑駅(10時13分発)までは3.6kmなのでこちらも可能です。いずれも途中で沢山写真を撮る余裕はなさそうです。


錦川清流線沿いの観光スポットにプロット( )してみました。椋野駅の近くには錦川みはらしの滝かじかの滝清流の滝があります。クリックすると拡大かじかの滝の場所は対岸から確認出来ますが滝までは見えない上に錦川みはらしの滝清流の滝は対岸からは木が多くて場所も確認も出来ないので列車に乗っている時に確認するしかないと思います。北河内駅の近くには二輪草群生地があります。右の写真はネットから転用させていただいた二輪草群生地の写真です。


2020年9月25日に来た時の記事「岩徳線に乘りました。」で岩徳線と周防久保駅に関しては詳しく説明いたしましたが、その時に撮れなかった景観などがいくつかあったので本記事に追記する形で紹介したいと思います。当然ですが前回の時も周防久保の駅舎の写真を掲載しましたが、前に車が停まっていたので、駅舎だけの写真を掲載いたします。
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前回時に気になっていたのが周防久保駅の南側でした。Google地図を見ると住宅地があるのは分かっていましたがどのような住宅地なのか気になっていたのです。この写真の線路の下の通路を通って南側に行きました。
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周防久保駅の南側は成熟した住宅地になっていました。小学生の頃に来た頃には、この辺りは山林だったと思います。
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先ほどの線路下のトンネルを通って北側に戻りました。この写真は住宅地側から見た線路下のトンネルです。
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自動券売機も前回は撮れませんでした。私が切符を買った後は点検のために人が来て蓋を開けてしまったからです。前回の時に駅舎の前に停まっていた車は券売機の点検に来ていた人のでした。
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ホーム側への通路も前回とは別の角度で撮りました。
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新型コロナに関する説明書が押ピンでとめられていました。皆さん感染防止に都会では考えられないほどしっかりと守っていて、気を付けられておられました。やはり慣れること無く「初心忘れずに」が大切だと感じました。
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列車の到着の12分前に、大きなブザーとともに写真のランプが点滅いたしました。これなら寝ている人でも起きると思います。十分に時間があるので表示してからでる陸橋を渡る下りホームに移動しても大丈夫でした。岩国方面は上りホームなので数秒で行けます。私が乗った11時33分発の前の列車は8時28分発(3時間08分前)で、後の列車は14時08分発(2時間35分後)なので乗り遅れることが出来ないのです。
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私は写真の中の日の当たっているベンチに座って列車を待っていました。突然に駅舎の中から音が聞こえてきたので上の写真を撮りに行ったのでした。
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クリックすると拡大ブザーが鳴って12分後に前回と同じように写真の1両編成の列車が到着いたしました。ワンマン運転なので後ろのドアから乗って、前のドアから下車するのです。下車するときに切符を運転士の方に渡します。2両編成の場合の後の車両のドアは開きません。
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こちらが先頭方向です。駅によって出口が右になったり左になったりします。岩徳線は10の駅が無人駅であることから運転士1人のワンマン運転が行われていました。そのために大きなバックミラーがあったので前の景色を撮るのは諦めました。バックミラーが邪魔になって景色が撮れないこともありますが、運転士さんが気にするのではないかと思ったのも理由の一つでした。右の写真を見て気がつかれた方もおられると思いますが、クリックすると拡大若い女性の運転士さんでした。下りる時に自動販売機で買った切符を運転士さんに渡します。運転士さんは切符の内容を確認の上、運賃箱に入れます。動画にもミラーに写った運転士さんが写っています。もし見落としていた場合は右をクリックするとミラーが写る瞬間から表示します。→その1 その2
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こちらが運賃箱です。ワンマンバスなどに使われている運賃箱に似ています。
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クリックすると拡大そしてすでに記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」で紹介の通り、12時21分に錦帯橋の最寄駅である川西駅に着きました。右の小さな写真が川西駅です。ここから錦帯橋まで徒歩で1.3kmです。
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前記事(柱野駅到着)と本記事(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。

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岩徳線の動画 その1 柱野駅到着 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で川西駅(岩徳線)から岩国城までの景色を紹介いたしました。その岩徳線車内で2本の動画を撮りました。先ずはその中の1本を紹介したいと思います。その1本目の動画はタイトルにあるように柱野駅到着時の動画です。以前に岩徳線を紹介した記事で記載していたように柱野駅(はしらの駅)は新岩国駅に最も近い駅である上に川西駅の一つ手前の駅でもあります。プレーボタン( )をクリックすると柱野駅到着の車内放送が始まる26秒から出るようにいたしました。この車内放送の内容を聞いていただくと岩徳線のワンマン運転のシステムが分かっていただけると思います。錦川を渡る景色も出てきます。

動画の中から切り取った柱野駅(はしらの駅)です。
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列車は12時16分に到着して12時17分に発車と時間は1分だけで、次の列車は14時50分着の14時50分発のため、降りて柱野駅の写真を撮るわけにいかなかったのでGoogleマップのストリートビュー(SV)で柱野駅の景観を紹介します。


航空写真で見ると駅舎とホームの間に線路があります。ホームに行くためには線路を渡る昔ながらの構造の駅でした。周防久保駅も私が小学生の頃は線路を渡った記憶が残っています。クリックすると非常に長いホームであることが分かっていただけると思います。桂野駅の西側にある右下の写真の3149mの長さの欽明路トンネルがある区間(岩国駅~高水駅)が開業したのは1934年12月1日で、同時にこの路線が山陽本線になりました。長いホームは山陽本線だった1934年から1944年の名残だと思います。複線化のためには3149mの長さの欽明路トンネルをもう1本掘らなければならなかったことが、1944年に山陽本線から脱落する原因の一つになったそうです。ちなみに1944年は現在の山陽本線のルートの複線化が完成した年でした。下記リストのように1940年時点で欽明路トンネルは国鉄の中で8位の長さで、開業した1934年時点では7位の長さでした。トンネルの写真はネットから転用させていただいた欽明路トンネルです。
 ① 9702m 1931年 清水トンネル(上越線)
 ② 7804m 1934年 丹那トンネル(東海道本線)
 ③ 5361m 1938年 仙山トンネル(仙山線)
 ④ 4656m 1903年 笹子トンネル(中央本線)
 ⑤ 4329m 1932年 石北トンネル(石北本線)
 ⑥ 3845m 1929年 猪ノ鼻トンネル(土讃線)
 ⑦ 3286m 1929年 冷水トンネル(筑豊線)
 ⑧ 3149m 1934年 欽明路トンネル(岩徳線)
 ⑨ 3077m 1932年 物見トンネル(因美線)
 ⑩ 2919m 1939年 宇佐美トンネル(伊東線)
 ⑪ 2870m 1940年 夜昼トンネル(予讃線)
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周防久保駅を11時33分に乗って柱野駅で下車すると非常にタイミングのいいバスが来るのです。非常にタイミングのいいと書いたのはネットの時刻表を見ると1日にバスは9時06分と12時26分の2本だけだからです。仮にバスが無くても新岩国駅までは約3kmなので歩いて行けるので、一度試してみたいと思います。新岩国駅に着いて急いで歩けば12時39分発のこだま850号に乗れるかもしれません。
柱野駅から新岩国駅まで歩いて行く場合のルート図はこちらです。→ポチッ
川西駅から錦川清流線に乗り換えて新幹線の新岩国駅の最寄駅で清流新岩国駅に行くのが合理的のように思えますが、岩徳線の本数も少なく錦川清流線の本数も少ないことから周防久保方面からは、いいタイミングでの乗り換えは難しいのです。錦川清流線は岩国まで乗りいけているので岩国からは便利です。
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いわくにバスの柱野駅バス停は川を渡ったところにあります。


柱野駅に着く直前に川を渡る風景も動画から切り取りました。川の名前は錦帯橋が掛かっている錦川の支流の御庄川(みしょう川)です。バス停の位置を写真の中に書き込みました。奥の方向(下流側)に進むと新岩国駅があります。さらに川を下流側に進むと錦川に合流して錦帯橋にたどり着きます。御庄川の御庄は地名でもあります。ちなみに新岩国駅の住所は山口県岩国市御庄1055-1です。岩徳線の柱野駅は写っていませんが写真の右側にあります。
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岩徳線の全駅をプロットしました。
緑色ライン(━━)は欽明路トンネル(3,149m)です。
紺色ライン(━━)が山陽本線です。山陽本線に比べて岩徳線が岩国から徳山まで距離が短いことが分かっていただけると思います。山陽本線の駅の位置をプロットした航空写真はこちらです。→ポチッ


本記事(柱野駅到着)とその2(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。

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岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2021年元旦の新年の挨拶の記事の中で「川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。」と予告した通り、山口県の岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景観を紹介したいと思います。クリックすると拡大実家の宝塚から日帰りで2020年の12月23日に山口県の周防久保にある父方の墓に参った帰りに錦帯橋と岩国城に行ったのです。母方の墓は岩国市内の町中にありますが、そちらは墓から歩いて5分のところに住んでいる叔父さん(母の弟)が墓参りをしてくれているので、今回は行きませんでした。そのため時間があったので岩国城に初めて行ってみることにしたのです。上の写真は岩徳線の周防久保に11時35分発の列車が停車して後部の乗車専用ドアが開き始めた瞬間の写真です。子供の頃には父方の実家に行くために岩徳線にはよく乗りましたが舎監人になってからは、今回が2回目なのです。1回目は去年(2020年)の9月25日でした。周防久保駅は1回目の時に詳しく紹介したしました。→ポチッ

クリックすると拡大岩徳線は徳山駅・櫛ケ浜駅・周防高森駅・玖珂駅・西岩国駅・岩国駅以外の10の駅が無人駅であることから運行列車は運転士1人によのワンマン運転が行われていることから、無人駅から乗車して、無人駅で下車する場合は駅に設置されている右の写真の自動券売機で切符を買って乗車して、下りる時に切符を運転士の人に渡します。運転士さんは切符内容を確認の上、運賃箱に入れます。下の写真が周防久保で買った切符です。


これが岩徳線を含んだ周辺の路線図です。この路線図の周防久保から川西まで乘りました。岩国城を見た後はバスで新岩国駅まで行き新幹線で帰る計画でした。もし岩徳線と山陽新幹線が同一路線扱いであれば、周防久保から大阪までの切符を買っていれば、上の周防久保→川西の切符を買う必要はありませんでしたが、残念ながら事前に確認してもらうと同一路線扱いではありませんでした。同一路線扱いの山陽本線より新幹線に近いところを走っていたので帰りの新幹線の切符を事前に買うときに聞いてみて分かりました。
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前回の墓参りの2020年9月25日の時は余裕でボックス席に1人で座ることが出来ましたが、今回はボックス席はいっぱいだったので長椅子席に座りました。とは言え新型コロナの感染防止のため岩徳線ではボックス席は1人です。今回は人が多かったのは高校生が沢山乗っていたためでした。周防久保発11時35分の時間帯に沢山の高校生が乗車していたのは第2学期の終業式が12月23日だったのだと推測しております。徳山あたりの学校に通っている高校生だったのだと思います。
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私が座った長いす席から先頭側を撮った写真です。
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到着駅に近づくと車内放送が行われると同時に料金表の表示が変わります。周防久保からの料金が590円と表示されたので、川西駅に到着寸前であることが分かります。写真をクリックすると590の上の文字が周防久保であることが分かってもらえると思います。
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岩徳線はワンマン運転なので切符を運転士の方に渡して川西駅に降りました。運転士の方は若い女性の方でした。岩徳線を利用されている乗客の方から人気なようで皆さんから声をかけられていました。いよいよここから錦帯橋あたりまで歩きます。
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こちらが川西駅です。この辺りの岩徳線は地上からかなり高いところを走っていました。川西駅は1960年4月16日に新設された駅で母が女学校に通っていたころにはなかったそうです。女学校から見える高いところを岩徳線が走っていたことは鮮明に覚えているとのことでした。
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左下の道を進むと幹線道路である県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の交差点に出ます。写っている列車が私が乗ってきた周防久保11時35分発(川西:12時21分着/12時22分発)の列車です。
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列車が名残惜しいのでズームで追いました。列車の前に写っているコンクリートは道路をまたぐ陸橋部分です。
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ここが県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の複雑に交差する交差点です。
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交差点の標識を拡大いたしました。錦帯橋1kmの表示があります。想像していたより錦帯橋が近い印象です。Google地図で確認した交差点の中心から錦帯橋の左岸の入口までの距離は1.186kmでした。
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錦帯橋方面の藤生停車場錦帯橋線です。この交差点から100㎡進み右に曲がって100m進むと母が通っていた女学校があった川西第一街公園があります。
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交差点から300m進んだあたりの景観です。
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交差点から500m歩くと臥龍橋(がりゅうばし)に出ます。臥龍橋は金耐久の一つ下流側にある橋です。クリックすると拡大
母が通学で錦川を渡ったのが、この臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
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臥龍橋の下流側には岩徳線の鉄橋が見えました。川はの名前は錦川(にしきがわ)です。錦川は山口県内を流れる二級水系錦川の本流です。支川を含めた法河川延長は331.8kmで、流域面積は884.2km2で、共に山口県内では一番の川です。
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橋の上から撮った上流側です。錦帯橋が前ます。山の上には岩国城も見えます。
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向こう岸に近くなってきました。臥龍橋を渡らないで錦帯橋に行けますが、錦帯橋を往復したかったので臥龍橋を渡りました。バス停やタクシーはこちらの岸側にあるので、往復した後にこちら側の岸に行く室用があるのです。上流側から見ると左岸になります。
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錦帯橋に近づいてきました。
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錦帯橋と岩国城が見えるベストアングルの写真です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
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錦帯橋の入橋券です。産地用の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。入橋券の購入窓口でトン岩国行のバスの乗場の場所を確認して橋を渡る前に時刻表を確認に行きました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。
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メモ代わりに新岩国行のバスの時刻表の写真を撮りました。1時間に2本程度でした。
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今回は渡り始めから渡りきるまで動画を撮るつもりだったので、渡る前に1枚のみ写真を撮りました。
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上流から見て左岸から右岸に渡るまで連続で動画を撮りました。2020年は鬼滅の刃が歴史的な大ヒットだったので、錦帯橋の動画の終了後は引き続いて鬼滅の刃のオープニング主題歌の紅蓮華が流れるように設定いたしました。2021年2月にOSが更新されたのをきっかけに錦帯橋の動画が出なくなったことから錦帯橋の動画のみに戻しました。
2020年大晦日のNHK紅白歌合戦で出場のLiSAが紅蓮華炎(ほむら)を歌ったのが印象的でした。初出場は2019年でした。こちらをクリックすると錦帯橋の動画を別画面で標示します。→ポチッ


クリックすると拡大いつもソフトクリームを食べていた佐々木屋小次郎商店は閉まっていました。何度も来ていて閉店していたのは初めてなので、閉まっていたのは新型コロナの影響だと思います。新型コロナが収まったら再開してほしいものです。
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ロープウェイの山麓駅を目指しました。
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見事な吉香公園がありました。この場所が岩国藩(長州藩の支藩)時代の中心的場所です。叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
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古民家があったので寄ってみました。国指定自由用文化財の目加田家住宅でした。岩国藩主の吉川広家が岩国に移封された時に広家に従って移り住んだそうです。
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ロープウェイの山麓駅に着きました。
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15分ごとに動いていて、客は私を含めて2人でした。
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下りてくるロープウェイとすれ違う瞬間です。
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こちらか山頂駅です。
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山頂から岩国城に行くには広い舗装された道と細い道があったので細い道の方から行きました。
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天守閣近くの石垣の下を歩きました。
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この門をくぐったら天守閣です。
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こちらが岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
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入城券を買って天守閣に登りました。こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
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写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口縣立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口縣立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)に拡大するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。
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川西駅から岩国城までのルート(━━━━━━)と位置をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅から岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし )と錦帯橋(きんたいきょう )を渡りました。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事の食事(和食)を2度お願いした上に、最近では右の上段の写真のような四川料理を2度食べました。右の下段の写真は今回初めて「食事処 むさし」で食べたソフトクリームです。紫いもソフトクリームを選びました。ちなみに我家のワンコの名前は「むさし」でした。
  タクシー乗車場所  ━━━ 新岩国駅へのルート Ⓐ→Ⓑ
 山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
 山口懸立岩國高等學校跡地  吉香公園
クリックすると拡大 現在の山口県立岩国高等学校
 川西駅 JR岩徳線
 臥龍橋
 錦帯橋
 食事処 むさし
 ロープウェイ山麓駅と山上駅
 岩国城 天守閣
 吉香神社
クリックすると拡大 岩国国際観光ホテル 
 新岩国駅
 ルート ━━━━━━━━━
      臥龍橋
      錦帯橋
      ロープウェイ
      山頂駅→岩国城


JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図も紹介します。母と叔父さんは岩国駅の近くから毎日歩いて通学していました。

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錦帯橋 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大本記事は2018年の新年の挨拶で使わさせていただきましたが、周防久保(前記事)や岩徳線(前々記事)の記事を掲載したのを機会に、マイカテゴリーを「新年」から「山口県」に変更して再掲載させていただきました。
錦帯橋は日本三名橋や日本三大奇橋に数えられる山口県岩国にある木造の5連のアーチ橋です。初代の5連のアーチ橋は1673年に岩国藩主であった吉川広嘉によって建造されました。それ以前にも岩国城が出来て以来、城と城下町をつなぐ重要な橋であったことから橋が架けられましたが洪水で何度も流されたことから吉川広嘉が洪水に耐えうる橋を目指した結果、明の杭州の6連の橋を参考に橋台を強固な石垣にして洪水に耐えうる現在の形の橋を作ったそうです。翌年の1674年の洪水で流失しましたが橋台を強化して再建した結果、定期的な架け替えを行いながら1950年のキジア台風で被害を受けるまでの276年間は流失することはなかったのは驚異的なことです。1950年のキジア台風ですべて流失したため、現在の橋は1953年に、277年前の当時のままに復元された橋だそうです。2005年にも台風14号により第一橋の橋脚2基が流される被害がありましたがすぐに復旧されたそうです。この時に撮った写真は、すべて錦川の右岸から撮った写真です。したがって、撮った時期を書いていない写真の川は全て左から右に水が流れています。
クリックすると拡大 橋名 錦帯橋
 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 347年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m

この記事の写真は2017年12月26日に周防久保に墓参りに来た時に撮った写真です。錦帯橋にはソフトクリームを食べるためだけに寄ったので、時間がなかったことから錦帯橋から一番離れて撮ったのがこちらの写真になります。
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こちらは右岸側(岩国城側)の錦帯橋への入口です。時間があれば橋を渡って橋の上からの写真や左岸からの写真も撮れたと思うので、2020年12月の墓参りが晴れていたら錦帯橋に寄ってじっくりと散策してみたいと思います。
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橋の一番中央の山の部分の写真です。江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二、第三、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りですが、数値を見ると大切にされてきた橋であることと、長い歴史を感じます。錦帯橋は創建時から現在までの修復記録が、歴代の大工棟梁の人物名も含めて完全に残ってことにも驚かされます。南東(左岸/岩国市岩国)側から北西(右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。北西(右岸/岩国市横山)側が岩国城がある方向です。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示         架け替え
 第一橋  約40年ごと 10回
 第二橋  約20年ごと 14回
 第三橋  約20年ごと 14回
 第四橋  約20年ごと 16回
 第五橋  約40年ごと  9回
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上の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
錦帯橋が完成した当初は大橋、凌雲橋、五竜橋、帯雲橋、算盤橋などの、いろいろな呼び名があり、後に錦帯橋(きんたいきょう)になったそうです。錦帯橋の名で呼ばれるようになったのは、中国・杭州・西湖の錦帯橋(きんたいばし)をモデルにしたことに由来しているという説が有力です。錦帯橋の下を流れる錦川(にしきがわ)の名は錦帯橋に由来していることから、錦川の名が使われるより先に錦帯橋の名が使われ始めたことになります。
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クリックすると拡大橋の上からの写真は撮れなかったのでGoogleのストリートビューでの橋の上からの景色を紹介します。水平に回転すると360°見ることが出来て、前後に進めることも出来ます。錦帯橋は徒歩でしか渡れないのでストリートビュー(Street View)の撮影には右の写真のトレッカー(Trekker)が使われたものと思われます。今までに軽トラック(1998年)とバイク(2020年)で渡った人がいますが、いずれも文化財保護法により逮捕されています。同様な行為があれば、逮捕だけでなく傷の修復費用も請求されます。


川沿いには桜の古木が沢山植わっており、花が咲くころは見事な景色を見せてくれるそうです。ここの桜は日本さくら名所100選でもあります。
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ここまでは川下(かわしも)から撮った錦帯橋ですが、川上(かわかみ)から撮った写真も紹介します。
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ここは桜の木が多く植わっていましたが、柳の木も植わっていました。柳の木の由来に関しての説明板が立てられていました。
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説明板の内容を紹介します。
巌流ゆかりの柳
クリックすると拡大佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負には敗れましたが、小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。
吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長光の刀(一名物干し竿)を授かり、この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に『つばめ返し』の術を編み出したと記しています。
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錦帯橋の脇には槍倒し松(やりこかしまつ)と呼ばれる由緒ありそうな松もありました。左の方向の山の上に岩国城があります。
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説明によると他藩の大名行列で、槍を立てたまま歩けないように植えられた松だそうです。昭和29年(1954年)の時点で樹齢300年なので、2020年の現在であれば、樹齢366年になることになります。
槍倒し松(やりこかしまつ)
この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒し松です。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通るこのが出来ないようにしたものです。今では昭和十年(1935年)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂道を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。昭和十九年(1944年)頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年(1952年)八月残念ながら枯れてしまいました。この松は初代の松の実から自生した直系の松を昭和四十三年(1967年)二月十五日三代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。
 樹齢   300年     樹の高さ  14.5メートル
 幹の周囲 3.7メートル   樹冠の面積 323平方メートル
昭和二十九年一月 岩国保勝会
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木材で作られた錦帯橋の橋げたの下側を紹介したいと思います。クリックすると拡大橋に使われている木材は特性によりアカマツ、ヒノキ、ケヤキ、クリ、カシ、ヒバを使い分けているそうです。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が 集められ、全て国産材で造られたそうです。その時は、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐り にくい青森産のヒバが初めて使われたそうです。
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木の柱の一番下の色が違うことに気が付かれると思います。実は一番下は石の柱になっていて木の柱と一体となるように接合されています。
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石の柱の部分を拡大いたします。この石は橋杭受石と呼ばれています。
そして橋杭と受石(根継石)を相欠きで継いでいる部分を巻いている金物を橋杭巻金(きょうぐいまきがね)と呼びます。詳しい説明→ポチッ
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2013年以降に山口県の周防久保に24回ほど墓参りに行きましたが、その内でソフトクリームを食べるのを目的で14回も錦帯橋に来ることになりました。クリックすると拡大しかしながら14回とも錦川の右岸(上流から見て右側)だけの訪問で錦帯橋を渡ることもなく、左岸から錦帯橋を見ることがありませんでした。そこで2003年9月と2007年4月に左岸側にある岩国国際観光ホテルで食事をした時の写真を6秒間隔で4枚紹介します。写真をクリックすると拡大した4枚の写真を右のように同時に表示します。2007年4月の写真では桜の花を確認出来ると思います。2003年9月の時はホテルに泊まりました。錦帯橋の正面の写真(2003年9月13日 17時48分)は上流の錦城橋(きんじょうばし)から撮った写真です。
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クリックすると拡大大学1年の3月にサイクリング部の九州合宿に参加するために錦帯橋の横を通った時の写真も紹介します。関門海峡を3月10日に通った通行券が残っていて周防久保の祖母・祖父の家に泊まったので、錦帯橋の写真を撮ったのは私が19歳の3月9日と思われます。
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私が3歳の時の錦帯橋の前で撮った記念写真です。1番右が周防久保の墓参りで車で送ってくれた叔父さんです。1番左が母方の祖母です。
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葛飾北斎が描いた錦帯橋の浮世絵をWikipediaから転用させていただきました。全国の珍しい橋を画題とした全11図の諸国名橋奇覧の中の1枚で、名前は「すいほうの国 きんたいばし」です。諸国名橋奇覧は187年前の天保2年(1831年)に刊行されました。
 生誕  宝暦10年09月23日(1760年10月31日)
 死没  嘉永02年04月18日(1849年05月10日) 88歳
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歌川広重(本名:安藤重右衛門)も錦帯橋を描いていました。ただし右側は二代目歌川広重の作品です。
 初代  寛政9年(1797年)~安政5年9月06日(1858年10月12日)
 二代目 文政9年(1826年)~明治2年9月17日(1869年10月21日) 
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ソフトクリームと錦帯橋の写真です。実は錦帯橋と言えばソフトクリームなのです。
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こちらがソフトクリームが売られている佐々木屋小次郎商店です。こちらのお店に昼食後にソフトクリームを14回食べに行きました。
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沢山の種類のソフトクリームが食べれることで有名になりました。一度、記事にしたことがあります。→ポチッ
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いろんな場所から撮った錦帯橋とソフトクリームの写真を紹介します。
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墓参りに来た2017年12月26日は帰省ラッシュ前でしたが、新大阪を出発したころには満席に近かったですが、終点駅の広島に着くころには席は空きました。広島からはこだまに乗り換えて新岩国まで行きました。その後、叔父さんの車で周防久保までを往復しました。
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墓参りも無事に終えた後は墓参りの後は恒例の山賊村で昼食でした。これは山女(やまめ)の塩焼きです。
山女は塩焼き以外に刺身や蕎麦でもいただきました。→ポチッ
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いつもは叔父さんがすべて運転してもらっていましたが、今回、初めて昼食を食べる山賊までは、私が運転いたしました。山賊から新岩国までは叔父さんが運転してもらえたので、私はビールを飲むことが出来ました。この後にソフトクリームを食べるために錦帯橋に移動しました。
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24回の墓参りで、山賊村で昼食を食べたのは16回でした。山賊村以外は錦帯橋周辺にまとまっているので一枚の航空写真( )で場所を紹介します。マイナスのアイコンを3回クリックすると山賊村のマークが表示されます。2回クリックして画面を右上方向に移動させても見つけることが出来ると思います。ソフトクリームを14回食べに行った佐々木屋小次郎商店もマークしています。岩国国際観光ホテルでの食事は2003年9月と2007年4月を加えると4回食べたことになります。
 山賊村         16回
 岩国国際観光ホテル  2回 2018年03月 2019年03月 下の2枚の写真
クリックすると拡大クリックすると拡大 錦果楼        1回 2013年09月
 よ志だ新館      1回 2018年08月
 わたぼうし      1回 2018年09月
 アリス        1回 2019年09月 新岩国駅前
 レストハウスたんぽぽ 1回 2019年12月
 岩国→広島 車内   1回 2020年09月 JR山陽本線(在来線)


いつも叔父さんからは岩国寿司をいただきました。実家に戻って夕食でビールと一緒にいただきました。
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この時の墓参りは母と一緒に行きました。下の写真は私が丁度1歳になったころの写真です。左に写っている建造物は旧・西宮球場です。
私は結婚するまでは宝塚の実家で両親と一緒に暮らしていましたが、今回の墓参りで初めて知ったことがありました。それは母も含めてその兄弟たちは岩国市内から、この錦帯橋の近くの男子校と女学校に歩いて通っていたことでした。それも叔父さんたちは通学のために毎日錦帯橋を渡ったとのことでした。驚いたことにGoogle地図で調べると毎日通学のために男子校10km(往復)、女学校8km(往復)を歩いていたことになります。
   0歳 兵庫県伊丹市に生まれる
   1歳 兵庫県西宮市夙川に引越
   2歳 広島県広島市平野町に引越
   3歳 広島県広島市井口に引越 → 記事
  10歳 兵庫県神戸市東灘区岡本に引越
  14歳 兵庫県神戸市東灘区本山に引越
  16歳 兵庫県宝塚市に引越 (今の実家)
  28歳 結婚して大阪府茨木市に引越
  29歳 家を買って神戸市須磨区に引越
1988年 転勤で千葉県船橋市に引越
1993年 家を買って千葉県佐倉市に引越
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叔父さん(母の弟)の車を使って墓参りをした時のルート図です。青の太い線が墓参りのために車で走ったルートです。ただし墓の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。2019年9月21日の墓参りを最後に叔父さんは運転免許を返納したので、2019年12月22日の墓参りは新岩国駅でレンタカーを借りてほぼ同じルートで墓参りをしました。ただし山賊(昼食)や錦帯橋(ソフトクリーム)には寄らないで、岩国駅から歩いて5分のところにある伯父さんの家(母の実家)に寄ってから新岩国駅に戻りました。クリックすると記事を表示私が墓参りに同行するようになったのは2013年3月19日からです。最初の頃は、全て伯父さんが運転していましたが、2017年頃から長距離となる新岩国→周防久保→山賊(昼食)は私が運転するようになりました。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)

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周防久保への旅も紹介します。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事「岩徳線に乘りました。」で山口県の上の写真の周防久保駅から実家の宝塚に帰る復路を紹介させていただいたので、本記事では宝塚から周防久保までの往路を紹介させていただきます。前記事で紹介させていただいたように周防久保に行った目的は墓参りでした。クリックすると拡大周防久保には父方の右の写真の祖母・祖父が住んでいた場所でもあります。実家の宝塚(逆瀬川)からの日帰り往復のルートは次の通りでした。
往路:逆瀬川→(阪急)→宝塚→(JR)→新大阪→(新幹線)→徳山→(防長バス 330円)→久保駅前
復路:周防久保→(JR岩徳線)→岩国→(JR山陽本線)→広島→(新幹線)→新大阪→(JR)→大阪→(阪急)→逆瀬川

クリックすると拡大前記事で復路の岩徳線や昔住んでいたい広島の井口周辺を主に紹介させていただきました。本記事では行きの往路と周防久保の散策の写真を紹介したいと思います。下は往路の新大阪から周防久保までのタイムスケジュールです。右の小さな画像は往路と復路のタイムスケジュールです。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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9月25日は日本周辺には2つの低気圧があり、出発時点では関西も山口県も雨でしたが周防久保に着くころには雨が止む予報でした。母と一緒に行く時はタクシーで宝塚駅まで行くのですが、新型コロナのために私1人なので、歩いて逆瀬川駅に行きました。出発するときは予想以上の土砂降りでした。写真は阪急・逆瀬川駅で、宝塚方向を撮っています。時刻は5時52分です。
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雨が降っていたのでリックにいたしました。袋に入っているのは前日に花屋さんで買ったお墓に供える花です。念のためリュックの中にはポンチョも入れてあります。濡れた傘はそのまま持って行き新幹線の中で徳山で下りる寸前まで乾かしてリュックに入れました。
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予定通り5時54分発の宝塚行の電車がきました。


通勤の人は反対方向から大阪および神戸方面に行く人が多いので宝塚方向は空いていました。
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JR宝塚駅の改札口です。こちらも人が少なかったです。
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6時04分発の京都行に乗ると乗換なしで新大阪に行けます。この電車があったので宝塚経由にいたしました。昼間だと阪急で大阪まで行ってJRに乗り換えています。
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6時04分発の京都行が来ました。思っていたより空いていて、大阪駅に着く時に座席が満席で立っている人が僅かな状態でした。大阪駅から新大阪駅までは座席はかなり空きました。
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新大阪駅には6時39分に着いて新幹線のホームには6時44分に着きました。乗る予定の6時50分発の「さくら543号」には余裕で乘れました。
鹿児島中央までの停車駅の欄には、新神戸・姫路・岡山・福山・広島・徳山・小倉・博多・新鳥栖・久留米・熊本・新八代・新水俣・出水・川内が書かれていました。徳山には8時43分着です。博多が9時27分、熊本が10時07分、終点の鹿児島中央には11時04分着となります。
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これが「さくら543号」です。普通は徳山に行くためには広島で「こだま」に乗り換える必要がありますが、この「さくら」は徳山に停車するので選びました。終点まで乗ると鹿児島まで行ける列車です。
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私の席は5号車11番D席でした。さくらの指定席は全て左右ともに2人掛けなので席がゆったりしているのです。
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3蜜が気になっていましたが、乗って安心いたしました。一番混んでいる時でも、グループの人を除いて、すべての席で隣が空いていました。
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新大阪を出発してすぐですが、雨がかなり降っていました。周防久保に着くころには雨が上がる予報ですが、実際に雨を見ると不安になります。
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岡山を過ぎると雨が止みました。と思っていたら!
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クリックすると拡大福山城が見える福山を通るときはまた雨が降っていました。写真の中央の城が福山城です。晴れた日にほぼ同じ角度から撮った福山城が右の写真です。周辺の建物から同じ城であることが分かってもらえると思います。晴れた日の福山城の記事を以前に書いていました。→ポチッ
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広島を過ぎると雨は完全に止みました。読み通りですが、天気のことなので、まだ安心は出来ないと心配はしていました。
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目的地の周防久保の近くを通り過ぎた時の写真です。私は周防久保駅とは反対側に座っていたので、周防久保駅周辺を見ることは出来ませんでした。ただし、仮に左側に座っていたとしても周防久保駅自体は、山の影になって見えなかったと思いますが、駅の近くの景色は見ることは出来たと思います。写真の中の高い高架道路は山陽自動車道です。この高架道路の下を新幹線が潜って出た瞬間に撮った写真です。
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周防久保の駅舎が見えたかどうかをGoogle地図で検証してみました。やはり駅舎を見るのは難しかったようです。しかし周辺は良く見えたと思います。写真を撮った位置から周防久保の駅舎までの距離は1.07km( )でした。
  新幹線 写真撮影位置
  周防久保駅 駅舎
  バス停 久保駅前


徳山の町に入りました。工場が沢山ありました。
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久しぶりに徳山の駅に降り立ちました。
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これが徳山駅前(北側)です。私は若いころに徳山周辺で3つのプロジェクトを納入したことがあるので、徳山には何度もきましたが、その頃に比べるときれいになりました。
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バス停から見た徳山駅です。
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バス乗場の案内図を紹介します。クリックすると本図が入った時刻表が表示されます。


8つのバス乗場の状況がリアルタイムで表示されていました。私の乗る6番のりばの兼清行(8時55分発)は「まもなく到着」と書かれていました。
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私が乗るバスが到着いたしました。
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徳山の町の中の景色です。運転席(出口)に近い席は新型コロナのため座れないようになっており、運転席はシートで囲まれていました。
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町の中では乗り降りがありましたが、町を離れた途端にお客さんの数が減り、私が降りる久保駅前に着く時は私1人になりました。
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久保駅前の表示が出ました。料金は330円です。0~7が330円で8が320円ですが、0~7は徳山の町の郊外にあたります。長距離のお客が優遇されているように感じます。
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私が降りた後、お客さん無しで出発していきました。
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こちらがJR周防久保駅の最寄のバス停の久保駅前です。周防久保に着くと晴れ間が見える天気になっていました。現在の住所は山口県下松市大字河内で、1939年11月3日以前は山口県都濃郡久保村・・・だったようです。現在の地名に河内が使われていることから1871年以前は周防徳山藩河内村であったと想像されます。1889年に切山村・山田村・来巻村・河内村が統合されて久保村となったほど久保村は大きなエリアだったので・・・といたしました。・・・は旧・河内村エリアだったようです。1939年に久保村が下松町・末武南村・花岡村と合併して下松市となりました。以上を沿革にまとめると次の通りになります。周防久保駅の住所は大字河内ですが、現在は大字河内の住所が残っているのは駅の西側近傍の僅かなエリアです。駅の南側に大字来巻で、北側と東側が大字切山です。このような古い名前が残っているの一部だけで新しい住宅地などは東陽や桃山町や東和や葉山となっていることから、開拓された多く地域の住所は変更されたのだと思います。新築の家を売る場合も新しい名前が売りやすいのだと思います。古い住所が最も多く残っていたのは大字切山でした。江戸時代から明治初期の山田村を起源とすると思われる大字山田は、少し離れた北西方向にあります。つまり1889年に久保村に統合された4つの切山村・山田村・来巻村・河内村は大字切山大字山田大字来巻大字河内になったと想像されます。
1871年以前 周防徳山藩河内村
1889年~ 山口県都濃郡久保村・・・
1939年~ 山口県下松市大字河内 or 山口県下松市・・・
現在 山口県下松市大字河内
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上で周防久保駅周辺では大字山田(おおあざ・やまだ)・大字切山(おおあざ・きりやま)・大字河内(おおあざ・こうち)・大字来巻(おおあざ・くるまき)のエリアは少なくなっていると書きましたが、4つの地区を検索したのが下記の4つの航空写真です。その結果、周防久保駅周辺は欠けていますが、広い範囲に広がっていることが分かりました。この4つのエリアと新興住宅地を合わせたエリアが明治22年(1889年)に出来た久保村だと思われます。黄色の四角()のマークが周防久保駅です。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。各画面の1辺は5.24kmで、各画面の右下の白枠の中に500mの距離を書いておりますので広さのイメージが判ると思います。
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すぐには墓に向かいました。墓への上り坂です。
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墓参りは毎年、母と一緒に3月と8月と9月と12月の4回来ていましたが、今年は新型コロナの感染リスクがあることから3月と8月は中止いたしました。そのため昨年の12月に母と一緒に来て以来です。今回も母は一緒に墓参りに行くつもりではありましたが、新型コロナのワクチンを打つまでは私1人で行くことで了解してもらいました。私1人で身軽に移動できることから、路線バスを使ったり、懐かしい岩徳線に乗ってみたりしたわけです。昨年の12月の母と一緒の墓参りでは新岩国から右の写真のレンタカーを使いました。それ以前は伯父さんの車で来ました。今年の3月は新幹線の切符も購入して、レンタカーも予約していましたが中止したことから、レンタカーはキャンセルし新幹線の切符は払戻ししました。
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墓の草抜きと掃除をして、宝塚から持ってきた花も飾り線香にも火を付けて、数珠を出してお参りをいたしました。いつもより長めに拝みました。
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岩徳線の列車の発車時間の11時33分まで50分以上時間があったので周辺を散策いたしました。
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田園風景が広がっていました。
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空気がきれいです。宝塚の実家を出た時の雨は嘘のように感じました。
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小川のある田舎の風景です。
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小川の川べりに彼岸花と黄色のコスモスが咲いていました。
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黄色のコスモスに蝶がとまっていました。羽根がちぎれているのは残念でがカメラを近づけても逃げようとはしませんでした。私の住んでいるところではカメラを構えるどころか近づくだけでも逃げてしまいます。
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この道は歩いた記憶がありました。
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さらに進みました。
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振り返った景色です。写真の左端に周防久保の駅舎が少しだけ写っています。
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こちらの御側では祖父が魚を獲ってくれました。渓流系の魚でした。子供の頃は大きな川に見えましたが、驚くほど小さな川でした。彼岸花が密集して咲いているところがあります。
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小川のそばの彼岸花を撮りました。
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花を拡大しました。花の形が判らないほど花が密集していました。それが肉眼と写真の違いなのかもしれません。
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周防久保駅に戻ってきました。跨線橋(こせんきょう)と駅舎が見えます。駅舎の場所は下松市大字河内ですが、ホームの69%は下松市大字来巻です。
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岩徳線の周防久保駅です。続きは前記事の「岩徳線に乘りました。」です。まだ見ていない方は着色文字か写真をクリックしてみてください。
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岩徳線に乘りました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事に追加する形で紹介した通り、関西に滞在(9月20日~28日)している時の9月25日に実家の宝塚から日帰りで山口県の周防久保に墓参りに行きました。山口県の墓参りの行き帰りのルートは下記の通りです。写真は岩徳線の一両編成のディーゼル車です。小学生の頃は蒸気機関車でした。周防久保(バス停名:久保駅前)は私の祖父・祖母が住んでいた場所です。私が子供の頃(右下の写真)には広島の井口から祖父・祖母の家に行く時には岩徳線に乗りました。子供の頃の右下の写真をクリックすると大きく拡大します。私が最後に岩徳線に乗ったのは20歳の時なので、今回の墓参りでは、岩徳線に乗るのも目的の一つでした。今までの墓参りでは母の弟にあたる私の叔父さんが新岩国から車で送ってくれたので岩徳線に乗る機会はありませんでした。2017年12月26日からは新岩国から墓までと岩国の近くの昼食場所までは私が運転するようになりました。2019年9月21日の墓参りを最後に叔父さんが車の免許を返納したため、クリックすると拡大レンタカーを使うか、徳山からタクシーで往復するのが一番順当な方法なのですが、新型コロナのために今回の墓参りは母は行かなかったので私一人で身軽だったことから岩徳線に乗ることにいたしました。
行き:逆瀬川→(阪急)→宝塚→(JR)→新大阪→(新幹線)→徳山→(防長バス 330円)→久保駅前
帰り:周防久保→(JR岩徳線)→岩国→(JR山陽本線)→広島→(新幹線)→新大阪→(JR)→大阪→(阪急)→逆瀬川

クリックすると拡大前記事で予告した通り、周防久保駅や岩徳線などを詳しく紹介いたします。下の帰りの周防久保から新大阪までのタイムスケジュールです。右の小さな画像は往路と復路のタイムスケジュールです。クリックすると読める大きさに拡大いたします。周防久保への行き(往路)は次の記事「周防久保への旅も紹介します。」を見てください。
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こちらが岩徳線の周防久保の駅舎です。岩徳線は1929年4月5日に麻里布~岩国(2.3km)で開業しました。その後徐々に西に延びて周防久保駅が開業したのは1934年3月28日です。10年間(1934年~1944年)だけですが山陽本線として運用されたこともありました。現在の住所は山口県下松市大字河内795です。
タクシーは常駐していませんが、電話番号が書かれたタクシー会社の看板が立てられていました。
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駅舎の中に入いると予想した通り無人駅でした。自動改札機はなく出入りが自由な駅でした。無人駅化されたのは1982年3月10日だそうです。
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クリックすると拡大周防久保駅にあった時刻表も写真を撮ったのですが光が反射して見にくいので転記いたしました。右の小さな写真が撮った写真です。画面をクリックすると大きな時刻表の写真を表示します。
上の駅舎の中の写真でホームとの通路口の右の壁にあるのが時刻表です。
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周防久保から大阪までの切符は事前に買っていましたが、記念のために自動券売機で1番安い切符を買いました。徳山から岩国までの全駅を紹介します。森ヶ原信号場は駅名ではありません。営業距離は47.1kmです。周防久保から150円で行けるのは大河内だけです。徳山方向の1駅の生野屋までは190円です。
徳山→櫛ケ浜→周防花岡→生野屋→周防久保→大河内→勝間→高水→米川→周防高森→玖珂→欽明路→柱野→(森ヶ原信号場)→川西→西岩国→岩国


岩徳線は単線ですが、周防久保駅は2線になっていて上りホームと下りホームがあります。
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ホームに入って岩国方面を見た景色です。跨線橋(こせんきょう)には煤(すす)の汚れはないので、蒸気機関車が通っていたころは跨線橋は無かったのだと思います。私のかすかな記憶でも、線路に通路があり、そこに降りる切込みの階段があっような気がします。その頃でも珍しかったので記憶に残っているのだと思います。別の駅での記憶の可能性もありますが、周防久保以外の田舎の駅に降りる機会はなかったと思います。掲載した時は跨線橋の部分を陸橋と書いていましたが、次の記事のコメントでtommy88さんに跨線橋と教えていただいたので修正いたします。道路を跨ぐ場合が陸橋で線路を跨ぐ場合が跨線橋だそうです。
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跨線橋の上から徳山方向を撮りました。
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こちらが跨線橋から見た岩国方面です。
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拡大すると単線であることが分かってもらえると思います。
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跨線橋の上から見た駅舎です。
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下りホーム(徳山方面)からみた駅舎です。
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周防久保の駅名標(えきめいひょう)を撮りました。徳山方向の隣りの駅名が生野屋(いくのや)で、岩国方向の隣りの駅名が大河内(おおかわち)です。
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ホームを徳山方面に進んで撮った駅舎です。
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下りホームからだと徳山方向の線路のカーブがよく見えました。上の写真を撮った同じ位置から撮りました。
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駅の南側に広がる景色です。
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今度はホームを岩国方向の端まで歩いてきて駅舎方向を撮った写真です。長いホームです。今は、ほとんどの列車が1両編成ですが、昔は長い列車が走っていたのだと思います。調べてみると周防久保駅が出来て岩国から徳山に路線がつながった1934年12月01日から1944年10月11日までは山陽本線の一部として運用されたそうです。複線化の計画に伴いもう一本長大トンネル(欽明路トンネル)を通さないければならないことから複線化は元の山陽本線(柳井線)で行うことになり、1944年に山陽本線が元に戻ったことから岩徳線の山陽本線としての運用は10年間のみになったそうです。
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気になる標識があったので写真を撮っておきました。
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列車が来る時間が近づいて来たので、列車に乗る方の上りホームに戻って列車が最初に見え始めるホームの端まで行きました。この線路の先から乗る予定の列車が来るはずです。
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同じ位置から駅舎の方を振り返った景色です。この写真でもホームの長さが実感されます。
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11時33分発の列車がカーブの部分に見えました。
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近づいて来たところでもう一枚撮りました。
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さらに拡大いたしました。この写真が冒頭の写真です。 kazu-kun2626さんと旅爺さんさんに、このディーゼル車がキハ40とコメントで教えていたただ来ました。Wikipediaで確認すると1977年から1982年にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した気動車(ディーゼル動車)だそうです。正式名は国鉄キハ40形気動車で、キハ40形(2代)、キハ47形、キハ48形の3形式およびこれらの改造により発生した派生形式を指し、888両が製造され、今でも日本全国ならびにミャンマー国鉄で使われているそうです。
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停車しました。手前の後部の入口が開くのを待って乗りました。先頭側が降り口です。乗ってから発射するまでに十分に余裕があることが分かりました。
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岩徳線は車掌が乘っていないワンマン列車でした。左が進行方向です。ワンマン列車のため切符の回収などに時間を見ているために停車時間に余裕があったのです。
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乘って先頭側を撮りました。運転士の人が客室側に出てきて降りる人の切符を受け取ります。
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後部側の乗車専用入口側です。右側から乗りました。
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ほほえましい光景なので紹介します。私の前の人が手を振っていました。
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後ろ撮りました。単線です。
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周防久保から3つ目の高水駅です。周防久保との間の駅は大河内と勝間です。高水は祖父祖母と縁があると聞いていたので写真を撮りました。高水のどのような場所に縁があったのかは母も詳しくは知りませんでした。
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高水の辺りも、のどかな懐かしい景色が続いていました。
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小川が流れる景色です。川の名前は石光川です。瀬戸内海の光市あたりに流れ込む島田川の支流です。
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6つある4人ボックス席にゆったりと1人で座りました。高水駅を出た辺りが最も人が少なくなり4人ボックス席も空のところもありました。ちなみに周防久保駅を出たところでは、全て1人でした。新型コロナの影響だと思いますが、乗車人数が増えた岩国到着寸前でも、すべての4人ボックス席は1人だけでした。残りの人は全て長椅子席に座られていました。
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田園風景が続きました。
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さらに田園風景を紹介します。
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このような景色が続きましたが、少しづつ開けてきました。
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クリックすると拡大周防久保駅から5つ目の周防高森駅の前です。大きな建物は日本酒の純米大吟醸で有名な獺祭の旭酒造の建物で、建物に大きく獺祭と書かれていました。蔵元はここから8kmほど山間部に入ったところにあります。ここは獺祭(だっさい)の故郷だったのです。
蔵元のストリートビューはこちらです。→2013年 2018年
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この道は新岩国から周防久保に車で行く時に通った道です。
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車の助手席から岩徳線の列車を2016年12月25日に撮った写真がこちらです。いつかは乗ってみたいと思いましたが、3年9ケ月後に実現いたしました。
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周防高森駅の次の玖珂駅です。
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錦帯橋のところを流れる錦川を渡りました。
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錦川の向こう岸の道もよく通りました。景色に見覚えがあります。新幹線の新岩国駅に近い場所です。
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左に線路が見えてきて我々の岩徳線に合流いたしました。錦川鉄道が運営する錦川清流線でした。錦川清流線を左に進んだ最初の駅が清流新岩国駅で新幹線の新岩国駅に近接しています。錦川清流線の下の道路は山口県道1号岩国大竹線です。クリックすると拡大広島県の大竹市まで伸びていて広島県側の呼名は広島県道1号岩国大竹線です。両県で県道1号になっていることから重要な道路なのだと思います。
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2枚上の写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。鉄橋の部分を切り取って拡大いたしました。
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錦川清流線は1987年に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線です。起点の正確な場所は岩徳線の川西駅と柱野駅との間の森ヶ原信号場です。まさにこの写真の少し先でした。ほぼ全線が錦川沿いを通っており、路線名はそれに因んでいるそうです。
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岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。
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ここが上でも紹介している川西駅です。駅名標(えきめいひょう)の一部しか写っていませんが、左の一番下に書かれている駅名が錦川清流線の清流新岩国(せいりゅうしんいわくに)です。岩徳線の左方向の駅名は柱野(はしらの)で、右方向が西岩国(にしいわくに)です。
錦川清流線方面の列車の発車時刻は7:06 9:39 10:02 11:20 クリックすると拡大14:28 16:13 17:52 19:13 20:26 21:42です。一方、新幹線の新岩国との乗換駅の清流新岩国駅の川西(岩国))方面への出発時刻は 6:33 7:48 9:21 10:43 13:25 15:12 16:57 18:35 19:53 21:09です。清流新岩国から川西までの所要時間は7分で、清流新岩国から岩国までの所要時間は17分です。周防久保方面からの岩徳線から新幹線の新岩国駅に錦川清流線で行く方法もありますが、両方共に本数が少ないことから川西駅の一つ手前の柱野駅からバスか徒歩で行く方法があります。ただし徒歩の場合は約3.0km歩く必要があるので右のタイムテーブルのバスがお勧めです。
クリックすると拡大クリックすると拡大川西駅から錦帯橋まで1.4kmなので、錦帯橋に行ったことが無い人にお薦めなのが川西駅から徒歩で錦帯橋まで歩き周辺で観光をしてバスかタクシーで新岩国駅に行く方法です。今までに紹介したことのある100種類のソフトクリーム専門店白へび館があります。時間があれば岩国城にも行けると思います。調べてみるといわくにバス(350円)が本数が沢山出ています。本数は少ないけれども防長バス(350円)も走っています。距離は5.3㎞なのでタクシーで行っても料金は2170円程度のようです。
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錦帯橋および新岩国周辺をGoogle地図の航空写真で紹介します。青色ラインは記事の中で紹介した川西駅→錦帯橋と柱野駅→新岩国駅の2つの徒歩ルートを示しています。クリックすると拡大
  川西駅 岩徳線
  錦帯橋
  白へび館
  岩国城
  柱野駅 岩徳線
  清流新岩国駅 錦川清流線
  新岩国 新幹線
  森ヶ原信号場 岩徳線と錦川清流線の分岐点


広島の井口に住んでいたころに聖モニカ幼稚園の遠足で錦帯橋に来た時の写真を紹介します。黄色の丸印()が私です。クリックして出てくる拡大写真には丸印は付けていませんが右から4番目で判ると思います。
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川西からは山の上の岩国城が見えます。岩国城の下には有名な錦帯橋がありますが、低い位置にあるので建物のために錦帯橋自体を見ることは出来ませんでした。錦帯橋までの距離は徒歩で行ける1.5kmです。岩国城は隣の西岩国駅からも見ることが出来ますが、若干ですが川西駅の方が近いです。岩国城が建っている山の尾根の左端に建物が見えますが、この建物はロープウェイの山上駅です。
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錦川を渡りました。この川の先に錦帯橋が錦川に架かっています。
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川西駅の次の西岩国駅に近づくと岩国城が再度見やすい角度になりました。
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上の写真の岩国城の辺りを拡大いたしました。肉眼ではここまでは見えませんが、写真を拡大すると石垣もよく分かりました。
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岩国駅の一つ手前の西岩国駅です。昔の木造の駅舎の雰囲気が残った駅でした。
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岩国駅に着かづくと都会の雰囲気になってきました。
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岩国駅到着寸前の時の車内の写真です。周防久保から乗ってから一番多い人数でした。
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岩国駅に到着した乗ってきた列車です。
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Google地図での周防久保→岩国のルート図を掲載します。見る時刻によって最適ルートが変わるために、岩徳線で周防久保から岩国に直接行くルート以外が表示されている場合もあります。地図内のPlus d'optionsをクリックすると現時点でのタイムスケジュールを表示します。


跨線橋からここから進む広島方向を撮りました。
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乗り継ぎ時間は27分あったので昼食用の駅弁を買うために改札の外に出ました。駅構内では駅弁の販売所は見つからなかったのです。
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岩国駅の前から撮った景色です。ここから10分くらいの場所に母の実家がありました。今は弟夫婦が住んでいます。
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少し駅から離れて岩国駅を撮りました。私が知っている岩国駅と違い新しい建物になっていました。
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これが広島駅まで乗った電車です。
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車内を紹介します。出発した時は空いていましたが、広島に近づくと通学の学生の人も乗ってきて席は70%程度埋まり、立っている人も出るほどでした。
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岩国駅では昼食用の駅弁が見つけられなかったので、宮島名産の竹輪と瀬戸内名産の鯛竹輪とビールを買って旅の雰囲気を楽しむことにいたしました。大きな竹輪だったので、広島駅でお弁当を追加で買う必要もなくなりました。
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宮島は大きな島なので、かなりの間、海を挟んで宮島が見えていました。
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宮島口駅です。宮島口は宮島の最も北東部分(広島に近い方向)の対岸にあります。厳島神社も宮島の最も北東部分にあります。子供の頃によく行った宮島に行ってみたいです。ルートを工夫すると墓参りの時に行けるかもしれません。
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ここでも幼稚園の遠足で宮島に行った時の写真を紹介します。黄色い丸印()が私です。クリックすると特別に大きく拡大いたします。手前から2列目の左から3番目です。
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八幡川を渡りました。私が近くの井口に3歳から10歳まで住んでいたころのこの場所は目の前が海で引き潮の時は砂浜が広がっていてハマグリを獲りに来ました。私の住んでいた家の前も海で砂地を掘れば沢山のアサリが採れましたが、ハマグリは採れなかったので、ここまで採りに来たことを覚えています。
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クリックすると拡大ここが私が住んでいた井口です。写っている駅は広島電鉄宮島線の井口駅です。こげ茶色のマンションのところに私の住んでいた家がありました。当時は木造の建物でした。その家の前で撮ったのが右の写真で小学校の入学式の時に記念に撮りました。現在の住所は広島市西区井口ですが、私が住んでいたころは広島市井口町でした。それ以前は広島県佐伯郡井口村でした。小学4年(10歳)の時に神戸に引越しました。私は兵庫県伊丹市に生まれて1歳の時に兵庫県伊丹市に引越して2歳の時に広島市平野町に引越し、3歳の時に広島市井口町に引越しました。私の記憶は3歳の時の平野町から井口町に引越すトラックの助手席に座っていたところから始まっています。つまり井口が住んだ中で最も懐かしい場所なのです。家の門は踏切から39mくらいの距離のところだったと思います。
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その井口から、おじいちゃんおばあちゃんが住んでいた周防久保に行く場合のルートです。ルートは今も昔も同じなので私が小さい時もこのルートで周防久保に行ったのだと思います。ただし時刻は今の時刻表です。広電からJR(昔は国鉄)への乗換場所は五日市駅になっていますが、乗り換えが出来る駅は五日市駅以外に八日市駅と宮島口駅があるので、その中の3つのどこかで乗り換えたのだと思います。
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私の住んでいた家の庭の南側は海に接していました。その正面の景色の写真です。夏には私や姉の同級生が庭に入ってきて写真のコンクリートのクリックすると拡大堤防の上から網に飛び込んでいましたがも海面までの高さはかなりある上に、私と姉が写った右の写真のように海面までの堤防のコンクリートの壁の途中に人が歩ける幅の段差があったので海までの距離もあるので、かなりスリルのある飛び込みでした。もちろん我々には出来るはずもありませんでした。堤防には階段が作られていて引き潮の時には下に降りてアサリや釣りのためのゴカイを採りました。砂と岩が半々ぐらいの海底でした。ゴカイは我々の親父がチヌ(黒だい)を釣るために夜釣りに使うのです。写真の中の右端の富士山のようなきれいな形をした山は似島の安芸小富士だと思います。海に建てられている沢山の竹竿は海苔の養殖用だと思います。周辺では牡蠣の養殖もおこなわれていて、岩場には沢山の牡蠣の殻がついていてよく怪我をしました。
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クリックすると拡大私の住んでいたころは庭が海に接していましたが、埋め立てられて今の海岸は昔の海岸から直線距離で1.09kmの位置になっています。写真は庭から見た景色で、岩山は男明神と言われていて、今でも公園の中に残されています。右の小さな写真は現在の写真で、水が写っていますが海ではなく池です。クリックすると海側からの写真を表示します。


私の小学校4年の夏まで住んでいた井口の位置関係を現在の地図に書き込みました。赤色ライン(━━)が私が住んでいたころの海岸線です。通っていた広島市立井口小学校と聖モニカ幼稚園などの近所の場所も記載いたしました。
私の住んでいたころには男明神の横は漁港でした。上の写真でも小舟が沢山停泊しているのがわかってもらえると思います。オリジナルのGoogle地図→ポチッ
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広島駅で新幹線への乗り換え時間が24分あったのでお土産に広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯ともみじ饅頭と広島菜の漬物を買いました。写真は広島を出発して13分後の景色です。周防久保駅→広島駅の現在時間でのタイムテーブルとルート図はこちらです。→ポチッ
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夕食用に買ってきた広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯です。2つ買ったお好み焼き(900円x2 税込)は母とそれぞれ食べて、1つだけ買った穴子飯(1400円 税込)は2つに分けていただきました。食事をしながら墓参りの報告をいたしました。翌日には整理した写真を見てもらいました。
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気になっていた「山女魚の茶そば」をいただきました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2018年12月24日追記 
タイトル : 気になっていた「山女魚の茶そば」をいただきました。
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2018年12月24日は実家の宝塚から山口県に日帰りで墓参りに行っていました。昼食は以前に紹介した「山賊」です。その時は山女魚の活き作り紹介しました。今回は山女魚の塩焼きが蕎麦に乗せられた「山女魚の茶そば」をいただいたので追加掲載の形で紹介したいと思います。
熱々が出てきて湯気のために鮮明な写真にならなかったと反省しております。

山女魚以外に肉などの具が乗っていました。
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ビールも飲みたくなります。生の大ジョッキを頼みまし。
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山女魚(やまめ)の部分を拡大いたしました。湯気がおさまってから撮ればよかったです。結構、おいしかったので、また食べる機会があると思うので、その時にいい写真が撮れれば追加したいと思います。山女魚の右側に沢山あるのは牛肉です。
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つゆは関西風で美味しかったので、飲み干してしまいました。
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タイトルでは「山女魚の茶そば」と書きましたが、メニューの正式名は「山女茶そば」です。実はメニューを見て前々から「山女茶そば」が気になって食べたいと思っていたのです。今回、ついに実現いたしました。
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お店を紹介いたします。地図の中央付近の臙脂色マーク( )が山賊です。佐々木小次郎商店と書かれているところの近くに錦帯橋があります。
 店舗 桃李庵(とうりあん) 09:30~24:00 木曜日(休)
    竈(かまど)     10:00~24:00 水曜日(休)
    いろり山賊     09:30~翌3:00 火曜日(休)
 定休 上に書いているのは一例
 住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
 電話 0827-82-3115



2016年1月19日掲載 タイトル : 山女魚の活き造り

短い動画なので先ずはプレーボタン( )をクリックして魚の頭の部分に注目してください。渓流の魚と言えばヤマメ、イワナ、アマゴですが、ヤマメ(山女魚 / 山女)の活き造りを初めていただきました。淡水の魚の生は敬遠していることもあり、刺身としていただくのも初めてでした。
以前から、お袋は3月、8月、9月、12月の年に4回ほど兵庫県の宝塚から山口県熊毛郡にあるお墓に日帰りで墓参りをしています。2013年からは私も一緒に行くようにいたしました。お袋の弟にあたる私の叔父さんが新岩国駅に車で迎えに来てもらい墓参りに行くのですが、今回紹介するお店で毎回、昼食をとっているのです。ヤマメ料理としては山女塩焼、山女せごし、山女さしみ、山女茶そば、山女唐揚、山女フライと、山女料理だけで6種類もあります。山女さしみは以前から何度も注文してみましたが、いつも無くて山女塩焼を食べていました。塩焼きが出来るのに刺身がなぜできないのか不思議に思っていたのですが、新鮮な活きた山女魚が入荷していなかったので、刺身が出来なかったことが初めてわかりました。この山女魚の活き造りを初めて食べたのが昨年2015年12月26日でした。

参考のために山賊のホームページに掲載されているヤマメ料理の写真を転用させてもらいました。
左上から順番に山女塩焼(519円)、山女せごし(670円)、山女さしみ(670円)、山女茶そば(1188円)、山女唐揚(778円)、山女フライ(778円)です。
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場所は以前紹介した山口県岩国市にある「いろり山賊」です。こちらは3店舗で構成されておりいつも竈(かまど)で食事をしています。3店舗は別々の定休日を設定しています。以前に食事した時の記事です。→ポチッ
 店舗 いろり山賊 桃李庵 竈(かまど)
 営業 9:30~翌3:00  竈 / 桃李庵 : 10:00~24:00
 住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
 電話 0827-82-3115
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先ずは山賊焼きとビールです。ただし叔父さんは車を運転するので私だけがビールをいただきました。
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山賊焼きだけをアップしました。いい写真を撮っていなかったので以前に撮った写真を使いました。若鶏のもも肉を串に刺して炭火で焼いています。こんがりと焼けたパリパリの皮が香ばしくお店の一番人気の料理です。
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叔父さん夫婦とお袋は三番人気の山賊手打うどんと、山賊巻寿司をいつも頼んでいます。
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こちらが山賊巻寿司です。私はいつも巻寿司を分けてもらって食べています。穴子が入った太巻きです。
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こちらがメニューにあった山女さしみです。刺身と書かれていますが、活きた状態で出されてくるので活き造りだったのです。まさかヤマメの活き造り(活き作り)が食べれるとは思いませんでした。皮つきの刺身ですが、触感的にまったく気にならず、かえって皮付きの方がいい気がしました。ヤマメは繊細な魚のため、活きたまま目の前に運ばれてくるのは貴重なのだと知りました。したがって山女さしみを注文しても、必ず動く状態の活き造りの刺身で出てくるかはわかりません。
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刺身の裏側の写真を撮っていれば透き通った山女魚の身を紹介できたのでが、撮り忘れたので断面が見えるようにアップの写真を掲載いたしました。昔は渓流と言えども川の魚は寄生虫がいる可能性がゼロではないので塩焼きでたべられていましたが、最近はきれいな流水での養殖が主流となったことから刺身でも普通に食べられるようになったようです。天然でも海から遡上する魚がいない標高の高い冷水域で捕獲したならば刺身は可能だそうです。


ヤマメは渓流の純粋な淡水魚だと思っていましたが、実はヤマメはサケ目サケ科に属するサクラマスのうち降海せずに一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)の個体のことだそうです。ヤマメは渓流のイメージがあるように北海道から九州までの川の上流などの冷水域に生息する魚です。ヤマメは美しい姿態と味の良さから「渓流の女王」とも呼ばれています。全長は40cmに成長しますが、2年魚でも20cmにしかならないためもあり、高級魚としても名高い魚です。
似た魚であるアマゴもサケ目サケ科に属するサツキマスが一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)の個体のことだそうです。サツキマスは日本の固有種でサクラマスの亜種だそうです。ヤマメとアマゴは写真で見ての通り似ていますが、見分けなたとしては朱点(赤い斑点)の有無で区別がつきます。アマゴは朱点があるのに対してヤマメにはありません。一方、日本のイワナは純粋な淡水魚です。山女魚あるいは山女の名前は女性のように美しい姿から「山の女」という意味に由来しているそうです。ヤマメの分類を紹介します。
  綱 : 条鰭綱(硬骨魚類) Actinopterygii
  目 : サケ目       Salmoniformes
  科 : サケ科       Salmonidae
 亜科 : サケ亜科      Salmoninae
  属 : タイヘイヨウサケ属 Oncorhynchus
  種 : サクラマス     O. masou
 亜種 : ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou
クリックすると拡大ヤマメ 山女魚 / 山女
クリックすると拡大アマゴ 雨子 / 雨魚 / 甘子 / 天魚 / 鯇
クリックすると拡大イワナ 岩魚 / 嘉魚 / 鮇 /
= (魚ヘンに岩)
今回は食べませんでしたが、今までに食べた人気の料理を紹介します。
これが二番人気の「山賊むすび」です。美味しいことは確かですが、あまりにも大きいので食べた回数は1回にとどまっています。コンビニおにぎりの3倍以上のボリュームです。3倍の大きさだけあって中に梅干と鮭と昆布が入っています。なんと、目の前に座っていた若い女性の方は、一番人気の山賊焼きと二番人気の山賊むすびと三番人気の山賊手打うどんを一人で食べておられました。初めて来た人にとっては、あこがれの料理なのかもしれません。
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ヤマメの刺身が食べられなかったときに食べたヤマメの塩焼きです。
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串揚げもいただきました。
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山賊二八そばもいただいたことがあります。手打蕎麦です。
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餃子を頼んだこともありました。
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さしみコンニャク、名前は「こん刺し」で一杯という時もありました。田舎のおばあちゃんがつくった手造りのこんにゃくだそうです。
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クリックすると記事を表示青の太い線は墓参りのために車で走るルートです。ただし墓参の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)

岩国のシロヘビ 天然記念物 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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昨年の年末の墓参りで山口県の岩国に行ったとき、天然記念物の「岩国のシロヘビ」を見る機会がありました。
岩国には母の両親が住んでいて、今は母の弟、つまり私の叔父さん夫婦が住んでいます。そんなこともあり岩国には小さい時から数え切れないほど来ていますが最後に岩国のシロヘビを見たのは小学校低学年(四年生以下)の時なので、今回シロヘビを見たのは数十年ぶりになります。岩国に住んでいる人にとってはシロヘビは珍しくはないので、それ以降は連れて行ってもらうことがなかったのだと思います。上の写真は2015年12月26日に撮ったシロヘビです。

兵庫県の宝塚に住んでいる母は毎年4回ほど山口県に墓参りに来ています。私は2013年3月19日からは同行するようになりましたが、シロヘビを見る機会はありませんでした。宝塚からは日帰りで来る上に新幹線の新岩国とお墓を往復するだけだからです。
クリックすると記事を表示青の太い線は墓参りのために車で走ったルートです。ただし墓参の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)


ソフトクリームを食べるために錦帯橋にもよるようになりましたが、シロヘビは岩国の市街地だけに見る施設があるものと思っていませんでした。下の写真は車の中から撮った錦帯橋の北側入口です。


定例の墓参りでソフトクリームを食べるために錦帯橋に来るようになったのは2014年12月27日からです。母がソフトクリームが好きなことを知った叔父さんが、錦帯橋に連れて来てくれるようになったのです。ここでは100種類以上のソフトクリームが食べれるということで静かなブームとなっており、武蔵店と小次郎店など4店舗がしのぎを削る戦いをしているのです。この日、2015年12月26日も小次郎店(佐々木屋小次郎商店)でソフトクリームを食べに来ました。ソフトクリーム以外の名物としては小次郎まんじゅうと岩国寿司がありました。
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こちらが、この日、私が食べた抹茶と牛乳のソフトクリームです。早々に食べて近くを散策してみました。
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驚いたことにソフトクリーム店である小次郎店の目の前にシロヘビの観覧所があったのです。窓にシロヘビ(仮設)観覧所と書かれているのが分かってもらえると思います。真っ赤な寶冠白蛇辨財天の幟も印象的です。寶冠白蛇辨財天は現在の漢字では宝冠白蛇弁財天となります。
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記事を掲載するためにネットで調べてみると、小次郎店から400mの距離に昔から横山白蛇観覧所がありました。横山白蛇観覧所を横山シロヘビ資料館としてリニューアルオープンさせる改装工事のために2015年5月28日に仮設のシロヘビ観覧所が出来たのでした。確かに仮設と書かれているうえに建物はプレハブでした。前回の時に気が付かなかったのは目の前と言っても間に木が沢山植わっているためでした。散策したおかげで見つけることが出来ました。


仮設シロヘビ観覧所の前に建てられていた古い説明文の部分を写真から切り取って掲載いたしました。今のままでも読めると思いますが画像をクリックすると拡大するので読みやすくなると思います。
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上の写真から説明文を読むのが面倒な方のために説明文の内容を枠内に転記いたしました。説明文が立てられた1986年(昭和61年)ごろにシロヘビ観覧所が出来たのかもしれません。
国指定 天然記念物「岩国のシロヘビ」
      指定年月日 昭和四十七年八月四日
      主な生息地 山口県岩国市一円
説   明
 天然記念物「岩国のシロヘビ」は、岩国市にだけ生息している世界でも珍しいヘビで、商売繁昌・開運の守神様などと言い伝えられてきております。
 ヘビの白色変種が、安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界にも例がなく、学術的にも極めて貴重な存在であります。
 しかし、近年生息地域の都市化が進み、シロヘビの数が減少しつつありますので、岩国市では財団法人岩国白蛇保存会とともに保護保存対策につとめております。
      昭和六十一年四月
岩国市教育委員会

さっそく入場料100円を無人の箱に入れて中に入ると写真のシロヘビちゃんが迎えてくれました。
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人に慣れていて、ゆっくりとした動きでした。
岩国のシロヘビはアオダイショウが白化したものです。自然界では色素が抜けた白色の突然変異が偶に生まれますが、白色がゆえに雪に覆われた地域以外では、周りから目立つ存在になります。目立つ存在であるがゆえに餌を獲る確率も下がる上に、猛禽類などの捕食者に捕まる可能性も高くなることから広く繁栄することは無く、ハツカネズミのように人間の飼育下でのみ存在すると考えられています。岩国のシロヘビの場合は、人間の飼育下ではないにもかかわらず存在し続けているのは岩国の人々が昔からシロヘビを神の使いとして特別で大切なものと扱ってきたのが理由であろうと言われています。
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頭を拡大いたしました。シロヘビは1924年12月9日(大正13年)に「白ヘビ生息地」として、今津町、山手町、旭町などが生息地域として天然記念物に指定され、1972年8月4日(昭和47年)に「岩国のシロヘビ」という名称で生物としてのシロヘビ自体への指定替えとなりました。
シロヘビが1924年に天然記念物に指定されたのは1919年に公布された史蹟名勝天然紀念物保存法でした。法律が公布されて5年目の指定でした。現在は史蹟名勝天然紀念物保存法から引き継いだ文化財保護法(1950年制定)です。
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シロヘビの肌を紹介したいので目いっぱい拡大いたしました。
調べてみると、シロヘビが目撃された最も古い記録は岩邑年代記(がんゆうねんだいき)に、1738年6月(278年前 元文3年)に捕獲されたとの記録です。横山地区の千石原にあった吉川邸の城門付近で門番が捕獲したそうです。次は1862年(154年前 文久2年)で、錦川志(にしきがわし)に岩国藩の米倉で2頭のシロヘビをよく見かけたと記されているそうです。


シロヘビを見ることが出来る場所の地図があったので紹介します。私が子供のころに見たのは屋外飼育場でした。祖母祖父の住んでいた場所から近いので山手町シロヘビ屋外飼育場ではないかと思います。天神シロヘビ観覧所も、すでにリニューアルされていて天神シロヘビ資料館+白蛇神社になっています。
 ①  横山シロヘビ資料館(2016年3月から)
 ①' 仮設シロヘビ観覧所(2015年5月28日から2016年3月まで)
 ②  天神シロヘビ観覧所 岩国白蛇神社
 ③  山手町シロヘビ屋外飼育場
 ④  旭町第1・第2 シロヘビ屋外放飼場
 ⑤  尾津町シロヘビ屋外放飼場

リニューアル前の横山白蛇観覧所     仮設の横山シロヘビ観覧所


白化していないアオダイシヨウの写真と分類を参考に掲載いたします。無毒のへびで、人と共に暮らすヘビと言われるほど人との関わりが深く、日本本土では最大のヘビです。写真はネットから転用させてもらいました。
クリックすると拡大 門  : 脊索動物門  Chordata
 亜門 : 脊椎動物亜門 Vertebrata
 綱  : 爬虫綱    Reptilia
 目  : 有鱗目    Squamata
 亜目 : ヘビ亜目   Serpentes
 科  : ナミヘビ科  Colubridae
 属  : ナメラ属   Elaphe
 種 : アオダイショウ E. climacophora

いただいたパンフレットが値打ちものだったので紹介いたします。蛇の写真の部分と脱皮した皮の写真の部分にザラザラが付けられているのです。パンフレットの裏側には英語と中国語と韓国語で詳しい説明が書かれていました。内容は表の左端の日本語の説明と同じではないかと思います。
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パンフレットの表紙にあたる部分ですがシロヘビの写真と「岩国の白蛇」の文字の部分だけにザラザラが付けられていました。
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圧巻なのがシロヘビの脱皮の皮で寿の文字が作られた写真ですが本物の脱皮の皮が張り付けられていると思われるほどの手触りでした。見た目や手触りでは本物に感じるのですが、最終的に本物ではないと判断したのは、これだけ手間な作業をパンフレットに一枚一枚張り付けることはコスト的にも材料的にも、ありえないと思ったからです。それほど精巧に作られているのです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックが面倒な方のために拡大し写真を掲載いたしました。是非とも触ってもらいたいです。
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こちらもシロヘビの部分だけザラザラが付けられているのです。
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タグ: 岩国 爬虫類

錦帯橋の名物 今はソフトクリーム [山口県]

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2015年3月22日の夕方に実家の宝塚から千葉の家に帰りました。3月21日は山口県に墓参りに行っていました。お墓の場所は山口県の岩国と徳山の間ですが、母の弟にあたる叔父さんが岩国に住んでいることから新幹線で新岩国まで行くと、いつも叔父さんが車で駅からお墓まで送っていただいています。墓参りの後は、一度紹介したことのある山賊村で、一緒に昼食をとった後、新岩国駅まで送ってもらっていましたが、前回から新しい習慣(イベント)が追加されました。
その習慣とは、岩国で有名な観光スポットである錦帯橋に行き、ソフトクリームを食べることなのです。実は一緒に行く母がソフトクリームが好きだったのです。叔父さんの車か錦帯橋が見えてきました。

錦帯橋に着きました。美しい木造5連アーチの錦帯橋は何度も補修されていますが、初代落成は今から342年前の1673年です。
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時間はあまりなかったけれども、全体を撮りたかったので、少し横に歩いて写真を撮りました。
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上の写真では錦帯橋全体が判りにくいので、以前に岩国国際観光ホテルで食事をしたときの部屋からの写真を紹介します。岩国国際観光ホテルはソフトクリーム屋さんとは対岸になります。
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目的のソフトクリーム屋さんです。
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お店の名前は「佐々木屋小次郎商店」です。錦帯橋では通称「小次郎」です。
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実はソフトクリームが100種類以上あることで有名です。その中でも一番の段の中に特別のソフトクリームがありました。前回の時、ブルーベリーの普通のソフトクリームを食べた後に、プレミアムのソフトクリームがあることに気がつきました。その時に、次に来た時はプレミアムのソフトクリームを食べることを決めていたのです。
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店内には沢山のソフトクリームの機械が並べられていました。今回の記事の写真のはほとんどが2015年3月21日に撮ったものですが、一部前回の2014年12月27日に撮った写真も使わさせていただいたいます。こちらの写真も12月27日の写真です。


こちらのプレミアムのソフトクリーム「プレミアム生クリームソフト」をいただきました。名前はクレミア(CREMIA)です。特徴は次の3つです。
①ラングドシャのコーン
右の写真のヨックモックの焼き菓子シガーなどに使われているラングドシャで作ったコーンに入れられています。
②生クリーム25%
北海道の生クリームがふんだんに使われています。
③乳脂肪12.5%
高乳脂肪の美味しさです。
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こちらが今回食べたソフトクリーム「クレミア」です。
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今回のソフトクリームのクリーミーさを感じていただくために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
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上で紹介した「小次郎」に対して「むさし」というソフトクリーム屋さんが隣にあります。錦帯橋では武蔵と小次郎でソフトクリーム競争が行われており、そのことが有名になっているのです。こちらのお店が「むさし」です。
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むさし店のソフトクリームは2015年3月21日時点で140種類で、日本記録更新中と書かれていました。むさしと小次郎は競争をしてはいますが、話題になることで、かえってソフトクリームを食べるお客さんが増えて、お互いに得をしていると思います。我々のようにソフトクリームを食べるだけのために来る人もいると思います。第3のソフトクリーム屋さんもありました。
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小次郎店の建物にソフトクリームの歴史が書かれていました。それによると1947年7月3日に米軍主催のカーニバルにおいて明治神宮外苑でソフトクリームが日本で初めて販売されたそうです。そのため7月3日がソフトクリームの日になったそうです。
錦帯橋では、1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。ソフトクリーム販売当初は「小次郎」のお店の名前は「横山」でした。競合店の「むさし」が出来たことで「横山」は「小次郎」と名前を変えたのではないかと推察しています。
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錦帯橋とむさし店と小次郎店の位置関係をGoogle航空写真で紹介します。いずれのソフトクリーム屋さんも食事が出来るお店でした。
周辺レストラン→ポチッ
  P-1.gif錦帯橋
  P-3.gifむさし店    食事処竹之里 むさし
  P-6.gif小次郎店   佐々木屋小次郎商店 ←今回食べたお店
  P-7.gif第3の店    にしきや
  P-13.gif岩国国際観光ホテル


広島の聖モニカ幼稚園の遠足でも錦帯橋に行きました。もちろんその頃はソフトクリームは売っていなかったと思います。黄色い丸が私です。河原に下りた、この辺りからの写真が一番いいですね。

山口県の山賊村 [山口県]



山口県の岩国の近くに古い建物が並んだ不思議な雰囲気のお店がありました。岩国から徳山に向かって国道2号線を走っているときに気になっていました。岩国に戻ってくるときに、ちょうど昼時であったことから、そのお店に入りました。上の写真がお店に入る寸前の写真です。地元では誰もが知っている「いろり山賊 玖珂店」です。我々、県外の人間にとっては珍しいお店なので紹介いたします。

駐車場の写真ですが、ほぼ満車になるほど人気のお店でした。ちょうど一つ空いていたので助かりました。古めかしい木造の建物と目立つ飾り付けがあるのですぐにわかると思います。
ここを知ったのは2013年3月19日に山口県下松市大字河内にある岩徳線の周防久保駅の近くにある父方のお墓にお彼岸のお墓詣りに行ったときに近くの岩国に住む叔父さん(母の弟)が車を出してくれて岩国と周防久保を往復してくれた時のことでした。


この写真のように古めかしい建物がある上、谷沿いにも建物が沢山ありました。そのため山賊村と呼ばれているのだと思います。調べてみると結構大きなチェーン店で、こちらは3店舗で成り立っています。我々は竈(かまど)というお店に入りました。写真の奥の建物が桃李庵で、手前の建物が竈です。
  店舗 桃李庵(とうりあん)10:00~24:00 木曜日(休)
     竈(かまど)    10:00~24:00 水曜日(休)
     いろり山賊    9:30~翌5:00 火曜日(休)
  住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
  電話 827-82-3115
  HP  http://www.irori-sanzoku.co.jp/kugaten/kuga.html
  航空 http://goo.gl/maps/cGbqn


土産物屋やお弁当屋さんもありなかなかの雰囲気のお店でした。写真の太鼓は子供さんに人気でした。


沢山のお店があり散策するのも楽しくなる雰囲気でした。子供に喜ばれるのも人気の一つの理由かもしれません。


今の時期、桃李庵や竈ではコタツで食事が出来るのです。これも珍しいです。お店の名前の竈(かまど)が並んでいました。


少し暖かくなってきたので、山賊村の中でも、ここが一番人気の席のようでした。クリックすると拡大いろんなタイプの席がありました。米軍の岩国基地や景勝地の錦帯橋があることから外人の方も目立っていました。正面に桃李庵への入口があります。3店舗の中で一番格式が高そうなお店です。crayfishさんからコメントいただいた缶ビールの自動販売機が、こちらの写真に写っています。下の写真をクリックするとわかると思いますが、右にも拡大写真を掲載いたしました。お店の中に缶ビールの自動販売機を見たのは初めてでした。ノンアールコールビールも、ちゃんと入っているようです。
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こちらが建物の中です。こちらでも炬燵(こたつ)でした。左の人は焼肉を食べられていました。肉は皇牛(すめらぎぎゅう)でいろり焼き(1785円)から皇ひれ(3045円)の焼肉がありました。皇牛は、日本の肉牛のルーツといわれている純血日本種で天然記念物の見島牛の伝統を守り続けていく黒毛和牛で山口県の自慢の牛肉です。山口県の代表的な牛肉は皇牛と高森牛と無角和牛です。
このあと、お客さんが沢山入ってこられました。


店名にもなっている竈(かまど)が沢山並んだ、この場所で食事をいただきました。


天井は高く飾り付けも趣向を凝らしていました。


こちらにも上がって食事をすることが出来ます。映画の中の山賊の家のようです。


こちらで人気の3つ料理が「山賊焼」と「山賊むすび」と「山賊手打うどん」で、周りを見ていると「山賊焼+山賊手打うどん」の組み合わせを頼んでいる人が多かったです。


私が頼んだのが、叔母さんのお薦めで「山賊焼+山賊むすび」を頼みました。お店の名前らしく豪快な料理でした。おむすびも、私のいつもの茶碗ならば3杯以上の大きさでした。


こちらが山賊焼で鶏のモモ肉に串を刺して醤油系の甘辛いたれをつけて、香ばしく焼いてありました。山賊になった気分で豪快にかぶりつきました。
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おむすびの中身は梅干と鮭でした。


と思ったら、昆布も入っていました。つまり梅干と鮭と昆布のおにぎりだったのです。


おむすびの大きさを実感してもらうために写真を追加いたしました。写真をクリックするとさらに拡大いたします。
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屋外で炭火で焼かれる皇牛も美味しそうでした。


素朴な「おはぎ」と「草もち」も置かれておりお土産に買っていただき家に帰って食べました。特に草餅はヨモギの香りがいっぱいで昔ながらの素朴な味で美味しかったです。大きかったので半分に切って、一日置いておくだけで固くなってしまいました。まさに餅そのものだったのです。もちろん焼くと美味しくいただけました。


お店の奥が谷になっており、その川沿いにも屋外で食べれるところがありました。さすがにちょっと寒くて、まだやっていませんでした。火曜日だったので、こちらは定休日だったのかもしれません。


川沿いの掃除も店員の方が丁寧にされているのに感心いたしました。


山の奥に神社がありました。名前は魂稲荷神社で「魂」は「むすび」と呼ぶそうです。
この魂稲成神社(むすびいなりじんじゃ)」は、もともとは山口県岩国市美川町根笠の瀬倉部落(おそくらぶらく)にありました。河内大明神神社(津和野太鼓谷稲成の分身)を、1988年に移築したものです。当時の美川町の総代田村様のご尽力により、過疎化の為崩壊の進む神社をそのまま荒廃させるのはしのび無いと山賊の社長が協力し移築の運びとなったそうです。山賊の守り神ということになるようです。


左下の緑のマークが「いろり山賊 玖珂店」の場所です。赤いマークは錦帯橋です。青いマークが新幹線の新岩国駅で空色マークが去年2012年の12月に開港した岩国錦帯橋空港です。
叔父さんたちに、どのような人が「いろり山賊 玖珂店」利用しているのかと聞くと、地元の人が訪ねて来た人を案内したり、道を通っている人が、興味をひかれて入っているのが多いのではないかと言われていました。この辺りでは車で行けるレストランで最も大きいことでも利用している人もいる気がしました。ちょっとしたテーマパークのようなレストランなのだと思いました。

より大きな地図で 岩国周辺 を表示
国道2号線を走っていると、同じチェーン店である「いろり山賊 周東店」がありました。上で紹介のお店に比べると規模は小さいけれども高い櫓(やぐら)の迫力のあるお店でした。
  店舗 山賊 老松
  住所 山口県岩国市周東町2354-1
  電話 0827-84-3914


いろり山賊の歴史を調べてみました。 62年前の居酒屋・的場大学が起源で、長い歴史があることを知りました。
1951年 広島 居酒屋・的場大学が開店
1967年 広島 的場大学は大学と名を変えて堀川町に移設
1967年 株式会社ファミリーレストラン大学として発足
1971年 玖珂 いろり山賊 開店
1972年 玖珂 公卿七厘 開店 茅葺の建物
1976年 玖珂 竈(かまど)旧館 開店
1978年 錦町 一燈銭 開店
1981年 錦町 山賊砦 開店
1982年 玖珂 竈(かまど)新館 開店
1984年 広島 堀川町 本店 火災焼失
クリックすると拡大1985年 周東 老松 開店
1987年 玖珂 桃李庵(とうりあん) 開店
1989年 外食産業→情感産業 平成1年
1989年 玖珂 魂稲荷神社 移築完成
1989年 玖珂 公卿七厘火災焼失
2011年 錦町 長屋門完成
2013年 玖珂 4月10日倉庫と思われる建物で火災発生
枠内の写真はホームページから拝借した錦町の長屋門


2013年4月10日追記 タイトル : 山賊で火災発生
2013年4月10日 火災速報
 今日 2013年4月10日に玖珂店で倉庫と思われる建物で火事発生
 ケガ人なし・店舗は無事の模様
 本記事にネットから拝借した写真と動画を追加しました。

2013年4月10日に発生した火事の写真です。写真はネットから拝借いたしました。写真をクリックすると動画を表示します。
突然に「山賊 火災 火事 山賊火災 山賊火事」のキーワードでの検索によるアクセスが増えたので火事のことを気がつきました。
本記事への訪問者数およびアクセス数は下記の通りです。
        訪問者数   アクセス数
  4月09日    3         3
  4月10日   1150      1491  ←火事のあった日
  4月11日    257       333
  4月12日    81        91
  4月13日    30        33


動画も追加掲載いたしました。火が出た建物は大工小屋で、従業員の休憩所と食材をいれる冷蔵庫などがあった隣の倉庫も全焼したそうです。


火災が起こった場所です。写真や動画などから、赤色の火災のマークの場所が火事となったようです。緑のマークは店舗や神社です。
当時は強風注意報と乾燥注意報が出ており、強風のために火は山林に燃え移り、山陽新幹線のトンネル入口に近いことから新幹線は新岩国~徳山は上下線ともに正午過ぎから約40分間ほど見合わせていましたが12時48分に順次運転再開しました。この火災の影響で、山陽新幹線の列車に5~40分の遅れがでたそうです。

より大きな地図で いろり山賊周辺 を表示
ネット上での記事を掲載
広島でもなじみ深い“いろり山賊”玖珂店で火事
広島県民にとってもなじみ深い、山口県岩国市にある「いろり山賊」玖珂店で、10日午前倉庫など関連施設が燃える火事がありました。激しく燃え上がる炎。こちらは出火直後に近くを通りかかった人が撮影した映像です。撮影した人は「かなり風も強くて風にあおられて火もすごい燃えあがっているような。とにかく煙と炎がすごい」と話していました。10日午前11時すぎ、山口県岩国市の「いろり山賊」の関連施設が燃えていると、店の関係者から110番通報がありました。消防車15台などが駆けつけ消火活動が行われましたが、建物は全焼しました。店の関係者によりますと、火が出たのは大工小屋で、風にあおられて食材を保存する冷蔵庫などがある隣の倉庫に燃え移ったということです。国道2号を挟んで向かい側にある店舗には、当時客や従業員らおよそ70人がいたということですが、ケガ人はいないということです。「いろり山賊」玖珂店は、広島と山口の県境から車でおよそ40分程度の場所にあり、広島県民の人気ドライブスポットの1つです。

続きを読む


錦帯橋を見ながら昼食 [山口県]



久しぶりに錦帯橋のホテルの一室に親戚一同が集まりました。思いのほか料理と景色がよかったので掲載いたしました。

山口県は魚がおいしいところです。新鮮なお刺身をいただきました。


魚の味わいを感じてもらうために拡大いたしました。


お吸い物です。


煮物に、こごみが添えてありました。春です。


カレイの唐揚げも手が込んだ揚げ方でした。


肉もありました。山口県の皇牛でしょうか。


最後は茶蕎麦でしめですね。


部屋からの景色です。錦帯橋と桜がきれいでした。新幹線の時間が迫っていたので、近くで花見が出来なかったのが残念です。写真をクリックすると拡大写真を表示します。桜の花が確認できると思います。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示

桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。
クリックすると拡大

食事の部屋の景観です。上の写真の錦帯橋がよく見えました。食事をしたホテルを紹介いたします。
 名前 岩国国際観光ホテル
 住所 山口県岩国市岩国1-1-7
 電話 0827-43-1111
 地図 http://goo.gl/maps/hp6S8
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示

幼稚園で山口県の錦帯橋に遠足に行ったときの記念写真があることを思い出しました。黄色い丸が私です。

タグ:錦帯橋 岩国

岩国のお土産は「岩国寿司」でした。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

山口県の岩国に行く前日にテレビを見いてると偶然にも岩国のことをやっていました。そこに出来たのは錦帯橋と蓮根と岩国寿司でした。
そして偶然にも、叔父さん(母の弟)からお土産をいただいたのが岩国寿司(いわくにずし)でした。

岩国寿司は山口県岩国市周辺で作られる押し寿司の一種で、岩国城内で食べられていたこともあることから「殿様寿司」とも言われています。地元では「角ずし」と呼ばれることも多いけれども、広島地域で食べられる角寿司とは若干製法が異なるそうです。
2~ 3人前ずつ一層で作られる通常の押し寿司と異なり、一度に3升から1斗入る大きな木枠の中に、クリックすると拡大サワラやアジなどの生魚の身をほぐして混ぜ込んだ酢飯の上に春菊などの青菜、岩国名産の蓮根、椎茸、錦糸卵などをのせ、これを何層にも重ね、サンドイッチ状にし、重石でしばらく押し固め、木枠を抜いて、一人前サイズに切り分ける作り方です。右の写真はWikipediaの岩国寿司の画像から拝借いたしました。クリックすると拡大します。
層の区切りにバショウやハスの葉を用いるのが特徴的だそうです。できあがった大きな押し寿司を一人前ずつに切り分けてるために一度に数十人前が出来上がることになります。
錦糸卵などで彩られ、切り分けた後でエビなどを後のせすることもあり、見た目はちらし寿司風でした。こちら写真はクリックすると拡大いたします。
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クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。中に入っているレンコンがしゃきしゃきして美味しかったです。