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錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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山口県の周防久保の墓参りをした2020年12月23日の帰りに錦帯橋や岩国城や武家屋敷や吉香神社に行きました。岩徳線の川西駅から岩国城に行く時は、上の写真の奥側から手前側に錦帯橋を渡り、帰りは手前側から奥側に錦帯橋を渡って岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行き実家の宝塚まで帰りました。奥側から手前に歩いた時は動画を撮ってすでに紹介いたしました。本記事では手前から奥側に歩いた時に撮った写真を紹介したいと思います。上の写真は山の上の岩国城から撮った錦帯橋です。

上の岩国城から撮った写真の奥側(南東/左岸/岩国市岩国)側から手前側(北西/右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。地上から撮った下の写真にも第一橋~第五橋を書き込んでみました。錦帯橋に関しては2020年10月07日にも詳しい説明の記事を掲載いたしました。→ポチッ
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 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 348年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m
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江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二橋、第三橋、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一橋、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りです。錦帯橋は単に昔の橋が残されているのではなく伊勢神宮のように架け替えの技術が伝承されてきた橋なのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示         架け替え
 第一橋  約40年ごと 10回
 第二橋  約20年ごと 14回
 第三橋  約20年ごと 14回
 第四橋  約20年ごと 16回
 第五橋  約40年ごと  9回


Googleマップの航空写真でも錦帯橋()の第一橋~第五橋の位置を紹介します。さらに橋脚の部分は薄黄緑色に着色いたしました。クリックすると拡大
橋の上流側(右上方向)は川の水量が少ない時でも水を湛えていて、屋形船に乘ったり右の小さな写真の鵜飼を見ることが出来ます。
クリックすると拡大右の小さな写真が錦帯橋の入橋券です。山頂の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。


写真は撮った順に紹介します。つまり第五橋から第一橋に向かって紹介していくわけです。こちらの写真は第五橋に足を踏み出す前に撮った錦帯橋です。右側が錦川の下流側です。川は左側から右の方向に流れたいます。
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同じ場所から橋の渡る方向の正面を撮った写真です。
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同じ場所から上流側をとりました。写っている橋は錦城橋で、その橋の右側の大きな建物が岩国国際観光ホテルです。上の航空写真のところで説明させていただいたように、水が湛えていることが分かっていただけると思います。
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第五橋から見た錦川の上流側の水面です。この日は水量が少なくて橋から離れると鏡のような水面でした。橋がある部分の川底は石垣のように石が組まれています。これによって大雨で激流になっても川底がえぐられることを防ぐとともに、上流側に水を貯めているのだと思います。
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上の写真と同じ場所から第四橋を撮りました。第四橋には階段が付いていました。階段が付いているのが第二橋と第三橋と第四橋です。
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第五橋と第四橋の間の橋脚の部分まで来ました。
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橋脚の部分から第四橋の階段を撮った写真です。
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第四橋のトップの部分まで上がると階段はありませんでした。次の第三橋が見えます。
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第四橋のトップからズームで第三橋と第二橋を撮った写真です。
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第四橋と第三橋の間の橋桁の上流側です。水嵩が増しても水が切れるように上流側は尖っています。
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錦帯橋が作られた初期の頃に激流により橋脚が流された経験が今の橋脚に行かされているのだと思います。見るからに頑丈そうです。
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石の楔で石どうしつないでいました。橋の上の雨水を流す樋上の溝も橋脚に掘られていました。
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第三橋の上から見た下流側の景色です。
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第三橋と第二橋の間の上流側の橋脚です。
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第三橋と第二橋の間の下流側の橋脚です。橋脚の上流側と下流側は同じ形をしていることが分かりました。石をつなぐ楔や雨樋がありました。
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第二橋を登り始めた位置からの下流側の景色です。一番高いところが城山の山頂だと思われます。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った第二橋の階段です。右側が下流側の欄干です。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った上流側の欄干と岩国国際観光ホテルです。
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第二橋のトップから撮った下流側の左岸の方向の写真です。
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第一橋を渡り切った位置から第一橋と第二橋を撮った写真です。右側の山の上に岩国城の天守閣が見えます。この写真は左岸から岩国城に行く時に撮った写真です。、
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左岸の上流側から撮った写真です。この後、冒頭で説明したように岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行ったわけですが、ホテルで大失敗をしてしまいました。
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ホテルの入口の写真は撮っていなかったのでSVを掲載させていただきました。
タクシーが来るまで少し時間がかかるとのことで、ホテル内でタクシーを待っていて乗ったわけですが、カメラをホテル内に忘れてしまったのです。気がついたのは新岩国の改札を通った時でした。いつも手にカメラをぶら下げているので手ぶらなので気がつきました。携帯(スマホ)のバッテリーが切れかかっていたし、新幹線に乗ろうとしている時なので、電話して見つかっても取りに行けないので、実家に着いてからホテルに電話することにしました。


実家に着いて右の小さな写真の岩国国際観光ホテルに電話するとカメラはすぐに見つかりました。クリックすると拡大着払いで送ってもらった時の宅急便の伝票です。ほんと、助かりました。カメラが無くなってしまっていたら本記事を含めて次の8つの記事を書くことが出来ませんでした。新年の挨拶の記事も内容が変わっていました。
 錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。
 岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ)
 武家屋敷 旧目加田家住宅
 錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。
クリックすると拡大 岩国城
 岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流
 岩徳線の動画 その1 柱野駅到着
 岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色
 新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦
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岩国国際観光ホテルの方には大感謝です。岩国国際観光ホテルを利用させていただいたのは4度記憶にあります。2003年と2007年は法事で利用させていただきました。2003年には両親と姉と私の4人が泊まりました。2003年の写真は法事の翌朝の朝食時の写真で、父と母と姉と叔父さんと叔母さんが写っています。2018年と2019年は墓参りの時の昼食で四川飯店を利用させていただきました。
     2003年09月14日           2007年04月14日
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     2018年03月25日           2019年03月23日
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2007年04月14日には桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。
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2003年09月14日から2020年12月23日までの間に少なくとも錦帯橋に13回来ていますが、錦帯橋を渡ったのは2020年12月23日のみです。ただし子供の頃は何度も渡っているはずです。桜が咲いていた2007年04月14日の錦帯橋の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに面積で16倍の拡大写真を表示します。
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往路の時に撮った錦帯橋の動画は一度掲載させていたたきましたが、あらためて紹介させていただきます。第一橋から第五橋に向かって歩いた動画です。


溺愛猫的女人さんから金鳥のCMに錦帯橋が出てきたのを聞いて探してみました。小柳ルミ子さんが歌う渦巻音頭です。 


参考にネットに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を紹介します。写真を転用させていただいたのは岩国旅なび岩国市観光協会HPです。
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2021年2月23日22時19分に累計アクセス数(累計閲覧数)を確認すると1500万アクセス数を越えて15,001,655アクセス数になっていました。
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岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ) [山口県]

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上の写真は山口県岩国の錦帯橋の近くにある吉香神社の一ノ鳥居です。真直ぐに進むと順にニノ鳥居、神門、拝殿、本殿があります。
吉香神社は前記事の武家屋敷 旧目加田家住宅で紹介した古地図の中の御城跡と書かれている場所に1884年(明治17年)に建立されました。吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は元々は西側に隣接した白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたもので1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。

クリックすると拡大クリックすると拡大古地図(作製年不明)の中に吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから、古地図が描かれたのは幕末から吉香神社が建立された明治17年までの間に作られたと思われます。さらに絞り込むとするならば廃城令が出た1873年(明治6年)から1884年8(明治17年)の間の可能性が高い気がします。右の小さな古地図に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。
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クリックすると拡大上の古地図を部分的に切り取った全体の古地図である旧岩国城下図(横山)を紹介します。旧岩国城下図(横山)は錦川の右岸(上流から見て)の地図で、上流から見て左岸の地図が右の慶応絵図「岩国城下図(錦見)」です。右の小さな古地図をクリックすると横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を表示します。
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現代の航空写真で吉香神社と白山比咩神社と武家屋敷(目加田家住宅)の位置関係を紹介します。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に吉川広家が築き始めた城です。戦時のために山上と、住むために麓の2ケ所に城が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。山上の城は4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。明治になった、その麓の城(御土居)跡に白山比咩神社から社殿が移築されて吉香神社になったわけです。
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吉香神社の部分を拡大して参道が水平になるように回転させました。左端の掘から拝殿までを撮った写真で紹介したいと思います。
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堀を渡る石橋の上からの景色です。写真の中の建物は錦雲閣(きんうんかく)です。錦雲閣は旧藩時代の矢倉に似せて1885年(明治18年)に造られた絵馬堂です。岩国市の登録有形文化財となっています。
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岩国城の天守閣からは錦雲閣を見ることが出来ました。クリックすると拡大拝殿や本殿は木が多くて全体は見れませんでしたが黄色の丸印(〇)の部分に本殿の屋根を見ることが出来ました。写真をクリックすると本殿の屋根が写った写真を表示します。
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冒頭の写真の一ノ鳥居です。
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進んでいく道の右側に茶店のような建物がありました。調べてみると星出茶屋で食事などが出来るようです。
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更に進むとニノ鳥居がありました。
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こちらが社殿の入口の神門です。12月23日ですが既に門松が置かれていました。
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神門を拡大いたしました。本写真をクリックすると特別に大きく(面積で16倍)拡大いたします。
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神門から拝殿に向かう途中の左側の景色です。


こちらが吉香神社の拝殿です。奥に本殿があります。
吉香神社は岩国藩主の祖先吉川元春公が、天文年間安芸国山県郡新庄村日の山城主の時、一祠を建て祖霊を奉祀したことに始まるそうです。慶長5年吉川広家は関ケ原役後雲州から岩国に移封されたが、このとき当地横山に居館を構え築城し、正徳年間に本社をこの地へ奉遷し、居館の西、城山のふもとに社殿を造営したそうです。明治4年に廃藩置県の令があり、同年5月に吉川経健は東京に帰住後、有志数百人と相はかり同7年本社を後世に残すべく認可をうけて8神を合祀して吉香神社と称したそうです。
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内部が写っている部分を拡大いたします。格子の奥が本殿です。
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本殿の位置を紹介するためにGoogleマップの航空写真を掲載いたしました。マイナスのアイコン(-)を5回クリックすると岩国城天守と錦帯橋が表示されます。


堀に架かる石橋から拝殿前までのストリートビュー(SV)を紹介します。
さらに調べてみると二ノ鳥居から岩国城の山頂駅までの徒歩ルートもSVで見ることが出来ました。→ ポチッ① ポチッ②
山頂への道は徒歩はOKですが、自転車を含む車両は通行できません。→ ポチッ


上で触れた横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を紹介します。吉香神社のところは屋敷と書かれていることや岩国村の文字があることから江戸時代の古地図だと思います。古地図は山口県文書館などから転用させていただきました。錦帯橋も描かれています。
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武家屋敷 旧目加田家住宅 [山口県]

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年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。

旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財  旧目加田家住宅  指定年月日 昭和49年2月5日
旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。
建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。
建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。
平成31年1月         岩国教育委員会
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ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。
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3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。秘儀橋の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。
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裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。
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平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。
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こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。
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遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 千葉県 佐倉   佐倉の武家屋敷
 兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷
 山口県 岩国   旧目加田家住宅
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岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。


Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色の線が岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。


岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。
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クリックすると拡大目加田家あたりを拡大いたしました。「目加田」の文字が読めると思います。目加田の後ろの一文字は名前と思われますが、折り目部分で滲んでいるために現時点では読み取れていませんが、我家で検討した結果の名前の第一候補は甫(はじめ)です。もし名前が正しいとすれば古地図が描かれた時の主の氏名は目加田甫(めかだ はじめ)ということになります。下の古地図の右端の大きな文字は御城跡です。御城跡と書かれている場所は現在は吉香神社となっています。ホリ(堀)は現在も同じ配置で存在しています。
古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ
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Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。
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クリックすると拡大上の回転させた古地図に近い範囲を表示させたGoogleマップです。本地図で堀が昔のままだあることが分かっていただけると思います。右の小さな写真は堀の写真で、堀の写真の中の建物は錦雲閣です。

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錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。 [山口県]

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我家の父方の墓は山口県の周防久保にあり、父が亡くなってからは母は一人で3月と8月と9月と12月の年4回ほど墓参りに行っていました。2013年からは私か姉が付き添い始めました。2019年9月までは叔父さん(母の弟)が新岩国駅まで車で迎えに来ていただき昼食を一緒に食べて新岩国駅まで送っていただきました。2019年9月末に叔父さんが運転免許を返納したことから、2019年12月はレンタカーを新岩国で借りました。2020年3月もレンタカーを予約していましたが、新型コロナ感染拡大のために墓参り中止しました。2020年8月も墓参りを中止しました。2020年9月と12月は母への感染防止のため私一人で墓参りに行ったわけです。1人で身軽なためにレンタカーは使わずに岩徳線と路線バスを利用して墓参りいたしました。叔父さんが車を出していただいている時に下記のリストで小次郎とかかれている時に錦帯橋までソフトクリームを食べに連れてきていただいたのです。すべて佐々木小次郎店でソフトクリームを食べたので、むさし店でも食べたいと思っていました。今回(2020年12月23日)は錦帯橋と岩国城に訪問したので、むさし店でソフトクリームも食べました。佐々木小次郎店が新型コロナのため閉まっていたので、むさし店で食べました。小次郎店が開いていたら迷ったと思いますが、迷わずにすみました。したがってタイトルの通り初めて「むさし」で話題のソフトクリームを食べることが出来ました。それが上の写真です。今回が錦帯橋で食べた11回目のソフトクリームになります。昼食場所に人数を書いていないのは、叔父さんと叔母さんと母と私の4人です。
 墓参り年月 昼食場所    食べた店 ソフトクリームの種類
 2013年03月 山賊
 2013年08月 山賊
 2013年09月 錦果楼
 2014年03月 山賊
 2014年09月 山賊
 2014年12月 山賊      小次郎  140種(むさし)
 2015年03月 山賊      小次郎  140種(むさし)
 2015年08月 山賊      小次郎
 2015年12月 山賊      小次郎
 2016年03月 山賊      小次郎
 2016年09月 山賊      小次郎
 2016年12月 山賊      小次郎
 2017年03月 山賊
 2017年09月 山賊      小次郎  165種(むさし)
 2017年12月 山賊      小次郎  165種(むさし)
 2018年03月 岩国四川飯店 6人
 2018年08月 よ志だ 新館
 2018年09月 わたぼうし
 2018年12月 山賊     
 2019年03月 岩国四川飯店 5人 小次郎
 2019年09月 アリス(新岩国駅前)
 2019年12月 たんぽぽ 2人
 2020年09月 列車内 1人
 2020年12月 列車内 1人    むさし  170種(むさし)
          小次郎:佐々木屋小次郎商店  むさし:食事処むさし

こちらが、むさし店てす。テレビ朝日のナニコレ珍百景で紹介されたようです。右の小さな写真がいつもソフトクリームを食べていた佐々木小次郎店です。写真のように閉まっていました。
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 住所 山口県岩国市横山2-1-23
 電話 0827-43-6340
 営業 09:00~18:00
 定休 無休
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2020年の時点で170種類のソフトクリームが食べれました。錦帯橋では1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。
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私は真ん中の紫いもソフトクリームを頼みました。
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これが紫いもソフトクリームです。ただしカメラのピントは前のお店に合わせています。その正面に見える長州屋の前にある縁台でソフトクリームを食べることにいたしました。一時期は長州屋でソフトクリームが売られていて3店で競争している時期もありました。
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むさし店を背景にして撮った紫いもソフトクリームです。今までに錦帯橋で食べたソフトクリームの写真を掲載した記事は次の3つあります。
 2015年03月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2015-03-25
 2015年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2016-01-23
 2017年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2020-10-08
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クリームの食感を感じてもらうためにクリームの部分を拡大いたしました。写真をクリックすると特別に大きく拡大たします。
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クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
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むさし店のソフトクリームの種類数が偶然写った写真を紹介します。
 2014年12月 140種  2017年09月 165種  2020年12月 170種
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2014年12月から食べたソフトクリームの写真を紹介します。残念ながら2014年12月と2018年08月は私が食べたソフトクリーム自体は撮っていませんでした。ソフトクリームの写真をクリックすると大きく拡大いたします。ちなみに2017年12月5日に17歳8ケ月で亡くなった我が家のワンコの名前が「むさし」でした。その「むさし」の写真を空いた最後の空間に入れました。
  2014年12月      2015年03月      2015年08月
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  2015年12月      2016年03月      2016年09月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2016年12月      2017年09月      2017年12月
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  2018年08月      2018年09月      2018年12月
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  2019年03月      2020年12月       むさし
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むさし店と佐々木小次郎店の位置を地図で紹介します。長州屋の位置も判ると思います。


昼食を食べた山賊以外のレストランの位置も紹介します。地図内の臙脂色マーク( )が昼食を食べた「錦果楼、岩国四川飯店、よ志だ 新館、わたぼうし、たんぽぽ、アリス」で、橙色のソフトクリームのマーク( )が「佐々木屋小次郎商店、食事処 むさし」です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックして広い範囲を表示させると山賊も出てくると思います。

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岩国城 [山口県]

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川西駅(JR岩徳線)から錦帯橋を通って岩国城までの道沿いの景色を2021年1月13日の記事で紹介しましたが、本記事では岩国城に関して記載したいと思います。道沿いの景色を紹介した時にも記載しましたが、岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(御土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。上の写真の現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。
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山上の岩国城の配置図です。
実は現在の天守閣は1608年に完成した天守閣より意識的に南方向に約30mずらして建てられているのです。下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本配置図の北は右上方向です。配置図の中の赤枠()の部分が元の天守閣の位置で、青枠()の部分が現在の天守閣です。復興天守に分類されるのは大阪城や岐阜城や小倉城など14天守あります。名古屋城は木造復元天守へするための工事中です。着色文字は記事として書いたことがあるお城です。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 福山城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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岩国城と錦帯橋の位置関係が判るようにGoogleマップの航空写真に城の絵のマークを入れてみました。地図記号の史跡・名勝マーク(⛬)は昔の天守間の跡があるところです。


昔の天守間の跡と現在の天守間の位置関係を航空写真で紹介します。北は上方向です。クリックするとオリジナルの航空写真を表示します。
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天守閣が建っている辺りから錦帯橋を咲かしてみると木の間に見つけることが出来ました。木が多いことから広く見渡せるところがないので、天守閣に入って上から見ることにいたしました。
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こちらが天守閣への入口です。
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この入城券を買って天守閣に登りました。
こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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急な階段で最上階まで上がりました。
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こちらが最上階です。
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。すでに紹介したように遠くまで見渡せました。錦帯橋が中央にあります。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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錦川がカーブしている範囲を拡大いたしました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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錦帯橋あたりの景色です。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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岩国城から見た錦帯橋を紹介したので、地上から見た岩国城の写真を掲載しました。
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屋根瓦の写真も撮りました。
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東方向の景色です。
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最上階以外には刀剣や鎧や火縄銃などの古い品が展示されていました。特に刀剣の数はすごかったです。
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刀剣が並べられているエリアです。
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見事な長刀もありました。江戸中期の御太刀で銘には「陸奥守藤原包保作 於好以南蛮鉄鍛之」とクリックすると拡大なっていました。全長2mを越える刀から、佐々木小次郎の刀「物干し竿」を連想しました。ただし佐々木小次郎の「物干し竿」の刃長が約3尺なのに対してこの刀の刃長は約5尺(151cm)です。
クリックすると拡大 刀身重さ 5.0kg
 全重量  8.5kg
 刀身長さ 197cm
 刃長   151cm
 全長   210cm
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こちらは甲冑です。鎖鎌も展示されていました。
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外に出て天守閣の周囲を廻ってみました。
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北東方向から天守です。
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天守を見上げた景観です。守りの仕掛けもしっかりと再現されていました。
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石垣の写真も紹介します。
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石垣と天守閣です。
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冒頭の写真より少し遠くから撮った写真です。
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二の丸広場の花木園の中に建っている四阿(しあ/あずまや)です。この後、ロープウェイ乗場に向かいました。
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ロープウェイ乗場の近くに岩国のパノラマ写真があったので紹介します。岩国基地や飛行場や海の向こうの島々も写っていました。クリックすると特別に大きく拡大するので島の名前も読むことが出来ると思います。島の名前を左から読むと大黒神島、倉橋島、鹿島、甲島、柱島、周防大島、前島です。
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パノラマ写真が置いてあるところから写真を撮ればよかったのですが、遠くが霞んでいたので撮らなかったのでロープウェイのゴンドラから撮った写真を紹介します。かすみが無くなると上の写真のようにきれいだったと思います。
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錦帯橋の写真です。奥側(上流から見て左岸側)から第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。クリックすると面積で16倍に拡大するので是非とも見てほしいです。
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ロープウェイの上りは2人だけでしたが帰りは沢山乗られていました。
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すれ違った上りにも沢山乗られていました。時間帯でかなり違うようでした。
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JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図で岩国城の位置を紹介します。城の絵のマークのところが岩国城の天守閣です。

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岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2020年12月23日に墓参りに来た時に岩徳線車内で2本の動画を撮ったことを前記事「岩徳線の動画 その1」で紹介したので、もう1本の動画を本記事で紹介したいと思います。2020年9月25日にも同じように墓参りに来て同じように岩徳線に乗って錦川清流線(にしきがわせいりゅうせん)があることを知りました。錦川清流線は岩徳線に乗り入れて岩国まで行っているのですが、そう合流地点の動画を撮ろうと出発前から思っていて実行して撮ったのが上の動画です。9月25日の時は合流部の写真を2枚しか撮れなかったので動画を撮ろうと思ったわけです。プレーボタン( )をクリックすると錦川清流線が見える頭から2秒のところから動画が始まるように設定いたしました。

岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。錦川清流線の横の道路は山口県道1号岩国大竹線で、もう少し左側で岩徳線と錦川清流線の下をくぐります。
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岩国方面(右側)から来た岩徳線が中央あたりで左上と左下に別れます。左上に別れて思案橋あたりを通っているのが錦川清流線で、左下に行っているのが岩徳線です。


9月25日の時に撮った2枚の写真がこちらです。
錦川清流線は1987年7月25日に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線でが、前身の国鉄岩日線は1960年11月1日に開業しました。つまり路線として開業してのは1987年7月25日になります。この時は河山駅開業でしたが、1963年10月1日に錦町駅まで延伸開業して現在と同じ営業区間となりました。1987年7月25日に錦川鉄道に移管された時に錦川清流線に改称されました。
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上の2枚以外に錦川清流線が写った写真を探してみると前記事で紹介した柱野駅に到着後に撮った写真の中に御庄川(錦川の支流)を渡る錦川清流線が写っていました。写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。その1の動画の51秒~56秒に川の上流に写っているはずですが小さすぎて確認できませんでした。こちらの写真は9月25日に柱野駅を発車直後に目いっぱいのズームでクリックすると拡大撮った写真です。Wikipediaに掲載されていた銀川清流線の車両のNT3000形気動車(せせらぎ号)を右に紹介します。4両が運用されていて4両が番号順にブルー、ピンク、グリーン、イエローなっていて、愛称も一般公募された名前がそれぞれに付けられています。
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上の写真で古びた鉄橋の手前にある橋は思案橋(しあんばし)です。その思案橋の右端からのストリートビュー(SV)で見た錦川清流線の鉄橋です。思案橋は長崎市四日市市大阪市にもあります。


上の鉄橋の川西駅側の端に列車が走っているストリートビュー(SV)を見つけたので追加で掲載しました。上のSVを右側に進んで見て列車を見つけました。1日に錦町方面は10本で川西方面10本であることからSVに列車が写り込むことは一瞬のことなので非常に珍しいことだと思います。新岩国から車で墓参りに行った時はこの鉄橋の下を必ず通っていましたが、列車は見たことはありませんでした。車両は左側から右奥側つまり錦町駅行の車両で、Googleの撮影車は向こうの思案橋側から手前方向に走ってきて撮影されたSVです。SVが更新されると列車は消えてしまうので画面のハードコピーを掲載しました。写真をクリックするとオリジナルのSVを表示します。 車が進んでいく順番のSVです。→SV0 SV1 SV2 SV3 SV4 SV5 SV6 3両SV(錦町) Google撮影車(錦町)
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上がSVのハードコピーで、こちらが本物のSVです。したがって、こちらは拡大や縮小が出来る上に水平方向に回転も出来ます。このSVから車両が消えたらSVが更新されたことを示しています。


SVが更新されて車両が消えてしまう可能性があるのでハードコピーを残しておきます。最後はGoogle撮影車が錦町の車両の車庫の窓に写った画像です。写真をクリックすると拡大写真を表示し、着色文字をクリックするとオリジナルのSVを表示します。錦町でのSV撮影は2013年5月に行われ、思案橋でのSV撮影は2018年4月です。
     SV1          SV2          SV4
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
     SV5        3両SV(錦町)      Google撮影車
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
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Wikipediaに掲載されていた4両を紹介します。3段目の数値は車両番号です。上のSVの車両は「きらめき号」であることがわかりました。写真をクリックすると拡大いたします。
  ブルー      ピンク      グリーン     イエロー
  せせらぎ号    ひだまり号    こもれび号    きらめき号
  3001     3002     3003     3004
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

川西駅から銀川清流線の終点の錦町までのルート図です。時間帯に寄り表示が変わります。川西駅の錦町駅行は 7:06 8:39 10:02 11:20 14:28 16:13 17:52 19:13 20:26 21:42の10本です。
別画面で表示したい場合 → 任意別画面 標準別画面 Yahooルート情報
別画面で表示した場合はストリートビュー(SV)が使えます。
ルート選択方法は下記の4つが選べます。
 最適なルート     Le meilleur itinéraire
 最少の乗換      Le moins de correspoins
 最小の歩行量     Le moins de marche à pied
 車椅子でアクセス可能 Accessible en fauteuil roulant


錦川清流線の終点の錦町に行く途中の川を挟んだ道から見た錦川清流線です。ここに列車が走っていると最高の景観になったと思います。中央付近に鉄橋のように見えているのが清流みはらし駅で、イベント列車のみしか停車しない上に、歩いて行くことも困難な秘境駅で近くに滝もありました。SVで列車を探していて見つけました。画面の中のプラス()のアイコンをクリックすると清流みはらし滝があることを確認出来ると思います。清流みはらし駅の最寄駅の南桑駅から清流みはらし駅の対岸までの往復の距離は3.1kmです。新大阪を朝一の新幹線に乗ると根笠駅に9時22分に着き、次の川西駅行きが10時08分発であることから歩いて写真を撮りに行けます。下流側にある南桑駅(10時13分発)までは3.6kmなのでこちらも可能です。いずれも途中で沢山写真を撮る余裕はなさそうです。


錦川清流線沿いの観光スポットにプロット( )してみました。椋野駅の近くには錦川みはらしの滝かじかの滝清流の滝があります。クリックすると拡大かじかの滝の場所は対岸から確認出来ますが滝までは見えない上に錦川みはらしの滝清流の滝は対岸からは木が多くて場所も確認も出来ないので列車に乗っている時に確認するしかないと思います。北河内駅の近くには二輪草群生地があります。右の写真はネットから転用させていただいた二輪草群生地の写真です。


2020年9月25日に来た時の記事「岩徳線に乘りました。」で岩徳線と周防久保駅に関しては詳しく説明いたしましたが、その時に撮れなかった景観などがいくつかあったので本記事に追記する形で紹介したいと思います。当然ですが前回の時も周防久保の駅舎の写真を掲載しましたが、前に車が停まっていたので、駅舎だけの写真を掲載いたします。
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前回時に気になっていたのが周防久保駅の南側でした。Google地図を見ると住宅地があるのは分かっていましたがどのような住宅地なのか気になっていたのです。この写真の線路の下の通路を通って南側に行きました。
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周防久保駅の南側は成熟した住宅地になっていました。小学生の頃に来た頃には、この辺りは山林だったと思います。
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先ほどの線路下のトンネルを通って北側に戻りました。この写真は住宅地側から見た線路下のトンネルです。
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自動券売機も前回は撮れませんでした。私が切符を買った後は点検のために人が来て蓋を開けてしまったからです。前回の時に駅舎の前に停まっていた車は券売機の点検に来ていた人のでした。
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ホーム側への通路も前回とは別の角度で撮りました。
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新型コロナに関する説明書が押ピンでとめられていました。皆さん感染防止に都会では考えられないほどしっかりと守っていて、気を付けられておられました。やはり慣れること無く「初心忘れずに」が大切だと感じました。
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列車の到着の12分前に、大きなブザーとともに写真のランプが点滅いたしました。これなら寝ている人でも起きると思います。十分に時間があるので表示してからでる陸橋を渡る下りホームに移動しても大丈夫でした。岩国方面は上りホームなので数秒で行けます。私が乗った11時33分発の前の列車は8時28分発(3時間08分前)で、後の列車は14時08分発(2時間35分後)なので乗り遅れることが出来ないのです。
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私は写真の中の日の当たっているベンチに座って列車を待っていました。突然に駅舎の中から音が聞こえてきたので上の写真を撮りに行ったのでした。
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クリックすると拡大ブザーが鳴って12分後に前回と同じように写真の1両編成の列車が到着いたしました。ワンマン運転なので後ろのドアから乗って、前のドアから下車するのです。下車するときに切符を運転士の方に渡します。2両編成の場合の後の車両のドアは開きません。
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こちらが先頭方向です。駅によって出口が右になったり左になったりします。岩徳線は10の駅が無人駅であることから運転士1人のワンマン運転が行われていました。そのために大きなバックミラーがあったので前の景色を撮るのは諦めました。バックミラーが邪魔になって景色が撮れないこともありますが、運転士さんが気にするのではないかと思ったのも理由の一つでした。右の写真を見て気がつかれた方もおられると思いますが、クリックすると拡大若い女性の運転士さんでした。下りる時に自動販売機で買った切符を運転士さんに渡します。運転士さんは切符の内容を確認の上、運賃箱に入れます。動画にもミラーに写った運転士さんが写っています。もし見落としていた場合は右をクリックするとミラーが写る瞬間から表示します。→その1 その2
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こちらが運賃箱です。ワンマンバスなどに使われている運賃箱に似ています。
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クリックすると拡大そしてすでに記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」で紹介の通り、12時21分に錦帯橋の最寄駅である川西駅に着きました。右の小さな写真が川西駅です。ここから錦帯橋まで徒歩で1.3kmです。
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前記事(柱野駅到着)と本記事(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。

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岩徳線の動画 その1 柱野駅到着 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で川西駅(岩徳線)から岩国城までの景色を紹介いたしました。その岩徳線車内で2本の動画を撮りました。先ずはその中の1本を紹介したいと思います。その1本目の動画はタイトルにあるように柱野駅到着時の動画です。以前に岩徳線を紹介した記事で記載していたように柱野駅(はしらの駅)は新岩国駅に最も近い駅である上に川西駅の一つ手前の駅でもあります。プレーボタン( )をクリックすると柱野駅到着の車内放送が始まる26秒から出るようにいたしました。この車内放送の内容を聞いていただくと岩徳線のワンマン運転のシステムが分かっていただけると思います。錦川を渡る景色も出てきます。

動画の中から切り取った柱野駅(はしらの駅)です。
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列車は12時16分に到着して12時17分に発車と時間は1分だけで、次の列車は14時50分着の14時50分発のため、降りて柱野駅の写真を撮るわけにいかなかったのでGoogleマップのストリートビュー(SV)で柱野駅の景観を紹介します。


航空写真で見ると駅舎とホームの間に線路があります。ホームに行くためには線路を渡る昔ながらの構造の駅でした。周防久保駅も私が小学生の頃は線路を渡った記憶が残っています。クリックすると非常に長いホームであることが分かっていただけると思います。桂野駅の西側にある右下の写真の3149mの長さの欽明路トンネルがある区間(岩国駅~高水駅)が開業したのは1934年12月1日で、同時にこの路線が山陽本線になりました。長いホームは山陽本線だった1934年から1944年の名残だと思います。複線化のためには3149mの長さの欽明路トンネルをもう1本掘らなければならなかったことが、1944年に山陽本線から脱落する原因の一つになったそうです。ちなみに1944年は現在の山陽本線のルートの複線化が完成した年でした。下記リストのように1940年時点で欽明路トンネルは国鉄の中で8位の長さで、開業した1934年時点では7位の長さでした。トンネルの写真はネットから転用させていただいた欽明路トンネルです。
 ① 9702m 1931年 清水トンネル(上越線)
 ② 7804m 1934年 丹那トンネル(東海道本線)
 ③ 5361m 1938年 仙山トンネル(仙山線)
 ④ 4656m 1903年 笹子トンネル(中央本線)
 ⑤ 4329m 1932年 石北トンネル(石北本線)
 ⑥ 3845m 1929年 猪ノ鼻トンネル(土讃線)
 ⑦ 3286m 1929年 冷水トンネル(筑豊線)
 ⑧ 3149m 1934年 欽明路トンネル(岩徳線)
 ⑨ 3077m 1932年 物見トンネル(因美線)
 ⑩ 2919m 1939年 宇佐美トンネル(伊東線)
 ⑪ 2870m 1940年 夜昼トンネル(予讃線)
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周防久保駅を11時33分に乗って柱野駅で下車すると非常にタイミングのいいバスが来るのです。非常にタイミングのいいと書いたのはネットの時刻表を見ると1日にバスは9時06分と12時26分の2本だけだからです。仮にバスが無くても新岩国駅までは約3kmなので歩いて行けるので、一度試してみたいと思います。新岩国駅に着いて急いで歩けば12時39分発のこだま850号に乗れるかもしれません。
柱野駅から新岩国駅まで歩いて行く場合のルート図はこちらです。→ポチッ
川西駅から錦川清流線に乗り換えて新幹線の新岩国駅の最寄駅で清流新岩国駅に行くのが合理的のように思えますが、岩徳線の本数も少なく錦川清流線の本数も少ないことから周防久保方面からは、いいタイミングでの乗り換えは難しいのです。錦川清流線は岩国まで乗りいけているので岩国からは便利です。
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いわくにバスの柱野駅バス停は川を渡ったところにあります。


柱野駅に着く直前に川を渡る風景も動画から切り取りました。川の名前は錦帯橋が掛かっている錦川の支流の御庄川(みしょう川)です。バス停の位置を写真の中に書き込みました。奥の方向(下流側)に進むと新岩国駅があります。さらに川を下流側に進むと錦川に合流して錦帯橋にたどり着きます。御庄川の御庄は地名でもあります。ちなみに新岩国駅の住所は山口県岩国市御庄1055-1です。岩徳線の柱野駅は写っていませんが写真の右側にあります。
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岩徳線の全駅をプロットしました。
緑色ライン(━━)は欽明路トンネル(3,149m)です。
紺色ライン(━━)が山陽本線です。山陽本線に比べて岩徳線が岩国から徳山まで距離が短いことが分かっていただけると思います。


本記事(柱野駅到着)とその2(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。

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岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2021年元旦の新年の挨拶の記事の中で「川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。」と予告した通り、山口県の岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景観を紹介したいと思います。クリックすると拡大実家の宝塚から日帰りで2020年の12月23日に山口県の周防久保にある父方の墓に参った帰りに錦帯橋と岩国城に行ったのです。母方の墓は岩国市内の町中にありますが、そちらは墓から歩いて5分のところに住んでいる叔父さん(母の弟)が墓参りをしてくれているので、今回は行きませんでした。そのため時間があったので岩国城に初めて行ってみることにしたのです。上の写真は岩徳線の周防久保に11時35分発の列車が停車して後部の乗車専用ドアが開き始めた瞬間の写真です。子供の頃には父方の実家に行くために岩徳線にはよく乗りましたが舎監人になってからは、今回が2回目なのです。1回目は去年(2020年)の9月25日でした。周防久保駅は1回目の時に詳しく紹介したしました。→ポチッ

クリックすると拡大岩徳線は徳山駅・櫛ケ浜駅・周防高森駅・玖珂駅・西岩国駅・岩国駅以外の10の駅が無人駅であることから運行列車は運転士1人によのワンマン運転が行われていることから、無人駅から乗車して、無人駅で下車する場合は駅に設置されている右の写真の自動券売機で切符を買って乗車して、下りる時に切符を運転士の人に渡します。運転士さんは切符内容を確認の上、運賃箱に入れます。下の写真が周防久保で買った切符です。


これが岩徳線を含んだ周辺の路線図です。この路線図の周防久保から川西まで乘りました。岩国城を見た後はバスで新岩国駅まで行き新幹線で帰る計画でした。もし岩徳線と山陽新幹線が同一路線扱いであれば、周防久保から大阪までの切符を買っていれば、上の周防久保→川西の切符を買う必要はありませんでしたが、残念ながら事前に確認してもらうと同一路線扱いではありませんでした。同一路線扱いの山陽本線より新幹線に近いところを走っていたので帰りの新幹線の切符を事前に買うときに聞いてみて分かりました。
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前回の墓参りの2020年9月25日の時は余裕でボックス席に1人で座ることが出来ましたが、今回はボックス席はいっぱいだったので長椅子席に座りました。とは言え新型コロナの感染防止のため岩徳線ではボックス席は1人です。今回は人が多かったのは高校生が沢山乗っていたためでした。周防久保発11時35分の時間帯に沢山の高校生が乗車していたのは第2学期の終業式が12月23日だったのだと推測しております。徳山あたりの学校に通っている高校生だったのだと思います。
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私が座った長いす席から先頭側を撮った写真です。
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到着駅に近づくと車内放送が行われると同時に料金表の表示が変わります。周防久保からの料金が590円と表示されたので、川西駅に到着寸前であることが分かります。写真をクリックすると590の上の文字が周防久保であることが分かってもらえると思います。
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岩徳線はワンマン運転なので切符を運転士の方に渡して川西駅に降りました。運転士の方は若い女性の方でした。岩徳線を利用されている乗客の方から人気なようで皆さんから声をかけられていました。いよいよここから錦帯橋あたりまで歩きます。
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こちらが川西駅です。この辺りの岩徳線は地上からかなり高いところを走っていました。川西駅は1960年4月16日に新設された駅で母が女学校に通っていたころにはなかったそうです。女学校から見える高いところを岩徳線が走っていたことは鮮明に覚えているとのことでした。
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左下の道を進むと幹線道路である県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の交差点に出ます。写っている列車が私が乗ってきた周防久保11時35分発(川西:12時21分着/12時22分発)の列車です。
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列車が名残惜しいのでズームで追いました。列車の前に写っているコンクリートは道路をまたぐ陸橋部分です。
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ここが県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の複雑に交差する交差点です。
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交差点の標識を拡大いたしました。錦帯橋1kmの表示があります。想像していたより錦帯橋が近い印象です。Google地図で確認した交差点の中心から錦帯橋の左岸の入口までの距離は1.186kmでした。
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錦帯橋方面の藤生停車場錦帯橋線です。この交差点から100㎡進み右に曲がって100m進むと母が通っていた女学校があった川西第一街公園があります。
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交差点から300m進んだあたりの景観です。
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交差点から500m歩くと臥龍橋(がりゅうばし)に出ます。臥龍橋は金耐久の一つ下流側にある橋です。クリックすると拡大
母が通学で錦川を渡ったのが、この臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
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臥龍橋の下流側には岩徳線の鉄橋が見えました。川はの名前は錦川(にしきがわ)です。錦川は山口県内を流れる二級水系錦川の本流です。支川を含めた法河川延長は331.8kmで、流域面積は884.2km2で、共に山口県内では一番の川です。
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橋の上から撮った上流側です。錦帯橋が前ます。山の上には岩国城も見えます。
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向こう岸に近くなってきました。臥龍橋を渡らないで錦帯橋に行けますが、錦帯橋を往復したかったので臥龍橋を渡りました。バス停やタクシーはこちらの岸側にあるので、往復した後にこちら側の岸に行く室用があるのです。上流側から見ると左岸になります。
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錦帯橋に近づいてきました。
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錦帯橋と岩国城が見えるベストアングルの写真です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
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錦帯橋の入橋券です。産地用の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。入橋券の購入窓口でトン岩国行のバスの乗場の場所を確認して橋を渡る前に時刻表を確認に行きました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。
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メモ代わりに新岩国行のバスの時刻表の写真を撮りました。1時間に2本程度でした。
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今回は渡り始めから渡りきるまで動画を撮るつもりだったので、渡る前に1枚のみ写真を撮りました。
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上流から見て左岸から右岸に渡るまで連続で動画を撮りました。2020年は鬼滅の刃が歴史的な大ヒットだったので、錦帯橋の動画の終了後は引き続いて鬼滅の刃のオープニング主題歌の紅蓮華が流れるように設定いたしました。2021年2月にOSが更新されたのをきっかけに錦帯橋の動画が出なくなったことから錦帯橋の動画のみに戻しました。
2020年大晦日のNHK紅白歌合戦で出場のLiSAが紅蓮華炎(ほむら)を歌ったのが印象的でした。初出場は2019年でした。こちらをクリックすると錦帯橋の動画を別画面で標示します。→ポチッ


クリックすると拡大いつもソフトクリームを食べていた佐々木屋小次郎商店は閉まっていました。何度も来ていて閉店していたのは初めてなので、閉まっていたのは新型コロナの影響だと思います。新型コロナが収まったら再開してほしいものです。
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ロープウェイの山麓駅を目指しました。
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見事な吉香公園がありました。この場所が岩国藩(長州藩の支藩)時代の中心的場所です。叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
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古民家があったので寄ってみました。国指定自由用文化財の目加田家住宅でした。岩国藩主の吉川広家が岩国に移封された時に広家に従って移り住んだそうです。
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ロープウェイの山麓駅に着きました。
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15分ごとに動いていて、客は私を含めて2人でした。
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下りてくるロープウェイとすれ違う瞬間です。
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こちらか山頂駅です。
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山頂から岩国城に行くには広い舗装された道と細い道があったので細い道の方から行きました。
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天守閣近くの石垣の下を歩きました。
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この門をくぐったら天守閣です。
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こちらが岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
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入城券を買って天守閣に登りました。こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
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写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口懸立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口懸立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)に拡大するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。
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川西駅から岩国城までのルート(━━━━━━)と位置をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅から岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし )と錦帯橋(きんたいきょう )を渡りました。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事の食事(和食)を2度お願いした上に、最近では右の上段の写真のような四川料理を2度食べました。右の下段の写真は今回初めて「食事処 むさし」で食べたソフトクリームです。紫いもソフトクリームを選びました。ちなみに我家のワンコの名前は「むさし」でした。
  タクシー乗車場所  ━━━ 新岩国駅へのルート Ⓐ→Ⓑ
 山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
 山口懸立岩國高等學校跡地  吉香公園
クリックすると拡大 現在の山口県立岩国高等学校
 川西駅 JR岩徳線
 臥龍橋
 錦帯橋
 食事処 むさし
 ロープウェイ山麓駅と山上駅
 岩国城 天守閣
 吉香神社
クリックすると拡大 岩国国際観光ホテル 
 新岩国駅
 ルート ━━━━━━━━━
      臥龍橋
      錦帯橋
      ロープウェイ
      山頂駅→岩国城


JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図も紹介します。母と叔父さんは岩国駅の近くから毎日歩いて通学していました。

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錦帯橋 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大本記事は2018年の新年の挨拶で使わさせていただきましたが、周防久保(前記事)や岩徳線(前々記事)の記事を掲載したのを機会に、マイカテゴリーを「新年」から「山口県」に変更して再掲載させていただきました。
錦帯橋は日本三名橋や日本三大奇橋に数えられる山口県岩国にある木造の5連のアーチ橋です。初代の5連のアーチ橋は1673年に岩国藩主であった吉川広嘉によって建造されました。それ以前にも岩国城が出来て以来、城と城下町をつなぐ重要な橋であったことから橋が架けられましたが洪水で何度も流されたことから吉川広嘉が洪水に耐えうる橋を目指した結果、明の杭州の6連の橋を参考に橋台を強固な石垣にして洪水に耐えうる現在の形の橋を作ったそうです。翌年の1674年の洪水で流失しましたが橋台を強化して再建した結果、定期的な架け替えを行いながら1950年のキジア台風で被害を受けるまでの276年間は流失することはなかったのは驚異的なことです。1950年のキジア台風ですべて流失したため、現在の橋は1953年に、277年前の当時のままに復元された橋だそうです。2005年にも台風14号により第一橋の橋脚2基が流される被害がありましたがすぐに復旧されたそうです。この時に撮った写真は、すべて錦川の右岸から撮った写真です。したがって、撮った時期を書いていない写真の川は全て左から右に水が流れています。
クリックすると拡大 橋名 錦帯橋
 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 347年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m

この記事の写真は2017年12月26日に周防久保に墓参りに来た時に撮った写真です。錦帯橋にはソフトクリームを食べるためだけに寄ったので、時間がなかったことから錦帯橋から一番離れて撮ったのがこちらの写真になります。
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こちらは右岸側(岩国城側)の錦帯橋への入口です。時間があれば橋を渡って橋の上からの写真や左岸からの写真も撮れたと思うので、2020年12月の墓参りが晴れていたら錦帯橋に寄ってじっくりと散策してみたいと思います。
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橋の一番中央の山の部分の写真です。江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二、第三、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りですが、数値を見ると大切にされてきた橋であることと、長い歴史を感じます。錦帯橋は創建時から現在までの修復記録が、歴代の大工棟梁の人物名も含めて完全に残ってことにも驚かされます。南東(左岸/岩国市岩国)側から北西(右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。北西(右岸/岩国市横山)側が岩国城がある方向です。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示         架け替え
 第一橋  約40年ごと 10回
 第二橋  約20年ごと 14回
 第三橋  約20年ごと 14回
 第四橋  約20年ごと 16回
 第五橋  約40年ごと  9回
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上の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
錦帯橋が完成した当初は大橋、凌雲橋、五竜橋、帯雲橋、算盤橋などの、いろいろな呼び名があり、後に錦帯橋(きんたいきょう)になったそうです。錦帯橋の名で呼ばれるようになったのは、中国・杭州・西湖の錦帯橋(きんたいばし)をモデルにしたことに由来しているという説が有力です。錦帯橋の下を流れる錦川(にしきがわ)の名は錦帯橋に由来していることから、錦川の名が使われるより先に錦帯橋の名が使われ始めたことになります。
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クリックすると拡大橋の上からの写真は撮れなかったのでGoogleのストリートビューでの橋の上からの景色を紹介します。水平に回転すると360°見ることが出来て、前後に進めることも出来ます。錦帯橋は徒歩でしか渡れないのでストリートビュー(Street View)の撮影には右の写真のトレッカー(Trekker)が使われたものと思われます。今までに軽トラック(1998年)とバイク(2020年)で渡った人がいますが、いずれも文化財保護法により逮捕されています。同様な行為があれば、逮捕だけでなく傷の修復費用も請求されます。


川沿いには桜の古木が沢山植わっており、花が咲くころは見事な景色を見せてくれるそうです。ここの桜は日本さくら名所100選でもあります。
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ここまでは川下(かわしも)から撮った錦帯橋ですが、川上(かわかみ)から撮った写真も紹介します。
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ここは桜の木が多く植わっていましたが、柳の木も植わっていました。柳の木の由来に関しての説明板が立てられていました。
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説明板の内容を紹介します。
巌流ゆかりの柳
クリックすると拡大佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負には敗れましたが、小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。
吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長光の刀(一名物干し竿)を授かり、この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に『つばめ返し』の術を編み出したと記しています。
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錦帯橋の脇には槍倒し松(やりこかしまつ)と呼ばれる由緒ありそうな松もありました。左の方向の山の上に岩国城があります。
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説明によると他藩の大名行列で、槍を立てたまま歩けないように植えられた松だそうです。昭和29年(1954年)の時点で樹齢300年なので、2020年の現在であれば、樹齢366年になることになります。
槍倒し松(やりこかしまつ)
この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒し松です。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通るこのが出来ないようにしたものです。今では昭和十年(1935年)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂道を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。昭和十九年(1944年)頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年(1952年)八月残念ながら枯れてしまいました。この松は初代の松の実から自生した直系の松を昭和四十三年(1967年)二月十五日三代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。
 樹齢   300年     樹の高さ  14.5メートル
 幹の周囲 3.7メートル   樹冠の面積 323平方メートル
昭和二十九年一月 岩国保勝会
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木材で作られた錦帯橋の橋げたの下側を紹介したいと思います。クリックすると拡大橋に使われている木材は特性によりアカマツ、ヒノキ、ケヤキ、クリ、カシ、ヒバを使い分けているそうです。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が 集められ、全て国産材で造られたそうです。その時は、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐り にくい青森産のヒバが初めて使われたそうです。
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木の柱の一番下の色が違うことに気が付かれると思います。実は一番下は石の柱になっていて木の柱と一体となるように接合されています。
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石の柱の部分を拡大いたします。この石は橋杭受石と呼ばれています。
そして橋杭と受石(根継石)を相欠きで継いでいる部分を巻いている金物を橋杭巻金(きょうぐいまきがね)と呼びます。詳しい説明→ポチッ
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2013年以降に山口県の周防久保に24回ほど墓参りに行きましたが、その内でソフトクリームを食べるのを目的で14回も錦帯橋に来ることになりました。クリックすると拡大しかしながら14回とも錦川の右岸(上流から見て右側)だけの訪問で錦帯橋を渡ることもなく、左岸から錦帯橋を見ることがありませんでした。そこで2003年9月と2007年4月に左岸側にある岩国国際観光ホテルで食事をした時の写真を6秒間隔で4枚紹介します。写真をクリックすると拡大した4枚の写真を右のように同時に表示します。2007年4月の写真では桜の花を確認出来ると思います。2003年9月の時はホテルに泊まりました。錦帯橋の正面の写真(2003年9月13日 17時48分)は上流の錦城橋(きんじょうばし)から撮った写真です。
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クリックすると拡大大学1年の3月にサイクリング部の九州合宿に参加するために錦帯橋の横を通った時の写真も紹介します。関門海峡を3月10日に通った通行券が残っていて周防久保の祖母・祖父の家に泊まったので、錦帯橋の写真を撮ったのは私が19歳の3月9日と思われます。
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私が3歳の時の錦帯橋の前で撮った記念写真です。1番右が周防久保の墓参りで車で覆うくしてくれた叔父さんです。1番左が母方の祖母です。


葛飾北斎が描いた錦帯橋の浮世絵をWikipediaから転用させていただきました。全国の珍しい橋を画題とした全11図の諸国名橋奇覧の中の1枚で、名前は「すいほうの国 きんたいばし」です。諸国名橋奇覧は187年前の天保2年(1831年)に刊行されました。
 生誕  宝暦10年09月23日(1760年10月31日)
 死没  嘉永02年04月18日(1849年05月10日) 88歳
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歌川広重(本名:安藤重右衛門)も錦帯橋を描いていました。ただし右側は二代目歌川広重の作品です。
 初代  寛政9年(1797年)~安政5年9月06日(1858年10月12日)
 二代目 文政9年(1826年)~明治2年9月17日(1869年10月21日) 
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ソフトクリームと錦帯橋の写真です。実は錦帯橋と言えばソフトクリームなのです。
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こちらがソフトクリームが売られている佐々木屋小次郎商店です。こちらのお店に昼食後にソフトクリームを14回食べに行きました。
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沢山の種類のソフトクリームが食べれることで有名になりました。一度、記事にしたことがあります。→ポチッ
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いろんな場所から撮った錦帯橋とソフトクリームの写真を紹介します。
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墓参りに来た2017年12月26日は帰省ラッシュ前でしたが、新大阪を出発したころには満席に近かったですが、終点駅の広島に着くころには席は空きました。広島からはこだまに乗り換えて新岩国まで行きました。その後、叔父さんの車で周防久保までを往復しました。
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墓参りも無事に終えた後は墓参りの後は恒例の山賊村で昼食でした。これは山女(やまめ)の塩焼きです。
山女は塩焼き以外に刺身や蕎麦でもいただきました。→ポチッ
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いつもは叔父さんがすべて運転してもらっていましたが、今回、初めて昼食を食べる山賊までは、私が運転いたしました。山賊から新岩国までは叔父さんが運転してもらえたので、私はビールを飲むことが出来ました。この後にソフトクリームを食べるために錦帯橋に移動しました。
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24回の墓参りで、山賊村で昼食を食べたのは16回でした。山賊村以外は錦帯橋周辺にまとまっているので一枚の航空写真( )で場所を紹介します。マイナスのアイコンを3回クリックすると山賊村のマークが表示されます。2回クリックして画面を右上方向に移動させても見つけることが出来ると思います。ソフトクリームを14回食べに行った佐々木屋小次郎商店もマークしています。岩国国際観光ホテルでの食事は2003年9月と2007年4月を加えると4回食べたことになります。
 山賊村         16回
 岩国国際観光ホテル  2回 2018年03月 2019年03月 下の2枚の写真
クリックすると拡大クリックすると拡大 錦果楼        1回 2013年09月
 よ志だ新館      1回 2018年08月
 わたぼうし      1回 2018年09月
 アリス        1回 2019年09月 新岩国駅前
 レストハウスたんぽぽ 1回 2019年12月
 岩国→広島 車内   1回 2020年09月 JR山陽本線(在来線)


いつも叔父さんからは岩国寿司をいただきました。実家に戻って夕食でビールと一緒にいただきました。
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この時の墓参りは母と一緒に行きました。下の写真は私が丁度1歳になったころの写真です。左に写っている建造物は旧・西宮球場です。
私は結婚するまでは宝塚の実家で両親と一緒に暮らしていましたが、今回の墓参りで初めて知ったことがありました。それは母も含めてその兄弟たちは岩国市内から、この錦帯橋の近くの男子校と女学校に歩いて通っていたことでした。それも叔父さんたちは通学のために毎日錦帯橋を渡ったとのことでした。驚いたことにGoogle地図で調べると毎日通学のために男子校10km(往復)、女学校8km(往復)を歩いていたことになります。
   0歳 兵庫県伊丹市に生まれる
   1歳 兵庫県西宮市夙川に引越
   2歳 広島県広島市平野町に引越
   3歳 広島県広島市井口に引越 → 記事
  10歳 兵庫県神戸市東灘区岡本に引越
  14歳 兵庫県神戸市東灘区本山に引越
  16歳 兵庫県宝塚市に引越 (今の実家)
  28歳 結婚して大阪府茨木市に引越
  29歳 家を買って神戸市須磨区に引越
1988年 転勤で千葉県船橋市に引越
1993年 家を買って千葉県佐倉市に引越
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叔父さん(母の弟)の車を使って墓参りをした時のルート図です。青の太い線が墓参りのために車で走ったルートです。ただし墓の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。2019年9月21日の墓参りを最後に叔父さんは運転免許を返納したので、2019年12月22日の墓参りは新岩国駅でレンタカーを借りてほぼ同じルートで墓参りをしました。ただし山賊(昼食)や錦帯橋(ソフトクリーム)には寄らないで、岩国駅から歩いて5分のところにある伯父さんの家(母の実家)に寄ってから新岩国駅に戻りました。クリックすると記事を表示私が墓参りに同行するようになったのは2013年3月19日からです。最初の頃は、全て伯父さんが運転していましたが、2017年頃から長距離となる新岩国→周防久保→山賊(昼食)は私が運転するようになりました。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)

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周防久保への旅も紹介します。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事「岩徳線に乘りました。」で山口県の上の写真の周防久保駅から実家の宝塚に帰る復路を紹介させていただいたので、本記事では宝塚から周防久保までの往路を紹介させていただきます。前記事で紹介させていただいたように周防久保に行った目的は墓参りでした。クリックすると拡大周防久保には父方の右の写真の祖母・祖父が住んでいた場所でもあります。実家の宝塚(逆瀬川)からの日帰り往復のルートは次の通りでした。
往路:逆瀬川→(阪急)→宝塚→(JR)→新大阪→(新幹線)→徳山→(防長バス 330円)→久保駅前
復路:周防久保→(JR岩徳線)→岩国→(JR山陽本線)→広島→(新幹線)→新大阪→(JR)→大阪→(阪急)→逆瀬川

クリックすると拡大前記事で復路の岩徳線や昔住んでいたい広島の井口周辺を主に紹介させていただきました。本記事では行きの往路と周防久保の散策の写真を紹介したいと思います。下は往路の新大阪から周防久保までのタイムスケジュールです。右の小さな画像は往路と復路のタイムスケジュールです。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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9月25日は日本周辺には2つの低気圧があり、出発時点では関西も山口県も雨でしたが周防久保に着くころには雨が止む予報でした。母と一緒に行く時はタクシーで宝塚駅まで行くのですが、新型コロナのために私1人なので、歩いて逆瀬川駅に行きました。出発するときは予想以上の土砂降りでした。写真は阪急・逆瀬川駅で、宝塚方向を撮っています。時刻は5時52分です。
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雨が降っていたのでリックにいたしました。袋に入っているのは前日に花屋さんで買ったお墓に供える花です。念のためリュックの中にはポンチョも入れてあります。濡れた傘はそのまま持って行き新幹線の中で徳山で下りる寸前まで乾かしてリュックに入れました。
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予定通り5時54分発の宝塚行の電車がきました。


通勤の人は反対方向から大阪および神戸方面に行く人が多いので宝塚方向は空いていました。
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JR宝塚駅の改札口です。こちらも人が少なかったです。
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6時04分発の京都行に乗ると乗換なしで新大阪に行けます。この電車があったので宝塚経由にいたしました。昼間だと阪急で大阪まで行ってJRに乗り換えています。
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6時04分発の京都行が来ました。思っていたより空いていて、大阪駅に着く時に座席が満席で立っている人が僅かな状態でした。大阪駅から新大阪駅までは座席はかなり空きました。
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新大阪駅には6時39分に着いて新幹線のホームには6時44分に着きました。乗る予定の6時50分発の「さくら543号」には余裕で乘れました。
鹿児島中央までの停車駅の欄には、新神戸・姫路・岡山・福山・広島・徳山・小倉・博多・新鳥栖・久留米・熊本・新八代・新水俣・出水・川内が書かれていました。徳山には8時43分着です。博多が9時27分、熊本が10時07分、終点の鹿児島中央には11時04分着となります。
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これが「さくら543号」です。普通は徳山に行くためには広島で「こだま」に乗り換える必要がありますが、この「さくら」は徳山に停車するので選びました。終点まで乗ると鹿児島まで行ける列車です。
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私の席は5号車11番D席でした。さくらの指定席は全て左右ともに2人掛けなので席がゆったりしているのです。
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3蜜が気になっていましたが、乗って安心いたしました。一番混んでいる時でも、グループの人を除いて、すべての席で隣が空いていました。
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新大阪を出発してすぐですが、雨がかなり降っていました。周防久保に着くころには雨が上がる予報ですが、実際に雨を見ると不安になります。
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岡山を過ぎると雨が止みました。と思っていたら!
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クリックすると拡大福山城が見える福山を通るときはまた雨が降っていました。写真の中央の城が福山城です。晴れた日にほぼ同じ角度から撮った福山城が右の写真です。周辺の建物から同じ城であることが分かってもらえると思います。晴れた日の福山城の記事を以前に書いていました。→ポチッ
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広島を過ぎると雨は完全に止みました。読み通りですが、天気のことなので、まだ安心は出来ないと心配はしていました。
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目的地の周防久保の近くを通り過ぎた時の写真です。私は周防久保駅とは反対側に座っていたので、周防久保駅周辺を見ることは出来ませんでした。ただし、仮に左側に座っていたとしても周防久保駅自体は、山の影になって見えなかったと思いますが、駅の近くの景色は見ることは出来たと思います。写真の中の高い高架道路は山陽自動車道です。この高架道路の下を新幹線が潜って出た瞬間に撮った写真です。
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周防久保の駅舎が見えたかどうかをGoogle地図で検証してみました。やはり駅舎を見るのは難しかったようです。しかし周辺は良く見えたと思います。写真を撮った位置から周防久保の駅舎までの距離は1.07km( )でした。
  新幹線 写真撮影位置
  周防久保駅 駅舎
  バス停 久保駅前


徳山の町に入りました。工場が沢山ありました。
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久しぶりに徳山の駅に降り立ちました。
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これが徳山駅前(北側)です。私は若いころに徳山周辺で3つのプロジェクトを納入したことがあるので、徳山には何度もきましたが、その頃に比べるときれいになりました。
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バス停から見た徳山駅です。
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バス乗場の案内図を紹介します。クリックすると本図が入った時刻表が表示されます。


8つのバス乗場の状況がリアルタイムで表示されていました。私の乗る6番のりばの兼清行(8時55分発)は「まもなく到着」と書かれていました。
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私が乗るバスが到着いたしました。
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徳山の町の中の景色です。運転席(出口)に近い席は新型コロナのため座れないようになっており、運転席はシートで囲まれていました。
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町の中では乗り降りがありましたが、町を離れた途端にお客さんの数が減り、私が降りる久保駅前に着く時は私1人になりました。
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久保駅前の表示が出ました。料金は330円です。0~7が330円で8が320円ですが、0~7は徳山の町の郊外にあたります。長距離のお客が優遇されているように感じます。
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私が降りた後、お客さん無しで出発していきました。
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こちらがJR周防久保駅の最寄のバス停の久保駅前です。周防久保に着くと晴れ間が見える天気になっていました。現在の住所は山口県下松市大字河内で、1939年11月3日以前は山口県都濃郡久保村・・・だったようです。現在の地名に河内が使われていることから1871年以前は周防徳山藩河内村であったと想像されます。1889年に切山村・山田村・来巻村・河内村が統合されて久保村となったほど久保村は大きなエリアだったので・・・といたしました。・・・は旧・河内村エリアだったようです。1939年に久保村が下松町・末武南村・花岡村と合併して下松市となりました。以上を沿革にまとめると次の通りになります。周防久保駅の住所は大字河内ですが、現在は大字河内の住所が残っているのは駅の西側近傍の僅かなエリアです。駅の南側に大字来巻で、北側と東側が大字切山です。このような古い名前が残っているの一部だけで新しい住宅地などは東陽や桃山町や東和や葉山となっていることから、開拓された多く地域の住所は変更されたのだと思います。新築の家を売る場合も新しい名前が売りやすいのだと思います。古い住所が最も多く残っていたのは大字切山でした。江戸時代から明治初期の山田村を起源とすると思われる大字山田は、少し離れた北西方向にあります。つまり1889年に久保村に統合された4つの切山村・山田村・来巻村・河内村は大字切山大字山田大字来巻大字河内になったと想像されます。
1871年以前 周防徳山藩河内村
1889年~ 山口県都濃郡久保村・・・
1939年~ 山口県下松市大字河内 or 山口県下松市・・・
現在 山口県下松市大字河内
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上で周防久保駅周辺では大字山田(おおあざ・やまだ)・大字切山(おおあざ・きりやま)・大字河内(おおあざ・こうち)・大字来巻(おおあざ・くるまき)のエリアは少なくなっていると書きましたが、4つの地区を検索したのが下記の4つの航空写真です。その結果、周防久保駅周辺は欠けていますが、広い範囲に広がっていることが分かりました。この4つのエリアと新興住宅地を合わせたエリアが明治22年(1889年)に出来た久保村だと思われます。黄色の四角()のマークが周防久保駅です。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。各画面の1辺は5.24kmで、各画面の右下の白枠の中に500mの距離を書いておりますので広さのイメージが判ると思います。
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すぐには墓に向かいました。墓への上り坂です。
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墓参りは毎年、母と一緒に3月と8月と9月と12月の4回来ていましたが、今年は新型コロナの感染リスクがあることから3月と8月は中止いたしました。そのため昨年の12月に母と一緒に来て以来です。今回も母は一緒に墓参りに行くつもりではありましたが、新型コロナのワクチンを打つまでは私1人で行くことで了解してもらいました。私1人で身軽に移動できることから、路線バスを使ったり、懐かしい岩徳線に乗ってみたりしたわけです。昨年の12月の母と一緒の墓参りでは新岩国から右の写真のレンタカーを使いました。それ以前は伯父さんの車で来ました。今年の3月は新幹線の切符も購入して、レンタカーも予約していましたが中止したことから、レンタカーはキャンセルし新幹線の切符は払戻ししました。
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墓の草抜きと掃除をして、宝塚から持ってきた花も飾り線香にも火を付けて、数珠を出してお参りをいたしました。いつもより長めに拝みました。
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岩徳線の列車の発車時間の11時33分まで50分以上時間があったので周辺を散策いたしました。
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田園風景が広がっていました。
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空気がきれいです。宝塚の実家を出た時の雨は嘘のように感じました。
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小川のある田舎の風景です。
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小川の川べりに彼岸花と黄色のコスモスが咲いていました。
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黄色のコスモスに蝶がとまっていました。羽根がちぎれているのは残念でがカメラを近づけても逃げようとはしませんでした。私の住んでいるところではカメラを構えるどころか近づくだけでも逃げてしまいます。
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この道は歩いた記憶がありました。
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さらに進みました。
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振り返った景色です。写真の左端に周防久保の駅舎が少しだけ写っています。
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こちらの御側では祖父が魚を獲ってくれました。渓流系の魚でした。子供の頃は大きな川に見えましたが、驚くほど小さな川でした。彼岸花が密集して咲いているところがあります。
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小川のそばの彼岸花を撮りました。
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花を拡大しました。花の形が判らないほど花が密集していました。それが肉眼と写真の違いなのかもしれません。
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周防久保駅に戻ってきました。跨線橋(こせんきょう)と駅舎が見えます。駅舎の場所は下松市大字河内ですが、ホームの69%は下松市大字来巻です。
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岩徳線の周防久保駅です。続きは前記事の「岩徳線に乘りました。」です。まだ見ていない方は着色文字か写真をクリックしてみてください。
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岩徳線に乘りました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事に追加する形で紹介した通り、関西に滞在(9月20日~28日)している時の9月25日に実家の宝塚から日帰りで山口県の周防久保に墓参りに行きました。山口県の墓参りの行き帰りのルートは下記の通りです。写真は岩徳線の一両編成のディーゼル車です。小学生の頃は蒸気機関車でした。周防久保(バス停名:久保駅前)は私の祖父・祖母が住んでいた場所です。私が子供の頃(右下の写真)には広島の井口から祖父・祖母の家に行く時には岩徳線に乗りました。子供の頃の右下の写真をクリックすると大きく拡大します。私が最後に岩徳線に乗ったのは20歳の時なので、今回の墓参りでは、岩徳線に乗るのも目的の一つでした。今までの墓参りでは母の弟にあたる私の叔父さんが新岩国から車で送ってくれたので岩徳線に乗る機会はありませんでした。2017年12月26日からは新岩国から墓までと岩国の近くの昼食場所までは私が運転するようになりました。2019年9月21日の墓参りを最後に叔父さんが車の免許を返納したため、クリックすると拡大レンタカーを使うか、徳山からタクシーで往復するのが一番順当な方法なのですが、新型コロナのために今回の墓参りは母は行かなかったので私一人で身軽だったことから岩徳線に乗ることにいたしました。
行き:逆瀬川→(阪急)→宝塚→(JR)→新大阪→(新幹線)→徳山→(防長バス 330円)→久保駅前
帰り:周防久保→(JR岩徳線)→岩国→(JR山陽本線)→広島→(新幹線)→新大阪→(JR)→大阪→(阪急)→逆瀬川

クリックすると拡大前記事で予告した通り、周防久保駅や岩徳線などを詳しく紹介いたします。下の帰りの周防久保から新大阪までのタイムスケジュールです。右の小さな画像は往路と復路のタイムスケジュールです。クリックすると読める大きさに拡大いたします。周防久保への行き(往路)は次の記事「周防久保への旅も紹介します。」を見てください。
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こちらが岩徳線の周防久保の駅舎です。岩徳線は1929年4月5日に麻里布~岩国(2.3km)で開業しました。その後徐々に西に延びて周防久保駅が開業したのは1934年3月28日です。10年間(1934年~1944年)だけですが山陽本線として運用されたこともありました。現在の住所は山口県下松市大字河内795です。
タクシーは常駐していませんが、電話番号が書かれたタクシー会社の看板が立てられていました。
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駅舎の中に入いると予想した通り無人駅でした。自動改札機はなく出入りが自由な駅でした。無人駅化されたのは1982年3月10日だそうです。
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クリックすると拡大周防久保駅にあった時刻表も写真を撮ったのですが光が反射して見にくいので転記いたしました。右の小さな写真が撮った写真です。画面をクリックすると大きな時刻表の写真を表示します。
上の駅舎の中の写真でホームとの通路口の右の壁にあるのが時刻表です。
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周防久保から大阪までの切符は事前に買っていましたが、記念のために自動券売機で1番安い切符を買いました。徳山から岩国までの全駅を紹介します。森ヶ原信号場は駅名ではありません。営業距離は47.1kmです。周防久保から150円で行けるのは大河内だけです。徳山方向の1駅の生野屋までは190円です。
徳山→櫛ケ浜→周防花岡→生野屋→周防久保→大河内→勝間→高水→米川→周防高森→玖珂→欽明路→柱野→(森ヶ原信号場)→川西→西岩国→岩国


岩徳線は単線ですが、周防久保駅は2線になっていて上りホームと下りホームがあります。
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ホームに入って岩国方面を見た景色です。跨線橋(こせんきょう)には煤(すす)の汚れはないので、蒸気機関車が通っていたころは跨線橋は無かったのだと思います。私のかすかな記憶でも、線路に通路があり、そこに降りる切込みの階段があっような気がします。その頃でも珍しかったので記憶に残っているのだと思います。別の駅での記憶の可能性もありますが、周防久保以外の田舎の駅に降りる機会はなかったと思います。掲載した時は跨線橋の部分を陸橋と書いていましたが、次の記事のコメントでtommy88さんに跨線橋と教えていただいたので修正いたします。道路を跨ぐ場合が陸橋で線路を跨ぐ場合が跨線橋だそうです。
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跨線橋の上から徳山方向を撮りました。
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こちらが跨線橋から見た岩国方面です。
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拡大すると単線であることが分かってもらえると思います。
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跨線橋の上から見た駅舎です。
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下りホーム(徳山方面)からみた駅舎です。
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周防久保の駅名標(えきめいひょう)を撮りました。徳山方向の隣りの駅名が生野屋(いくのや)で、岩国方向の隣りの駅名が大河内(おおかわち)です。
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ホームを徳山方面に進んで撮った駅舎です。
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下りホームからだと徳山方向の線路のカーブがよく見えました。上の写真を撮った同じ位置から撮りました。
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駅の南側に広がる景色です。
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今度はホームを岩国方向の端まで歩いてきて駅舎方向を撮った写真です。長いホームです。今は、ほとんどの列車が1両編成ですが、昔は長い列車が走っていたのだと思います。調べてみると周防久保駅が出来て岩国から徳山に路線がつながった1934年12月01日から1944年10月11日までは山陽本線の一部として運用されたそうです。複線化の計画に伴いもう一本長大トンネル(欽明路トンネル)を通さないければならないことから複線化は元の山陽本線(柳井線)で行うことになり、1944年に山陽本線が元に戻ったことから岩徳線の山陽本線としての運用は10年間のみになったそうです。
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気になる標識があったので写真を撮っておきました。
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列車が来る時間が近づいて来たので、列車に乗る方の上りホームに戻って列車が最初に見え始めるホームの端まで行きました。この線路の先から乗る予定の列車が来るはずです。
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同じ位置から駅舎の方を振り返った景色です。この写真でもホームの長さが実感されます。
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11時33分発の列車がカーブの部分に見えました。
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近づいて来たところでもう一枚撮りました。
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さらに拡大いたしました。この写真が冒頭の写真です。 kazu-kun2626さんと旅爺さんさんに、このディーゼル車がキハ40とコメントで教えていたただ来ました。Wikipediaで確認すると1977年から1982年にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した気動車(ディーゼル動車)だそうです。正式名は国鉄キハ40形気動車で、キハ40形(2代)、キハ47形、キハ48形の3形式およびこれらの改造により発生した派生形式を指し、888両が製造され、今でも日本全国ならびにミャンマー国鉄で使われているそうです。
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停車しました。手前の後部の入口が開くのを待って乗りました。先頭側が降り口です。乗ってから発射するまでに十分に余裕があることが分かりました。
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岩徳線は車掌が乘っていないワンマン列車でした。左が進行方向です。ワンマン列車のため切符の回収などに時間を見ているために停車時間に余裕があったのです。
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乘って先頭側を撮りました。運転士の人が客室側に出てきて降りる人の切符を受け取ります。
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後部側の乗車専用入口側です。右側から乗りました。
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ほほえましい光景なので紹介します。私の前の人が手を振っていました。
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後ろ撮りました。単線です。
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周防久保から3つ目の高水駅です。周防久保との間の駅は大河内と勝間です。高水は祖父祖母と縁があると聞いていたので写真を撮りました。高水のどのような場所に縁があったのかは母も詳しくは知りませんでした。
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高水の辺りも、のどかな懐かしい景色が続いていました。
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小川が流れる景色です。川の名前は石光川です。瀬戸内海の光市あたりに流れ込む島田川の支流です。
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6つある4人ボックス席にゆったりと1人で座りました。高水駅を出た辺りが最も人が少なくなり4人ボックス席も空のところもありました。ちなみに周防久保駅を出たところでは、全て1人でした。新型コロナの影響だと思いますが、乗車人数が増えた岩国到着寸前でも、すべての4人ボックス席は1人だけでした。残りの人は全て長椅子席に座られていました。
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田園風景が続きました。
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さらに田園風景を紹介します。
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このような景色が続きましたが、少しづつ開けてきました。
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クリックすると拡大周防久保駅から5つ目の周防高森駅の前です。大きな建物は日本酒の純米大吟醸で有名な獺祭の旭酒造の建物で、建物に大きく獺祭と書かれていました。蔵元はここから8kmほど山間部に入ったところにあります。ここは獺祭(だっさい)の故郷だったのです。
蔵元のストリートビューはこちらです。→2013年 2018年
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この道は新岩国から周防久保に車で行く時に通った道です。
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車の助手席から岩徳線の列車を2016年12月25日に撮った写真がこちらです。いつかは乗ってみたいと思いましたが、3年9ケ月後に実現いたしました。
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周防高森駅の次の玖珂駅です。
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錦帯橋のところを流れる錦川を渡りました。
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錦川の向こう岸の道もよく通りました。景色に見覚えがあります。新幹線の新岩国駅に近い場所です。
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左に線路が見えてきて我々の岩徳線に合流いたしました。錦川鉄道が運営する錦川清流線でした。錦川清流線を左に進んだ最初の駅が清流新岩国駅で新幹線の新岩国駅に近接しています。錦川清流線の下の道路は山口県道1号岩国大竹線です。クリックすると拡大広島県の大竹市まで伸びていて広島県側の呼名は広島県道1号岩国大竹線です。両県で県道1号になっていることから重要な道路なのだと思います。
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2枚上の写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。鉄橋の部分を切り取って拡大いたしました。
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錦川清流線は1987年に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線です。起点の正確な場所は岩徳線の川西駅と柱野駅との間の森ヶ原信号場です。まさにこの写真の少し先でした。ほぼ全線が錦川沿いを通っており、路線名はそれに因んでいるそうです。
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岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。
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ここが上でも紹介している川西駅です。駅名標(えきめいひょう)の一部しか写っていませんが、左の一番下に書かれている駅名が錦川清流線の清流新岩国(せいりゅうしんいわくに)です。岩徳線の左方向の駅名は柱野(はしらの)で、右方向が西岩国(にしいわくに)です。
錦川清流線方面の列車の発車時刻は7:06 9:39 10:02 11:20 クリックすると拡大14:28 16:13 17:52 19:13 20:26 21:42です。一方、新幹線の新岩国との乗換駅の清流新岩国駅の川西(岩国))方面への出発時刻は 6:33 7:48 9:21 10:43 13:25 15:12 16:57 18:35 19:53 21:09です。清流新岩国から川西までの所要時間は7分で、清流新岩国から岩国までの所要時間は17分です。周防久保方面からの岩徳線から新幹線の新岩国駅に錦川清流線で行く方法もありますが、両方共に本数が少ないことから川西駅の一つ手前の柱野駅からバスか徒歩で行く方法があります。ただし徒歩の場合は約3.0km歩く必要があるので右のタイムテーブルのバスがお勧めです。
クリックすると拡大クリックすると拡大川西駅から錦帯橋まで1.4kmなので、錦帯橋に行ったことが無い人にお薦めなのが川西駅から徒歩で錦帯橋まで歩き周辺で観光をしてバスかタクシーで新岩国駅に行く方法です。今までに紹介したことのある100種類のソフトクリーム専門店白へび館があります。時間があれば岩国城にも行けると思います。調べてみるといわくにバス(350円)が本数が沢山出ています。本数は少ないけれども防長バス(350円)も走っています。距離は5.3㎞なのでタクシーで行っても料金は2170円程度のようです。
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錦帯橋および新岩国周辺をGoogle地図の航空写真で紹介します。青色ラインは記事の中で紹介した川西駅→錦帯橋と柱野駅→新岩国駅の2つの徒歩ルートを示しています。クリックすると拡大
  川西駅 岩徳線
  錦帯橋
  白へび館
  岩国城
  柱野駅 岩徳線
  清流新岩国駅 錦川清流線
  新岩国 新幹線
  森ヶ原信号場 岩徳線と錦川清流線の分岐点


広島の井口に住んでいたころに聖モニカ幼稚園の遠足で錦帯橋に来た時の写真を紹介します。黄色の丸印()が私です。クリックして出てくる拡大写真には丸印は付けていませんが右から4番目で判ると思います。
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川西からは山の上の岩国城が見えます。岩国城の下には有名な錦帯橋がありますが、低い位置にあるので建物のために錦帯橋自体を見ることは出来ませんでした。錦帯橋までの距離は徒歩で行ける1.5kmです。岩国城は隣の西岩国駅からも見ることが出来ますが、若干ですが川西駅の方が近いです。岩国城が建っている山の尾根の左端に建物が見えますが、この建物はロープウェイの山上駅です。
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錦川を渡りました。この川の先に錦帯橋が錦川に架かっています。
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川西駅の次の西岩国駅に近づくと岩国城が再度見やすい角度になりました。
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上の写真の岩国城の辺りを拡大いたしました。肉眼ではここまでは見えませんが、写真を拡大すると石垣もよく分かりました。
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岩国駅の一つ手前の西岩国駅です。昔の木造の駅舎の雰囲気が残った駅でした。
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岩国駅に着かづくと都会の雰囲気になってきました。
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岩国駅到着寸前の時の車内の写真です。周防久保から乗ってから一番多い人数でした。
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岩国駅に到着した乗ってきた列車です。
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Google地図での周防久保→岩国のルート図を掲載します。見る時刻によって最適ルートが変わるために、岩徳線で周防久保から岩国に直接行くルート以外が表示されている場合もあります。地図内のPlus d'optionsをクリックすると現時点でのタイムスケジュールを表示します。


跨線橋からここから進む広島方向を撮りました。
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乗り継ぎ時間は27分あったので昼食用の駅弁を買うために改札の外に出ました。駅構内では駅弁の販売所は見つからなかったのです。
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岩国駅の前から撮った景色です。ここから10分くらいの場所に母の実家がありました。今は弟夫婦が住んでいます。
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少し駅から離れて岩国駅を撮りました。私が知っている岩国駅と違い新しい建物になっていました。
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これが広島駅まで乗った電車です。
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車内を紹介します。出発した時は空いていましたが、広島に近づくと通学の学生の人も乗ってきて席は70%程度埋まり、立っている人も出るほどでした。
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岩国駅では昼食用の駅弁が見つけられなかったので、宮島名産の竹輪と瀬戸内名産の鯛竹輪とビールを買って旅の雰囲気を楽しむことにいたしました。大きな竹輪だったので、広島駅でお弁当を追加で買う必要もなくなりました。
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宮島は大きな島なので、かなりの間、海を挟んで宮島が見えていました。
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宮島口駅です。宮島口は宮島の最も北東部分(広島に近い方向)の対岸にあります。厳島神社も宮島の最も北東部分にあります。子供の頃によく行った宮島に行ってみたいです。ルートを工夫すると墓参りの時に行けるかもしれません。
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ここでも幼稚園の遠足で宮島に行った時の写真を紹介します。黄色い丸印()が私です。クリックすると特別に大きく拡大いたします。手前から2列目の左から3番目です。
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八幡川を渡りました。私が近くの井口に3歳から10歳まで住んでいたころのこの場所は目の前が海で引き潮の時は砂浜が広がっていてハマグリを獲りに来ました。私の住んでいた家の前も海で砂地を掘れば沢山のアサリが採れましたが、ハマグリは採れなかったので、ここまで採りに来たことを覚えています。
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クリックすると拡大ここが私が住んでいた井口です。写っている駅は広島電鉄宮島線の井口駅です。こげ茶色のマンションのところに私の住んでいた家がありました。当時は木造の建物でした。その家の前で撮ったのが右の写真で小学校の入学式の時に記念に撮りました。現在の住所は広島市西区井口ですが、私が住んでいたころは広島市井口町でした。それ以前は広島県佐伯郡井口村でした。小学4年(10歳)の時に神戸に引越しました。私は兵庫県伊丹市に生まれて1歳の時に兵庫県伊丹市に引越して2歳の時に広島市平野町に引越し、3歳の時に広島市井口町に引越しました。私の記憶は3歳の時の平野町から井口町に引越すトラックの助手席に座っていたところから始まっています。つまり井口が住んだ中で最も懐かしい場所なのです。家の門は踏切から39mくらいの距離のところだったと思います。
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その井口から、おじいちゃんおばあちゃんが住んでいた周防久保に行く場合のルートです。ルートは今も昔も同じなので私が小さい時もこのルートで周防久保に行ったのだと思います。ただし時刻は今の時刻表です。広電からJR(昔は国鉄)への乗換場所は五日市駅になっていますが、乗り換えが出来る駅は五日市駅以外に八日市駅と宮島口駅があるので、その中の3つのどこかで乗り換えたのだと思います。
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私の住んでいた家の庭の南側は海に接していました。その正面の景色の写真です。夏には私や姉の同級生が庭に入ってきて写真のコンクリートのクリックすると拡大堤防の上から網に飛び込んでいましたがも海面までの高さはかなりある上に、私と姉が写った右の写真のように海面までの堤防のコンクリートの壁の途中に人が歩ける幅の段差があったので海までの距離もあるので、かなりスリルのある飛び込みでした。もちろん我々には出来るはずもありませんでした。堤防には階段が作られていて引き潮の時には下に降りてアサリや釣りのためのゴカイを採りました。砂と岩が半々ぐらいの海底でした。ゴカイは我々の親父がチヌ(黒だい)を釣るために夜釣りに使うのです。写真の中の右端の富士山のようなきれいな形をした山は似島の安芸小富士だと思います。海に建てられている沢山の竹竿は海苔の養殖用だと思います。周辺では牡蠣の養殖もおこなわれていて、岩場には沢山の牡蠣の殻がついていてよく怪我をしました。
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クリックすると拡大私の住んでいたころは庭が海に接していましたが、埋め立てられて今の海岸は昔の海岸から直線距離で1.09kmの位置になっています。写真は庭から見た景色で、岩山は男明神と言われていて、今でも公園の中に残されています。右の小さな写真は現在の写真で、水が写っていますが海ではなく池です。クリックすると海側からの写真を表示します。


私の小学校4年の夏まで住んでいた井口の位置関係を現在の地図に書き込みました。赤色ライン(━━)が私が住んでいたころの海岸線です。通っていた広島市立井口小学校と聖モニカ幼稚園などの近所の場所も記載いたしました。
私の住んでいたころには男明神の横は漁港でした。上の写真でも小舟が沢山停泊しているのがわかってもらえると思います。オリジナルのGoogle地図→ポチッ
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広島駅で新幹線への乗り換え時間が24分あったのでお土産に広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯ともみじ饅頭と広島菜の漬物を買いました。写真は広島を出発して13分後の景色です。周防久保駅→広島駅の現在時間でのタイムテーブルとルート図はこちらです。→ポチッ
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夕食用に買ってきた広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯です。2つ買ったお好み焼き(900円x2 税込)は母とそれぞれ食べて、1つだけ買った穴子飯(1400円 税込)は2つに分けていただきました。食事をしながら墓参りの報告をいたしました。翌日には整理した写真を見てもらいました。
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気になっていた「山女魚の茶そば」をいただきました。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2018年12月24日追記 
タイトル : 気になっていた「山女魚の茶そば」をいただきました。
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2018年12月24日は実家の宝塚から山口県に日帰りで墓参りに行っていました。昼食は以前に紹介した「山賊」です。その時は山女魚の活き作り紹介しました。今回は山女魚の塩焼きが蕎麦に乗せられた「山女魚の茶そば」をいただいたので追加掲載の形で紹介したいと思います。
熱々が出てきて湯気のために鮮明な写真にならなかったと反省しております。

山女魚以外に肉などの具が乗っていました。
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ビールも飲みたくなります。生の大ジョッキを頼みまし。
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山女魚(やまめ)の部分を拡大いたしました。湯気がおさまってから撮ればよかったです。結構、おいしかったので、また食べる機会があると思うので、その時にいい写真が撮れれば追加したいと思います。山女魚の右側に沢山あるのは牛肉です。
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つゆは関西風で美味しかったので、飲み干してしまいました。
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タイトルでは「山女魚の茶そば」と書きましたが、メニューの正式名は「山女茶そば」です。実はメニューを見て前々から「山女茶そば」が気になって食べたいと思っていたのです。今回、ついに実現いたしました。
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お店を紹介いたします。地図の中央付近の臙脂色マーク( )が山賊です。佐々木小次郎商店と書かれているところの近くに錦帯橋があります。
 店舗 桃李庵(とうりあん) 09:30~24:00 木曜日(休)
    竈(かまど)     10:00~24:00 水曜日(休)
    いろり山賊     09:30~翌3:00 火曜日(休)
 定休 上に書いているのは一例
 住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
 電話 0827-82-3115



2016年1月19日掲載 タイトル : 山女魚の活き造り

短い動画なので先ずはプレーボタン( )をクリックして魚の頭の部分に注目してください。渓流の魚と言えばヤマメ、イワナ、アマゴですが、ヤマメ(山女魚 / 山女)の活き造りを初めていただきました。淡水の魚の生は敬遠していることもあり、刺身としていただくのも初めてでした。
以前から、お袋は3月、8月、9月、12月の年に4回ほど兵庫県の宝塚から山口県熊毛郡にあるお墓に日帰りで墓参りをしています。2013年からは私も一緒に行くようにいたしました。お袋の弟にあたる私の叔父さんが新岩国駅に車で迎えに来てもらい墓参りに行くのですが、今回紹介するお店で毎回、昼食をとっているのです。ヤマメ料理としては山女塩焼、山女せごし、山女さしみ、山女茶そば、山女唐揚、山女フライと、山女料理だけで6種類もあります。山女さしみは以前から何度も注文してみましたが、いつも無くて山女塩焼を食べていました。塩焼きが出来るのに刺身がなぜできないのか不思議に思っていたのですが、新鮮な活きた山女魚が入荷していなかったので、刺身が出来なかったことが初めてわかりました。この山女魚の活き造りを初めて食べたのが昨年2015年12月26日でした。

参考のために山賊のホームページに掲載されているヤマメ料理の写真を転用させてもらいました。
左上から順番に山女塩焼(519円)、山女せごし(670円)、山女さしみ(670円)、山女茶そば(1188円)、山女唐揚(778円)、山女フライ(778円)です。
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場所は以前紹介した山口県岩国市にある「いろり山賊」です。こちらは3店舗で構成されておりいつも竈(かまど)で食事をしています。3店舗は別々の定休日を設定しています。以前に食事した時の記事です。→ポチッ
 店舗 いろり山賊 桃李庵 竈(かまど)
 営業 9:30~翌3:00  竈 / 桃李庵 : 10:00~24:00
 住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
 電話 0827-82-3115
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先ずは山賊焼きとビールです。ただし叔父さんは車を運転するので私だけがビールをいただきました。
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山賊焼きだけをアップしました。いい写真を撮っていなかったので以前に撮った写真を使いました。若鶏のもも肉を串に刺して炭火で焼いています。こんがりと焼けたパリパリの皮が香ばしくお店の一番人気の料理です。
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叔父さん夫婦とお袋は三番人気の山賊手打うどんと、山賊巻寿司をいつも頼んでいます。
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こちらが山賊巻寿司です。私はいつも巻寿司を分けてもらって食べています。穴子が入った太巻きです。
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こちらがメニューにあった山女さしみです。刺身と書かれていますが、活きた状態で出されてくるので活き造りだったのです。まさかヤマメの活き造り(活き作り)が食べれるとは思いませんでした。皮つきの刺身ですが、触感的にまったく気にならず、かえって皮付きの方がいい気がしました。ヤマメは繊細な魚のため、活きたまま目の前に運ばれてくるのは貴重なのだと知りました。したがって山女さしみを注文しても、必ず動く状態の活き造りの刺身で出てくるかはわかりません。
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刺身の裏側の写真を撮っていれば透き通った山女魚の身を紹介できたのでが、撮り忘れたので断面が見えるようにアップの写真を掲載いたしました。昔は渓流と言えども川の魚は寄生虫がいる可能性がゼロではないので塩焼きでたべられていましたが、最近はきれいな流水での養殖が主流となったことから刺身でも普通に食べられるようになったようです。天然でも海から遡上する魚がいない標高の高い冷水域で捕獲したならば刺身は可能だそうです。


ヤマメは渓流の純粋な淡水魚だと思っていましたが、実はヤマメはサケ目サケ科に属するサクラマスのうち降海せずに一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)の個体のことだそうです。ヤマメは渓流のイメージがあるように北海道から九州までの川の上流などの冷水域に生息する魚です。ヤマメは美しい姿態と味の良さから「渓流の女王」とも呼ばれています。全長は40cmに成長しますが、2年魚でも20cmにしかならないためもあり、高級魚としても名高い魚です。
似た魚であるアマゴもサケ目サケ科に属するサツキマスが一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)の個体のことだそうです。サツキマスは日本の固有種でサクラマスの亜種だそうです。ヤマメとアマゴは写真で見ての通り似ていますが、見分けなたとしては朱点(赤い斑点)の有無で区別がつきます。アマゴは朱点があるのに対してヤマメにはありません。一方、日本のイワナは純粋な淡水魚です。山女魚あるいは山女の名前は女性のように美しい姿から「山の女」という意味に由来しているそうです。ヤマメの分類を紹介します。
  綱 : 条鰭綱(硬骨魚類) Actinopterygii
  目 : サケ目       Salmoniformes
  科 : サケ科       Salmonidae
 亜科 : サケ亜科      Salmoninae
  属 : タイヘイヨウサケ属 Oncorhynchus
  種 : サクラマス     O. masou
 亜種 : ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou
クリックすると拡大ヤマメ 山女魚 / 山女
クリックすると拡大アマゴ 雨子 / 雨魚 / 甘子 / 天魚 / 鯇
クリックすると拡大イワナ 岩魚 / 嘉魚 / 鮇 /
= (魚ヘンに岩)
今回は食べませんでしたが、今までに食べた人気の料理を紹介します。
これが二番人気の「山賊むすび」です。美味しいことは確かですが、あまりにも大きいので食べた回数は1回にとどまっています。コンビニおにぎりの3倍以上のボリュームです。3倍の大きさだけあって中に梅干と鮭と昆布が入っています。なんと、目の前に座っていた若い女性の方は、一番人気の山賊焼きと二番人気の山賊むすびと三番人気の山賊手打うどんを一人で食べておられました。初めて来た人にとっては、あこがれの料理なのかもしれません。
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ヤマメの刺身が食べられなかったときに食べたヤマメの塩焼きです。
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串揚げもいただきました。
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山賊二八そばもいただいたことがあります。手打蕎麦です。
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餃子を頼んだこともありました。
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さしみコンニャク、名前は「こん刺し」で一杯という時もありました。田舎のおばあちゃんがつくった手造りのこんにゃくだそうです。
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クリックすると記事を表示青の太い線は墓参りのために車で走るルートです。ただし墓参の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)

岩国のシロヘビ 天然記念物 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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昨年の年末の墓参りで山口県の岩国に行ったとき、天然記念物の「岩国のシロヘビ」を見る機会がありました。
岩国には母の両親が住んでいて、今は母の弟、つまり私の叔父さん夫婦が住んでいます。そんなこともあり岩国には小さい時から数え切れないほど来ていますが最後に岩国のシロヘビを見たのは小学校低学年(四年生以下)の時なので、今回シロヘビを見たのは数十年ぶりになります。岩国に住んでいる人にとってはシロヘビは珍しくはないので、それ以降は連れて行ってもらうことがなかったのだと思います。上の写真は2015年12月26日に撮ったシロヘビです。

兵庫県の宝塚に住んでいる母は毎年4回ほど山口県に墓参りに来ています。私は2013年3月19日からは同行するようになりましたが、シロヘビを見る機会はありませんでした。宝塚からは日帰りで来る上に新幹線の新岩国とお墓を往復するだけだからです。
クリックすると記事を表示青の太い線は墓参りのために車で走ったルートです。ただし墓参の場所だけは特定されないように少しずらしております。走行距離は、行きは墓まで直行なので32kmで、帰りは錦帯橋経由となるため38kmで、往復で70kmになります。
  新岩国駅( 9:24着) → 墓( ) → いろり山賊( 昼食) →
  → 錦帯橋( ソフトクリーム) → 新岩国駅( 13:34発)


ソフトクリームを食べるために錦帯橋にもよるようになりましたが、シロヘビは岩国の市街地だけに見る施設があるものと思っていませんでした。下の写真は車の中から撮った錦帯橋の北側入口です。


定例の墓参りでソフトクリームを食べるために錦帯橋に来るようになったのは2014年12月27日からです。母がソフトクリームが好きなことを知った叔父さんが、錦帯橋に連れて来てくれるようになったのです。ここでは100種類以上のソフトクリームが食べれるということで静かなブームとなっており、武蔵店と小次郎店など4店舗がしのぎを削る戦いをしているのです。この日、2015年12月26日も小次郎店(佐々木屋小次郎商店)でソフトクリームを食べに来ました。ソフトクリーム以外の名物としては小次郎まんじゅうと岩国寿司がありました。
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こちらが、この日、私が食べた抹茶と牛乳のソフトクリームです。早々に食べて近くを散策してみました。
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驚いたことにソフトクリーム店である小次郎店の目の前にシロヘビの観覧所があったのです。窓にシロヘビ(仮設)観覧所と書かれているのが分かってもらえると思います。真っ赤な寶冠白蛇辨財天の幟も印象的です。寶冠白蛇辨財天は現在の漢字では宝冠白蛇弁財天となります。
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記事を掲載するためにネットで調べてみると、小次郎店から400mの距離に昔から横山白蛇観覧所がありました。横山白蛇観覧所を横山シロヘビ資料館としてリニューアルオープンさせる改装工事のために2015年5月28日に仮設のシロヘビ観覧所が出来たのでした。確かに仮設と書かれているうえに建物はプレハブでした。前回の時に気が付かなかったのは目の前と言っても間に木が沢山植わっているためでした。散策したおかげで見つけることが出来ました。


仮設シロヘビ観覧所の前に建てられていた古い説明文の部分を写真から切り取って掲載いたしました。今のままでも読めると思いますが画像をクリックすると拡大するので読みやすくなると思います。
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上の写真から説明文を読むのが面倒な方のために説明文の内容を枠内に転記いたしました。説明文が立てられた1986年(昭和61年)ごろにシロヘビ観覧所が出来たのかもしれません。
国指定 天然記念物「岩国のシロヘビ」
      指定年月日 昭和四十七年八月四日
      主な生息地 山口県岩国市一円
説   明
 天然記念物「岩国のシロヘビ」は、岩国市にだけ生息している世界でも珍しいヘビで、商売繁昌・開運の守神様などと言い伝えられてきております。
 ヘビの白色変種が、安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界にも例がなく、学術的にも極めて貴重な存在であります。
 しかし、近年生息地域の都市化が進み、シロヘビの数が減少しつつありますので、岩国市では財団法人岩国白蛇保存会とともに保護保存対策につとめております。
      昭和六十一年四月
岩国市教育委員会

さっそく入場料100円を無人の箱に入れて中に入ると写真のシロヘビちゃんが迎えてくれました。
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人に慣れていて、ゆっくりとした動きでした。
岩国のシロヘビはアオダイショウが白化したものです。自然界では色素が抜けた白色の突然変異が偶に生まれますが、白色がゆえに雪に覆われた地域以外では、周りから目立つ存在になります。目立つ存在であるがゆえに餌を獲る確率も下がる上に、猛禽類などの捕食者に捕まる可能性も高くなることから広く繁栄することは無く、ハツカネズミのように人間の飼育下でのみ存在すると考えられています。岩国のシロヘビの場合は、人間の飼育下ではないにもかかわらず存在し続けているのは岩国の人々が昔からシロヘビを神の使いとして特別で大切なものと扱ってきたのが理由であろうと言われています。
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頭を拡大いたしました。シロヘビは1924年12月9日(大正13年)に「白ヘビ生息地」として、今津町、山手町、旭町などが生息地域として天然記念物に指定され、1972年8月4日(昭和47年)に「岩国のシロヘビ」という名称で生物としてのシロヘビ自体への指定替えとなりました。
シロヘビが1924年に天然記念物に指定されたのは1919年に公布された史蹟名勝天然紀念物保存法でした。法律が公布されて5年目の指定でした。現在は史蹟名勝天然紀念物保存法から引き継いだ文化財保護法(1950年制定)です。
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シロヘビの肌を紹介したいので目いっぱい拡大いたしました。
調べてみると、シロヘビが目撃された最も古い記録は岩邑年代記(がんゆうねんだいき)に、1738年6月(278年前 元文3年)に捕獲されたとの記録です。横山地区の千石原にあった吉川邸の城門付近で門番が捕獲したそうです。次は1862年(154年前 文久2年)で、錦川志(にしきがわし)に岩国藩の米倉で2頭のシロヘビをよく見かけたと記されているそうです。


シロヘビを見ることが出来る場所の地図があったので紹介します。私が子供のころに見たのは屋外飼育場でした。祖母祖父の住んでいた場所から近いので山手町シロヘビ屋外飼育場ではないかと思います。天神シロヘビ観覧所も、すでにリニューアルされていて天神シロヘビ資料館+白蛇神社になっています。
 ①  横山シロヘビ資料館(2016年3月から)
 ①' 仮設シロヘビ観覧所(2015年5月28日から2016年3月まで)
 ②  天神シロヘビ観覧所 岩国白蛇神社
 ③  山手町シロヘビ屋外飼育場
 ④  旭町第1・第2 シロヘビ屋外放飼場
 ⑤  尾津町シロヘビ屋外放飼場

リニューアル前の横山白蛇観覧所     仮設の横山シロヘビ観覧所


白化していないアオダイシヨウの写真と分類を参考に掲載いたします。無毒のへびで、人と共に暮らすヘビと言われるほど人との関わりが深く、日本本土では最大のヘビです。写真はネットから転用させてもらいました。
クリックすると拡大 門  : 脊索動物門  Chordata
 亜門 : 脊椎動物亜門 Vertebrata
 綱  : 爬虫綱    Reptilia
 目  : 有鱗目    Squamata
 亜目 : ヘビ亜目   Serpentes
 科  : ナミヘビ科  Colubridae
 属  : ナメラ属   Elaphe
 種 : アオダイショウ E. climacophora

いただいたパンフレットが値打ちものだったので紹介いたします。蛇の写真の部分と脱皮した皮の写真の部分にザラザラが付けられているのです。パンフレットの裏側には英語と中国語と韓国語で詳しい説明が書かれていました。内容は表の左端の日本語の説明と同じではないかと思います。
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パンフレットの表紙にあたる部分ですがシロヘビの写真と「岩国の白蛇」の文字の部分だけにザラザラが付けられていました。
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圧巻なのがシロヘビの脱皮の皮で寿の文字が作られた写真ですが本物の脱皮の皮が張り付けられていると思われるほどの手触りでした。見た目や手触りでは本物に感じるのですが、最終的に本物ではないと判断したのは、これだけ手間な作業をパンフレットに一枚一枚張り付けることはコスト的にも材料的にも、ありえないと思ったからです。それほど精巧に作られているのです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックが面倒な方のために拡大し写真を掲載いたしました。是非とも触ってもらいたいです。
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こちらもシロヘビの部分だけザラザラが付けられているのです。
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タグ: 爬虫類 岩国

錦帯橋の名物 今はソフトクリーム [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2015年3月22日の夕方に実家の宝塚から千葉の家に帰りました。3月21日は山口県に墓参りに行っていました。お墓の場所は山口県の岩国と徳山の間ですが、母の弟にあたる叔父さんが岩国に住んでいることから新幹線で新岩国まで行くと、いつも叔父さんが車で駅からお墓まで送っていただいています。墓参りの後は、一度紹介したことのある山賊村で、一緒に昼食をとった後、新岩国駅まで送ってもらっていましたが、前回から新しい習慣(イベント)が追加されました。
その習慣とは、岩国で有名な観光スポットである錦帯橋に行き、ソフトクリームを食べることなのです。実は一緒に行く母がソフトクリームが好きだったのです。叔父さんの車か錦帯橋が見えてきました。

錦帯橋に着きました。美しい木造5連アーチの錦帯橋は何度も補修されていますが、初代落成は今から342年前の1673年です。
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時間はあまりなかったけれども、全体を撮りたかったので、少し横に歩いて写真を撮りました。
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上の写真では錦帯橋全体が判りにくいので、以前に岩国国際観光ホテルで食事をしたときの部屋からの写真を紹介します。岩国国際観光ホテルはソフトクリーム屋さんとは対岸になります。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示

目的のソフトクリーム屋さんです。
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お店の名前は「佐々木屋小次郎商店」です。錦帯橋では通称「小次郎」です。
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実はソフトクリームが100種類以上あることで有名です。その中でも一番の段の中に特別のソフトクリームがありました。前回の時、ブルーベリーの普通のソフトクリームを食べた後に、プレミアムのソフトクリームがあることに気がつきました。その時に、次に来た時はプレミアムのソフトクリームを食べることを決めていたのです。
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店内には沢山のソフトクリームの機械が並べられていました。今回の記事の写真のはほとんどが2015年3月21日に撮ったものですが、一部前回の2014年12月27日に撮った写真も使わさせていただいたいます。こちらの写真も12月27日の写真です。


こちらのプレミアムのソフトクリーム「プレミアム生クリームソフト」をいただきました。名前はクレミア(CREMIA)です。特徴は次の3つです。
①ラングドシャのコーン
右の写真のヨックモックの焼き菓子シガーなどに使われているラングドシャで作ったコーンに入れられています。
②生クリーム25%
北海道の生クリームがふんだんに使われています。
③乳脂肪12.5%
高乳脂肪の美味しさです。
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こちらが今回食べたソフトクリーム「クレミア」です。
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今回のソフトクリームのクリーミーさを感じていただくために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
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上で紹介した「小次郎」に対して「むさし」というソフトクリーム屋さんが隣にあります。錦帯橋では武蔵と小次郎でソフトクリーム競争が行われており、そのことが有名になっているのです。こちらのお店が「むさし」です。
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むさし店のソフトクリームは2015年3月21日時点で140種類で、日本記録更新中と書かれていました。むさしと小次郎は競争をしてはいますが、話題になることで、かえってソフトクリームを食べるお客さんが増えて、お互いに得をしていると思います。我々のようにソフトクリームを食べるだけのために来る人もいると思います。第3のソフトクリーム屋さんもありました。
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小次郎店の建物にソフトクリームの歴史が書かれていました。それによると1947年7月3日に米軍主催のカーニバルにおいて明治神宮外苑でソフトクリームが日本で初めて販売されたそうです。そのため7月3日がソフトクリームの日になったそうです。
錦帯橋では、1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。ソフトクリーム販売当初は「小次郎」のお店の名前は「横山」でした。競合店の「むさし」が出来たことで「横山」は「小次郎」と名前を変えたのではないかと推察しています。
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錦帯橋とむさし店と小次郎店の位置関係をGoogle航空写真で紹介します。いずれのソフトクリーム屋さんも食事が出来るお店でした。
周辺レストラン→ポチッ
  P-1.gif錦帯橋
  P-3.gifむさし店    食事処竹之里 むさし
  P-6.gif小次郎店   佐々木屋小次郎商店 ←今回食べたお店
  P-7.gif第3の店    にしきや
  P-13.gif岩国国際観光ホテル


広島の聖モニカ幼稚園の遠足でも錦帯橋に行きました。もちろんその頃はソフトクリームは売っていなかったと思います。黄色い丸が私です。河原に下りた、この辺りからの写真が一番いいですね。

山口県の山賊村 [山口県]



山口県の岩国の近くに古い建物が並んだ不思議な雰囲気のお店がありました。岩国から徳山に向かって国道2号線を走っているときに気になっていました。岩国に戻ってくるときに、ちょうど昼時であったことから、そのお店に入りました。上の写真がお店に入る寸前の写真です。地元では誰もが知っている「いろり山賊 玖珂店」です。我々、県外の人間にとっては珍しいお店なので紹介いたします。

駐車場の写真ですが、ほぼ満車になるほど人気のお店でした。ちょうど一つ空いていたので助かりました。古めかしい木造の建物と目立つ飾り付けがあるのですぐにわかると思います。
ここを知ったのは2013年3月19日に山口県下松市大字河内にある岩徳線の周防久保駅の近くにある父方のお墓にお彼岸のお墓詣りに行ったときに近くの岩国に住む叔父さん(母の弟)が車を出してくれて岩国と周防久保を往復してくれた時のことでした。


この写真のように古めかしい建物がある上、谷沿いにも建物が沢山ありました。そのため山賊村と呼ばれているのだと思います。調べてみると結構大きなチェーン店で、こちらは3店舗で成り立っています。我々は竈(かまど)というお店に入りました。写真の奥の建物が桃李庵で、手前の建物が竈です。
  店舗 桃李庵(とうりあん)10:00~24:00 木曜日(休)
     竈(かまど)    10:00~24:00 水曜日(休)
     いろり山賊    9:30~翌5:00 火曜日(休)
  住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
  電話 827-82-3115
  HP  http://www.irori-sanzoku.co.jp/kugaten/kuga.html
  航空 http://goo.gl/maps/cGbqn


土産物屋やお弁当屋さんもありなかなかの雰囲気のお店でした。写真の太鼓は子供さんに人気でした。


沢山のお店があり散策するのも楽しくなる雰囲気でした。子供に喜ばれるのも人気の一つの理由かもしれません。


今の時期、桃李庵や竈ではコタツで食事が出来るのです。これも珍しいです。お店の名前の竈(かまど)が並んでいました。


少し暖かくなってきたので、山賊村の中でも、ここが一番人気の席のようでした。クリックすると拡大いろんなタイプの席がありました。米軍の岩国基地や景勝地の錦帯橋があることから外人の方も目立っていました。正面に桃李庵への入口があります。3店舗の中で一番格式が高そうなお店です。crayfishさんからコメントいただいた缶ビールの自動販売機が、こちらの写真に写っています。下の写真をクリックするとわかると思いますが、右にも拡大写真を掲載いたしました。お店の中に缶ビールの自動販売機を見たのは初めてでした。ノンアールコールビールも、ちゃんと入っているようです。
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こちらが建物の中です。こちらでも炬燵(こたつ)でした。左の人は焼肉を食べられていました。肉は皇牛(すめらぎぎゅう)でいろり焼き(1785円)から皇ひれ(3045円)の焼肉がありました。皇牛は、日本の肉牛のルーツといわれている純血日本種で天然記念物の見島牛の伝統を守り続けていく黒毛和牛で山口県の自慢の牛肉です。山口県の代表的な牛肉は皇牛と高森牛と無角和牛です。
このあと、お客さんが沢山入ってこられました。


店名にもなっている竈(かまど)が沢山並んだ、この場所で食事をいただきました。


天井は高く飾り付けも趣向を凝らしていました。


こちらにも上がって食事をすることが出来ます。映画の中の山賊の家のようです。


こちらで人気の3つ料理が「山賊焼」と「山賊むすび」と「山賊手打うどん」で、周りを見ていると「山賊焼+山賊手打うどん」の組み合わせを頼んでいる人が多かったです。


私が頼んだのが、叔母さんのお薦めで「山賊焼+山賊むすび」を頼みました。お店の名前らしく豪快な料理でした。おむすびも、私のいつもの茶碗ならば3杯以上の大きさでした。


こちらが山賊焼で鶏のモモ肉に串を刺して醤油系の甘辛いたれをつけて、香ばしく焼いてありました。山賊になった気分で豪快にかぶりつきました。
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おむすびの中身は梅干と鮭でした。


と思ったら、昆布も入っていました。つまり梅干と鮭と昆布のおにぎりだったのです。


おむすびの大きさを実感してもらうために写真を追加いたしました。写真をクリックするとさらに拡大いたします。
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屋外で炭火で焼かれる皇牛も美味しそうでした。


素朴な「おはぎ」と「草もち」も置かれておりお土産に買っていただき家に帰って食べました。特に草餅はヨモギの香りがいっぱいで昔ながらの素朴な味で美味しかったです。大きかったので半分に切って、一日置いておくだけで固くなってしまいました。まさに餅そのものだったのです。もちろん焼くと美味しくいただけました。


お店の奥が谷になっており、その川沿いにも屋外で食べれるところがありました。さすがにちょっと寒くて、まだやっていませんでした。火曜日だったので、こちらは定休日だったのかもしれません。


川沿いの掃除も店員の方が丁寧にされているのに感心いたしました。


山の奥に神社がありました。名前は魂稲荷神社で「魂」は「むすび」と呼ぶそうです。
この魂稲成神社(むすびいなりじんじゃ)」は、もともとは山口県岩国市美川町根笠の瀬倉部落(おそくらぶらく)にありました。河内大明神神社(津和野太鼓谷稲成の分身)を、1988年に移築したものです。当時の美川町の総代田村様のご尽力により、過疎化の為崩壊の進む神社をそのまま荒廃させるのはしのび無いと山賊の社長が協力し移築の運びとなったそうです。山賊の守り神ということになるようです。


左下の緑のマークが「いろり山賊 玖珂店」の場所です。赤いマークは錦帯橋です。青いマークが新幹線の新岩国駅で空色マークが去年2012年の12月に開港した岩国錦帯橋空港です。
叔父さんたちに、どのような人が「いろり山賊 玖珂店」利用しているのかと聞くと、地元の人が訪ねて来た人を案内したり、道を通っている人が、興味をひかれて入っているのが多いのではないかと言われていました。この辺りでは車で行けるレストランで最も大きいことでも利用している人もいる気がしました。ちょっとしたテーマパークのようなレストランなのだと思いました。

より大きな地図で 岩国周辺 を表示
国道2号線を走っていると、同じチェーン店である「いろり山賊 周東店」がありました。上で紹介のお店に比べると規模は小さいけれども高い櫓(やぐら)の迫力のあるお店でした。
  店舗 山賊 老松
  住所 山口県岩国市周東町2354-1
  電話 0827-84-3914


いろり山賊の歴史を調べてみました。 62年前の居酒屋・的場大学が起源で、長い歴史があることを知りました。
1951年 広島 居酒屋・的場大学が開店
1967年 広島 的場大学は大学と名を変えて堀川町に移設
1967年 株式会社ファミリーレストラン大学として発足
1971年 玖珂 いろり山賊 開店
1972年 玖珂 公卿七厘 開店 茅葺の建物
1976年 玖珂 竈(かまど)旧館 開店
1978年 錦町 一燈銭 開店
1981年 錦町 山賊砦 開店
1982年 玖珂 竈(かまど)新館 開店
1984年 広島 堀川町 本店 火災焼失
クリックすると拡大1985年 周東 老松 開店
1987年 玖珂 桃李庵(とうりあん) 開店
1989年 外食産業→情感産業 平成1年
1989年 玖珂 魂稲荷神社 移築完成
1989年 玖珂 公卿七厘火災焼失
2011年 錦町 長屋門完成
2013年 玖珂 4月10日倉庫と思われる建物で火災発生
枠内の写真はホームページから拝借した錦町の長屋門


2013年4月10日追記 タイトル : 山賊で火災発生
2013年4月10日 火災速報
 今日 2013年4月10日に玖珂店で倉庫と思われる建物で火事発生
 ケガ人なし・店舗は無事の模様
 本記事にネットから拝借した写真と動画を追加しました。

2013年4月10日に発生した火事の写真です。写真はネットから拝借いたしました。写真をクリックすると動画を表示します。
突然に「山賊 火災 火事 山賊火災 山賊火事」のキーワードでの検索によるアクセスが増えたので火事のことを気がつきました。
本記事への訪問者数およびアクセス数は下記の通りです。
        訪問者数   アクセス数
  4月09日    3         3
  4月10日   1150      1491  ←火事のあった日
  4月11日    257       333
  4月12日    81        91
  4月13日    30        33


動画も追加掲載いたしました。火が出た建物は大工小屋で、従業員の休憩所と食材をいれる冷蔵庫などがあった隣の倉庫も全焼したそうです。


火災が起こった場所です。写真や動画などから、赤色の火災のマークの場所が火事となったようです。緑のマークは店舗や神社です。
当時は強風注意報と乾燥注意報が出ており、強風のために火は山林に燃え移り、山陽新幹線のトンネル入口に近いことから新幹線は新岩国~徳山は上下線ともに正午過ぎから約40分間ほど見合わせていましたが12時48分に順次運転再開しました。この火災の影響で、山陽新幹線の列車に5~40分の遅れがでたそうです。

より大きな地図で いろり山賊周辺 を表示
ネット上での記事を掲載
広島でもなじみ深い“いろり山賊”玖珂店で火事
広島県民にとってもなじみ深い、山口県岩国市にある「いろり山賊」玖珂店で、10日午前倉庫など関連施設が燃える火事がありました。激しく燃え上がる炎。こちらは出火直後に近くを通りかかった人が撮影した映像です。撮影した人は「かなり風も強くて風にあおられて火もすごい燃えあがっているような。とにかく煙と炎がすごい」と話していました。10日午前11時すぎ、山口県岩国市の「いろり山賊」の関連施設が燃えていると、店の関係者から110番通報がありました。消防車15台などが駆けつけ消火活動が行われましたが、建物は全焼しました。店の関係者によりますと、火が出たのは大工小屋で、風にあおられて食材を保存する冷蔵庫などがある隣の倉庫に燃え移ったということです。国道2号を挟んで向かい側にある店舗には、当時客や従業員らおよそ70人がいたということですが、ケガ人はいないということです。「いろり山賊」玖珂店は、広島と山口の県境から車でおよそ40分程度の場所にあり、広島県民の人気ドライブスポットの1つです。

続きを読む


錦帯橋を見ながら昼食 [山口県]



久しぶりに錦帯橋のホテルの一室に親戚一同が集まりました。思いのほか料理と景色がよかったので掲載いたしました。

山口県は魚がおいしいところです。新鮮なお刺身をいただきました。


魚の味わいを感じてもらうために拡大いたしました。


お吸い物です。


煮物に、こごみが添えてありました。春です。


カレイの唐揚げも手が込んだ揚げ方でした。


肉もありました。山口県の皇牛でしょうか。


最後は茶蕎麦でしめですね。


部屋からの景色です。錦帯橋と桜がきれいでした。新幹線の時間が迫っていたので、近くで花見が出来なかったのが残念です。写真をクリックすると拡大写真を表示します。桜の花が確認できると思います。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示

桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。
クリックすると拡大

食事の部屋の景観です。上の写真の錦帯橋がよく見えました。食事をしたホテルを紹介いたします。
 名前 岩国国際観光ホテル
 住所 山口県岩国市岩国1-1-7
 電話 0827-43-1111
 地図 http://goo.gl/maps/hp6S8
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示

幼稚園で山口県の錦帯橋に遠足に行ったときの記念写真があることを思い出しました。黄色い丸が私です。

タグ: 岩国 錦帯橋

岩国のお土産は「岩国寿司」でした。 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

山口県の岩国に行く前日にテレビを見いてると偶然にも岩国のことをやっていました。そこに出来たのは錦帯橋と蓮根と岩国寿司でした。
そして偶然にも、叔父さん(母の弟)からお土産をいただいたのが岩国寿司(いわくにずし)でした。

岩国寿司は山口県岩国市周辺で作られる押し寿司の一種で、岩国城内で食べられていたこともあることから「殿様寿司」とも言われています。地元では「角ずし」と呼ばれることも多いけれども、広島地域で食べられる角寿司とは若干製法が異なるそうです。
2~ 3人前ずつ一層で作られる通常の押し寿司と異なり、一度に3升から1斗入る大きな木枠の中に、クリックすると拡大サワラやアジなどの生魚の身をほぐして混ぜ込んだ酢飯の上に春菊などの青菜、岩国名産の蓮根、椎茸、錦糸卵などをのせ、これを何層にも重ね、サンドイッチ状にし、重石でしばらく押し固め、木枠を抜いて、一人前サイズに切り分ける作り方です。右の写真はWikipediaの岩国寿司の画像から拝借いたしました。クリックすると拡大します。
層の区切りにバショウやハスの葉を用いるのが特徴的だそうです。できあがった大きな押し寿司を一人前ずつに切り分けてるために一度に数十人前が出来上がることになります。
錦糸卵などで彩られ、切り分けた後でエビなどを後のせすることもあり、見た目はちらし寿司風でした。こちら写真はクリックすると拡大いたします。
クリックすると拡大

クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。中に入っているレンコンがしゃきしゃきして美味しかったです。

開港して3ケ月でした。 岩国錦帯橋空港 [山口県]



日曜日の2013年3月17日に関西に行き、昨日3月19日は関西から山口県の岩国の近くに行っていました。関西から岩国までは新幹線を使いましたが、帰りは飛行機を使いました。15時40分発のフライトですが、ネットで調べて丁度良い時間であったことから予約したわけですが、岩国に来て初めて開港したばかり(開港して3ケ月)の空港であることを知りました。

こちらがターミナルビルです。開港は2012年12月13日でした。空港の名前は岩国空港ではなく岩国錦帯橋空港と近くの景勝地である錦帯橋の名前が使われていました。こちらの空港の特徴はここから飛行機に乗る人の駐車料金は無料になるシステムとなっていることでした。搭乗口の機械に駐車券を通すシステムです。したがって戻ってくるまでは車はつかえないけれども何日止めていても無料なのです。
2013年3月31日追伸
 開港して108日目の3月31日に羽田便搭乗客10万人達成


空港の入口に「未来へ」と題するモニュメントがありました。


ターミナルの中を紹介します。基本的にすべて一階に配置されています。こちらがチェックインカウンターです。現在のフライトは羽田と岩国の4往復だけです。普通運賃だと30970円ですが28日前までに予約するチケットにしたのでチケット代は14,670円でした。


チェックインカウンターと反対側の方向です。土産物売り場があります。3種類の椅子が置かれていました。パソコンなどが出来るテーブルもありました。


一日に4便だけのためかレストランはないのでビールを売店で買って飲みました。つまみは岩国名物の蓮根チップを買いました。


クリックすると拡大展望デッキのみが2階にありました。後はすべて1階です。こちらは有料でした。写真はクリックすると拡大します。
  大人(中学生以上)  100円
  小人(3歳~小学生)  50円
  60歳以上        50円
  車椅子          50円
こちらが搭乗口の待合室です。搭乗するときにボーディングブリッジの高さまで見えているエスカレーターで上がります。わかりやすいです。 クリックすると拡大

こちらの空港の特徴は滑走路とターミナルビルの間にゲートがあることでした。こちらは軍民共用空港なのです。我々が乗る飛行機が着陸するとゲートが開き始めました。左が開き初めで右が完全に開いた状態です。


着陸した飛行機がゲートに近づいてきました。


丁度ケートを通るところの写真を拡大いたしました。


徐々に近づいてきました。


最後の写真を拡大いたしました。


正面を向いて止まったあとボーディングブリッジが伸び始めました。完全にブリッジがつながりました。


写真を拡大いたしました。機種はB737-800でした。席は満席でした。町に近いので便利なのだと思います。新幹線の新岩国の駅が町から遠いのも影響しているのかもしれません。


Googleの航空写真を見ると現在はターミナルビル建設中の写真を見ることが出来ます。この写真は将来は完成したビルの写真に変わっていくと思います。
航空写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると滑走路や岩国の町との関係がわかってくると思います。表示が航空写真ではなく地図の方はアイコン写真をクリックすると航空写真に切り替わります。



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