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奈良の興福寺 阿修羅像に出会えました。 [奈良]

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2018年9月10日に2人目の孫娘が生まれたので、2018年9月14日に奈良の近くの病院に孫娘の顔を見に行きました。少し早めに着いたので駅の近くの興福寺に行ってみることにいたしました。その時に撮った写真を紹介いたします。
クリックすると拡大右が興福寺の配置図です。
実際に歩いた通りに東金堂、五重塔、中金堂(再建工事中)、南大門跡、不動堂、南円堂、一言観音堂、三重塔、国宝館の順番に紹介したいと思います。上の写真は東金堂の前から五重塔の方向を撮った写真です。興福寺(こうふくじ)は奈良市登大路町にある法相宗の大本山の約1300年の歴史のある寺院です。さらに、ユネスコ世界遺産「古都奈良の文化財」にも含まれています。

大きな建物が国宝の東金堂です。奥に見えている五重塔も国宝です。
興福寺の起源は天智天皇8年(669年)に山背国山階(現:京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)です。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に藤原京に移り厩坂寺(うまやさかでら)となり、さらに和銅3年(710年)の平城遷都に際し現在地に移転して興福寺と名付けられたことから、この710年が実質的な興福寺の創建年といえるそうです。
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正面から見た東金堂です。東金堂は聖武天皇の発案で神亀3年(726年)に造営されました。5度の焼失に会いその都度再建されたそうです。現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものです。
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東金堂の拝観券(300円)です。左が表で右が裏です。
拝観券の注意事項には「文化財の写真撮影、スケッチならびに万年筆、サインペン等の使用はお断りします。」と書かれていました。注意事項は国宝館でも同じです。鉛筆でのメモはOKのようなので、インクなどで仏像などの文化財が汚れることを恐れているのだと思います。
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東金堂の賽銭箱が置かれた正面です。ここはすでに有料エリアです。賽銭箱の前の白い布がかぶった台に注目してみてください。
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不思議なことに賽銭箱の奥側に氷が置かれていました。気になって調べてみると9月14日の9時から下記のスケジュールで氷室神社・神職の先導により、純氷が運ばれ、東金堂にて神仏習合の法要(純氷式)が執り行われたそうです。これは、かき氷のイベント「ひむろしらゆき祭」の中の一つだそうです。
 純氷式 2018年9月14日(金) 
     9:00~ 氷室神社出立
     9:30~ 興福寺東金堂にて献氷
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東金堂の中には21躯(く)の仏像が置かれたおり、その内の18躯(く)は国宝で、3躯(く)は重要文化財です。躯(く)は仏像の数を言う時の1つの呼び方です。その1躯(く)以外に1体、1頭(かしら)、1座(ざ)、1尊も使われます。両資料共にパンフレットから転用させてもらいました。仏像が載った方はクリックすると特別に大きく拡大いたします。
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中央の金色の大きな仏像が本尊の薬師如来坐像です。両脇の立像が月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)です。東金堂の中は写真撮影が禁止されているのでネットの写真やパンフレットの写真を転用させていただきました。クリックするとWikipediaに掲載されている別角度の写真のオリジナルを表示します。


本尊の薬師如来坐像です。拝観券販売所でもらった説明パンフレットに載っていた写真です。
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月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)も紹介します。


現在の五重塔は室町時代中期・応永33年(1426年)に再建されたもので、本瓦葺の三間五重塔婆です。初代の五重塔は天平2年(730年)に創建されました。高さ50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔(54.8m)に次いで2番目の高さだそうです。
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再建工事中の中金堂です。落慶法要が2018年10月7~11日に営なまれることから現在は足場は取り払われていると思われます。写真は工事中の最後の姿だと思います。中金堂は興福寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されています。
クリックすると拡大のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれていました。創建以来何度も焼失と再建を繰り返しましたが江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)に仮堂が再建された状態が今日まで約200年続き、クリックすると拡大元の中金堂の姿で再建するために傷みの激しい仮堂を2000年に解体して2010年に着工して現在に至っているそうです。右の小さな2枚の写真はネットから転用させていただいた199年前の文政2年(1819年)に建てられた仮堂です。
再建される中金堂は創建当時と同じ東西36.6m(9間)、南北23m(6間)、高さ21.2mの建物だそうです。
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真横から撮った中金堂です。9月14日時点では中金堂歓進所などがありました。再建される中金堂は古式のままの木造建築だそうです。今回の落慶法要は中金堂だけですが、将来は中門や回廊も再建して昔の姿にしたいと考えられているようです。中金堂は下記リストのように過去7回も焼失と再建を繰り返してきたそうです。つまり初代336年、2代12年、3代29年、4代77年、5代83年、6代27年、7代318年、8代181年と短い期間で焼失してしまったこともありました。明治5年12月3日(1873年1月1日)以前は西暦と和暦の月日は違います。つまり永承元年12月24日を計算すると1047年1月22日になります。
  創建 和銅3年( 710)      被災 永承元年(1046)12月24日 336年 
  再建 永承3年(1048)03月02日 被災 康平3年(1060)05月04日 12年
  再建 治暦3年(1067)02月25日 被災 嘉保3年(1096)09月25日 29年
  再建 康和5年(1103)07月25日 被災 治承4年(1180)12月28日 77年
  再建 建久5年(1194)09月22日 被災 建治3年(1277)07月26日 83年
  再建 正安2年(1300)12月05日 被災 嘉暦2年(1327)05月04日 27年
  再建 応永6年(1399)03月11日 被災 享保2年(1717)01月04日 318年
  再建 文政2年(1819)09月22日 解体 平成12年(2000)07月31日 181年
  再建 平成30年(2018)10月07日   
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本図は 応永6年3月11日(1399年4月17日)の再建時の梁行断面図と平面図です。このような図面が残っていたからこそ忠実に再建出来たようです。
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中金堂の正面には南大門跡がありました。南大門は奈良時代に創建されましたが11~18世紀に7度の火災に遭い享保2年(1717年)に焼けてからは再建されていないそうです。発掘調査により東西5間(23.4m)、南北2間(9m)の規模だったことが分かったそうです。
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南大門跡を少し離れて撮りました。五重塔も写っています。
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南大門跡の脇にある不動堂と呼ばれる小さな建物がありました。東を向く南円堂と向かい合う形で西向きに建っている小さなお堂でした。お堂は不動明王をお祀りしているようでした。
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不動堂の中を撮らせていただきました。堂内で火を焚きあげながら行われる護摩法要が頻繁に実施されていて、お堂の中は不動明王像も含め黒いススで覆われていました。
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こちらは南円堂です。現存する南円堂は江戸時代の寛保元年(1741年)に再建された建物です。正面に拝所が付属した八角円堂です。1986年12月20日 に重要文化財に指定されたそうです。南円堂正面の銅製の高さ236cmの燈籠は南円堂創建時(813年)の唯一の伝来品で弘仁7年(813年)に造られたことが火袋扉に書かれた銘文から判るそうです。本物は最後に紹介する国宝館に置かれていると書かれていたので、これはレプリカのようです。本物は頂上の宝珠が無くなっているそうです。現存する日本の金属燈籠としては東大寺大仏で前の八角燈籠(推定752年)の次に古いものだそうです。
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遠くから見た南円堂です。左側が南大門跡で右側の方向に再建工事中の中金堂が建っています。
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南円堂の傍にある鐘楼です。朝の6時と正午と夕方の18時を知らせる鐘のため、一般の人は撞くことができないそうです。
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南円堂の脇にある一言観音堂です。「一言だけ」願いを聞き入れてくれるということでこの名が付いたようです。
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入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。井戸と思われる部分に南円堂と彫られているので南円堂のための手水舎と思われます。
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南円堂の南西方向に三重塔があるはずなのですが見当たりませんでした。実は地面の低い位置に立っていたのです。
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この石段を下りて右に曲がると三重塔がありました。
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これが興福寺の三重塔です。興福寺三重塔は康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建されました。現存する興福寺三重塔は鎌倉時代前期に再建されたものだそうです。記録は残っていないそうですが時期的に治承4年(1180年)の大火により焼失して再建されたと考えられています。
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三重塔が建っている辺りにはお地蔵さんが沢山並べられているエリアがありました。延命地藏尊です。
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三重塔辺りから見上げると南円堂が見えました。
興福寺の住所等を紹介します。
 住所 奈良県奈良市登大路町48番地
 山号 なし
 宗派 法相宗
 寺格 大本山
 本尊 釈迦如来
 開基 藤原不比等
 創建 天智天皇8年(669年) 京都・山科
 移転 天武天皇元年(672年) 藤原京(飛鳥)
 移転 和銅3年  (710年) 現在地に実質創建
 札所 西国三十三所9番(南円堂)
    南都七大寺2番
    西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
    神仏霊場巡拝の道16番
    大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
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最後に国宝館に行きました。国宝館は文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で1959年に食堂(じきどう)及び細殿(ほそどの)の跡地に建てられたそうです。鉄筋コンクリート構造ですが、外観は創建時の食堂を模したものになっているそうです。建物の地下には奈良時代以降の食堂の遺構がそのままの形で保存されているそうです。正面35.3m、奥行き31.8mの建物です。なお、興福寺に関する本や土産が売られている売店は国宝館の中の無料エリアにあります。
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こちらが拝観券(700円)です。実は東金堂との共通券(900円)がありましたが、東金堂の拝観券を買うときに気が付かなかったために個別に買うことになりました。国宝館の拝観券販売所では変更出来ないので、東金堂の拝観券販売所に戻って買いなおしてほしいと言われましたが、面倒なので個別券を購入いたしました。そのために一人100円高くなりました。拝観券に印刷されている仏像は教科書にもよく出てくる阿修羅像です。
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クリックすると拡大館内は写真撮影が禁止なだけではなくスケッチも許されないほど厳格でした。そのため雰囲気を紹介したくてネットの写真を転用されていただき紹介いたします。国宝館には有名で貴重な仏像が沢山展示されていて圧巻でした。中央には食堂の本尊であった高さ5.2mの千手観音立像が安置されています。主な国宝を紹介します。
 阿修羅像 (旧西金堂) ※1
 木造千手観音立像 (旧食堂)
 乾漆八部衆立像 8躯 (旧西金堂) ※1
 乾漆十大弟子立像 6躯 (旧西金堂)
 木造金剛力士立像 2躯 (旧西金堂)
 板彫十二神将像 (旧東金堂)
 銅造仏頭 (旧東金堂)
 木造天燈鬼立像 / 木造龍燈鬼立像 (旧西金堂)
※1:阿修羅像は乾漆八部衆立像 8躯(8体)の中の1躯(1体)です。


こちらが阿修羅像です。阿修羅像のすばらしさは、その表情に隠されていると言われています。阿修羅は帝釈天と戦った戦闘神ですが、元々は帝釈天と阿修羅は仲間でした。阿修羅の娘を帝釈天が力ずくで奪ったことから戦いが始まったそうです。何度も戦を挑んだことから、ついには仏世界から修羅道に追放されしまったそうです。そんな中でお釈迦様の説法を聞く機会があり、再び正義の神に戻ったそうです。像は三面六臂(さんめんろっぴ)と呼ばれる形式です。三面六臂は3つの顔と6つの腕をもつ意から一般的に1人で何人分かの働きをすることを表しています。作者を検索すると百済から渡来した仏師・将軍万福との記述が多く出てきます。興福寺のホームページによれば正倉院文書である西金堂造営記録「造仏所作物帳」に八部衆像や十大弟子像の作者が将軍万福(仏師)と秦牛養(画師)と書かれていました。仏師の将軍万福は百済からの渡来人で姓が「将軍」で名が「万福」です。画師の秦牛養は百済からの渡来人で姓が「秦」で名が「牛養」です。2011年4月25日の朝鮮新報によると天平6年5月1日(734年)に将軍万福が造像し、秦牛養が彩色したことも造仏所作物帳に書かれていたそうです。十大弟子像も八部衆像(阿修羅像含む)と同じ乾漆造です。
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阿修羅像が含まれる乾漆八部衆立像を紹介します。八部衆像は廃絶した西金堂に本尊釈迦三尊像を中心に梵天・帝釈天像、十大弟子像などと共に安置されていたそうです。現在は国宝館に展示されています。八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、いずれも1体が15 kg程度で度々の火災での焼失を免れた要因としてこの軽さが挙げられています。興福寺の八部衆が、五部浄沙羯羅鳩槃荼乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅畢婆迦羅なのに対して、法華経や金光明最勝王経では、衆、衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆となっていて緑色の最初の3つが違います。左上から順番に次の通りで、いずれも奈良時代の制作です。数値は像の高さです。
 五部浄(ごぶじょう)  50.0cm
 沙羯羅(さから)   154.5cm
 鳩槃荼(くばんだ)  150.5cm
 乾闥婆(けんだつば) 148.0cm
 阿修羅(あしゅら)  153.4cm
 迦楼羅(かるら)   149.0cm
 緊那羅(きんなら)  152.4cm
 畢婆迦羅(ひばから) 155.4cm


将軍万福と秦牛養が造ったとされている十大弟子像も紹介します。名前の通り元は 10躯(10体)あったと思われますが、興福寺に現在あるのは下の写真の 6躯(6体)の十大弟子像です。経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるそうですが維摩経弟子品では次の通りで記載の順番は出家順です。興福寺での仏像の呼名を右側に書いています。丸の数字は写真の左からの順を表しています。十大弟子は釈迦の弟子達の中で主要な10人の弟子のため十大弟子はインド人ではありますが興福寺の十大弟子像は日本人の顔立ちです。
 釈迦の十大弟子(維摩経弟子品)    興福寺の十大弟子像(写真)
 舎利弗(しゃりほつ)         ① 舎利弗像(しゃしほつぞう)
 摩訶目犍連(まかもっけんれん)    ② 目犍連(もくけんれんぞう)
 摩訶迦葉(まかかしょう)        
 須菩提(しゅぼだい)         ③ 須菩提(すぼだいぞう)
 富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) ④ 富楼那像(ふるなぞう)
 摩訶迦旃延(まかかせんねん)     ⑤ 迦旃延像(かせんえんぞう)
 阿那律(あなりつ)            
 優波離(うぱり)            
 羅睺羅(らごら)           ⑥ 羅睺羅像(らごらぞう)
 阿難陀(あなんだ)            木骨のみ(東京芸術大学)
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動画も公開されていたので紹介します。雰囲気がよく分かると思います。紹介されている仏像の何倍も展示されていました。


Google地図でも紹介します。紫色ライン(━━━)で囲ったエリアが興福寺の敷地です。エリアの外側を南側と東側と北側と4分の3周を廻ってみて広さを実感いたしました。航空写真上のアイコンマイナスをクリックすると広範囲表示になるので興福寺の全体エリアや近鉄奈良駅の場所が分かると思います。計3回クリックするとJR奈良駅との位置関係も判ると思います。航空写真の中に北円堂がありますが北円堂に関わる歴史ファンタジー小説をomachiさんから紹介していただきました。タイトルは「北円堂の秘密」で、その1からその18まで続く大作で、作者は大町阿礼さんです。
 本記事で紹介
 今回未紹介

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久々に奈良の鹿を見てきました。 [奈良]

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久々に奈良に行って鹿に会ってきました。可愛い鹿たちの写真を紹介します。台風21号による2018年9月4日の関空の高潮被害のために、まだ鉄道も開通していない9月14日に行ったので外国の観光客は激減とのことでしたが、それでも鹿が沢山いるところでは観光客の大半を外国人が占めている感じでした。

数は少ないけれども発信機(GPS)のついた首輪をした鹿も歩いていました。調べてみると2017年に雌3頭に取り付けて行動を調べて交通事故防止策の検討に使い始めたそうです。沢山の中の3頭の貴重な鹿さんでした。
現在、ニホンジカ(Cervus nippon)は日本だけでなく、中国、ロシア、台湾、ベトナムなどに生息(絶滅あるいは絶滅が疑われる地域あり)していて、沢山の亜種があります。それらの亜種の学名にはnipponの名前が入っています。日本国内にはエゾシカ、ホンシュウジカ、キュウシュウジカ、マゲシカ、ヤクシカ、ケラマジカ、ツシマジカの7つの地域亜種があり、奈良のシカはホンシュウジカになります。英名(Sika deer / Sika)には日本での呼び方のシカ(Sika)の名前が入っています。
  界 動物界     Animalia
  門 脊索動物門   Chordata
 亜門 脊椎動物亜門  Vertebrata
  綱 哺乳綱     Mammalia
  目 偶蹄目/鯨偶蹄目 Artiodactyla/Cetartiodactyla
  科 シカ科     Cervidae
  属 シカ属     Cervus
  種 ニホンジカ   Cervus nippon (英名:Sika deer / Sika)
 亜種 ホンシュウジカ Cervus nippon centralis
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鹿せんべい(150円)を買う人は多かったです。買うと沢山の鹿が寄ってきていました。日本に住むニホンジカは体温保持の観点から北の方ほど体が大きいと言われています。特に南西の島(馬毛島、屋久島、慶良間諸島など)は小さく、エゾジカの140kgに対して、マゲジカとヤクシカが40kgで、ケラマジカは30kgだそうです。日本に生息しているニホンジカの7種の亜種のリストです。体重は個体差があるので、記載している体重の数値は単なる参考です。
 エゾシカ(蝦夷鹿)     Cervus nippon yesoensis  140kg
 ホンシュウジカ(本州鹿)  Cervus nippon centralis    80kg 奈良の鹿
 キュウシュウジカ(九州鹿) Cervus nippon nippon    70kg
 マゲシカ(馬毛鹿)     Cervus nippon mageshimae 40kg
 ヤクシカ(屋久鹿)     Cervus nippon yakushimae  40kg
 ケラマジカ(慶良間鹿)   Cervus nippon keramae   30kg
 ツシマジカ(対馬鹿)    Cervus nippon pulchellus   40kg
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全ての鹿が鹿煎餅をもらいに集まってくるのかと思いきや、のんびりと休んでいる鹿も多かったです。町の中に住んでいますが野生のシカです。
古く(1551年)は行き過ぎた保護で10歳の女の子でも鹿を死なせてしまうと死刑(家族は追放)になるほどの奈良と鹿は長い歴史の関りがあり、1957年9月からは国の天然記念物にもなっているそうです。
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2015年~2018年の奈良公園域内のシカの生息数は次の通りです。2018年は奈良の鹿愛護会の人達が7月15日・16日の2日間かけて調査した数です。
        2015年   2016年   2017年   2018年
   子鹿   199頭   229頭   234頭   238頭
   メス   788頭   715頭   731頭   767頭
   オス   204頭   236頭   261頭   355頭
   総数  1,191頭  1,180頭  1,226頭  1,360頭


興福寺の東金堂と五重塔の前にも鹿が集まっていました。今回紹介の鹿の写真は全て興福寺周辺で撮ったものです。沢山の鹿たちがいるのに地面はきれいで、歩いていて鹿の糞を踏むことはありませんでした。偶然ですが、2018年10月3日にYahooニュースに「奈良公園が美しいのは糞虫のおかげ?」というタイトルの記事が書かれていました。奈良公園では鹿たちが毎日1トンの糞していますが、それをきれいにしているのが糞虫だそうです。国内には約160種の糞虫(食糞性コガネムシ)がいますが、奈良公園には同地域で最も多い約60種が確認されていて「糞虫の聖地」と呼ばれているそうです。その糞虫を紹介する「ならまち糞虫館」が2018年7月8日にオープンしたそうです。ユニークな昆虫として有名なフンコロガシは糞虫の中の一派ですが奈良公園には転がすタイプ(フンコロガシ)の糞虫はいないそうです。さらに驚いたことに日本ではコガネムシの種類のうち3分の1は糞虫(食糞性コガネムシ 約160種)だそうです。
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 住所 奈良市南城戸町28-13 Google地図
 開館 13:00~18:00
 定休 月曜~金曜 (土日のみ開館)
 料金 大人:300円 子供:100円
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左の女性が友達と思われる女性と鹿の写真を撮っているところです。この写真は上の写真の一部を切り取ったものです。
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鹿煎餅の販売所の周辺には沢山の鹿が集まっており、外国人の観光客の笑顔で溢れていましクリックすると拡大た。
346年前となる江戸初期の寛文年間に危険防止のために始まった、勢子たちが荒々しいシカをつかまえ、神官によって角を切る古式に乗っ取った鹿の角きりは2018年10月6日~8日に春日大社の鹿苑・角きり場で行われるそうです。
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きっと海外のSNSでも奈良の鹿の写真が溢れているのだと思います。
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これは駅前の観光案内所でもらったウォーキングマップです。左右の上の両端が破れているんが分かってもらえると思います。二つ折りにしたウォーキングマップを見ている時に、鹿が近づいてきて食べてしまったのです。一瞬の出来事でした。でも、いい記念のウォーキングマップになりました。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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マスコットキャラクターは「しかまろくん」です。注意書きには「鹿せんべいは、鹿たちにとって安全なおやつです。お菓子や野菜や紙などを食べるとお腹をこわします。」と書かれていました。紙を食べるとお腹を壊すことがあるようなので、紙は食べさせないようにしましょう。
それから、鹿煎餅を見せて、あげるのをじらすと鹿が怒ることもあるようなので、食べに来たらじらさないであげるようにしてほしいと思います。知らない人は多いようで、意図的ではないけれども、結果的に鹿煎餅をあげるのをじらしている形になっている光景は、結構見かけましたが、じらされても怒ったりして危険なことをする鹿は見かけませんでした。基本的にはみんなおとなしいいい子のようです。
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タグ:鹿 奈良
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日本の世界遺産 古都奈良 [奈良]

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この記事は以前に掲載したものですが、今回、龍門石窟の記事を掲載した機会に再投稿いたしました。再投稿の理由は龍門石窟の廬舎那大仏像を参考に奈良の大仏が作られたからです。さらに2018年10月1日に奈良の鹿の記事を書いたので、再々投稿いたしました。
世界遺産の奈良には見所が沢山ありながら実際に行ったのは京都と同様に小学校の遠足くらいです。今回、外国人の案内で京都と奈良を訪れる機会を得ました。そして奈良では東大寺を訪れるました。
行ってみてあらためて日本にこんなにすばらしいところがあることを感じてしまいました。中門の後に金堂(大仏殿)が見える写真です。

大仏が安置された金堂(大仏殿)です。正面から見ました。現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。 大仏と共に、この大きな木造の建物は大きさと歴史の深さから近くで見る価値をあらためて認識させられました。
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大仏殿は斜め横から見るのもすばらしいです。大仏および大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失している。宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存のものだそうです。
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有名な「奈良の大仏」です。正式には東大寺盧舎那仏像 (とうだいじるしゃなぶつぞう)です。最初の大仏は聖武天皇が743年(天平15年)に発して9年の歳月を費やして752年(天平勝宝4年)4月9日に完成したそうです。2度の焼失にあい元禄4年(1691年)に再建された大仏が現存のものです。
クリックすると拡大東大寺盧舎那仏像は実は右の写真の中国の龍門石窟の高さ17.14mの廬舎那大仏像(石像)を参考に作られたそうです。当時の遣唐使の人達が模写して帰ったそうです。初代大仏は龍門石窟の大仏と高さは近かったです。
風貌はあまり似ていませんが雲崗石窟の大仏に比べると圧倒的に龍門石窟の大仏に似ています。
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クリックすると拡大右の写真は大仏を正面から撮りました。下の写真も国宝です。名前は八角燈籠で4面に舞う音声菩薩像(おんじょうぼさつぞう)は昔の200円切手のデザインにもなりました。切手は1966年シリーズ と1972年シリーズ の2種類が出ています。この八角燈籠は大寺創建当初の物だそうです。
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広い庭を囲む回廊も必見です。


南大門の前には沢山の鹿がいます。真中に立っている人は"お手上げ"です。もう餌はないとのアピールですね。南大門の左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置されていることが有名です。大きさは幅29m、高さ25.46mで、知恩院の三門(幅50m、高さ24m)と並んで日本最大級という言い方をされています。


奈良と言えば鹿ですね。沢山の鹿たちが寄ってきます。


近くの土塀も趣きがあります。

奈良から神戸三宮への直通電車に乗りました。 [奈良]

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昨日6月21日に、関西から帰宅いたしました。2015年6月12日に生まれた初孫に6月17日に会って、その夕方は、神戸の三宮(三ノ宮)で、東京から関西に転勤になった人との飲み会があったので三宮に行くために近鉄奈良駅に、息子のお嫁さんのお父さんに車で送っていただきました。上の写真が近鉄奈良駅のホームで地下2階にありました。

改札は地下1階で、同じブロアーには沢山のお土産屋さんがありました。お土産を買いたかったけれども、飲み会があるので、身軽な方がいいと思いお土産は買いませんでした。後で写真を見て、買っとけばよかったかなと思ってしまいました。
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実は阪神の「なんば線」が完成したことで近鉄と阪神が2009年3月20日から相互乗り入れをして、奈良から三宮への直通運転が実現していたのでした。私は27年前の1988年11月3日に関西から関東に転勤で引っ越していて関西の情報は少なかったことから奈良から三宮に直通で行けることはこの日まで知らなかったので、早速に利用させてもらいました。乗ったのは16時17分発の快速急行・三宮行でした。


こちらが乗った快速急行です。もちろん最初から最後まで座って行けました。右上に9725と書かれていることから近鉄の9820系9725Fという車両と思われます。
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奈良からはJRを利用して行くことが出来ますが大阪駅で乗り換えとなります。新快速があるので時間的には11分ほど早いのですが、混雑する大阪で乗換がある上に、大阪からは座れないことも多いと思います。
さらに料金が近鉄+阪神を利用する方がJRより270円も安いのです。
ルート時間乗換料金距離
近鉄奈良阪神神戸三宮96分0回970円65.2km
JR奈良JR三ノ宮85分1回1240円79.1km
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途中の大阪環状線との乗換駅である鶴橋駅には16時56分に着きました。奈良から鶴橋までは39分で走るのでした。写真は電車の中から撮りました。


17時53分に阪神神戸三宮駅に着きました。
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乗ってきた電車は表示がすぐに奈良になっていました。


駅を降りて生田神社の境内を通って飲み会場所に向かいました。神戸は私が会社に入った時の、最初の勤務地なのです。関西からは組織ごと数百人が関東に転勤になったのでした。
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参考に電車のルート図を掲載します。ただし、時間によってルートが変わるのでいつも直通電車のルートが表示されているとは限りませ。