イオラニ宮殿(ʻIolani Palace) [ハワイ]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
結婚式が行われていたカワイアハオ教会を出た後はイオラニ宮殿を目指しました。すぐ近くにありながら、歩いている人に聞いてもいろんな方向を言われました。やっと数人目の人が指さした方向にイオラニ宮殿を確認出来ました。木々の中に建物が確認できたのです。
写真を撮っていなかったのでカワイアハオ教会の前の交差点からイオラニ宮殿方向をみたGoogleストリートビューを紹介します。正面の大きな木の幹の間にイオラニ宮殿の建物が僅かに見えました。確認が出来たので道路の横断歩道を渡ってイオラニ宮殿に向かいました。
イオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面方向(南西方向)の門です。この門はイオラニ宮殿から出る時に撮りました。敷地内に入ったのは南東方向の門です。
門に取り付けられていたハワイ王国の紋章を拡大いたしました。下に書かれている文字「UA MAU KE EA O KA AINA I kA PONO」はハワイ語でです。意味は「この地の生命は正義によって維持される / The life of the land is perpetuated in righteousness」だそうです。正確なハワイ語だと「Ua Mau ke Ea o ka ʻĀina i ka Pono」になるようです。ハワイ王国は無くなりましたがこの構図はハワイ州の紋章に使われているなどハワイ王国は今でもみんなの心の中に生きているのだと思います。
南東方向の門から入った景色です。イオラニ宮殿の側面が見えました。
イオラニ宮殿に近づきました。
イオラニ宮殿の中に入るためのチケットを買った建物です。日本語ガイドも頼みました。こちらの建物は昔の宮殿兵舎でイオラニ・バラックス(ʻIolani Barracks)と呼ばれています。
1870年に建てられ王制が崩壊した1893年まで約80人の警備兵がいたそうです。カワイアハオ教会と同じくサンゴの岩のブロックの外壁で出来ていて米国の重要文化財の一つです。右の写真はWikipediaから転用させていただいた当時のイオラニ・バラックスです。
こちらが冒頭の写真で紹介したイオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面です。ハワイ王国7代目カラカウア王の命で 1882年に建てられた宮殿です。王制が崩壊した1893年までの11年間に宮殿として使われました。王制廃止後は1969年まで行政府として使用されたそうです。現在の宮殿の維持・管理はハワイ王家を継承している財団の中の人が中心になったボランティア団体が行っているそうです。我々が来た時は半旗でした。
建物全体のイメージを感じていただくためにgoogleの3D航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。ストリートビューでも見ることが出来ます。
日本語ガイドが付いた宮殿内の見学ツアーは10人程度でした。宮殿の北東方向の階段を上がって2階の入口から入りました。入ってすぐの内部の写真です。
こちらは2階から3階に上がる階段です。豪華な造りでした。豪華な調度品も沢山並んでいました。
ハワイ王国は日本との関係が強かったことをうかがわせる調度品も沢山ありました。こちらは天皇家から贈られたと思われる菊のご紋が付いた壺です。この菊の紋章は八重菊を図案化した菊紋で十六八重表菊と呼ばれているそうです。日本から移民第1号の153名がハワイに渡ったのが1868年(明治元年)で、イオラニ宮殿を建てたカラカウア国王が世界一周旅行の最初の訪問国の日本に訪日し赤坂離宮で明治天皇と会談したのが1881年でした。その時にカラカウア国王から国王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と山階宮定麿親王との縁組を提案したそうですが、明治天皇が丁重に断った為に幻に終わったそうです。その提案の背景にはその時代のアメリカ帝国主義によるハワイ王国の危急存亡を感じていたと想像されています。
中央のホールの両側には沢山の部屋がありました。
床を傷つけないために入口でカバーを履きました。
豪華な部屋が並んでいました。
それらの部屋を紹介します。
こちらは食堂のようでした。
王家の紋章の入ったガラスの壺も置かれたてました。
東二を再現した食卓の上を紹介します。
さすが宮殿という感じでした。
3階には古いエレベーターで上がりました。3階のロビーです。こちらは下に降りる階段です。
シャンデリアが吊り下げられた部分がステンドクラスの天窓になっていました。
窓からの外の景色です。
驚いたことに料理や食器用のリフト(エレベーター)もありました。
部屋は見事な調度品でかがられていましたが、王政崩壊後に豪華な家具や調度品の多くは売られるなどして無くなったそうです。
現在はそれらを見つけ出して買い戻して宮殿内の元の場所に戻す地道な活動が続けられているそうです。
このような当時の写真を使って家具や調度品を探し続けているそうです。
お陰で当時の調度品を見ることが出来るのです。こちらのベッドカバーはカラカウア王のベッドにかけられたキルトだそうです。
宮殿の四隅の間にはコーナー側に小さな部屋が作られていました。
いろんなタイプの部屋がありました。ここは執務室でしょうか。当時の雰囲気を再現しているようです。
勲章も並べられていました。
当時の書類(または手紙)も並べられていました。
エジソンが電球を実用化したのは1879年ですが、それを採用したのです。イギリスの当時のバッキンガム宮殿にさえ無かった電気設備を備えていたそうです。
1877年に実用化された電話機も設置されていました。ハワイ王国には驚かされることが多くありました。
このような浴室も沢山の居間に設置されていました。当時としては先進的な設備に囲まれていたようです。
沢山の部屋を案内してもらい説明をしてもらいました。
当時、王宮で行われたフラダンスの写真も展示されていました。
当時のイオラニ宮殿の写真も掲載されていました。
こちらは王妃の寝室でしょうか。豪華なベッドが置かれていました。
カピオラニ王妃の写真でしょうか。
違う角度から紹介します。ベッドカバーはカピオラニ王妃のベッドに掛けられていた本物だそうです。
最も圧巻だった部屋を紹介します。一番手前のドレスが世界で最も豪華なドレスです。
すでに絶滅したオーオー(ʻOʻO)と呼ばれる黒色の鳥に僅かに生えている黄色い羽根で飾られたドレスです。これだけの羽根を集めるだけで何10年も必要だそうです。ハワイの王族だけが着ることが出来たドレスです。
ここに王や王妃が座ったのだと思います。椅子の左右には先端が鳥の羽根で飾られた棒であるカヒリ(kahili)が立てられています。
その椅子を拡大いたしました。
王冠なども飾られていました。
これは王政最後の頃にハワイ王国最後の君主であるリリウオカラニ女王が幽閉中に製作した有名なクレイジーキルトです。
これにも沢山の物語がありました。
クレイジーキルトの一部を拡大いたしました。イオラニ宮殿は1795年からの98年間続いたハワイ王朝の最期の舞台でもあったのだと実感させられました。
エレベーターで一階に降りると使用人たちの仕事場と思われるばしょがありました。このリフトで料理を上の階に運んだそうです。
この場所にかまどがあったのでしょうか。銅板で囲まれていました。
作業机だったのでしょう。
1階には宝石などの装飾品も展示されていました。最も豪華だったのがダイヤモンドで作られた蝶のブローチでした。
1階にはこのような部屋もありました。
1階の廊下です。いろんな写真が置かれていました。
Google地図の航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。小さな写真はカワイアハオ教会とカメハメハ大王像です。
イオラニ宮殿
カワイアハオ教会
カメハメハ大王像
アリイオラニ ハレ
追伸
2018年10月19日から関西に行きます。帰ってくるのは10月30日の予定です。その間にネットが使えるのは1日に30分程度のため、皆様のところへの訪問が出来ないことをお許しください。
素敵な時間に出会えました。 カワイアハオ教会 [ハワイ]
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ハワイ旅行3日目はワイキキビーチのレストランLu Lu’sで朝食を食べた後に路線バスを使ってワイキキの街の中にあるイオラニ宮殿を目指しました。イオラニ宮殿に近いバス停で降りたのですが歩き出す方向を間違えたために道に迷って、きれいな教会の前に出たので門の中にはいってみることにいたしました。教会の名前はカワイアハオ教会(Kawaiahao Church)でした。教会の名前にはハオ王女の聖なる水の池(Ka wai a Haʻo)という意味があるそうです。
横からのストリートビュー:https://goo.gl/maps/bBWnisJHGiM2
Google地図の航空写真で見るとカワイアハオ教会はイオラニ宮殿のすぐ傍でしたが、沢山の木があることイオラニ宮殿が判らなかったのです。カメハメハ大王像も近くにありました。このあとハワイ州立図書館の中にも入ってみました。ただし、図書館の中には沢山の人がおられたので写真は撮りませんでした。小さな写真はイオラニ宮殿とカメハメハ大王像です。
カワイアハオ教会
イオラニ宮殿
カメハメハ大王像
アリイオラニ ハレ
庭の中に入って撮ったカワイアハオ教会です。建物の前には白いリムジンが停まっていました。どうやら結婚式が行われているようでした。建物に近づいて中に入るかどうか躊躇していると、日本人のスタッフと思われる方が来られて、「今、結婚式のリハーサルが行われています。中に入って自由に見てください。」と言われたので中に入ってみることにいたしました。
こちらのカワイアハオ教会に関して調べてみると1842年に建てられた米国の重要文化財(1962年登録)のオアフ島最古の教会だそうです。外壁はすべて海面下3~6mからダイバーが掘りだしたサンゴの岩の厚板(約4kg/枚)×1万4千枚で出来ていて、ハワイ歴代君主の戴冠式や結婚式が行われた由緒ある教会でした。右の1857年の写真にも写っている塔の時計は1850年にカメハメハ三世から寄付されたボストンのHAWRD&DAVIS社製だそうです。右上の1857年の写真と今回の写真を見比べてみると塔の屋根の部分の形が変わっていました。現在は日本人が沢山結婚式を行う教会としても有名なようで、検索すると旅行会社の結婚式プランが沢山出てきます。さらに結婚式の写真も沢山掲載されていました。
リムジンを拡大いたしました。海外の教会で結婚式を間近で見たのは右の写真のジャカルタの教会以来です。ジャカルタの教会は1901年に完成したジャカルタ大聖堂(Jakarta Cathedral)でした。インドネシアはイスラム教が76.5%(1億7000万人超)の世界最大のイスラムの国ですがキリスト教と共存している上に結婚式では教会が使われることがあるようです。
教会の壁にA Centennial Memorial of HIRAM BINGHAMと書かれた石板が取り付けられていました。Hiram Bingham(1789年10月30日~1869年11月11日)に関する石板のようですが、その中に教会が完成した1842年7月21日(July 21,1842)が読み取れました。
外壁に使われている176年前のサンゴの岩の質感を感じてもらいたくて本写真を掲載いたしました。クリックすると拡大した縦長の写真を表示します。
中に入ると確かに結婚式のリハーサルが行われていました。
2017年のゼクシィの調査(全146ページの30ページ目)によると日本在住の日本人が海外挙式でハワイ選択はダントツ1位です。
そしてハワイ挙式の中で96.6%のカップルがオアフ島を選びました。
(オアフ島:96.6% ハワイ島:1.9% マウイ島:0.5%)
1位:ハワイ 67.1% Σ:67.1%2位:グアム 16.5% Σ:83.5%
3位:アジア 4.8% Σ:88.4%
4位:オーストラリア 4.5% Σ:92.9%
5位:ヨーロッパ 3.5% Σ:96.5%
6位:南太平洋・インド洋 1.3% Σ:97.7%
7位:アメリカ 1.0% Σ:98.7%
8位:ニュージーランド 0.6% Σ:99.4%
9位:サイパン 0.3% Σ:99.7%
日本在住の日本人の7年間の海外挙式率は平均で7%で最近は約9%です。7年間を見る限りは増加傾向にあるようです。7年間の全調査数は17,959カップルです。年間64万組が婚姻してその中の35万組が結婚式を挙げると仮定すると、その9%の3万組が海外で挙式することになります。ハワイはその67.1%なので年間2万組の日本人がハワイで結婚式を行っている計算になります。
自由に見ても良いとは言われましたが、さすがに中央の通路を通って近づきにくかったので、2階に上がって見させていただきました。祭壇の左右に立っているカヒリ(先端が鳥の羽根で飾られた棒)は王族のシンボルです。カヒリ(kahili)に用いられている羽のほとんどがオーオーという、現在では絶滅した固有種の鳥の羽から作られています。カヒリを完成させるには膨大な時間と技術と貴重な材料が必要であることから「王族のシンボル」とされてきました。この日に最後に訪れたビショップ博物館にはカヒリの部屋があり沢山の各時代の王のカヒリが保管・展示されていました。
黒い羽根の中に僅かな黄色い羽根を持つハワイ・オーオー(Hawaiʻi ʻOʻO)の日本名はムネフサミツスイ(胸房蜜吸)で、初代カメハメハ大王が着ていた黄色のケープ(ガウン)は全てこの羽根で作られたものです。他のカメハメハ王のケープは一部のみにか黄色羽根が使われないほど、その時代から貴重な鳥でした。鳥黐(とりもち)で捕獲して黄色の羽根を4枚のみ取って放したそうです。Hawaiʻi ʻOʻO以外にKauaʻi ʻOʻOとOʻahu ʻOʻOとBishop's ʻOʻOが生息していたようです。オーオー(ʻOʻO)以外の鳥の羽根を使う場合も飛翔に支障が出ないように数枚だけを取って放していたことから羽根から作られたケープやカヒリは貴重なものでした。
2階から拡大した写真です。我々が建物を出るころに人が増えてきたので結婚式の本番が近づいて来たのだと感じました。本記事を見ている方の中にもこちらの教会で結婚式を挙げた方もおられるのではないでしょうか。
庭の中の小さな建物ですが、LUNALILO KA MOI. 1874.と書かれていました。手前の説明板にはKING WILLIAM CHARLES LUNALIO と書かれていました。これらの記載からハワイ王国の第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロ(William Charles Lunalilo、1835年1月31日~1874年2月3日)の霊廟(墓)と思われます。ハワイ王国第5代国王カメハメハ5世が後継者を定めないまま1872年に亡くなったため、憲法に従い選挙によって選ばれるたのがルナリロ国王ですが、肺結核にかかり在位1年1ヶ月ほどでこの世を去ったそうです。彼の遺言によりカワイアハオ教会の墓地に母親と共に埋葬されたそうです。
担々麺も作ってもらえました。 [拉麺]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
担々ごま鍋を食べた翌日には、上の写真の担々麺(坦々麺)を作ってもらえました。そのために右の写真の菊水製のラーメン用の麺と、豚挽き肉100gをスーパーで買ってきました。いつものスーパーでは挽き肉は最低でも約250gの量になるために少量も売っている別のスーパーで買ってきました。
このエバラ「豆板醤のこく! 担々ごま鍋の素」が半分(150g)残っていたことで思いついたメニューでした。
半分で2人分の担々麺が作れました。つまり1瓶だと4人分です。
前日に食べた坦々ごま鍋の記事はこちらです。→ポチッ
担々麺にしたのは瓶に書かれた4種類の写真を見たためです。
残しておいて何日か後に、また鍋をする選択肢もありましたが、この写真をみて担々麺を作ってみたくなったようです。ポチッをクリックするとエバラのHPのレシピを表示します。
担々麺 → ポチッ
担々豚しゃぶサラダ → ポチッ
担々肉野菜炒め → ポチッ
担々春雨スープ → ポチッ
メーカーのレシピでは担々麺用のスープで豚ひき肉を茹でて麺の上に掛けるようになっていましたが、家内はフライパンで写真の左側の甜麺醤(テンメンジャン)で豚ひき肉を炒めて最後に炒めた肉みそをトッピングいたしました。炒めた理由の一つは挽き肉の脂分を落とすのも目的の一つだったようです。
右の辛い豆板醤(トウバンジャン)ではなく甘い甜麺醤(テンメンジャン)を使ったのは、前日に坦々ごま鍋を食べてスープ―がかなり辛いことが判っていたからです。上の瓶のラベルを見れば分かるように、スープの素の中には豆板醤(トウバンジャン)が入っていました。ちなみに前々記事のチヂミに使ったのはコチュジャン(고추장)でした。3種類の古くからのジャン(醤)は、主な材料が次の発酵食品ですが、現在市販されているものは、その味を出すためにいろんな材料が調合されて作られているものも多いようです。
テンメンジャン(甜麺醤) 中国 中華味噌 砂糖
トウバンジャン(豆板醤) 中国 ソラマメ 唐辛子
コチュジャン(고추장、苦椒醬) 韓国 もち米麹 唐辛子
下の大きな写真が出来上がった我家の担々麺です。
トッピングにチンゲン菜ではなくキャベツを使ったのはよく行くお気に入りのラーメン屋さんの「ごまだれタンタン麺」を意識したためです。そこのお店が右の写真のようにシャキシャキ感が残るキャベツを使っていたからです。そこでキャベツを湯通し程度に茹でてトッピングにしてもらいました。白髪ねぎもトッピングされていました。
キャベツの食感を紹介したくと拡大いたしました。お気に入りのラーメン店にも負けないキャベツの茹で加減でした。そのキャベツのお陰もあって美味しい坦々麺が出来上がったわけです。辛いスープで美味しかったので、ほぼ飲み干してしまいました。
肉みそなどの細かい具が入ったラーメンなどの麺類を食べるときに便利なのが、こちらの穴あきレンゲです。これのお陰で細かいトッピングもすばやく全て食べることが出来ます。この穴あきチリレンゲ(散蓮華)は2010年3月に北海道旅行に行った時に空港のラーメン店で出会いました。便利だったので帰ってから探していると偶然に金物市で手に入れることが出来ました。つまり8年間愛用しているわけです。現在の新千歳空港のラーメン道場に出店している店舗は10店舗ありますが8年前は5店舗で、その時のラーメン店で残っているのは「函館麺厨房あじさい」と「麺屋開高」の2店舗です。
現在の新千歳空港のラーメン道場の10店舗を紹介すると、弟子屈ラーメン、らーめん鷹の爪、らーめん空、札幌味噌拉麺専門店けやき、えびそば一幻、旭川ラーメン梅光軒、札幌ラーメン雪あかり、麺処白樺山荘、函館麺厨房あじさい、麺屋開高です。
白髪ねぎを作ったのはこちらの道具です。こちらはいつ買ったか覚えていないけれども20年以上前から使っています。切れ味は変わっていません。パール金属が作ったMADE IN JAPANで、今でも同じものが売られている銘品です。クリックすると刃の部分を拡大いたします。
下記は今までに掲載した担々麺に関する記事です。
単に担々麺と言っても下記の写真のようにいろんなタイプがあります。担々麺は中国・四川省で1841年ごろに天秤棒で売り歩いた汁なし麺がルーツと言われていて、下記の写真の中で四川省・成都の担々麺が近いと想像されます。
担担(擔擔)は成都方言で天秤棒の意味であることから担担麺の呼名のルーツも「天秤棒」あるいは「担ぐ(かつぐ)麺」にあるようです。下の写真と同時に比較出来るように今回の担々麺の写真も同じサイズで右に掲載いたしました。
タイトルをクリックすると記事を表示し、写真をクリックすると大きな写真を表示します。
2009年06月29日 日本 太麺と細麺のラーメン屋さん
2009年08月09日 中国 四川省・成都で一番の坦々麺は?(汁なし)
2009年11月28日 日本 最後の晩餐は中華料理でした。
2011月03月05日 中国 武漢の四川料理
2011年05月29日 日本 中華料理店のラーメン「ねぎ坦々麺」
2012年09月16日 中国 成都の高級四川料理店(汁なし)
2014年05月07日 中国 本格四川料理は庶民の味方 北京
2014年08月16日 日本 今回のゴルフ場でのランチ
2017月05月11日 日本 菊水の「まぜそば」シリーズ(汁なし)
タグ:担々麺
担々ごま鍋 [料理]
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最近まで暑かったけれども鍋が食べたくなるほど冷え込むことも増えてきました。そんな日に我家でも鍋をしていました。鍋の辛いスープの「坦々ごま鍋 / 担々ごま鍋」です。前記事で紹介したチヂミで豚バラ肉が半分余っていたので豚ばに肉を使う鍋にしたそうです。今年の夏以降の初めての鍋です。
最近は鍋用のスープが沢山売られています。特にストレートのスープが安く売られていて時々、利用させてもらっていますが、今回は水で割るタイプの写真のエバラ「豆板醤のこく! 担々ごま鍋の素」を使いました。瓶1本で4~5人の鍋のスープーになります。今回は2人なので丁度半分の量にいたしました。瓶に書かれていたレシピでは豆腐と白菜と豚ひき肉が入っていましたが代わりにキノコ3種にいたしました。
担々ごま鍋の素 150ml 半分
水 300ml
チンゲン菜 1束
長ネギ 1本
キノコ 3種
豚バラ肉 180g
これがスープの素(150ml)+水(300ml)です。大きな土鍋なので少ないように見えますが、具を2回に分けて入れると問題ありませんでした。野菜から水分が出て最後までたっぷりとスープがありました。
キノコはしめじと舞茸とエノキを用意いたしました。
こちらが野菜ですがたっぷりありました。
こちらが豚ばら肉、つまり三枚肉です。これと同じ肉をチヂミに使ったわけです。
半分の具を土鍋に入れたところです。三枚肉とキノコを先に入れて少し煮えたところで野菜を入れた瞬間の写真です。
今回は千葉県佐倉市の地酒「特別本醸造 旭鶴 冷酒」にいたしました。佐倉市にある国立歴史民俗博物館で企画展示「ニッポンおみやげ博物誌」の招待券を頂いたので、見に行った時のお土産として今回の日本酒を買ったのです。右の写真がいただいた招待券です。
蔵元 旭鶴
住所 千葉県佐倉市馬渡918
電話 043-498-0002
創業 天保元年(1830年)
ピリッとした辛みが付いて美味しくいただきました。味が十分についているのでスープを器に入れる必要がありませんでしたが、写真のことを考えると少し入れればよかったと反省しております。
冷酒も進みました。
冷酒の次はビールにいたしました。辛い鍋にビールも進みました。冷酒はもう少し楽しむために、少し残しております。
タグ:鍋
市販の粉でチヂミを作ってみました。 [料理]
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我家ではお好み焼きは作りますが、本格的なチヂミはほとんど作ったことがなかったので市販のチヂミの粉を買ってきて作ってみることにいたしました。
使ったチヂミの粉はこちらのオーマイ(日本製粉)の製品でした。
小麦粉で竹の子チヂミを作ったことはありました。その時は市販のチヂミのタレを買ってきました。今回、市販のチヂミの粉を使ったのは本格的なチヂミを作ってみたかったからです。焼時間を含めて詳しく作り方が書かれているのです。食べてみて分かったことですがチヂミのタレの味が大切なことが判りました。そのタレの作り方も書かれていたのです。クリックするとチヂミの基本の作り方のところをすべて(①~⑤)を表示します。
下記の材料を混ぜ込みました。最初に水と粉を混ぜてダマが無くなったところで具を入れることをお薦めします。これで2人前です。
チヂミの粉 1袋(200g)
卵 1個
水 250ml
にら 1束(100g) 長さ3cmに切る 万能ネギもお薦め
玉ねぎ 1/4個(50g) 薄切りにする
豚バラ肉 100g 長さ2cmに切る イカやエビなどにすると海鮮チヂミ
チヂミのタレに使った材料です。幸いにも全て家にあるものばかりでした。出来上がったタレは2人用にしては多め(1.5倍)でしたが、これより少ないと正確な量にならないので初めての場合は、記載通りで作ることをお薦めします。
醤油 大さじ2
酢 大さじ2
酒 大さじ2
ごま油 小さじ1
コチュジャン 小さじ1.5 好みの量で!
白ごま 小さじ1 好みの量で!
これが出来上がったタレです。
ホットプレートを強(250℃)にセットした熱くなったところで2枚を同時に焼きました。
焼く時の厚みと時間が大切です。お玉で1cmの厚みに広げます。そのまま3分間焼きます。
3分焼いたところで裏返して、時々フライ返しで軽く押しながら2分焼きます。ただし豚ばら肉を入れているので念のため1分余分に焼きました。焼きあがったところで1枚に対して香りづけのために、こま油小さじ1杯をチヂミの周囲の鉄板に流し入れてチヂミを動かして両面にごま油がつくようにします。写真は最初に裏返したところです。
焼きあがる前からビールを飲みながら焼きあがるのを待ちました。
これが焼きあがったところです。裏返してから3分焼いたので焼き色は濃い目ですが両面ともにパリッと焼けました。先ずは1枚を半分に切って2人で食べました。残った1枚はホットプレーを保温にセットして1枚目を食べ終わってから食べたので2枚目も熱々でした。
出来上がったチヂミの断面です。
このタレが本格的なチヂミの味にしてくれていました。豚ばら肉のチヂミは美味しかったです。この次は海鮮チヂミに挑戦してみたいと思います。
上の写真もクリックすると拡大しますが、クリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。本写真をクリックするとさらに特別に大きく拡大するので食感と味わいを感じてもらえると嬉しいです。
もちろんビールが進む味でした。
奈良の興福寺 阿修羅像に出会えました。 [奈良]
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2018年9月10日に2人目の孫娘が生まれたので、2018年9月14日に奈良の近くの病院に孫娘の顔を見に行きました。少し早めに着いたので駅の近くの興福寺に行ってみることにいたしました。その時に撮った写真を紹介いたします。
右が興福寺の配置図です。
実際に歩いた通りに①東金堂、②五重塔、③中金堂(再建工事中)、④南大門跡、⑤不動堂、⑥南円堂、⑦一言観音堂、⑧三重塔、⑨国宝館の順番に紹介したいと思います。上の写真は東金堂の前から五重塔の方向を撮った写真です。興福寺(こうふくじ)は奈良市登大路町にある法相宗の大本山の約1300年の歴史のある寺院です。さらに、ユネスコ世界遺産「古都奈良の文化財」にも含まれています。
①大きな建物が国宝の東金堂です。奥に見えている五重塔も国宝です。
興福寺の起源は天智天皇8年(669年)に山背国山階(現:京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)です。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に藤原京に移り厩坂寺(うまやさかでら)となり、さらに和銅3年(710年)の平城遷都に際し現在地に移転して興福寺と名付けられたことから、この710年が実質的な興福寺の創建年といえるそうです。
正面から見た東金堂です。東金堂は聖武天皇の発案で神亀3年(726年)に造営されました。5度の焼失に会いその都度再建されたそうです。現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものです。
東金堂の拝観券(300円)です。左が表で右が裏です。
拝観券の注意事項には「文化財の写真撮影、スケッチならびに万年筆、サインペン等の使用はお断りします。」と書かれていました。注意事項は国宝館でも同じです。鉛筆でのメモはOKのようなので、インクなどで仏像などの文化財が汚れることを恐れているのだと思います。
東金堂の賽銭箱が置かれた正面です。ここはすでに有料エリアです。賽銭箱の前の白い布がかぶった台に注目してみてください。
不思議なことに賽銭箱の奥側に氷が置かれていました。気になって調べてみると9月14日の9時から下記のスケジュールで氷室神社・神職の先導により、純氷が運ばれ、東金堂にて神仏習合の法要(純氷式)が執り行われたそうです。これは、かき氷のイベント「ひむろしらゆき祭」の中の一つだそうです。
純氷式 2018年9月14日(金)
9:00~ 氷室神社出立
9:30~ 興福寺東金堂にて献氷
東金堂の中には21躯(く)の仏像が置かれたおり、その内の18躯(く)は国宝で、3躯(く)は重要文化財です。躯(く)は仏像の数を言う時の1つの呼び方です。その1躯(く)以外に1体、1頭(かしら)、1座(ざ)、1尊も使われます。両資料共にパンフレットから転用させてもらいました。仏像が載った方はクリックすると特別に大きく拡大いたします。
中央の金色の大きな仏像が本尊の薬師如来坐像です。両脇の立像が月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)です。東金堂の中は写真撮影が禁止されているのでネットの写真やパンフレットの写真を転用させていただきました。クリックするとWikipediaに掲載されている別角度の写真のオリジナルを表示します。
本尊の薬師如来坐像です。拝観券販売所でもらった説明パンフレットに載っていた写真です。
月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)も紹介します。
②現在の五重塔は室町時代中期・応永33年(1426年)に再建されたもので、本瓦葺の三間五重塔婆です。初代の五重塔は天平2年(730年)に創建されました。高さ50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔(54.8m)に次いで2番目の高さだそうです。
③再建工事中の中金堂です。落慶法要が2018年10月7~11日に営なまれることから現在は足場は取り払われていると思われます。写真は工事中の最後の姿だと思います。中金堂は興福寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されています。
のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれていました。創建以来何度も焼失と再建を繰り返しましたが江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)に仮堂が再建された状態が今日まで約200年続き、元の中金堂の姿で再建するために傷みの激しい仮堂を2000年に解体して2010年に着工して現在に至っているそうです。右の小さな2枚の写真はネットから転用させていただいた199年前の文政2年(1819年)に建てられた仮堂です。
再建される中金堂は創建当時と同じ東西36.6m(9間)、南北23m(6間)、高さ21.2mの建物だそうです。
真横から撮った中金堂です。9月14日時点では中金堂歓進所などがありました。再建される中金堂は古式のままの木造建築だそうです。今回の落慶法要は中金堂だけですが、将来は中門や回廊も再建して昔の姿にしたいと考えられているようです。中金堂は下記リストのように過去7回も焼失と再建を繰り返してきたそうです。つまり初代336年、2代12年、3代29年、4代77年、5代83年、6代27年、7代318年、8代181年と短い期間で焼失してしまったこともありました。明治5年12月3日(1873年1月1日)以前は西暦と和暦の月日は違います。つまり永承元年12月24日を計算すると1047年1月22日になります。
創建 和銅3年( 710) 被災 永承元年(1046)12月24日 336年
再建 永承3年(1048)03月02日 被災 康平3年(1060)05月04日 12年
再建 治暦3年(1067)02月25日 被災 嘉保3年(1096)09月25日 29年
再建 康和5年(1103)07月25日 被災 治承4年(1180)12月28日 77年
再建 建久5年(1194)09月22日 被災 建治3年(1277)07月26日 83年
再建 正安2年(1300)12月05日 被災 嘉暦2年(1327)05月04日 27年
再建 応永6年(1399)03月11日 被災 享保2年(1717)01月04日 318年
仮再建 文政2年(1819)09月22日 解体 平成12年(2000)07月31日 181年
再建 平成30年(2018)10月07日
本図は 応永6年3月11日(1399年4月17日)の再建時の梁行断面図と平面図です。このような図面が残っていたからこそ忠実に再建出来たようです。
④中金堂の正面には南大門跡がありました。南大門は奈良時代に創建されましたが11~18世紀に7度の火災に遭い享保2年(1717年)に焼けてからは再建されていないそうです。発掘調査により東西5間(23.4m)、南北2間(9m)の規模だったことが分かったそうです。
南大門跡を少し離れて撮りました。五重塔も写っています。
⑤南大門跡の脇にある不動堂と呼ばれる小さな建物がありました。東を向く南円堂と向かい合う形で西向きに建っている小さなお堂でした。お堂は不動明王をお祀りしているようでした。
不動堂の中を撮らせていただきました。堂内で火を焚きあげながら行われる護摩法要が頻繁に実施されていて、お堂の中は不動明王像も含め黒いススで覆われていました。
⑥こちらは南円堂です。現存する南円堂は江戸時代の寛保元年(1741年)に再建された建物です。正面に拝所が付属した八角円堂です。1986年12月20日 に重要文化財に指定されたそうです。南円堂正面の銅製の高さ236cmの燈籠は南円堂創建時(813年)の唯一の伝来品で弘仁7年(813年)に造られたことが火袋扉に書かれた銘文から判るそうです。本物は最後に紹介する国宝館に置かれていると書かれていたので、これはレプリカのようです。本物は頂上の宝珠が無くなっているそうです。現存する日本の金属燈籠としては東大寺大仏で前の八角燈籠(推定752年)の次に古いものだそうです。
遠くから見た南円堂です。左側が南大門跡で右側の方向に再建工事中の中金堂が建っています。
南円堂の傍にある鐘楼です。朝の6時と正午と夕方の18時を知らせる鐘のため、一般の人は撞くことができないそうです。
⑦南円堂の脇にある一言観音堂です。「一言だけ」願いを聞き入れてくれるということでこの名が付いたようです。
入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。井戸と思われる部分に南円堂と彫られているので南円堂のための手水舎と思われます。
南円堂の南西方向に三重塔があるはずなのですが見当たりませんでした。実は地面の低い位置に立っていたのです。
この石段を下りて右に曲がると三重塔がありました。
⑧これが興福寺の三重塔です。興福寺三重塔は康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建されました。現存する興福寺三重塔は鎌倉時代前期に再建されたものだそうです。記録は残っていないそうですが時期的に治承4年(1180年)の大火により焼失して再建されたと考えられています。
三重塔が建っている辺りにはお地蔵さんが沢山並べられているエリアがありました。延命地藏尊です。
三重塔辺りから見上げると南円堂が見えました。
興福寺の住所等を紹介します。
住所 奈良県奈良市登大路町48番地
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
開基 藤原不比等
創建 天智天皇8年(669年) 京都・山科
移転 天武天皇元年(672年) 藤原京(飛鳥)
移転 和銅3年 (710年) 現在地に実質創建
札所 西国三十三所9番(南円堂)
南都七大寺2番
西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番
大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
⑨最後に国宝館に行きました。国宝館は文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で1959年に食堂(じきどう)及び細殿(ほそどの)の跡地に建てられたそうです。鉄筋コンクリート構造ですが、外観は創建時の食堂を模したものになっているそうです。建物の地下には奈良時代以降の食堂の遺構がそのままの形で保存されているそうです。正面35.3m、奥行き31.8mの建物です。なお、興福寺に関する本や土産が売られている売店は国宝館の中の無料エリアにあります。
こちらが拝観券(700円)です。実は東金堂との共通券(900円)がありましたが、東金堂の拝観券を買うときに気が付かなかったために個別に買うことになりました。国宝館の拝観券販売所では変更出来ないので、東金堂の拝観券販売所に戻って買いなおしてほしいと言われましたが、面倒なので個別券を購入いたしました。そのために一人100円高くなりました。拝観券に印刷されている仏像は教科書にもよく出てくる阿修羅像です。
館内は写真撮影が禁止なだけではなくスケッチも許されないほど厳格でした。そのため雰囲気を紹介したくてネットの写真を転用されていただき紹介いたします。国宝館には有名で貴重な仏像が沢山展示されていて圧巻でした。中央には食堂の本尊であった高さ5.2mの千手観音立像が安置されています。主な国宝を紹介します。
阿修羅像 (旧西金堂) ※1
木造千手観音立像 (旧食堂)
乾漆八部衆立像 8躯 (旧西金堂) ※1
乾漆十大弟子立像 6躯 (旧西金堂)
木造金剛力士立像 2躯 (旧西金堂)
板彫十二神将像 (旧東金堂)
銅造仏頭 (旧東金堂)
木造天燈鬼立像 / 木造龍燈鬼立像 (旧西金堂)
※1:阿修羅像は乾漆八部衆立像 8躯(8体)の中の1躯(1体)です。
こちらが阿修羅像です。阿修羅像のすばらしさは、その表情に隠されていると言われています。阿修羅は帝釈天と戦った戦闘神ですが、元々は帝釈天と阿修羅は仲間でした。阿修羅の娘を帝釈天が力ずくで奪ったことから戦いが始まったそうです。何度も戦を挑んだことから、ついには仏世界から修羅道に追放されしまったそうです。そんな中でお釈迦様の説法を聞く機会があり、再び正義の神に戻ったそうです。像は三面六臂(さんめんろっぴ)と呼ばれる形式です。三面六臂は3つの顔と6つの腕をもつ意から一般的に1人で何人分かの働きをすることを表しています。作者を検索すると百済から渡来した仏師・将軍万福との記述が多く出てきます。興福寺のホームページによれば正倉院文書である西金堂造営記録「造仏所作物帳」に八部衆像や十大弟子像の作者が将軍万福(仏師)と秦牛養(画師)と書かれていました。仏師の将軍万福は百済からの渡来人で姓が「将軍」で名が「万福」です。画師の秦牛養は百済からの渡来人で姓が「秦」で名が「牛養」です。2011年4月25日の朝鮮新報によると天平6年5月1日(734年)に将軍万福が造像し、秦牛養が彩色したことも造仏所作物帳に書かれていたそうです。十大弟子像も八部衆像(阿修羅像含む)と同じ乾漆造です。
阿修羅像が含まれる乾漆八部衆立像を紹介します。八部衆像は廃絶した西金堂に本尊釈迦三尊像を中心に梵天・帝釈天像、十大弟子像などと共に安置されていたそうです。現在は国宝館に展示されています。八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、いずれも1体が15 kg程度で度々の火災での焼失を免れた要因としてこの軽さが挙げられています。興福寺の八部衆が、五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅なのに対して、法華経や金光明最勝王経では、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆となっていて緑色の最初の3つが違います。左上から順番に次の通りで、いずれも奈良時代の制作です。数値は像の高さです。
五部浄(ごぶじょう) 50.0cm
沙羯羅(さから) 154.5cm
鳩槃荼(くばんだ) 150.5cm
乾闥婆(けんだつば) 148.0cm
阿修羅(あしゅら) 153.4cm
迦楼羅(かるら) 149.0cm
緊那羅(きんなら) 152.4cm
畢婆迦羅(ひばから) 155.4cm
将軍万福と秦牛養が造ったとされている十大弟子像も紹介します。名前の通り元は 10躯(10体)あったと思われますが、興福寺に現在あるのは下の写真の 6躯(6体)の十大弟子像です。経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるそうですが維摩経弟子品では次の通りで記載の順番は出家順です。興福寺での仏像の呼名を右側に書いています。丸の数字は写真の左からの順を表しています。十大弟子は釈迦の弟子達の中で主要な10人の弟子のため十大弟子はインド人ではありますが興福寺の十大弟子像は日本人の顔立ちです。
釈迦の十大弟子(維摩経弟子品) 興福寺の十大弟子像(写真)
舎利弗(しゃりほつ) ① 舎利弗像(しゃしほつぞう)
摩訶目犍連(まかもっけんれん) ② 目犍連(もくけんれんぞう)
摩訶迦葉(まかかしょう)
須菩提(しゅぼだい) ③ 須菩提(すぼだいぞう)
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) ④ 富楼那像(ふるなぞう)
摩訶迦旃延(まかかせんねん) ⑤ 迦旃延像(かせんえんぞう)
阿那律(あなりつ)
優波離(うぱり)
羅睺羅(らごら) ⑥ 羅睺羅像(らごらぞう)
阿難陀(あなんだ) 木骨のみ(東京芸術大学)
動画も公開されていたので紹介します。雰囲気がよく分かると思います。紹介されている仏像の何倍も展示されていました。
Google地図でも紹介します。紫色ライン(━━━)で囲ったエリアが興福寺の敷地です。エリアの外側を南側と東側と北側と4分の3周を廻ってみて広さを実感いたしました。航空写真上のアイコンをクリックすると広範囲表示になるので興福寺の全体エリアや近鉄奈良駅の場所が分かると思います。計3回クリックするとJR奈良駅との位置関係も判ると思います。航空写真の中に北円堂がありますが北円堂に関わる歴史ファンタジー小説をomachiさんから紹介していただきました。タイトルは「北円堂の秘密」で、その1からその18まで続く大作で、作者は大町阿礼さんです。
本記事で紹介
今回未紹介
久々に奈良の鹿を見てきました。 [奈良]
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久々に奈良に行って鹿に会ってきました。可愛い鹿たちの写真を紹介します。台風21号による2018年9月4日の関空の高潮被害のために、まだ鉄道も開通していない9月14日に行ったので外国の観光客は激減とのことでしたが、それでも鹿が沢山いるところでは観光客の大半を外国人が占めている感じでした。
数は少ないけれども発信機(GPS)のついた首輪をした鹿も歩いていました。調べてみると2017年に雌3頭に取り付けて行動を調べて交通事故防止策の検討に使い始めたそうです。沢山の中の3頭の貴重な鹿さんでした。
現在、ニホンジカ(Cervus nippon)は日本だけでなく、中国、ロシア、台湾、ベトナムなどに生息(絶滅あるいは絶滅が疑われる地域あり)していて、沢山の亜種があります。それらの亜種の学名にはnipponの名前が入っています。日本国内にはエゾシカ、ホンシュウジカ、キュウシュウジカ、マゲシカ、ヤクシカ、ケラマジカ、ツシマジカの7つの地域亜種があり、奈良のシカはホンシュウジカになります。英名(Sika deer / Sika)には日本での呼び方のシカ(Sika)の名前が入っています。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 哺乳綱 Mammalia
目 偶蹄目/鯨偶蹄目 Artiodactyla/Cetartiodactyla
科 シカ科 Cervidae
属 シカ属 Cervus
種 ニホンジカ Cervus nippon (英名:Sika deer / Sika)
亜種 ホンシュウジカ Cervus nippon centralis
鹿せんべい(150円)を買う人は多かったです。買うと沢山の鹿が寄ってきていました。日本に住むニホンジカは体温保持の観点から北の方ほど体が大きいと言われています。特に南西の島(馬毛島、屋久島、慶良間諸島など)は小さく、エゾジカの140kgに対して、マゲジカとヤクシカが40kgで、ケラマジカは30kgだそうです。日本に生息しているニホンジカの7種の亜種のリストです。体重は個体差があるので、記載している体重の数値は単なる参考です。
エゾシカ(蝦夷鹿) Cervus nippon yesoensis 140kg
ホンシュウジカ(本州鹿) Cervus nippon centralis 80kg 奈良の鹿
キュウシュウジカ(九州鹿) Cervus nippon nippon 70kg
マゲシカ(馬毛鹿) Cervus nippon mageshimae 40kg
ヤクシカ(屋久鹿) Cervus nippon yakushimae 40kg
ケラマジカ(慶良間鹿) Cervus nippon keramae 30kg
ツシマジカ(対馬鹿) Cervus nippon pulchellus 40kg
全ての鹿が鹿煎餅をもらいに集まってくるのかと思いきや、のんびりと休んでいる鹿も多かったです。町の中に住んでいますが野生のシカです。
古く(1551年)は行き過ぎた保護で10歳の女の子でも鹿を死なせてしまうと死刑(家族は追放)になるほどの奈良と鹿は長い歴史の関りがあり、1957年9月からは国の天然記念物にもなっているそうです。
2015年~2018年の奈良公園域内のシカの生息数は次の通りです。2018年は奈良の鹿愛護会の人達が7月15日・16日の2日間かけて調査した数です。
2015年 2016年 2017年 2018年
子鹿 199頭 229頭 234頭 238頭
メス 788頭 715頭 731頭 767頭
オス 204頭 236頭 261頭 355頭
総数 1,191頭 1,180頭 1,226頭 1,360頭
興福寺の東金堂と五重塔の前にも鹿が集まっていました。今回紹介の鹿の写真は全て興福寺周辺で撮ったものです。沢山の鹿たちがいるのに地面はきれいで、歩いていて鹿の糞を踏むことはありませんでした。偶然ですが、2018年10月3日にYahooニュースに「奈良公園が美しいのは糞虫のおかげ?」というタイトルの記事が書かれていました。奈良公園では鹿たちが毎日1トンの糞していますが、それをきれいにしているのが糞虫だそうです。国内には約160種の糞虫(食糞性コガネムシ)がいますが、奈良公園には同地域で最も多い約60種が確認されていて「糞虫の聖地」と呼ばれているそうです。その糞虫を紹介する「ならまち糞虫館」が2018年7月8日にオープンしたそうです。ユニークな昆虫として有名なフンコロガシは糞虫の中の一派ですが奈良公園には転がすタイプ(フンコロガシ)の糞虫はいないそうです。さらに驚いたことに日本ではコガネムシの種類のうち3分の1は糞虫(食糞性コガネムシ 約160種)だそうです。
名前 ならまち糞虫館
住所 奈良市南城戸町28-13 Google地図
開館 13:00~18:00
定休 月曜~金曜 (土日のみ開館)
料金 大人:300円 子供:100円
左の女性が友達と思われる女性と鹿の写真を撮っているところです。この写真は上の写真の一部を切り取ったものです。
鹿煎餅の販売所の周辺には沢山の鹿が集まっており、外国人の観光客の笑顔で溢れていました。
346年前となる江戸初期の寛文年間に危険防止のために始まった、勢子たちが荒々しいシカをつかまえ、神官によって角を切る古式に乗っ取った鹿の角きりは2018年10月6日~8日に春日大社の鹿苑・角きり場で行われるそうです。
きっと海外のSNSでも奈良の鹿の写真が溢れているのだと思います。
これは駅前の観光案内所でもらったウォーキングマップです。左右の上の両端が破れているんが分かってもらえると思います。二つ折りにしたウォーキングマップを見ている時に、鹿が近づいてきて食べてしまったのです。一瞬の出来事でした。でも、いい記念のウォーキングマップになりました。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
マスコットキャラクターは「しかまろくん」です。注意書きには「鹿せんべいは、鹿たちにとって安全なおやつです。お菓子や野菜や紙などを食べるとお腹をこわします。」と書かれていました。紙を食べるとお腹を壊すことがあるようなので、紙は食べさせないようにしましょう。
それから、鹿煎餅を見せて、あげるのをじらすと鹿が怒ることもあるようなので、食べに来たらじらさないであげるようにしてほしいと思います。知らない人は多いようで、意図的ではないけれども、結果的に鹿煎餅をあげるのをじらしている形になっている光景は、結構見かけましたが、じらされても怒ったりして危険なことをする鹿は見かけませんでした。基本的にはみんなおとなしいいい子のようです。
日本の世界遺産 古都奈良 [奈良]
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この記事は以前に掲載したものですが、今回、龍門石窟の記事を掲載した機会に再投稿いたしました。再投稿の理由は龍門石窟の廬舎那大仏像を参考に奈良の大仏が作られたからです。さらに2018年10月1日に奈良の鹿の記事を書いたので、再々投稿いたしました。
世界遺産の奈良には見所が沢山ありながら実際に行ったのは京都と同様に小学校の遠足くらいです。今回、外国人の案内で京都と奈良を訪れる機会を得ました。そして奈良では東大寺を訪れるました。
行ってみてあらためて日本にこんなにすばらしいところがあることを感じてしまいました。中門の後に金堂(大仏殿)が見える写真です。
大仏が安置された金堂(大仏殿)です。正面から見ました。現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。 大仏と共に、この大きな木造の建物は大きさと歴史の深さから近くで見る価値をあらためて認識させられました。
大仏殿は斜め横から見るのもすばらしいです。大仏および大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失している。宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存のものだそうです。
有名な「奈良の大仏」です。正式には東大寺盧舎那仏像 (とうだいじるしゃなぶつぞう)です。最初の大仏は聖武天皇が743年(天平15年)に発して9年の歳月を費やして752年(天平勝宝4年)4月9日に完成したそうです。2度の焼失にあい元禄4年(1691年)に再建された大仏が現存のものです。
東大寺盧舎那仏像は実は右の写真の中国の龍門石窟の高さ17.14mの廬舎那大仏像(石像)を参考に作られたそうです。当時の遣唐使の人達が模写して帰ったそうです。初代大仏は龍門石窟の大仏と高さは近かったです。
風貌はあまり似ていませんが雲崗石窟の大仏に比べると圧倒的に龍門石窟の大仏に似ています。
右の写真は大仏を正面から撮りました。下の写真も国宝です。名前は八角燈籠で4面に舞う音声菩薩像(おんじょうぼさつぞう)は昔の200円切手のデザインにもなりました。切手は1966年シリーズ と1972年シリーズ の2種類が出ています。この八角燈籠は大寺創建当初の物だそうです。
広い庭を囲む回廊も必見です。
南大門の前には沢山の鹿がいます。真中に立っている人は"お手上げ"です。もう餌はないとのアピールですね。南大門の左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置されていることが有名です。大きさは幅29m、高さ25.46mで、知恩院の三門(幅50m、高さ24m)と並んで日本最大級という言い方をされています。
奈良と言えば鹿ですね。沢山の鹿たちが寄ってきます。
近くの土塀も趣きがあります。
熱中症搬送者数 2018年7月と8月と9月 [話題]
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2018年10月03日追記 タイトル:9月のグラフを更新
総務省消防局から2018年9月24日~9月30日の1週間の熱中症搬送者数が公表されたのに伴い9月のグラフを完結版にいたしました。今年の7月と8月のは熱中症に関しては最悪の状態でしたがやっと正常な状態に戻った感じです。搬送者数の更新は1週間ごとです。
比較のために6月のグラフを追加いたします。最高気温は東京と豊田市だけではありますが、30℃を下回っても油断できないようです。
2018年4月30日からのグラフです。すでに下の方で記載していますが、上の2枚のグラフとセットで見ていただきたいのでこちらにも掲載いたしました。
東京において夏に向かう中で最後に最高気温が20℃(25℃)を下回ったのは6月16日(6月23日)で、夏が終わって最初に最高気温が20℃(25℃)を下回ったのは9月21日(9月2日)でした。
2018年8月10日追記 9月04日更新 タイトル:8月も終わりました。
総務省消防局から2018年8月27日~9月02日の1週間の熱中症搬送者数が公表されたのに伴いグラフを更新いたしました。これで8月のグラフは完結いたしました。最近は気温も落ち着いていましたが、安心は禁物です。これからも多くの場所で危険レベルや厳重警戒レベルがでるものと思われます。
右のマークをクリックすると詳しい説明(危険、厳重警戒、警戒、注意)を表示します。
7月1日~7月31日の搬送者総数は52,819人(4月30日~9月16日の総数は93,834人)となり、8月は29,795人に達し、死者も18人(4月30日~9月30日の総数は158人)が出てしまいました。
下は2010年からの6~9月の各月の熱中症搬送者数と死者数のグラフです。本グラフの大きなグラフは記事の最後に掲載しています。総務省消防庁で集計を開始した2008年の以降で2018年は最悪の数値になっています。今までに掲載した下のグラフも更新させていただきました。
高齢者の熱中症での搬送者数が約50%を占めていることが連日報道されています。下記のようなグラフだけであれば、子供(7~17歳)の搬送者数は少ないように思われがちですが、実は子供の人口自体が少ないので、人数あたりで比較すべきだと思います。
年齢別人口(2013年10月1日)
高齢者 65歳以上 3190万人 25.1%
成人 18~64歳 7543万人 59.3%
子供 7~17歳 1259万人 9.9%
幼児 6歳以下 738万人 5.8%
判りやすくするために人口当たりの搬送者数のグラフを作りました。このことから7~17歳の子供も高齢者と同じくらい気を付けんければならないように感じます。7月後半から8月は他の年齢層よりは下がっているのが夏休みに関係しているとするならば、就学時の7月の学校での対策が重要なのかもしれません。
上のグラフの6月24日以前は判りにくいので「全年齢の人口当たりの搬送者数」に対する「各年齢の人口当たりの搬送者数」のグラフを作りました。そうすると子供(7~17歳)は前半ほど比率が大きいことが判りました。平均の2.5倍になったこともありました。
熱中症予防において子供(7~17歳)に対する対策が重要なことを視覚的に伝えたいので人口当たりの搬送者数で重みのグラフを作ってみました。高齢者よりも子供の方が人口当たりの搬送者数が大きくなる週も沢山あることが判ってもらえると思います。体力的に弱い6歳以下の数値が小さいのは親を中心に大人がしっかりと守っているためだと思われます。
2018年8月1日更新 タイトル:グラフ更新
総務省消防局から2018年7月23日~29日の1週間の熱中症搬送者数が公表されましたので掲載していたグラフの一部を更新いたしました。7月1日~7月29日の搬送者総数は49,931人(4月30日から9月30日の総数は95,073人)となり、悲しいことですが死者数も119人(4月30日から9月9日の総数は158人)となりました。総務省発表の記事を枠内に紹介します。
熱中症搬送 3カ月で、昨年の5カ月分上回る 総務省発表毎日新聞 2018年7月31日 18時59分総務省消防庁は31日、熱中症の症状で4月30日から7月29日に救急搬送された人数が全国で5万7534人になり、昨シーズン(5月1日から9月30日)の5万2984人を既に上回ったと発表した。死者は125人だった。
2008年の集計開始以降、1シーズンの搬送数が最多だったのは13年(6月1日から9月30)の5万8729人で、今シーズンはこれを大きく上回りました。 7月23~29日の1週間に救急搬送されたのは1万3721人、死者は39人。搬送者が最多の2万2647人だった16~22日と合わせて、同月中旬以降の搬送が急増している。・・・・・・・・【浜中慎哉】
2018年7月25日掲載 タイトル:熱中症搬送者数 2018年7月
連日暑い日が続いています。5年ぶりに国内最高気温を記録した埼玉県熊谷の41.1℃(2018年7月23日)など、テレビでも異常に高い気温や熱中症搬送数が話題になっています。熱中症のために沢山の方が亡くなっており、心よりお悔やみ申し上げます。上は総務省消防局から公表されている1週間ごとの熱中症搬送者数をグラフにしたものです。
総務省消防庁から7月24日午前に「熱中症の症状で7月16~22日の1週間に救急搬送された人数が全国で22,647人にのぼり、1週間分の集計を始めた2008年以降では最多となり、このうち65人が死亡し、1週間の死亡者数も2008年以降で最多となった。」との発表の記事が載っていました。
グラフから2017年に比べると、ここ2週間が異常であることが判ります。そして7月23日にピークに達して歴代最高記録も更新するに至りました。歴代最高気温ランキングは次の通りです。10位までに2018年7月が3つ入っています。各場所の観測史上1位の値を使ってランキングを作成したものです。ちなみに最低気温の1位は北海度旭川で1902年1月25日に記録した-41.0℃です。
順位 場所 観測日 最高気温
1 埼玉県熊谷 2018年7月23日 41.1℃
2 岐阜県美濃 2018年8月08日 41.0℃
2 岐阜県金山 2018年8月06日 41.0℃
2 高知県江川崎 2013年8月12日 41.0℃
5 岐阜県多治見 2007年8月16日 40.9℃
6 新潟県中条 2018年8月23日 40.8℃
6 東京都青梅 2018年7月23日 40.8℃
6 山形県山形 1933年7月25日 40.8℃
9 山梨県甲府 2013年8月10日 40.7℃
10 和歌山県かつらぎ 1994年8月08日 40.6℃
10 静岡県天竜 1994年8月04日 40.6℃
12 山梨県勝沼 2013年8月10日 40.5℃
13 新潟県三条 2018年8月23日 40.4℃
13 埼玉県越谷 2007年8月16日 40.4℃
1日ごとのグラフも掲載いたします。東京の最高気温と愛知県豊田市の最高気温もプロットいたしました。7月14日頃から異常な状態が始まりました。小学校の判断ミスで愛知県豊田市の小学1年生(6歳)が亡くなったのが7月17日でした。豊田市の最高気温は7月14日から37℃を越える状態が続いていました。子供の安全を最も考えなければならない大人の判断ミスで朝元気に出て行った子供が亡くなるのは悲惨で残念なことです。両グラフ(週ごと、日ごと)ともに救急車で搬送された人数なので実際にはもっと多いと思われます。全国各地で最悪の気温を記録した2018年7月23日以降は、幸いにも気温が下がってきています。
上と同じ内容で2018年4月30日からのグラフも紹介します。クリックすると横長の大きなグラフを表示します。気温が上がると搬送者数が急激に上がっているようです。気象庁ホームページ(HP)には7日間平均気温と熱中症搬送者数の関係をまとめたページがありました。
その中の愛知県が右のグラフです。気温が上がると加速度的に搬送者数も増えています。そのことが2018年の7月中旬に記録的な数値になったものと推測されます。平均気温に+6℃たすと平均的な最高気温になります。最高気温が35℃前後では+2℃ごとに倍々になるイメージです。気象庁HPに掲載されているのは北海道、宮城県、東京都、新潟県、愛知県、大阪府、広島県、香川県、福岡県、鹿児島県、沖縄県の11のグラフです。横軸には、それぞれの代表都市の平均気温が使われています。
このグラフだけ総務省消防庁のホームページに掲載されているグラフです。こちらのグラフは7月16日~22日(1週間)の都道府県別の熱中症搬送者数です。下記のリストは1000人以上の搬送者の都道府県をピックアップしたものです。5つの中では豊田市立梅坪小学校がある愛知県が人口当たりの熱中症搬送者数が突出して高かったことが判ると思います。
熱中症搬送 人口 1万人あたり
東京都 1979人 1374万人 1.44人
愛知県 1954人 753万人 2.60人
大阪府 1779人 883万人 2.01人
埼玉県 1617人 731万人 2.21人
兵庫県 1188人 550万人 2.16人
千葉県 1030人 626万人 1.65人
最も熱中症搬送者数が多かった2018年7月16日~22日の1週間の搬送者数を多い順に並べ替えたグラフを紹介します。ここから下の4枚のグラフは都道府県名が読みにくいと思うのでクリックすると拡大するように設定いたしました。
人口当たりの熱中症搬送者数の多い順に並べ替えたグラフも紹介します。
すべての都道県の中で人口当たりの搬送者が一番多かったのは、岐阜県の3.67人(=737人÷201万人)でした。
人口当たり最も熱中症での搬送者が少ないのは沖縄県で、2番目に少ないのは北海道でした。北海道よりも沖縄の方が少ないのは意外でした。そして沖縄県のみ2017年より2018年が少なかったのです。逆の言い方をすれば沖縄県以外は全て2017年より2018年が多かったのです。疑わしい場合は、命を最優先する対応を!
こちらは人口の多い順に並べたグラフです。首都圏で人口の多い神奈川県の人口当たりの搬送者数が少ないです。
こちらは総務省消防庁のホームページ(HP)と同じ順番に並べたグラフです。概ね、日本の北からの順番になっているので自分の地域を探すのに便利です。
1週間後の2018年7月23日~7月29日のグラフも紹介します。総務省消防庁のHPと同じ順番に並べています。異常だった前週(7月16日~7月22日)より下がりましたが、まだまた高いレベルです。人口当たりの搬送者数から見ても前週は地域差が大きかったことが判ります。
2週間の熱中症発生場所の割合です。2018年7月23日~29日では熱中症で搬送された人の約50%(49.4%)が住居の中で熱中症になっています。集計の住居には屋外の庭も入ってはいますが、屋内の家の中での熱中症も相当の数だと想像されます。家の中に退避してもエアコンをつけていなければ、かえって高温になることもあることから、エアコンなどを使うことが非常に大切になってきているのだと思います。仕事場②は農業・畜産・水産関係で、それ以外は仕事場①(道路工事、建設現場、工場、作業場など)に集計されているようです。
搬送者総数 住居 教育機関
2018年7月16日~22日 22647人 41.8%(9462人) 8.88%(2011人)
2018年7月23日~29日 13721人 49.4%(6783人) 4.85%( 665人)
熱中症の発生場所の割合が変化するのかが気になったので4月30日からの割合の推移のグラフを作成してみました。厳しい状況になると個人宅(住居)での発生絶対値が増えるだけでなく発生割合も増加しているのが判りました。
2010年からの6~9月の各月の熱中症搬送者数の推移も紹介します。このグラフから分かることは、年によって差はありますが、2018年7月の熱中症搬送者数は5万人を超えて52819人に達しました。そして7月も8月も2018年が最も多い搬送者数になりました。来年からも7月と8月は注意が必要だと思います。そして6月も9月も油断は禁物であるとも言えます。2018年9月の数値は9月16日の時点です。
つらい数値ですが搬送されたけれども残念ながら死亡された方の推移も掲載いたします。2018年7月は124人に達して、当時史上最悪と言われた2010年の時の値を越えてしまいました。年により傾向が違うことも念頭に置いて予防に心がけることが大切のようにも感じました。2018年の8月も厳しい日が続き多くの搬送者数があったにも関わらず死亡者数が抑えられたのは、皆さんの努力や連日のテレビでの注意喚起も大きな影響を与えているように感じました。幸い9月に入って亡くなった方はおりません。このまま0のままであってほしいです。
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朝の公園の景色 カピオラニ公園(kapiolani Regional Park) [ハワイ]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
前記事でハワイ旅行3日目はホテルから出てレストラン(LuLu's Waikiki)で朝食を食べたことを紹介しましたが、レストランには歩いて行きました。その時の景色を紹介したいと思います。進行方向に向かって左側がビーチ(海岸)で、右側が公園でした。その公園の景色を紹介したいと思います。公園の名前はカピオラニ公園(kapiolani Regional Park)です。
カピオラニ公園のエリアと宿泊ホテルと朝食を食べたレストランの場所を紹介します。緑色ライン(━━)で囲った部分がカピオラニ公園です。
赤色ライン(━━)で囲った部分はホノルル動物園です。
LuLu's Waikiki 3日目の朝食を食べたレストラン
The New Otani Kaimana Beach Hotel 宿泊ホテル
写真の左端に写っている歩道を歩きました。日曜日には歩道の右側に沢山のフリーマーケットが並びます。この日(3日目)は月曜日でした。背の高い椰子の木の上の方は写真には納まりませんでした。
歩道のさらに左側は駐車スペースになっていて、その左側に一方通行の車道があり、その車道の左側がワイキキビーチの中のカピオラニビーチとカイマナ ビーチです。日曜日には早朝から沢山の車が停まっていました。
ハワイらしい木が沢山並んでいます。
広い公園の雰囲気を感じてもらえると思います。
椰子の木以外によく見かける木が2種類あります。これが、その一つのモンキーポッドです。「この木なんの木」の歌詞で始まる日立のCMに使われた大樹と同じ種類と言えば思い出される方も多いと思います。CMに使われたのは別の場所の公園の木で、6日目に見に行きました。近いうちに紹介したいと思います。
目 マメ目 Fabales
科 マメ科 Fabaceae
亜科 ネムノキ亜科 Mimosoideae
属 ネムノキ属 Albizia
種 アメリカネムノキ Albizia saman
別名 モンキーポッド
英名 Monkey Pod
椰子の木が上まで写った写真も紹介します。
上の方で紹介した一方通行の道路とは反対方向の道路です。沢山の車が走っていますが郊外からの通勤のための車だと思います。
観光用のトロリーバスも走っていました。
公園内にいた小鳥です。
その小鳥を拡大いたしました。
ハワイで多く見かけた2つの中のもう一つの木です。根が枝から垂れ下がるタイプです。ガジュマルと呼ばれる沖縄などにある木に近い種類です。この木の名前は通称バニアンツリー(Banyan Tree)のようです。
バニアンツリー(Banyan Tree)の垂れ下がった根の部分を拡大いたしました。
別のバニアンツリー(Banyan Tree)の近くに銅像がありました。ハワイではいろんな場所に銅像が建てられていました。
この銅像の人に見覚えがある方は多いと思います。
この銅像はやはりガンジーでした。ハワイの人たちとガンジーの関係は判りませんが、尊敬される人の銅像が建てられるようです。
こちらはハワイで最も尊敬されている女性の一人だと思います。
ハワイ王朝7代目の王であるカラカウアの妻であるカピオラニ女王です。英語(ハワイ語)ではQueen Kapiolani(Queen Kapiʻolani 1834年12月31日~1899年6月24日)です。カピオラニ公園(kapiolani Regional Park)の名前もこちらの人かつけられたものです。
サーファーボーイ像あるいはサーファーオンザウエーブ像と呼ばれているサーフィンをしている銅像もありました。銘板を撮っていなかったことから名前は判りませんが、右の写真の有名なデューク・カハナモク(Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku 1890年8月24日~1968年1月22日)かもしれません。ただし、別途右下のデューク・カハナモク像(Duke Kahanamoku Statue)があります。その小さな写真をクリックすると両方の顔を比べられる拡大写真を表示するので比較してみてください。デューク・カハナモはオリンピックで金メダルを3個を獲得したハワイ出身の伝説的な水泳選手で、サーファーとしても活躍して、サーフィンをスポーツとしての普及させたことに多くの貢献をした人でもあります。ワイキキビーチの中との一つのビーチとしてデューク・カハナモ・ビーチの名前が残っています。オリンピックでのメダルは下記です。1916年のベルリンオリッピックは第一次世界大戦により中止になり行われませんでしたが、行われていたらさらにメダルをとっていたのだと思います。アントワープオリンピックで29歳 or 30歳と書いたのはオリンピック期間中に誕生日があったからです。
1912年 金 100m自由形 ストックホルム 22歳
1912年 銀 800mフリーリレー ストックホルム 22歳
1920年 金 100m自由形 アントワープ 29歳 or 30歳
1920年 金 800mフリーリレー アントワープ 29歳 or 30歳
1924年 銀 100m自由形 パリ 34歳
花が咲いている木も沢山ありました。これは白い花ですが、いろんな色がありました。
花を拡大いたしました。花の種類はプルメリア(Plumeria)で、ハワイの女性の髪飾りに使われます。未婚女性は頭の右側に、既婚女性は左側に飾るそうです。プルメリアはキョウチクトウ科インドソケイ属の一般的な総称で、インドソケイ属の学名であるPlumeriaから来ています。ハワイ語ではPua Meliaあるいは単にMeliaと書かれるそうです。
門 被子植物門 Angiosperms
目 リンドウ目 Gentianales
科 キョウチクトウ科 Apocynaceae
亜科 インドジャボク亜科 Rauvolfioideae
連 Plumerieae
属 インドソケイ属 Plumeria