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山口縣立岩國高等女學校・跡地 川西第一街区公園 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大クリックすると拡大上の路線ルート情報は2021年3月17日に周防久保に墓参りに行った時の清流新岩国から周防久保までのものです。この墓参りではすでにいくつかの記事で紹介しているように、墓参りの前に錦川清流線に乗ってみました。清流新岩国から錦川清流線に乗って根笠駅で折り返して川西駅に着いたのは10時49分でした。岩徳線の徳山行きの発車時刻11時31分まで42分あったことから、母が通っていた山口縣立岩國高等女學校(山口県立岩国高等女学校)の跡地に出来た川西第一街区公園(Kawanishi Daiichi Gaiku Park/かわにしだいいちがいくこうえん)に行ってみることにいたしました。公園の住所は山口県岩国市川西1丁目21です。
川西駅から川西第一街区公園までの距離は337mと歩いて4分で行ける距離なので、墓参りの往復のルートを決めた時から計画に入れていました。目的は写真や動画を撮って母に見せるためでした。母は岩国市街地にあった家から往復8kmの距離を歩いて通っていたそうです。山口縣立岩國高等女學校の校歌は2番まであって作曲は進藤ユキだそうです。
ネットから転用させていただいた約100年前に撮られた「山口縣立岩國高等女學校」と書かれた門の表札(看板)の写真(左側)と、今回撮った公園の門柱の写真(右側)を並べてみました。同じものかどうかは分かりませんが同じ形式の門柱のようです。公園の門柱のの下側の蝶番の位置を昔の門柱の蝶番の位置を合わせました。つまり公園の門柱は当時よりも深く埋められている可能性があります。

こちらが撮った写真と動画と昔の女学校の写真などで編集して作った動画です。バックで流れているBGMはIndian Walk(2分39秒)です。興味のある方は是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。

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薄赤色に着色したところが川西第一街区公園です。母の記憶などから女学校の敷地は、今の川西第一街区公園よりは広かったようです。岩徳線は走っていましたが川西駅はなかったそうです。川西駅が出来たのは1960年4月16日なので岩日線(現在:錦川清流線)の開業(1960年11月1日)を見越して作られたものと思われます。クリックすると拡大今は建物があって岩徳線は見えませんが、当時は建物が無く校庭から岩徳線や錦川の土手が見えたと母が話してくれました。現在は住宅に囲まれていますが、当時は周辺の住宅はまばらだったようです。右の図は1965年時点の統合後の川西校舎です。この図から校舎と岩徳線の間の敷地は運動場であったことが判りました。航空写真内の想定される「想定される女学校の敷地」は山口県立岩国高等学校に統合後の川西校舎と同じとして薄紫色に着色いたしました。
 ━━ 川西駅→女学校跡地への徒歩ルート 337m
 ━━ 川西駅→錦帯橋への徒歩ルート   1326m


川西駅の最も岩国側のホームの端から女学校跡地方向を撮った写真です。矢印の位置が女学校跡地(川西第一街区公園)の中心位置です。写真をクリックすると矢印のない拡大写真を表示します。ただし、周囲の建物のために川西第一街区公園を確認することは出来ません。上の航空写真の黄色の直線が方向を示すライン(直線距離 248m)です。線路方向に見える山は岩国山(標高277.8m)です。
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ネットから1925年(大正14年)の山口縣立岩國高等女學校の写真を2枚転用させていただきました。クリックすると拡大母が入学する前の体育会の写真のようです。岩徳線が開業する前で、女学校が山口県玖珂郡立から山口県立に変わって2年後の写真です。
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山口県立岩国高等女学校と関連事項の.Wikipediaに書かれていた沿革を紹介します。学校の歴史は1902年から119年続いて、その間に女学校の呼名が使われていたのは1902年から1949年の47年間です。今回の場所が学校として使われたのは1915年から1968年の53年間で、その間に女学校の呼名が使われていたのは1915年から1949年の34年間です。写真は上の写真と同じ1925年(大正14年)に撮られたものです。動画の最初に出てくる山口懸立岩國高等女學校跡地と刻まれた石碑は川西第一街区公園が開設された翌年の2000年(平成12年)に建立されました。4年後の1929年に右半分の小高くなっている部分と住宅の間あたりに岩徳線が建設されました。右の遠くに霞んで見えている山は岩国山と思われます。
 1868年10月23日 明治元年
 1902年04月01日 山口県玖珂郡立実業補修女学校が創立(明治35年)
 1903年04月01日 横山の元・岩国中学校舎に移転
 1907年04月01日 山口県玖珂郡立岩国女学校と改称
 1909年04月01日 山口県玖珂郡立岩国高等女学校と改称
 1914年03月    宇野千代が岩国高等女学校を卒業
 1915年01月13日 岩国町大字川西の新校舎に移転 現:川西第一街区公園
 1918年10月31日 校旗を制定 八稜鏡の絵を背景に「高女」の文字を置く
 1923年04月01日 県立移管 山口県立岩国高等女学校に改称(大正12年)
 1929年04月05日 岩徳線が開業
 1940年04月01日 岩国市発足 岩国町 麻里布町 川下村 愛宕村 灘村が合併
 1941年12月08日 太平洋戦争の開戦
 1944年       光海軍工廠などへ学徒動員が開始
 1945年04月    学校での授業を停止。ただし学徒動員は継続。
 1945年08月15日 太平洋戦争の終結
 1945年09月    学校での授業を開始
 1946年04月    修業年限が5年となる
 1947年04月01日 学制改革 六・三制の実施
 1949年04月01日 統合により山口県立岩国西高等学校・川西校舎となる
 1950年04月01日 統合により山口県立岩国高等学校に改称
 1960年04月16日 川西駅が開業
 1960年11月01日 岩日線(現:錦川清流線)が開業
 1968年06月01日 全学年を向山の新校舎に移して川西校舎を廃止
 1999年04年01年 川西校舎跡地に川西第一街区公園を開設
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ネットから転用させていただいた1963年の航空写真を紹介します。
クリックすると拡大山口県立岩国高等女学校は上で紹介している沿革のように統合されて名前は山口県立岩国高等学校になっています。母が通っていた時の右の集合写真などから判断して運動場に沿った細長い校舎は母の時代にはなかったと思われます。2枚の集合写真が交互に表示されていますが、1枚は校舎を背景に運動場で撮られたもので、もう1枚はいくつかの校舎の間の庭で撮られたものと思われます。校舎が建てられた場所は運動場よりは高くなっていることが集合写真やネットの右下の写真で分りました。クリックすると拡大もしかしたら錦川の氾濫に備えた対策だったのかもしれません。運動場の手前には岩徳線も写っています。1963年なので川西駅はすでにできていますが、写真より左の方なので写っていません。左上に写っている道路は現在の山口県道112号藤生停車場錦帯橋線ですが、当時はまだ県道にはなっていませんでした。
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校舎内の写真もネットから転用させていただきました。ただしいずれの写真も母の時代より少し後に撮られた写真と思われます。左上から順番に職員室、階段教室、作法室、調理教室(1951年)、廊下です。
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門に「山口縣立岩國高等女學校」の表札がかかった写真もネットの約100年前の玖珂郡からクリックすると拡大転用させていただきました。右の写真は女学校の建物ではありませんが、女学校の校舎の一部を基にして1916年に旧制岩国中学校に建てられた御大典記念武道場で、今は岩国高校記念館として吉香公園に保存されています。白黒写真の女学校の建物の色を想像していただくために役立つと思います。
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川西第一街区公園の入口の写真です。門柱と門柱の間が広いし、女学校の門はもう少し山口県道112号線に近い方(背中方向に進んだ場所)にあったので当時の門柱を移設して建てたのかもしれません。いずれにしても門柱自体は当時の門柱だと思われます。記事の冒頭で紹介した公園の門柱の写真は本写真の右側の門柱です。門柱には扉を取りつける蝶番の金具がついています。下側の金具は地面に近いので門柱は当時よりも深く埋められているように感じます。当時の航空写真から判断すると、この広場は運動場ではなく校舎が建っていたエリアのようです。


以前の記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」の中の女学校に関しての記載内容を転記する形で掲載いたします。

写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。クリックすると拡大日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立した右の写真の曻地三郎(しょうち さぶろう)が岩国高等女学校の教員だったことがあり、その時に母は授業を受けたことがあるそうです。受けた科目は修身(1890年~1945年に存在)で今で言えば道徳のようなもののようです。 その後1948年に姓が山本から曻地に変わったので母は山本先生と呼んでいます。右の写真をクリックすると曻地三郎が105歳の時の動画を表示します。
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tarou

SORIさん お早うございます
庭のコゲラにコメントを有難うございました。
歴史を感じる写真は貴重です、今でも学校の跡地が
分かるのは素晴らしいです。(^^)v
by tarou (2021-05-25 07:05) 

kazu-kun2626

歴史のある学校ですね~
by kazu-kun2626 (2021-05-25 07:11) 

SORI

tarouさん おはようございます。
この公園の存在を知ったのは最近のことでした。学校は統合されてしまったけれども校舎があった場所が判るのはいいですね。
by SORI (2021-05-25 08:25) 

SORI

kazu-kun2626さん おはようございます。
岩国を台使用する学校でありながら岩国駅の近くではなく数km離れた城のあった近くにつくられたのは教育の中心のルーツが城を中心とした藩校だったのかもしれません。
by SORI (2021-05-25 08:29) 

旅爺さん

錦帯橋は爺も渡りましたがお母様が通われた高校は近くなんですね。
渡ったところの小さな小屋にシロヘビが居たのを憶えてます。
お母様の大事なお写真なんですね。
by 旅爺さん (2021-05-25 08:40) 

SORI

旅爺さんさん おはようございます。
錦帯橋を渡られて白ヘビも覚えておられるのですね。この辺りに母が通った学校があることを知ったのは8年くらい前のことですが正確な位置を知ったのは昨年のことでした。そして今回は訪れてみたわけです。
by SORI (2021-05-25 09:06) 

みぃにゃん

女学校・・・最近なくなりましたね。驚愕ばかりになりましたね。
by みぃにゃん (2021-05-25 11:25) 

溺愛猫的女人

宇野千代さんって岩国出身だったんですね。初めて知りました。素晴らしい方ですよね。
by 溺愛猫的女人 (2021-05-25 12:08) 

SORI

みぃにゃんさん こんにちは
女子高が男子を入れるようになったり、その逆もよく耳にしました。子供の数が減ってきたのが関係しているのでしようね。
by SORI (2021-05-25 13:05) 

SORI

溺愛猫的女人さん こんにちは
宇野千代さんのことを御存じだったのですね。いろんな才能がある方だったようですね。
by SORI (2021-05-25 13:06) 

トモミ

お母様の写真、歴史的資料としても価値がありそうです!

by トモミ (2021-05-25 14:10) 

夏炉冬扇

レトロ写真よく残っていますね。
お母さま美人!
by 夏炉冬扇 (2021-05-25 18:35) 

SORI

トモミさん こんばんは
確かに、昔の写真としての価値はありそうです。紹介出来て良かったです。
by SORI (2021-05-25 19:22) 

SORI

夏炉冬扇さん こんばんは
ありがとうございます。母が喜んでくれると思います。実家に行った時にアルバムを見つけました。
by SORI (2021-05-25 19:23) 

JUNKO

懐かしい写真見つけましたね。今の技術で新しく変身できますね。
by JUNKO (2021-05-25 19:36) 

SORI

JUNKOさん こんばんは
母も撮った動画を見て喜んでいました。編集した動画はこれから見てもらう予定です。
by SORI (2021-05-25 21:09) 

coco030705

こんばんは。
昔の女学生の人は良くおさげ髪をしていましたね。皆さんとても初々しくかわいい感じです。
by coco030705 (2021-05-25 23:33) 

SORI

coco030705さん おはようございます。
確かに当時の女学生の髪形の流行りが判る写真だと思います。お化粧はしなかったと思うので髪でオシャレをしたのでしょうね。
by SORI (2021-05-26 05:57) 

リンさん

写真を大切に取っていらしたんですね。
ステキな写真。
若い頃の写真が残っているっていいですね。
by リンさん (2021-05-26 10:52) 

SORI

リンさんさん こんにちは
実家には、孫が結婚祝いで送ったデジタルフォトフレームが置かれているので、実家に行った時に曾孫たちの新しい写真などを追加しています。そんな中で古い写真も探しているうちに見つけました。
by SORI (2021-05-26 16:24) 

tarou

お早うございます、近所の小鳥たち(カワセミ)にコメントを
有難うございました。
花の写真を撮りに行く途中の池で遭遇したのでビックリでした。
最近は環境が良くなり、カワセミも住家そ広げている様です。
by tarou (2021-05-27 06:42) 

SORI

tarouさん こんにちは
突然カワセミに出会えたとはすばらしいです。私の住んでいるところの近くでもカワセミがいると聞いていますが、未だに出会えたことがありません。
by SORI (2021-05-27 07:45) 

ゆうのすけ

SORIさ~ん ご無沙汰しちゃっています。
ようやっと修理に出していたPCが戻ってきました。
ご心配いただきありがとうございます。まだ調整中ですが次回記事更新は5/30の予定です。拙いブログですがまたよろしくお願い申し上げます。^^☆彡
by ゆうのすけ (2021-05-28 15:39) 

SORI

ゆうのすけさん こんにちは
PCの修理が完了されたとのこと、おめでとうございます。待ち遠しかったことでしょう。新しい記事を楽しみにしております。
by SORI (2021-05-28 16:16) 

yokomi

お母様美人ですね(^_^;) 市内では伝統ある女子高が男子校に統合され、消えました。少子化は既に私の若い頃から叫ばれているのに、有効な政策がありません。「子は国の宝」とはいつになっても変わらないかと。昔から離婚はありましたよね。宇野千代さんは再評価され良かったですね(^_^)v
by yokomi (2021-05-29 10:37) 

SORI

yokomiさん おはようございます。
少子化に歯止めがかからないなかで、新型コロナでさらに少子化が進んでしまいました。少子化が定着しないことを祈るばかりです。本気の政策が望まれます。女学校の歴史は続いているけれども名前が無くなってしまうのは寂しいと思います。
by SORI (2021-05-29 11:34) 

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