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岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2021年元旦の新年の挨拶の記事の中で「川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。」と予告した通り、山口県の岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景観を紹介したいと思います。クリックすると拡大実家の宝塚から日帰りで2020年の12月23日に山口県の周防久保にある父方の墓に参った帰りに錦帯橋と岩国城に行ったのです。母方の墓は岩国市内の町中にありますが、そちらは墓から歩いて5分のところに住んでいる叔父さん(母の弟)が墓参りをしてくれているので、今回は行きませんでした。そのため時間があったので岩国城に初めて行ってみることにしたのです。上の写真は岩徳線の周防久保に11時35分発の列車が停車して後部の乗車専用ドアが開き始めた瞬間の写真です。子供の頃には父方の実家に行くために岩徳線にはよく乗りましたが舎監人になってからは、今回が2回目なのです。1回目は去年(2020年)の9月25日でした。周防久保駅は1回目の時に詳しく紹介したしました。→ポチッ

クリックすると拡大岩徳線は徳山駅・櫛ケ浜駅・周防高森駅・玖珂駅・西岩国駅・岩国駅以外の10の駅が無人駅であることから運行列車は運転士1人によのワンマン運転が行われていることから、無人駅から乗車して、無人駅で下車する場合は駅に設置されている右の写真の自動券売機で切符を買って乗車して、下りる時に切符を運転士の人に渡します。運転士さんは切符内容を確認の上、運賃箱に入れます。下の写真が周防久保で買った切符です。


これが岩徳線を含んだ周辺の路線図です。この路線図の周防久保から川西まで乘りました。岩国城を見た後はバスで新岩国駅まで行き新幹線で帰る計画でした。もし岩徳線と山陽新幹線が同一路線扱いであれば、周防久保から大阪までの切符を買っていれば、上の周防久保→川西の切符を買う必要はありませんでしたが、残念ながら事前に確認してもらうと同一路線扱いではありませんでした。同一路線扱いの山陽本線より新幹線に近いところを走っていたので帰りの新幹線の切符を事前に買うときに聞いてみて分かりました。
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前回の墓参りの2020年9月25日の時は余裕でボックス席に1人で座ることが出来ましたが、今回はボックス席はいっぱいだったので長椅子席に座りました。とは言え新型コロナの感染防止のため岩徳線ではボックス席は1人です。今回は人が多かったのは高校生が沢山乗っていたためでした。周防久保発11時35分の時間帯に沢山の高校生が乗車していたのは第2学期の終業式が12月23日だったのだと推測しております。徳山あたりの学校に通っている高校生だったのだと思います。
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私が座った長いす席から先頭側を撮った写真です。
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到着駅に近づくと車内放送が行われると同時に料金表の表示が変わります。周防久保からの料金が590円と表示されたので、川西駅に到着寸前であることが分かります。写真をクリックすると590の上の文字が周防久保であることが分かってもらえると思います。
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岩徳線はワンマン運転なので切符を運転士の方に渡して川西駅に降りました。運転士の方は若い女性の方でした。岩徳線を利用されている乗客の方から人気なようで皆さんから声をかけられていました。いよいよここから錦帯橋あたりまで歩きます。
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こちらが川西駅です。この辺りの岩徳線は地上からかなり高いところを走っていました。川西駅は1960年4月16日に新設された駅で母が女学校に通っていたころにはなかったそうです。女学校から見える高いところを岩徳線が走っていたことは鮮明に覚えているとのことでした。
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左下の道を進むと幹線道路である県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の交差点に出ます。写っている列車が私が乗ってきた周防久保11時35分発(川西:12時21分着/12時22分発)の列車です。
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列車が名残惜しいのでズームで追いました。列車の前に写っているコンクリートは道路をまたぐ陸橋部分です。
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ここが県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の複雑に交差する交差点です。
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交差点の標識を拡大いたしました。錦帯橋1kmの表示があります。想像していたより錦帯橋が近い印象です。Google地図で確認した交差点の中心から錦帯橋の左岸の入口までの距離は1.186kmでした。
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錦帯橋方面の藤生停車場錦帯橋線です。この交差点から100㎡進み右に曲がって100m進むと母が通っていた女学校があった川西第一街公園があります。
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交差点から300m進んだあたりの景観です。
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交差点から500m歩くと臥龍橋(がりゅうばし)に出ます。臥龍橋は金耐久の一つ下流側にある橋です。クリックすると拡大
母が通学で錦川を渡ったのが、この臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
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臥龍橋の下流側には岩徳線の鉄橋が見えました。川はの名前は錦川(にしきがわ)です。錦川は山口県内を流れる二級水系錦川の本流です。支川を含めた法河川延長は331.8kmで、流域面積は884.2km2で、共に山口県内では一番の川です。
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橋の上から撮った上流側です。錦帯橋が前ます。山の上には岩国城も見えます。
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向こう岸に近くなってきました。臥龍橋を渡らないで錦帯橋に行けますが、錦帯橋を往復したかったので臥龍橋を渡りました。バス停やタクシーはこちらの岸側にあるので、往復した後にこちら側の岸に行く室用があるのです。上流側から見ると左岸になります。
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錦帯橋に近づいてきました。
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錦帯橋と岩国城が見えるベストアングルの写真です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
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錦帯橋の入橋券です。産地用の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。入橋券の購入窓口でトン岩国行のバスの乗場の場所を確認して橋を渡る前に時刻表を確認に行きました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。
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メモ代わりに新岩国行のバスの時刻表の写真を撮りました。1時間に2本程度でした。
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今回は渡り始めから渡りきるまで動画を撮るつもりだったので、渡る前に1枚のみ写真を撮りました。
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上流から見て左岸から右岸に渡るまで連続で動画を撮りました。2020年は鬼滅の刃が歴史的な大ヒットだったので、錦帯橋の動画の終了後は引き続いて鬼滅の刃のオープニング主題歌の紅蓮華が流れるように設定いたしました。2021年2月にOSが更新されたのをきっかけに錦帯橋の動画が出なくなったことから錦帯橋の動画のみに戻しました。
2020年大晦日のNHK紅白歌合戦で出場のLiSAが紅蓮華炎(ほむら)を歌ったのが印象的でした。初出場は2019年でした。こちらをクリックすると錦帯橋の動画を別画面で標示します。→ポチッ


クリックすると拡大いつもソフトクリームを食べていた佐々木屋小次郎商店は閉まっていました。何度も来ていて閉店していたのは初めてなので、閉まっていたのは新型コロナの影響だと思います。新型コロナが収まったら再開してほしいものです。
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ロープウェイの山麓駅を目指しました。
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見事な吉香公園がありました。この場所が岩国藩(長州藩の支藩)時代の中心的場所です。叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
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古民家があったので寄ってみました。国指定自由用文化財の目加田家住宅でした。岩国藩主の吉川広家が岩国に移封された時に広家に従って移り住んだそうです。
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ロープウェイの山麓駅に着きました。
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15分ごとに動いていて、客は私を含めて2人でした。
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下りてくるロープウェイとすれ違う瞬間です。
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こちらか山頂駅です。
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山頂から岩国城に行くには広い舗装された道と細い道があったので細い道の方から行きました。
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天守閣近くの石垣の下を歩きました。
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この門をくぐったら天守閣です。
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こちらが岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
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入城券を買って天守閣に登りました。こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
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写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口縣立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口縣立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)に拡大するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。
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川西駅から岩国城までのルート(━━━━━━)と位置をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅から岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし )と錦帯橋(きんたいきょう )を渡りました。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事の食事(和食)を2度お願いした上に、最近では右の上段の写真のような四川料理を2度食べました。右の下段の写真は今回初めて「食事処 むさし」で食べたソフトクリームです。紫いもソフトクリームを選びました。ちなみに我家のワンコの名前は「むさし」でした。
  タクシー乗車場所  ━━━ 新岩国駅へのルート Ⓐ→Ⓑ
 山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
 山口懸立岩國高等學校跡地  吉香公園
クリックすると拡大 現在の山口県立岩国高等学校
 川西駅 JR岩徳線
 臥龍橋
 錦帯橋
 食事処 むさし
 ロープウェイ山麓駅と山上駅
 岩国城 天守閣
 吉香神社
クリックすると拡大 岩国国際観光ホテル 
 新岩国駅
 ルート ━━━━━━━━━
      臥龍橋
      錦帯橋
      ロープウェイ
      山頂駅→岩国城


JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図も紹介します。母と叔父さんは岩国駅の近くから毎日歩いて通学していました。

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