SSブログ

世界遺産 レッド・フォート ( Red Fort / Lal Qila ) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
インドのデリーの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載し、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したことを機会に、同じデリーの3つ目の世界遺産レッド・フォートの記事を再掲載いたします。レッド・フォートはデリーでは最も新しく登録された世界遺産です。最も新しく登録されたと言っても、今から17年前の2007年に登録された世界遺産です。インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、本記事を掲載した時点では32の世界遺産が登録されていてレッド・フォートは27番目に登録されたので、私が見学した時点では比較的新しい世界遺産でした。インドで最初に世界遺産が登録されたのは1983年で4つが登録されました。
クリックすると拡大クリックすると拡大その4つはアジャンター石窟群、エローラ石窟群、アーグラ城塞タージ・マハルでした。
 2012年10月18日 掲載
 2024年09月07日 再掲載 閲覧数:3,678 nice!:176 CMT :26
 2024年09月08日     閲覧数:3,835 nice!:200 CMT :32
 2024年09月09日     閲覧数:3,967 nice!:219 CMT :42
 2024年09月11日     閲覧数:4,093 nice!:234 CMT :48
 2024年09月12日     閲覧数:4,143 nice!:238 CMT :48
 2024年09月13日     閲覧数:4,179 nice!:240 CMT :50
 2024年09月14日     閲覧数:4,190 nice!:242 CMT :50

2012年10月18日掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
クリックすると拡大
インドの首都デリーには1993年に登録されたフマユ-ン廟とクトゥブ・ミナールの2つの世界遺産にがありましたが2007年に赤い城の建造物群が世界遺産が登録されて、デリーの世界遺産は3ケ所になりました。それが今回紹介するレッド・フォートです。フマユ-ン廟クトゥブ・ミナールはすでに紹介させてもらっております。
世界遺産としての正式の登録名は"レッド・フォートの建造物群(The Red Fort Complex)"です。大きな城壁に囲われた中にいろんな建築物があります。しかし、なんといっても入口の城壁そのものが、すばらしい景観を見せてくれます。
クリックすると拡大 英語名 レッド・フォート(Red Fort)
 現地語 ラール・キラー(Lal Qila)
 日本語 デリー城 赤い城の建造物群

門の部分を拡大いたしました。
インド全体では32個の世界遺産がありますがレッド・フォート(赤い城)は27番目の登録の世界遺産です。
昔はラリー・キラーで検索すると沢山でてきましたが今はレストラン名前がほとんどとなりました。これは世界遺産になる前はラリー・キラーとの呼び名が多かったのではないかと想像しています。
クリックすると拡大

ネットで調べても詳しく判りませんが調べた範囲で解説させてもらうとレッド・フォートは17世紀前半、ムガール帝国(1526~1858年)のシャージャハーン皇帝(在位1628~1658年)によって建設されましたそうです。そしてムガール帝国の都をアーグラからデリーに遷都し、このデリー城(ラールキラー)を建設したそうです。つまりムガール帝国の第5代皇帝から第17代皇帝までが住んだことになります。第3代皇帝~第5代皇帝までは、すでに紹介したアーグラ城塞に住んでいました。
レッド・フォートは長く壮観な姿を見せていましたが、19世紀半ばに反乱軍と英国軍の攻撃を受け、華麗な宮殿のほとんどが破壊されたそうです。総延長約2kmの赤砂岩の城壁に囲まれた内部には、高さ33mで八角形の門塔、一般謁見の間、貴賓謁見の間、真珠のモスクなどが残っており権勢を振るったムガール帝国の面影を今に残していました。写真は入口となっているラホール門です。
クリックすると拡大

城壁の外側は堀になっています。日本の世界史教科書ではデリー城と書かれているそうです。
クリックすると拡大

近くで見ると堅固な城塞であったことが伝わってきます。
クリックすると拡大

門の部分は芸術的でもあります。
クリックすると拡大

城の入口の最も有名な門の上の飾りの部分です。
クリックすると拡大

その有名な飾りの下の門を正面から撮りました。門の奥はアーケードのようになっていました。巨大さが判ります。
クリックすると拡大

そのアーケードの通路には沢山のお土産屋さんがありました。
クリックすると拡大

アーケードを過ぎると赤砂岩の門が目の前に現れます。写真はアーケードとは反対側から撮ったものです。名前はチャッタ・チョウクで内部は軍事博物館になっていました。
クリックすると拡大

その門の奥にインドの観光客の人が記念撮影する建物がありました。上の門の写真はその建物の方から撮ったものです。ここは一般謁見の間で名前はディワン・イ・アームです。
クリックすると拡大

その記念撮影の建物の奥に大理石の建物群がありました。これは貴賓謁見室ディワニ・カースです。
クリックすると拡大

さっそく貴賓謁見室ディワニ・カースにきてみました。大理石は宝石が埋め込まれて装飾されていました。
クリックすると拡大

その装飾された柱を拡大しました。宝石を大理石に埋め込んでいるのが判ってもらえると思います。
クリックすると拡大

見事な大理石の細工物もありました。これは是非ともクリックしてみてください。
クリックすると拡大

城の中にはイギリス風の建物群もありました。沢山の建物がありました。これらはインド人の独自の力によって建てられたことが意義があるように説明されていました。
クリックすると拡大

一般の観光客の人はあまり行かない裏側の道路からの景色です。車から降りて門の隙間から写真を撮りました。
大理石の建物が沢山並んでいました。真中の建物は「真珠のモスク」と呼ばれる美しい白大理石造りのモティ・マスジット(Moti Masjid) 右側が、先ほど説明した貴賓謁見室ディワニ・カースだと思います。このあたりは地盤沈下が激しくて数mに達します。入口が地面に埋もれているのが判ると思います。SV1 SV2
クリックすると拡大

この城の中は世界遺産登録前には軍関係の施設であったことから、他の観光地と違い警備が厳重でした。
すごく警備の人のターバンが雰囲気があったので下のように写真を撮らせてもらいました。さらに右の写真のように横に並んだ写真も撮らせてもらいました。真中が私です。
クリックすると拡大

これがレッド・フォートの航空写真です。Google航空写真でレッド・フォートの広さを測ってみると南北が1160mで、東西が570mでした。

上の航空写真と比べて見てください。Wikipediaから転用させてもらった1857年以前の城塞の中の配置図です。つまり反乱軍と英国軍の攻撃を受け前のレッド・フォートです。
クリックすると拡大

2015年時点のインドの世界遺産を紹介します。タイトルが着色のものは私が訪問した7ケ所の世界遺産です。タイトルまたは写真をクリックすると、その記事を表示します。
クリックすると拡大文化遺産
  1983年 アジャンター石窟群               
  1983年 エローラ石窟群                 
  1983年 アーグラ城塞                   
  1983年 タージ・マハル                  
クリックすると拡大  1984年 コナーラクのスーリヤ寺院
  1984年 マハーバリプラムの建造物群         
  1986年 ゴアの教会群と修道院群            
  1986年 カジュラーホーの建造物群           
  1986年 ハンピの建造物群                
クリックすると拡大  1986年 ファテープル・シークリー            
  1987年 パッタダカルの建造物群            
  1987年 エレファンタ石窟群                
  1987年 大チョーラ朝寺院群               
  1989年 サーンチーの仏教建造物群          
クリックすると拡大  1993年 デリーのフマーユーン廟            
  1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 
  1999年 インドの山岳鉄道群               
  2002年 ブッダガヤの大菩提寺              
  2003年 ビンベットカの岩陰遺跡群            
クリックすると拡大  2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅  
  2004年 チャンパネール=パーヴァガドゥ遺跡公園  
  2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート      
  2010年 ジャイプルのジャンタル・マンタル        
  2013年 ラージャスターン州の6つの丘陵城砦群
クリックすると拡大  2014年 グジャラート州パタンのラーニキ・ヴァヴ
自然遺産
  1985年 カジランガ(カージランガー)国立公園    
  1985年 マナス(マーナス)野生生物保護区      
  1985年 ケオラデオ(ケーオラーデーオ)国立公園  
クリックすると拡大  1987年 スンダルバンス国立公園            
  1988年 ナンダ・デヴィ(ナンダー・デーヴィー)    
  2012年 西ガーツ山脈
  2014年 大ヒマラヤ国立公園

クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大  クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示

世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
インドの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載したことを機会に、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したいと思います。本記事はブログを始めた15年前の2009年に掲載したもので、私の最も古い記事に分類されます。ただし2015年に若干記事をブラシュアップさせていただきました。
 2009年12月31日 掲載
 2024年09月03日 再掲載 閲覧数:2,930 nice!:205 CMT :76
 2024年09月04日     閲覧数:3,052 nice!:228 CMT :80
 2024年09月05日     閲覧数:3,192 nice!:254 CMT :83
 2024年09月06日     閲覧数:3,260 nice!:261 CMT :89
 2024年09月07日     閲覧数:3,328 nice!:263 CMT :94
 2024年09月08日     閲覧数:3,348 nice!:264 CMT :94

2009年12月31日掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
クリックすると拡大
これはデリーにある3つの世界遺産の一つであるムガール帝国第2代皇帝フマユーン(همايون)の霊廟(墓)です。インドのデリーは帰国の日の飛行機に乗るまでの時間で、3つの世界遺産を全て廻ることが出来る、うれしい街なのです。

フマーユーン皇帝は1530年に即位しましたが、1540年にスール族のシェール・ハンに大敗し、インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命しました。しかしながら1555年に、アーグラとデリーを奪回して、北インドの再征服に成功しました。ところが、翌1556年に47歳で、突然に事故で死んでしまいました。フマーユーン死後の1962年に、ムスリマを信仰していたハミーダ・バーヌー・ベーガム王妃がデリーのヤムナー川のほとりに、亡き夫の壮麗な墓廟を建設することを指示し、サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンと父ミラーク・ギヤートゥッディーン二人の建築家によって8~9年の歳月をかけてフマユーン廟を完成させたそうです。ハミーダ王妃は、フマーユーンの王妃であるとともに第3代皇帝アクバルの母でもありました。ちなみフマーユーン皇帝が37歳で亡くなった時、ハミーダ王妃は29歳で、即位したアクバル皇帝は13歳でした。ハミーダ王妃は1604年8月29日に77歳で生涯を閉じて夫の眠るフマーユーン廟に埋葬されました。下の肖像画はWikipediaから転用させていただいたハミーダ王妃フマユーン皇帝です。
 フマユーン皇帝の即位から墓廟(霊廟)完成まで
    1530年~1540年 皇帝在位
    1540年~1555年 ペルシアに亡命
    1555年~1556年 皇帝復位
    1562年~1571年 フマユーン墓廟を建設
クリックすると拡大クリックすると拡大

フマユーン廟の拡大した写真を紹介します。
クリックすると拡大

さらに拡大した写真を紹介します。フマーユーン廟はムガル帝国の廟建築の原型を示すと言われ、その建築スタイルはタージマハールにも影響を与えたそうです。
クリックすると拡大

正面からだと大きすぎて全体が撮れないために斜め45度から撮った写真を紹介いたします。フマユーン廟の建設を指示したハミーダ王妃は、ムガール帝国初代皇帝バーブルの皇子ヒンダールの信仰上の導師でもあったシーア派のペルシア人のシャイフ・アリー・アクバル・ジャーミーの娘でした。ちなみにヒンダールは、長男フマーユーンの異母兄弟にあたります。
フマーユーンがハミーダに一目ぼれして求婚しました。ハミーダ本人や彼女を好いていた皇子ヒンダールに反対されましたが、40日間求婚するという涙ぐましい努力の末に彼女が応じたという経緯があるのです。
クリックすると拡大

別の角度からの全景も紹介しまい。同じように見えますが、椰子の木の形の違いで同じ角度ではないことが判ってもらえると思います。実は建物は4方向が対称なのです。
クリックすると拡大

航空写真で四方対称の建物であることを確認できます。


正方形の敷地全体も航空写真で紹介します。West Gate(左側の門)から中央までの道がメインルートです。我々もここから入りました。


フマユーン廟の門です。これをくぐると上の写真のフマユーン廟が目の前に現れます。このあたりが紹介したリスが寄ってくる場所でした。


フマユーン廟側から見た入口側の門です。


上の写真と似ていますが別の門です。フマユーン廟は正方形の建物ですが、そのフマユーン廟はさらに大きな正方形の敷地に立てられています。入口の門から見て右側の門です。


こちらの門は左側の門です。フマユーン廟の中からの景色です。


正方形の敷地の中にはこんな建物もありました。


上に上がる階段です。すごく急な階段でした。


内部を紹介します。フマユーン廟をお寺や宮殿と思われている方も多いと思います。以前にご紹介したとおり、実はお墓なのです。あの有名な総大理石の巨大な建物であるタージ・マハールも同じくお墓なのです。私も初めて、ここに来るまでは知りませんでした。そしてタージ・マハールは、このフマユーン廟をモデルにして作られたそうです。真ん中に墓石らしいものが置かれています。


別の角度から見た墓石です。
クリックすると拡大

天井は大理石できれいに飾られています。写真をクリックして拡大すると大変な細工であったことが感じてもらえるかもしれません。
クリックすると拡大

この廟には約150人もの死者が埋葬されたとされているそうで沢山の墓石(石棺)がありました。
クリックすると拡大

入口からフマーユーン廟の通路の右脇に古い廟が2~3っあります。これらも是非見てほしいです。
クリックすると拡大
                            
崩れかけた入口が時代を感じさせてくれます。クリックすると中央の建物が表示します。
クリックすると拡大

更に、もうひとつ紹介いたします。これらは全てフマーユーン廟の敷地にあるので見過ごさないように!
インド観光で最大の障害の一つが暑さです。ちょうど2月だったので一番気温の低い時期で、一番すごし易い季節です。ただしホテル代は夏に比べると2倍に跳ね上がります。もしかして世界で、もっともホテル代の高い国かもしれません。物価が非常に安い国のひとつなのに、これには驚きでした。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
   レッド・フォート Red Fort
   フマーユーン廟 Humayun's Tomb
   クトゥブ・ミナール Qutab Minar
クリックすると拡大地図上のアイコンマイナスを何度もクリックするとインド全体からの位置関係が判ると思います。
フマーユーン廟はインドで最初に泊まったタジマハールホテル( )に比較的近い場所にありました。

世界遺産 クトゥブ・ミナール (Qutab Minar) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

「インドで最も高い石造りの塔」のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)です。そのデリーのクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)への2度目の訪問の機会を得ました。初めて来た時は世界遺産であることは知らないで見学をさせてもらいましたが、その迫力に驚いたものです。
クトゥブ・ミナール(Qutub Minar, ヒンディー: क़ुतुब मीनार)は、インドのデリーにあるミナレットで、インド最古のミナレットとされるそうです。日本で言えば鎌倉時代の西暦1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられたそうです。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっています。

そして帰国後に世界遺産であることを知り、なるほどと納得したものです。残念ながら初めて来たときは塔の表面の文様がこんなにすばらしいとは気が付きませんでした。是非、もう一度、訪れたいと思っていましたが、今回、実現しました。この写真はクリックして見てください。表面の模様に驚かれると思います。
クリックすると拡大

上の写真は見上げたものですが同じ場所を遠くから写してみました。手すりの模様がよく判ると思います。
クリックすると拡大

近くに行くとその迫力に圧倒されます。1993年にデリーで初めて世界遺産に登録されました。
同じデリーにあるフマユーン廟も1993年に同時に世界遺産に登録されました。
同じ街で同じ年に2つの世界遺産が登録されたことはすばらしいです。デリーには歴史的なすばらしい建物や遺跡が沢山あることの証明であるような気がします。2007年に赤い砦レッド・フォートが世界遺産に登録されてデリーの世界遺産は3っになりました。
クリックすると拡大

遠くから全景を撮りました。デリーの3ケ所の世界遺産の中でここが最も気に入りました。この高い石造りの塔の受ける印象からかもしれません。建物の形からここがモスクであったことがうかがわせます。
クリックすると拡大

はじめて、この高い石造りの塔を見たのは2004年9月15日でした。その時と同じ角度の写真を掲載します。その時は、じっくり見れなかったので、また来たいと思っていました。クトゥブ・ミナールに来て目を引くのは巨大な石造りの塔です。高さは72.5mでインドでは最も高い石造りの塔です。そしてインドで1番古いイスラムのミナール(塔)でもあるそうです。さらに世界で最も高い石造りのミナレットでもあるそうです。ちなみに世界第二位の石造りのミナレットはアフガニスタンのジャームのミナレット(60m)です。
是非、拡大して見てください。昔、撮った写真と同じ角度のものを最新の写真から探しました。
建設当初は約100m(7層)の高さがあったそうですが落雷・地震などの天災により被害にあったが、その時代の権力者により修復が行われ現在の高さ72.5m(5層)になったそうです。3層までは赤砂岩でその上は大理石で出来ています。
クリックすると拡大

ここは塔だけでなくて廻りの建造物も必見です。これはインド最古のモスクです。


クトゥブ・ミナールには今は登ることは出来ませんが、その入口の上の飾りを撮りました。
クリックすると拡大

世界遺産として登録されている名前は「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」です。建築群とあるように塔だけでなく廻りには沢山の建築物があります。その建築物の壁は文字のような文様で飾られています。その壁の文様は印象的でした。
クリックすると拡大


アーチの部分にも沢山の彫刻が施されていました。


建物の中も文字の文様で埋め尽くされていました。
クリックすると拡大

特に沢山の彫刻をされた柱が目を引きます。柱は同じ形のものが使われているのが普通と思いますがここでは違います。よく見ると柱の形や彫刻がすべて違っているのに気がつかれると思います。ここの遺跡の一つの特徴が柱です。これらの建築群はインドではじめてのイスラム教のモスクとして建てられました。いろんな時代のいろんな宗教の寺院(ヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院)を解体して集められたためにいろんな文様の柱が使われているとのことです。
クリックすると拡大

すばらしい柱ばかりです。イスラム教では偶像崇拝は禁止されていましたが、写真をクリックすると女神の像の入った柱も見つけることが出来ます。こちらの角度から見るとよく判ると思います。これがここの遺跡の特徴なんです。
インドに攻め込んだトルコ人のアイバク将軍によってイスラムのモスクとして建てられたものでヒンドゥー教・ジャイナ教の沢山寺院(一説によると27の寺院)などを破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されています。そのためヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていると説明されていました。それもいろんな時代の様式だそうです。でもイスラムの雰囲気は今は塔だけで全般的にはヒンドゥー様式のような気がします。写真をクリックしてみてください。柱の彫刻がよく判ります。


インドでは赤砂岩がよく使われますがシンプルな花崗岩のような柱もありました。


文様もいろいろありました。


柱の前で記念撮影です。真中のインドの女性と子供さんは依頼されて一緒に撮っているのだと思います。
クリックすると拡大

日本のお坊さんも見学にこられていました。


この鉄柱が有名なんです。1600年前の鉄柱だそうです。鉄柱のネットの説明は以下のとおりです。
モスクの中庭に、4世紀に鍛造されたという高さ 7.2メートル・重さ6トンの鉄柱(チャンドラヴァルマンの鉄柱)が立っている。
鉄柱は極めて良質の鉄鉱石を木炭で還元し、少しずつ作り出した古代鉄を集めてつくったもの。鉄柱の純度は98%である。鉄柱の頂点部分には穴があいており、ヒンドゥ教ヴィシュヌ神を乗せたガルーダの彫像が奉られていた、と考えられている。鉄柱の基部には「偉大な王チャンドラ」と刻まれた碑文がある。チャンドラとは、ヒンドゥ教を奉じていたグプタ朝(320~550頃)チャンドラグプタ 2世(在375~413頃)と考えられている。
この鉄柱だが雨ざらしにもかかわらず、錆びずに約1600年経つ今も現存しており、世界七不思議にあげている人もいる。インド人の間では、背中に鉄柱をあて鉄柱越しに腕を回して、自分の手を掴めると幸せになる、と言われている。
クリックすると拡大

鉄柱には文字が書かれていました。


遺跡の雰囲気が高い建物も沢山ありました。


寺院と言うよりは遺跡の雰囲気です。


無造作に石の柱などが転がっています。広い敷地内に点在しているのです。


この横に倍の高さを目指した塔(アライ・ミナール/Alai Minar)の底部の残骸が残っています。
クリックすると拡大

芝生の上では沢山の人がくつろいでいました。ゆっくりすることで、より雰囲気を味わえるような気がします。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大  クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示

nice!(87)  コメント(38) 

新幹線からの伊吹山 2024年8月11日 [話題]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
先日、新幹線からの富士山の記事へのTake-Zeeさんから「新幹線から見える山で富士山と伊吹山が好きです。富士山は地元からも見えますが伊吹山が見えると嬉しかったです。」とコメントでいただいたことから、新幹線から見える伊吹山の本記事を掲載させていただきました。伊吹山は「いぶきさん」と呼ばれる地域もありますが国土地理院も含めて「いぶきやま」と呼ばれことが圧倒的に多いようです。
乗った新幹線は2024年8月11日の東京6時42分発のぞみ105号でした。クリックすると拡大
ちなみに今回乗った車両はWorkシート車両でした。席番号8番E席Wの末尾にWと書かれているのがWorkシート車両を表しているようです。そのためにパソコンを持ってきたのですが、Workシートは3人席の5番より後ろだけで、他は普通の席でした。満席だったので結局パソコンはリュックから出しませんでした。
名古屋駅を出発して、しばらくすると前方に小さく伊吹山が見えたので写真を撮りました。今回の中で最初に撮ったのが上の写真①です。遠くからでもすぐに伊吹山だと分かるのは、伊吹山が石灰岩が多く含まれていることから白い山肌が多く見られるためです。時刻は8時53分32秒でした。この写真の撮影位置は後で紹介しますが、決め手になったのが クスリのアオキ 赤い色の看板でした。SV

上の写真から標高1377.31mの伊吹山あたりを切り取って拡大したのが、こちらの<写真です。こちらの写真はもう少し広い範囲の写真を表示します。
撮影したのは、岐阜羽島駅を通過して5.62kmの距離の場所です。
クリックすると拡大

こちらは上の写真の3秒後の8時53分35秒に撮った写真②です。上で拡大写真を紹介したので、伊吹山はすぐに分かっていただけると思います。こちらの位置は青色のトラックでした。SV1 SV2
クリックすると拡大

こちらは上の写真から19秒後の8時53分54秒にズームで撮った伊吹山の写真③です。新幹線は南海トラフ地震への警戒から三島駅と三河安城駅の間でスピードを落とした運転していてことと名古屋駅で体調を壊した方がおられたことから、この時点で約20分の遅れで走行していました。最終的に新大阪に19分遅れで到着しました。SV
クリックすると拡大

Googleマップで①~③の位置を紹介します。黄色のラインが伊吹山の方向です。マップ内の が①の位置を特定する決め手となった「クスリのアオキ大井店」です。ここから下で④~⑮から撮った伊吹山の写真を紹介します。


クリックすると拡大列車の進行とともに伊吹山は手前の山に隠れました。送電鉄塔の右に伊吹山が少し見えています。右下の建物は不破ノ席病院です。
時刻は8時55分21秒です。写真④
下の写真は右の写真から伊吹山が見えているあたりを切り取りました。
クリックすると拡大

鉄塔の両サイドの白っぽく見えているのが伊吹山です。この写真は撮った写真をトリミングしているため写っていませんがオリジナルの写真には(株)サコの建物が写っていることから場所が特定できました。時刻は8時55分30秒です。写真⑤
クリックすると拡大

列車の進行とともに伊吹山本体が見えてきました。
時刻は8時56分13秒です。写真⑥
コンデジのフルズームに近い状態(87.6%=32.249mm÷36.8mm)で撮って、クリックすると拡大右下の写真のように電気盤が屋上に設置された鉄筋コンクリートの建ての建物が見える場所ですが、この建物は国保関ケ原診療所であることがSVで判りました。
クリックすると拡大

さらに大きく見えてきました。時刻は8時56分24秒です。SV 写真⑦
 標高 1377.31m
 住所 滋賀県米原市岐阜県揖斐郡揖斐川町岐阜県不破郡関ケ原町
 山系 伊吹山地
 種類 堆積岩(石灰岩)
クリックすると拡大

また手前の山に遮られました。時刻は8時56分26秒です。写真⑧
クリックすると拡大

伊吹山全体が見えるようになりました。時刻は8時57分30秒です。写真⑨ SV
伊吹山は古くから霊峰とされていて、古事記や日本書紀においてはヤマトタケル(日本武尊)が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されているそうです。
クリックすると拡大

人家が沢山ある場所です。時刻は上の5秒後の8時57分35秒です。写真⑩
伊吹山は、古事記では伊服阜能山と記され、日本書紀では五十葺山と記されているそうです。他にも伊吹山や伊吹の別表記として膽吹山、伊服阜山、伊夫阜山、伊福貴、異吹、伊布貴、伊夫伎などがあり、かつて修験道においては大乗峰と呼ばれていたそうです。
クリックすると拡大

もう一枚、人家の背景に伊吹山がある写真を紹介します。大きな屋根の建物は真宗大谷派の見瑞寺(滋賀県米原市大野木1468番地)です。時刻は上の写真の1秒後の8時57分36秒です。写真⑪
クリックすると拡大

こちらの時刻は上の写真の14秒後の8時57分50秒です。写真⑫ SV
伊吹山の左側すそ野が白っぽく見えているのはセメントの原料の石灰岩の採掘場所だったところです。1952年に出来た山の麓の住友大阪セメント伊吹工場は2003年に生産を停止し一部の解体が進んでいるそうです。
クリックすると拡大

伊吹山から離れていく位置に来ました。時刻は8時58分09秒です。写真⑬ SV
クリックすると拡大

少しズームしました。石灰岩の採掘場だった場所がよくわかります。伊吹山の手前に2つの山のような緑がありますが、右側は山ではなく王街道の欅(けやき)と呼ばれているケヤキの木です。その右側の小山は油里城があった山だと思われます。地図で油里城跡と書かれているのは電波塔が建っている山頂ではなく手前側の少し高くなった麓です。時刻は8時58分13秒です。写真⑭ SV
クリックすると拡大

手前の左側の山(城山城跡)で伊吹山が見えなくなる寸前です。
一番手前の民家の屋根をGoogleマップで見つけました。→SV1
上の写真⑭は1秒前なのですべての写真(①~⑮)の撮った位置が確定しました。
冒頭の写真①から4分39秒後の写真⑮です。8時58分14秒
クリックすると拡大

上の写真⑮の撮影位置を確定した地上からのSV画面です。SV0 SV1 SV2
残念ながらストリートビューが撮影された時(2023年6月/juin 2023)は伊吹山の頂上付近は雲で覆われていました。


写真を撮った場所です。新幹線からの伊吹山方向の写真に送電線の鉄塔が沢山写っていたのでプロット( )しました。


西側の⑨~⑮の部分を大きく表示しました。クリックすると拡大
Googleマップ内の が⑫の位置を特定するのに役に立った右の写真のI・T・O株式会社です。


tarouさんにコメントで伊吹山ドライブウェイのことを教えていただいたので、伊吹山ドライブウェイの頂上の駐車場から山頂への登山道に入る部分のストリートビュー(SV)を紹介します。
クリックすると拡大右のようにGoogleマップでの駐車場の標高は1239mなので、あと138m登れば山頂(1377m)まで行けることになります。


さらに伊吹山ドライブウェイ入口(伊吹山口)から駐車場までの11ケ所のSVも紹介します。→ SV入口 SV1(料金所) SV2 SV3 SV4 SV5 SV6 SV7 SV8 SV駐車場 SV登山道 車ルート 徒歩ルート 下に表示させているのはSV7


クリックすると拡大同じ日に富士川を渡る時に富士山方向の動画を撮りましたが、残念ながらこの日は富士山は霞んでいました。
右は2024年7月28日に撮った写真です。動画だと鉄橋のトラスが気になります。


2023年12月28日の山頂に雪がある伊吹山の写真を紹介します。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。右2枚の2024年8月11日の写真⑩と写真⑪の間で撮った写真です。
クリックすると拡大

クリックすると拡大こちらは2024年3月11日に広島から関東の自宅に帰ってくるときに撮った雪のある伊吹山の写真です。今回の右の写真⑬に近い角度です。
この時の旅での広島などの記事を下記のようにいくつか掲載しました。タイトルをクリックすると記事を表示します。
山口県の墓参りの新幹線と車の旅 朝食「ひっぱりだこ飯」
昼食は本場の「広島のお好み焼き」を食べました。五エ門
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大原爆ドーム 
広島平和記念資料館
縮景園
広島での初めての従妹夫婦との食事会 活きウマヅラハギ 海の幸・磯の坊
クリックすると拡大
nice!(137)  コメント(41) 

韓国と言えば焼肉 [韓国]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
IMG_6333-1140.jpg
韓国の刺身の記事を紹介したので、今までに掲載した韓国の焼肉の記事を3つ紹介します。着色文字をクリックするとオリジナルの記事を表示します。日付は焼肉を食べた日です。今回の記事を書くにあたり3ケ所の焼肉店の場所を特定することが出来ました。2番目の焼肉店は名前すらわかりませんでしたが写真の中に映り込んでいた電話番号( )が手掛かりでした。
 2010年02月01日 韓国に行くと一度は焼肉を食べたくなります
 2006年01月19日 刺身の次の日はヤッパリ焼肉
 2006年06月21日 生カルビ 韓牛
IMG_6333-1140.jpgクリックすると拡大IMGP8007-960.jpg


2010年02月07日掲載 タイトル : 韓国に行くと一度は焼肉を食べたくなります
2024年08月11日 閲覧数:2,645 nice!: 99 CMT :18 オリジナル記事
IMG_6333-1140.jpg
韓国の焼肉を再掲載いたします。この日の前日は成田空港のアクシデントなどでソウルのホテルに着いたのは22時半で、その日の夕食は諦めました。でも韓国に来ると、やっぱり焼肉が食べたくなりますね。この日はロースを食べました。韓牛は和牛と同じ霜降り肉です。

鍋用の埋め込み式のガスコンロの上に炭火が入れられた陶器製のコンロが置かれこの上で焼肉を焼いてくれます。


店内です。焼肉店はテーブル席のところもありますが、座敷式が多いです。座敷のお店が多いところは日本と似ています。結構、洒落たお店でした。


焼肉は全て女性の店員の人がやってくれます。鋏を使うのは韓国流で、韓国に来たことを実感させてくれる瞬間です。そして金網は頻繁に代えてくれます。5~6回は金網を代えてくれました。いつもピカピカの金網の上で焼いてくれるのでお肉もきれいで美味しいです。こだわっていますね。
IMG_6335-960.jpg

食べるペースに応じて焼いてくれます。焼きあがると焦げないように金網の端の方に移動してくれます。
クリックすると拡大

取りかえた金網は丁寧に脂を塗ってくれます。焼肉の焼き方にはこだわっていました。


今回はロース肉を4回に分けて焼いてくれました。この程度の量が4回で3名で食べました。
IMG_6337-1440.jpg

普通はコチジャンをつけて野菜で巻いて食べることが多かったけれど、このようなサラサラしたタレが出てきたのは初めてでした。塩で食べるのも初めてでした。やはり塩が美味しかったです。肉が美味しい証拠ですね。


定番の無料のおかず群です。これ以外にも沢山の無料のおかずが出てきます。お皿の上のおかずがなくなると、黙っていても追加で乗せてくれます。蟹が美味しかったです。肉を巻く野菜も沢山出してくれました。


ロース肉を食べ終わった後に別の肉も頼みました。カルビです。いつものカルビと違い細長いところを見るとアバラ骨の間の骨に添った部分の肉と想像されます。


焼きあがったところです。これも鋏で切ってもらい食べました。これも美味しかったです。大満足でした。
これがお店のネームカードの表と裏です。
お店の名前は「牛怒」と漢字で書かれていました。
お店のハングル名は우노です。
ハングルの3文字は人の名前だそうです。
インパクトのあるお店でした。
IMG_6339-1200.jpg

ストリートビュー(SV)でお店を探してみました。


航空写真で場所( )を表示します。
 牛怒(우노)
 원당 감자탕 (원당 カムジャタン)



2010年02月24日掲載 タイトル : 刺身の次の日はヤッパリ焼肉
2024年08月11日 閲覧数:1,977 nice!:141 CMT :24 オリジナル記事
クリックすると拡大
韓国で刺身を食べたら次は焼肉ですね。この日も生カルビはありませんでした。ロースも美味しかったです。これも韓牛です。

韓国は、必ず食べやすい大きさに肉をハサミで切ってくれます。


今、日本は野菜が高いけれど野菜類は食べ放題
クリックすると拡大

今回は最後に水冷麺にしました。
見た目と違いおいしいんですよ。
クリックすると拡大

こんな鍋を頼んでいる人もいました。焼肉店の場所は、お刺身専門を紹介した韓国のクリックすると拡大東海岸にあるサムチョク(Samcheok/三陟市/삼척시)です。この焼肉店では少なくとも2度(2005年11月21日と2006年01月19日)食べました。この写真に電話番号が写っていたのです。電話番号はスプーンの持ち手の辺りです。
 名前 큰집숯불닭갈비
 住所 江原道三陟市大漢路39
 電話 033-574-8228 
 HP https://m.blog.naver.com/yuuni06123/222774465990
クリックすると拡大

お店のあった場所( )をGoogleマップで表示します。
 큰집숯불닭갈비 焼肉店
 펠리스횟집   刺身店
 항구식당    刺身店



2010年02月19日掲載 タイトル : 生カルビ 韓牛
2024年08月11日 閲覧数:2,647 nice!:124 CMT :14 オリジナル記事
IMGP8007-960.jpg
なかなか生カルビは食べれないんです。ここ何回も生カルビは売れ切れでロースで我慢してきました。
今回はまだ韓国で焼肉を食べたことがない人がいたので確実に生カルビが食べれるお店にしました。
泊まったホテル直営(ホテルプリマ?)なので高めですが本物の生カルビが確実に食べれるので奮発!
そして憧れの生カルビを注文 写真をクリックすると拡大します。 
一枚が一人前で42,000ウォン(4,200円)

食べるタレはコチジャン(左)か塩(右)で食べます。プレースマットの풍류관の文字の前に書かれているマークはHOTEL PRIMAのマークです。写真をクリックすると特別に大きく拡大します。拡大すると、お店の名前やマークや電話番号が判ると思います。


もちろん炭火焼きです。頻繁に金網を交換してくれます。その交換の一瞬にパチリ


ハサミで切ってくれます。全国共通ですね。


牛刺をサービスで!


もう1人前追加すると


スープをサービスしてくれました。


お店の名前はハングルなので判りません。日本語読みは、しまさんに教えてもらいました。お店があったと思われる場所は、別のお店になっていることからホテルの中に移転したかもしれません。電話番号で検索した住所はホテルの位置でした。
 店名:(プンリュウカン) 풍류관(風流館)
 電話:02-6006-9300 クリックすると拡大
 住所:江南区清潭洞52-3 강남구 청담동 52-3
クリックすると拡大

お店のあった場所( )をGoogleマップで表示します。
上で紹介した牛怒(우노 )と近い場所でした。キムチ・サムギョプサル (김치・삼겹살 )を食べたカムジャタンの専門店( )にはもっと近かったです。
 풍류관(風流館)
 牛怒(우노)
 원당 감자탕 (원당 カムジャタン)

タグ:焼肉 韓国
nice!(102)  コメント(24) 

豪華な刺身料理 [韓国]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年08月06日再掲載 タイトル : 豪華な刺身料理クリックすると拡大
再掲載した前記事「泊まったホテルは映画のロケ地でした。」で韓国の刺身に興味を持っていただいたので、本記事を再掲載いたします。お刺身専門店のお店は前記事とは違いますが、前記事と同じ東海岸側(日本海側)のサムチョク(Samcheok三陟市/삼척시)の海岸沿いにあるお店でした。本格的な韓国の刺身専門店で食べたのは4回目だったと思います。地図のがソウルです。
本記事は古い14年前の記事ですが「"豪華な刺身料理" 韓国 ブログ」で検索すると本記事が表示されました。→ポチッ1 ポチッ2クリックすると拡大
初めて韓国式の刺身を食べたのは、さらに数年前で写真は撮っていないし古いことなのでお店の名前や正確な場所は覚えていませんが、ソウルから高速道路を東に走って日本海に出たところの右の地図のカンヌン(Gangneung/江陵市/강릉시)の町の中のお店だったと記憶しています。雰囲気は似ていました。
 2010年02月25日 掲載
 2024年08月06日 再掲載 閲覧数:1,982 nice!:130 CMT :36
 2024年08月07日     閲覧数:2,210 nice!:168 CMT :52
 2024年08月08日     閲覧数:2,298 nice!:179 CMT :56
 2024年08月09日     閲覧数:2,357 nice!:192 CMT :60
 2024年08月10日     閲覧数:2,404 nice!:195 CMT :62

2010年02月25日掲載  タイトル : 豪華な刺身料理
IMGP8028-1040.JPG
前日は生カルビの焼肉でしたが、この日は刺身です。
さあ焼肉と刺身どちらがお好みですか?IMGP8028-1040.JPG
韓国式は、この刺身だけがお金を支払う料理です。これで7人前です。 多いと思いませんか。以前に紹介した刺身よりさらに豪華な気がします。平目や石鯛やアイナメなどの白身系の魚が5種類 すべて天然物でイケスで活きていた魚をさばいています。刺身はワサビ醤油か韓国独特のタレでたべれます。お酒は右の写真の百歳酒と焼酎のブレンドでした。

一皿のみ拡大 クリックするとさらに拡大するので、新鮮さを味わってください。私は白身の刺身が好きなので新鮮な白身の魚は最高でした。
IMGP8029-866.JPG

ここから下の料理はすべておまけ(無料)です。上の刺身を注文すると、あとは女将の裁量でおまけが沢山出てくるのです。この方式が韓国式です。韓国に来て最初に驚いたのが、この方式だったのです。

アワビ、活き海老 活きなまこ 活きうに 生簀で活きていたズワイガニ 不明な一品
IMGP8032-1010.JPG

一皿のみ拡大 これがニ人前の「おまけ」です。大きな蟹が一人一匹です。
IMGP8033-900.JPG

ヤッパリ活きた海老は美味しかったです。 
IMGP8037-1075.jpg

この魚の煮付けも立派でした。
IMGP8037-1075.jpg

うにだけを拡大してみました。


カニはきれいにむいてくれます。


活きていたつぶ貝 活きていた海老 活きホヤ 活きホタテ
写真以外に「韓国お好み焼き」「秋刀魚」「活き烏賊刺身」「握り寿司」「活きわかめ」「貝の焼き物」「魚のフリッタ」「野菜が2点」「きのこの焼き物」「くらげの酢の物」「するめ」が出てきました。IMGP8037-1075.jpgそれらが全て無料とは絶句です。これらのメニューは全て女将の裁量で決まるそうです。 「おまけ」は女将の裁量で決まるので、いいお店があると、行きつけになることをお薦めします。


最後に魚のあらを使った鍋とごはんで締めでした。


キムチが2種類


どちらのキムチも美味しかったです。


お店の前の海の岩場では魚を釣る人がたくさんいました。
クリックすると拡大

昔のことで、お店ははっきりとは分かりませんが、この中にある可能性が高いと考えています。一番の候補は一番南の2つ小さな建物(緑の屋根と青の屋根)のひとつで、次の候補は北側の3つの大きな建物のひとつです。ただし北側の辺りは海面からの高さがあるので、上のような水平に近い角度では岩場の写真は撮れないため、南側が一番の候補としています。残念ながらこの辺りはストリートビュー(SV)が登録されていないので、SVでは確認できません。ちなみに緑の屋根のお店の名前は해뜨는집(訳:太陽の家)です。

タグ:刺身 韓国

泊まったホテルは映画のロケ地でした。 [韓国]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年08月04日再掲載 タイトル : 泊まったホテルは映画のロケ地でした。
前々記事おしゃれに並ぶ朝食の泊ったクリックすると拡大茨城県日立市の太田尻海岸にある「うのしまヴィラ」が右下の写真のように「四月になれば彼女は 2024年公開」のロケ地だったことを機会に、以前に泊まった韓国のホテルが映画「四月の雪 2005年公開」のクリックすると拡大ロケ地だった本記事を再掲載いたします。クリックすると拡大
その場所は韓国の東海岸側(日本海側)のサムチョク(Samcheok三陟)の海岸に接した崖の上に建つ右の写真のホテルでした。
 2015年11月25日 掲載
 2024年07月26日     閲覧数:2,094 nice!: 68 CMT :20
 2024年07月27日     閲覧数:2,106 nice!: 68 CMT :20
 2024年08月02日     閲覧数:2,108 nice!: 68 CMT :20
 2024年08月04日 再掲載 閲覧数:2,108 nice!: 68 CMT :20
 2024年08月05日     閲覧数:2,202 nice!: 85 CMT :22
 2024年08月06日     閲覧数:2,372 nice!:116 CMT :34

2015年11月25日掲載  タイトル : 泊まったホテルは映画のロケ地でした。
クリックすると拡大
韓国の東海岸で泊まったホテルに上のチラシを見つけて撮りました。こちらのホテルは2005年9月に公開された「四月の雪」の撮影現場だったのです。

チラシの写真のRoom No.1601は特別の部屋だったのだと思います。
今回、私の泊まった部屋は撮影のあった階と同じで、そのラブシーンお部屋のすぐそばでした。右はチラシの中の写真を拡大したものです。

下の写真は私の部屋です。ベッドやソファーやテーブルからラブシーンが撮影された部屋と同じタイプの部屋だったことが、わかってもらえると思います。


こちらもチラシの中の写真を拡大したものです。右がペ・ヨンジュンさんで、左がソン・イェジンさんです。
ホテルの前にあるお刺身屋で我々も食事をいたしました。そしてペ・ヨンジュンさんが座っている、まさにこのテーブルで我々も食事をいたしました。私も右側に一人で座りました。下の写真はその時の食事の写真です。目印はテーブルの上のガラスに挟んだ大きな写真です。他のテーブルには写真が入っていないので行かれたら探してみてください。ちなみにヒラメを注文するとテープの上の料理は全ておまけでした。
クリックすると拡大

こちらがヒラメの刺身です。このヒラメを注文すると、上の写真の料理がすべて無料なのです。
クリックすると拡大

ヒラメ刺身や無料の刺身は、こちらのいけすに入った食材です。ほんと新鮮でした。
クリックすると拡大

ホテルのロビーにはメッセージを張るボードがありました。


私の部屋の廊下には、このような飾り付けが行われていました。
クリックすると拡大

その廊下の壁に張られた紙に書かれたメッセージも、すごかったです。


メッセージで埋め尽くされていました。メッセージの日付は映画が公開された2005年が多かったです。クリックすると文字が読める大きさに拡大します。
クリックすると拡大
クリックすると拡大
クリックすると拡大

ホテルの部屋からは日本海(韓国名 : 東海)を昇る朝日を見ることが出来ました。天気が良かったら、もっと、すばらしい景色だったと思います。
クリックすると拡大

背の高い建物が泊まったホテルです。建物の陰で見えませんがホテルの左側に夕食を食べた刺身専門店がありました。
クリックすると拡大

映画「四月の雪」の3分47秒の動画です。頭から1分38秒からが、今回のホテルの部屋のシーンです。上で紹介の部屋の写真と似ていることがわかってもらえると思います。


二人の写真をネットから拝借いたしました。( )内は映画公開当時の年齢です。
 左側 : ソン・イェジン 孫 藝珍 1982年1月11日生 33歳(23歳) 
 右側 : ペ・ヨンジュン 裵 勇浚 1972年8月29日生 43歳(33歳) 
クリックすると拡大クリックすると拡大

クリックすると拡大ホテルと刺身専門店の場所を紹介します。地図上のアイコンマイナスを数回クリックしていただくと位置がわかってくると思います。クリックが面倒な方に三陟市の場所を赤色で右の地図でも紹介します。濃い灰色が江原特別自治道です。
 三陟パレスホテル 펠리스호텔 Samcheok Palace Hotel
 刺身専門店 펠리스횟집

新幹線からの富士山 2024年7月28日 [話題]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
2024年7月28日(日)の早朝に関西から関東の自宅に帰ってきました。この日も富士山(標高3776.12m)が見える側の席に座って富士山を撮ったので紹介します。上の写真が今回で一番早く富士山をとらえた写真です。見えたのはもう少し前からですが、障害物もあり前方の窓枠ぎりぎり角度のため、この写真が最初になりました。下の航空写真ではの位置になります。新幹線の進んで行く方向に限りなく近いので写真の右端の位部分は窓枠なのです。この写真の撮影位置から富士山までの距離は50.4kmです。撮影位置の特定は静岡保線所黄色のダクトが目印になりました。

2023年4月9日に富士山の写真を撮った時の航空写真に、今回の写真を撮った位置を書き込みました。から富士川までのが書き込んだマークです。2023年4月9日の時よりもかなり前から富士山の写真を撮ることが出来たようです。は静岡駅を出てすぐの位置です。JR在来線の東静岡駅の近くです。空色ライン(━━)が今回(2024年7月28日)で、右上に少し見えている黄色ライン(━━)が昨年(2023年4月9日)に新幹線から富士山を撮った方向です。
クリックすると拡大右の分度器で角度を測ってみると富士山方向は進行方向に対して17度で、20度でした。真横が90度です。分度器を捜して見つからなかったので、赤ちゃんを連れて家に来ていた娘に学生時代に使っていた分度器を捜してもらって使いました。


ここはまだ静岡市清水区で富士山との間に浜石岳(706.81m)などのいくつかの山があります。この写真の撮影位置から富士山までの距離は47.3kmです。こちらの撮影位置の特定は洋服の青山とMISUMIグループとNTT静岡支店ビルの上の電波塔です。2023年4月9日の時の記事はこちらです。→ポチッ
クリックすると拡大

富士山までの間に山は無くなりました。住所的には富士市中之郷になります。この写真の撮影位置から富士山までの距離は27.1kmです。
クリックすると拡大

富士川を渡る寸前の位置です。見えている橋は水道のための水道橋です。この写真の撮影位置から富士山までの距離は26.9kmです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大さらに富士川を渡る写真を2枚紹介します。2023年4月9日に撮ったの右の写真に近い構図ですが川の水の位置から、より僅かに西の位置から撮った写真でが、位置はということにいたします。
2023年4月9日のの時は山頂に雪がありましたが、今回はさすがに雪はありませんでした。
クリックすると拡大

少し進んだ位置からの富士山さんの写真です。クリックすると拡大新幹線の鉄橋は右の写真のようにトラス橋なので車内から撮った写真には鉄骨が写り込むことが多いのですが、今回は鉄骨が写り込む写真が少なかったです。
右の写真はネットから転用させていただきました。
クリックすると拡大

航空写真の富士川付近を拡大しました。
新幹線の進行方向に対して富士山の方向は62度で、64度です。
 ❸❹❺ 2024年7月28日撮影位置 今回
  2023年4月09日撮影位置 前回
 ━━━ 水道橋


2023年4月9日の時は、富士川を越えてからは沢山の写真を撮ったので今回は❼を少し過ぎたところから⓬辺りまで動画を撮りました。
上で紹介しましたが、空色ライン(━━)が今回(2024年7月28日)で黄色ライン(━━)が昨年(2023年4月9日)に新幹線から富士山を撮った方向です。


こちらが今回撮った動画です。を過ぎた辺りから越前岳に隠れて見えなくなるあたりまで撮っていますが、最初の頃は障害物が多いのでプレーボタンをクリックするとあたり(の裏に隠れている)から始まるように設定しています。最後まで行くと頭のあたりから再生し永遠に繰り返すように設定しています。

nice!(100)  コメント(36) 

映画「四月になれば彼女は」のロケ地になった「うのしまヴィラ」 おしゃれに並ぶ朝食 [茨城]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
クリックすると拡大前記事「太田尻海岸 「うのしまヴィラ」での夕食」で紹介したように2024年7月6日に茨城県日立市の太田尻海岸にある 「うのしまヴィラ」に泊まりました。前記事で夕食を紹介したので本記事では朝食を中心に紹介したいと思います。上の写真が夕食や朝食を食べたフロント棟の入口です。入口の上のシンボルマークにあるように、うのしまヴィラ(UNOSHIMA VILLA)は1959年に祖父が創業した鵜の島温泉旅館をリニューアルしたそうです。きっかけは2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震で、旅館の売りであった木造の白い土壁に修繕不能なほどの被害を受けたことだったそうです。3年の月日をかけて名前も新たに再起したのが今の「うのしまヴィラ」だそうです。現在の宿泊棟は鉄筋コンクリート製だったことから内装をリニューアルして使えるようにしたそうです。

上の建物がフロントやレストラン&カフェ(Sea・ne/海音)があるフロント棟で、我々が泊まった宿泊棟は右にあります。朝食はここからフロント棟の中に入っていきました。
クリックすると拡大

入口を入って正面に掛けてあったのがこちらのパネルでした。ネットによれば太田尻海岸と宿泊施設「うのしまヴィラ」でロケが行われたそうです。映画のタイトルは四月になれば彼女はでした。パネルに入口が反射して写っています。
クリックすると拡大

クリックすると拡大夕食を食べた同じ席に用意されていました。ホームページなどでも写真が使われている海が見えるコーナー席は一番の席だと思います。赤ちゃん連れパワーのおかげだと思います。
右の写真が夕食時に撮っていただいた写真です。
クリックすると拡大

タイトルのように、おしゃれに並べられていました。朝食我々が席に付いたら、温かい料理つまり、ご飯や味噌汁や焼き魚が並べられるのだと感じました。
クリックすると拡大

最初に焼鮭が並べられました。
クリックすると拡大

次にお椀が置かれました。たぶん味噌汁だと思いましたが、それにしては大きなお椀でした。後ろ立っている方が館主(代表取締役)の原田実能さんです。
クリックすると拡大

最後にご飯が並べられました。ただし、飲み物は飲んでしまっていました。写真のために待てばよかったと記事を書き始めてから後悔しました。
クリックすると拡大

飲む前に撮った飲み物の写真を掲載します。
クリックすると拡大

味噌汁の具はシメジでした。ほんとボリュームがありました。
クリックすると拡大

小鉢も紹介します。一番右にあった温泉玉子です。
クリックすると拡大

いろんな味と食感が楽しめました。
クリックすると拡大

最近は知りませんが、茨城県と言えば納豆です。
クリックすると拡大

漬物も紹介します。
クリックすると拡大

もちろん食後のデザートがありました。いろいろチョイスできました。飲み物はコーヒーにいたしました。
クリックすると拡大

デザートも拡大いたしました。デザートはブルーベリーのソースがかかっていました。
クリックすると拡大

宿泊客以外も受け入れているのでレストラン&カフェとしての名前のCAFE & DINING 海音(Sea・ne)の名前が付けられていました。
クリックすると拡大

日本野菜ソムリエ協会の認定書が飾られていました。
クリックすると拡大

宿とレストランの館主(代表取締役)には茨城県知事から、いばらき観光マイスターS級が認定されていました。
クリックすると拡大

旅行新聞社からは、日本の小宿として「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100撰」にもうのしまヴィラが選ばれていることも知りました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大そして最初に書いたように映画「四月になれば彼女は」のロケ地になっていたのです。3人のサイン色紙が飾られていました。左から長澤まさみさん佐藤健さん森七菜さんの色紙だと思います。顔写真はネットから転用させていただきました。
クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

クリックすると拡大と言うことでタイトルに、映画「四月になれば彼女は」のロケ地になった「うのしまヴィラ」 と入れさせていただきました。
右の3枚の写真は日立市の公式(旧Twitter)からクリックすると拡大クリックすると拡大撮影風景を転用させていただきました。一番右の写真はフロント棟内です。
クリックすると拡大

四月になれば彼女はは2024年3月22日に公開された映画です。山田智和監督にとって長編映画初監督作だそうです。
それでは予告編の動画を紹介します。予告編の中には「うのしまヴィラ」が写っていないようですが、動画の頭から1分11秒と1分15秒(確実)と1分18秒~1分19秒に太田尻海岸が一瞬ですが出来ているようです。1分15秒の画像は岬が同じなので太田尻海岸であることは確かです。プレーボタンをクリックすると1分10秒から動画を再生し、終わった後は頭から永遠に繰り返すように設定しております。


太田尻海岸と思われる3画面をハードコピー画面で紹介します。
頭から1分11秒後の画面です。元は暗い画面の動画ですが、画像処理で明るくしてみました。クリックすると拡大撮った写真の中にこの位置からの写真はありませんが、歩いて散策した時の記憶から太田尻海岸であると思われました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大頭から1分15秒後の画面です。右の写真が私が撮った太田尻海岸の北東方向の岬の写真です。映画の背景の岬の形から太田尻海岸であることが分かるりました。
クリックすると拡大

1分18秒~1分19秒の画面の背景に上と同じ岬があると思われることから太田尻海岸と思われます。短い予告編の中に太田尻海岸が入っているのに感激いたしました。
クリックすると拡大

ここからは前記事で紹介し尽くせなかった太田尻海岸の景色を紹介したいと思います。先ずは海岸の右端の岩山です。
クリックすると拡大

岩山は不思議な空間を岩が囲うように浸食されていました。
クリックすると拡大

砂浜と岩山の間には小さな小川が流れていました。簡単にまたげるほどの小川でした。これだけなら記事には書きませんが、実は海岸の左側も岩山と砂浜の間に小川が流れていたので気になったのです。そちらの方は濡れずには渡れないほどの幅の小川でした。
クリックすると拡大

南西方向の海岸沿いの岩は不思議な光景を見せてくれていました。
クリックすると拡大

左側(北東方向)の岩山の方に行ったのは、岩山に登って朝日を撮るためでした。
クリックすると拡大

ところが、濡れずには渡れないほどの小川があったのです。水はきれいでした。
クリックすると拡大

小川沿いもなかなかの奇岩でした。
クリックすると拡大

陸の方に大きく廻りこんで岩山の向こうに出て朝日を撮ろうとも思いましたが、道がぬかるんでいて完全に断念いたしました。
クリックすると拡大

朝食後に明るくなって外に出てみると西行法師(元永元年[1118年]~文治6年2月16日[1190年3月23日])の歌碑が建っているのに気が付きました。西行歌碑には下の緑色文字のように書かれていました。この歌碑は前身は「鵜の島温泉旅館」の初代館主の島崎二三男さんによって昭和四六年四月吉日に建立されたそうです。右の写真の茶色の屋根の建物が全て鵜の島温泉旅館の施設です。
クリックすると拡大       西行法師
      大田尻 衣は難幾何
         波た可し万
      沖吹く加世耳
         三に八志萬ぬ駕
            秀峰書

ネットの裸島と西行歌碑によれば「この歌は、平安時代末期頃、栄蔵という修験僧が、田尻海岸の小島(ぐみ島。今は海中に没してない)に小屋(栄蔵小屋)を建て住んでいたのを、 尋ねてきた西行が栄蔵の貧しい生活ぶりを裸島と結びつけて詠んだものである。」そうです。
後ろにある木造の建物が「うのしまヴィラ」の食事を食べたフロント棟です。
クリックすると拡大

10時前にチェックアウトして近くのショッピングモールSEA MARK SQUAREで買い物をして娘たちの車で日立駅まで送ってもらいJR特急ひたち10号に乗り、上野で京成電鉄に乗り換えました。
クリックすると拡大
nice!(129)  コメント(20) 

太田尻海岸 「うのしまヴィラ」での夕食 [茨城]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
先日、2024年7月6日に茨城県日立市の太田尻海岸にある 「うのしまヴィラ」に泊まりました。本記事では施設と夕食を紹介したいと思います。この建物にはフロントカウンターと食事エリア「Cafe & Dining 海音(Sea-ne)」があり、宿泊エリアは隣接した別棟になっています。クリックすると拡大右の写真のように、2024年3月26日に生まれた娘夫婦の赤ちゃんの百日祝い(お食いはじめ)で、茨木県に来たので、日帰りするのはもったいないので、今回紹介の 「うのしまヴィラ」に泊まって夕食を楽しんだわけです。百日祝い(お食いはじめ)は娘の旦那の実家で行われました。

こちらは太田尻海岸の右方向の景色です。うのしまヴィラのプールが右端に少し写っています。
クリックすると拡大

こちらが正面の景色で太平洋です。太平洋に面していることが実感されます。
クリックすると拡大

こちらが左方向の景色です。まさにプライベートビーチのような雰囲気です。
クリックすると拡大岬の先の海の中の岩(小さな島)の名前は裸島で、鵜をよく見かけることから鵜の島(うのしま)とも呼ばれているそうです。どうやらヴィラの名前の由来のようです。前身は「鵜の島温泉旅館」でした。全国12ケ所の鵜飼の中の11ケ所の鵜は、近く(約6km)の日立市十王町の鵜の岬ウミウ捕獲場で捕獲されているそうです。
クリックすると拡大

Googleマップの航空写真で場所の雰囲気を紹介します。ビーチのプライベート感が判っていただけると思います。SV


ドローンで海の方から撮った画像も紹介します。360°回転させてみてください。いろんな方向の景色が判ります。近くに無料の温泉スタンドもあります。


白い建物が宿泊棟です。右の建物の2階も宿泊エリアだと思います。その建物の1階はイベントエリアのようです。ネットで調べてみるとユズリハハウスと名前がついていました。左の建物(フロント棟)が冒頭で紹介したフロントカウンターと食事エリア「Cafe & Dining 海音(Sea-be)」があります。
クリックすると拡大

我々が宿泊した部屋です。隣り合わせの2タイプを借りました。左のの部屋は海が下側で右の部屋は海が上側です。本図は「うのしまヴィラ」さんのホームページから転用させていただきました。写真は左側の洋室です。
クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大

レストランの屋外テラスです。最も奥(海側)の室内側が、我々が夕食を食べた場所です。
クリックすると拡大

夕食を食べた席がこちらです。前菜が出たところで写真を撮っていただきました。
クリックすると拡大

テーブルの上を拡大いたしました。テーブル上は最初の海音(シーネ)の前菜盛り合わせです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大こちらが最初の海音(シーネ)の前菜盛り合わせです。
右の写真のディナーメニューがあったので、この日の料理を紹介します。
 1.海音(シーネ)の前菜盛り合わせ
   ごぼうのたたき・アジにぎり・えだ豆
   イクラとほうれん草のおひたし・翡翠梅
 2.スズキのお椀
 3.ひしおの和風カルパッチョ(カツオ)
 4.青柚子のそうめん
 5.メヒカリの唐揚げ 帆立みの揚げ
    万願寺唐辛子 きゅうりのポン酢
 6.常陸牛のしぐれ煮
 7.もろこしごはん と お味噌汁
 8.デザート
クリックすると拡大

ごぼうのたたき
クリックすると拡大

アジにぎり
クリックすると拡大

イクラとほうれん草のおひたし
クリックすると拡大

翡翠梅(ひすい梅)
クリックすると拡大

飲物は男性陣が茨城県那珂市にあるビール醸造所のビール(NEST BEER)で、女性陣がジンジャエールにいたしました。
クリックすると拡大

次がスズキのお椀でした。
クリックすると拡大

その次は、ひしおの和風カルパッチョ(カツオ)でした。
クリックすると拡大

青柚子のそうめんも美味しかったです。青柚子の上に乗っているのは赤貝の刺身です。
クリックすると拡大

メヒカリの唐揚げと帆立みの揚げと万願寺唐辛子を、きゅうりのポン酢につけて食べました。
クリックすると拡大

きゅうりのポン酢につけて食べるのが斬新でした。
クリックすると拡大

常陸牛のしぐれ煮も美味しかったです。
クリックすると拡大

〆は、もろこしごはん と お味噌汁 です。常陸牛のしぐれ煮はご飯に合いました。
クリックすると拡大

冷たいデザートと飲物は何種類の中から選びます。
クリックすると拡大

さらに焼き菓子のデザートもついていました。
クリックすると拡大

ここに来るのは、先ずは京成電鉄で上野まで行き、上野からJRの特急ひたち7号に乗りました。
クリックすると拡大

茨木県に入った途端にレンコン(はす)畑が続いていました。レンコン用のハスの花は全て白でした。
クリックすると拡大

うのしまヴィラ(Cafe & Dining 海音)をGoogle地図でマップで紹介します。右の写真はネットの太田尻の裸島から転用させていただいた鵜の島(うのしま)です。この島の名前が、うのしまヴィラの名前の由来になっているようです。全国12ケ所の鵜飼の内、地元で捕獲した海鵜を使用している和歌山県の有田川の鵜飼以外の11ケ所で使われている海鵜(ウミウ)を捕獲しているウミウ捕獲場( )もプロットしました。航空写真の中にJR常磐線の十王駅と小木津駅と日立駅があり、特急の停まる日立駅から帰りました。
宿泊施設の情報
クリックすると拡大 名前 うのしまヴィラ
 住所 茨城県日立市東滑川町5-10-1
 創業 1959年(鵜の島温泉旅館)
 電話 0294-42-4404
 HP https://unoshima-villa.com/
レストラン&カフェの情報
 名前 Cafe & Dining 海音
 住所 茨城県日立市東滑川町5-10-1
 電話 0294-42-4404         今は右のように形が変わってしまいました。
クリックすると拡大クリックすると拡大 営業 ランチ 11:30~15:00
    カフェ 13:30〜15:00
    ディナー18:30〜(要予約)
 定休 火曜日・水曜日


参考に山口県錦帯橋に行った時の記事に掲載した12ケ所の鵜飼の場所を西方向から紹介します。
日本の鵜飼に使われるウミウは、下で紹介している12ケ所の鵜飼のうち11ケ所には茨城県鵜の岬ウミウ捕獲場で捕獲されたウミウが供給されているそうです。右の浮世絵は渓斎英泉作の「河渡 長柄川鵜飼(木曽街道六十九次)」です。右の下段の小さな写真は全国で唯一船を使わず徒歩で鵜飼が行われている有田川の鵜飼です。現在においては和歌山県有田市(ありだし)の有田川(ありだがわ)の鵜飼は地元で捕獲したウミウが使われている唯一の鵜飼でもあります。
クリックすると拡大 筑後川の鵜飼  福岡県朝倉市
 日田の鵜飼   大分県日田市
 大洲のうかい  愛媛県大洲市
 錦帯橋のう飼  山口県岩国市
 三次の鵜飼   広島県三次市
 有田川の鵜飼  和歌山県有田市
 嵐山の鵜飼   京都府京都市
 宇治川の鵜飼  京都府宇治市
クリックすると拡大クリックすると拡大 ぎふ長良川鵜飼 岐阜県岐阜市
 木曽川うかい  愛知県犬山市
 小瀬鵜飼    岐阜県関市
 笛吹川石和鵜飼 山梨県笛吹市
クリックすると拡大

nice!(110)  コメント(38)