こちらはウクライナに入って最初に泊まったドニプロペトロウシク(Dnepropetrovsk)です。この町には赴きのある路面電車が走っていたので紹介します。
上の路面電車で目立っているのが、大きなパンタグラフ (Pantograph)です。パンタグラフは菱形の集電装置のことですが、今ではパンタグラフと形のものは見かけなくなり専門家の間では電車の集電装置のことをパンタグラフと呼ばなくなったようです。でもこちらの町では今でもこの菱形のパンタグラフが活躍していました。
Dnepropetrovskは日本では長らくロシア語名に基づいてドニエプロペトロフスク、ドニェプロペトロフスク、ドネプロペトロフスクなどと表記されていたが、ウクライナの独立後はウクライナ語名に沿った表記が広く使われるようになってドニプロペトロウシクとなりました。ただし日本国内におけるウクライナ語の認知度が低いため現在でも「ドニエプロペトロフスク」と表記されることが多いそうです。
線路の雰囲気から、この町では古くから路面電車があったように思えました。右の航空写真の中心あたりが路面電車の写真を撮ったところです。
この町は人口は資料により110万から130万の間といわれおり、ウクライナ第2の都市または第3の都市と呼ばれています。ドニエプル川の河畔に位置する工業都市で兵器の生産やエネルギー産業などの重工業を主産業としているそうです。ソ連時代を含めて多数の人材を送り出しています。特に独立後の首相を4名(レオニード・クチマ、パーヴェル・ラザレンコ、ワレーリー・プストヴォイチェンコ、ユーリヤ・ティモシェンコ)も輩出していることには驚きです。より大きな地図で見る場合→ ポチッ


路面電車の後姿です。上の線路を走っているところです。ここは町の中でも丘の上で高いところを走っています。


こちらは町の中の路面電車の線路と架線です。


町のいたるところに路面電車が走っていました。


下の写真のように前から見るとパンタグラフの大きさが実感できると思います。冒頭の写真の丘の上の路面電車とは、かなりの高低差があったのでつながっていないかもしれません。より大きな地図で見る場合→ ポチッ
この地方で確認されている人間の居住は15万年前だそうです。いくつかの民族の交代があり、紀元後1世紀ごろからスラヴ人が住むようになったそうです。9世紀にキリスト教が伝わり、修道院が建てられたが1240年にタタール人に破壊されたそうです。タタール人の勢力がこの地方に進展したころには、ドニエプル川の東岸にタタール人、西岸にスラヴ人が対峙し、12世紀にコサックがこの地域を勢力下におくまでこの状態が続いたそうです。16世紀には、ポーランド王国、オスマン帝国、モスクワ大公国の勢力が角逐する場となったそうです。最終的にロシア帝国領となり、1775年現在の都市が建設されたそうです。当時の名は、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の名をとって エカチェリノスラフ(Екатеринослав)と命名され、ロシア革命後に現在の名に改称されたそうです。


この町(ドニプロペトロウシク / Dnepropetrovsk)では路面電車だけではなくトロリーバスも発達していました。


さとけさんのプラハの路電にトラックバックしています。←車体がそっくりです。