写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で紹介した右の写真の物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)を見た後は竹の径(竹の道)を目指しました。竹の径が今回のハイキングのメインイベントなので外せません。本記事では物集女車塚古墳から竹の径の入口までの景色を紹介したいと思います。下記のルートの緑の文字のところが今回の記事で紹介の部分です。
洛西口駅→物集女車塚古墳→旭米顕彰碑→竹の径→竹林公園→竹の資料館→子供の広場(昼食)→竹の径→高畠陵→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→東向日駅

今回紹介のルートは次のGoogle航空写真内のからです。
歩いたルートはほぼ計画と同じでした。太い橙色ライン(━━)が歩いたルートです。緑色ライン(━━)が今回のハイクのメインイベントである竹の径(みち)です。


物集女車塚古墳を出発して最初反対方向に進みそうになりました。最初の出だしで間違えると大変なので地元の人に確認して反対方向であると判ったわけです。写真は反対方向を撮った写真です。


最初は物集女街道(西国街道 および 新西国街道)を歩きます。出発してすぐに洒落た交番がありました。物集女交番です。右の図のように阪急電車発行のパンフレットの中の悠遊一日機構マップ(洛日口コース)にも交番の絵が入っていました。クリックすると悠遊一日機構マップ全体を表示します。


物集女街道の進行方向右側は畑や田んぼが続いていました。左側は住宅が続きます。こちらの田んぼの稲は刈り取られていました。冒頭の写真がこちらです。このように稲わらを干している景色は最近見なくなったように感じます。


野菜の無人販売もありました。農地と住宅地が混在した地域なのだと感じました。


色づいた柿も撮りました。井戸も懐かしいです。


方向から判断して、遠くに見える山は比叡山だと思われます。つまり山の手前に京都の町の中心である京都御所があります。上で紹介のGoogle地図の中の細い水色の線が写真を撮った位置から比叡山を結んだラインです。


物集女街道に石碑がありました。


つい立ち止まった読みたくなります。


石碑の名前は旭米顕彰碑です。石碑を拡大いたしました。最初に山本新五郎の名前が出てきました。


石碑の横に立てられていた説明板です。明治時代の終わりに稲の新品種「旭」を発見した山本新五郎の功績をたたえて建立されたものでした。当時広く栽培されていた「日の出」と「神力」の間から悪天候でも倒れない新品種を作り出して「日の出」より優れている意味を込めて「朝日」と名付けたそうです。同名の品種があったことから、のちに「旭」に改められたそうです。現在よく作られているコシヒカリは「旭」が遠い祖先にあたるそうです。


洛西口駅が見えました。実は洛西口駅付近を東西に走る幹線道路に先ずは出ることを目指していたのです。


標識はありましたが竹の径へ行く方向が分かりませんでした。同じように歩いている方に竹の径へのルートを確認して迷わず幹線道路に向かって真直ぐに物集女街道を進みました。あとで地図で確認すると、ここから近い場所に物集女城跡がありました。物集女城跡も見どころの多い遺跡のようでした。


ネットにあった物集女城主郭の想像復元図を転用させていただきました。中世の城の多くは天守郭はありません。城内の構造が分からないようにするのが中世の城の特徴です。物集女城は、中世に乙訓の土豪のリーダーとして活躍た物集女氏の居城でした。1575年に織田信長の支配下の細川藤孝の居城(勝龍寺城)で当主の物集女忠重が謀殺され、物集女城も廃城となったそうです。右の地図で橙色に着色したところが今回歩いた物集女街道(もずめかいどう)です。廃城になったあと周辺に沢山の住宅が出来てるのにも関わらず堀や土塁などの地形が444年間も残されているのには驚かされました。
 水がある堀の部分は今でも地図では水色です →ポチッ
 堀から水が流れ出た辺りのストリートビュー →ポチッ


駅から伸びている幹線道路に出ました。上り坂です。幹線道路の名前は御所海道でした。街道ではなく海道が使われている理由が知りたくなりました。調べ切れていませんが、海道は「しらなみ海道」や「東海道」と比較的使われています。


新しい家が多い中で、純日本家屋も見ることが出来ました。


竹の径の入口に到着いたしました。竹の径への入口は3ケ所ありましたが、ここは御所海道沿いの入口です。冒頭のGoogle地図内で「竹の径の入口①」と書いているところです。


竹の径の案内板も設置されていました。案内板の中で現在地と書かれているところが、今回の竹の径の入口です。
次の記事で右の写真の竹の径を紹介したいと思います。