が表示された写真はクリックすると拡大します。

この日は那覇空港からレンタカー店に行き、車を借りて先ずは腹ごしらえに沖縄そばを食べた後、すぐに首里城に行きました。
近くに着くと沢山の私設駐車場がありましたが、今の時期は、すいていると思い真っ直ぐ進んで首里杜館(首里城公園レストセンター)地下の県営駐車場に入りました。
これは首里城の城壁です。この首里城は2000年に世界遺産に登録されました。正確には「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」の中の一部として世界遺産になりました。琉球王国に関連する遺跡が世界遺産に登録されたので沖縄本島の広い範囲に世界遺産が点在しています。
その代表格が首里城と言えます。城を沖縄ではグスクと読みます。首里城は沖縄でも一般的に「しゅりじょう」と言われていますが、沖縄読みでは「すいぐすく」になります。他の城の遺跡はグスクと呼ばれるものがほとんどでした。

首里城を紹介いたします。県営駐車場から首里城に向かう道の最初にあるのが守礼門です。守礼門は城外にある門の一つですが、この門が首里城への事実上の入口になっているようです。
創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられていることは分かっている。門は四本の柱で支えられ、扁額が掲げられている。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物です。「守礼之邦」と書かれているますが、これは「琉球は礼節を重んじる国である」の意味であるといわれています。
守礼門が二千円紙幣のデザインに採用されていることは意外と知られていません。手に取る機会があれば是非とも見てみてください。
守礼門(しゅれいもん or しゅれいのもん)は、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称で、本来は「上の綾門(うぃーぬあいじょう)」という。
沖縄戦で焼失したが、昭和33年(1958年)に再建されました。再建されたものとしては最初のもので、他はかなり後になってから再建されたために、昔に首里城を訪れた人は建造物としては城壁以外では守礼門だけしか記憶にない人もいるかも知れません。


戦前の守礼門の写真をネット で探してみました。随分と今の雰囲気とは違います。


これは瑞泉門(ずいせんもん)です。門の近くにある龍樋に因んで付けられたといわれており、瑞泉には立派なめでたい泉という意味があると言われています。


瑞泉門をくぐり城に向かって進むと漏刻門(ろうこくもん)があります。瑞泉門と似た門です。漏刻というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたといわれています。15世紀の創建であり、老朽化のため昭和初期に撤去されていたが、平成4年(1992年)に復元されたようである。国王に敬意を表すため、高官でもこの場所で駕籠を下りたことから、「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれていいます。


ここには3つの門が写っています。
一番奥に見えるのが歓会門(かんかいもん)です。歓会門は首里城の城郭内に入る正門で、尚真王時代(1477~1526年)に創建されたものといわれ、太平洋戦争で破壊されたが、昭和49年(1974年)に復元されそうです。アーチ式の門の上には木造の櫓が付けられている。門の幅は3m程度であり正門とされているわりには狭いような感じがするが、防御のためだと思います。
中央寄りの右側に見えるのが久慶門(きゅうけいもん)で首里城北側の通用門です。
左端に写っている門が先ほど紹介した瑞泉門です。
歓会門からの通路の両脇に鮮やかな花が植えられていました。なんとなく違和感がありましたが、琉球王朝時代は南国ならではの鮮やかな花が沢山植えられていたと思うと納得でした。


先に進むと首里城の建物群が姿を現します。


建物群の最初にあるのが広福門(こうふくもん)です。ここから先の建造物は石ではなく木で出来ていました。広福門はこれまでくぐってきた門とはかなり趣を異にしています。広福というのは福を行き渡らせるという意味であるといわれており、て右側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、左側が神社仏閣を管理する寺社座がおかれていたといわれています。創建年代は不明とされ、明治末期には撤去されたようであるが、平成4年(1992年)に復元されたそうです。


広福門の次の門です。正殿のある御庭(うなー)に入る最後の門である奉神門(ほうしんもん)です。門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った納殿、右側は城内の儀式などに使われた君誇という部屋になっていたそうです。
三つの入口の内、中央は国王や賓客など身分の高い人の専用の通路で一般の役人は左右の門から出入りしていたといわれています。


これが首里城の正殿(せいでん)です。
もちろん復元(1992年)されたものですが、残念なことに戦前までは1712年に再建された建物が存在しており、それが沖縄戦で完全に消失 したそうです。正殿は何度か焼失しています。記録に残っているのは1709年に焼失し1712年に再建、その前は1660年に焼失し1672年再建、その前は1453年に全焼したとの記録が残っていますが、最初の創建は十四世紀末と思われていますが年代は不明だそうです。


戦前の建物の写真をネットから拝借いたしました。
1944年(昭和19年)10月10日の那覇市を襲った米軍の大空襲でも、首里の町は災禍を免れ、戦雲急を告げる1945年の始めでも文化遺産のある首里は安泰でしたが日本陸軍の精鋭第32軍が首里に司令部を置き、地上戦の準備を始め、首里城の地下に総延長千数百メートルにも及ぶ壕を掘り、ここを防衛ラインとして、1945年4月1日に本島中部西海岸に上陸した米軍を、迎え撃ったことにより、首里城をはじめ麓の玉御陵、円覚寺、弁財天堂、御茶屋御殿、識名苑、末吉宮、龍潭など史跡・文化遺産がことごとく消滅し、一木一草まで城下町のすべてが壊滅してしまったそうです。


壊滅して47年後にあたる平成4年(1992年)に正殿の廻りの建物が復元されました。
広いカラフルな広場は御庭(うなー)で、その正面奥に正殿があります。
御庭は東西約40m、南北約44mの広場でカラフルな模様は赤と白の敷き瓦が敷きつめられたものだそうです。ここでは種々な式典の会場に使われていたといわれている。縞模様の敷き瓦は儀式の際、役人が位の順に並ぶ目印の役割をはたしていたとも言われています。オリジナルの建物は琉球王国最大の三階建ての木造建築物でした。


復元に際し、正殿の遺構を保護するため約70cmの盛り土をして現存の正殿を建てたそうで正殿の床の一部がガラス張りになっており遺跡が見えるようになっていました。


正殿の一階部分です。一階は下庫理(しちゃぐい)とよばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行なう場でした。写真は国王の座る場所である御差床(うさすか)と呼ばれているころです。御差床の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱がありました。御差床の後障子を開けると二階に通じる階段があります。国王が一階の御差床にあらわれる際に使用した専用階段のある間のことを「おちょくい」と呼びます。


ここは正殿の二階です。二階は大庫理(うふぐい)と呼ばれ、王家の行催事が行われました。中央には国王が座る場所である御差床があり、その後方には「西のみこちゃ」「おせんみこちゃ」と呼ばれる間があります。「おせんみこちゃ」は国王と女官が毎朝、国家の安泰や子孫繁栄を祈願した場であると言われています。
二階の御差床で黄金の装飾が施された椅子、御轎椅(うちゅーい)が置かれていました。
ここには中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたといわれています。現在、架かっている「中山世土」は古い記録をもとに復元した扁額だそうです。
三階は通気のために設けられた屋根裏部屋だそうです。


正殿に向かって左側には北殿(ほくでん)があります。ここは王府の中央行政庁として、日常は大勢の官人が出入りして重要案件の審議など政務の中枢として機能していたと共に、中国から皇帝の使者が訪れたときの接待所としても使われていたといわれています。
首里城の中で最も活気の溢れる館であったようです。ちなみにペリー提督が首里城を訪れた時も、この北殿で歓迎の宴が催されました。
この写真でカラフルな広場の御庭(うなー)の広さが実感してもらえると思います。


正殿に向かって右側に南殿(なんでん)と番所がありました。こちらの建物は、塗装はなく白木のままで、なんとなく和風色が強い感じでした。右側が番所で左側が南殿です。南殿は主に日本的な儀式や薩摩藩の役人の接待などに用いられ、番所は登城してきた人々の受付や国王への取り次ぎを行っていた場所といわれています。和風の南殿で薩摩藩の接待で中国風の北殿で中国の使者の接待とは琉球王朝の人たちの知恵を垣間見た気になってしまいました。


南殿の奥は、さすが和風作り徹していると感じました。ここには書院と鎖之間(すさのま)があり書院は国王が日常の政務を行ったそうです。正殿の真赤な中ではやはり疲れると思います。鎖之間は王子などの控所であり諸役の人たちとの懇談の場所でもあったようです。ここには日本庭園も広がっていました。これは鎖之間から書院の方を撮った写真です。


この部屋は鎖之間で、白木がきれいな純和風の部屋でした。


右掖門(うえきもん)が見えます。かつては、国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれています。首里城にいくつかある裏門の一つです。この門は15世紀頃の創建といわれており、他の建築物と同様、太平洋戦争で破壊されてしまったが、発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000年)に復元されました。見学ルートでは御庭からの出口になっています。


すでに紹介した久慶門(きゅうけいもん)の外側です。歓会門が正門であったのに対し、久慶門は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれている。城郭内見学順路では出口になっています。現存の門は昭和58年(1983年)に復元されたものだそうです。


琉球の城砦のコーナーは独特のカーブーになっています。このカーブが本土の城の石垣と違うところです。中国とも違う感じです。


広福門の内側の下之御庭(しちやぬうなー)と呼ばれる広場に花人形が置かれていました。本土の菊人形のようなものなのでしょうか。日本だけれど、なんとなく異国を感じさせてくれました。


パンフレットから全景写真を拝借いたしました。写真をクリックすると拡大するので、建物の位置が判ると思います。守礼門はこの写真外の左側にあります。
正殿の奥側(写真の右側)は今でも復元工事が行われていました。完成予想図を見たい方はこちら→ポチッ
ポチッをクリックして出てきた建物で緑地に白抜き文字が復元中の建物です。復元中の建物を紹介すると
  世誇殿 (よほこりでん)
  黄金御殿・寄満 (くがにうどぅん・ゆいんち)
  二階堂御殿 (にーけーうどぅん)
  白銀門 (はくぎんもん)
  寝廟殿 (しんびょうでん)
  美福門 (びふくもん)
  東のアザリナ (あがりのアザリナ)
  継世門 (けいせいもん)
                           です。


奉神門(ほうしんもん)の内側にある御庭、正殿、南殿、北殿、書院、鎖之間は有料で広福門をくぐってから、その右側で入場券を購入します。門などの他の地域は無料です。
 大人    800円 (団体 640円)
 高校生   600円 (団体 480円)
 小・中学生 300円 (団体 240円)
 6歳未満  無料           団体は20名以上   
カーナビに入力する電話番号は 098-886-2020です。
下記が世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」のです。9ケ所の内、6ケ所を訪問しました。
 首里城(すいぐすく)
 玉陵(たまうどぅん)
 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 中城(なかぐすく)
 座喜味城(ざきみぐすく)
 今帰仁城(なきじんぐすく)
 識名園(しきなえん)
 勝連城(かつれんぐすく)
 斎場御嶽(せいふぁうたき