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高野山真言宗総本山が金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
高野山に何度も来ているのですが、今までに金剛峯寺に2度しか来ていません。子供のころに祖母祖父と来た時と高校の遠足のときだけです。奥の院は必ず行ったのに自分でも不思議に思っていますが、ほとんどが自転車で来たので走る方が主体だったせいだと思います。今回(11月30日)は、じっくりと見ることが出来てよかったです。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、現在は118寺の寺院が密集する宗教都市です。
中国で行ったことのある九華山も同じような宗教都市でした。中国ではいくつかあるようですが、日本では宗教都市と言えるのは高野山だけではないでしょうか。
真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が京都の東寺とともに、宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めています。2004年には高野山やかつての表参道である高野山町石道(こうやさんちょういしみち)などが、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録され観光客の人も沢山訪れています。
現在は金剛峯寺という寺号は1つの寺院の名称になっていますが、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であったそうです。

見ての通り総本山としての威厳のある門構えでした。高野山の中だけで高野山真言宗は118の寺がありますが、全国では3554の高野山真言宗の寺があるそうです。さすが総本山です。寺院の格付けは順に総本山→大本山→遺跡本山→別格本山→準別格本山→別院→一般寺院、だそうです。


門の裏側です。名前の書かれたお札が沢山張られていました。これも、なかなか趣がありました。このお札は千社札(せんじゃふだ)と言うそうです。神社や仏閣に参拝をした記念として貼るものだそうですが長い年月が経過して紙の空白部分が腐食すると墨の印刷された部分のみが残り、これを「抜け」と言うそうです。この写真の千社札はほとんどが「抜け」の状態のようです。千社札に使われる文字の書体は江戸文字の「籠文字」が用いられるそうです。最近では見苦しくなるような迷惑行為になることもあるので貼る人は寺側の思いに配慮がいるようです。


こちらが金剛峯寺の主殿です。全体を一枚の写真で撮りきれない大きさですが、目いっぱい後ろに下がって撮ったのが、この写真です。


主殿は壮大な建物だけではなく美しい建物でもありました。


屋根のカーブが見事でした。


別の角度からも紹介します。


入口の高い石垣にある鐘楼は六時の鐘(ろくじのかね)です。この鐘楼は豊臣家きっての勇将であった福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立しました。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘が、かなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。


入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。


神戸市東灘区の岡本の家に住んでいた1962年頃(1961~1963年)に父方の祖母と祖父と祖母の妹さんが神戸の家を訪ねて来た時に高野山に行きました。その時の金剛峰寺での記念写真です。冒頭の写真の場所で撮りました。
祖父が左端です。祖母は真中で祖母の妹さんが右端です。祖父と祖母の間に立っているのが私の母です。2013年12月24日~28日に宝塚の実家に行くので、この記事を母に見せるつもりです。


その時の金剛峰寺の主殿の写真です。この時は冬の時期でした。


奥の院は、かなりの雪でした。左が祖母祖父で右が奥の院の参道を歩く祖父です。この時は白浜にも行きました。


この時、奥の院では武田信玄の墓の写真(左)を撮っていました。右が今回、撮った武田信玄の墓です。両方ともにクリックすると拡大するので興味のある方はクリックして比較してみてください。


航空写真でも金剛峯寺(金剛峰寺)を紹介いたします。

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