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先日、武田尾温泉に行くために成田⇔伊丹で乗った飛行機の機内誌の中に興味深いことが書かれていたので紹介します。機内誌から転用させていただいた写真は戸隠在来種を使った、ぼち盛りのざる蕎麦だそうです。
現在、よく食べられている麺状の薄く延ばして細く切る「蕎麦切り」は江戸時代に誕生したそうです。現在でも人気なように美味しい上に、手軽に食べれることが粋な江戸っ子気質に合ったようで、江戸の市中には蕎麦屋や屋台が続々と開店しました。蕎麦屋や屋台が描かれた浮世絵が沢山あるのは蕎麦が江戸の文化の一つになっていたことを示している気がします。蕎麦切りの発祥の地は甲州または信州と言われていますが、江戸で花開いたと言えると思います。粋な江戸っ子たちの人気の食べ方は、鰹節と濃口醤油で仕上げたつゆに細切りにした蕎麦をさっとつけてすすり、咽喉しのよさを楽しむことであったようです。浮世絵の2段目の左端の絵は「大江戸芝居年中行事」です。浮世絵「大江戸芝居年中行事」は安達吟光の作品で江戸三座のひとつ「市村座」の前に出ている蕎麦の屋台を描いたものです。屋台の横で男性が食べているのは江戸時代中期に始まった「かけ蕎麦」だと思われるそうです。
その中に右の絵「山海名産尽信濃蕎麦」の中にあるように「二六」と書かれた浮世絵もありました。「三五」と書かれたものもあるそうです。「二六」や「三五」は足算しても10になりません。
ちなみに「二六」は12文(=2x6)で「三五」は15文(=3x5)を表していることになります。江戸時代の平均貨幣価値が1文=16.5円とすると16文は264円で、12文は198円で、15文は248円ということになります。
「二六」と書かれた「山海名産尽信濃蕎麦」は一勇斎国芳が文政末期(1830年ごろ)に描いたもので、左手の看板に「信州名物二六」とあるように「二六蕎麦」であることを表しているようです。この作品の描かれた江戸時代から信州(長野)が蕎麦の名産地であったことがうかがえる作品となっています。下の2段目の右側の浮世絵は三代・歌川豊国が安政6年(1859年)に製作した「二八そば」です。
徳川家康が江戸幕府を開いた1603年には江戸は数万人程度(1600年:6万人)の町で、20年後においても京都の人口に遠く及びませんでしたが、その後も増え続けて1640年頃に京都に追いつき、1695年 には人口は85万人に達し、18世紀に100万人に達しました。その後も増え続けて二八蕎麦が町中に溢れていた1837年には128万人となり、 欧州最大の都市ロンドンの85万人を大きく上回り、世界最大級都市になりました。 江戸時代 : 1603年~1868年
蕎麦のつなぎに小麦粉を加えるようになったのは元禄年間以降ではないかと言われています。初期の蕎麦切りは蕎麦粉100%のため、お湯で茹でると、麺が切れやすいことから蒸籠(せいろ)で蒸すのが一般的だったようです。現在、もり蕎麦やざる蕎麦をセイロに盛り付けるのは、このセイロで蒸していたころの名残だとも言われています。下記の写真は蕎麦ではありませんが、内モンゴルで有名な莜麦を麺にして食べる莜面(ゆうめん)です。この「ゆう面」はセイロで蒸して出されるので、蒸籠で蒸して出される麺の例として掲載させていただきました。写真をクリックすると「ゆう面」の記事を掲載いたします。
今回の記載内容はJALの機内誌 skyward 2015年10月号 82~83ページを引用させてもいただきました。「二八そば」はごく自然に使われていたことから、語源の根拠が後世に残らずに忘れさられてしまったようです。ただし、最初の語源は判りませんが、浮世絵に「二八そば」が頻繁に書かれるようになった江戸時代後期は「二八そば」は気楽に食べれる安い蕎麦(駄そば)の代名詞になったのは間違いなさそうです。現代で二八蕎麦は高級蕎麦の代名詞なのとは違いがあります。
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