写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

今回の墓参で錦帯橋の周辺を下記の記事で紹介してきましたが、実は最も紹介したかったのが今回の「岩国藩藩主の吉川家墓所」でした。何度も錦帯橋に来ているのに吉川家墓所は初めて知ったのです。また、これほど第1代から第13代の藩主の墓をはじめとして家族の墓がまともっていることにも驚かされました。上の写真が吉川家墓所の入口の門です。

最初の門をくぐったところにもう一つの門があります。こちらの門には入れません。ただし沢山の墓がある吉川家墓所は左方向に曲がったところにあります。門の左にある説明板は吉川家の移り変わりや13代藩主までの歴史が書かれています。吉川は「よしかわ」ではなく「きっかわ」と読みます。つまり、吉川広家は「きっかわ ひろいえ」です。


説明板を拡大いたしました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたしました。下記の名前は吉川元春からの当主です。吉川広家が岩国藩の初代であり、それ以降は吉川家の当主が岩国藩(岩国領)の藩主(領主)でもあります。ちなみに江戸幕府は1603年~1867年(大政奉還)です。右下の写真はWikipediaから転用させていただいた初代藩主・吉川広家です。吉川家(吉川氏)の名は寿永2年(1183年)まで遡りますが、岩国藩(周防国大島郡+玖珂郡南部)を治める藩主としての吉川家の祖は吉川元春(安芸国吉川氏としては14代目)となるそうです。
 吉川家当主(1550~1586) 吉川元春 毛利元就の次男で吉川氏へ養子
 吉川家当主(1586~1587) 吉川元長 広家の兄
  初代藩主(1600~1614) 吉川広家 当主(1587~1614) 岩国城を築城
  2代藩主(1614~1663) 吉川広正
  3代藩主(1663~1679) 吉川広嘉 錦帯橋を建造
  4代藩主(1679~1696) 吉川広紀
  5代藩主(1696~1715) 吉川広逵
  6代藩主(1715~1764) 吉川経永
  7代藩主(1764~1792) 吉川経倫
  8代藩主(1792~1803) 吉川経忠
  9代藩主(1803~1806) 吉川経賢
 10代藩主(1807~1836) 吉川経礼
 11代藩主(1837~1843) 吉川経章
 12代藩主(1844~1868) 吉川経幹
 13代藩主(1868~1871) 吉川経健 明治元年~明治4年(廃藩置県)


大きな建造物がありました。あとでネットで調べると吉川家納骨堂であることが判りました。


こちらが吉川家墓所の配置図です。写真を撮った墓に赤色の番号(①~㉟)を書き入れました。つまり①→㉟の順に歩いたのです。白壁の塀で仕切られていてタイトルで書かせていただいたように、まさに迷路のようでした。実際に訪れて写真を掲載させていただいた墓石は下記のリストのように35塔です。写真を撮っていないのが2塔あるので、全体でお墓が37塔あることになります。写真を撮っていない2塔は印の宣姫(10代・経礼の長女)と順姫(7代・経倫の次女)です。岩国藩主は13代まで続きましたが藩主の墓は9塔しか見つかりませんでした。理由は後ほど説明させていただきます。
 藩主   9塔 2代 3代 4代 5代 7代 8代 9代 10代 11代
 正室   9塔 8塔が藩主の正室 1塔が吉川元春の正室
 後妻   1塔 継室
 息子   6塔
 娘    9塔 姫
 合祀   1塔 息子 4名 姫 2名
 合計 35塔 


Googleマップの航空写真表示画面に回った順番①~㉟をプロットしました。画面の中の③と㉝のマークは半分しか見えていません。マイナス(-)を1回クリックすると広い範囲の表示になるので欠けたマークはなくなります。航空写真の中の印が写真を撮り損ねた宣姫と順姫のお墓の2塔です。
 藩主   9塔  ①⑩⑪⑱⑳㉑㉓㉔㉕
 正室   9塔  ②⑫⑰⑲㉒㉘㉛㉞㉟
 後妻   1塔  ㉖
 息子   6塔  ⑦⑭⑮⑯㉙㉚
 娘    9塔  ③④⑤⑥⑧⑨⑬㉗㉝
 合祀   1塔  ㉜


納骨堂方向から歩いてきて最初に目に入る景色がこちらです。複雑な白壁の塀の中に墓あるのです。迷路のようだと少し感じていただけると思います。まっすぐに進んでいきました。


①② そこにあったのは8代藩主の吉川経忠(左側)とその正室の喬松院の墓(右側)でした。いきなり、その大きさに驚かされました。


墓にはタイル製の説明板がつけられていました。正室の喬松院は経忠の死後41年後に亡くなったことが判ります。こちらの区画にも
 吉川経忠 8代藩主
  戒名 招徳院殿孝運祖沢大居士
  没年 享和3年(1803年)5月30日 享年38歳
 喬松院 8代藩主経忠の正室
  戒名 喬松院殿妙境日悌大比丘尼
  没年 天保15年(1844年)1月30日 享年61歳


次の区画に最初の場所に小ぶりですが立派なお墓がありました。こちらは6代藩主の吉川経永の3女の益姫のお墓でした。近くに6代藩主の吉川経永の墓はありませんでした。この区画には7つの墓があり、その中の6つが藩主の姫で、1つが藩主の息子でした。


説明板を見ると3歳という幼さで亡くなった姫の墓であることが判りました。可愛かった娘が幼くして亡くなった悲しみが伝わってくる立派なお墓でした。偶然かもしれませんが、吉川家墓所で見た9人の姫の墓の内、1歳と5歳と13歳が1~2人なのに対して、驚いたことに5人が3歳でした。享年3歳は数え年のため満年齢では2歳ということになります。
 益姫 6代藩主経永の3女
  戒名 亨恵大童女
  没年 延亨2年(1745年)6月15日 享年3歳


同じ区画で次に見たのは7代藩主・吉川経倫の長女の万千代姫の墓でした。多くの墓は丸石が使われていますがこちらは長方形の石が使われていました。


説明板を紹介します。こちらも5歳という幼さで亡くなった姫の墓でした。亡くなった月を?月と書いているは木の葉で数字が見えないためです。
 万千代姫 7代藩主経倫の長女
  戒名 英雅大童女
  没年 安永3年(1774年)?月2日 享年5歳


こちらもこちらも立派なお墓でした。12代藩主吉川経幹の娘の数姫のお墓です。


説明板です。こちらも3歳で亡くなりました。
 数姫 12代藩主経幹の娘
  戒名 玉光映珊大童女
  没年 安政5年(1858年)5月26日 享年3歳


こちらはこちらは6代藩主・吉川経永の4女の三千菊姫のお墓です。ことらも享年は3歳でした。


説明板を紹介します。
 三千菊姫 6代藩主経永の4女
  戒名 智玉大童女
  没年 宝暦9年(1759年)閠7月7日 享年3歳


初めて藩主以外の男子の墓です。10代藩主・吉川経礼の長男の憲太能のお墓です。


説明板を紹介します。享年は不明となっていますが、今回見た藩主の息子の墓の説明板では2歳と5歳と7歳と、いずれも幼くして亡くなっていることから、こちらも幼くして亡くなったものと推察されます。可愛い盛りだったと思います。
 憲太能 10代藩主経礼の長男
  戒名 知憲院殿慈厳玉容大童子
  没年 文政5年(1822年)6月30日 享年不明


この区画の雰囲気を紹介します。左橋が健太能のお墓でその右側に2の墓が並んでいます。次にそちらを紹介します。


⑧⑨ 4代藩主・吉川広紀の娘の礒姫(左側)と6代藩主・吉川経永の次女の佐久姫(右側)のお墓です。


2つの説明板を紹介します。礒姫は1歳で佐久姫も1歳でした。
 礒姫 4代藩主広紀の長女
  戒名 円珠大童女
  没年 元禄3年(1690年)10月12日 享年1歳
 佐久姫 6代藩主経永の次女
  戒名 慈忍大童女
  没年 寛保2年(1742年)9月8日 享年1歳


不思議な迷路の入口のようなところがありました。


その奥には第十一代藩主のお墓があることが書かれていました。


こちらが11代藩主吉川経章のお墓です。藩主のお墓で丸ではなく四角の石が疲れけているのを見ました。今回見た見た中で藩主のお墓として四角い石が使われていたのは2つで、他派すべて丸い石が使われたお墓でした。


墓に近づけないので説明板があることに気が付きませんでした。あとで写真から左下に写っていることに気が付きました。
 吉川経章 11代藩主
  戒名 亮功院殿英山道雄大居士
  没年 天保14年(1844年)11月19日 享年50歳


⑪⑫ 岩国藩七代藩主吉川経倫の木製の看板があったので道を入っていきました。


突き当りを右に曲がった瞬間に前が開けて2つ大きなお墓(塔)が現れました。


2つ大きなお墓(塔)は7代藩主の吉川経倫(右側 ⑪)と、その正室の華厳院(左側 ⑫)でした。目線の2.5倍ほどの高さの巨大のお墓(塔)でした。


説明板を紹介します。
 吉川経倫 7代藩主
  戒名 大乗院殿前城門郎即心円通大居士
  没年 享和3年(1803年)9月7日 享年58歳
 華厳院 7代藩主経倫の正室
  戒名 華厳院殿梅玉妙聯大姉
  没年 安永5年(1775年)5月18日 享年21歳


7代藩主の吉川経倫のお墓の前にあったのがこちらのお墓です。経倫の3女の勝姫のお墓です。お墓の場所からして大切にされていたのではないかと推察します。 


説明板です。これによると13歳ででなくなりました。
 勝姫 7代藩主経倫の3女
  戒名 仙寿院殿桃顔倍香大姉
  没年 寛政3年(1791年)6月13日 享年13歳


こちらが7代藩主経倫の次男のお墓です。案内板によれば、7代藩主のお墓があるエリアにはこれ以外にもう一つお墓があります。そちらは経倫の次女の順姫ですが、正室の墓の左奥にあったことから気が付きませんでした。


こちらが次男のお墓の説明板です。
 吉五郎 7代藩主経倫の次男
  戒名 崑岳良瓉大童子
  没年 安永6年(1777年)9月23日 享年2歳


塀の外に出ると白塀に囲まれた道がまっすぐに山の方に伸びていました。正面に木の門が見えますが、先ずはその手前で左に入ってみました。


こちらは説明板を撮り損ねたので名前はわかりませんでしたが、案内図から6代藩主吉川経永の長男の友千代であることが判りました。説明板を撮っていなかったので戒名や没年や享年はわかりません。吉川経永の男子はいずれも夭折(幼くして死去)したため、養子として迎えたのが、後の7代藩主の吉川経倫ですが、吉川元春以来の血筋はここで絶えることになったそうです。


上の友千代の墓の写真の右端に写っている灯篭が、こちらも6代藩主吉川経永の息子(次男)である代八の墓です。


代八の説明板を紹介します。
 代八 6代藩主経倫の次男
  戒名 徳岸院殿恩樹日長大童子
  没年 宝暦4年(1754年)1月12日 享年7歳


立派なお墓です。5代藩主の吉川広逵の正室である正理院のお墓です。友千代や代八からだと祖母になります。正室のお墓が立派なのは次の藩主(息子)の母という立場もあるのかもしれません。


正理院の説明板を紹介します。
 正理院 5代藩主広逵の正室
  戒名 正理院殿妙常日久代比丘尼
  没年 天明元年(1781年)1月12日 享年86歳


㉑⑳⑲⑱㉒ 上で紹介した白壁の塀に囲まれた通路の先にあった木の門の中には大きなお墓が5つありました。藩主のお墓が3つと正室のお墓が2つで構成されていました。徐々に初代の藩主である吉川広家のお墓に近づいている予感がしてきました。
左側からは次の通りです。
 ㉑ 9代藩主    吉川経賢
 ⑳ 3代藩主    吉川広嘉
 ⑲ 2代藩主の正室 高玄院
 ⑱ 2代藩主    吉川広正
 ㉒ 10代藩主の正室 円成院


外側からでも5つはお墓を1枚の写真に収められなかったので、左側と右側に分けて撮りました。こちらが左側の3つお墓(⑲⑳㉑)の写真です。


こちらが右側の3つお墓(⑱⑲㉒)の写真です。


先ずは中央の3つ(⑳⑲⑱)を紹介したいと思います。


⑱⑲の説明板です。
 吉川広正 2代藩主
  戒名 浄性院殿前倉部鉄堂宋閑大居士
  没年 寛文6年(1666年)5月5日 享年66歳
 高玄院 2代藩主広正の正室
  戒名 高玄院殿超誉珠英大姉
  没年 正保元年(1644年)9月10日 享年45歳


⑳の説明説明板です。
 吉川広嘉 3代藩主
  戒名 玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
  没年 延宝7年(1679年)8月16日 享年59歳


左端㉑は9代藩主の吉川経賢のお墓です。


吉川経賢の説明板です。吉川経賢は16歳の若さで亡くなった藩主でした。
 吉川経賢 9代藩主
  戒名 文恭院殿徳巌道馨大居士
  没年 文化3年(1806年)12月16日 享年16歳


こちらが5つの大きなお墓の左端のお墓(㉒)です。10代藩主の吉川経礼の正室のお墓です。正室の名前は円成院です。


円成院の説明板です。
 円成院 10代藩主経礼の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 文化10年(1813年)6月11日 享年 不明


㉓㉔㉕ すぐそばに3人の藩主の墓がありました。この場所も木の門がありました。4代藩主の吉川広紀と5代藩主の吉川広逵と10代藩主の吉川経礼です。


こちらが3つの藩主のお墓で右側から5代藩主・吉川広逵(㉓)、4代藩主・吉川広紀(㉔)、10代藩主・吉川経礼(㉕)です。10代藩主・吉川経礼は四角の墓石でした。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。


こちらが丸い墓石の5代藩主・吉川広逵(㉓右側)と4代藩主・吉川広紀(㉔左側)です。


説明板を紹介します。藩主と言えどもこの時代は長生きする人は少なかったようです。
 吉川広逵 5代藩主
  戒名 涼雲院殿玉顔元鮮大居士
  没年 正徳5年(1715年)6月19日 享年21歳
 吉川広紀 4代藩主
  戒名 普恩院殿前少府郷徳峯祖天大居士
  没年 元禄9年(1696年)7月13日 享年39歳


10代藩主・吉川経礼(㉕)の四角の墓石を正面から撮りました。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。


説明板を紹介します。
 吉川経礼 10代藩主
  戒名 謙光院殿慈雲藤蔭大居士
  没年 天保7年(1836年)11月26日 享年44歳


上の3人の藩主(㉓㉔㉕)のお墓に正面に建てられていた立派なお墓がありました。10代藩主・吉川経礼の継室(後妻)の成豊院のお墓でした。


成豊院の説明板を紹介します。すでに㉒の墓として紹介した10代藩主・吉川経礼の正室の墓の円成院は文化10年(1813年)6月11日に亡くなっていて30年の差があることから正室の円成院は若くして亡くなったと推察できます。
 成豊院 10代藩主経礼の継室(後妻)
  戒名 成豊院殿慈観瑟大姉
  没年 天保14年(1843年)7月17日 享年53歳


上の㉖の成豊院のお墓を見た後は、最も山側(北側)のエリアで最初に訪れたのが8代藩主・吉川経忠の長女のお墓でした。名前は修姫です。


修姫のお墓の説明板です。
 勝姫 8代藩主経忠の長女
  戒名 真峯知影大童女
  没年 享和2年(1802年)5月18日 享年3歳


修姫のお墓(㉗)のあたりから見た最も北側(山側)のエリアの写真です。山に登っていく道も写っています。このエリアにも沢山のお墓がありました。その中に3つの大きなお墓がありました。


山側で3つ大きなお墓の一つです。3代藩主・広嘉の正室の天長院の墓でした。


3代藩主・広嘉の正室の天長院の説明板を紹介します。19人の成人のお墓で3番目の長寿です。最も長寿なのが86歳の正理院(5代藩主の正室)の86歳で2番目が吉川広正(2代藩主)の66歳です。ちなみに4番目は吉川広嘉(3代藩主)の59歳です。
 天長院 3代藩主広嘉の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 元禄10年(1670年)4月12日 享年63歳


㉙㉚今までに見てきたお墓に比べて比較的小さなお墓がありました。2代藩主・吉川広正の 7男の新八郎と9男の道祖太郎のお墓です。


説明板を紹介します。7男は満1歳で亡くなり9男は4歳で亡くなったのでした。
 新八郎 2代藩主広正の7男
  戒名 幻漚大童子
  没年 万治2年(1659年)2月22日 享年2歳
 道祖太郎 2代藩主広正の9男
  戒名 自照大童子
  没年 寛文5年(1665年)8月15日 享年5歳


こちらは吉川元春の正室の慈光院お墓です。吉川元春は岩国藩の藩主の家系となった吉川家の初代当主です。吉川元春の子が初代藩主の吉川広家です。吉川元春は毛利元就の次男で養子となって毛利元春から吉川元春に改名したそうです。


慈光院のお墓の説明板です。新庄局(しんじょうのつぼね)とも呼ばれています。初代藩主の吉川広家の母になります。
 慈光院 吉川元春の正室
  戒名 慈光院殿玉窓芳珪大姉
  没年 慶長11年(1606年)12月11日 享年 不明


小さなお墓がありました。今回のお墓の中で唯一の合葬(合祀)のお墓でした。初代藩主と2代藩主の6人の子供たちが埋葬されたものでした。


説明板に書かれていた6人の子供たちです。初代藩主・広家の3男は享年不明となっていますが幼くして亡くなったものと推察されます。
 初代藩主 広家の 3 男 俗名不明 享年不明
 2代藩主 広正の10女 竹搥姫  享年4歳
 2代藩主 広正の11女 千代松姫 享年4歳
 2代藩主 広正の 4 男 長吉   享年4歳
 2代藩主 広正の 5 男 金三郎  享年2歳
 2代藩主 広正の 6 男 大助   享年2歳


㉙㉚㉛㉜が並んだ写真です。


こちらは6代藩主・吉川経永の長女の富姫のお墓です。


こちらが富姫の説明板です。
 富姫 6代藩主経永の長女
  戒名 本如大童女
  没年 享保9年(1734年)6月13日 享年3歳


㉞㉟ 最後に紹介する大きなお墓です。石の柵に囲まれた立派なお墓でした。


説明板を紹介します。4代藩主の正室の蓮得院と6代藩主の正室の瑞蓮院のお墓でした。結局は初代藩主の吉川広家の墓はありませんでした。
 蓮得院 4代藩主 広紀の正室
  戒名 蓮得院殿玉妙諦日観大淑姉
  没年 享保2年(1717年)2月7日 享年47歳
 瑞蓮院 6代藩主 :経永の正室
  戒名 瑞蓮院殿徹底妙心日境大比尼
  没年 明和6年(1769年)5月25日 享年57歳


㉖の成豊院のお墓を見た後は、㉗~㉟のお墓が建つエリアに移動しました。最も山側のエリアでした。


上の写真はこちらの案内図の右上端に描かれている階段のところから撮りました。上の写真の左端に写っている横の方向に大きな墓石が5つ並んでいるところが、すでに紹介した㉑⑳⑲⑱㉒(9代藩主 3代藩主 2代藩主の正室 2代藩主 10代藩主の正室)のエリアです。その5つの墓石を除く大きな墓石は上の写真の右側に並ぶ㉘と㉞と㉟でした。しかしながら、いずれも正室のお墓で、藩主のお墓ではありませんでした。


こちらは階段を上に登って撮った同じエリアの写真です。


実は階段をさらに登っていくと初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったのです。今回、見たのは地上の墓所は「寺谷のお塔」と呼ばれていて、山の上の墓所は「山のお塔」と「実相院山のお塔」と呼ばれています。山の上には19塔のお墓があるので地上の37塔のお墓と合わせると56塔のお墓が吉川家墓所にあることになります。


つまり、写真に写っている道を登ると初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったわけで、すべての藩主のお墓を見ることが出来るので機会があれば行ってみたいと思います。山の上の4つの藩主のお墓と今回見た9つの藩主のお墓を合わせると4+9=13となりなり初代から13代の藩主のお墓が吉川家墓所にすべてそろっていることになります。


航空写真では木が多くて「山のお塔」と「実相院山のお塔」の位置が判らないのでネット上の右の地形図から大まかな感じを黄色の枠で書き込んでみました。
感で書き込んだので正確ではないことをお許しください。


吉川家墓所(①~㉟)と錦帯橋と吉香公園との位置関係が判る地図を紹介します。