写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

高野山に来て最初に訪れたのが奥の院です。奥の院とその参道は高野山の雰囲気が凝縮された世界に感じます。上の写真が高野山の奥の院です。残念ながらこれより奥は、左の看板に書かれているように写真撮影が禁止されているため全景は紹介できません。奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。高野山で建物の撮影が禁止されているのは珍しいです。それだけ神聖な場所なのでしょう。

上の写真もクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために奥の院の建物部分を拡大してみました。クリックするとさらに拡大します。この建物の奥に弘法大師の霊廟があります。


高野山で一番大好きな場所が一の橋から奥の院への参道(緑色ライン)です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓所や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。それらの中には武田信玄、上杉謙信、織田信長など有名な武将たちの墓所が沢山あり、それらの風景には圧倒されます。この参道は是非とも歩いて欲しいです。バスで来た場合は、奥の院前まで行かずに手前の一の橋口のバス停で降りることを推奨いたします。正式な参拝も一の橋から歩くのが本来の姿です。

奥の院側から参道を見た景色です。我々は12時に一の橋の近くのお寺に精進料理を予約してあり、時間がなかったので、先に奥の院に行き、奥の院側から一の橋に歩きました。


御廊橋のあたりの景色です。


樹齢千年を超える杉の古木には圧倒されました。400年~500年前の戦国の武将の墓所・墓石を見るとロマンを感じてしまいます。
後で紹介いたしますが、武田信玄(1521年~1573年)や伊達政宗(1567年~1636年)など有名な武将の墓所を見ると、なぜか感激してしまいました。


こちらが島津家久(初代薩摩藩主)と島津光久(二代薩摩藩主)の墓所です。伊達政宗の墓所も石の鳥居と大きな同じタイプの墓石でした。


こちらは庄内藩主の墓所です。


石田光成の墓所も見つけました。文化的に重要なものばかりで見ごたえがありました。


こちらも見事な墓です。安芸藩(広島)の浅野家(藩主)の墓所です。江戸時代の藩主あるいはその家の墓所は立派なものが多かったです。


こちらも墓の構えからして名のある家の墓所だと思います。やはり藩主の家だと思われます。調べた結果、徳川家康の次男である結城秀康の石廟で重要文化財に指定されていました。福井藩の藩祖、つまり第1代藩主でした。


是非とも見たかったのが武田信玄の墓所です。敷地は広かったけれど墓石は他の墓石に比べて小さかったのが印象的でした。右の白黒の写真は、私が小さいころの1962年頃(1961~1963年)に祖母・祖父に連れられてきたときの写真です。
2つの墓石の左の大きい方が武田信玄(第19代当主 1573年没)で、右の小さい方が信玄の子である武田勝頼(第20代当主 1582年没)の五輪塔です。


武将ばかりではありませんでした。歌舞伎役者の市川団十郎のお墓もありました。これはどうやら初代の市川團十郎(1660年~1704年3月24日)の墓のようです。これ以外にも沢山の有名な墓所を見ることが出来ました。


こちらが有名な「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」です。お堂の中に汗かき地蔵尊が安置されています。汗かき地蔵尊の謂れは、いつも人々が犯した罪の苦しみを、人々て代わって受けておられるので、その苦しみのため汗を流しておられるのだそうです。黒っぽい石に彫られた地蔵尊は、実際にツユが吹いて、汗が流れているように見えるときがあるそうです。
そして、お堂の右の奥の方に「姿見の井戸」があります。クリックして拡大すると文字が読み取れると思います。この小さな井戸「姿見の井戸」は空海が高野山に登ったときに掘られた井戸だといわれています。伝説では、この井戸の水は、どんな眼病にも霊験あらたかだそうですが、のぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうのだそうです。「中の橋」の近くに、この「汗かき地蔵尊」と「姿見の井戸」があります。