上の航空写真の青いマークのカフェバタビア(Cafe Batavia)の前には、見ての通り、大きな広場がありました。その広場には沢山の丸い石があったがあったことはことはすでに紹介いたしましたが、その広場の名前を検索した結果、その広場はFatahillah Square (Taman Fatahillah)であることが判りました。日本語で呼べばファタヒラ広場です。ここでは広場を散策した時の写真を紹介いたします。その広場の周りにはカフェバタビア以外にも黄色いマークの名だたる古い建物がありました。いずれも140年前、371年前、301年前に建てられたもので、今は博物館として使われているようでした。
ジャカルタは最初はスンダ・クラパと言う小さな港町でした。そのスンダ・クラパにやってきたポルトガル人と戦い、彼らを海岸から追い払った戦によって、ジャカルタ市の歴史の基点を作り出したファタヒラ将軍の名がファタヒラ広場という名で記念されているそうです。
ファタヒラ広場はオランダ植民地東インドの首都バタヴィア(Batavia)時代の旧市街地のほぼ中心にあります。バタヴィア(Batavia)時代の旧市街地は「コタ」(町)とよばれていました。ジャカルタ市やジャカルタの商業人たちはいま、これといった観光の目玉になる資源に乏しいジャカルタにあって、バタヴィア時代の古い町並み―煉瓦造りのオランダ商館や植民者の住宅などが残っているコタ一帯を手入れして保存し、ここでさまざまなイベントを行いジャカルタの目玉的な歴史的風致地区にしようとしているそうです。

それでは3つの黄色いマークの建物を紹介いたします。この建物はインドネシア語でMuseum Seni Rupa dan Keramikと書かれていました。右側のマークの建物です。
1870年1月12日に建設された政府関係の建物のようです。


こちらは左側の黄色いマークの建物です。インドネシア語でMuseum Wayangです。こちらは1640年に教会として建てられたそうです。その時はOude Kerk Hollandsche("オールドダッチ教会)で、1732年に修復されて名前もHollandse Nieuwe Kerkと変わったそうです。その後も何度か改装・建て替え行われたそうです。現在はインドネシアの伝統的な人形の博物館となっているようです。


おそらく、こちらの建物が最も有名だと思います。広場の名前にもなっているMuseum Fatahillahです。 1707年から1710年に建設されて総督府(市庁舎)して使われていました。つまりこの辺りがオランダ統治下での町の中枢部分だったことがうかがえます。この辺り全体が昔の雰囲気を残したものが沢山残っているそうです。


この場所の昔の絵をネットから探しました。正面が市庁舎、つまり今のMuseum Fatahillahで、右側が今のMuseum Wayangの場所で左側が今のMuseum Seni Rupa dan Keramikです。この絵の大きな広場が、今回紹介している広場なのです。
広場の真中に小さな建物があります。この建物のことを覚えておいて、下の記事を見ていただきたいと思います。


広場は観光客の人だけでなくジャカルタッコたちの憩いの場所で沢山の人がおられました。この写真はMuseum Fatahillahの正面入口前のあたりを撮ったものです。


若者たちも記念撮影をしていました。正面に見えている建物はすでに紹介しているカフェバタビア(Cafe Batavia)です。その位置関係から考えると、彼女たちが記念写真の背景に撮っているのはMuseum Wayangだと思います。


それぞれが自由な服装で広場につながる道を歩いていました。


広場の真中には不思議なモニュメントがありました。この日は何らかのイベントがあったようで、大きなテントが建てられていました。上の昔の広場の絵にも広場の真中にモニュメントに似た建物があります。このモニュメントは昔を再現したもののように思えました。冒頭の航空写真でも、このモニュメントが広場の真中にあることが分かると思います。


屋台も沢山ありました。本当に屋台が多かったです。


広場の中に、不思議な光景がありました。荷物が一列に並べられていました。場所取りのように感じました。夜にはここに沢山の屋台が並ぶのかもしれません。


広場で、もう一つの名物なのがレンタル自転車が並んだ景観です。この広場を中心にオランダ統治時代の街並みが沢山残っており、それらを廻るのに自転車が便利なのでしょうか、沢山のレンタル自転車が広場の中に並べられていました。帽子も一緒に貸してくれるのでしょうか。自転車に一つ一つ帽子がつけられていました。


近く(500mの距離)には1870年に作られたコタ駅があります。そのコタ駅を車の中から見ることが出来ました。インドネシア語の正式名はStasiun Jakarta KotaでKRLジャボタベック全線の列車とジャワ島各地への長距離列車の始発駅となっている鉄道駅です。
この駅は19世紀末までBatavia Zuid(南バタヴィア)と呼ばれていました。またBataviasche Ooster Spoorweg Maatschapijの略でBEOS駅と通称されていました。東バタヴィア鉄道輸送会社(英語:East Batavia's Train Transportation Company)だったそうです。
駅は西洋風であり現地風でもあります。現在の駅の建物は1926年にオランダ人の設計家Frans Johan Louwrens Ghijsels(1882年9月8日生まれ)によって設計された駅に改装された姿となっています。