写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

水戸城は大きなお城でしたが、建物として残っているのは三の丸にあった藩校の弘道館の一部と県立水戸一高敷地内に移築復元された薬医門くらいです。ただし地形に関しては当時の影響を大きく残しています。この道路は昔の三の丸と二の丸の間の堀でそこに昔かかっていたのは大手橋です。橋の右側が二の丸で左側が三の丸で、三の丸には今でも弘道館の一部が残っています。そして右の階段を上ったところに右の写真の大手門がありました。

そして大手門が建っていたところには水戸藩の第一代藩主の徳川頼房(とくがわ よりふさ)の像が建てられていました。
この城の歴代の藩主です。(1609年以降はすべて水戸藩)
代  在任期間    名前  よみ  前藩主との続柄   備考
 1 1602 - 1603年 武田信吉 のぶよし 徳川家康の五男   武田藩
 1 1603 - 1609年 徳川頼宣 よりのぶ 徳川家康の十男   紀州藩
 1 1609 - 1661年 徳川頼房 よりふさ 徳川家康の十一男 水戸藩初代藩主
 2 1661 - 1690年 徳川光圀 みつくに 先代の三男     水戸黄門
 3 1690 - 1718年 徳川綱條 つなえだ 先代の甥
 4 1718 - 1730年 徳川宗堯 むねたか 先代の姪孫
 5 1730 - 1766年 徳川宗翰 むねもと 先代の次男
 6 1766 - 1805年 徳川治保 はるもり 先代の長男
 7 1805 - 1816年 徳川治紀 はるとし 先代の長男
 8 1816 - 1829年 徳川斉脩 なりのぶ 先代の長男
 9 1829 - 1844年 徳川斉昭 なりあき 先々代の三男 偕楽園・弘道館創設
10 1844 - 1868年 徳川慶篤 よしあつ 先代の長男
11 1868 - 1869年 徳川昭武 あきたけ 先々代の十八男


昔の建物は少ないけれども空堀などの景観は町の各所で見受けられました。右の写真はWikipediaから拝借した薬医門です。この門は、本城橋のたもとに建てられていた城門と推定されています。安土桃山時代の建築様式がみられ佐竹氏時代のものと考えられています。薬医門とは、門の建築様式の呼び名で扉を支えている本柱とその後ろにある柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で側面の姿は対称形でありません。正面から見ると軒が深いため、門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられたそうです。今は本丸跡になる県立水戸一高敷地内に移築復元されています。


大手門跡のすぐそばには、ここが水戸城であったことを記した石碑が建てられていました。石碑には「茨城百景 弘道館 水戸城址」と書かれていました。
石碑の後ろのフェンスの近くのの看板の説明文には次のように書かれていました。説明文の写真をクリックすると拡大します。
茨城県指定史跡

水戸城跡(塁及び濠)

水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾の族が栄えたのである。15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。

それまでの本城の外に宿城(のち二の丸)を築くなど、城郭を拡張して約164年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。

こうして54万余石を領する佐竹義宣はの本城となり城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成とと結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。

その後は家康の子信吉、頼信が一時封ぜられたが、慶長14年(1609年)に第11氏頼房が藩主となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

水戸市教育委員会


昔の水戸城の地図を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つけました。結構貴重な地図だと思います。これがネットから拝借した昔の水戸城の本丸と二の丸の地図です。クリックすると拡大します。        

上の昔の城郭の地図と同じ範囲を現在の航空写真で見てみます。昔の地形がきれいに残されていることがわかりました。
多くの城址は公園になっているところが多いのですが水戸の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。水戸市立水戸第二中学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていました。水戸市立水戸第二中学校は二の丸の元祠堂、祠堂附地所、元彰考館のあった場所に建てられたことが判りました。

本丸や二の丸の外側の地図を探して見ました。①~③が上の地図の範囲です。やはり大きくて堅固な城だったようです。①の「下の丸」は上の地図では「東二の丸」と書かれていました。のあたりが偕楽園です。


大手門の近くの石碑あたりから見た昔の二の丸方向です。昔風の建物がありました。これは水戸市立第二中学校です。昔の二の丸址に建てられてるために、このような景観の学校にしたのだと思います。すごいので紹介いたします。


こちらが学校の正門です。とても学校の門とは思えないです。通学時間帯だともっと学校らしい写真が撮れたと思います。


2011年11月に撮影されたGoogleのストリートビューがありました。校舎の一部は完成しています。門や塀などは建設中でした。これから2012年に完成したと思われます。写真をクリックするとストリート・ビューを表示します。


正門を拡大いたしました。「水戸市立第二中学校」と書かれているのがわかると思います。普通は水戸市立XX第二中学校という名前が付けられるのが普通ですが、ズバリ第二中学校という何も驚かされました。


塀も昔の城の壁のようでした。


正門から中を覗かせてもらいました。こちらが校舎です。ここで学んでいる中学生たちは思い出にもなるし自慢だと思います。


左の建物が体育館だと思います。弘道館の跡地の一部に建てられた水戸市立三の丸小学校も昔の景観にこだわった学校でした。これだけ昔の景観にこだわった学校は水戸以外で見たことはありません。