写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2016年元旦は初めて初孫も来たおめでたいお正月でした。1月1日の朝は長男夫婦と次男と長女と我々の6人で、おせち料理をいただきました。おせち料理はかまぼこと漬物以外はすべて家内の手作りです。ただし、おせち料理は1月1日の朝に食べきってしまうことを目標に作っています。朝食ではありますが元旦なので日本酒を飲みました。2本の白い出石焼の銚子にお燗した日本酒が入っています。

お正月らしい雰囲気にするため、漆塗りの半月膳に庭の南天と万両を飾りました。もちろん半月膳は朱塗り側を上にしました。裏は黒塗りです。「おせち」の由来は中国から伝わった五節供にあるそうで、御節供(おせちく、おせつく)や節会(せちえ)の略だそうです。奈良時代には朝廷内で節会として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言といわれたそうです。そのころは現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯であったそうです。この五節会の儀を一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられているそうです。もともとは五節句の祝儀料理の全てを言っていたそうですが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになったそうです。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたそうです。
現在の人日の節句(1月7日)の行事料理と言えば七草粥ですが昔は違っていたということになります。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」と称し歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりしたとのことです。


お屠蘇(おとそ)がわりに日本酒を、昔からの錫製の銚子に入れました。本来のお屠蘇は、数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒などに浸して作るそうです。


御節は一食で食べきるために少なめにしているので、お重は一段のみを使いました。海老、ごまめ、きんとん、かまぼこ、焼き豚です。
昔の正月料理の御節は飾るだけでしたが、天明(1781~1789年)の頃以降は食べるようになり、重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降で、手法として完全に確立したのはは第二次世界大戦後だそうです。


こちらは、なます、千枚漬け、数の子、黒豆です。なますに使われている大根は、年末に近所でもらったものです。最近では重箱に入れた御節料理が食卓に並ぶことが多くなってきた一方で、重箱にこだわらない形での自由な発想の御節料理も将来は増えてくる気がします。


煮しめとしては家内の自慢の筑前煮を作りました。人気で、お鍋に残っていたもの食べきってしまいました。おかげでお酒も進みました。


お雑煮が出てきました。取り皿を2つ並べると半月膳がいっぱいとなりました。


こちらは澄ましのお雑煮です。お雑煮のお餅は"kazu"さんにいただいたものです。12月30日につきたての伸餅をいただき市販のものよりも少し大きめに切りました。自家製のお餅でおいしかったです。6人の内3人はおかわりいたしました。


こんがりと焼けたお餅を拡大いたしました。


今回初めて来た6ケ月の初孫は御節料理を食べるのは無理なので離乳食を食べました。


ムサシも参加したかったみたいです。何度も前足を机に乗せて覗き込んでいました。


我が家では澄ましのお雑煮なのですが、1月2日の朝食では味噌仕立てのお雑煮にしました。おそらく約20年間の内で、初めての味噌仕立てのお雑煮だと思います。雑煮の由来は諸説あり、定かではないそうですが、餅が食べられるようになった段階から存在したと想像されます。つまり呼び名は別として、米文化の日本では古来から存在した料理ではないでしょうか。