写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で紹介の通したソフトクリームを食べた後に錦帯橋の北西側(錦川の右岸側)の横山地区(旧 横山村)を散策いたしました。最初に訪れたのが上の写真の岩国藩の家老香川氏の表門です。香川家長屋門と呼ばれています。1693年 (元禄6年) に香川正恒(かがわ まさつね)が大工の大屋嘉左衛門に命じて建立したと伝えられています。岩国市の建造物としては最も古いものの一つで、当時の武家屋敷の構えをよく残しています。塀の内側は個人宅のためになどには入れません。ちなみに城や武家屋敷があった錦川の右岸(錦帯橋の北西側)が横山地区であるのに対して、商人たちが住んでいた錦川の左岸(錦帯橋の南東側)は錦見地区です。

場所は佐々木屋小次郎商店から歩いて1分ほどの距離です。この航空写真内の赤色マーク( )のところです。
錦帯橋→佐々木屋小次郎商店(ソフトクリーム)→香川家長屋門→岩国高校記念館→吉香鵜の里(鵜飼育施設)→岩国シロヘビ館→白山比咩神社→旧目加田家住宅→吉香公園の噴水→吉川家(岩国藩主)墓所→永興寺→錦帯橋と紫色ライン(━━)を反時計回りに歩きました。
 香川家長屋門
 佐々木屋小次郎商店
 食事処 むさし


門の正面から見た入口の部分です。桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きで、正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉がしつらえていて、門の左側に茶屋が設けられており、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、馬屋に当てられていたそうです。
一般的に長屋門は上級武士の住宅の表門で、江戸時代に多く建てられた門で、門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用されたそうです。始まりは、諸大名が自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟としたのが長屋門だそです。


正面からの長屋門の全景が撮れなかったので離れた道からのストリートビュー(SV)を2画面紹介します。木が沢山あって判りにくいけれども入口は長屋門の中央ではなく向かって左寄りにありました。下段が真正面ですが木が多いので上段も掲載したわけです。



こちらが香川家長屋門の説明板です。クリックすると読める大きさに拡大しますが、内容を枠内に転記いたします。
山口県指定文化財

 一 建造物   香川家長屋門一棟

 一 指定年月日 昭和四十一年六月十日 山口県有形文化財

 一 管理団体  岩国市

説 明

 香川家長屋門は岩国藩家老香川氏の表門で今から二百七十年余前香川正垣が建造したもので建築面積123,14平方メートル江戸時代の武家門造の典型として城下町岩国をしのぶ好個の資料である。

 香川家は初め芸州(広島県)八木城主で吉川広家が岩国に移封された当時客分から家老に取り立てられた名門であり、かの歴史的に有名な陰徳太平記は正垣の父正矩苦心の作で正垣の弟景継が大成したものであります。その他香川家からは為政者あるいは歌人の優れた人物が輩出しています。この長屋門は昭和三十年一月二十五日山口県指定文化財顕彰規定により指定されていますがその後昭和四十年山口県文化財保護条例が制定さら同四十一年六月十日山口県有形文化財の指定を受けました。

 なお、この建造物は当主香川晃氏から昭和三十年十月二十五日、岩国市に寄贈されています。
岩国市教育委員会


古図に書かれていた香川家の場所を紹介します。緑色で囲ったところが香川家の敷地です。赤色で囲っているのが以前に紹介した目加田家です。御城跡と書かれているところが、麓の岩国城(御土居)の跡で現在は吉香神社があるところです。


長屋門を過ぎて塀に沿って歩いて右に曲がったところの景色です。右の塀は長屋門から続いていました。


香川家長屋門の紹介の30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。


この奢侈化のように、錦帯橋のソフトクリームを紹介したやまぐち映像図鑑動画の背景にも香川家長屋門が出てきました。下の写真は動画のハードコピーで、クリックすると香川家長屋門が出てくるところからの動画を表示します。