写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

この写真が今回紹介する兵庫津ミュージアムです。手前の和風建築が兵庫県の初代県庁を復元した初代県庁館()で、奥の近代的建物が兵庫津ミュージアムの本館となる「ひょうごはじまり館」()です。本記事では博物館設備となる「ひょうごはじまり館」を紹介したいと思います。初代県庁館は次に紹介したいと思います。我々はこの写真の後ろ側から歩いてきたので初代県庁館に最初に入るつもりでしたが入館券は本館側でしか売られていないことから先に「ひょうごはじまり館」に入りました。「ひょうごはじまり館」がオープンしたのは2022年11月24日なので、1年しかたっていなかったのです。建物の竣工は2022年9月だそうです。
建物の名前にもなっている兵庫津は8世紀の初め頃に大輪田泊と呼ばれ、近畿から西に向かう航路の船泊りとして築かれたそうです。804年に第4回遣唐使として最澄空海が船出してたことは有名いきました。平安時代の終わりごろには平清盛が日宋貿易のために大きな港に修築して重要な国際貿易港になったそうです。鎌倉時代以降に兵庫津と呼ばれるようになり、室町時代には勘合貿易の国際港として栄えたそうです。江戸時代には北海道や東北の日本海沿岸と近畿を結ぶ北前船の発着港として使われ、町は発展し江戸中期には2万人を超える町になったそうです。兵庫県の最初の県庁が兵庫城跡に置かれ、初代県知事に伊藤博文が就任し、明治になっても国際貿易港として大きく発展すると共に兵庫運河も作られたそうです。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの清盛塚を出発してからの兵庫津ミュージアムまでを紹介したいと思います。右の写真は清盛塚()から兵庫津ミュージアム()に移動すると途中で渡った兵庫運河です。
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子店)
  和田岬駅(15:16)


初代県庁館の写真は沢山撮りましたが、兵庫県立兵庫津ミュージアムの本館()となる「ひょうごはじまり館」は撮っていなかったので、ハイキングに参加した人を撮った写真の背景に本館が写った写真を紹介します。次の淡路屋(駄菓子店)に向かって歩き始めた時の写真です。


Googleマップのストリートビュー(SV)でも紹介します。中世〜近世の呼び方の兵庫津のは 「海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。」の意味です。現代で言えば兵庫港になるのだと思います。兵庫津と呼ばれていた時代は兵庫関や兵庫島とも呼ばれていたことがあるようです。


こちらが兵庫津ミュージアム「ひょうごはじまり館」の博物館エリア(有料)の入口を入ったところです。


奥の方から入口を撮った写真です。


入口に入って最初の展示物です。


応仁・文明の乱(1467年~1477年)などの戦乱の時代の兵庫津の展示です。
奈良時代(710年~794年)には、僧・行基が開いたとされる摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つ大輪田泊と呼ばれていました。1162年からは平清盛によって大修築も行われ1173年には、広さ37万㎡(37ha)と推定されている人工島・経が島も完成したそうです。さらに僧・重源による改修を経て鎌倉時代(1185年~1333年)に国内で第一の港として兵庫津と呼ばれるようになったそうです。人口島の経が島は地形変化等により場所が特定出来ないそうですが、神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地、あるいは兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)周辺と想定されているそうです。


兵庫津がにぎわった時代の展示です。今まで、これらの時代と兵庫との関りはほとんど知らなかったことを実感いたしました。兵庫津は今の神戸港より西になります。港としての中心的場所はコンテナ化などにより徐々に東の方に移っていたようです。安政5年6月19日(1858年7月29日)に結ばれた右の写真の日米修好通商条約で開港5港で選ばれた神戸は、当時は兵庫と言われていたようです。
第三條の原文 和文 英文
 下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし
 神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 長崎  午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 新潟  午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日
 兵庫  午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日


立派な屏風の展示されていました。


国際交流としての港の歴史の展示です。


江戸時代になり北前船の発着港で発展と共に町が栄えたことが感じられます。北前船の模型も雰囲気を盛り上げてくれていました。


北前船を拡大しました。


横から撮った写真です。


北前船を船尾から撮った写真です。


江戸時代の庶民の生活の絵なども展示されていて、町が栄えた風景が実感できました。写真は当時有名だった兵庫生洲(ひょうごいけす)の様子の図で、寛政8(1796)年の「摂津名所図会」の中で、魚市のほか南浜の今出在家町にあった「兵庫生洲」を紹介した図のようです。長さ十三間×幅四間(24m×7m)ほどの屋根を持ったいけすに鯛、鱧、鱸など多彩な魚が飼われていたそうです。不漁時にはここから活魚を市場に出したり、京の御所にも献上したと伝えられているそうです。右がネットから転用させていただいたオリジナルの絵です。


北前船の前の床には大きな地図が描かれていました。


兵庫津の名所めぐりのすごろくでした。
右は摂陽山海古覧の神戸駅ができる前の神戸を描いた図です。湊川の右岸(右奥側)が兵庫津で、湊川の左岸(左手前)が神戸港側です。兵庫津が繁栄していたことが伝わってきます。右の図は神戸新聞のサイトから転用させていただきました。


分かりやすくするために縦方向を拡大しました。左下端に和田岬があり、我々が訪問した清盛塚は左上にあります。戦国時代の短い期間に存在した兵庫城は、中央左側の勤番所と書かれていたところにありました。兵庫運河の記事の中で兵庫城跡と書いている辺りです。下方向が概ね東方向になります。


兵庫大佛の記事で紹介した神戸事件もアニメを交えて詳しく書かれていました。このようなつらい事件や戦争を経験してきましたが、神戸港の歴史は古代から続いて来たことを実感しました。
 古代 摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つとして発展
 中世 遣隋使・遣唐使 日宋貿易の拠点 国内で第一の港 日明貿易の拠点
 近世 北前船などの国内輸送 日米修好通商条約による開港
 近代 日本や世界の経済発展と共に拡大


昔の古い写真の中に自分たちが写り込む画面もありました。クリックして拡大すると4人が写り込んでいることが分かっていただけると思います。


私が画面に写り込んでいる写真も紹介します。カメラを構えているのが私です。画像の中の建物は1874年(明治7年)に開業した初代の神戸駅です。
新橋駅~横浜駅間の鉄道開通(1872年)に続く2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅です。


明治時代のHiogo and Kobe Map(兵神市街之圖)も展示されていました。
真ん中あたりに日本で2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅の神戸駅があります。


神戸駅あたりを拡大しました。私が新入社員として配属になった神戸事業所(明治初期設立)は神戸駅の南に今でもあります。クリックすると同じ縮尺で広範囲を表示します。
明治21年に出版された右の地図でも神戸駅が確認出来ました。当時に会った会社や商店もその地図で確認出来ました。銀行だけでも、第一國立銀行第三十八國立銀行第五十八國立銀行第六十五國立銀行三井銀行横濱正金銀行神田銀行島田銀行と廣田銀行と第七十三国立銀行の10行が書かれていました。明治11年頃の右の横長の「兵庫幕下摂津國八部郡兵庫港市街地図」にも神戸駅や湊川砲台(湊川崎砲台/湊川崎台場)が書かれていました。この地図の存在は入社当時の方からLINEで教えていただきました。
右の地図の湊川(湊河)の西岸の星マーク( )が勝海舟が設計して幕府軍艦方が作った湊川砲台の位置だと思われます。明治以降は湊川砲台の砲台や石堡塔(雨覆)やその敷地は陸軍省の所管となりましたが明治24 年(1891年)火災で石堡塔の内部の木造部分が焼失したため解体されたそうです。近くの和田岬には同型の和田岬砲台の石堡塔が残されています。


博物館エリアから出て来たロビーに置かれていたので、レストランのサンプルかと思ったら特産品を使った昔の料理のサンプルでした。


Googleマップの航空写真で紹介しておきます。兵庫津ミュージアムを紹介します。右側が本館で左側が初代県庁館です。2023年12月の時点のGoogleマップでは本館の周囲には足場が組まれていて工事知友の時期に撮られた航空写真が使われているようでした。
初代県庁館が出来る前は納田商店さんの加工場(神戸市兵庫区中之島2丁目2-28)があったようです。納田商店さんは神戸市兵庫区出在家の3ケ所に第一加工場(2-2-21)と第二加工場(1-5-14)と冷蔵保管庫(1-4-20)があり、兵庫区中之島1丁目の神戸市中央卸売市場に営業所があるようです。