写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で紹介した兵庫津ミュージアムの本館「ひょうごはじまり館」の次に行ったのは初代県庁館でした。本記事ではその初代県庁館を紹介したいと思います。清盛塚の方から歩いてきたので元々の計画では初代県庁館を見学してから本館に行くつもりでしたが、入館券は本館でしか買えなかったことから、見学の順番が反対になりました。タイトルで初代県庁館を兵庫縣廰と書いたのは、入口の看板に右の写真のように兵庫縣廰と書かれていたためです。上の写真が周囲を土塀で囲まれた初代県庁館(兵庫縣廰)です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来て兵庫県庁と呼ばれる前は大坂町奉行所兵庫勤番所でした。初代県知事は内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)になった右上の写真の伊藤博文でした。伊藤博文は1841年10月16日生まれなので兵庫県知事なったのは26歳ということになります。若い時の写真も右に紹介します。現兵庫県知事の斎藤元彦さんも若いけれども、それでも20歳年上の46歳(就任時は44歳)です。初代県庁館がオープンしたのは2年前の2021年11月3日で、2022年11月24日にオープンしたひょうごはじまり館の1年前です。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの初代県庁館を紹介したいと思います。右写真は前記事(兵庫津ミュージアムの本館)で使わさせていただいた初代県庁館です。→SV1 SV2 SV3
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが初代県庁館の入口の門です。


入口の門を拡大すると兵庫縣廰と書かれた看板を確認できます。


入口の門をくぐってすぐの景観です。左側の建物の入口が県庁舎の玄関です。右側の門をくぐると県庁舎の庭が広がっています。


兵庫県立兵庫津ミュージアムのホームページ(HP)からイメージ図を転用させていただきました。右側の大きな建物が兵庫県庁/県庁舎()で、左側の奥の2つの建物が勤番所時代に兵庫津に住んだ下級役人(地付同心)の官舎/同心屋敷()で、同心屋敷の手前の建物が取次役所()でカフェとして飲み物などを提供しています。一番手前の歩道に接した建物は和田岬沖を航行する船を見張る船見番小屋()で休憩処として利用できるようになっていました。兵庫県庁(県庁舎)の左奥の小さな建物が、犯罪人を短期間拘置するために使われていた仮牢()と牢番のいる番小屋です。中央の一番手前に初代県庁館への入口があり長屋門()になっています。神戸覧古(明治時代発刊)とにあった長屋門と東に続く土塀の右の勤番所の絵を元に再現したそうです。


初代県庁館は下の2枚の上側の兵庫勤番所絵図と同じ配置で作られていることが判っていただけると思います。文字が読みにくいのでクリックすると比べてやすいと思います。


Googleマップでも初代県庁館の配置を紹介します。


県庁舎()を紹介する前に取次役所()と船見番小屋()を紹介します。同心屋敷()と仮牢()の方にはいかなかったことを後で後悔いたしました。
こちらがの取次役所です。カフェとして利用されていました。


カフェのメニューが入口の前に立てられていました。


カフェのメニューの内容を紹介します。最寄り駅は中央市場前(神戸市営地下鉄)です。歩いて260mのきょりです。


別の入口にもカフェのメニューが立てられていました。


こちらがの船見番小屋です。こちらの建物は休憩所として利用されていました。


昔風に条々が立てられていました。兵庫津街歩きの際の注意事項のようです。


当時の大砲も展示されていました。


ここからがの兵庫県庁/県庁舎/勤番所の説明です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来る前は同じ建物を勤番所と呼んでいたようです。こちらば県庁舎の玄関です。


玄関の入口に近づきました。正面に説明板か置かれています。


先ずは玄関を入ったところでボランティアの説明員の方から詳しい説明をしていただきました。


説明してもらっている時に斜めから撮った説明板です。


正面から撮った「初代県庁館について」の説明板です。左側が「兵庫城から勤番所へ」で、右側が「兵庫県庁の誕生」です。「勤番所(初代県庁舎)の復元」に関する説明も書かれています。クリックすると文字が読める大きさに拡大します。


玄関の入口から建物の奥方向を撮った写真です。


上の写真から縁側の方に出て、奥の方を撮った写真です。


同じ位置から庭方向を撮った写真です。


板間もありました。左の部分から仮牢を見ることが出来ました。


近くで見なかった仮牢()と牢番小屋が県庁の建物の中から見れました。撮ったのは上の写真の左端からです。


仮牢を撮った位置から建物の奥を撮った写真です。奥の方に家具が少し見えているところが県知事・伊藤博文の執務室の場所です。その左側の外が見えているところが罪人を裁く吟味場(お白洲)です。


こちらが吟味場(お白洲)です。仮牢に入れられていた罪人がここに座らされたのだと思います。


吟味場の場所の横には県知事執務室にも接していました。


こちらが県知事の知事執務室です。


知事執務室のテーブルです。もちろん当時の物ではありませんが、近いものを選んだのかもしれません。


ボランティアの方から初代県庁に関することだけでなく兵庫運河が日本最大級など兵庫津の詳しい説明をしていただきました。


知事執務室の端に「雪隠」の表示がありました。雪隠は便所のことです。


縁側の左側が「雪隠」です。


「湯殿」の表示もありました。
「雪隠」は知事執務室の東の縁側の端にあり、「湯殿」は知事執務室の南の縁側にありましたした。右の図が全体の配置図から「湯殿」と「雪隠」の部分を切り取り図です。


こちらが湯殿です。


知事執務室あたりから見た庭です。


知事執務室の南側の縁側の西端から見た庭や建物の景色です。


県庁舎を昔の図面通りに木材で作ると耐震性が問題となることから、鉄骨が中に入った木材が重要な部分に使われています。遠くから見ると見わけが付きませんが、この写真のように近づいてみると分かります。2本の接合面が判っていただけると思います。この柱は分かりやすかったけれども分かりにくい方が多かったです。


庭越しに見た県庁舎の建物です。


もう一枚庭越しの写真を紹介します。


初代兵庫県庁は手狭であったことなどから、すぐに二代目県庁が坂本村(現在:神戸市中央区橘通)が作られ初代県庁は役目を終えたそうです。


兵庫県が現在とほぼ同じ範囲(第3次兵庫県)になったのは明治9年8月からだったのです。明治4年11月~明治9年8月(第2次兵庫県)では飾磨県+豊岡県+兵庫県が現在の兵庫県に近い状態でした。慶応4年~明治4年11月(第1次兵庫県)に至っては兵庫県は着色された部分だけだったのです。初代県庁が出来たのは、その第1次兵庫県の時代でした。


初代県庁(建てられた時は勤番所)は兵庫城跡に作られたことから、最後に兵庫城の復元図を紹介します。兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間だけで江戸時代には城はなくなり、右の図の陣屋となったそうです。
 築城主 池田恒興
 築城年 1581年(天正9年)
 廃城年 1769年(明和6年) → その後は勤番所
1615年に大坂城落城後は兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれたそうです。1769年には上知令により兵庫津一帯は天領となり、大坂町奉行が支配することになり、兵庫勤番所と呼ばれたそうです。明治維新期に勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任したわけです。1873年までは、外郭となっていた土塁が残っていたそうですが、市街地発展のため取り除かれ、1874年に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が出来て、兵庫城跡は完全になくなってしまったそうです。


初代県庁館を見学した後は次の目的地の淡路屋(駄菓子店)に向かいました。我々の後ろの写真は兵庫津ミュージアムの本館です。