鎌倉の記事の続きです。すでに牡丹園町並古い郵便ポストを紹介しています。今回は鎌倉で沢山走っていた人力車を紹介します。最近では日本の有名な観光地には必ず人力車があります。
最近では京都と北海道の小樽でお目にかかりました。それて比べても鎌倉の人力車の数が多かったように感じました。乗っている人力車も沢山見かけました。
この写真は鶴岡八幡宮の入口の鳥居の前です。左側の引き手の人は後でもう一度、登場します。

ネットで調べると「えびす屋」と言う全国店があり、そのお店は「京都嵐山総本店」「京都東山店」「小樽店」「雷門店」「奈良店」「宮島店」「関門店」「湯布院店」で展開していました。最近行った湯布院でも人力車を見かけました。料金は設定された一区間(1km程度)で2000円/一人 or 3000円/ニ人です。60分貸切で9000円/一人 or 15000円/ニ人でした。鎌倉での「えびす屋」の設定コースは下記の通りでした。貸切はいろんな時間で設定できるようなので現地で相談してみてください。
  三ノ鳥居遊覧コース
  二ノ鳥居 ~ 鶴岡八幡宮
  長谷駅 ~長谷寺(または大仏)
  鎌倉駅西口 ~ 銭洗弁財天
引き手の人を車夫あるいは俥夫と呼びます。全国で最も古い車夫の方は鎌倉の老舗の「有風亭」の青木登さんと言われています。人力車をはじめられたのが今から29年前の1983年*だそうです。1948年3月下旬生まれで64歳になる青木登さんは、いろんな伝説を作られたのでしょうね。まさに伝説の人です。右上の昔の青木登さんの写真はネットから拝借いたしました。今が一番、気持ちのいい季節なのかもしれません。乗っている皆さんも気持ちよさそうでした。 *:2008年の記事で人力車を始めて25年と書かれていました。


この写真の中だけで4台の人力車が写っています。かたまって走っていたので同じ仲間の人なのかもしれませ。


こちらは笠をかぶったスタイルです。こちらは全国店の「えびす屋」の法被(はっぴ)を着ておられました。


この人が冒頭の写真の左側の人です。走っていく方向は鎌倉駅西口なので、どこかでお客さんを降ろして、駅に戻っているのだと思います。写真付の証明書を持っておられたので、踏切で待っているときに、免許がいるのかと聞くと「研修を受けると人力車を引くことが出来る」との答えでした。遮断機が下りている間にお話をさせてもらいました。ちなみに彼の名前も青木さんだったと思います。第二の青木登さんになるのでしょうか。もし、この人を見つけたら人力車に乗ってあげてください。
人力車に書かれていた彼の名前を検索していて、驚いたことに「えびす屋」サイトでこの方のプロフィールが紹介されていました。→ポチッ
現時点で鎌倉の「えびす屋」所属の方が23名おられることもわかりました。
ということは全国の俥夫の方もわかるということです。人数を調べてみました。 
嵐山62名 東山47名 小樽15名 雷門48名 鎌倉23名 奈良15名 宮島 5名 関門13名 湯布院14名の合計242名でした。それ以外に鎌倉力車(東京力車)14名有風亭飛車があります。


こちらは鎌倉駅の西口です。駅から降りてくる人を待っているのだと思います。

ネットで記載されていた伝説の人、青木登さんの言葉を紹介します。

1983年、青木さんは飛騨高山の人力車店から譲ってもらった1台の人力車を携えて、北鎌倉に居を移した。「人力車は、道路交通法上は自転車と同じ。免許も何もいりません。でも、人を乗せて道を走る以上、事故だけは絶対に起こしてはならないと心に誓いました」と、当時を振り返る。

人力車は人を乗せたバランスが肝心。うっかり俥夫がかじ棒を離せば、客は後頭部から地面に叩きつけられることもある。青木さんは自分で研修期間は3ヶ月間と決めると、まずは、無人で人力車を引いて鎌倉の町を走った。そして、走る自信がついたところで、「練習ですから」と無料で乗ってもらい、お客さんを乗せて走る練習に励んだ。

鎌倉は坂が多い。谷(やつ)と呼ばれる細い谷や坂道は鎌倉独特の景観だ。人力車が危険なのは、登るよりもスピードが出る下りのほうだ。人力車のブレーキは俥夫の足だけ。そして、急には止まれない。車が通れないばかりか、人力車が壁を傷つけそうな狭い路地もたくさんある。

しかし、そんな道こそ人力車でしか味わえない醍醐味がある。だから、細い路地を走るコツも覚えた。ただ人を運ぶだけでなく、観光ガイドの役目も負う人力車の仕事は、道と街を知ることが大切だと悟った青木さんは、研修期間中、鎌倉中をくまなく走ってみた。
そんな青木登さんには円覚寺門前で会えるそうです。

今から143年前の1870年(明治3年)3月22日が日本の人力車が生まれた日(人力車の営業願いを提出した日)だそうです。その記事の内容も紹介します。ただし2年前の記事なので現在の人力車の台数は500台よりは格段に多くなっていると思います。

時は明治時代初期、移動の手段が駕籠や馬車などと限られていた時代、もっと手軽な乗り物を作ろうと立ち上がった男たちがいた。元町役人の和泉要助、八百屋の鈴木徳次郎、車大工の高山幸助の3人は、人間が二輪車をひく「人力車」を発明に成功。明治3年に東京府(現東京都)に人力車の営業願いを提出。翌年に日本橋で初の人力車営業が始まると、瞬く間に普及した。営業初年度だけで、1万台以上。開業5年で全国に11万台。最盛期には21万台にものぼり、庶民のタクシーとなった。
しかし、大正に入り、市街電車や自動車が普及すると、人力車は急速に衰退の一途をたどる。昭和10年代までに、ほとんどの人力車が姿を消したのだった。しかし、それから40年近く過ぎた昭和51年、岐阜・高山で観光用として復活を遂げる。これをきっかけに、観光地を中心に増え続け、現在は約500台にまで普及。目的を変えて生まれ変わった人力車は、その長い歴史とともに、今も走り続けている。