パンチボール(Punchbowl) [ハワイ]
掲載が途切れていたハワイ旅行(2018年)の続きを記載したいと思います。ハワイ島からオアフ島に戻ってきた翌日(ハワイ旅行6日目)に、最初に目指したのは、上の航空写真の左上のパンチボール・クレーター(Punchbowl Crater)でした。沢山の日本人の方がハワイを訪れていますが、初めてハワイに来られた方が、観光場所としてパンチボール・クレーターを選ばれる方は少ないと思うので本記事では詳しく紹介したいと思います。パンチボール・クレーター(橙色の円)は有名なダイヤモンドヘッドクレーター(紫色の円)の北西7kmにあります。オアフ島にはダイヤモンドヘッド・クレーターや今回のパンチボール・クレーターや以前に紹介したココ・クレーターなど沢山の火山の痕跡が残っています。これらの火山は、オアフ島が今のハワイ島の辺りで形成された時代に出来たものでその後に太平洋プレートの移動と共に現在の場所に移動してきたことからオアフ島の下にはマグマがないことから噴火の恐れはないのです。
1日目~3日目 オアフ島
4日目~5日目 ハワイ島
6日目~8日目 オアフ島
9日目 帰国
下の写真は、泊っていたホテル( )からパンチボールに向かう車内から撮った景色です。高速道路を通っていきました。ホノルルは一方通行の道が多いので、ルート検索しても高速道路を通るルートになりました。
こちらはパンチボールの辺りの航空写真です。ここを音連れる人の目的は概ね次の3つです。ワシントン郊外のアーリントン国立墓地と並んでアメリカに2つしかない国立墓地がここなのです。着色している部分の面積は26.7ヘクタール(26万7千㎡/8万768坪)です。
① 展望台からのホノルル一望の景色
② 国立太平洋記念墓地(National Memorial Cemetery of the Pacific)
③ 歴史施設「ホノルル・メモリアル」
こちらはパンチボールに車で登ってきたところにあるローターからの景色です。正面に 歴史施設「ホノルル・メモリアル」がありました。
本記事でも①から③の3つにわけて紹介していきたいと思います。
こちらは展望台の辺りから出来る限り広い範囲が採れているパンチボールの写真です。
ここから①②③を紹介していきたいと思います。
① 展望台からのホノルル一望の景色
車をこちらの写真の駐車スペースに置いて先ずは展望台を目指しました。
この道を真直ぐ行くと展望台です。
展望台は目の前です。道路の両脇に銅板が埋め込まれた石が並んでいました。
その中の2つを紹介します。
歩いてきた方向をふり返りました。
ここが展望台です。標高は164mだそうです。
展望台は広くて何か所にも分かれていることから、見る場所によって景色はかなり変わってきます。最も西側の展望台からの写真を4枚紹介します。
展望台からの景色です。ホノルルの町がよく見れます。右方向です。
上の写真の方向をズームで撮った写真です。
こちらは正面の景色です。
左側です。
最も東側の展望台に移動して真中の展望台方向を撮りました。ここから6枚目までが同じ展望台から撮った写真です。
展望台から正面の景色です。
上の写真の右側をあたりをズームで撮った写真です。3日目に行ったイオラニ宮殿が写っています。写真の右側には1日目に行ったハワイ州立美術館も見えました。
南東方向には小さくダイヤモンドヘッドが見えました。
ダイヤモンドヘッドの右側のビル群を拡大いたしました。
ダイヤモンドヘッドを画面いっぱいまでズームいたしました。クリックすると特別に大きく拡大します。
海と反対側の展望台に移動しました。
パンチボールは住宅地に囲まれていました。
芝生の上に木が沢山生えているところが国立墓地です。
上の写真の住宅地あたりを拡大しました。
珍しい花が咲いていたので写真を撮りました。
② 国立太平洋記念墓地
こちらがアメリカにある2つの国立墓地の一つである国立太平洋記念墓地です。太平洋戦争などで戦没した人達が4万人以上眠っています。戦没者だけでなく国に貢献したて亡くなった人の墓もありました。
墓碑はパネル状の平たい石板を芝生の地面に置くスタイルでした。遠くから見ると芝生の広場のようですが、近づくとこの写真のように墓碑であることが分かります。
たくさんの石板があるのが分かっていただけると思います。その芝生の上に沢山植わっているアメリカネムノキ(Albizia saman)、別名モンキーポッド(Monkey Pod)が独特の雰囲気を感じさせてくれました。
展望台への道から撮った墓碑群の広場です。所々に花が飾られていました。
広大な敷地でした。
上から見下ろすとよくわかります。
花を飾りに来られている人もおられました。
本当に広い敷地でした。
墓石(墓碑)の位置まで降りてくると墓地であることが伝わってきました。最初にこの墓地に埋葬されたのは1941年12月7日の真珠湾攻撃の776人の犠牲者だそうです。
広さを実感していただけると思います。写真をクリックすると更に広範囲を表示します。
木の根元が独特になっているので写真を撮りました。
例外中の例外ですが、石板タイプではない墓碑を1つだけ見つけました。
こちらが標準的な墓碑です。名前から日系人だと思われます。亡くなったのは1944年10月22日に23歳で亡くなっているので太平洋戦争で戦没してのだと思います。沢山は見ていませんが1944年に亡くなった方が多かったです。戦況を表しているのかもしれません。
こちらも日系人だと思われます。 WORLD WAR Ⅱと書かれているので第二次世界大戦で戦死した思われます。太平洋戦争は1945年8月15日に終戦となりましたが、この方は太平洋戦争の終戦の3日前の1945年8月13日に26歳で亡くなりました。
こちらの方は太平洋戦争の終戦から3日後に45歳で亡くなりましたが、WORLD WAR Iと書かれていることから第一次世界大戦の功労者として埋葬されたのだと思います。名前の上のマークからクリスチャンだったと思われます。上の墓碑の方の場合は名前の上のマークから仏教だったと想像されます。
お墓の前に沢山の人が立てるように石板が並べられた墓がありました。
上の写真の中の3つの墓碑の真中は有名な日系三世の宇宙飛行士のエリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka/日本名:鬼塚 承次)氏でした。
1986年1月28日にスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職したことは有名です。ハワイではコナの飛行場の名前(エリソン・オニヅカ・コナ国際空港)になるほど尊敬されています。
③ 歴史施設 ホノルル・メモリアル(Honolulu Memorial)
正面に見えている建物がホノルル・メモリアル(Honolulu Memorial)です。左のテントは5月の最終月曜に行われるメモリアルデー(戦没者追悼記念日)のためだとおもわれます。
建物に近づきました。
正面に上がりました。女神像はレディー・コロンビアで高さは30Ft(9.1m)だそうです。
像の大きな写真を掲載します。
月桂樹の枝を左手に持ち、空母の船首に立っています。空も澄み切っていました。記念写真を撮りました。
クリックすると特別に大きな写真(2800x3200 1.8MB)を表示します。
女神像の顔の表情を紹介します。ネットによると悲嘆に暮れる母親を代表しているとも書かれていました。
斜めからの顔の表情も紹介します。写真をクリックすると全身の写真を紹介します。この写真は記事の最後の写真から切り取ったものなので上の写真に比べると解像度は劣ります。切り取りに使った最後の写真は右の小さな写真です。
レディー・コロンビア像の下には下記のように書かれていました。
THE SOLEMN PRIDE THAT MUST BE YOURS
☆☆ TO HAVE LAID ☆☆
SO COSTLY A SACRIFICE UPON THE ALTAR OF FREEDOM
☆☆ TO HAVE LAID ☆☆
SO COSTLY A SACRIFICE UPON THE ALTAR OF FREEDOM
建物から入口の方向を撮りました。正面の芝生の広場にも墓碑が並んでいます。クリックすると墓碑の配置が判ると思います。遠くにロータリーが見えます。
Googleマップの航空写真でも一つ一つの墓碑の配置が判ります。左上の方にホノルル・メモリアル(Honolulu Memorial)の建物と女神像が右下の方向に入口のロータリーがあります。
ホノルル・メモリアル(Honolulu Memorial)の中には太平洋戦争と朝鮮戦争とベトナム戦争の戦況が書かれていました。朝鮮戦争とベトナム戦争の説明は僅かで、ほとんどが日本軍との戦い(太平洋戦争)の説明でした。
これは全体ですが、局地戦ごとに説明もされていました。どれほど沢山の説明が行われていたのか実感していただくために沢山の説明図を掲載させていただきました。
こちらは1943年6月1日~1944年8月31日の戦いを示したものです。
こちらは1944年8月1日~1945年9月2日の戦いを示したものです。
こちらは日本周辺での攻撃を示しています。
こちらはハワイ周辺の動きを示した図です。
こちらはインドネシア周辺の攻撃の状況です。
上のインドネシアのパネルがあったアリアの写真です。大きなパネルであることが判っていただけると思います。
こちらはフィリピン周辺です。
硫黄島の戦いのパネルもありました。1945年5月16日~3月16日の1ケ月間の戦いであったことが書かれています。
珊瑚海諸島(Coral Sea Islands)での1942年5月4日~8日の戦いのパネルです。
クェゼリン環礁での1944年2月1日~4日の戦いのパネルです。
アリユーシャン列島での1943年5月11日~30日の戦いのパネルです。
タラワ環礁での1943年11月20日~23日の戦いのパネルです。
ロイ=ナムル島での1944年2月1日~2日での戦いのパネルです。たった2日間の戦いであったことから虚しさを感じます。
マリアナ諸島での1944年6月15日~8月10日の戦いのパネルです。
住民も巻き込んだ悲惨な戦いがだった沖縄戦の図を掲載するかどうかを迷いましたが、現実を知ってもらった方がいいと思い掲載させていただきました。沖縄戦は1945年3月26日~9月7日ですが、パネルの日付は1945年3月26日~6月26日とあることから沖縄戦の前半を示しているのだと感じました。
ここから下の2枚が日本軍との戦い以外のパネルです。
こちらは朝鮮戦争の説明図です。
こちらはベトナム戦争の説明図です。実感してもらうために撮ったパネルの写真はすべて掲載いたしました。日本軍との戦いのパネルの多さに驚きました。それぞれの戦いで沢山の人が亡くなったのだと感じました。
ホノルル・メモリアルの建物の中にはチャペルも作られていました。ホノルル・メモリアルの中は戦争の説明のパネルばかりだったので、少し救われた感じがしました。
見学が終わって建物から出るときれいな空でした。斜めから見たレディー・コロンビア像は正面からとは少し雰囲気が違うようにも感じました。この写真から上で紹介した女神像の顔の写真を切り取りました。この写真もクリックすると特別に大きく拡大します。
追伸
2022年6月11日の早朝から関西に行きます。帰ってくるのは7月3日の予定です。その間はフォローがおろそかになるかもしれませんがお許しください。