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早朝の九十九里浜 [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真と下の動画は2017年6月10日の早朝の5時前後に撮ったものです。すでに前記事で紹介したように前日の6月9日に九十九里浜の近くにある山田ゴルフ倶楽部でプレーを楽しんで、九十久里浜の宿に泊まりました。せっかく九十九里浜の宿に泊まったので朝食の前に海を見に来ました。宿のニュー太洋を4時54分に出発して波打ち際に着いたのは5時1分でした。太陽が水平線から昇る写真を撮りたかったけれども、太陽はすでに写真の位置まで登っていましたが、それでも幻想的な景色に出会いました。

こちらが動画です。銚子方向(北東方向)から太東岬方向(南西方向)に、ゆっくりとカメラを廻しながら太平洋を撮っています。穏やかな天気に関わらず、太平洋に面しているだけあって高い波が押し寄せていました。画面中央のプレーボタン( )をクリックしていただくと、早朝の5時前後でしたが、すでにサーファーが海に入っている姿も見ることが出来ると思います。波の音も大きいのに驚かれると思います。浜辺から400m離れた我々が泊まった宿でも波の音が大きく聞こえていました。


下記の地図の紫色のライン(━━)が刑部岬(ぎょうぶみさき)から太東岬(たいとうみさき)までの約60㎞の九十九里浜です。
九十九里浜の名前が付けられる前の名前は玉浦(玉の浦)だったそうです。現在の1里=3.927273kmで99里を計算すると388.8kmになりますが、約60㎞の長さの砂浜に九十九里と名前が付けられたのはその時代の1里が現在の1里と違っていたことが関係したようです。九十九里は単に長いことを表現しただけではなく、意外と正確な距離だったようです。名前の由来は諸説あるようですが、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名です。またその故事に因んで矢指浦の別称もあるそうです。源頼朝の時代の1里は600m前後であることからまさに海岸の砂浜の長さが99里だったわけです。つまり驚くほどの正確な長さの名前であったのです。中国・日本・朝鮮の3国の1里の距離は何度も変化してきました。下記の表は代表的な一例にすぎません。 1町 = 360尺です。尺は時代により日本の中だけでも26.8cm~35.6cmの範囲で変化いたしました。
現在の日本では1尺=10/33m(0.30303030・・・・・・・・m)と定義されています。
古代 中世 近世 現代
日本 換算 約533.5m 545~655m 約3927m 3927.2727・・m
定義 5町(300歩) 5町 or 6町 36町 36町
中国 換算 約400m 時代によ変動 約576m 500m
定義 300歩 360歩(1800尺) 1800尺 1km÷2
朝鮮 換算 約432m 約432m 約420m 約400m
定義 360歩 360歩 350歩 慣例 約400m
緑色マーク( )は我々が泊まった宿であるニュー太洋です。


朝食前に九十九里浜の海岸の浜辺まで散策したのが橙色ライン(━━)です。歩いていく途中の薄黄緑色で囲ったエリアが大きな無料の駐車場です。この駐車場に車を止めてサーフィンをする人が朝早くから沢山来ていました。


宿の前の道路から海の方を撮った写真です。宿を4時54分に出発して、この時が4時55分でした。
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駐車場のあたりです。すでにサーファーの車が駐車していました。私の家から一般道で44kmの場所です。この時の時刻は4時56分です。
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ビーチの名前は本須賀海水浴場(Motosuka Beach)です。時刻は4時57分です。さすが60kmの砂浜なのでGoogle地図にプロットされているBeach(海水浴場)の数は下記の27もありました。北から順番に記載しています。60kmの間に少なくとも27の海水浴場があるということは平均して2.2kmごとに海水浴場(Beach)の施設が整っていることになります。
 萩園海水浴場     飯岡海水浴場     矢指ケ浦海水浴場
 中谷里海水浴場    野手浜海水浴場    今泉海水浴場
 屋形海水浴場     殿下海水浴場     中下海水浴場
 南浜海水浴場     小松海水浴場     白幡・井ノ内海水浴場
 本須賀海水浴場    作田海水浴場     片貝海水浴場
 真亀海水浴場     北今泉海水浴場    四天木海水浴場
 南四天木海水浴場   剃金海水浴場     古所海水浴場
 中里海水浴場     幸治海水浴場     城之内海水浴場
 一宮海水浴場     東浪見海水浴場    太東海水浴場
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海水浴場にはトイレも完備していました。
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クリックすると拡大砂浜に出るところに伊藤左千夫の歌の石碑(伊藤左千夫歌碑)が建てられていました。伊藤左千夫(いとう さちお)は江戸時代の1864年9月18日に生まれて明治・大正に活躍した歌人であり小説家です。現在の千葉県山武市である上総国武射郡殿台村の農家出身です。大正2年7月30日に脳溢血(のういっけつ)のために48歳の若さで亡くなりました。
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石碑に書かれた文字です。次の文字以外に石材を寄贈した人の名前などが書かれていますが、読み切れませんでした。表と裏で石の色が違うように見えますが、裏面のみに朝日を受けているためで本来は同じ色です。クリックすると特別に大きく拡大いたします。
 表(左):天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾い居り
 裏(右):歌人 伊藤左千夫翁 五十周年記念 昭和三十七年七月三十日 成東海岸
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歌碑の説明板がよこに立てられていました。クリックすると読みやすい大きさに拡大いたします。伊藤左千夫の小説の代表作は「野菊の墓」でその後、「隣の嫁」「春の潮」「分家」などを発表しました。
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上の石碑のあたりから太陽の方向の景色です。太陽はすでに上がっていました。ビーチには約30本の椰子の木が植栽されて雰囲気を盛り上げてくれていました。この日の銚子漁港の日の出は4時21分でした。そして大潮でした。
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上の写真は太陽の方向のために周辺が暗く写っていますが、実際は結構明るかったです。遠くに海が見えます。ここの砂浜の幅が広いのが分かってもらえると思います。九十九里浜は砂浜の浸食が問題になっていますが、このあたりの景色を見ていると感じられません。調べてみると九十九里浜の砂浜の浸食が進む中で、逆に本須賀海岸(成東海岸)のみが1980年ごろから砂浜が最大300mも広がったそうです。確かに九十九里浜で砂浜が一番の規模と言えるだけの広さでした。
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こちらが冒頭の写真と同じ北東方向(銚子方向)です。霞んでいて30km先の刑部岬(ぎょうぶみさき)は見ることが出来ません。5時2分の景色です。
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こちらが南西方向(太東岬方向)の写真です。こちらも30km先の太東岬(たいとうみさき)は確認できませんでした。こちらは5時1分の景色です。
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太平洋の波を見てください。この時間帯はまだ早かったので、ほとんどのサーファーが沖に向かっているところでした。この時は5時4分でした。
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サーフィンをしているところを見たくて、もう一度来て砂浜を見に来ました。上の写真の1時間後の6時7分ですが、駐車場の車はかなり増えていました。6月10日は土曜日のためか、続々と車が駐車場に入ってくる状態でした。みなさん家をかなり早く出発したのだと思います。
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やはり沢山の人がサーフィンを楽しんでいました。
サーフィン(Surfing, Surfin')は新しいレジャー(スポーツ)と思っている人も多いかと思いますが、そのの起源は意外と古くて、少なくとも西暦400年頃にはサーフィンの原形のようなものが存在していたと考えられているそうです。起源として最も有力な説は、古代ポリネシア人が漁の帰りにボートを用いて波に乗る術(サーフィング)を知り、そこから木製の板に乗る様になったことだそうです。
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かなり遠いのですが、サーファー(Surfer)を拡大いたしました。
ヨーロッパ人がはじめてサーフィンを目撃したのはイギリスの探検家であるジェームス・クック船長(1728年~1779年)で、タヒチとハワイで見たことを航海日誌に書き残しているそうです。
九十九里浜で初めては1960年にサーフィンをしたのが中村一己さんだそうです。中村一己さんは1965年に日本サーフィン連盟を結成し、翌年には第1回全日本サーフィン選手権が開かれたそうです。そして自ら1971年にサーフショップも開いたそうです。
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18秒間ではありますが動画も紹介します。


この場所がサーフィンに適した場所であることが航空写真でも判ります。沖合から波が押し寄せてきて砂浜近くで白い波に変わっています。


1時間前と違い明るくなっていました。浜辺から陸方向を撮りました。
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こちらが南西方向(太東岬方向)の写真です。まだ霞んでいました。さらに日が上がると遠くまで見渡せる天気になりそうでした。今年は2017年7月9日(土)が海開きで、遊泳期間は7月9日(土)~7月10日(日)と7月16日(土)~8月28日(日)だそうです。今は無料だった駐車場も遊泳期間は有料になるようです。
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