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小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾) [風習・歴史]

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2018-11-10追記 タイトル:小島泰堂のふすま絵が見つかりました。
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今年の3月に紹介した小島泰堂の追加記事です。
いつも地域の歴史や風習に関して教えていただいているkazuさんから、千葉県八千代市下高野の個人宅に小島泰堂のふすま絵が見つかったとの連絡と共に今回紹介する写真が送られてきました。この襖絵(ふすま絵)があったのは江戸時代に下高野地区の名主をされていた名家でした。
襖(ふすま)に対して絵が小さいのは、母屋を新築した時に隠居部屋にあった泰道の書のふすまを母屋のふすまにするために隠居部屋の1間半の襖に4枚あったふすま絵を2間/4枚に表装しなおしたためだそうです。4枚の絵の内中央の2枚に小島泰堂の書が書かれています。

中央の2枚の絵を拡大いたしました。
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小島泰道の落款の部分を拡大いたしました。「泰堂」の文字が読み取れます。61歳の時に書いたしょでしょうか。
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近くにある福蔵院の敷地内に小島泰堂の書の石碑があることも判り、写真を送っていただきました。今までも見ていたのに気が付きませんでした。
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確かに落款の部分に小島泰堂と書かれていました。
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2018-03-18掲載
タイトル:小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
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千葉県佐倉市宮ノ台の青菅小学校内にある史跡の大塚・小塚があります。地名の宮ノ台は1980年代に、この地域に新興住宅地が作られるにあたり青菅の一部と井野の一部が1981年11月1日に宮ノ台に町名が変更になって出来たものです。この場所の旧名は青菅でした。
大塚は前記事で紹介した通り江戸初期に青菅の領主であった下記の旗本四代の墓所で、小塚はその夫人たちの墓所でした。上の写真は大塚の写真です。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石 通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石 通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

その大塚に小島泰堂の石碑が建てられていました。小島泰堂は青菅出身で幕末から明治にかけて、教育者・歌人・諸家・製茶業経営者として活躍された方だそうです
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大塚がある青菅小学校の周辺には小島泰道に関わる場所が5ケ所あります。ただし泰楽文園の碑( )は泰楽文園のあった辺りの土地を所有されていた個人宅の庭にあることから、個人宅が特定されないように個人宅のある下高野の代表的な場所にプロットしております。
泰楽文園( )は小島泰堂が明治13年(1880年)に千葉県印旛郡青菅村に作った学校で、多いときは200名以上の生徒がいたそうです。ただし小島泰堂は泰楽文園の時代以前の天保末年(1845年)ごろから青菅村で塾(泰堂塾)を行っており、江戸に住んでいた文久元年(1861年)から明治13年(1880年)にも江戸八丁堀で塾(泰堂塾)を開いていたことから約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)も若者の教育に力を注いでいたことがうかがえます。
 小島泰堂の石碑(月読尊) 青菅地区(佐倉市宮ノ台)
 小島泰堂の墓および碑   青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園(泰堂塾)    青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園の碑       下高野地区(八千代市下高野)
 小島泰堂の製茶加工場跡  青菅地区(佐倉市青菅)
 小島泰堂の石碑(福蔵院) 下高野地区(八千代市下高野)


月読尊は小島泰堂が歌人としても有名であったことを表しています。月読尊は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」の歌から銘がつけられたようです。小島泰堂の図書を検索すると国立国会図書館に熱海調音詩歌集泰堂遺稿が保管されていることが分かります。熱海調音詩歌集の出版年は1886年なので小島泰堂の亡くなる3年前に出版されたようです。
泰堂遺稿(1892年出版)は表紙を入れて36ページで画像19コマで内容がネットで公開されています。→ポチッ
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左下には「泰堂翁謹書 時明治十九年・・・・・・」と刻まれていました。明治19年(1886年)は小島泰堂の熱海調音詩歌集が出版された年でもあり、無関係と言えないのかもしれません。
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右下には「菶蔫 小島稲子」と刻まれているそうです。菶蔫の文字だけが見ることが出来ました。
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真ん中下部には「能」と「民」の文字が読み取れます。真ん中下部には縦書きで「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているとのことなので石碑の下部はかなり隠れてしまっていることになります。
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小島泰堂の墓( )は青菅地区の正福寺にあります。
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写真に写っている墓石および石碑群は全て小島家の関係したものでした。新しいものは昭和のものもありました。
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重要な小島家に関わる石碑がL字型に配置されていました。
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特に重要な石碑と墓石がこの4つです。一番右が小島泰堂を称えた石碑です。右から2番目には「小島家先祖代々之精霊」と書かれているのて小島家を代表する墓石だと思われます。この墓石は明治25年に小島姓の人が建てたものでした。建立年から判断して小島泰堂の子供さんが建てたのではないかと思います。右から3番目(左から2番目)が小島泰堂ではないかと考えています。左端は小島泰堂が建立した墓石ではないかと思われました。
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左端の墓石の正面から見て左側には小島勘十郎の名前が刻まれています。実は小島泰堂の本名は小島勘十郎です。本人の墓石のようにも読み取れますが、正面には2名の戒名が刻まれていて、それぞれ天保十二年十月五日と嘉永三年正月三日と書かれています。天保13年は1841年で嘉永3年は1850年です。小島泰堂が14歳と22歳の時になります。そのことから小島泰堂が大人になってから建てた墓石と考えるのが自然です。すなわち両親あるいは祖父母の墓ではないかと感じました。
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左から2番目の墓石が小島泰堂(小島勘十郎)本人の墓石と考えた理由は左面に小島翁の文字が読み取れたからです。右端の小島泰堂の石碑の中に何度も小島翁の文字が出てきました。
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小島泰堂の石碑と小島家の墓石です。両方ともに明治25年に建てられていました。小島泰堂が亡くなって3年目です。
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こちらが小島泰堂の石碑です。1889年4月1日に青菅村が志津村に統合されたので4月の前と後で住所が違います。クリックすると文字が読み取れる大きさに拡大いたします。
 本名 小島勘十郎 義精
 生誕 1827年 下総国印旛郡青菅村
 死没 1889年 千葉県印旛郡青菅村 or 千葉県印旛郡志津村大字青菅
別の資料で小島泰堂に関して書かれていた内容を枠内に転記いたします。
小島泰堂は名を勘十郎、義精といい、文政十年(1826年)下総国印旛郡青菅村に生まれた。幼少の頃から人にすぐれた才能をもち、佐倉藩儒臣吉見南山の門に入り数年勉学、帰郷し24歳で名主となり翌年には五郷取締名主、28歳の時、藩主(藩候)・堀田正睦(幕府の老中首座)の命により佐倉近治各部取締頭取となり、翌年には三三ケ村組合大総代役なった。万延元年「殖産興業述記」を藩候・堀田正睦に上書してこれを嘉納さられた。文久元年に江戸の八丁堀に家塾を起こし諸生を教授の傍ら井上文雄(国学者、歌人)に就き国歌を納め、多くの文人墨客と交わった。明治13年帰郷(53歳)、佐倉藩御林を開墾し茶園をつくり、「泰楽文園」を建て子弟の教導に当たり、遠近からの諸生を授業した。明治22年、62歳で没した。
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小島泰堂の石碑の台座の周囲4面にぎっしりと寄進者と思われる名前が書かれていました。正面の一番右に建碑費金義捐人名と書かれて、正面だけで39名なので100名近い名前が書かれていることになります。クリックすると特別に拡大するように設定いたしました。金額は3円から50銭です。物によって今の価値の数千倍から数10万倍と大きく開いており、生活様式も違うので物価は簡単に比較できませんが、当時の1円は現在の3万円程度の重みがあったのではないかと想像しています。拡大して見ると今でもこの地域に沢山ある立石、小澤、深山、蕨、友野、山崎、秋山、小林、小島などの苗字が沢山あります。近隣の青菅、先崎、井野、小竹、下高野以外の上高野、米本、村上などの離れた地域の人たちも入っているのにも驚かされました。
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小島泰堂の私学校「泰楽文園」があった場所( )です。現在は農地で私学校「泰楽文園」の痕跡はありません。遠くに見える建物が特別養護老人ホーム 志津ユーカリ苑で、沢山並んでいる温室が山万ユーカリファームです。
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泰楽文園の痕跡がないように思われますが、後で紹介する泰楽文園の碑に書かれいてる一節から、佐倉藩御林を開墾し茶園を作った場所であり、この広い土地そのものが泰楽文園の痕跡であることが分かります。一節の漢文を訳したものを枠内に紹介します。小島泰堂が江戸の八丁堀から青菅に帰郷した時の楽しみが3つあったそうです。その3つの楽しみの中の、2つ目の楽しみを記載した一節です。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
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泰楽文園の場所をGoogle地図にプロットいたしました。現在は農地となっております。この土地の中に、茶畑や泰楽文園の建物(講堂)や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)がどのような配置になっていたか分かりませんが想像するだけでロマンがあります。泰楽文園の場所に次に紹介する泰楽文園の碑が建てられていたそうです。小島泰堂が亡くなった後は果樹園や農地となり、泰楽文園の碑だけは保存のために、土地の所有者であった現在の場所(個人宅の庭)に移して大切に保管されてきたようです。また泰楽文園の横にあった茶園で収獲した茶葉を茶に加工する製茶加工場は、クリックすると拡大志津小学校青菅分校(青菅分教場)の場所にあったそうです。実は以前に紹介した右の写真の青菅分教場は2代目であることも知りました。初代の青菅分教場跡は2代目青菅分教場から北西に200mの場所にあります。
驚いたことに、そこには小島泰堂が自ら発明した製茶蒸気釜が設置されていたそうです。つまり泰堂の製茶加工場跡に青菅分教場が出来たことになります。製茶加工場は泰楽文園から東に徒歩1kmの場所にありました。


泰堂の製茶加工場があった場所の写真です。製茶加工場があったことを示すものはありませんが、このあたりの近所の方にkazuさんが確認したそうです。この製茶加工場跡地に初代の青菅分教場が1903年(明治36年)に建てられたのです。写真の中に写っている石碑は奥州参りなどの碑で、青菅分教場や泰堂の製茶加工場とは関係がありません。
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こちらが泰楽文園の碑( )です。農地にそのまま放置されていたら120年を超える歳月の中で失われたかもしれない貴重な石碑です。本石碑は一般には公開されていませんが辻切り作りでお世話になっている下高野のkazuさんに紹介していただいて写真を撮らせていただきました。縁側でお茶までごちそうになりました。20歳になる猫ちゃんまで出てきてくれました。
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泰楽文園の碑は小島泰堂が自ら1886年9月(明治19年9月)に建立しました。泰楽文園が作られて6年目です。クリックすると大きく拡大するように設定いたしました。枠内に漢文の文字を記載いたします。
泰樂文園
夫人者不可不學餘自少志學焉抑文久二年東都苟開薫陶門然生徒日進月裒至明治五年凡行東修者殆一千有餘名也餘熟思老者若往于山張於茲告別于諸子因交諠之文士墨客况生徒乎各臨其宴餞賜詩歌揮毫或貨財之類載之船而帰郷焉今展之壁上以爲一樂也其間ト此地方頃鋤荒環以壘樹以茶築堂樹四楹三曲而擁庭庭前後都藝花菩門樹雙松偃蓋宛似龍翔扁挂之泰樂文園文焉易曰飛龍在天利見大人二樂也詩曰思皇多士生此王國所謂奉菅公廟園巽方祭人麿祠書棚孔与孟見于一榻如間如答餘登于茲數年間如一日是餘三樂也且當奎運隆渥負笈徒競入此門咿唔鏗々尓焉餘示之曰仁義者錬梁律禮者柱礎徳育禮者門性行育者家習育者桓體者田學之者果而其身泰而奕葉益盛也且夫可不樂哉
  時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書
 
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雰囲気を感じていただくために表面の拡大写真を掲載させていただきました。枠内に先人が漢文から和文に訳した内容を転記いたしました。貴重な内容です。
泰楽文園
夫れ人間たる者は、学問を身につけなければならない。故に、自分は幼い頃から学問に志し、佐倉に出て(天保九年)、吉見南山先生に就いて勉強と人間形成につき薫陶を受けた。文久二年、さらに江戸(八丁堀)に出て塾を開き子弟を教育する傍ら多くの人々と交流し修業した。明治五年に至って門人は前後凡そ一千余名を数うるに至った。自分の越しきたった数十年を熟々顧みて、年老いてはやはり故郷へ還ることが最も良いと思い、今まで交諠を温めてきた多くの文人墨客や、ともに手を携えてきた人々と別れることになり、その別宴を張った。その時集まった人々から詩歌や揮毫や、その上貨財の類等餞別を頂戴した。これを舟一ぱいに載せて青菅に帰郷した(明治十三年)。帰郷した私には三つの楽しみがある。
その一は、江戸をたつときの餞別の詩歌や揮毫そのた寄贈された軸物などを室内や壁に所せましとばかり披展して、しずかに此れらを鑑賞し往時を追懐する。これが第一の楽しみである。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
その三は、同じく中国の古典の詩経に「思皇多士・生ニズ此ノ王国-ニ」の語がある。それに因み菅公廟と人麿祠を奉祀し、書棚に孔子と孟子を祀り、詩経に準え、或いは問いかけ或いは答えして朝夕拝礼することを欠かさず、数年間全く一日の如く実行する。これが三楽だ。
塾のありさまをみれば奎運は多くの門人子弟たちが笈を負い来て咿唔の声が満ちあふれて、競って勉学するさまは、まさに奎運の開かれゆく思いである。仁と義し規律と礼儀と、そして特性を養うことによって心身は大いに安らぎ、ゆるやかになるのである。故に後の世まで盛に続けて楽しむようにしなければならない。これが即ち泰楽なのである。
 時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書 
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右から大きく泰楽文園と書かれているのが印象的でした。小島泰堂が若者の教育にささげた約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)の内訳は次の通りです。
 前期 1845年~16年間 青菅村 泰堂塾
 中期 1861年~19年間 八丁堀 泰堂塾  
 後期 1880年~ 9年間 青菅村 泰楽文園
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泰楽文園の石碑が庭内に保存されている家には下の写真のような見事な白壁造りの土蔵がありその中に小島泰堂に関わる毎聴講讀音と書かれた資料が保管されていたそうです。その中には塾生の習書など貴重な資料が沢山入っていたそうです。泰堂翁の「泰楽文園」の構造や塾の内容なども物証的に片鱗を見ることが出来るそうです。その資料は研究者に寄贈されて今は別のところで保管されているようです。
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その研究者の報告文献から毎聴講讀音などの資料の写真を転用させていただきました。このような貴重な資料がこちらの家に保管されていたのは、この家の先祖の方が小島泰堂と親しい子弟関係にあったことがうかがえます。真中の写真は30年前の1988年5月18日に撮影されたものです。つまり寄贈されたのは、そのころだと思われます。
一番左側の写真が襖の表に貼られていた毎聴講讀音と書かれた唐紙です。
 毎聴講讀音 明治癸未之春日書千梅花薫所 泰翁
 毎に聴く講讀の声、明治十六年(癸未)の春日梅花薫る所にて書く 泰翁
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追伸
今日2018年3月18日の朝から3月27日の夕刻まで関西に行ってきます。その間はネット環境の関係から皆様のところに訪問出来ないことをお許しください。本記事のブラシュアップも4月に入ってからになりそうです。
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