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下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。 ぼんてん塚 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2019年8月24日追記
タイトル:下高野の奥州講が八千代よみうりに掲載されました。 
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2019年8月24日に発行された「八千代よみうり」に八千代市下高野地区で奥州講に参った人たちによって行われている梵天飾りの行事(風習)が掲載されました。その古くから続いている行事にいつも参加されている方から記事を送っていただいたので、クリックすると拡大以前に書いた記事に追加させていただきました。私が2012年からほぼ毎年参加させていただいている年初めの右の写真の辻切り(藁の大蛇)作りに参加させていただいているメンバーの方も何人か写真に写っております。
クリックすると拡大1度だけですが、2012年に、その奥州講の行事を体験させてただいて記事を掲載させていただきました。その記事に「八千代よみうり」の記事"五穀豊穣祈る「奥州講」梵天飾り 立てて参拝"を追加させていただきました。2019年7月に八千代よみうりの担当の方が取材に来られてたそうです。八千代よみうりは読売新聞をとられている方に折り込みで入ってくるそうです。
今回の新聞記事で200年間続いてきた行事であることを知りました。確かに、右の写真のように江戸時代(1603年~1868年)中期の寛政六甲寅年(1794年)と書かれた最も古い奥州参り記念石碑が建てられてから、225年が経過していることが分かりました。この地区の庚申塔で最も古いものは享保十二年(1727年)で、古さは3番目の寛政二年(1790年)の庚申塔に相当します。

八千代よみうりの記事の内容を枠内に転記いたします。記事内の「三山拝司」の内容は2012年に拝辞として記載させていただいています。
五穀豊穣祈る「奥州講」 "梵天飾り"立てて参拝
下高野地区に200年続く風習
クリックすると拡大古くからの農村の風習を守り続けている下高野地区(立山利明区長)で、奥州参りに行った人々が、"梵天(ぼんてん)飾り"を三山塚に立てて参拝する「奥州講」が7月21日に行われ、参加者が太陽の恵みに感謝し五穀豊穣わ祈った。
奥州参りは山形県にある月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山を巡拝するもので、江戸時代に全国に広まり、八千代でも北西部を除く多くの集落で農家の長男たちが講をつくり出かけた。帰ると地元の三山塚に記念碑を建て、毎年7月下旬に参拝。同地区でも最も古い記念碑には寛政6(1794)年と記されている。
梵天飾りは、篠竹の先に稲藁の小さな俵を刺し、5色の色紙や白の半紙の飾りをつけたもので、地域によって切り方や折り方が異なる。これを6本むつくり、三山塚に刺してタコ糸つなぎ一同が三山拝司を唱える。下高野では2月14日の「ボンテンハキ(梵天祭り)」でも梵天飾りを作るほか、講のメンバーが亡くなり、その家から要望があると講の仲間が梵天を作り、その家の仏壇が見える場所に立てて三山拝司を唱え、その後、墓地に行って梵天を立て、再び三山拝司を唱える風習が現在もあるとという。
この日は朝から地区の公会堂にメンバー7人が集まり、分担作業で立石区長が茂り出してきた篠竹を削ったり、慣れた手つきで色紙を折ったりして梵天飾りを製作。トラックで三山塚に運び、塚の落ち葉を掃き清め、飾りを地面に刺して神妙な面持ちで三山拝司を三唱。クリックすると拡大公会堂に戻ると直会で親睦を深めた。
メンバーの一人で地域の民族風習に詳しい小澤一雄さんは「奥州講で梵天を飾るのは、神仏習合により仏教の梵天祭りと出羽三山信仰がひとつになったのではないか」と話している。


2012年7月22日掲載 
タイトル:下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。
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千葉県八千代市には奥州溝(出羽三山溝)と呼ばれる風習が残っています。
この辺りでは江戸時代に始まった風習です。集落の50歳前後になった長男が十数年に1度の割合で奥州参りを行い集落に戻ってきて記念碑を建てます。その記念日に奥州参りに行った人たちだけで毎年二月と七月に梵天(ぼんでん)飾りを行う風習で、八千代市の下高野では今でも、この風習が続いているのです。右の写真は奥州参りをする時のスタイルです。
上の写真が新しく作ったボンデン(梵天)です。白い梵天が一本とカラフルな梵天が五本で構成されています。私は下高野に住んでいないし奥州参りに行ったことはないけれども、下高野で続いている風習・辻切りに参加させてもらった縁で、今回の奥州溝の年行事に誘ってもらえました。
二月は14日(梵天ハギ/ぼんでんはぎ) と決まっており七月は20日前後の日曜日と決められており、今回は7月22日でした。9時にうかがって梵天を作るところから参加させてもらいました。行事のことをボンデン飾りと呼ぶとこもあるようです。写真をクリックすると大きく拡大いたします。

梵天を作るところから紹介いたします。
先ず準備するものは竹と藁に半紙にタコ糸です。


先端の飾りのために色紙も準備されていました。普通の色紙は片面だけに色がついていますが、両面ともに鮮やかなものを準備する必要がありますが、これは簡単には手に入らないとのことです。これは葬儀屋さんから手に入れられたと教えてもらいました。この辺りの葬儀の風習で、この色紙を使うことがあるそうです。
準備する色紙は黄色、青色、緑色、赤色に紫色です。真白の半紙も準備します。


色紙をカットする型板が2種類です。それにカッターのための台です。
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色紙は4分の1にカットします。先端に取り付ける白い紙は半分にカットして二つ折りにします。


色紙は溝にそってカットします。


カットしたものを、このようにおります。


私も入れて5人で色紙を折りました。


先端に取り付ける白の飾りも専用のプラスチックの型板でカットします。昔は段ボールを使っていたそうですがプラスチックにしてからは作業が、はかどるようになったそうです。


先端の飾りは対象に折っていきます。


先端の飾りは大きいものが一つに対して三角形の飾りが三つです。この三角形の飾りは出羽三山を表現しているそうです。出羽三山とは月山(がっさん)と羽黒山(はぐろさん)と湯殿山(ゆどのさん)のことです。奥州参りの時はこの三山登山も含まれています。


竹の両側は突き刺さるように鋭くカットします。


こちらは先端に取り付ける飾り用の台座を作るメンバーです。


ワラを束ねて台座を作ります。


台座が完成しました。胴に巻かれた2本のタコ糸に色紙を挟みます。


台座に色紙を取り付けているところです。


色紙をつけた台座を竹の先端に突き刺すと梵天の完成です。こちらもクリックすると大きく拡大いたします。
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これが完成した6本です。
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完成した梵天を軽トラックに積んでボンデン塚(梵天塚)に持って行きます。その時に奥州参りを行った人が全員一緒に行きます。


こちらがボンデン塚(梵天塚)です。建てられている碑は奥州参りに行った参拝記念碑(三山碑)で参加した人の名前と年月日が刻まれています。
一番古い三山塚(右の写真)は中心に立っている大きな木の右脇にありました。
寛政六申寅年と書かれていることから1794年ということになり今から218年前の参拝記念碑ということになります。
一番新しい三山塚のは右手前の大きい碑です。奥州参りが最も最近行われたのが昭和59年(1985年)なので27年前ということになります。この碑には今回の参加者の名前が刻まれていました。並んでいる三山碑の参拝日か下記のとおりです。
  寛政 6年       1794年
  文久 3年 3月吉日   1863年
  大正 7年 7月20日  1926年
  昭和15年 7月21日  1940年
  昭和28年 7月25日  1953年
  昭和34年 7月13日  1959年
  昭和44年 7月26日  1969年
  昭和51年 7月14日  1976年
  昭和59年 7月15日  1984年
この参拝記念碑を建てる行事をイシタテ(石建て)と言われています。立っている古いボンデン(飾り)は半年前(2012年2月14日)のものです。先ずは皆でボンデン塚の周りを掃除をしました。


梵天塚(三山塚)の参拝記念の石碑です。クリックすると一番右手前の昭和59年の石碑を拡大いたします。石碑には16名の名前が刻まれています。
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古い梵天(ボンデン)を抜いて新しいものに交換します。色紙の梵天を真中にしてそれを色紙の梵天4本で四角く囲みます。白い梵天は少し離れて北西方向に建てます。ボンデン塚の大きな木は「すだじい」で、クリックすると記念石碑を表示昭和51年2月24日に八千代市の保存樹木に指定されている木です。
右の写真は1985年(昭和59年)の記念碑を建てた時の記念写真と奥州講に行った時の写真をスライドショーで表示しています。つまり今回の参加者の方々の写真です。右の写真をクリックすると記念碑を表示します。ぼんてん塚は不思議な世界でした。
クリックすると記念石碑を表示

梵天を全て交換したところでタコ糸で6本の梵天をつなぎます。先ずは真中の梵天にタコ糸を結び、次に北西の方向の梵天に巻きつけ時計回りに四本の梵天をつなぎ最後に白い梵天にタコ糸を回します。プレーボタンをクリックすると動画が見れます。


これで完成です。こちらの写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。完成したところで次の手順で拝辞(おがむことば)を全員で奏(そう)します。拝辞は下高野の奥州講のことを書いた2019年の「八千代よみうり」の中の「三山拝司」にあたります。
 ① 一拝、二拍手、二拝
 ② 拝辞(三山拝司)を奏す。
 ③ 一拝、二拍手、二拝
拝辞は次の通りです。月山と羽黒山と湯殿山のことを言っているようです。
 あやにあやにくしくたふと月のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと羽黒のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと湯殿のみ山の上の御前を拝みまつる
               御前 : みまえ   拝 : おろが
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クリックすると拡大別の角度の写真も掲載します。この写真は一番手前のボンデン飾りにピントを合わせております。こちらも写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。6本の梵天飾りの配置を図式化したのが右の図です。上方向が北でボンデン塚があります。白のボンデンは北西方向に配置します。
クリックすると拡大平成20年の八千代地郷土博物館の資料によると出羽三山参拝記念碑(三山碑)が建てられている場所は34ケ所で合計で193基の三山碑があるそうです。ただし梵天飾りが行われているのは珍しいようです。右の写真は隣の上高野地区の梵天飾りですが、1本1本の飾りも違うし、配置も右下の図のように全く違っていました。クリックすると拡大1985年の奥州講は下高野と上高野が合同で参っている関係でありながら梵天飾りが全く違うのは不思議です。
下高野のボンデン塚には9基の三山碑がありますが、2012年に奥州参りが行われたとのことなので近いうちに10基になるのでしょうね。
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クリックすると拡大一週間後(2012年7月29日)の下高野のボンデン(梵天飾り)の先端の状況です。作った時に比べると少しシナッとしてきましたが雨が降っていないこともあり、まだ鮮やか姿を見せてくれていました。
右の写真が隣の地区の上高野のボンデン(梵天飾り)の先端です。赤色の梵天飾りのみ下にずれて竿の途中になってしまっています。右の写真はクリックすると大きく拡大いたします。


サンダーソニアさんのコメントで梵天飾りが、注連縄の紙垂(しで)に似ているとのコメントを頂いたので下高野の菅原神社の注連縄の写真を掲載させていただきました。下高野に注連縄作りの名人がおられます。紙垂の形も色々あるようで使い分けておられるようです。


八千代市下高野が緑色マークで、赤色マークが出羽三山の位置です。下高野から羽黒山までの直線距離は329km(━━)で、徒歩だと450km以上にもなります。実際には月山や湯殿山にも参り、沢山の宿がある場所にも行くので往復では寄り道なしでも1000kmを超えると思われます。そのため徒歩で行く江戸時代は現在のような直線的な車道もないことからさらに沢山の距離を歩いたのだと思います。ある文献によれば約2ケ月間の日程だったそうです。
 八千代市下高野 出羽三山(羽黒山月山湯殿山) 出羽三山神社

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