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物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん) 第76回ハイクの最初の目的地 [京都]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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私が会社に入社して最初に配属になったのが神戸事業所でした。その時の先輩の方々が数年前からハイキングを年に7~8回行っていることを昨年(2018年)の年末に知って初めて参加させていただいたのが2019年4月20日で第72回でした。毎回散策したいところですがタイミングよく関西に行く時に限られるので第73回~第75回は参加できませんでしたが、私としては2回目の参加の第76回ハイクを紹介したいと思います。現時点で第78回まで案内が来ています。第78回は都合が付きませんが第77回は参加予定です。ここでは第76回ハイクを紹介したいと思います。上の写真は待ち合わせ場所の阪急・洛西口(らくさいぐち)駅のホームです。☆マークが参加あるいは参加予定のハイクです。
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
☆第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
☆第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
☆第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
☆第80回 2020年02月16日(土) 丹波篠山???ハイク

クリックすると拡大車内の阪急・京都線の案内図です。実家のある宝塚の阪急・今津線・逆瀬川駅を8時33分に乘り、西宮北口駅で神戸線の特急に乗り換えて、さらに十三駅で京都線の準急に乗って洛西口駅で降りました。桂駅の一つ手前の駅です。ネットの路線検索では十三駅で特急に乗り高槻市駅に同じ準急に乘るルートが出ていましたが、右図のように十三駅でぎりぎり準急に乘れたので十三駅から座っていくことが出来ました。クリックすると京都線全線を表示します。
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ルートの計画では緑色でしたが、この日は雨が降っていたことと、竹の資料館内は飲食不可であったことから赤色となりました。歩いたルートはほぼ計画と同じでした。太い橙色ライン(━━)が歩いたルートです。緑色ライン(━━)が今回のハイクのメインイベントである竹の径(みち)です。本記事では洛西口駅から物集女車塚古墳までの道の景色と物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)を紹介したいと思います。徒歩で歩いた時のGoogleルート図→ポチッ
洛西口駅→物集女車塚古墳→竹の径→竹林公園→竹の資料館(昼食)→竹の径→寺戸大塚古墳→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→文化資料館→東向日駅
(実際)
洛西口駅→物集女車塚古墳→竹の径→竹林公園→竹の資料館→子供の広場(昼食)→竹の径→高畠陵→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→東向日駅


洛西口駅の改札口です。今回が私にとって2回目の参加ですが、2019年04月20日に初参加した第72回の神戸市北区の重要文化財巡りハイクで記載した8つの記事を紹介します。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
 久しぶりに神戸電鉄に乗りました。
 下谷上農村歌舞伎舞台
 現存する日本最古の民家が神戸にありました。  箱木千年家
 つくはら湖の湖畔の散策
 山田町に室町時代の三重塔がありました。    六條八幡宮
 山田町に重文の仏像が六体もある寺がありました。無動寺
 室町時代前期建立の神社が残されていました。  若王子神社
 ハイキングの最後はやっぱり打ち上げ飲み会   いけや食堂(箕谷)
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洛西口駅(らくさいぐちえき)の外観です。新しい駅なので調べてみると現在の高架ホームになったのが上り線が2013年10月26日で、下り腺は2016年3月5日でした。地上駅として開業したのも比較的新しく2003年3月16日でした。ただし、1946年2月1日~1948年3月1日には物集女(もずめ)駅がこの場所にあったそうです。つまり今回訪れた物集女車塚古墳の名前がついた駅が73年前~71年前の間に存在したのです。
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駅の時刻表です。待ち合わせ時間は10時だったので9時41分の電車でここに来ました。同じ電車で私以外に3名が乘られていました。それより前に1名が来られていて、次の9時51分の電車で全員が集まりました。
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駅からは少し幹線道路を歩きました。後ろに見えているのが洛西口駅の高架です。


幹線道路を少し歩いたところで左(南)に曲がって、こちらの道に入りました。正面方向が南です。
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水田で広がっていて、写真のような刈り取り前と刈り取り後が半々程度に広がっていました。
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田園風景の中を進みました。


今回のハイクの最初の目的地の物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん) に着きました。
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物集女車塚古墳(もずめ・くるまづか・こふん)は史跡・乙訓古墳群に分類されます。乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)は桂川西岸の長岡丘陵周辺である乙訓地域(長岡京市・向日市・大山崎町・京都市の一部)に所在する古墳時代(3世紀~7世紀)の首長の古墳だそうです。 向日市の乙訓古墳群としては五塚原古墳・元稲荷古墳・寺戸大塚古墳・南条古墳・物集女車塚古墳 が知られていてその中の一つが本記事で紹介する物集女車塚古墳です。向日市以外では天皇の杜古墳(西京区)・寺戸大塚古墳(西京区)・恵解山古墳(長岡京市)・井ノ内車塚古墳(長岡京市)・井ノ内稲荷塚古墳(長岡京市)・今里大塚古墳(長岡京市)・鳥居前古墳(大山崎町)があります。
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物集女車塚古墳の形が分かりやすい角度から撮った写真です。この古墳は6世紀中頃(古墳時代後期)に造られた前方後円墳(全長約46m・高さ9m)のです。車塚が名前の中にある古墳は全国に沢山あり、前方後円墳を横から見た形から車塚と呼ばれるのが一般的ですが、淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が「車塚」の名の由来とも言われています。埋葬されているのは継体天皇(大王)にゆかりの深い人と考えられていますが、名前は特定されていません。継体天皇は第26代天皇で、在位は明確ではありませんが、通説では507年3月3日?~531年3月10日?となっています。日本書紀によると継体天皇と言えば、511年に樟葉宮(現:大阪府枚方市楠葉丘)から筒城宮(現:京都府京田辺市)に遷都し、さらに518年に筒城宮から弟国宮(現:京都府長岡京市今里)に遷都したことが有名です。長岡京市は比較的この古墳から近い場所です。
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地上からだと形が分かりにくいのでGoogleの航空写真を紹介します。上の写真は本写真の右下から撮りました。上から見ると前方後円墳であることがよく分かります。一部が道路で削られたことが分かります。向日丘陵の前期の古墳は南北方向に規則的に築かれているのに対して、物集女車塚古墳は丘陵から伸びる尾根を利用してほぼ東西方向に築かれているそうです。
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道路に接する部分は石垣になっていました。上の航空写真では右上の道路(物集女街道)に接する部分です。開発などで昔の文化財が壊されてしまうと元に戻すことが出来ないことを実感いたしました。でも調べているうちに、大部分は保管されているすばらしい古墳であることが分かってきました。
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北方向から南西方向を撮った写真です。毎年5月末頃に横穴式石室の内部が公開されるそうです。出土遺物には、埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具などが多くあるそうです。1984年に京都府の指定文化財となりました。
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物集女車塚古墳があるこのエリアは車塚緑地と言われていて周辺地域の人達の憩いの場所でもあるようです。
クリックすると拡大正面から見た物集女車塚古墳です。全員で記念写真を撮りました。左端が私です。
 全長  46m(二段築成)
 後円部 直径24~32m 高さ9m
 前方部 長さ18~23m 幅39m 高さ8m
 くびれ 幅36m
 史跡  京都府の史跡
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大きな説明板が設置されていました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。
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こちらの写真で説明板の大きさが分かってもらえると思います。


クリックすると拡大物集女車塚古墳の右の写真の石室から2,000点以上の埋葬品などの遺物が出土し、それらの全てが2018年3月23日に京都府指定等文化財に指定されたそうです。ネットからそれらの一部を転用する形で紹介したいと思います。これらの写真は向日市教育委員会より1995年3月31日に発行された「向日市埋蔵文化財調査報告書第40集別冊」に掲載されていたものだそうです。右の石室の写真もネットから転用させていただきました。左上から「ガラス小玉・なつめ玉・トンボ玉」「広帯金銅製冠」「馬具(鞍金具・杏葉・雲珠・辻金具・鉸具・鋲)」「土器(高杯)」「各種副葬品」「武器(鉄鏃)」です。
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周囲には周濠が残っている部分もありました。
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石室と石棺の詳しい説明もありました。こちらもクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。右側の2枚の写真は上が玄室と家形石棺で下が玄室から外方向を見た写真です。
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石室への入口の写真を撮り忘れたのでGoogleのストリートビューで紹介します。中央のステンレス製のドアが石室(玄室)入口です。


キケン!! のぼらないでください。」の注意看板が立てられていました。


古墳の側面には上に登るった跡がが残されていました。登りたくなりますが看板が立てられていたので断念いたしました。
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正面側にも上に登った跡が残されていました。
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石室の断面図もあったので掲載いたしました。
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古墳の側面に排水溝の出口がありました。上の図の左の端に人が立っているところの赤丸()部分の写真で、石室内の水が排水溝を流れてきて外部に出るところです。
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排水溝の説明板です。中央の下側の排水溝の出口は写真ではなく本物なのです。説明板がくり抜かれていて本物が見えるように工夫されているのです。上の写真は、ここを撮った写真です。こちらもクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。2枚上の石室の断面図は本説明板の写真から切り取って掲載いたしました。
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古墳の周囲を歩いたルートを紹介します。


赤線の内側が京都府向日市物集女町です。8世紀~江戸時代までは山城国・乙訓郡・物集女村(荘)で、7世紀は乙訓郡の部分は弟国評であったようです。
物集女車塚古墳は物集女町の中の最も右下(東南)にあります。のアイコンのすぐ左の真横で、病院のマーク(⛨)の真下です。周辺との位置関係を知りたい方は、最右下ののアイコンを数回クリックしてみてください。

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