SSブログ

武家屋敷 旧目加田家住宅 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2021年11月21日更新 タイトル:旧目加田家住宅の2度目の訪問
クリックすると拡大
前記事で紹介した白山比咩神社の次は、2020年12月に一度訪問したことがある武家屋敷である旧目加田家住宅に来てみました。2020年12月の時は岩国城の天守間に登るために時間的制約からあまり時間をさけなかったことから十分に見れなかったので、今回はじっくりと見ることにしました。上の写真は白山比咩神社方面から来た場合の入口です。前回はこちらから出て岩国城の天守閣が建つ山に登るロープウェイに乘りました。

この門の内側の庭のエリアには前回は入らなかったのです。最後の部分に追加いたします。またそれ以外に撮った写真は前回の記事の途中に差し込みます。その写真には<追加>と記載いたします。
クリックすると拡大


2021年02月17日掲載 タイトル:武家屋敷 旧目加田家住宅
クリックすると拡大
年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。

旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財  旧目加田家住宅  指定年月日 昭和49年2月5日
旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。
建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。
建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。
平成31年1月         岩国教育委員会
クリックすると拡大

ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。旧目加田家住宅で風呂が置かれていた場所が気になるところですが、湯殿などの記述がありません。170石の武家の家なので風呂はあったと思います。他の武家屋敷では1畳程度の土間がある部屋に風呂が置かれていることから、風呂が置ける場所の候補としては、建物の最も右上の1畳半の部屋か、厠の「たたき」か、台所の横の板の間か土間などです。クリックすると拡大右の写真は参考として掲載させていただいた千葉県の佐倉藩の300石の武家屋敷の風呂(湯殿)です。ちなみに佐倉藩の150石と50石の武家屋敷の平面図には湯殿はありませんでした。西日本の風呂と言えば五右衛門風呂が有名ですが、江戸時代は鉄は貴重であったことから全鉄製の五右衛門風呂は高価で、まだまだ普及はしていなかったようです。
クリックすると拡大
3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。右端の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。
クリックすると拡大

今回は厠の写真を撮りました。 <追加>
クリックすると拡大

裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。
クリックすると拡大

平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。
クリックすると拡大

クリックすると拡大前回掲載した時の冒頭の写真に写っている「建物について」と「両袖瓦について」の説明板を紹介します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。右の写真は両袖瓦の説明板の中にある写真と同じ位置を撮った写真です。ただし、撮った角度と範囲は少し違います。右の写真も拡大します。 <追加>
クリックすると拡大クリックすると拡大

前回は撮っていない角度からの写真を紹介します。
右端に井戸があります。 <追加>
クリックすると拡大

井戸を単独で撮りました。 <追加>
クリックすると拡大

井戸の石組も見事でした。 <追加>
クリックすると拡大

少し離れた位置からの全景の写真を紹介します。 <追加>
クリックすると拡大

こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。
クリックすると拡大

二階への上り階段の下の2段はには引き出しが付いていました。 <追加>
クリックすると拡大

遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。170石は米俵が約425俵に相当します。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 千葉県 佐倉   佐倉の武家屋敷 3軒     300石 150石 50石
 兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 高12石3人扶持
 山口県 岩国   旧目加田家住宅        170石
クリックすると拡大

岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。


Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色のラインが岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。黄色のラインが2021年11月の更新で紹介した初めて庭のエリアに入ったルートです。


岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大目加田家あたりを拡大いたしました。「目加田」の文字が読めると思います。目加田の後ろの一文字は名前と思われますが、折り目部分で滲んでいるために現時点では読み取れていませんが、我家で検討した結果の名前の第一候補は甫(はじめ)です。もし名前が正しいとすれば古地図が描かれた時の主の氏名は目加田甫(めかだ はじめ)ということになります。下の古地図の右端の大きな文字は御城跡です。御城跡と書かれている場所は現在は吉香神社となっています。ホリ(堀)は現在も同じ配置で存在しています。
古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ
クリックすると拡大

Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。
クリックすると拡大

クリックすると拡大上の回転させた古地図に近い範囲を表示させたGoogleマップです。本地図で堀が昔のままだあることが分かっていただけると思います。右の小さな写真は堀の写真で、堀の写真の中の建物は錦雲閣です。



初めて入った庭の部分の写真をこの下に追加します。ここから下の写真は全て今回(2021年11月)に追加したものなので<追加>は省略いたしました。
この写真の中の小さな門から庭に入りました。
クリックすると拡大

こちらがその門です。飛び石が門から続いているのが判っていただけると思います。
クリックすると拡大

庭に入る門の位置から撮った景色です。家の中からの庭の景色が想像されます。
クリックすると拡大

こちらが庭の写真です。
クリックすると拡大

庭の方から建物を撮った写真です。広い縁側部分が印象的でした。右側の部屋が次の間で、左側の部屋が表座敷です。次の間も表座敷も客用の部屋です。つまり客用の部屋の前に手入れされた庭があったようです。
クリックすると拡大

部屋についての説明板がありました。1977年と1978年の修理の時に改築されていた部分を建設当時の間取りに復元したそうです。説明内容を枠内に転記いたします。
部屋について
旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり江戸時代岩国の武家住宅の様相を残しています。昭和49年(1974)に国重要文化財の指定を受けた後、昭和52年(1977) 53年(1978)の修理によって、これまでに改築がなされた部分を建設当時の間取りに復元しています。
クリックすると拡大 座敷は客を迎え入れる表座敷と家族が利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋があります。
このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間(ちゅうげん)がつめる中間部屋などがあります。
クリックすると拡大

庭のコーナー(西方向)からの建物の全景写真です。
クリックすると拡大

厠(かわや/便所)につながる廊下がよくわかります。
クリックすると拡大

目加田家に関する説明板も紹介します。これに寄れは目加田家は元々は近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)の出身だそうです。その出身地の滋賀県愛知郡愛荘町に今も残されている目賀田城跡の写真が掲載されていました。ネットでの目賀田城の説明では目加田城とも記載されていました。岩国に関する記述も出てきました。目賀田家(目加田家)は分家も多くあったと書かれていたことからその中の一つではないかと想像されます。説明内容を枠内に転記いたしました。
目加田家について
目加田家は元々、近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)出身の豪族です。天正年間(1573-93)に吉川元春に仕え、関ヶ原の合戦後、吉川広家に従って出雲国富田(島根県安来市)より岩国に移り、以降吉川氏の家臣として明治まで仕えます。屋敷地は江戸中期の屋敷割図によると現在地のままであり、この地で続いていたことが伺えます。
吉川氏の家臣達の系図を編纂した「御家中系図」によると、天保年間(1831-45)は御用人役と呼ばれる藩の政策を審議する役所の政務官を勤め、知行(武士の身分に与えられる俸禄)は170石でした。

クリックすると拡大
目賀田城跡
(滋賀県愛知郡愛荘町教育委員会提供)
クリックすると拡大

クリックすると拡大以前に紹介しましたが建物は一見は平屋に見えますが、2階建であることはこの角度の写真だと良く分かると思います。右の写真の2階部屋は洪水の時の避難場所として設けられたと考えられています。数回の床下浸水は記録されているようです。
クリックすると拡大

敷地外からの旧目加田家住宅の景観を紹介するためにGoogleのストリートビューSV)を掲載させていただきました。このSVは真下を是非とも見てほしいです。画面を真上にスクロールすると真下が見れます。

nice!(222)  コメント(48)