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石造りの天文台 [北京]



早朝の散歩をしているときに北京の天安門の前を通っている大通り(建国路)沿いに城壁のような建物を見つけました。近代的なビルが並ぶ中に古い建物がポツンと残されている感じでした。

その壁には古観象台と書かれていました。
さっそくネット で調べると、ここは「北京古観象台」(Beijing Guguan Xiangtai)で、現存する世界で最も古い天文台(1442年)と書かれていました。ただし現存する最も古い天文台と言うのは解釈によっては正確ではないかもしれません。たとえば韓国・慶州の瞻星台と言う天文台は7世紀だそうです。
明、清の時代の皇帝の天文台として使われたもので、現在のように古代の天文観測器具などを展示した博物館となったのは1956年のことです。屋上には古代の天文観測機械の展示があります。


朝早くて中に入れませんでしたが、確かに屋上に天文観測機械らしきものを視ることが出来ます。クリックすると拡大します。
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地図で場所を紹介いたします。緑色マークが北京古観象台です。
天安門が空色マークです。

より大きな地図で 北京古観象台 を表示
ネットで説明されている内容を枠内に転記いたします。
クリックすると拡大建国門立体交差の東南方向に位置する。元の大都の時代、至元16年(1279)以来の歴史を有する世界最古の観象台である。元の大都の時代にはここが都城の城壁の東南隅であり、観象台上にはイスラム暦学による観測儀器が備えられた。明代になり、朱元璋が南京に遷都すると儀器は南京へと移されたが、その後、明の正統帝の時代に復興されて「観星台」の名で呼ばれ、清代へと引き継がれ「観象台」の名に改められた。清初の順治年間には、イエズス会宣教師のアダム・シャールが欽天監(国立天文台のような機関)の長官となり、観象台も暦法を治めるアダム・シャールによって指揮されることとなった。康熙年間に入ると、欽天監内部のイエズス会宣教師等による西洋新暦派と、イスラム暦法派勢力との間で暦法の主導権を奪い合う「暦法対立」が生じ、一時イスラム暦法派が勢力を得たものも、結局、西洋新暦派が勝利し、以降清末の19世紀初頭まで欽天監の長官には代々暦学に精通する西洋人宣教師が就任した。観象台も欽天監の長官の指揮の下におかれ、日々欽天監の官生らによって測天作業が行われ、朝廷に観測結果の報告がなされた。
現在、観象台の台上には、8種の青銅製の観測儀器が備えられているが、そのうちの赤道経緯儀、黄道経緯儀、地平経儀、象限儀、紀限儀、天体儀は康熙年間初頭の欽天監の長官であったベルギー人のイエズス会士フェルビーストによって作製され設置されたものである。1900年に義和団の乱を鎮圧するため8か国連合が北京に進軍すると台上の儀器も持ち去られたが、第一次大戦後のベルサイユ条約の定めに従って中華民国の時代に順に返還された。
  FEE   :F 10元
  OPEN :9:00~16:00
  ADD  :東城区建国門東裱褙胡同2号
  TEL   :(010)6524-2202

昨日、掲載させてもらった猫ちゃんの話題です。 → ポチッ

丘の上の住宅地 [ピッツバーグ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真は、すでに紹介したゴールデン・トライアングルを見下ろせる丘にあるすばらしい夜景が見れるシーフードレストランから、丘の上の住宅地を撮ったものです。有名なサンドイッチ店もあるし、羨ましい住宅地です。

どれくらいで買えるのかな。
丘の上の不動産屋さんのウインドーの中にあったチラシでこのあたりの住宅の価格を確認して見ました。建物の写真はウインドーの中のチラシの写真のためガラスで反射して鮮明でないこと了承願います。
クリックすると拡大普通の家
 価格 199,000ドル
    (約2000万円)
 ベッドルーム  5
 バスルーム   2

敷地面積とか土地の広さの表示はありませんが写真からかなりの広さであることが想像できました。表示はベッドルームの数とバスルームの数だけです。バスルームが多いです。日本とは生活習慣が違うな! と感じました。
住宅の説明書はクリックすると拡大するので詳しくわかると思います。バスルームの6の内訳はFull Bathsが5でPartial Bathsが1です。車が2台はいる独立した車庫(Detached Garage)もあるようです。
2物件ともに住居(Residence)用です。
大きな家
 価格 345,000ドル
    (約3500万円)
 ベッドルーム  6
 バスルーム   6
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航空写真で住宅地を紹介します。川より南西側の丘が住宅地になっています。北東側の川に挟まれた三画の部分が高層ビルが立ち並ぶダウンタウンです。
住宅地のある丘には「石炭の丘(Coal Hill)」の名前が付けられている通り、製鉄業が盛んだった昔は石炭を採掘する山でした。ピッツバーグではアメリカの鉄の30%~50%の生産した時期もある上に、第二次世界大戦中には、年間に9,500万トンの鉄が生産されました。まさにアメリカの原動力の鉄を作る石炭の丘だったわけです。
その丘は、丘の上の住宅街からケーブルカーで降りたあと歩いて高層ビルが立ち並ぶビジネス街に通勤できる高級住宅地に、変貌したのです。右の写真は橋の上の通勤風景です。
Smithfield Street Bridge (スミスフィールド通り橋)の部分の川幅が315mです。川幅から通勤距離を想像願います。 1時間以上、満員電車で通勤する日本とは大違いだと思いませんか。
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