SSブログ

お寺散策 [高野山]



高野山には118のお寺があり、道を歩くだけでも趣のある景観に出会えます。その道の景観で一番気に入ったのが今回紹介する金剛峰寺の西側の通りです。上の写真は総持院のあたりから西の通りを撮ったものです。
手前から総持院、親王院、龍光院です。趣のある風景なのは、この通りは商店はなく、人通りも少なく、お寺だけが立ち並んでいるのも影響していると思います。でも、この通りに格調高い雰囲気があるのには、それ以外の理由があるような気がしました。

場所を地図で紹介すると緑の楕円で囲ったあたりです。西から順番に紹介いたします。


クリックすると拡大Google地図でも場所を紹介します。今回紹介の寺の門の位置あたりに青色マークを配置いたしました。マークをクリックすると写真を表示します。大門から右の写真の深山隧道( )を通って青色ラインの道で、こちらのエリアに来ました。

より大きな地図で 高野山 寺院 を表示
これがこの通りの一番西の奥にある寳壽院(ほうじゅいん)です。このお寺は地図には載っていなかったので書き込ませていただきました。このお寺はちょっと、いわくのあるお寺なので後日、詳しく紹介いたします。
クリックすると拡大

正智院です。こちらのお寺は高野山の中でも格式の高い別格本山です。右の石柱には別格本山・正智院と書かれており、左の石柱には準別格本山・大楽院と書かれていました。


宝城院のあたりから東の方向を撮った写真です。宝城院も別格本山です。


となりの西禅院も別格本山です。この写真はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大

こちらの道の奥にあるのが明王院です。こちらの明王院も別格本山でした。


こちらが龍光院です。龍光院も別格本山でした。


こちらが親王院で、こちらも別格本山でした。枯山水の庭を紹介した寺院です。
クリックすると拡大

こちらが、この通りの一番東にある総持院です。こちらも別格本山でした。
高野山には118の寺院があります。格式順に言うと次の通りです。驚いたことに、この通り沿いにある7つ寺院は、すべて格式の高い別格本山だったのです。そのことがこの通りが別の場所とは違う雰囲気の理由だったのだとネットで調べてわかりました。
  総本山    1 金剛峰寺
  大本山    1 寳壽院
  別格本山 27 総持院 親王院 龍光院 明王院 宝城院 西禅院 正智院など
  一般寺院 89 熊谷寺など



別格本山の27寺を紹介いたします。
下の地図はクリックすると拡大するので別格本山を、いくつか見つけることが出来ると思います。バス停の奥の院前から緑のラインを歩いて女人堂まで散策しました。
  宝亀院、桜池院、天徳院、正智院宝城院西禅院明王院龍光院親王院
  総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、
  本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、
  遍照光院、清浄心院、円通律寺

クリックすると拡大
さちこさんのちらっと高野山をみてきました・・・にトラックバックしています。

奥宮(奥社) 徳川家康の墓 [日光]


クリックすると拡大
こちらが日光東照宮の徳川家康が埋葬されているの墓の上に建てられた宝塔です。拝殿なども含めて奥宮あるいは奥社と呼ばれており日光東照宮の中でも標高の最も高い位置になります。徳川家康は元和2年(1616年)に駿府で数え年の75歳(満73歳)で亡くなり、家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て元和3年に江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。それが現在の日光東照宮なのです。久能山東照宮は今も徳川氏祖廟として尊ばれています。
 徳川家康
  生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 470年前
  死没 元和 2年 4月17日(1616年6月 1日) 397年前 満73歳(数え75歳)
  改名 竹千代(幼名)→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
     1543年~   1555年・元服~   1563年~ 1567年~
  神号 東照大権現
  戒名 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
クリックすると拡大徳川家康は死後の処置に関して下の遺命(遺言)を残しました。勧請とは神仏の分霊を他の地にも祭ることです。
右の狩野探幽により描かれた家康の肖像画はWikipediaから転用させていただきました。
   1.遺体は駿河の久能山に葬ること
   2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
   3.位牌は三河の大樹寺に立てること
   4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること

こちらが陽明門( )から奥宮( )までの参道( )です。
  陽明門 →  眠り猫 →  坂下門 →  奥宮拝殿
眠り猫から奥宮まで順番に紹介します。

より大きな地図で 日光東照宮 奥宮石段 を表示
クリックすると拡大
奥宮への入口にあたる東回廊にある入口で、この入口の上に「眠り猫」の彫刻があることで有名な場所です。入口の奥に坂下門があるのが判ってもらえると思います。ここから奥宮への石段を登り始めます。
クリックすると拡大

こちらが坂下門です。右側の立て看板には「坂下門 この門を潜り石段を約二百段登ると家康公の御墓所奥宮がある。」と書かれていました。
正確な石段の数知りたいところです。坂下門からの石段の段数として一番多い表現が「約200段」で、次に多い表現が「207段」でした。眠り猫の位置と坂下門の間にも数段の石段があります。江戸時代には、坂下門は将軍しか入れなかった「開かずの門でした。奥宮が一般に公開されたのは1965年からだそうです。
全体的には清楚な感じですが柱や天井の金具は七宝焼の上、軒下の欄間には鶴などの彫刻がありました。
クリックすると拡大

石段の上から見た坂下門です。


坂下門から少し進むと長い行列になっていました。待たされながら一歩一歩進むので奥宮に着くまでかなりの時間を要しました。撮った写真の時間で確認すると坂下門を潜ったから拝殿に着くまで16分を要しました。200段を普通に歩けば3分弱だと思うので待たされながら進んだことが判ってもらえると思います。もし自分で石段の数を数えるとすれば、待たされない下りで数える方が楽だと思います。
クリックすると拡大

石柵は石をくり貫いて作ったものだそうです。


石段は結構な幅がありますが一段毎に一枚石を用いられています。やっと奥宮の鳥居が見えてきました。
クリックすると拡大

鳥居近くから見た石段です。


鳥居には徳川家康の神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が書かれていました。鳥居は最初は石製でしたが1683年の大地震で破損して唐銅鳥居にかえられたそうです。
クリックすると拡大

鳥居の横には1654年創建の御宝蔵がありました。案内板によると、御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収められていたそうです。


御宝蔵の屋根の部分は青銅で包んである感じでした。
クリックすると拡大

御宝蔵の脇から、やっと奥宮の拝殿が見えてきました。
クリックすると拡大

拝殿に昇る最後の階段の両脇には狛犬が置かれていました。2体の狛犬は松平右門大夫正綱と秋元但馬守泰朝の二人から寄進されたもので二人は徳川家康の遺臣であり、寛永年間の奥宮造営の功により特に奉納を許されたそうです。こちらが右側の狛犬です。
クリックすると拡大

こちらが左側の狛犬です。頭の真中に角がある狛犬でした。
角がある狛犬は珍しいと思われがちですが、元々は2体のうち1体には角がありました。1体は角がなく口を開いた阿形(あぎょう)で、1体は角があり口を閉じた吽形(うんぎょう)と呼ばれていました。阿(あ)と吽(うん)は、息がぴったり行動することを「阿吽の呼吸」といわれている由来にもなっているそうです。昭和時代以降は左右ともに角が無いものが多くなったそうです。
クリックすると拡大

最後の石段です。拝殿が目の前でした。
クリックすると拡大

やっと長い行列が出来ている理由が判りました。一人一人が拝殿に参拝されていたのでした。
クリックすると拡大

拝殿正面です。神社の参拝作法が書かれていました。二礼・二拍手・一礼です。


拝殿の全景です。
クリックすると拡大

拝殿の飾りです。
クリックすると拡大

こちらが鋳抜門(いぬきもん)と宝塔です。石造りの玉垣の中心に放蕩があります。
クリックすると拡大

見事な鋳抜門を拡大いたしました。鋳抜門の前にも狛犬があり、拝殿階段下の狛犬と同じように左側の狛犬の頭には角がありました。
クリックすると拡大

南東方向から見た宝塔です。高さは5mです。
宝塔は最初は木造でさらに石造に改められましたが天和3年(1683年)に大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えたそうです。
クリックすると拡大

宝塔は八角九段の基盤を築きその上に設置されており、前面には寛永20年に朝鮮から献上された三具足(香炉、燭台、花立)が備え付けられています。八角九段の基盤や朝鮮からの献上品が写っていたので、この写真だけは今回ではなく2008年11月14日に撮ったものを使いました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大上の写真の朝鮮から贈られた三具足の部分を切取り・拡大・露出調整いたしました。奥から花立(花瓶)、香炉、燭台です。鶴のクチバシの部分がロウソク立てになっているようです。日本の真宗大谷派・真宗仏光寺派・真宗高田派では燭台に鶴亀燭台(亀の上に鶴が乗った形)を用いるそうです。
右の写真はネットから拝借したもので、朝鮮国王から対馬藩に贈られた三具足(万松院所蔵)ですが、日光東照宮のものに似ています。


南西方向から見た宝塔です。ここの標高は700mを越えています。
宝塔の製作者は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。
納められているのは家康公の遺骸(神柩)は建立以来、一度も開けられたことがないそうです。
クリックすると拡大

こちらが奥宮だけで売られている眠猫絵馬(魔除け)と眠猫守(開運招福)です。奥宮限定だけに人気でした。
クリックすると拡大

宝塔の西側にも短い行列が出来ていました。
これは叶杉(かのうすぎ)で、皆さん順番に拝まれていました。
クリックすると拡大
クリックすると拡大
説明文には「諸々の願い事をこの杉のほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている」とありました。なるほど、皆さん、叶杉にお参りしているわけです。案内板を見ると叶鈴守もあるようです。
上の写真の中に叶鈴守の見本が写っていました。


クリックすると拡大ムサシママさんから鬼門に関してコメントをいただいたので方向を示した地図を追加掲載させていただきました。
よく「日光は江戸の鬼門に当たる」あるいは「江戸の鬼門に寛永寺が建立されその延長線上には日光がある」との記載があります。地理的な方向は次の通りで、江戸からは北方向なのです。鬼門方向と言われている理由は謎のままです。
 赤色ライン 江戸城( )→日光東照宮( )    北
 緑色ライン 江戸城( )→寛永寺( )の延長上  北東(鬼門方角)
 青色ライン 久能山東照宮( )→日光東照宮( ) 北東(鬼門方角)
 大樹寺 家康位牌
 高野山 徳川家康霊屋
マークやラインをクリックすると写真を表示します。

より大きな地図で 各方角 を表示