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本屋さん [高野山]


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高野山の町の中を歩いていると本屋さんがありました。写真のように沢山の本の名前が書かれていました。置いている本の名前だと思いますが高野山らしい雰囲気だったので紹介いたします。
書かれているいる名前をネットで検索しますと、やはり本の名前として出てきました。写真はクリックすると大きく表示するので題名が読見やすいと思います。
建物も、すでに紹介した虎屋薬局(築123年)に負けないくらいの雰囲気でした。

Google地図とストリートビュー(S.V.)で本屋さんを探してみました。お店の名前は「佛教美術研究所」でストリートビューの画像を掲載いたしました。写真をクリックするとオリジナルを表示します。
 店名 佛教美術研究所
 S.V. http://goo.gl/maps/fzHqd
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地図も紹介いたしす。土井商店と(株)前板工務店の間の佛教美術研究所です。

より大きな地図で 佛教美術建機有所 を表示

虎屋薬局 [高野山]

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クリックすると拡大高野山に行ったときのことを、先日からいくつか掲載させていただいています。高野山の奥の院参道お寺はどれもすばらしい建物ばかりでしたが、趣のある商店も沢山あったので、いくつか写真を撮りました。特にこちらの虎屋薬局さんは特別のような気がしました。こちらの写真はクリックすると拡大するので是非ともクリックしてみてください。

別の角度からの写真も紹介します。こちらもクリックすると拡大します。
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写真を撮っているときは気がつきませんでしたが、ガラス窓越しに大きな虎の置物がありました。お店の名前が虎屋だから「まねきねこ」ではなく「まねきとら」と、したのでしょうか。確認してみたいですね。
木製看板の「とらや藥局」も趣があります。その看板の横になにやら説明文があることも、後から写真を見て気がつきました。
調べてみるとナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の英語版の明治44年(1911年)11月号に虎屋さんの店の写真が掲載されていることが書かれているとのことでした。


クリックすると拡大冒頭の写真あるいは2枚目の写真をクリックしても、わかるのですが、庇(ひさし)の上に趣のある灯篭があったので、拡大して掲載してみました。
灯篭の正面に「とらや」、左右に「くすり」と書かれています。
掲載するにあたり、虎屋薬局さんを調べてみると高野山の商店で最も古い建物で、明治23年(1890年)に建築されたものでした。今から123年前に建てられたものでした。
見た瞬間の印象は確かでした。
写真をクリックすると2倍に拡大した写真を表示します。

奥の院 [高野山]

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クリックすると拡大高野山に来て最初に訪れたのが奥の院です。奥の院とその参道は高野山の雰囲気が凝縮された世界に感じます。上の写真が高野山の奥の院です。残念ながらこれより奥は、左の看板に書かれているように写真撮影が禁止されているため全景は紹介できません。奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。高野山で建物の撮影が禁止されているのは珍しいです。それだけ神聖な場所なのでしょう。

上の写真もクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために奥の院の建物部分を拡大してみました。クリックするとさらに拡大します。この建物の奥に弘法大師の霊廟があります。
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高野山で一番大好きな場所が一の橋から奥の院への参道(緑色ライン)です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓所や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。それらの中には武田信玄、上杉謙信、織田信長など有名な武将たちの墓所が沢山あり、それらの風景には圧倒されます。この参道は是非とも歩いて欲しいです。バスで来た場合は、奥の院前まで行かずに手前の一の橋口のバス停で降りることを推奨いたします。正式な参拝も一の橋から歩くのが本来の姿です。

奥の院側から参道を見た景色です。我々は12時に一の橋の近くのお寺に精進料理を予約してあり、時間がなかったので、先に奥の院に行き、奥の院側から一の橋に歩きました。
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御廊橋のあたりの景色です。
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樹齢千年を超える杉の古木には圧倒されました。400年~500年前の戦国の武将の墓所・墓石を見るとロマンを感じてしまいます。
後で紹介いたしますが、武田信玄(1521年~1573年)や伊達政宗(1567年~1636年)など有名な武将の墓所を見ると、なぜか感激してしまいました。
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こちらが島津家久(初代薩摩藩主)と島津光久(二代薩摩藩主)の墓所です。伊達政宗の墓所も石の鳥居と大きな同じタイプの墓石でした。
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こちらは庄内藩主の墓所です。


石田光成の墓所も見つけました。文化的に重要なものばかりで見ごたえがありました。


こちらも見事な墓です。安芸藩(広島)の浅野家(藩主)の墓所です。江戸時代の藩主あるいはその家の墓所は立派なものが多かったです。
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こちらも墓の構えからして名のある家の墓所だと思います。やはり藩主の家だと思われます。調べた結果、徳川家康の次男である結城秀康の石廟で重要文化財に指定されていました。福井藩の藩祖、つまり第1代藩主でした。
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クリックすると拡大是非とも見たかったのが武田信玄の墓所です。敷地は広かったけれど墓石は他の墓石に比べて小さかったのが印象的でした。右の白黒の写真は、私が小さいころの1962年頃(1961~1963年)に祖母・祖父に連れられてきたときの写真です。
2つの墓石の左の大きい方が武田信玄(第19代当主 1573年没)で、右の小さい方が信玄の子である武田勝頼(第20代当主 1582年没)の五輪塔です。
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武将ばかりではありませんでした。歌舞伎役者の市川団十郎のお墓もありました。これはどうやら初代の市川團十郎(1660年~1704年3月24日)の墓のようです。これ以外にも沢山の有名な墓所を見ることが出来ました。


こちらが有名な「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」です。お堂の中に汗かき地蔵尊が安置されています。汗かき地蔵尊の謂れは、いつも人々が犯した罪の苦しみを、人々て代わって受けておられるので、その苦しみのため汗を流しておられるのだそうです。黒っぽい石に彫られた地蔵尊は、実際にツユが吹いて、汗が流れているように見えるときがあるそうです。
そして、お堂の右の奥の方に「姿見の井戸」があります。クリックして拡大すると文字が読み取れると思います。この小さな井戸「姿見の井戸」は空海が高野山に登ったときに掘られた井戸だといわれています。伝説では、この井戸の水は、どんな眼病にも霊験あらたかだそうですが、のぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうのだそうです。「中の橋」の近くに、この「汗かき地蔵尊」と「姿見の井戸」があります。
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高野山の入口 女人堂 [高野山]

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クリックすると高野山内の地図を表示すでに紹介した箕面紅葉を見に行った前日(11月30日)は高野山に行ってきました。ケーブルカーで高野山駅に着きいてバスに乗ると最初のバス停が女人堂でした。高野山では沢山歩きました。最初に紹介するのが女人堂です。
昔、高野山は女人禁制の山で七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていたそうです。そのために各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれていたそうです。この建物は現存する唯一の女人堂だそうです。

高野山の入口であることから立派な石碑が道路の両側に建てられていました。右には高野山と書かれ左には真言宗の総本山である金剛峰寺の文字が書かれていました。石碑の裏には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていました。と言うことは今から56年前に建てられた石碑ということになります。
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女人禁制は141年前の明治5年(1872年)に解かれるまで千年余りの間、つづいたそうです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。
実は女人堂は高野山の中の最後の参拝場所でした。ケーブルカーの駅からバスに乗ってここでは降りずに奥の院のまで行って、高野山の沢山のお寺を歩いて回って、ここまできました。ここからはバスに乗ってケーブルカー駅まで帰りました。
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