餅つき大会 [生活風景]
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先週の日曜日(2013年11月24日)に地区の自治会の餅つき大会(もちつき大会)がありました。今年は20年に1回の自治会の役員になっていることから餅つき大会の餅つき担当となりました。と言っても準備と後始末は役員全員で行ないます。おかげで初めて地域の餅つき大会に参加いたしました。ほんと楽しく一日を過ごすことが出来たので紹介いたします。来年からは毎年参加する気持ちにもなりました。
自治会館に7時50分に集合して備品を会場まで運ぶことから始まりました。自治会の作業班(係)の構成は下記の通りでした。この自治会の作業班以外に防災組織と子供会の方が運営に参加されていました。
餅つき班 9名
振舞い班 7名
ゲーム班 3名
掲示係 1名
救急係 2名(看護士含む)
会場は小学校の体育館なので、備品を運んだあとは椅子や机を並べることから始めました。体育館での準備風景です。
餅つきに必要な道具一式は小学校から1.2kmの距離にある大きな旧家の方から借りてきます。餅つきに関してはみんな素人なので、その旧家の方の指導で行ないました。と言っても肝心なところはすべてその方がやられていました。これだけの道具を家に持たれているのです。これは一部だそうです。ガスボンベだけはガス屋さんから借りてきました。
手前の大きな臼(うす)の重さは木製でありながら100kgを越えるそうです。代々、家に伝わっているもので正確な年代は判らないとのことでしたが江戸時代のものだそうです。ケヤキ(欅)の木の地中の部分で作られており固いことから、杵(きね)が当たっても全く欠けることはないそうです。向こうに見える臼は現代のものだそうです。
臼(うす)が2個に対して杵(きね)は5本が用意されていました。細い杵(きね)は子供用のようでした。右の臼は小さく見えますが、これでも結構な大きさの臼でした。
もち米は味が美味しいと評判の銘柄であるツキミモチとのことでした。マンゲツモチという銘柄も有名だそうです。もち米の銘柄の一覧表 → ポチッ
前日の15時に旧家の方の家に集まって準備をしたそうです。その時は家内が行きました。緑の容器は、もち米を5kgづつ洗って水に浸しておいたもので、9つ用意されていました。1つが一臼なので9臼分が用意されていたわけです。
もち米は5kg×9=45kgがつかわれました。餅つきが近づくと緑の容器からザルに移して水を切りました。
9時15分ごろにガスコンロに火を付けました。かなりの火力です。
4つの釜の内、右の2つがもち米を蒸すためのものです。一つの釜で二臼分が蒸せるので臼が2つ用意されていたのです。その左の釜はお湯を沸かします。蒸す方の釜のお湯が減ってくると、ここからお湯を足します。一番左の釜はトン汁を作るものです。
蒸し器から湯気がではじめました。上の2段をもち米が入ったザルのところに持って行き、布を引いて、もち米を入れます。
ザルから蒸し器に、もち米を移しているところです。
先ずは下の段を乗せました。
上の段も釜に乗せまました。これから30分程度蒸せるとのことでした。この時9時45分でした。
もち米の蒸し上がりが近づくと臼をお湯で洗らって温めておきます。
もち米が蒸しあがりました。指で蒸し具合を確認しています。指で押してつぶれるとOKとのことでした。この時10時16分でした。説明を受けたとおり約30分で蒸せたことになります。下の写真で蒸し具合を確認されている方が、右の写真の旧家の人(以降は長老と表現)です。長老は満80歳とのことですが信じられないくらいに元気な方でした。この方の指導があったからこそ、素人ばかりでも餅つき大会が出来たのです。いろんな地区や小学校の餅つき大会に道具を貸し出して、餅つきを指導されているともことで、11月と12月の毎土日曜日は、餅つき大会に出かけられているとのことでした。右の写真は軽く餅ついているように見えますが、我々がやるより力強く餅がつけていました。
長老の家は以前に紹介した先崎城の近くの大きな旧家であることから、少なくとも戦国時代から続く名家なのだと感じました。
あの江戸時代のと言われた臼も、もしかしたら何百年も使われ続けたものなのかもしれません。
蒸し上ったもち米を容器ごと臼のところに持ってきます。
布を持ち上げて、臼にもち米を移します。
臼にもち米を入れたところです。この時10時26分でした。
いきなりぺったんぺったんと、「つく」のではなく、先ずは「こねる」のです。これが餅つきの中で最も重要な作業であることを知りました。この段階で米粒を完全に「つぶす」ことが大切なのです。したがって2人がかりで粒が残らないように丁寧につぶすのです。最も疲れる作業でした。何度もひっくり返してつぶしていきます。
雰囲気が伝えるために、「こねる」作業の写真を6枚紹介いたします。一枚目の写真から切り取ったのが上の写真です。
それでは大切な「こねる」作業の動画を紹介します。大きい方の臼の左側の人が長老です。是非ともプレーボタン( ► )をクリックして80歳の長老の「こね方」を参考にしてください。
米粒が無くなってきたところで「つき」はじめます。ここで「返し手」の人が、「つき手」の人の横に並ぶように立つことが事故防止のために重要だと長老に教えてもらいました。横に立っていれば頭を打たれることはないし、杵の動きや「つき」手の動きが横で見えるのです。足の動きでも「つく」気配が判るのです。右の写真(ネットから借用)のように前に立つと頭を杵で打つ可能性があります。絶対に前に立たないようにしてください。餅つき大会では素人の方が、ほとんどであることを忘れないでほしいのです。
餅つきの写真を6枚紹介いたします。これらの写真からも「つき手」と「返し手」の位置関係が徹底されているのが判ってもらえると思います。上の写真は一枚目の写真から切り取ったものです。
餅つきの動画も掲載します。悪くはないと思いますが、「つき手」と「返し手」の人はもっと横に並んだ方が安全です。
滑らかな艶が出てくるまで「つき」ます。返し手の人は横に立つだけでなく、頭を絶対に臼の上に持って行かないのも大切なことです。私も餅つき担当ですから「つき」と「こねる」を2回づつやらせてもらいました。特に「こねる」は体力がいりました。
滑らかな「つや」と「こし」が出てきたらほぼ出来上がりです。この時10時32分でした。蒸された餅米を入れてから6分でつき上がりました。つき上がるまで10~15分と聞いていたので、かなり早いです。大きな臼でやりやすく、交代でついたので早かったようです。
ここで、子供たちの出番です。後ろで小さな子が羨ましそうに餅つきを見ています。
ちゃんと順番が回ってきました。ケガをしたお兄ちゃんはお母さんが手伝って、餅つきすることが出来ました。小さな弟さんもお母さんが手伝って、餅つきすることが出来ました。この写真のプリントは返し手の方経由でお渡しすることが出来ました。
女の子たちも大活躍でした。一枚目の写真が冒頭の写真です。
2つに分けてボールで運びます。餅に粘りがある上に熱いので、これがなかなか出来ないのです。餅を絞るようにして細くして絞切るのです。
餅の入ったボールを皆が待つ体育館に持って行き作業開始です。、
今回は「きな粉餅」と「あべかわ餅」と「磯辺餅」と「辛み餅」と「草餅」を作りました。
一回で、つき上がる餅が多いので、これだけの人数で作っても大変な作業となりました。
さっそく、餅つき担当への差し入れが来ました。
ここから草餅(よもぎ餅)をつきあげるまでを紹介します。これが草餅に入れる冷凍のヨモギです。これで3臼の草餅を作りました。これをお湯で解凍して丸いヨモギ団子を9つ作りました。
このヨモギ団子を1臼に3個入れます。このあたりの作業もすべて長老が行いました。
杵でもち米をこねて米粒をつぶしてから、ヨモギ団子を入れます。
ここからは、普通についていきますが、白い餅より、返し手の人の作業が大変です。
返し手の人のひっくり返す作業が多くなります。
こんな感じで折りたたむ感じで混ぜていきます。
かなりの重労働です。
底にあたるぐらいの気持ちで、真中をつくのがコツです。
ほぼ出来上がりました。
白い餅の時のように2つのボールに分けます。ここだけは餅が粘り強いので意外と大変な作業がさいごに残っていました。結局、江戸時代の100kgの大きな臼で5回、現代の普通サイズの臼で4回ほど餅をつきました。餅を2種類の臼でついた結果、大きな臼が格段につきやすいことが判りました。現在では大きな臼は手に入らないでしょうね。
餅つき大会では子供会の人たちがトン汁を作られていました。各自の家で下ごしらえをして煮てきた具を、お湯の入った釜に移して、味噌を入れて味を調整します。
トン汁用の釜のすぐ横にテーブルを置いてトン汁を作っていました。
体育館内ではいつでも「おふるのい」の準備が出来ていました。トン汁の出来上がりを待つだけでした。
トン汁が出来上がりました。容器に移し替えて体育館に持って行きます。トン汁、美味しかったです。
体育館の中には沢山の人が参加されていました。
体育館の椅子のほうは満席でシートの方にも座られていました。
ビンゴゲームが行われ、沢山の商品も用意されていました。
9臼の餅をつき終えたら後片付けです。きれいに年代ものの臼も洗いました。
14時半には、ほかの後始末も終わりました。体育館の椅子やテーブルをしまって、借りた道具を返して餅つき大会は楽しく無事に終了いたしました。地域の餅つき大会は素人の人が多いことから、餅つき大会で一番大切なことが「事故防止」であることを、楽しく無事に終わったからこそ、あらためて感じることが出来ました。
明石海峡大橋が目の前に見えるホテル [神戸]
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三宮でトンカツを食べた後に神戸に泊まったのが、明石海峡大橋が目の前に見えるホテルでした。ホテルに着いたのは午後10時を過ぎていましたが、上の写真のように明石大橋は、まだライトアップされていました。
周りの景色も入った写真を紹介いたします。雰囲気が判ってもらえると思います。奥の淡路島側の主塔(25000トン)が川崎重工製で、手前側の主塔が三菱重工製です。
ライトアップのパターンは季節や時間などで基本的に28パターンあります。28パターンをすべて紹介いたします。実際には、下記のように短時間で変化することはありません。この時は7月なのでライトアップパターはブルー(正式名:パールブルー)で、00分時と30分時に時報のパターンが表示されます。ただしゴールデンウィークおよび夏休の全土・日曜日は、 1分ごとに次々と美しく色を変える全28パターンのライトアップがおこなわれます。
点灯時間 ライトアップ・パターン
平日 日没~23時 春:グリーン 夏:ブルー 秋:ピンク 冬:イエロー
土日祝 日没~24時 グリーンブルー
時報 1時間ごと 夕方:虹-1 夜:虹-2 夜間:虹-3
30分ごと 季節により 宝石-1 ~ 宝石-7
イベント 日没~24時 14種類のパターン
大晦日 日没~日出 特別パターン
28パターン
平日 春
平日 夏
平日 秋
平日 冬
土・日・祝
こちらが翌朝に撮った写真です。曇り空ですが淡路島がきれいに見えました。明石海峡大橋は兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ、世界最長の吊り橋です。全長3,911m、中央支間1,991mで明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(333.0m)、あべのハルカス(300m)に次ぐ高さの構造物です。横浜ランドマークタワーと同じ高さでもあります。建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mでしたが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で地盤がずれ、1m伸びたそうです。
ホテルの庭には結婚式のためのチャペルがありました。みんなで記念撮影するには絶好の場所かもしれません。ホテルの名前はシーサイドホテル舞子ビラです。
舞子ビラは有栖川宮熾仁親王の別邸として1894年に完成しました。そのことから明治天皇は1900年、1902年、1908年と宿泊し、昭和天皇も1916年(皇太子時代)と1954年に宿泊されたそうです。1920年には史蹟名勝記念物指定を受けていますが、原型の木造の家屋は破壊されたために、当時の面影は、この庭にだけ残されているようです。チャペルの前の庭に沢山の松があるのも理解できました。
舞子ビラのホームページから有栖川宮熾仁親王の別邸時代の木造の建物の写真を転用させていただきました。今も庭の松の面影が感じられます。
神戸の街の中心が少し離れていることから料金の割りに部屋が広いためだと思いますが、海外の観光ツアーの人たちが沢山泊まられていました。
庭からのホテルの外観の写真も紹介いたします。
こちらの主塔から舞子側を撮った写真は本州四国連絡高速道路株式会社のサイトから転用させていただきました。右の方に写っている白いビルが舞子ビラです。
私が泊まったシーサイドホテル舞子ビラが空色マークです。緑色マークはbarbieさんお薦めの明石海峡大橋ビューポインの垂水アウトレットと淡路SA展望台です。
黄色ラインの方向にビューポインの一つの神戸空港があります。
より大きな地図で 明石海峡大橋 を表示
究極のサービスでした。 [神戸]
こちらも神戸の出来事でした。7月27日は夕方の便で伊丹空港まで行きリムジンバスで神戸に行きました。三宮でバスを降りたら、お腹がへったのでトンカツ屋で夕食にすることにしました。お店に入ったのがラストオーダーの5分前の20時55分でした。上の写真は羽田空港で18時24分に撮りました。
生ビールを一杯注文して、グビッと!
先ずは驚いたことに生ビールを頼むと、ツマミが3品出てきました。普通は1品だと思うのですが、閉店が近いこともあり3品をサービスしたくれたのだと思います。居酒屋ではないのでもちろんツマミは無料です。
おかげで注文したトンカツが出てくるまで楽しめました。
右が頼んだ豚カツのメニューの写真です。黒豚のフィレカツにさせてもらいました。出来るまでに少し時間がかかるとのことなのでゆっくりとビールとツマミを楽しませてもらいました。ところが、お店の人が、申し訳なさそうに料理を持ってこられて、「揚げが上手に出来なかった」と平謝りされた上に、「料理の料金は、いらないので、よかったら食べてください」と言われました。
もちろん食べさせていただきました。
普通の時間帯ならば、揚げなおすのだと思いますが、これ以上待たせるのも悪いと思われたのだと思います。
帰りにビール代を払おうとすると、「申し訳なかったので生ビールも無料にさせていただきます。」と言われてしまいました。ちょっとうれしい出来事でした。無料になったことがうれしいのではなく、気持ちが伝わってくる対応が、うれしかったのです。何事にも失敗はあるものです。ごまかさないで正直な対応がいいですね。今度、機会があれば食べに行くことにします。
写真好きの神戸空港人気スポット [神戸]
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神戸空港から夕日の中の明石海峡大橋を紹介いたしました。→ポチッ
その明石大橋を写すことが出来た経緯(いきさつ)を、ご説明申し上げます。
神戸空港から羽田空港へのフライトまで時間があったので屋上の展望デッキに上がってみました。展望デッキの東側の写真です。
飛行機が近づいてくるとコンパクトカメラやビデオカメラで飛行機を撮られていました。
飛行機がボーディングブリッジに近づいてきたところです。
この飛行機に乗って関東へ帰りました。
こちらが西側です。夕方なので日が沈みかけていました。階段の上に人が何人か立っています。気になったので私も行ってみることにしていました。
階段を上がってみると皆さん大型カメラを持った人たちでした。三脚持参で飛行機と夕日と明石海峡大橋を撮られているようでした。(後で写真をじっくり見てみると、偶然ですが明石海峡大橋が写っていました。)
余談ですが明石海峡大橋のことをよく明石大橋と言うことがありますが実は明石大橋と言う別の橋があります。
この場所の正確な地図(黄色ラインの起点)→http://goo.gl/maps/seMfq
これがすでに紹介した写真です。偶然に撮れていた明石海峡を切り取って拡大してみました。夕日のために、肉眼では明石海峡大橋に気がつきませんでした。気がついたらカメラをズームしたのに、残念です。写真をクリックすると写真全体を表示します。おそらくこの景色を皆さん撮ろうとされていたような気がします。
飛行機が着陸する時など一斉にカメラを構えていらっしゃいました。
実は、この場所は明石活魚「浦鮨」の入口なのです。今まで屋上にお店があるとは知りませんでした。
HPを見つけました。→http://www.urazushi.com/kobe.html
入口のメニューを撮らしてもらいました。昼網の刺身と生簀の魚の刺身が食べれるようです。神戸に住んでいたころは昼網の魚が手に入ったので、新鮮な刺身が安く食べれたことを思い出しました。こちらは安くはないとは思いますが、すこし時間があるときに景色を見ながらゆっくりとするのもいいかもしれません。
昼網という言葉は明石や神戸でよく使われます。当日に採れた近海の魚や蛸で活きの良さは最高のものです。
ざんぱーすーさんの明石活魚 浦鮨 神戸空港店にトラックバックしています。
神戸空港から見た明石海峡大橋 [神戸]
神戸空港の展望デッキからの景色です。
西日が強くて肉眼ではほとんどなにも見えないために、まさか神戸空港から明石海峡大橋が見えるとは思ってもいませんでした。
ところが神戸空港の夕刻に撮った写真に偶然に小さく明石海峡大橋が写っていました。その写真から明石大橋の部分だけを切り取って掲載させてもらいました。写真をクリックすると切り取る前の写真を表示させます。
明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)の航空写真を紹介します。明石海峡大橋は、神戸市垂水区東舞子町と淡路島の岩屋とを結ぶ、明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋です。愛称はパールブリッジだそうです。建設当初は長さ3910m、最大支間長1990mでしたが阪神・淡路大震災による地盤のずれが発生してそれぞれ1m伸張したそうです。
長さ 3,911m
最大支間長 1,991m
主塔 高さ 298.3m 鋼鉄製 重量 25000トン/基
製作 川崎重工(淡路側) / 三菱重工(舞子側)
航路高さ 65m 橋桁重量 90000トン
形式 3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋
建設 1986年4月26日(起工式)~1998年4月5日(供用)
S.V. http://goo.gl/maps/XL9Iu 神戸空港の方向
こちらは明石海峡大橋と神戸空港の関係の航空写真です。神戸空港の、ほぼ真西に明石海峡大橋があることがわかってもらえると思います。神戸空港の黄色ラインの起点は写真を撮った正確な場所にしております。起点を中心にして、写真上のアイコンを数回クリックして拡大していくと、写真を撮った場所が判ると思います。
緑色マーク( )はbarbieさんお薦めの明石海峡大橋ビューポインの垂水アウトレットと淡路SA展望台で、空色マーク( )は私が泊まったシーサイドホテル舞子ビラです。
舞子ビラから見た明石海峡大橋を書いた記事はこちらです。→ポチッ
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ネギが大好きな人のためのラーメン [拉麺]
神戸に行ったときに昼食はラーメンにしました。
これは「味噌ねぎラーメン」です。特に評判を聞いて選んだお店ではなく、何気なく入ったお店でしたが、なかなか美味しかったので掲載しました。神戸はラーメンに限らず、いろんな食べ物が美味しいところです。ラーメンもいろんなお店で食べましたが、どこも美味しかったです。注目はされていません(私が知らないだけかもしれません)が神戸はラーメンのおいしい町でした。
沢山のネギが乗っています。そのネギを寄せてみるとチャシューが現われました。麺は写真に写るようにスープから持ち上げました。
神戸駅地下(デュオ神戸地下街)の北海ラーメン喜龍でした。ネットで調べると「各地へ出店を進めている北海チェーンですが、本家本元の"北海ラーメン"ここに健在。オープンから40年近く経過し、昔からの常連客も多く、特に人気の高い店の一つ」だそうです。ネットで見ていると味噌ラーメンがいいみたいです。是非、味噌ラーメン系を食べてみてください。
布引の滝 [神戸]
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神戸にある布引の滝は今が紅葉の季節です。同じ季節に布引の滝に行ったときの写真を紹介いたします。布引の滝(ぬのびきのたき)は布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称で、日本三大神滝のひとつだそうです。
日本三大神滝とは那智の滝(和歌山県)と華厳の滝(栃木県)と布引の滝です。布引滝とも表記されており、名瀑として知られる古来からの景勝地だそうです。上の写真の滝は雄滝(おん滝)です。右の絵はInternet Museumから転用させていただきました、江戸時代に住吉広行によって描かれた布引滝図です。
布引の滝は新幹線の新神戸駅から400mで行けることは地元以外ではあまり知られていないと思います。改札階から1階降りると写真の駅の下に出られます。
布引の滝は下流側から雌滝(19m)、鼓ケ滝(8m)、夫婦滝(9m)、雄滝(43m)とならんでおります。ここまでは距離も短く靴のことはさほど気にせずに簡単に登ることが出来ます。登り始めるて住宅地を抜けるて「いさご橋」を渡ると散策路の雰囲気になってきます。地図で登山道と書かれたところを登っていきます。この地図をクリックすると分かりますが雄滝の上流には五本松かくれ滝(20m)があります。今回は雄滝までとしました。地図の右方向が実際の北方向になります。新幹線は上が博多(岡山)方向で、下が東京(大阪)方向です。
散策路は布引渓流に沿って登っていきます。雌滝と雄滝は滝の目の前で出ることが出来ますが鼓ケ滝と夫婦滝は散策路から見下ろす形で見ることになります。
散策路には下の写真のような趣のある道しるべがありました。雌滝は「めん滝」と書かれていました。雄滝は「おん滝」でした。
左の道しるべは雌滝あたりで見つけました。
右の道しるべは雌滝あたりで見つけました。
これ以外に歌が書かれた右のような石碑が沢山あるので是非とも探してみてください。
この歌は順徳院(1197年~1242年)によるもので、書かれている歌は「たら縫は 紅葉の 衣そめ出でて 何山姫の ぬの引の滝」です。歌人のことや歌の意味などの解説が横に書かれています。この歌の中の山姫は「山の女神」で、たち縫の衣は「無縫の天衣」を示しているそうです。なんとなく歌の意味が分かると思います。
雄滝近の散策路で登ってきた来た道の方を撮っています。滝だけでなく散策路の景観もすばらしいところでした。
これが43mの高さの雄滝(おんたき)です。滝の上に紅葉した木があるので紅葉の季節の写真であることが分かってもらえると思いますが、雄滝のすぐそばには紅葉の木がないので滝つぼの前からは滝と紅葉を一緒の写真という雰囲気ではないです。
右の写真も下の写真もクリックすると拡大するので滝の上の紅葉が、よりはっきりと分かってもらえると思います。
紅葉した木と一緒に滝を撮りたい人は少し登ったところに茶店があるので、その茶店の中から撮ると最高の写真が撮れると思います。この写真は茶店の脇から撮ったもので滝がはっきりとは写っていませんが、茶店の奥からは滝がよく見えます。冒頭の写真は茶店の入口あたりのから撮らせてもらいました。
茶店に登って行く別の角度の雄滝です。まだ紅葉の木は見当たりませんが、もう少し登るとすでに紹介した紅葉と一緒の写真を撮ることが出来ます。
こちらは雌滝(めんたき 19m)です。迫力は雄滝ほどではありませんが、こちらは滝つぼの前から紅葉と滝を一緒に撮ることが出来ます。
雌滝(19m)と雄滝(43m)を紹介いたしましたが、残りの鼓ケ滝(8m)と夫婦滝(9m)が気になっている方がおられるかもしれないので撮った写真の中から鼓ケ滝と夫婦滝と思われる写真を紹介します。
こちらが鼓ケ滝(つつみがだき)の写真です。周りの景色をネットの写真と比べた結果、鼓ケ滝に間違いありません。別の角度の写真もあったのですが100%鼓ケ滝であるとの自信がないので、こちらの写真を掲載いたしました。
こちらが夫婦滝(めおとだき)です。2本の流れになってることと、周りの岩などをネットの写真と比べたので夫婦滝に間違いありません。と言うことで4つの布引の滝を紹介いたしました。
上で紹介した景観が新幹線の駅から400mの場所にあるのは新神戸駅の特徴でもあります。布引の滝と書かれているところが一番大きな雄滝(おん滝)です。
Googleの航空写真(地図)で各滝の位置も紹介します。緑色マークが新幹線の新神戸駅です。黄色ラインがこの時歩いた散策路です。布引水源池の水道施設は国の重要文化財です。その設備の一つで1900年に完成した日本最初の重力式コンクリートダムある布引五本松堰堤(ダム)の放水路として出来たのが「五本松かくれ滝」でダムがオーバーフローする時にだけ流れる滝であることからからのネーミングだそうです。右の小さな写真はネットから拝借した「五本松かくれ滝」と「五本松ダム」です。
黄色マークは下流側から
雌滝(めん滝) 19m
鼓ケ滝 8m
夫婦滝 9m
雄滝(おん滝) 43m
五本松かくれ滝 20mです。
より大きな地図で 布引の滝 を表示
きれいな紅葉に出会えました。 [神戸]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
11月22日に東京駅10時10分発の「のぞみ25号」で新神戸駅に12時58分に着きました。実は新神戸駅から400m歩くと布引の滝(布引滝とも表記)がありますが、その散策路は隠れた紅葉のの名所なのです。隠れたと書きましたが、もちろん地元では有名な場所です。そこで撮った「もみじ」の写真を紹介いたします。
新神戸駅に着き、昼食をとり、ANA CROWNE PLAZAホテルにチェックインしてすぐに、こちらに訪れてみました。これは布引の滝の雄滝の近くで撮ったものです。真っ赤な紅葉もきれいですが、緑の混ざった紅葉もすばらしいです。右のCROWNE PLAZA HOTELの写真は、ホテルのHPから転用させていただきました。
新幹線の駅から布引きの滝を目指して歩く散策路から川を背景に撮ったものです。この川は布引渓流(名水百選)とも呼ばれています。この布引渓流の水は新神戸駅の下を流れて生田川となり海に向かいます。こちらの方向に新神戸駅があります。
布引の滝は5つ滝があります。下流側から雌滝(19m)、鼓ケ滝(8m)、夫婦滝(9m)、雄滝(43m)、五本松かくれ滝(20m)で、簡単に見れることが出来るのが雌滝と雄滝です。今回も雌滝と雄滝を見ることが出来ました。散策路の紅葉もきれいでしたが雌滝と雄滝の周りの「もみじ」もきれいに紅葉していました。雌滝と雄滝の写真に関しては後日のブログで詳しく紹介いたします。この紅葉の背景にあるのは雄滝です。
航空写真で布引の滝と新神戸駅とホテルが近い位置にあることが判ってもらえると思います。新神戸駅は1972年3月15日に開業した山陽新幹線の駅で、16.25kmの六甲トンネルと8.055kmの神戸トンネルの間の僅かな地上区間に新幹線ホームがあることで有名です。右側の青いビルは地上42階 高さ約151mのマンションのジークレフ新神戸タワーです。
きのこ公園→どんぐり公園 [植物]
以前、キノコの公園を紹介した公園は今はドングリの公園に変身していました。あのころからドングリは落ちていましたが今はキノコの姿は見えない代わりに多量のドングリが落ちていました。チョット集めるだけですぐに写真のように数分で集めることが出来ます。
今までに同じ公園のキノコで5つも記事を掲載させてもらいました。
記事です。→ポチッ1 ポチッ2 ポチッ3 ポチッ4 ポチッ5
違う種類の木ではまだ緑のドングリが木にたわわに付いていました。これから落ちてくるのだと思います。
ドングリを少し拡大してみました。この中で紹介しているドングリは生では食べれませんがブナ科クリ亜科シイ族は生食べれます。日本ではツブラジイとスダジイの2種だけでシイの名前がついていても別の族だそうです。この2種の殻斗(お皿)は3~5つに割れているのですぐに判ると思ったけれど、調べるとブナとイヌブナも4っに分かれているのでよく見分ける必要がありそうです。
木の枝で色づき始めた団栗も見つけました。殻斗(お皿)がきれいです。
三猿 見猿・言わ猿・聞か猿 日光東照宮 [日光]
日光三彫刻の一つである「眠り猫」を紹介したら、やっぱり次は「三猿」の紹介をしたくなります。「三猿」と言えば上の写真の「見ざる・言わざる・聞かざる」です。
三猿である「見ざる・聞かざる・言わざる」の起源は未だ解明されていないそうです。よく似た表現は古来世界各地にあり、同様の像も古くから存在するからだそうです。しかし明治時代に日光東照宮の三猿が海外にも紹介されれて日光東照宮の三猿「見ざる・聞かざる・言わざる」が世界的に最も有名な三猿の一つとなったそうです。
三猿(さんざる、さんえん)の部分を拡大した写真も掲載いたします。
「眠り猫」と同じく左甚五郎の作ではないかとの記述が見受けられますが、想像の域であり公においては東照宮では「眠り猫」だけが左甚五郎作となっています。日光三彫刻とは「想像の象」と「三猿」と「眠り猫」です。
論語の「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったといわれています。いつしか語呂合わせ(ざる=猿)から猿と結びついたのでしょう。日本で三猿「見ざる、聞かざる、言わざる」の彫り物として有名なのが庚申塔です。その庚申塔で現存する中で三猿が彫られた最も古い庚申塔は寛永17年(1640年)なので、日光の神厩の三猿の方が5年ほど古いことになります。ただし、確定していませんが伊勢市辻久留で永享12年(1440年)と推定される三猿庚申塔があります。
参考に私の家の近所にある庚申塔の写真を掲載いたします。庚申塔の青面金剛と猿の関係はインドに起源があるそうです。
三猿は表門を入ってすぐ左にある神厩舎(神厩)の壁に飾ってある彫り物の一つです。神厩の通路側正面に5構図があり、右側(建物としての正面?)に3構図があり、合わせて8構図の中の一つの構図に過ぎません。
神厩は寛永12年(1635年)に建てられたもので、桁行3間、梁間5間、切妻、銅瓦葺き、妻入りの建物です。東照宮境内の中で唯一の白木造りで、当初は初代将軍徳川家康が関ヶ原の合戦の折乗馬していた馬が神馬とされていたそうです。長押上には猿が馬の守り神であるという信仰から猿の彫刻が8面の構図で彫り込まれているわけです。その8面の構図によって、子育てから恋愛、結婚、妊娠と人間の一生が風刺されているそうです。
こちらが通路側正面で5面の猿の彫刻が確認できると思います。左から2面目が「見ざる・言わざる・聞かざる」を模った三猿です。子供の教育とは「悪い事を見たり・言ったり・聞いたりしないように育てなさい。」という教育を論じていると言われています。左から順番に(1)~(5)で、右側に回って(6)~(8)と飾られているのです。妊娠し、そしてまた子供が産まれれば、また最初の彫刻に戻るわけです。こうやって人生がくり返されていくことを猿の彫刻で表しているような気がします。通路側正面は左から(1) (2) (3) (4) (5)です。クリックすると拡大するのでわかりやすいと思います。(6)~(8)の構図があることは写真を撮った時は知らなかったことから(6)~(8)がある面の写真は残念ながら撮りませんでした。
(1) 母猿と子猿
(2) 悪いことを見猿・言わ猿・聞か猿
(3) 一人立ち直前の猿
(4) 大志を抱いて天を仰ぐ猿
(5) 迷い悩む仲間を励ます猿
(6) 恋に悩む猿
(7) 結婚した夫婦の猿
(8) 妊娠した母猿
「見猿・言わ猿・聞か猿」以外の構図も紹介いたします。
こちらは(3)の「一人立ち直前の猿」です。
そして、こちらが(4)の「大志を抱いて天を仰ぐ猿」です。
(1)と(5)も紹介します。3匹の猿が出てくる構図は(2)と(5)の2枚だけです。
(1) 母猿と子猿 (5) 迷い悩む仲間を励ます猿
(6)~(8)があることを知らなかって写真を撮りませんでした。そこでネットの写真を転用させていただき、紹介いたします。
(6) 恋に悩む猿 (7) 結婚した夫婦の猿 (8) 妊娠した母猿
生エノキのサラダ [話題]
アメリカで生エノキの入った料理を食べたことを先日報告させてもらいました。
記事はこれです。→ポチッ
それ以来、生エノキのサラダを作ってもらいたかったのですが、ついに実現できました。ワサビ菜とエノキのサラダです。ドレシングの種類はいろいろ迷いましたが、市販のしょうゆ味の和風ドレッシングを選びました。ドレッシングの中のオリーブとレッドピメントがアクセントになっています。食べてみてみると意外と生エノキはサラダに合うことがわかりました。よく混ぜて食べるといいですね。今回は一種類の野菜と混ぜましたが、沢山の種類の野菜と混ぜるときれいなような気がします。
エノキ自身には味や香りは少ないのでサラダに使うエノキは意外性と飾りとしての食材として使われると良いと思いました。今回の経験から他のキノコも生でサラダに使えそうです。香りが高くて歯ごたえのあるキノコをスライスして使うとよさそうな気がしました。究極のキノコはトリフだと思います。トリフはさすがに高いので、小さくて安い外国産の松茸なども豪華な雰囲気になって、いいのかもしれません。今年の秋にチャレンジです。
この日はタラ鍋をするつもりでしたがタラ鍋とサラダは似合わないと思い、この日のテレビ東京の男子ごはんでやっていたタラ丼を作ってもらいました。前日が「アンコウ鍋」だったのでドンブリも良かったです。
サラダはドレッシングをかける前です。クリックすると雰囲気がわかると思います。
これが作ったタラ丼です。
ネットで書かれていたタラ丼(2人分)レシピは次の通りです。
生タラ(無塩)2切れと長ネギを1/2本用意します。
1、長ネギは5cm長さに切る。ポイントは「長ネギを一緒に揚げることで、ネギの風味が油に溶けて美味しく仕上がる」ことだそうです。
2、タラは水気を拭いて骨があれば取り除き、一口大に切る。ボウルに、おろしし
ょうがの絞り汁1片分、しょうゆ・みりんを各小さじ1/2とタラを入れて手で混
ぜる。 さらに片栗粉・大さじ2を加えてザッと混ぜる。
3、フライパンに揚げ油を深さ1~2mm入れて中温に熱する。2、長ネギを入れ
て中火で揚げる。長ネギは揚げ色がついたら取り出す。タラはまわりが固ま
ってきたらたまに返しながらきつね色に揚げて取り出す。
4、水を大さじ2、しょうゆ・味噌・みりんを各小さじ2、砂糖・ごま油を各小さじ1
を小鍋に合わせてひと煮立ちさせる。3を加えてからめる。
5、器にご飯を盛って4を煮汁ごとのせ、白炒りごまを振り、しば漬けを添える。
が表示された写真はクリックすると拡大します。
ちょっと変わった日本食が一番人気 [ケンタッキー]
高級なレストランのディナーを食べた同じ日の昼食に変わった日本食をたべました。日本食店ではなくてアメリカンレストランの日本食です。
ツナ(まぐろ)のたたきです。ソースは醤油の方が!!! 醤油、持ってくればよかった。でも、わさびマヨネーズのようなソースで食べるマグロのタタキは意外と美味しかったです。
注文してくれたのはアメリカの人でした。
まぐろの下にエノキ(生)、鮪の左にあるのがお寿司に付いてくるガリ! そして、まぐろやエノキに隠れて見えないのが残念ですが一番下に焼きソバでした。アメリカ人の創作日本食かな?
ちゃんと箸もついています。クリックするとわかりやすくなると思います。
実は、この料理がお店で一番人気の料理だったのです。 カロリーを気にしている人が増えているのも関係しているのかもしれません。
こうやって、世界で鮪ファンが、増えていくのでしょうね。
早朝の千本松牧場 [那須・塩原]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
右の写真はすでに紹介した那須で泊まったロッジですが、近くに千本松牧場があるとのことなので早朝に散歩に出かけました。牧場に行くと途中で日が昇り始めました。時間は6時1分でした。
杉林の中を木が張られた遊歩道が続いていました。ここには遊歩道と自転車道路と車道が完全に分けられて整備されていました。
千本松牧場に着いたのは6時7分でした。ロッジを出発したのが5時51分でした。後で地図を見て分かったことですが遠回りして歩いたようでした。
千本松牧場は1902年に松方正義が那須開墾社から土地を譲り受けて始めたそうです。那須地方において、大型機械を投入する欧米式の農場経営の先駆的存在となりました。牧場の名前の由来は、当時、周囲に多数自生していたアカマツ林から採られたそうです。その後、1928年に蓬莱殖産株式会社(現:ホウライ株式会社)に移管されたそうです。1980年代以降、東北自動車道が延伸を続ける西那須野塩原インターチェンジの直近という立地条件から、観光業にもシフトし、体験型農業施設やジンギスカンなどを中心とした飲食、酪農、農産物などの物販のほか、遊具などを置いて高い集客を見せているそうです。2000年代においても牧場としての事業は継続中で200haを超える牧草地と500頭を超える乳牛がおり、日産8tの生乳を生産しているそうです。
前日に車で近くを通った時は沢山の牛が放牧されていましたが、夜には左の方に見える建物の屋内に入るようで、牧草地には牛はいませんでした。おそらく朝に建物の中で搾乳をするのではないかと思います。
上の写真の中央付近の山に朝日があたってきれいな景色を見せてくれていてので少し拡大いたしました。
さらに拡大した写真を2枚紹介します。クリックするとさらに拡大します。牛さんはいませんでしたが幻想的な景色に出会えました。
こちらの景色も幻想的です。
牛さんを見つけました。屋根の下に10頭程度の牛が座っていました。こちらで寝ていたのだと思います。
牛さんに近い道からの景色です。右側に牛さんがいます。
牛さんをアップで撮らせてもらいました。 散歩から戻ったのは6時25分でした。
千本松牧場で牛さん寝ていた場所が緑色マークです。赤色マークが泊まったロッジで、黄色のラインが散歩のルートです。青色マークが夕食を食べた「もみじ亭」で、空色マークがお風呂に入った千本松温泉です。全畜連研修牧場も近くにあるようでした。
より大きな地図で 千本松牧場 を表示
牛さんが寝ていた場所を拡大してみました。記念撮影の風景 [山西省]
あんず売りのおばちゃん [山西省]
山西省の晋祠という場所では杏を売りに来ている人が沢山おられました。
値段は2kgが10元(166円)でした。 10元で売るものは多いです。北京でも規格外と思いますが立派なさくらんぼを2kg10元で売っていました。
撮影専門のお馬さん [山西省]
中国の観光地では良く見かける光景です。馬に乗って記念撮影をするのです。
でも今回は驚いたことがありました。この馬さんが杭の周りをぐるぐる歩いているところを撮ろうとカメラを構えると丁度正面で立ち止まってポーズをとってくれたのでした。さすがにプロのお馬さんです。写真を撮るのが判っているようでした。可愛らしいお馬さんでした。
場所は山西省の晋祠でした。
公園の演奏会 [山西省]
すでに晋祠のことは紹介いたしましたが、駐車場から晋祠までは大きな公園を通っていきます。その時に撮った写真です。その公園で年配の人たちが中心の演奏会が行われていました。趣味の会といったところでしょうか? 我々が晋祠から帰って来るときも演奏されていたので少なくとも2時間以上演奏し続けていました。もしかしたら一日中演奏をしていたのかも知れません。場所は中国の山西省です。
演奏と同時に歌も唄われていました。
眠り猫 日光東照宮 [日光]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
日光三彫刻の言われているのが「想像の象」と「三猿」と「眠り猫」です。その中で最も有名なのが「眠り猫」ではないでしょうか。最近は「三猿」も人気があるようですが、「眠り猫」は小さな彫り物だけに格別なものがあります。
その「眠り猫」は奥社(奥宮)への参道の坂下門の手前の東回廊の入口部分の軒下の正面にあります。奥社(奥宮)にお参りする人は必ず、「眠り猫」の真下をくぐるのです。
日光東照宮には多様な動物を見ることができます。これらの動物のほとんどは平和を象徴するものとして描かれているそうです。
奥社入口を護る「眠り猫」は、前足をしっかりと踏ん張っている事から、徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているとも言われていますが、一方で「猫も寝るほどの平和」であることを表しているとも言われています。
この「眠り猫」は左甚五郎の作と伝えられています。左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人ですが、実在の有無も含めて謎の多い彫刻士で、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞であった説もあります。
上の写真はクリックすると拡大いたしますがクリックの面倒なん方のために拡大写真を掲載いたしました。本写真もクリックするとさらに拡大いたします。
「眠り猫」は小さな彫り物であることが、この写真でわかってもらえると思います。
奥社の参道側(坂下門側)から眠り猫の裏側を撮りました。写真を撮っている方が沢山おられることが判ると思います。皆さん「眠り猫」を撮っているのです。向こう側に「眠り猫」が飾られているのです。「眠り猫」の反対側、つまり手前側には2羽の雀(すずめ)が彫られています。
こちらが「眠り猫」の真裏の雀の彫刻です。雀がいても「猫も寝るほどの平和」であるとの解釈となっている彫り物です。猫が起きていれば雀は食べられてしまいますが、東照宮では猫も居眠りして雀と共存共栄していることが戦乱が終わり平和な時代がやってきたことを表しているという解釈となっているのです。
「眠り猫」と「すずめ」を近いサイズで並べてみました。「すずめ」の方は牡丹の透かし彫りが周囲にありますが「眠り猫」にはありません。真裏と言っても離れているようです。さらに寸法比率も違うようです。両方をクリックして、両方の拡大写真を比べるとわかりやすいと思います。
検索「眠り猫 日光東照宮」→ 1ケ月 3ケ月 6ケ月 1年 すべて
「の」 [山西省]
お得な食事付のロッジ [那須・塩原]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
那須塩原にある右の写真のゴルフ場に2013年10月21日に行ったことはすでに紹介した通りですが、家から遠いこともあり前日の10月20日から一泊で行きました。宿泊はゴルフ場と同じ経営系列にある上の写真のロッジに泊まりました。この建物には6部屋ありその建物が5棟で構成されていました。上の建物で6部屋なので1部屋が広いことが判ってもらえると思います。
赤色マークの建物が我々が泊まった棟です。青色マークは食事をした「もみじ亭」です。近くには千本松温泉や千本松牧場があり、グルフ場も含めて同じ経営系列の大きな敷地の中にありました。すぐ横のグリル&カフェ「ミレピーニランチョ」でもコース料理が食べれるのですが、我々は和食の「もみじ亭」にいたしました。
より大きな地図で 千本松牧場 を表示
牛乳とヨーグルトが受付でもらえました。千本松牧場の牛乳とヨーグルトです。こちらが食事をした「もみじ亭」です。コース料理と露天風呂がある千本松温泉の入浴料(600円)も含んで5800円で泊まれるパック方式でした。こちらは幟が沢山あるように手打ち蕎麦を売りにしていました。
それでは5800円の宿泊代に含まれるコース料理を紹介いたします。先ずは4品が出されました。食事は含まれていますがアルコール類の飲み物は別料金でした。先ずはビールで翌日の健闘を願って乾杯でした。この時17時40分でした。
次にサラダが大皿で出されました。これだけは4人共通ですが、それ以外は一品づつ各自に出されました。サラダで5品目になります。
6品目の煮物が出されました。
今回は和食なので、お酒も飲みたくなりました。
7品目は鮭の西京漬けでした。
8品目は和牛のステーキでした。この時19時14分でした。食事の進み具合に合わせて料理をしてもらえました。
そして〆は2種類でした。の最初はキノコごはんでした。
もう一つの〆は、やっぱり自慢の手打ち蕎麦が出されました。
デザートは千本松牧場の自慢のアイスクリームでした。17時30分に食事を初めて、もみじ亭を離れたのは20時でした。ゆっくりと食事を楽しむことが出来ました。
もちろん部屋にも浴室はありますが、歩いて5分のところにある千本松温泉があります。露天風呂の温泉なので夕食前に入りに行きました。すでに紹介の通りに宿泊客は無料で入れるのです。看板にあるように「源泉かけ流し」の天然温泉です。
こちらが千本松温泉です。
右の写真はネットから拝借いたしました。
泉質 ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉
アルカリ性低張性高温泉
種類 源泉かけ流し
営業 10:00~24:00 平日は12:00から
料金 大人 600円 小学生 200円
定休 無休
下記の地図でエンジ色(臙脂色)マークが今回紹介のゴルフ場や宿泊設備のあった場所です。数値は標高を示しています。着色されたゴルフ場名をクリックすると記事を表示します。
黄色 ボナリ高原ゴルフクラブ 850m
臙脂 西那須野カントリー倶楽部 480m
緑色 水上高原ゴルフコース 1000m (ホテル 965m)
空色 丘の公園清里ゴルフコース 1160m
青色 六甲国際ゴルフ倶楽部 250m
赤色 函館パークカントリークラブ 140m
紫色 冨里グルフ倶楽部 50m
より大きな地図で ゴルフ場 を表示
山西省はお酢の名産地 [山西省]
ここの記事の写真はすべて太原空港の土産物売り場で撮ったものです。山西省はお酢が有名です。生産量も中国一と言われています。特に清除県は有名だそうです。日本のサイトで「清除県」と検索すると沢山表示されました。⇒ポチッ
地図を見ると太原市の中に清除県があります。「県」と言っても日本の「県」とは違いますね。お酢の名前になっている寧化府も地名なんです。会社の住所は太原市寧化府60号と書かれていました。清除県は太原から平遥古城に行く途中にあります。と言うか平遥古城にすごく近いところです。写真の箱にも老陳酢の文字が読み取れます。ネット検索では老陳酢は35,000件も出てきます。
空港の土産物屋さんにはお酢が沢山売られていました。山西省の太原空港から北京空港に飛んだときは北京空港の荷物のターンテーブルに、お酢が沢山廻っていました。皆さん、すごい量を買い込んでいたと言うことですね。上のは1450ccのお酢が3~4本入っています。私は1450ccを一本買いました。10元(166円)でした。液体の機内持ち込みが出来なくなったので日本まで持ち帰るのが大変でした。2重にビニール袋で包んでスーツケースに入れました。もし漏れたら、たぶん衣類が使えなくなってしまいます。
降脂酢や降糖酢や保険酢の文字が目を引きます。「脂肪を下げる酢」「健康酢」と言ったところでしょう。お酢の名前は「寧化府」と書かれています。検索しても日本語では出てきません。会社名は太原市寧化府益源慶酢業有限公司と書いてありました。創業1377年の文字が読み取れます。パッケージに書かれている益源慶の文字はネットでも出てきました。
日本のお酢の原料はお米ですが中国の高級なお酢の原料は高粱(こうりゃん)と言う穀物だそうです。イネ科モロコシ族で学名は Sorghum nervosum⇒ポチッ
高級なお酒の芽台(マオタイ)酒の原料も高粱と書かれていました。右の高粱の写真はネットから拝借いたしました。
こちらの酢は少し高級品です。
この中央の酢は高いですね。値札は428元(7100円)が付いています。量は2480mlです。でも右側は小さい(500ml)のに120元(1990円)なので、これが一番高いかも知れません。普貴酢が高級ブランドのようです。
奥日光 湯ノ湖 [日光]
紹介した右の写真の湯滝が流れ落ちているのが上の写真の湯ノ湖です。湯ノ湖(ゆのこ)は北東にある三岳火山の噴火によってつくられた堰止湖です。湯滝の脇の散策路を登って湯ノ湖にたどり着いて写真を撮ったので紹介いたします。湖畔には日光湯元温泉があり、日光白根山からの水と温泉からのお湯が流れ込んでいることから湯ノ湖の名前が付けられたのではないでしょうか。
湯ノ湖 中禅寺湖
面積 0.32 k㎡ 11.62 k㎡
周囲長 2.8 km 25 km
最大水深 12 m 163 m
水面の標高 1475 m 1269 m
湯ノ湖の周囲には散策路があり、約1時間で1周できるそうです。
周囲の散策路を歩きながら湯ノ湖の景色を紹介いたします。紅葉が混じった秋らしい景色です。湯滝の落ち口に近いあたりからの景色です。
上の写真の中央部分を拡大いたします。クリックするとさらに拡大します。
さらに進んだ散策路です。
倒木や周囲の木々が趣を増してくれていました。温泉が流れ込んでいて通常よりは水は温かいようですが標高が1475mあることから冬には全面結氷する事もあるそうです。
鵜(う)が羽を休めている光景にも出会いました。
少し違った角度の景色です。
湯ノ湖から流れ出る湯川には木製の橋が架かっていました。
橋の下の水は湯滝の落ち口へ流れて行きます。
この先に滝への落ち口があります。
湯滝の下から見た落ち口です。
航空写真で湯ノ湖を紹介します。湯ノ湖の北側には沢山の温泉宿を見ることが出来ます。緑色マークが湯滝の落ち口(銚子口/滝口)の位置です。
より大きな地図で 湯ノ湖 を表示
これはなんでしょう。 [むさし]
これは「ワンコの扉開け防止」です。
右の動画のように、わが家のワンコは、扉を押す側も、引く側も開けることが出来るのですがスライト式の扉は開けることが出来ませんでした。ところが、ついに2013年9月29日にキッチンのスライド式の扉を開ける技を覚えてしまいました。
それ以来、扉には重りを置いていたのですが、置くことを忘れることもあり、キッチンの中を荒らされる被害がありました。そこで2013年11月21日に扉の一番上に磁石を取り付けてみました。これで当分は様子を見てみます。上の写真はキッチン側からリビングの方向を撮ったものです。磁石の商品名はマグネットキャッチです。ホームセンターのジョイフル本田で買ってきて取り付けました。値段は94円でした。
押したり引いたりする扉の部屋(10ケ所)で、入られてはまずいところの2ケ所には現在も、重りを使っています。
前回の関連記事です。 → ポチッ
これが今までの重りです。2個重りを置いても1個は移動していることもありました。
こちらが、我が家のワンコです。
スライド式ドアに関して2013年12月8日時点で15勝1敗というところです。一度だけ開けられてしまいました。
2014年1月9日追伸 タイトル:マグネットキャッチを追加しました。
2013年11月21日にキッチンのスライド式の扉をワンコに開けられないようにマグネットキャッチを取り付けて、最初は絶大な効果がありましたが、1.5ケ月が経過した結果、最近はワンコのテクニックが上ってきたことから、簡単に開けられてしまうようになりました。そこで2014年1月8日にマグネットキャッチを2つにいたしました。これはかなり重いので期待しています。結果は定期的に報告いたします。
マグネットキャッチを2つにして2ケ月が経過した2014年3月10日の時点で、まだ開けられたことはありません。マグネットキャッチ2つはかなり強力で我々でも開けるのに力が要ります。
洞穴の住宅 窰洞(やおとん) [山西省]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
山西省は黄土で粘り強い土なので洞穴を掘っても崩れないそうです。そのため沢山の洞穴の住宅があるそうです。場所は王家大院のあった中国山西省霊石県静升鎮という町です。王家大院とはあまりにも対照的な光景なので驚きました。この洞穴の住居のことを窰洞(やおとん)と言います。
驚くことに「山西省霊石県静升鎮」でネット検索すると洞穴住宅とは関係ありませんがヒットしました。⇒ポチッ ポチッ
夏は涼しく、冬は暖かいので今でも使われているそうです。三つの入口の組み合わせが多いようです。
入口はレンガで固めているのが普通ですが、洞穴のままで利用されているものもありました。
典型的な洞穴住宅と普通の住宅が組み合わさった四合院のようです。中庭を中心に家族が暮らしているのだと思います。貴重な写真かもしれません。河南省でも高速道路から洞穴を見かけました。
なんと、陽明門は補修工事中でした。 日光東照宮 [日光]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2013年10月28日に日光東照宮に行きました。ところが東照宮で最も有名な陽明門が補修工事で上の写真のように見ることが出来なかったのです。私は東照宮は3度目でしたが、家内は初めてだったので、ちょっと残念がっていました。
それも工事が今年(2013年)の7月15日に始まった表示を見てなおさら、がっかりでした。今までに、いくらでも来る機会があったのに、よりにもよって補修工事が始まった年に来てしまったのでした。補修工事が終わるのは6年後の2019年3月31日と記載されていました。つまり東京オリンピック開催の前年に完成することになります。
名称 国宝 東照宮 陽明門 保存修理工事
工事期間 着手 平成25年7月16日 (2013年)
完了 平成31年3月31日 (2019年)
事業主 東照宮
修理指導 文化庁文化財部参事官建造物担当
設計管理 公益財団法人 日光社寺文化財保存会
こちらが内側から見た陽明門です。陽明門の名称は、宮中(京都御所)の十二門の東の正門が陽明門で、その名をいただいたと伝えられています。
初めての方もおられるかもしれないので2008年11月14日に撮った陽明門の写真を掲載します。クリックすると拡大するのでじっくりと見てください。
確かに痛んでいました。前回の根本修理工事から40年が経過したそうです。補修内容は外部廻りの漆塗・彩色・錺金具の更新を主に行なうそうです。調査を行ないながらの工事で、必要があれば部分的な木部解体修理も行なうそうです。
陽明門の通路の間天井には狩野探幽により昇竜(のぼりりゅう)と降竜(くだりりゅう)が描かれています。 昇竜は別名「八方にらみの竜」、降竜は「四方にらみの竜」とも呼ばれています。この昇竜と降竜はみることが出来ました。
こちらの写真には天井の絵が見えると思います。天井の絵の部分を露出調整して右に掲載いたしました。竜かどうかは判別は難しいです。話は変わりますが、12本の白い柱うち渦巻き文様の向きが逆になっている逆柱(さかさばしら)が1本があります。この理由は「完成された建物は、いずれは崩壊する。正に完成した瞬間から崩壊が始まる。」という言われており未完成な状態であることを表しているそうです。場所は背面の右から2本目で残念ながら写真には写っておりません。これと同じ逆柱が、本社の拝殿と本殿に1本ずつあるそうです。同様な理由で一か所だけ仕様が異なる例は下記の通りです。
・五重塔の1~4層が平行垂木で5層が放射状垂木となっている。
・御水屋の西角だけが切り落とされた形になっている。
・陽明門の左右の回廊の透かし彫りで右端の一つだけ小さい。
・陽明門と拝殿と本殿の逆柱
陽明門に据えられていた隋身像(神域を守る像)などが取り外されて展示されており間近で見ることが出来ました。
こちらは陽明門に飾られていた2体の狛犬です。隋身像とは反対の陽明門の内側に置かれていましたものです。
それでは、気を取り直して陽明門以外を紹介いたします。ここでは陽明門の周辺を中心に掲載させていただきます。陽明門から外側を見た景色です。冒頭の写真は鳥居の辺りから撮りました。この鳥居は日本で最初に青銅製で造られた鳥居です。3代将軍家光公が金2000両を費やして建ててました。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮の花弁が刻まれています。
補修中の陽明門から本殿側を見た光景です。
陽明門の左右には廻廊が延びています。こちらは陽明門の右側の回廊です。
いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされていました。
右側の端まで行くことはないので端の写真を撮ってきました。上でも紹介したように未完成にするために右端の透かし彫りの一つだけが小さいのです。
上の写真ではわかりにくいので、小さな透かし彫りの部分を拡大いたしました。この写真は杉の大木にピントが合った上の写真から切り取ったものなので、透かし彫りの部分は不鮮明となっていますが、なんとか雰囲気は判ってもらえると思います。
右端から陽明門のほうを撮った写真です。
灯籠も趣があります。東照宮には燈籠が121基あるそうですが、いろんな人が寄進していることから素材もいろんな灯籠がありました。
陽明門の内側には東福門院(秀忠の娘、後水尾天皇の中宮)のみで、それより12段下がった位置に譜代大名、さらに21段下がったところに外様大名が寄進した燈籠が安置されているそうです。その中でも伊達政宗が寄進した南蛮鉄燈籠はポルトガルからの輸入鉄で造られたものとして有名です。南蛮鉄燈籠は領内の租税3年分の費用をかけて作ったと伝えられています。
こちらは陽明門の左側の灯篭です。奥の建物は鳴竜で有名な薬師堂です。鼓楼も趣がありました。
鼓楼の前の「廻り燈篭」又は「回転燈籠」です。昔はこの近くに「釣燈籠」があったようですが、この時はありませんでした。
鐘楼のそばに立つスタンド型の蓮燈籠です。回転燈籠、釣燈籠、蓮燈籠はオランダから贈られたのようです。
手前が鼓楼で奥に見えるのが鐘楼です。
言葉の通り鐘楼は釣鐘を、鼓楼は太鼓を納める建物でする。陽明門の前に左右対称に配置されています。建物の規模や構造など基本的な形式は同じですが、細部の飾り付けは違います。たとえば彫刻の種類と数です。鐘楼には鶴・竜・飛竜・麒麟・波など合計78体に対し、鼓楼には亀・竜・雲など38体です。見た目も鐘楼のほうが豪華です。鐘楼の前にも鐘が吊り下げられた小さな建物(蓮燈籠)が見えます。
陽明門の左側の廻廊です。左側の建物が鳴竜の薬師堂です。薬師堂の内部では撮影並びに録音は禁止されているので鳴竜の画像をネットから拝借いたしました。右の写真が薬師堂の天井に描かれている鳴竜です。
竜の頭の下で拍子木を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえることで有名です。もとの絵は狩野永真安信によるものですが、堂とともに焼失したため堅山南風により復元されました。
左側の廻廊の透かし彫りも灯篭も趣がありました。
御水舎も東照宮らしい色彩で豪華でした。御手洗・手水所といいます。
御水舎は参拝者が手と口を清める場所で、今ではどの神社にも水盤を置いた施設があります。しかし、かつては自然の川や湧き水の場がそれとされ、境内に独立した建物を構えたのは東照宮の御水舎が最初といわれています。
幅1.2m、長さ2.6m、高さ1mの花崗岩の水盤は、九州の鍋島藩主が元和4年(1618年)に奉納したものです。くり抜いた15cmの穴から、サイフォンの原理で水が噴き上がる仕組みになっているそうです。
屋根の下には、逆巻く波と飛竜の彫刻があります。飛竜は翼のある竜で、水をつかさどる霊獣とされています。西側の屋根の角が切り落とされているのは魔除け説のほか、杉の成長を邪魔しないためという説もあります。
入場券売り場では「陽明門は工事中ですがよろしいでしょうか。」と聞かれますが、「それでは入るのをやめます。」というわけにいかないので拝観料1300円×2枚=2600円を払って入りました。
大人 1300円
小・中学生 450円
世界遺産・日光の社寺 東照宮など [日光]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
先日の2013年10月28日に日光の東照宮に行きました。その時の記事を掲載するつもりですが、その前に2008年11月14日に訪問した時の東照宮の写真を紹介いたします。その理由は2013年10月28日訪問時の記事を書いた時に説明いたします。
日光の東照宮は1999年12月2日で開催されたユネスコ世界遺産委員会で文化遺産として登録されました。登録名は「日光の社寺」です。
世界遺産に登録されたのは東照宮だけでなく日光二社一寺と呼ばれている地域で下記で構成されています。
日光東照宮 (正式名:東照宮)
日光二荒山神社(正式名:二荒山神社)
日光山輪王寺
103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されているそうです。
今回は東照宮を中心に見学したため二荒山神社と日光山輪王寺の写真は少なくなってますが、もう一度行き、時間を取ってじっくり回ってみる価値があると感じました。
先ずは東照宮から紹介いたします。入口の金色の葵の御紋が印象的です。これは東照宮の入口の石鳥居(いしどりい 重文)です。
ご鎮座翌年の元和4年(1618)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納されました。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力でこの日光まで運ばれたそうです。鳥居の奥に表門(おもてもん 重文)が見えます。
石鳥居をくぐると左側に五重塔(ごじゅうのとう 重文) が建っています。
慶安3年(1648)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されたそうです。文化12年火災にあいましたが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建たそうです。
入口側から紹介いたします。表門をくぐると三神庫(さんじんこ 重文)があります。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収いるそうです。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされています。
三神庫と同じ広場にある輪蔵(経蔵)です。
2層屋根で建物の形が12m四方の正方形をしているので、重層方形造りというそうです。仏教の経典を納める経蔵ですが、建物の真ん中に一切経1456部、6325巻を納めた8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついたそうです。
階段の上の陽明門の手前の豪華な建物は左側が鼓楼で右側が鐘楼です。 写真をクリックすると日本で最初に造られた青銅製の高さ6メートルの唐銅鳥居を見ることが出来ます。この鳥居は3代将軍家光公が金2000両を費やして建てた。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮-はす-の花弁が刻まれています。
これが左側の鼓楼です。陽明門の前に並ぶ高さ12.6mの太鼓を納める建物・鼓楼です。どの建物を見ても絢爛豪華なのが驚きでした。
神様にお参りする前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清める為の御水舎(おみずや 重文)でさえも絢爛豪華なのでした。
東照宮で最も有名な建物なのが陽明門(ようめいもん 国宝)です。
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。
高さ11.1mの2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4m。胡粉を塗った12本の柱には、グリ紋と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られています。有名な「魔除けの逆柱」は、門を潜り終わる左側の柱。グリ紋の向きがこの柱だけ上下逆になっています。
御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門、装飾彫刻が500余りもあり1日中見て居ても決して飽きないというところから、日暮門ともいわれています。また陽明門より奥は明治維新まで庶民は入ることができませんでした。
陽明門は2体の武将像で守っています。右側の武将像です。名前は謎です。
こちらは左側の武将像です。
廻廊(かいろう 国宝)です。
陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされていました。こちらは右側の廻廊です。
左側の廻廊も紹介いたします。もちろん、こちらも国宝です。装飾彫刻が隙間もないほどに埋め尽くしていました。奥の建物は鳴き竜で有名な本地堂です。
石灯篭 廻廊 陽明門などが入った風景です。鳴き竜(写真禁止)の本地堂の方から撮りました。
陽明門は豪華ですが思っていた以上に小さな門でした。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている唐門(からもん 国宝)もこの広場にありましたが残念ながら補修中でした。
陽明門の内側には本殿・石の間・拝殿からなる御本社(ごほんしゃ 国宝)や祈祷殿(きとうでん重文)や神輿舎(しんよしゃ 重文)があります。 写真の神輿舎には春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿(みこし)が納められていました。中央の神輿が家康公、右側が秀吉公、左側が頼朝卿でありいずれも重さ1120㎏あるそうです。
天上の絵が少し写っていますが狩野了琢の筆による天女舞楽の図だそうです。
拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のお墓所である奥宮(おくみや 重文)に通じる坂下門には有名な眠り猫(ねむりねこ 国宝)が掘られていました。眠り猫が国宝に指定されているのは東照宮で唯一の左甚五郎作と伝えられているためだそうです。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。眠り猫以外では「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿 や眠り猫の裏の雀 などが有名な動物の彫り物です。
奥院廟塔の銅製の鋳抜門(いぬきもん)です。下に門とは雰囲気が違います。クリックすると奥宮の拝殿を表示します。拝殿の裏に鋳抜門と奥院廟塔(御宝塔)があります。
奥院廟塔(御宝塔)です。
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)で死去して、遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山(久能山東照宮)へ葬られたが、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。
最後に東照宮の地図を掲載しておきます。
二荒山神社です。
二荒山神社は(ふたらさんじんじゃ)と読みます。日光にある男体山(二荒山、2486メートル)、峯山(2464メートル)、太郎山(2368メートル)の三つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としているそうです。
日光の名前由来もいろんな説がありますが、その一つが二荒が日光になった説で、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。「二荒(フタラ)→ニコウ(音読)→日光」
ニ荒山神社は大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建てられたのが始まりで東照宮より遥かに古い歴史があります。
左から本殿、 拝殿、社務所です。
ニ荒山神社の横には家光廟大猷院(いえみつびょうだいゆういん)があります。大猷院廟(だいゆういんびょう)ともいわれています。
こちらは東照宮の絢爛豪華に対して幽玄とサビが自然に溶け込む雰囲気です。
日光二社一寺の一寺である日光山輪王寺です。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうです。写真は三仏堂(重要文化財)です。
晩秋の中禅寺湖 [日光]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
先日の2013年10月28日に日帰りで華厳の滝と奥日光と日光東照宮に行ってきました。華厳の滝に着いたのは午前8時だったこともあり、すいていたのですが徐々に渋滞してきたので中禅寺湖は車の中からだけの見学となりました。そこで以前に11月13日~14日に中禅寺湖の湖畔のホテルに泊まったときに14日の朝の散策の写真を紹介します。中禅寺湖あたりはすでに落葉していました。落葉した木も朝日があたたって黄金色に輝いていました。
あまりにもきれいなのでもう一枚掲載いたします。
日の出の中禅寺湖です。上の2枚の写真を含めて時刻は6時42分です。朝早く散歩しているときれいな景色に出会えました。
湖沿いに小さな歩道があり歩いていると13番岬 の看板がありました。標高1271mです。7時4分の景色です。
13番岬があるので12番岬や11番岬があるかと思えましたが、地図 を見るとどうもなさそうです。その代り13番別荘と12番別荘がありました。別荘が先で後から13番岬の名前が付いたのかもしれません。13番岬は釣り の絶好のポイントだそうです。
その遊歩道と中禅寺湖です。朝の散歩は気持ちがいいです。標高1269mにある中禅寺湖は、4平方キロメートル以上の面積をもつ自然湖としては日本で最も高い場所に位置しているそうです。
太陽も少し昇って来ました。時刻は7時12分です。
ホテルの前の朝の中禅寺湖の景色です。
6時57分です。
ほぼ同じ場所からの前日の日没後の景色です。
16時11分でしたがすでに太陽は山の陰に隠れていました。
中禅寺湖温泉あたりから見た湖の景色です。
男体山も見えました。
華厳の滝に流れていく大谷川です。
2013年10月28日の車の中からの中禅寺湖の横を通る道路の写真を追加いたします。中禅寺湖は写っていませんが右側に中禅寺湖があります。
上の11月14日の写真と違い紅葉は見ごろでした。
こちらは中禅寺湖が見える湖畔の写真です。
ロッジ風ホテルに泊まりました。 [日光]
今回ではありませんが、中禅寺湖のほとりに11月13日の晩秋に泊まったことがあります。丁度、今の時期なので紹介いたします。戦場ヶ原から中禅寺湖に下りて来て泊まったホテルです。観光に行ったとき、その町のホテルも楽しみの一つですね。この時に日光で泊まったホテルは、今まで泊まったことのない雰囲気のホテルでしたので紹介させてください。標高1271mの中禅寺湖の湖畔に中禅寺湖温泉街からは離れた、ひっそりと佇んでいるホテルでした。
見ての通り3階建で、木のバルコニーがあるロッジ風の外観が印象的でした。夕日に輝く木のホテルは特にきれいでした。
ホテルは中禅寺金谷ホテルで泊まったのは2階でした。鍵もカード式ではないところがいいですね。
その2階のバルコニーから横のバルコニーを撮りました。別荘をイメージしたホテルと言えるかもしれません。
部屋は全て中禅寺湖に面しておりミズナラの木々の合間から、夕日が沈む瞬間も見ることが出来ました。
夜にはロビーの暖炉に火が入れられました。写真は到着時に撮ったものです。
暖炉の前はゆっくりと寛げる雰囲気にソファーが並べられていました。
中禅寺湖側からみたホテルですが木々に囲まれていて、車で通っていると気がつかない人も多いと思います。
中禅寺湖とは反対側が広いスペースになっており駐車場や玄関も、そちら側にありました。
こちらが露天風呂です。右の露天風呂の写真はネットから拝借しました。露天風呂の写真をクリックすると拡大します。渡り廊下で連絡する別棟(下の写真)で露天風呂の温泉も楽しめました。真中で仕切られていて向こう側が女湯で手前側が男湯です。冷たい空気が気持ちよかったです。泉質は強い硫黄泉で、内湯・露天風呂ともに循環しない掛け流しで、 皮膚病をはじめ、リウマチ、糖尿病、高血圧症、痛風などに効果があると書かれていました。
写真は朝食の風景です。ホテルの自慢はフランス料理です。
料理に関しては別途紹介させていただきました。→ポチッ
部屋も紹介しておきます。ゆったりとしておりトイレと浴室は部屋の左右に別についた豪華な雰囲気です。これらの扉も全て銘木で出来ておりました。これでも料金が一番安いスタンダードツイン の部屋です。
日光で最も有名なのが日光金谷ホテルですが、そのホテルが経営している中禅寺金谷ホテルが今回宿泊したホテルでした。金谷ホテルには感動的な長い歴史があることをホテルの説明で知ったので紹介しておきます。
江戸が明治にかわると、東照宮の門前町として栄えていた日光にも大きな時代の波が押し寄せてきました。
明治4年(1871年)、当時まだ外国人を泊める施設がなかった日光の町で、宿に困った外国人を全くの善意で自宅に招いた青年がいました。若き日の金谷善一朗です。
良心的な青年の対応にその外国人は「これから涼を求めて多くの外国人が日光を訪れるでしょう。私も友人を連れてくるから宿を生業にしてはどうか」と助言を残してくれました。
その人こそがヘボン式ローマ字を提唱し和英辞典の編纂に尽力したヘボン博士でした。彼との出会いが、ホテル業を始める大きなきっかけとなったのです。
明治6年(1873年)、「カナヤ・カッテージ・イン」として夏の間外国人に自宅を提供するようになり、家族総出でお客様のおもてなしをしました。
善一郎を筆頭に妻と妹が掃除、子供達は鶏の羽むしりなどをしていました。
明治11年(1878年)には、イギリスの旅行家イザベラ・バードがヘボン博士の紹介でカッテージ・インを訪れました。
そして同13年(1880年)イギリスで出版された彼女の著書「日本奥地紀行」の中に滞在中の印象が詳しく紹介されると、金谷の名はヨーロッパにも広まりました。
ヘボン博士による知人への紹介もあり、金谷の名は横花・東京の外国人たちにも口コミにより広まり、イギリスの外交官で、日本研究家としても知られるアーネスト・サトウなどがリピーターとして訪れるようになりました。
明治23年(1890年)、宇都宮-日光間に鉄道が開通すると日光を訪れる外国人の数も増えて、日光市内には外国人向けの大きなホテルがいくつも建つようになりました。
小さな家で経営するカッテージインの経営は苦しいものになってきました。
このホテル競争を生き残るため善一郎は、息子には立教学院で英語の教育を受けさせ、本格的ホテルを建てたいと努力をします。
資金がとぼしかった善一郎は、偶然にも30年ぶりに資産家の旧友との再開、資金の援助を受け、建設途中で嵐の為、損傷したまま放置してあったホテル用建物を取得修復し、「カナヤ・カッテージ・イン」開業から20年目にして念願の「金谷ホテル」を、現在の地で始めることが出来たのです。
以来、135年後の今日に至るまでお客様をお迎えし続けているのです。
我々の泊まった中禅寺金谷ホテルは昭和15年に栃木県営の「日光観光ホテル」として誕生し、その建設・経営を金谷ホテルが委託されたのが始まりで、その後の戦争、進駐軍の保養施設、失火による全焼を経て平成4年に現在の建物での営業が始まったとのことでした。
写真は昭和15年当時の中禅寺金谷ホテルです。
名前 中禅寺金谷ホテル
住所 321-1661 栃木県日光市中宮祠2482番地
電話 0288-51-0001 Fax 0288-51-0011
日光の紅葉 [日光]
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2013年10月28日に日光に行ってきました。奥日光や中禅寺湖の辺り紅葉が進んでいましたが奥日光に比べると標高の低い日光の辺りはまだ先の状態でした。そこで以前に11月13日~14日にかけて日光に行ったときの写真を紹介いたします。その日は快晴で、もみじの紅葉をきれいに見ることが出来ました。このことから日光は今が紅葉を見るのに絶好の時期ではないかと思われます。
特に葉の裏側からはステンドグラスのような美しさがあります。無意識の内に裏側から撮っていました。
裏側からの写真をもう一枚、紹介いたします。
紅葉(もみじ)は光によって見え方が変わってきます。
杉の隙間から見える紅葉(もみじ)も幻想的です。
もみじ葉は真赤に紅葉していました。
この写真は日光の二荒山神社あたり家光廟大猷院の紅葉(もみじ)です。後で紹介する日光山輪王寺と二荒山神社には沢山の紅葉(もみじ)がありました。日光と言えば日光東照宮ですが紅葉(もみじ)の季節には日光山輪王寺と二荒山神社にも必ず訪れてください。
有名な日光東照宮の中は杉の大木に覆われておりモミジはありませんが参道脇はきれいなもみじがありました。
写真を撮っているあたりから上には紅葉はほとんどありませんでした。この参道の左側が日光山輪王寺です。
これは日光東照宮の参道を下から撮ったものです。沢山はありませんが杉の大木の中の紅葉はすばらしいものがあります。
こちらも日光東照宮の参道のもみじです。
日光山輪王寺あたりの紅葉(もみじ)のある景色です。世界遺産の日光山内の社寺は「二社一寺」と言われております。その3つとは日光東照宮、二荒山神社、日光山輪王寺です。3ケ所の紅葉(モミジ)を紹介いたしました。
中善寺温泉あたりの街路樹はモミジでした。
奥日光三名瀑 湯滝 [日光]
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すでに紹介したとおり2013年10月28日に華厳の滝を見に行きました。その時の華厳の滝が右の写真です。華厳の滝は「日本三大瀑布」ですが、さらに「奥日光三名瀑」でもあり、「日光三名瀑」でもあります。華厳の滝を見た後は、この時に紅葉が見れる標高が1400mの奥日光に行きました。そこで見ることが出来たのが、「奥日光三名瀑」の一つである上の写真の湯滝(ゆだき)でした。これで二つの「奥日光三名瀑」を見ることが出来たことになります。
日本三大瀑布 華厳の滝 那智の滝 袋田の滝
奥日光三名瀑 華厳の滝 湯滝 竜頭の滝
日光三名瀑 華厳の滝 霧降の滝 裏見滝
湯滝は右下の写真の湯ノ湖から流れ落ちる滝です。下の写真は湯ノ湖からの落ち口(銚子口/滝口)の部分で、ここから斜めに水が滑り落ちていきます。
右の写真の先が下の写真の落ち口です。
「奥日光三名瀑」以外の呼び方としては「奥日光三大瀑布」などの呼び方もありますが検索件数の結果から「奥日光三名瀑」が妥当なようです。数値はYahooで検索された件数です。日光三名瀑の検索に関しては奥日光三名瀑の検索とダブらないように"奥"の文字を含まない設定で検索しました。
❶ 日本三名瀑 49400
❶ 日本三大瀑布 260000
❶ 日本三大名瀑 248000
② 奥日光三名瀑 97400
② 奥日光三大瀑布 22
② 奥日光三大名瀑 72
❸ 日光三名瀑 26000
❸ 日光三大瀑布 30
❸ 日光三大名瀑 60
湯滝は華厳の滝のように垂直に水が落ちるのではなく傾斜を斜めに落ちていきます。その滝の横を歩いて落ち口(銚子口/滝口)まで登って行けました。落差は50mで幅は25mと目の前で見ることが出来る迫力のある滝でした。
滝の落ち口の標高は1475mであることから、この時は紅葉に関してはベストであったと思います。現在はすべて散ってしまっていると思われます。ここに写っている道を紅葉を見ながら登って、滝の落ち口まで行きました。
紅葉の写真を何枚か、掲載させていただきます。
滝の欲には沢山の紅葉した木がありました。
迫力を感じてもらうために近くからの写真を紹介します。滝の斜面を構成する岸壁は、湯川の流れをせき止めて湯ノ湖を形成した三岳の溶岩だそうです。滝の下段部は左右二股に分かれているのも湯滝の景観の特徴です。
湯ノ湖から流れ落ちる滝なので湯滝と名前が付いたのだと思います。また湯ノ湖の湖畔には日光湯元温泉があり、日光白根山からの水と温泉からのお湯が流れ込んでいることから湯ノ湖の名前が付い多のではないかと思いますが、滝を流れ落ちるのは湯ではなく水です。
湯滝を流れ落ちた水は日本有数の高層湿原「戦場ヶ原」を流れる湯川となり、さらに下って中禅寺湖へ流れていきます。
下流側から湯滝を見た景色です。湯滝の大きさが判ってもらえると思います。
茶店では美味しそうなものが、いろいろと売られていました。ここの見学は駐車料金のみで見ることが出来ます。
緑色マークが、今回紹介の奥日光三名瀑の一つである湯滝です。残りの2つのマークも奥日光三名瀑で、赤色マークが華厳の滝で空色マークが竜頭の滝です。奥日光三名瀑の中で湯滝が最も標高の高い1475m(落ち口)のところにあります。
より大きな地図で 奥日光三名瀑 を表示