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キエフからヘルシンキ ウクライナ国際航空 [機内 CY]

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6月30日~7月14日にカザフスタンとウクライナに行った時の最後の記事です。上の写真はウクライナのキエフ空港で、乗る飛行機を撮ったものです。
ウクライナでは3つの航空会社の飛行機に乗りました。カザフスタンのアルマトイからウクライナのキエフに乗ったのが下記リストの6番目のアエロスヴィット航空(VV)でウクライナ国内移動に使ったのが下記リストの38番目のドニプロアヴィア(Z6)でした。ウクライナの航空会社で最後に乗ったのが帰国のために、キエフからヘルシンキのフライトで使った下記リストの18番目のウクライナ国際航空(PS)でした。ヘルシンキからはフィンエアで成田に向かいました。
下記がウクライナの航空会社ですが、ウクライナは本当に航空会社が多い国でした。多い理由は地域ごとにその中心都市に本拠を構える中小の航空会社が重要な位置を占めている状態だからだそうです。沢山の航空会社があるように見えますが実態は、我々が国際線で乗ったアエロスヴィート航空とウクライナ国際航空が大部分を占めているようです。
  1. AAR航空
  2. アエロチャールテル・エーイルラーインズ
  3. アエロミースト・ハルキウ
  4. アエロセールヴィス・カールゴ
  5. アエロスタール
  6. アエロスヴィット航空
  7. アエロヴィス航空
  8. AGO
  9 エーイル・ボヨーマ
 10. チャイカ
 11. IREN航空
クリックすると拡大 12. ハルキウ航空
 13. キロヴォフラード航空
 14. ARP 410航空
 15. ターヴリヤ
 16. ウクライナ航空
 17. ウクライナ航空貨物
 18. ウクライナ国際航空
 19. ウルハ国際航空株式会社
 20. ANTAU
 21. アントノフ航空
 22. アントノフ貨物
 23. アルテム・アヴィア
 24. AS航空会社
 25. エア・トランス・インテリジェンス
 26. アトラントSV航空
 27. アヴィアーント
 28. アゾフ・アヴィア
 29. アヴィア・タクシー
 30. ブコヴィーナ
 31. ブーソル航空
 32. CABI航空
 33. チャレンジ・アエロ
 34. コルムブス・アヴィア
 35. コンスタンタ・ステイト・エーイルレーインズ
 36. クルィーム国際航空会社
 37. DM国際航空
 38. ドニプロアヴィア
 39. ドネーツィク航空
 40. ドンバスアエロ
 41. ホールリツァ
 42. ホセバSIC
 43. イリイチ・アヴィア
 44. ISDアヴィア
 45. ハルキウ航空会社
 46. ホリウ・アヴィア
 47. ホルス航空会社
 48. インデペンデント・カリエル
 49. KROCN
 50. ルハンスク航空
 51. リヴィウ航空
 52. エーイル・ピーヴァ
 53. モトール・シーチ
 54. オデッサ航空
 55. ポジーリャ・アヴィア
 56. リーヴネ・ウニヴェルサール・アヴィア
 57. セヴァストーポリ・アヴィア
 58. ショウコーヴィイ・シュリャーフ
 59. シリウス航空
 60. 南方航空
 61. UESアヴィア
 62. ウクライナ航空同盟
 63. ウクライナ航空会社
 64. ウクライナ航空安全アカデミー
 65. ウクライナ国立航空
 66. ウクライナ貨物航空
 67. ウクライナ飛行士学校
 68. ウクライナ地中海航空
 69. ヴォラーレ
 70. ヴェテラン航空会社
 71. ユジュマシャヴィア
 72. 国立航空交通サーヴィス会社
 73. トランス・キエフ
 74. ウェスト・ハリコフ

旧ソ連圏で飛行機に乗る場合は機種が気になりますね。今回、報告のウクライナ国際航空(PS ウクライナ)の保有機の内訳です。
  アントノフAn-24    1機 航空会社側では保有機に含めていない。
  ボーイング737-300 4機
  ボーイング737-400 5機
  ボーイング737-500 6機
座席はヨーロッパ内を移動する飛行機と同じでYクラスでもCクラスでも同じ座席が使われています。ただし、Cクラスの場合はヨーロッパ内と同様に真中の席が空いています。


空の景色です。日本に帰ってしまうと思うとなごりおしい気持ちになります。


ここでもビールは全て500mmlのロング缶でした。カザフスタンとウクライナで沢山乗りましたがすべてロング缶でした。


機内食も紹介しておきます。リンゴの皿に乗っているサンドイッチです。
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こちらがサラダです。バジルがふんだんに使われていました。
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緑のドレッシングもバジルがふんだんに使われていました。
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こちらがメインのポークステーキです。ロシア圏では、ごはんがよく食べられていました。ウクライナの航空会社の機内食でも出てきたので、ごはんがよく食べられていることを確信いたしました。


デザートは紅茶です。紅茶のパックもウクライナ色でした。


アエロスヴィット航空では機体がきれいな黄色と青のウクライナ国旗の色でしたが、ウクライナ国際航空は備品やキャビンアテンダント(CA)の方の制服がウクライナ国旗と同じ黄色と青のウクライナ色でした。ウクライナは国旗の色を大切にすることが判りました。
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ヘルシンの着陸寸前の景色は必見です。ヘルシンキに下りる機械があれば是非とも窓の外の景色を見て欲しいです。ヘルシンキからは初めてフィンエア(フィンランド航空)に乗って、帰国いたしました。→ポチッ


今回の旅は9回飛行機に乗り、次の6社の航空会社の飛行機に乗りました。KCには3回、Z6に2回、乗りました。搭乗券が8枚なのはカザフスタンでチケットレス(Webチェックイン)で1便乗ったからです。
  アシアナ航空(OZ)  韓国
  エアーアスタナ(KC)  カザフスタン
  アエロスヴィット航空(VV)  ウクライナ
  ドニプロアヴィア(Z6)  ウクライナ
  ウクライナ国際航空(PS)  ウクライナ
  フィンランド航空(AY)  フィンランド
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インドの子供たち [インド]

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インドのアーンドラ・プラデーシュ州 (アンドラプラディシュ州)の小さな村で行われた、ある小さな式典で集まったインドの子供たちとお母さんたちです。カメラを向けるだけで楽しそう。こちらも楽しくなってしまいます。
最近掲載した記事の中に同じタイトル「インドの子供たち」がありました。

こちらは子供たちとお父さんたちです。でもいずこも同じかな! 小さな式典と言っても集まった人たちは数千人で動員された警察官は500人でした。
警察官が500人? なぜならばAndhra Pradesh州のイェドゥグリ・サンディンティ・ラージャシェーカル・レッディ首相(Yeduguri Sandinti Rajasekhara Reddy首相)も参加したからです。Andhra Pradesh州は75,727,000人で23の県があります。州都はハイデラバード
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子供たちはほんとうにうれしそうでした。
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こちらは前記事で紹介したハイデラバードにあるゴールコンダ城塞で出会った子供たちです。カメラを向けるとみんなが集まってきてくれました。


ムンバイのマリンドライブ沿いのビーチです。
インドで海水浴の風景は珍しいので自然な感じを写真に撮としたら全員上がってきてしまいました。
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ゴールコンダ城塞(Golconda Fort) ハイデラバード [インド]

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クリックすると拡大ハイデラバード(Hyderabad)には見事な城があります。ハイデラバードの訪問時に見にいきました。正式名はゴールコンダ城塞(Golconda Fort)で、巨大な要塞です。ネットではゴールコンダ砦やゴールコンダ要塞の呼び方がおおいけれど、実際に見ると、ゴールコンダ城あるいはゴールコンダ城塞と呼ぶ方がイメージが合います。ゴールコンダ城塞はカーカティヤ朝の1143年にゴールコンダの岩山に砦を建設したのが始まりだそうです。その時は泥の砦だったそうです。その後、バフマニー朝を経てクトゥブ・シャーヒー王国(ゴールコンダ王国 1518 ~1687年)を建国した初代君主スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクがゴールコンダを首都と定めるとともに古ぼけた泥の砦を強固な石造りのゴールコンダ要塞都市として再造営したそうです。さらに4代国王イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーおよびその息子の5代国王ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの治世62年間に要塞都市は強固な城塞となったそうです。
広い場内には、通路が突然狭くなったり、高い城壁の間に敵を招き入れて城壁の上から攻撃で殲滅する仕掛けなどが見られます。ゴールコンダ王国の歴代君主は次の通りです。年数は戴冠(即位)年を表しています。第3代君主スブハーン・クリー・クトゥブ・シャーは6歳で戴冠して在位期間は7ヵ月でした。
クリックすると拡大 1.1518年 スルターン・クリー・クトゥブ・シャー
 2.1543年 ジャムシード・クリー・クトゥブ・シャー
 3.1550年 スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー
 4 1550年 イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー
 5 1580年 ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー
 6 1612年 スルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャー
 7 1626年 アブドゥッラー・クトゥブ・シャー
 8 1672年 アブル・ハサン・クトゥブ・シャー

1687年にゴールコンダ王国はムガル帝国(1526年~1858年)のアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃を難攻不落のゴルコンダ城塞に篭城(ろうじょう)して、長期にわたる包囲攻城戦を持ちこたえたそうです。しかしながら城内のアフガニスタン戦士アブドゥッラー・カーンの裏切りにより、1687年9月21日早朝、キールキー城門からムガル帝国軍が侵攻し、ゴールコンダ王国守備軍はアウラングゼーブ帝遠征軍に陥落したそうです。同時にゴールコンダ王国の滅亡となりました。

上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
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広さを実感してもらいたいのでGoogle地図での航空写真で、ゴールコンダ城塞(Golconda Fort)を紹介します。ゴールコンダ城塞の東側(右側)の方向がハイデラバード(Hyderabad)の町になります。航空写真上のマイナスのアイコンを数回クリックするとハイデラバードの町の中心との位置関係がわかってくると思います。


こちらが城塞(城、砦、要塞)の入口です。インドの人の入場料は我々外人より圧倒的に安く設定されており沢山の人が見に来ています。みんな楽しそうだったですね。クリックして拡大すると多少表情が判ります。城にはユニークな通信システムがあったそうです。正面玄関のアーチの下で手を打つと、アーチの反響効果により30-40m以上離れたバーラー・ヒサールや、別の地点へその音が明瞭に伝わるそうです。この通信システムは現在も機能するため、正面玄関は観光客が立ち止まり、手を打つ格好の場所となっています。
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入口を入ると岩山に作られた城だとわかります。ゴールコンダ城塞は、巨大な花崗岩の3重壁で取り囲まれています。最外壁は小砦を一つ持ち、小丘上を取り囲む設計だそうです。2番目の壁は丘の麓に沿って、3番目は巨石群を取りこんで、丘の斜面に建設されています。外壁の厚さは5~10mで、巨大な花崗岩ブロック製です。北東の角には、城の一角から突き出ていて、その両側の長大な外壁を一望できる「大腹稜堡(ペトラ・ブルジ)」があり、そこにファテヒー・ラーフバル砲が据え付けられていました。
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さらに城の頂上を目指しました。険しい道が続きます。
ムガル帝国王子だったアウラングゼーブ率いる1656年のムガル帝国第二次遠征軍を防ぐために9つの丸突起の稜堡がつくられたそうです。この稜堡は、当時、アブドゥッラー・クトゥブ・シャーの将軍だったムーサー・ハーンによって設計され、建築家のダーマチャールによって増設されたものだそうです。
頂上には宮殿の一つBaradariが建っています。


急勾配の階段の部分で記念写真を撮りました。


城の頂上が見えてきました。城は、高さは122mの孤立した花崗岩の丘の上に、壮麗にそびえ建っていました。
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城の頂上から下を見ると万里の長城のような景色を見ることができて、この城郭の大きさを感じられます。城の上から見ると城壁が永遠と続いているのが判ります。城外郭は丘に沿うように、そして城を囲む外壁は、いびつな菱形状に設計されているそうです。頑丈な銃眼を持つ最外壁は、外周囲7km近くにも及び、さらに周囲に深い堀を持ち、高さが15-18mもある87の半円形稜堡(ブルジ)、8つの巨大な門がありました。
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沢山の部屋があり城の規模が判ります。この景色からもゴールコンダ城塞が屈指の要塞都市であったことが伺えました。驚いたことに城内には陶器製パイプを利用した給水システムが、存在したことが明らかになっているそうです。このシステムにより飲料水は勿論のこと、いくつかの噴水も城内に作られていたそうです。王の謁見バルコニーには、特殊な視覚効果が施されていたと伝えられています。この仕掛けにより、別の場所にいる王の幻影を謁見バルコニー上に映し出し、万が一の刺客の攻撃から王を守ったと言われています。


城の上からはハイデラバードの町を望むことが出来ます。
ハイデラバードの町の中に大きな湖があります。この湖岸の一部が特に近代化されていました。街並み、近代的な電車など 特に驚いたのが普通の部屋に大型の薄型テレビが壁に掛けられていたことですね。この町はデジタル産業で裕福になりつつあるところなんです。ちなみに薄型テレビは日本製でした。
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ここでも子供たちに会いました。子供たちは写真が大好きですぐに寄ってきてくれます。撮った写真を見せてあげると喜んでいました。ゴールコンダはGolkondaあるいはGolkondaで、「羊飼いの丘(Golla konda)」が語源になっているようです。ゴールコンダ地区はダイアモンドを含む宝石の世界的な鉱山があることでもでも知られています。ゴールコンダ城塞の城壁内ではダイヤモンド取引が行われていて、ダイヤモンドのための金庫室があったことでも知られています。


1906年に描かれたゴールコンダ城塞の絵と、撮った位置は違いますが類似の構図の現在の写真ををWikipediaから拝借いたしました。 
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城から降りてお土産を買いに行きました。
インドと言えば紅茶なので、街の紅茶屋さんで、お土産として紅茶を購入しました。店の奥には大きな袋が沢山積み上げられているのに驚かされました。それを見て、インドの人は紅茶をよく飲むことを実感させられました。新しいと香りがいいので、地元の人たちは少しずつ小まめに買いに来るそうです。確かに、我々が買っている間も、次から次へと買いに来ていました。 
我々が多量に買ったのに驚かれましたが、お土産に持って帰るとわかって納得でした。同時にホクホク顔でした。 おじさんが手に持っているパッケージを全員で40個ほど買いました。たぶん数日分の売り上げになったと思います。
地方の町だし土産物屋でないので、べらぼうに安かったです。同じ値段で、デリーの土産店の10倍は買えたと思います。
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街の紅茶屋さん前の通りの写真です。雰囲気が判ってもらえると思います。
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ゴールコンダ城のあるハイデラバードの場所を紹介します。