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世界遺産 座喜味城(ざきみぐすく) [沖縄]

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世界遺産の中城城跡の次に来たのが座喜味城(ざきみぐすく)です。そして、この日は泊まるホテルを残して最後の訪問地です。まだ、時間はあったけれどホテルの近くのビーチにも日が高いうちに行きたかったので、ここを最後にしました。この座喜味城跡も世界遺産に指定された「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つです。
上の写真は入口の石門です。航空写真を見てもらうと判るとおり、今までに紹介した首里城や中城に比べると小規模ですが2つの城郭がきれいに残っています。
座喜味城は築城家として名高い護佐丸(ごさまる)によって15世紀の始め頃に築城されたそうです。

入口に近いほうの城郭(二の郭)です。独特の曲線を描いて積まれた城壁は「あいかた積み」と呼ばれる技法です。


座喜味城のアーチ型の石門は沖縄で最も古いものと言われています。石門は最初の写真のものと、内部の城壁のこの石門の2っです。
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奥の城郭(一の郭)には建物の跡があります。沖縄中南部におけるグスクは、硬い琉球石灰岩の岩盤上に築城されるのが通常の形態ですが、座喜味グスクは、唯一、赤土の台地上に掘り込んで築かれています。
また、城壁は自然の地形に合わせて造られるため、屏風状に屈曲しており、カーブの各角に丸味を持っているのが沖縄特有の城郭形態ですが、特に座喜味城の場合にはその特徴が強く、軟らかい赤土地盤による崩落を防ぐ必要性から、より複雑な形状となり、上空からみると、城全体がまるでヒトデのような形となっていて、壮麗な曲線美を構成しています。沢山のベレー帽をかぶった自衛隊の方が見学に来られていました。なにかの研修でしょう。
こちらの城跡は入場無料です。
クリックしてみてください。
下記が世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」のです。9ケ所の内、6ケ所を訪問しました。
 首里城(すいぐすく)
 玉陵(たまうどぅん)
 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 中城(なかぐすく)
 座喜味城(ざきみぐすく)
 今帰仁城(なきじんぐすく)
 識名園(しきなえん)
 勝連城(かつれんぐすく)
 斎場御嶽(せいふぁうたき)

世界遺産 中城(なかぐすく) [沖縄]

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沖縄そばを食べて首里城園比屋武御嶽石門玉陵を見たあとに訪れたのが中城です。上の写真は、こちらでもらったパンフレットにあった中城の航空写真です。
中城(なかぐすく)は世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」の中の一つです。中城(なかぐすく)はこのあたりの地名で、正確には中城城跡(なかぐすくしろあと)といいますが省略して中城と呼ばしてもらっています。
こちらは航空写真のように建物はありませんが、琉球石灰岩で築かれた石垣の遺構がはっきりと残っています。沖縄にはグスク(城)が300余りあったとされていますが最も遺構がよく残っていることで知られています。中城は14世紀後半に先中城按司によって造られ始めて15世紀前半頃までに護佐丸(ごさまる)によって完成したと考えられています。

こちらもパンフレットの中の説明図です。中城は連郭式の山城で「一の郭」「二の郭」「三の郭」「北の郭」「西の郭」「南の郭」の六つの郭(くるわ)で構成されています。
標高160mの丘陵の東崖縁を天然の要害として建てられました。それぞれの場所を写真で紹介します。


これがの裏門です。駐車場から歩いてくると最初にくぐる門でもあります。


駐車場からだと一番奥にの正門があります。


これは一の郭の城壁です。石積み技法は「布積み(豆腐積み)」で四角石を積み上げたものですが、後半に造られた三の郭の城壁は石積み技法の最も進んだ「あいかた積み(亀甲乱れ積み)」によって築かれた。


1853年に来島したペリー提督も、この地を訪れて「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった」と評価しています。
ペリー提督が訪れた頃には建物も健在 であったようです。この絵はネット から拝借させていただきました。これはペリーに同行した画家ハイネによって描かれた「西の郭より正門を望む」です。

ここがの北の郭です。北の郭も、あいかた積み(亀甲乱れ積み)によって築かれた。石の形が一の郭と違うのが判ってもらえると思います。クリックすると、そのことがよく判ってもらえると思います。
石垣の手前に急な階段が見えます。この階段の先に大井戸があります。
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時代物の三輪車 [山西省]

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山西省の省都・太原から南西に130kmの場所で見つけました。道を走っているのは時々見かけましたが目の前に停まっているのを撮る機会はなかなかありませんでした。じっくり見ると趣きがあります。 クリックすると拡大します。

一瞬のシャッターチャンス [山西省]


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中国山西省で太原から車で平遥市に入った時です。町の中を車で走っていると、前からロバが三頭歩いてきました。車の後部座席からですが躊躇せずにパチリ 写真をクリックしてみてください。苦労が判ってもらえるかもしれません。一瞬でした。このあたりはロバが多かったです。
この町には世界遺産の平遥古城があるすばらしい町でした

タグ:ロバ 山西省

悲劇の象徴も今は楽しい広場 [ベルリン]

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これがドイツのベルリンで、今は観光場所として有名なブランデンブルク門です。ここに来たときは、夕方近かったので西日のために逆光の写真になってしまいました。きれいな写真を撮りたいときは正面から日が当たる朝をお薦めします。見ていないけれどもライトアップの時間帯もいいかもしれません。
門が建っている、この場所は、第二次世界大戦後は東ベルリンに属し、西ベルリンとの境界線がすぐ近くを通ることとなり、1961年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった場所でした。
クリックすると拡大右の写真はネットから拝借した1961年8月13日のブランデンブルク門です。
この日まで門の下には東西ベルリンを行き交う車や人が通っていたが、この日開始されたベルリンの壁建設により門の周辺は無人地帯となりまりました。つまり東西ベルリンに分かれた悲劇の象徴でした。
しかし1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになりました。門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われたそうです。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となって現在の雰囲気になったそうです。

西側(裏側)から撮ったブランデンブルク門です。太陽が正面から当たっているので、きれいに撮れていますが、残念ながら、有名なクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアは後ろ姿です。
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ブランデンブルク門は昔18箇所あった都城の門のひとつですが、残りの門は城壁の取り壊しとともに姿を消していく中で、唯一残されたのがブランデンブルク門です。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工しました。門の上の四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像は、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作しました。
一番上の写真からクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアの部分を切り取ったのが右の写真です。
下の写真は逆光を避けるために下から見上げるかたちでブランデンブルク門を撮ったものです。クアドリガ(四頭馬車)が見えます。このクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアはナポレオン・ボナパルトによりベルリンが征服された時にフランスへ戦利品として持ち去られました。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ、門の上に戻されたそうです。
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ブランデンブルク門は沢山の歴史がありましたが、今は楽しい雰囲気が、漂っています。女の子たちが回転する三輪自転車に乗って歓声を上げていました。
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高校生たちがブランデンブルク門を背景にして記念撮影をしている風景も、明るい雰囲気が伝わってきます。なぜか女の子が多いです。
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門が注目されていますが左右の建物も注目してください。同じ建物が対象形に配置されていました。
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ブランデンブルク門から東側の広場を撮ったものです。沢山の木が見えると思いますが有名な大通りのウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)です。
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開放的な二階建てバスも明るさを盛り上げてくれています。
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さらに、すでに紹介した自転車軍団も明るい雰囲気です。
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