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建長寺は伽藍配置 [鎌倉]



2012年5月22日から中国に来ています。今回の中国の記事を本格的に掲載出来るのは帰国(5月29日)後になると思いますので、鎌倉の記事の掲載を続けさせていただきます。今回、紹介の建長寺は中国と縁の深いお寺でした。
上の写真は建長寺の入口にあたる総門です。ここを入ったところで拝観料(300円)を払って中に入ります。すでに建長寺の鐘楼の記事の中で紹介しましたが建長寺は759年前の1253年(建長5年)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって、わが国最初の禅寺として創建されました。初代住職(開山)は宋からの渡来僧・蘭渓道隆でした。建長寺の正式名は「巨福山 建長興国禅寺」です。総門に山号である巨福山(こふくさん)の文字が書かれていました。

日本の伽藍配置は6世紀(西暦500年代)に始ったようで、鎌倉時代(12~14世紀)に禅宗の伝来によって整然とした伽藍配置が行われ、総門を入ると三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)が一直線に建つ伽藍配置が現れたそうです。まさに、その時代のように総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は素晴らしかったです。境内が「建長寺境内」として国の史跡に指定されていることが納得できました。鎌倉五山の第一位でもあるそうです。
これでも創建時に比べると規模が小さくなったと書かれてしました。創建当時の沢山の建物があった建長寺を見てみたいものです。


総門ごしに見た三門です。 建長寺の最初の総門は1275年(建治元年)頃に建てられたと考えられています。
1609年(慶長14年)に再興された総門は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊してしまいます。現在の総門は、1783年(天明3年)に建立されたとされている京都の般舟三昧院の門を1940年(昭和15年)に移築された建物だそうです。


総門をくぐったところの景色です。この日は本当に快晴ですばらしい景色でした。


こちらが三門です。一般的に山門に相当するのが、この三門と呼ばれている三解脱門です。三解脱門(さんげだつもん)とは、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない三つの関門(空・無作・無相)のことだそうです。楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置され、その下を通ると心が清浄になるといわれています。
クリックすると記事を表示現在の三門は、江戸時代の1775年(安永4年)に二百一世万拙碩誼(ばんせつせきぎ)によって再建されたものだそうです。古狸が再建の勧進に活躍したことから「狸の三門」と呼ばれている国の重要文化財の門です。三門の横には、すでに紹介した茅葺の鐘楼がありました。


三門の奥に仏殿があります。建長寺創建当初の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)と祖師堂を従えたものだったそうです。現在の仏殿は365年前の1647年(正保4年)に芝増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人(崇源院)の御霊屋が移築されたものだそうです。崇源院は、織田信長の妹お市の方と浅井長政との間に生まれ、姉は豊臣秀吉の側室となった淀の方です。娘には豊臣秀頼に嫁いだ千姫がいます。千姫の養女は東慶寺二十世の天秀尼です。仏殿の他、方丈の正門であった唐門(勅使門)と西来庵の中門も崇源院の御霊屋にあったものが移築されています。建長寺の建物は全国の有名な場所から建物が移設されているのに驚きました。


仏殿の本尊は地蔵菩薩坐像です。1253年(建長5年)の吾妻鏡には、「丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、同像千體を安置す。」と記されています。現在安置されている地蔵像は室町期の作と考えられています。
本尊の他、土地堂に祀られていたと考えられる伽藍神像、千体地蔵、伝心平地蔵なども安置されています。
禅寺の本尊が地蔵菩薩というのは珍しい野ですが建長寺の建てられた場所は地獄谷と呼ばれ、もともとは、地蔵菩薩を本尊とする心平寺が建てられていた。その跡地に建てたことから、地蔵菩薩を本尊としたといわれているます。建長寺を調べていると気楽に訪れやすい感じがあると書かれていました。確かに写真撮影は催しなどの時以外は自由なのです。鎌倉の他の神社やお寺では撮影禁止の表示がありましたが、こちらではないのが、その表れなのかもしれません。


仏殿の奥には法堂(右側の建物)があり仏殿越しに見る景色は伽藍の雰囲気を伝えてくれます。遠くに唐門と龍王殿が見えます。法堂(はっとう)は、法を説くための堂のことだそうです。
当初の法堂は1275年(建治元年)に建長寺開基で五代執権の北条時頼十三回忌のときに創建されたそうです。 現在の法堂は1814年(文化11年)に再建(上棟)されたもので、関東一の大きさだそうです。
鎌倉の現存する法堂は建長寺だけだそうです。


左の建物が法堂 右の建物が仏殿です。


法堂の本尊は大悲閣にあったとされる千手観音像が祀られています。本尊の前にある釈迦苦行像は釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現しているそうです。ガンダーラ文明の遺産で、パキスタンのラホール中央博物館に安置されている像のレプリカで、2005年の愛知万博に陳列された後、パキスタン国より建長寺に寄贈されたそうです。


こちらが重要文化財の唐門(からもん)です。非常にきれいだと思ったら以前から補修されていて一年前に修理が終わって2011年5月30日に落慶法要が営まれました。
唐門は関しては別途掲載させてもらうつもりですので説明は省略いたします。


唐門側から総門方向を見た伽藍の景色です。驚いたことにGoogleのストリート・ビューで建長寺の境内を見ることが出来ることがわかりました。→ ポチッ
ストリート・ビューは唐門の補修工事の期間中に撮られたことがポチッをクリックして画面内で唐門に近づくとわかると思います。

サザエのつぼ焼き [東京]



さざえの壺焼きは美味しいですね。特に大きなサザエは食べごたえがあります。今回のサザエも大きかったです。

丸々サザエのつぼ焼きもいいけれども大型のサザエは切ってあっても食べごたえがありました。鎌倉に行った日など肉系の食事が続いたので、この日は寿司でも食べようということで、みんなと意見が一致したのですが午後の4時ごろに開いているお店は見当たりません。  
調べてみると、ありました。


今年(2013年1月5日)の初競りで昨年暮れに釣り上げた大間のクロマグロ222kgを1億5540万円で落札した「すしざんまい」です。昨年(2012年1月5日)の初競りでも1月3日夕~4日朝に釣り上げた大間のクロマグロ269kgを5649万円で落札しましたが昨年の重さあたり3.333倍の落札でした。その「すしざんまい」の新橋店は24時間営業なのです。さっそく探して入りました。そして頼んだのがマグロです。全員一皿づつ頼みました。初競りで落としたマグロを1kgに換算すると70万円だったそうです。それで寿司をつくると赤身で1万円/一個で中トロで5~6.7万円/一個で大トロだと6.7~10万円/一個に相当するそうです。それを通常価格の赤身で134円/一個で中トロで313円/一個で大トロだと418円/一個で提供したそうです。運がいい人は200~270分の一の値段で食べれたことになります。
もちろん我々が食べたマグロは初セリのマグロではありません。これは赤身、中落ち、中トロ、大トロ、あぶりトロのマグロセットです。


やっぱりビールです。


これは赤むつの刺身だったと思います。今回は刺身を多く頼みました。


こちらはシマアジの刺身です。
寿司やだと刺身もいろんなものが食べれるのでいいですね。お寿司のメニューに書かれているものは全て刺身でも出してもらえると書かれていました。


これはアオヤギの小柱とヒモの刺身です。アオヤギは東京湾の名物ですね。


刺身がこれだけ出てくると日本酒も飲みたくなります。


さらに追加でタイラギの刺身です。タイラギはタイラガイ(平貝)ともいい帆立貝のように大型の貝柱を持った二枚貝です。帆立貝よりサクッとした食感が好きです。イカの刺身も頼みました。


最後はさっぱりとした巻き寿司にいたしました。


樹齢750年のビャクシン(柏槇) [鎌倉]



鎌倉で鶴岡八幡宮の次に訪れたのは建長寺でした。建長寺には樹齢が約750年のビャクシンがありました。一般家庭の庭や垣根などに植えられる木なので、まさかここまで大きくなるとは思ってもいませんでした。迫力もありました。中学生の子が2人、幹の近くに立っているので大きさを比べてください。
ビャクシンの下には牡丹が沢山植えられていました。これからが見頃だと思います。

750年以上の樹齢のビャクシンは日本国内で多数ありますが、胸の高さでの幹回りが6.5mはかなりのものです。もちろんこれを超えるものはありますが、これほどの幹回りは珍しい方に入ります。
ビャクシンで最も有名なのが大瀬崎で約百三十本の本数ならびに千年超える樹齢により天然記念物に指定されています。


正式名はイブキ(伊吹)でヒノキ科ビャクシン属の常緑高木です。 別名としてビャクシン(柏槇)と呼ばれています。果物のナシ(梨)の赤星病の宿主になる木であることから梨園の近くでは規制されることでも有名です。
昭和59年(1984年)時点で樹齢が約730年と推定されています。それから28年が経っているので計算的には約758年なので確実なところでは樹齢は750~760年ということになります。。宋からの渡来した初代住職(開山)の蘭渓道隆によって建長寺創建の際に種子がまかれたと書かれています。
建長寺の創建が1253年(建長5年)なので創建時に種子を蒔いたとすれば樹齢は759年となりますが、控え目に数えてタイトルは「樹齢750年のビャクシン」とさせていただきました。いずれにしても建長寺の歴史をすべて経験したきた生命体なのです。


航空写真の中心が、今回のビャクシンですが、1本だけでなく沢山のビャクシンの巨木が植っていることがわかってもらえると思います。

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上の写真には建物が写っていなかったので建長寺らしい写真も紹介いたします。こちらが仏殿とビャクシンです。左側のビャクシンが紹介した一番大きなビャクシンです。


こちらはビャクシンと法堂です。冒頭の写真と同じアングルです。同じ中学生の子が立っているのがわかってもらえると思います。


ビャクシンの後ろの建物は三門です。ここには2012年4月18日に訪れたので今はボタンが満開のような気がします。沢山の棒には蛇の目笠が建てられていると思います。

鎌倉では人力車が大流行 [鎌倉]



鎌倉の記事の続きです。すでに牡丹園町並古い郵便ポストを紹介しています。今回は鎌倉で沢山走っていた人力車を紹介します。最近では日本の有名な観光地には必ず人力車があります。
最近では京都と北海道の小樽でお目にかかりました。それて比べても鎌倉の人力車の数が多かったように感じました。乗っている人力車も沢山見かけました。
この写真は鶴岡八幡宮の入口の鳥居の前です。左側の引き手の人は後でもう一度、登場します。

ネットで調べると「えびす屋」と言う全国店があり、そのお店は「京都嵐山総本店」「京都東山店」「小樽店」「雷門店」「奈良店」「宮島店」「関門店」「湯布院店」で展開していました。最近行った湯布院でも人力車を見かけました。料金は設定された一区間(1km程度)で2000円/一人 or 3000円/ニ人です。60分貸切で9000円/一人 or 15000円/ニ人でした。鎌倉での「えびす屋」の設定コースは下記の通りでした。貸切はいろんな時間で設定できるようなので現地で相談してみてください。
クリックすると別の写真  三ノ鳥居遊覧コース
  二ノ鳥居 ~ 鶴岡八幡宮
  長谷駅 ~長谷寺(または大仏)
  鎌倉駅西口 ~ 銭洗弁財天
引き手の人を車夫あるいは俥夫と呼びます。全国で最も古い車夫の方は鎌倉の老舗の「有風亭」の青木登さんと言われています。人力車をはじめられたのが今から29年前の1983年*だそうです。1948年3月下旬生まれで64歳になる青木登さんは、いろんな伝説を作られたのでしょうね。まさに伝説の人です。右上の昔の青木登さんの写真はネットから拝借いたしました。今が一番、気持ちのいい季節なのかもしれません。乗っている皆さんも気持ちよさそうでした。 *:2008年の記事で人力車を始めて25年と書かれていました。


この写真の中だけで4台の人力車が写っています。かたまって走っていたので同じ仲間の人なのかもしれませ。


こちらは笠をかぶったスタイルです。こちらは全国店の「えびす屋」の法被(はっぴ)を着ておられました。


この人が冒頭の写真の左側の人です。走っていく方向は鎌倉駅西口なので、どこかでお客さんを降ろして、駅に戻っているのだと思います。写真付の証明書を持っておられたので、踏切で待っているときに、免許がいるのかと聞くと「研修を受けると人力車を引くことが出来る」との答えでした。遮断機が下りている間にお話をさせてもらいました。ちなみに彼の名前も青木さんだったと思います。第二の青木登さんになるのでしょうか。もし、この人を見つけたら人力車に乗ってあげてください。
人力車に書かれていた彼の名前を検索していて、驚いたことに「えびす屋」サイトでこの方のプロフィールが紹介されていました。→ポチッ
現時点で鎌倉の「えびす屋」所属の方が23名おられることもわかりました。
ということは全国の俥夫の方もわかるということです。人数を調べてみました。 
嵐山62名 東山47名 小樽15名 雷門48名 鎌倉23名 奈良15名 宮島 5名 関門13名 湯布院14名の合計242名でした。それ以外に鎌倉力車(東京力車)14名有風亭飛車があります。


こちらは鎌倉駅の西口です。駅から降りてくる人を待っているのだと思います。

ネットで記載されていた伝説の人、青木登さんの言葉を紹介します。
青木登1983年、青木さんは飛騨高山の人力車店から譲ってもらった1台の人力車を携えて、北鎌倉に居を移した。「人力車は、道路交通法上は自転車と同じ。免許も何もいりません。でも、人を乗せて道を走る以上、事故だけは絶対に起こしてはならないと心に誓いました」と、当時を振り返る。
人力車は人を乗せたバランスが肝心。うっかり俥夫がかじ棒を離せば、客は後頭部から地面に叩きつけられることもある。青木さんは自分で研修期間は3ヶ月間と決めると、まずは、無人で人力車を引いて鎌倉の町を走った。そして、走る自信がついたところで、「練習ですから」と無料で乗ってもらい、お客さんを乗せて走る練習に励んだ。
鎌倉は坂が多い。谷(やつ)と呼ばれる細い谷や坂道は鎌倉独特の景観だ。人力車が危険なのは、登るよりもスピードが出る下りのほうだ。人力車のブレーキは俥夫の足だけ。そして、急には止まれない。車が通れないばかりか、人力車が壁を傷つけそうな狭い路地もたくさんある。
しかし、そんな道こそ人力車でしか味わえない醍醐味がある。だから、細い路地を走るコツも覚えた。ただ人を運ぶだけでなく、観光ガイドの役目も負う人力車の仕事は、道と街を知ることが大切だと悟った青木さんは、研修期間中、鎌倉中をくまなく走ってみた。
そんな青木登さんには円覚寺門前で会えるそうです。

今から143年前の1870年(明治3年)3月22日が日本の人力車が生まれた日(人力車の営業願いを提出した日)だそうです。その記事の内容も紹介します。ただし2年前の記事なので現在の人力車の台数は500台よりは格段に多くなっていると思います。
1886年時は明治時代初期、移動の手段が駕籠や馬車などと限られていた時代、もっと手軽な乗り物を作ろうと立ち上がった男たちがいた。元町役人の和泉要助、八百屋の鈴木徳次郎、車大工の高山幸助の3人は、人間が二輪車をひく「人力車」を発明に成功。明治3年に東京府(現東京都)に人力車の営業願いを提出。翌年に日本橋で初の人力車営業が始まると、瞬く間に普及した。営業初年度だけで、1万台以上。開業5年で全国に11万台。クリックすると拡大最盛期には21万台にものぼり、庶民のタクシーとなった。 しかし、大正に入り、市街電車や自動車が普及すると、人力車は急速に衰退の一途をたどる。昭和10年代までに、ほとんどの人力車が姿を消したのだった。しかし、それから40年近く過ぎた昭和51年、岐阜・高山で観光用として復活を遂げる。これをきっかけに、観光地を中心に増え続け、現在は約500台にまで普及。目的を変えて生まれ変わった人力車は、その長い歴史とともに、今も走り続けている。

タグ:鎌倉 人力車

鎌倉では古い郵便ポストが健在でした。 [鎌倉]



鎌倉駅と鶴岡八幡宮を真っ直ぐに結んでいる若宮大路には昔の建物が残っていました。ふと見ると昔の郵便ポストもありました。この写真の右端を見てください。

さっそく写真に収めさせていただきました。表示をみると一日に2度ほど郵便物を集めに来るようです。
この郵便ポストは正式には郵便差出箱1号丸型と呼びます。この郵便差出箱1号丸型は、今から64年前の1949年から使われ始めたそうです。本体は高さ約135cmで直径約40cmです。高さ約135cmというのは現在使用されているポストの中で最も高いものだそうです。現在設置されているポストは、1号丸型、1号角型、 2号、3号、4号、特4号、6号、7号、8号、9号、10号、11号、12号、 13号、14号の15種類だそうです


以前に掲載した「鎌倉の町を散策」の中の地図です。緑色のマークのところがポストの位置です。

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鶴岡八幡宮 [鎌倉]



鎌倉では鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園を紹介しましたが鶴岡八幡宮自体はこちらで紹介いたします。鶴岡八幡宮は、あまりにも有名なので、ご存じの方も沢山おられると思いますが、私のように一度も行ったことがなかった人のために写真を掲載いたします。私は鎌倉が初めてでした。上の写真はJR鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ真っ直ぐに伸びている若宮大路の真ん中の歩道です。

真っ直ぐに歩いてくるとここに来ます。この写真は鶴岡八幡宮の入口に大鳥居側からJR駅側を撮ったものです。


上の写真の場所から鶴岡八幡宮側を撮ったものです。ここからが境内ということになります。この鳥居は「三の鳥居」です。
言葉の通り「一の鳥居」と「二の鳥居」があります。「二の鳥居」は「三の鳥居」と同じように朱色の大鳥居です。「一の鳥居」は石の鳥居です。


右の朱色の鳥居が「二の鳥居」で、白く見えるのが「一の鳥居」です。
三つの鳥居を緑のマークで示しました。上から「三の鳥居」「二の鳥居」「一の鳥居」の順です。空色のマークは鶴岡八幡宮境内の中のいろんな建物などです。マークをクリックすると名前を表示します。
三つの鳥居ともに徳川四代将軍家綱によって御影石の石造で建てられていましたが、関東大震災で三つともに倒壊しました。現在の鳥居は「一の鳥居」のみ1937年に元通りに石造りで再建されて、残りの二つはコンクリート造となっています。
「一の鳥居」はJRの線路越えたところで歩いたルートからは、はずれていて写真を撮らなかったので右の「一の鳥居」の写真のみネットから拝借いたしました。
一の鳥居から本宮まで線を引いてみましたが3つの鳥居と本宮が、一直線に並んでいることがわかりました。

より大きな地図で 鶴岡八幡宮の鳥居 を表示
三の鳥居の下から鶴岡八幡宮を見た景色です。雨や曇りの天気が続いていましたがこの日(4月18日)だけきれいに晴れました。おかげで素晴らしい景色に出会えました。
太鼓橋があります。


その太鼓橋ごしに見た鶴岡八幡宮です。この太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営された際に架けられたものと考えられているそうです。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていました。


太鼓橋の横からの姿も紹介します。


太鼓橋脇から見た鶴岡八幡宮です。


参道を歩きながら見える鶴岡八幡宮の景観です。屋台がある景色も神社の参道の風物です。


鶴岡八幡宮側から入口の大鳥居の方向を見た景色です。


入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)は立派でした。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。


柄杓(ひしやく)が置かれた脇には
 手水の作法
  先ず 両手を清め
  次に 清水を掌(てのひら)に受けて口をすすぎます。
      柄杓(ひしやく)には口をつけないでください。  社務所
と書かれていました。


鶴岡八幡宮の本宮(上宮)です。
大石段の左側に四角く清められた場所が有名な大銀杏があった場所ですが2010年3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れました。
倒壊したことを忘れないようにネットの写真を拝借して右に掲示しました。


源実朝は1219年(建保7年)1月27日に源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁によって大石段で暗殺されたそうですが、その時に身を隠していたのが、この銀杏の木であるとの伝説があり、隠れ銀杏という別名がありました。ただし、あくまでも伝説で真意はわかっていません。1955年に神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていました。樹齢は800年とも1000年余とも言われていました。
倒れた大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルは元あった場所から左7mの場所に植えられました。その株もこの写真で確認できますが、ほんとうに大きな銀杏の木だったことが実感できます。右の写真はネットから拝借した元気な頃の大イチョウです。近未来Ⅱさんの記事へTB→ポチッ


鶴岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く100年以上前の1063年(康平6年)に、源頼義が「源氏の氏神」である京都の「石清水八幡宮」を由比郷鶴岡に勧請した鶴岡若宮(由比若宮)がその始まりです。
1180年(治承4年)に鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えたそうです。
1191年(建久2年)に火災によって焼失しましたが、頼朝は若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に本宮を新造し鶴岡八幡宮とし、現在の本宮(上宮)と若宮(下宮)のある姿になったそうです。
こちらが本宮(上宮)へ登る大石段の右側(東側)にある若宮(下宮)です。


若宮(下宮)は横からでは全体がわからないので上から見た屋根の写真を紹介します。若宮や本宮があることはネットで調べて知りました。このときはきれいな曲線の屋根の写真を撮っただけでした。そして後で。若宮の屋根であることを知りました。


こちらの写真は本宮(上宮)に上がる大石段です。正面が鶴岡八幡宮の象徴である随身門です。


随身門からの景色です。大石段の正面下には舞殿があります。下拝殿とも呼ばれます。ここから沢山の人が本宮の写真を撮る場所でもあります。正面方向がJR鎌倉です。オリジナルの大きな写真では3つの鳥居が一直線に並んでいるのがわかりました。


舞殿のななめ横からの姿です。境内入口の大鳥居から最初に見えるのがこの舞殿だったのです。


随身門の両側には随身(貴人警護にあたる武人)が鎮座していました。


随身門脇には沢山の絵馬がかけられていました。これだけ並ぶと見事でした。


随身門をくぐるとすぐに本殿です。


本殿の屋根も芸術的でした。


本宮の回廊(宝物殿前)には7基の神輿(みこし)が並べられていました。、本宮の神輿が3基、若宮の神輿が4基だそうです。神幸祭で渡御する神輿は本宮の3基だそうです。
これらは桃山期から江戸初期のものと考えられ、若宮の神輿は本宮の神輿よりやや小柄で簡略化されているそうです。7基ともに神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。1821年(文政4年)の火事では、諸堂は焼失してしまいますが、神輿は英勝寺に移されて無事だったと伝えられています。


本宮脇には明治天皇鎌倉御野立所と書かれた石碑がありました。明治6年4月15日に日本で初めての陸軍攻防演習が鎌倉で行われたそうです。その時に明治天皇は4月14日に鎌倉に行幸し、八幡宮裏の大臣山から閲兵された記念碑だそうです。この小道の奥が、その場所なのでしょうね。


ここから境内で気になったものを紹介いたします。左側の2つの丸い石は鶴亀石です。石の真ん中にたてられて説明書きには「記 相模國風土記稿に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され 大変めでたい石である」とありました。右の石の柵で囲われたところは由比若宮遥拝所です。


由比若宮遥拝所と鶴亀石の近くにあるのが白旗神社です。1200年(正治2年)に北条政子が朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り創建したのが、白旗神社(祭神:源頼朝)と伝えられています。源頼家の創建との説もあるそうです。黒漆塗極彩色の社で「武衛殿」と呼ばれた。「武衛殿」の扁額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝えられています。
最初は鶴岡八幡宮上宮の西側にありましたが1885年(明治18年)に源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在の場所に遷されたそうです。現在の祭神は、源頼朝と源実朝だそうです。例祭は5月28日に行われるそうです。


奉納(奉献)された沢山の酒樽も見事でした。


鶴岡八幡宮の参道の途中に右に折れの道があり、その道の両側に沢山の旗がありました。それは旗上弁財天社に向かう道でした。 旗上弁財天社の源氏池に浮かぶ島に建てられた神社です。
源頼朝の旗挙げに家運長久の守護神として弁財天が現れ霊験があったと伝えられ、北条政子が建立した伝わっているそうです。


こちらが源氏池の中の島に建つ旗上弁財天社です。参道や島には、奉納された源氏の二引の白旗が並んでいるのが印象的でした。
弁財天は仏教の守護神であることから、明治の廃仏毀釈で破壊されましたが、鶴岡八幡宮創建800年にあたる1980年に、文政年間の古図をもとに現在の社殿が復元されたそうです。
祭神は「多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)」「市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」です。

鎌倉の町を散策 [鎌倉]



初めて鎌倉に行ったときのことです。鎌倉では最初に鶴岡八幡宮に行き、そのあとはすでに紹介している神苑ぼたん庭園で牡丹を見ました。そこで12時近くになったことから鎌倉駅の近くで昼食をとることにしました。上の写真は鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう若宮大路の真ん中の歩道です。

下の地図の赤いラインを散策しながら鎌倉駅まで向かいました。途中で気になったお店の写真を撮りました。その気になったお店の写真を鶴岡八幡宮に近い順番(撮った順番)に紹介いたします。水色のマークが今回紹介しているお店です。マークをクリックすると店名を表示します。その住所と正確な位置は写真に写っている店名などからネットで検索しました。黄色のマークは写真を撮った十字路と踏切です。赤色のマークは食事をした場所です。青色のマークは鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園です。緑のマークは古い郵便ポストがあった場所です。

より大きな地図で 鎌倉 を表示
鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう道沿いにあった趣のあるお店です。店名は三河屋本店と書かれていました。ネットで調べた結果、三河屋本店は、明治33年創業の酒店で、現在の建物は昭和2年に建てられたそうです。伝統的な出桁(だしげた)造りの店構えは、若宮大路の沿道でひときわ目を引く存在のようです。敷地の奥にある蔵や商品の運搬に使うトロッコなど、昔ながらの商文化が大切にまもられているそうです。
三河屋本店は、鎌倉の戦前の商店建築を代表するものとして貴重な建物だそうです。
鎌倉の景観重要建築物33の中の一つ(指定22号)で詳しくネットでも紹介されていました。景観重要建築物には2002年4月1日に指定されました。 緑色の住所の文字をクリックするとストリートビューを表示します。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9−23
  電話 0467-22-0024
      木造2階建、蔵は木造平屋
      延べ床面積/352.64平方メートル
      蔵/83.88平方メートル
      屋根/桟瓦葺き切妻および寄棟
      蔵/波型鉄板葺き切妻
      外壁/押縁下見板張り、一部土壁
      蔵/土壁、腰部は鎌倉石積み
      http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/ks22.html


この銀行らしからぬ建物は元ラルフローレン鎌倉店です。ラルフローレン鎌倉店が閉店した後に2009年2月16日に三井住友銀行・鎌倉支店がオープンしたそうです。鎌倉らしいレトロな雰囲気の建物が残ってよかったです。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9-33
  電話 0467-25-6821


スイーツのお店のようです。ネットで調べると下記のような記載でした。
鎌倉の若宮大路沿いの雑貨&古民家カフェ「蔵楽(KURARA)」です。
見るからに女の子受けしそうなお店です。カフェの入り口は雑貨店の奥にあります。
ここの特徴は冬場の「掘りごたつ」です。古民家を活かした店内で、こたつに入りながらいただくコーヒーもなかなかいいものです。ココはお抹茶もいただけるそうです。
  住所 神奈川県鎌倉市小町2-13-2
  電話 0467-55-5001


こちらも若宮大路沿いの山中材木店と鰻屋さんの茅木家です。
 山中材木店
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−14
  電話 0467-22-3116
 茅木家(かやぎや)
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−16
  電話 0467-22-1460


若宮大路を左に曲がって最初の十字路から鎌倉駅の方を見た写真です。
水曜日の昼にかかわらず沢山の人が歩いていました。上の地図で十字路の黄色のマークのところです。


JRを渡る踏切です。踏切も風情があります。左の踏切の文字をクリックするとGoogleのストリートビューが表示されます。ただし下の写真の反対側の遮断にしています。
この踏切の位置も地図に黄色のマークを立てました。


古本屋さんの游古洞です。こちらのお店は探すのに苦労しました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−30
  電話 0467-23-1967


こちらは手仕事雑貨店の「さかゑ」です。女性のお客さんだ沢山入っておられました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−12
  電話 0467-23-5573
  HP   http://www.sakae-kamakura.com/


食事はJR鎌倉駅の裏(西口)にある、とんかつ屋の勝烈庵を選びました。勝烈庵は今から85年前の1927年(昭和2年)に横浜で開業した老舗のトンカツ屋さんです。当時、横浜の外国人コックが居留地関内にもたらしたカツレツを初代庵主の工夫で独特の和風カツレツとして完成させたのが始まりだそうです。今は横浜に3店舗、鎌倉に1店舗あるようです。


鎌倉花ごよみ定食1750円を頼みました。内容は、ヒレかつ又はロースかつ、おろし大根、鎌倉野菜サラダ、香り物、ご飯、しじみ椀です。私はヒレかつを選びました。ご飯とキャベツはお代わり自由です。


2日間煮込んで1日寝かした秘伝のソースでいただきました。


しじみ椀のシジミには小粒のものが使われていました。


JR鎌倉駅の裏側(西口)です。こちら側に、とんかつ屋さんがありました。


こちらが鎌倉駅の表側(東口)です。バス停やタクシー乗り場があり、ここから鶴岡八幡宮に若宮大路が真っ直ぐに飲み゛田鎌倉の表玄関口です。


浦島草の雄花と雌花 [植物]


2013年4月16日追伸 タイトル:浦島草の雄花と雌花

お花さんごめんなさい。仏炎苞を一部外して内部の花本体を紹介いたします。左が雄花で花粉が沢山ついています。右が雌花で種になる部分が緑色で膨らんでいました。外観は似ているのに中身は全く違っているのに驚きました。


2010年5月9日初掲載 タイトル:道端の奇妙な花
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ワンコの散歩のときに変わった花を見つけました。調べると名前は「うらしまそう」でした。漢字で書くと浦島草ですが名前の語源は「肉穂花序の先端の付属体は釣り糸状に長く伸長した姿が浦島太郎が釣糸を垂れているのに見立てたもの」だそうです。

学名は Arisaema Thunbergiiです。
水芭蕉と同じ「さといも科」です。花の形は似ています。
同じサトイモ科のマムシグサにも似ていますが浦島草は地面から花が出ているのに対してマムシグサは茎の上から花が出ているしマムシグサはきれいな緑色をしています。
491 33 4  参照文献 : 牧野新日本植物図鑑

2013年4月12日追伸 タイトル:浦島草の受粉の仕組み

浦島草の花の写真を追加しました。これで花の全体の形がわかると思います。

釣り竿は花の中心にある肉穂花序につながっていることが判ると思います。周りの花弁のように見えるものは仏炎苞で花弁よりは葉に近いものです。この花は不思議な受粉の仕方をするので紹介します。花は雄花と雌花がありますが、雄花から雌花への花粉の受粉はキノコバエ(茸蝿)の仲間による虫媒によって行われます。雄性の仏炎苞の開口部から進入したキノコバエは雄花群から出された花粉を身にまとい、仏炎苞下部にある隙間から脱出することができますが、雌性の仏炎苞ではキノコバエが脱出できる隙間がなく、開口部から進入したキノコバエは雌花群をうろつく間に授粉させられ、最後は脱出できずに死んでしまいます。

今回はシャンパンにしました。 [機内 CY]

Nicolas Feuillatte
いつも機内ではお酒の類はビールしか飲みませんが、今回はNicolas Feuillatte と言う美味しそうなシャンパンのミニボトルを見つけたのでシャンパンにしてみました。つまみもちょっと洒落た入れ物に入っていました。



日曜日は要注意 [バハマ]

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日本からシカゴ経由でバハマのナッソーに着いたのが日曜日の夕方でした。さっそくバハマで有名なコンク貝(法螺貝)やシーフードを食べようと散歩を兼ねて街に出ました。とりあえずホテルの前でレストランを1軒見つけましたが、でも、そこに入ったのでは散歩にならないので街の方に探しに出ました。ところがレストランの、ほとんど閉まっているのです。今日は日曜日だ!
やっとにぎやかそうなお店を見つけて入りました。この写真は翌日ビーチの方から撮ったレストランの写真です。海に面して雰囲気は最高でした。
お店の名前はSenor Frogs (←クリックすると歌付きのHPを表示)です。ストローマーケットの前にあります。カエルのマークが目印です。

ところがシーフードもコンク貝もありませんでした。ビールを一杯だけ飲んでホテルの前のレストラン行くつもりで、このレストランに入りました。ビールのツマミのつもりで頼んだタコスやアボガドをつけて食べるチップスなどの料理の量を見てビックリ、結局、追加のビールをどんどん頼んでしまい、「明日があるから」と、その日はシーフードもコンク貝も諦めることになりました。(泣) でもビールは沢山飲めました。(ニコ)
なんと、このお店にはバハマビールのKALIKがありませんでした。メキシコビールなのです。コロナビールにライムを入れて飲みました。
ここはメキシコ料理のお店でした。それもメキシコ を中心に展開しているチェーン店でした。さすがメキシコ魂!日曜日も、ものともせず開店していたのです。
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元佐倉藩・藩主の明治の邸宅 堀田邸 [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

佐倉藩の第5代藩主である堀田正睦の四男で第6代(最後の)藩主の堀田正倫は明治維新で17歳で藩知事となり、廃藩置県(明治4年7月14日 / 1871年8月29日)後は東京に移住し明治17年(1884年)に伯爵に叙されたあと、この堀田邸を建て明治23年(1890年)の38歳の時にに佐倉に戻りました。
堀田正倫が佐倉藩の藩主であったのが6歳~17歳であったのにも驚かされました。上の写真が堀田邸の門です。堀田邸が立派な建物であり元藩主の邸宅であったことから2006年に国の重要文化財に指定されました。

こちらは門の横に建っている門番所です。通常は非公開ですが特定の日に公開されるそうです。


こちらは門番所とは反対側に建っている土蔵です。


下は堀田邸の一階のは配置図です。
堀田邸は玄関棟、居間棟、台所棟、書斎棟、座敷棟、湯殿で成り立っています。クリックすると拡大居間棟のみ二階建てで右が居間棟の二階の配置図です。この配置図では上が南方向で下が北方向です。配置図の中に雪隠(せっちん)が6箇所書かれていました。雪隠はトイレ(厠/便所)のことです。トイレが6ケ所もあるだけの広さでした。このままでは文字が読みにくいけれども、下の図も右の図もクリックすると拡大します。クリックして雪隠を探してみてください。
クリックすると拡大します。

昔の堀田邸の模型があったので掲載いたします。この堀田邸は堀田正倫が東京深川佐賀町から旧領地である佐倉に居を移すために明治20年頃に約二万坪の用地を購入して明治21年に屋敷の建設に着手し、明治23年に完成いたしました。その後も明治27年ごろまで継続して工事がおこなわれました。


広大な敷地の中に堀田邸だけでなく農業試験場がありました。堀田正倫は私財を使って農業と教育の発展に尽くしたことは有名です。堀田家農業試験場は明治時代の千葉県を代表する農業研究機関でした。奨学金を作ったり学校建設への多額の寄付も行ないました。


この写真が堀田正倫で、左が幕末期の写真です。第15代将軍・徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、上洛して徳川慶喜の助命と徳川氏の存続を嘆願しましたが、明治新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態とされてしまったことにより、佐倉藩の家臣たちは新政府に逆らうことが出来なくなってしまいました。そのことにより佐倉藩は官軍側と判断されて政府軍に攻められることもなく改易も免れることになりました。その時が16歳でした。
右が明治11年(1872年)の写真で、この時21歳でした。明治に入ってから佐倉に住んだのは38歳の明治23年(1890年)でした。



玄関棟
堀田邸は123年前の明治23年(1890年)に完成しました。ここが玄関にあたる玄関棟です。玄関棟は「玄関」、「中の口」、「応接の間」、「六畳の間」、「家丁詰所」、「対面所」、「家従詰所」、「家令詰所」、「畳廊下」で成り立っています。


玄関の棟の「応接の間」です。甲冑が飾られていました。左側に写真と色紙が飾られていました。
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その色紙は大沢たかおさんと、綾瀬はるかさんの色紙でした。実はドラマ「JIN-仁}が、この堀田邸で撮影されたのでした。


写真も紹介いたします。これはドラマ「JIN-仁」で使われた場面です。下関の長州藩邸の玄関前との設定です。坂本龍馬(内野聖陽)と東修介(佐藤隆太)です。
龍馬「何ちゅう正直な男じゃ! ワシャ、そういうヤツが大好きじゃき」
これは堀田邸の玄関前で撮られたものと思います。


こちらが畳廊下です。障子の外側の廊下に赤いじゅうたんがひかれているために全体に赤く見えます。


玄関棟の部分の南側の廊下です。前に見えているのは座敷棟です。



居間棟
こちらの部屋が居間棟のメインとなる「居間」です。


この部屋は居間棟の「役女詰所」で奥に見える部屋が「寝の間」です。これ以外に「次の間」と「台笥」の部屋が居間棟の1階にありました。


こちらが「寝の間」です。ことらには入ることが出来ないので「役女詰所」からの入口側から撮りました。


居間棟には2階があります。2階に上がる階段ですが、驚くほどに急な階段でした。武士時代の名残があるのかもしれません。


居間棟の2階は非公開で上がれないので飾ってあった写真を紹介します。2階には「上の間」と3つの「次の間」の計4部屋で構成されています。


居間棟の南側の長い廊下です。



書院棟
書院棟と書院棟に行く渡り廊下です。


書院棟への渡り廊です。右の建物のように見えるのが渡り廊下です。
クリックすると拡大書院棟あたりで、南方仁(大沢たかお)と橘咲(綾瀬はるか)が撮影された場面が右の写真です。クリックすると拡大します。設定場所は川越藩・別邸の池のほとりです。
 仁「・・・・・あ、ありがとうございます。!」
 咲(その仁の姿を優しい目で見つめ)「・・・・・・・」



座敷棟
こちらが座敷棟の「客座敷」と「次の間」です。
クリックすると拡大手前が「客座敷」で、その向こう側が「次の間」でその向こうが「入側」です。ここでは「入側」が3部屋ある上に、仏壇を置かれる祠堂にも「上の間」と「次の間」がありました。
ここでも「JIN-仁」の撮影が行われました。京都の薩摩藩邸で坂本龍馬と西郷隆盛が会った場面です。


下の写真は桐をあしらった釘隠しです。堀田邸では桐と橘と楓の3種類の釘隠しが使われていました。
右の釘隠しは橘です。


下の写真は座敷棟の廊下です。
クリックすると拡大ここで右の薩摩藩の京都の藩邸の縁側を想定して撮影された場所です。ガラス戸は外して撮影されたようです。ガラスはひずみがあることから古いもののようでした。現在はこのようにひずんだガラスを作るのは難しいと思うので貴重なガラスが使われているようです。
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座敷棟を庭側から撮りました。
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手が込んだ造りになっていました。


玄関棟と座敷棟を結ぶ渡廊下です。畳の廊下になっていました。重要な客人が客座敷に行くときに通る廊下です。
玄関を入って客座敷まですべて畳の上を歩いて行ける配慮でした。


テレビドラマ「坂の上の雲」も座敷棟で撮影されたようです。
「坂の上の雲」は、2009年11月29日から2011年12月25日まで足掛け3年に亘ってNHKで放送されたテレビドラマの特別番組です。



湯殿
これは「化粧の間」から見た「湯殿」です。


こちらが湯殿の横にある「化粧の間」です。左の入口を入ると「湯殿」です。



庭など
堀田邸の南側は広い庭園が広がっていました。建物は国指定重要文化財で庭園は千葉県指定文化財名勝です。庭園は無料で入れます。
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庭からの堀田邸も趣がありました。
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松の景観は見事でした。
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左は庭の正面からの堀田邸の写真です。近代的な大きな病院(佐倉厚生園)の建物が堀田邸の後ろにあります。写真を撮る人にとっては、もう少し離して建ててほしかった気がします。でも無料で庭園が散策できるのはすばらしいです。
クリックすると拡大クリックすると拡大

庭園側から見た書院棟(手前)と座敷棟(奥側)です。


クリックすると拡大他にも撮影が行われたようで沢山の色紙がありました。不思議な組み合わせですが侍戦隊シンケンキジャーも、ここで撮影されたことがあるそうです。侍戦隊シンケンキジャーは2009年2月15日~2010年2月7日までテレビ朝日系列で毎週日曜7時30分~ 8時00分に放送された東映制作の特撮テレビドラマです。これは居間棟の前の庭で撮られたようです。
色紙を残された人は「大沢たかおさ」「綾瀬はるか」「石原さとみ」「本木雅弘」「片岡鶴太郎」「高梨臨」「相葉弘樹」「松坂桃李」「鈴木勝吾」「森田涼花」「相馬圭祐」「伊吹吾郎」が写真に残っている範囲で確認できました。
クリックすると別の色紙

場所を紹介します。
 住所 千葉県佐倉市鏑木町274
 電話 043-483-2390
 開館 10:00~16:30
 休館 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月28日~1月4日
 料金 一般 310円 児童・学生 150円 (小中学生は土曜日無料)

より大きな地図で -堀田邸 周辺 を表示
 

天保14年の医学塾 佐倉順天堂 [千葉]



幕末の佐倉藩の藩主で幕府の老中を努めた堀田正睦は蘭学を奨励し、西洋医術の普及に力を入れていました。その頃、江戸で有名な医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町に順天堂を開かせました。その佐倉順天堂の建物の一部が今も記念館として残っています。その佐倉順天堂記念館に行ってきました。佐倉市に住んでいながら今まで知らなかったすごい歴史に驚きました。その佐倉順天堂を紹介いたします。佐倉順天堂が出来るまでの経緯です。
 1838年(天保 9 年) 佐藤泰然が江戸薬研堀に蘭方医学塾「和田塾」を創立
 1843年(天保14年) 和田塾が佐倉に移転し医学塾順天堂を開設
 1858年(安政 5 年) 現存建物の建設
つまり、こちらの医学塾順天堂は、天保→弘化→嘉永→安政→万延→元治→慶応→明治→ と、日本の医術の進歩に貢献してきたのです。

こちらが今から170年前の天保14年に創設された医学塾順天堂です。写真の建物は開設から15年目、今から155年前の安政5年(1858年)に建てられた建物です。この建物は玄関を中心に左右対称に近い形であったと思われますが、現在は入口を含めて左側だけが残っています。千葉県の指定史跡となっているこの建物の右側には現在も開業している佐倉順天堂医院のコンクリート製の建物が建っています。ちなみに佐藤泰然は現在の神奈川県川崎市で生まれました。1830年(26歳)に蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事し、1835年(31歳)に長崎に留学し、1838年(34歳)に江戸の両国薬研堀に和田塾を創立しました。


当時の佐倉順天堂職員の写真ですが、まさにこの建物なのです。佐倉藩は当時、「西の長崎、東の佐倉」と言われるほど西洋医学研究の先進地だったのです。
クリックすると拡大

慶応元年(1865年)5月時点の佐倉順天堂の門人(塾生)たちの出身地です。
ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
佐藤泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育をとり入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学会において活躍しました。明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、御茶ノ水に順天堂医院を開業しました。それが現在の順天堂大学につながっていきました。
一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。画像をクリックすると慶応元年5月時点の門人(塾生)の名前と出身地が書かれた名簿を表示します。藩の枠を超えて沢山の人たちが集まったのには感動します。幕末から明治期に御典医から軍医として活躍した松本良順は佐藤泰然の実の息子で、幼名は佐藤順之助でしたが、幕医の松本良甫の養子となり松本良順となりました。
クリックすると名簿を表示します。

これが佐倉順天堂の模型です。
この模型からも当時の規模が伺えます。中央の少し左側の大きな建物の一部(約80%)が現在残っている建物だと思います。右の配置図の赤く着色した部分です。



これが玄関の入口部分です。


玄関を上がったところです。一時期は受付に使われたような雰囲気がありました。


内部から玄関の方を撮りました。建物の中には沢山の貴重な資料が展示されており、建物と同様に、見る価値の高いものでした。


当時の器具も残っており、展示されていました。


玄関からまっすぐにのびている廊下です。玄関から反対側から玄関方向を撮りました。この廊下は昔は別棟への長い渡り廊下とまっすぐにつながっていました。


解説もしっかりと行われていて参考になりました。赤い病院の文字が印象的です。


一番手前が「小児科書」で青い本が「外科医法」と書かれた当時の医学書ではないかと思います。外科医法はドイツの外科医ストロマイエルの原著を蘭訳本を介して邦訳したもので全部で18冊あり日本の西洋外科医学の古典だそうです。


大切に保管された書類です。説明には「医案書」と書かれていました。今の病院のどのような書類に相当するかはわかりませんが、大切なもののようです。


左が領収書で木村康どの宛の診察料で壱円(一円)と書かれていました。領収書の日付である明治廿九年七月十四日ごろには、かなりの額だと思います。右が種痘証で日付は明治十八年三月四日(1882年)となっていました。日本で種痘が行われたのは1790年ですが、定着したのが種痘法が出来た1909年ですが、その27年前の種痘を行った証明書です。種痘を受けた人の名前も書かれていますが達筆すぎで読めません。佐藤泰然の功績の一つが、感染者の4~5割が死に至る感染症として長く恐れられていた天然痘はのワクチンである種痘の開発でした。


この部屋に当時の順天堂の模型が置かれていました。


ビーカーやフラスコなど学校の実験室を思い出させてくれる光景でした。


こちらでは、主に江戸時代のものが置かれていました。


江戸時代に購入した英国製の顕微鏡です。


江戸時代に行われていた手術の光景を描いた絵です。
この絵は後藤三男の描いた「嘉永年間における 順天堂外科手術の図」です。嘉永年間とは1848年から1854年までの期間を指します。


クリックすると登場人物を表示江戸時代の手術道具です。ノコギリなど、すごい手術が行われていたことが伝わってきます。テレビドラマ「JIN -仁-」の世界に入ったような感じでした。右の写真が「JIN -仁-」の主役の南方仁です。クリックすると動画を表示します。


これも手術道具かと一瞬驚きましたが、薬を作る道具でした。ちょっと安心いたしました。


これは安政元年の治療費を定めた料金表である療治定です。順天堂で実際に行われていた治療を知る貴重な資料です。その内容を見て驚きました。是非とも写真をクリックしてみてください。江戸時代にこれだけの治療が行われていたのかと驚かれると思います。
クリックすると拡大

拡大するのが面倒な方に一部を拡大したものを掲載いたしました。割腹出胎児術(金十両)の文字が読み取れます。帝王切開が順天堂では江戸時代に行われていたことに驚きました。上の写真をクリックした拡大写真ではガンの摘出手術と思われる治療など高度な医療が行われていた様子が読み取れます。雑病治(銀10匁)以外は全て金(両 疋)での表示です。江戸時代は金 銀 銭(寛永通寳)の三貨制度でした。江戸後期は金1両=銀150匁だったので、雑病治の銀10匁は金27疋=(10÷150x400)程度の価値になります。
 金1両=金400疋=銀50~150匁(平均60匁)=銭4000文 1貫=1000匁


現在の貨幣価値に換算したのが、こちらです。帝王切開だけでなく白内障手術まで安政元年時点でおこなわれていたのには驚きました。現代で言えば最新医療なのだと思います。
  3cm刀傷      6,800円    膀胱穿刺手術    20,500円  
  乳ガン手術    68,400円    動脈止血      68,400円
  手足の切断手術  136,800円    白内障手術      68,400円
  卵巣水腫手術   273,700円    帝王切開手術   273,700円


道路から見た佐倉順天堂です。


実は隣に病院があります。それが医学塾順天堂が直系で続いている佐倉順天堂医院です。医院長はなんと名前が佐藤仁さんでした。テレビドラマ「JIN -仁-」の主人公の名前が南方仁です。名前の「仁」が同じなのが因縁を感じてしまいます。


佐藤仁さんは初代の蘭医の佐藤泰然の7代目になるそうです。祖父の代で一度閉鎖しましたが、父が再度開院したそうです。佐倉順天堂医院の看板です。最近まで佐倉順天堂醫院の文字が使われていたようです。


旧佐倉順天堂(佐倉順天堂記念館)を紹介いたします。
中心の青いマークが旧佐倉順天堂の場所です。100円でこれだけの体験が出来るのは値打ちがあります。
地図の中のアイコンマイナスを数回クリックすると場所がわかってくると思います。
 住所 千葉県佐倉市本町81番地
 電話 043-485-5017
 開館 9:00~17:00
 休館 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月28日~1月4日
 料金 一般 100円 児童・学生 50円 (小中学生は土曜日無料) 

より大きな地図で 佐倉順天堂 周辺 を表示

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春の梨園は花が満開 [植物]



今朝2013年4月9日のワンコの散歩の時に梨園の横を通ると花が満開でした。桜の花は例年よりも10日近く開花が早かったので梨の花も例年よりは早いのだと思います。桜と同じバラ科なので花は桜にそっくりです。
      梨(ナシ)         林檎(りんご)      ソメイヨシノ
  目 バラ目 Rosales    バラ目 Rosales    バラ目 Rosales
  科 バラ科 Rosaceae   バラ科 Rosaceae  バラ科 Rosaceae
亜科 ナシ亜科 Maloideae ナシ亜科 Maloideae サクラ亜科 Amygdaloideae
  属 ナシ属 Pyrus      リンゴ属 Malus    サクラ属 Cerasus
学名 Pyrus pyrifolia    Malus pumila    Cerasus ×yedoensis
 

重たい実がついても枝がたわまないように水平に棚を作っています。独特の景観の花見が出来ます。


ここでは豊水と幸水が作られているので、どちらかの花だと思います。


棚の上からの景観も紹介いたします。垂直に立っている支柱によって重たい果実が出来ても枝が水平に保たれることが判りました。


ズームを使って大きく撮ると花が咲いていることがよくわかります。


ここから下で以前に撮った同じ梨園の写真も紹介いたします。いずれも2007年のものです。この時は花の写真が撮れなかったので、花の写真が撮れた時に記事に掲載するつもりでしたが6年も経ってしまいました。(笑)

4月21日の花が終わったばかりの梨園の風景です。木が立派です。


花弁が僅かに残っていますが、すでに花の根本は膨らんできています。これから実が大きくなることがわかります。



6月16日です。初夏の梨園です。実が膨らんできていました。ピンポン玉くらいの大きさでした。これからが楽しみです。果実は垂れ下がっているイメージだったので果実の枝(柄)が水平なのが印象的でした。果実が大きくなると重さで下に垂れるのだと思います。


梨園は鳥の食害から守るためか、細かいネットで何重にも覆われています。上の写真もこの写真も小さな網目から撮ったために廻りが白く霞んでいます。小さいレンズのコンパクトカメラだから撮れた映像です。



8月5日です。夏の梨園です。袋がかけられて実は見ることが出来ませんが、もうすぐ収穫の季節です。近所では、なかなか評判の梨園です。毎年、直売が始まるのを楽しみにしています。

成田空港・第一ターミナルの出国審査は7時半からでした。 [機内 CY]



ソウル(インチョン)空港経由でカザフスタンに行くとき、成田からは9時0分発のアシアナ航空(OZ)を使いました。安全を見て7時ごろに着く電車で行きましたが、チェックインカウンターも空いていることから、すぐに手続きが終わってしまいました。今回はラウンジでゆっくり出来ると思っていると、安全検査場に入るところに長蛇の列が出来ていました。聞くと保安検査(セキュリティーチェック)も出国審査も7時半(7:30)からでした。当然ですがラウンジがオープンするのも7時半からとのことでした。そして出国自動化ケートは8時からでした。
ちなみに早朝便のある航空会社のチェックインカウンターは7時からとのことでした。

アシアナ航空はスターアライアンスとのことなのでANAのラウンジかUAのラウンジが使えますが搭乗口が近いUAのラウンジに入ってみました。食べ物の内容から選択するのであればANAのラウンジですが、距離があり過ぎました。
食べ物の内容は期待は出来ませんが、広さであれば圧倒的にUAのラウンジです。電話が無料なのは良いですね。ただし携帯電話へはかかりませんでした。窓側に近いところの席を撮りましたが右側には巨大なスペースがあります。


見ての通りシンプルなサービスの提供です。


ただし、おにぎりのサービスはありました。


柿の種に入っているのはピーナッツではなくカシュナッツやアモンドなど3種類のナッツが入っているのは、私としてはうれしいです。


トルコの観光ツアー [トルコ]



チャナッカレ(Canakkale)のホテルに宿泊した最初の日は何組かの日本人の観光ツアーの人たちが泊まられていましたが宿泊客はそんなに多くない静かな場所との印象でした。ところが、次の日は驚くことに大型バスが9台到着しました。すごい人数でした。長い経験の中でも一つのホテルでこれだけの人数の日本の観光客の人たちを見たことはありませんでした。たぶん一つのホテルに集中しているためだと思います。確かにこの町では他のホテルではランクが落ちすぎる感じがしました。朝早くて暗いけれど写真を撮ったときはすでにバスが出発して少なくなってきつつある状態でした。

経験のある人ならスーツケースの形を見れば判るように、ほとんどが日本の観光客の人たちでした。(外国人であればソフトケースやハードやらと形や素材がバラエティーに富んでいます。)
イスタンブールから5~6時間かかる場所なのにと驚きましたが、実は近くにトロイ遺跡があるのです。交通の要所ではあるけれどトロイ遺跡がなければ辺鄙な場所です。したがって、ここに来る観光客の人はトロイ遺跡だけが目的ではなくてトルコ一周のバスツアーの人たちであろう思い、そのツアーの添乗員の人にに聞いてみるとやはり12日間のトルコ一周バスツアーとの答えが返ってきました。


朝の6時台からホテルのレストランは超満員です。そして7時ごろから出発し始めてました。散歩して9時半ごろホテルに戻ってくると、バスはすべて出発した後でした。
    

たしかにトルコにはイスタンブール以外にカッパドキアなど魅力的ところが沢山あるのでハードなバスツアーに、これだけの沢山の人が来ているのには驚きません。そんな中で日本の観光客の人が体調をこわすことも、すごく多いとトルコに長く住んでいる人に聞きました。トルコは我々の持っているイメージよりも広い国で10日以上の長時間のバス移動では体調をこわす人が出ても不思議ではないと話されていました。

ほうちゃくそう [植物]


名前は「ほうちゃくそう( 宝鐸草 )」です。きんらん(金蘭)の近くに沢山咲いていました。これだけ沢山咲くのは生命力の強い植物のような気がします。

 ユリ科
 学名 : Disporum sessile
参照文献 : 牧野新日本植物図鑑

山口県の山賊村 [山口県]



山口県の岩国の近くに古い建物が並んだ不思議な雰囲気のお店がありました。岩国から徳山に向かって国道2号線を走っているときに気になっていました。岩国に戻ってくるときに、ちょうど昼時であったことから、そのお店に入りました。上の写真がお店に入る寸前の写真です。地元では誰もが知っている「いろり山賊 玖珂店」です。我々、県外の人間にとっては珍しいお店なので紹介いたします。

駐車場の写真ですが、ほぼ満車になるほど人気のお店でした。ちょうど一つ空いていたので助かりました。古めかしい木造の建物と目立つ飾り付けがあるのですぐにわかると思います。
ここを知ったのは2013年3月19日に山口県下松市大字河内にある岩徳線の周防久保駅の近くにある父方のお墓にお彼岸のお墓詣りに行ったときに近くの岩国に住む叔父さん(母の弟)が車を出してくれて岩国と周防久保を往復してくれた時のことでした。


この写真のように古めかしい建物がある上、谷沿いにも建物が沢山ありました。そのため山賊村と呼ばれているのだと思います。調べてみると結構大きなチェーン店で、こちらは3店舗で成り立っています。我々は竈(かまど)というお店に入りました。写真の奥の建物が桃李庵で、手前の建物が竈です。
  店舗 桃李庵(とうりあん)10:00~24:00 木曜日(休)
     竈(かまど)    10:00~24:00 水曜日(休)
     いろり山賊    9:30~翌5:00 火曜日(休)
  住所 山口県岩国市玖珂町1380-1
  電話 827-82-3115
  HP  http://www.irori-sanzoku.co.jp/kugaten/kuga.html
  航空 http://goo.gl/maps/cGbqn


土産物屋やお弁当屋さんもありなかなかの雰囲気のお店でした。写真の太鼓は子供さんに人気でした。


沢山のお店があり散策するのも楽しくなる雰囲気でした。子供に喜ばれるのも人気の一つの理由かもしれません。


今の時期、桃李庵や竈ではコタツで食事が出来るのです。これも珍しいです。お店の名前の竈(かまど)が並んでいました。


少し暖かくなってきたので、山賊村の中でも、ここが一番人気の席のようでした。クリックすると拡大いろんなタイプの席がありました。米軍の岩国基地や景勝地の錦帯橋があることから外人の方も目立っていました。正面に桃李庵への入口があります。3店舗の中で一番格式が高そうなお店です。crayfishさんからコメントいただいた缶ビールの自動販売機が、こちらの写真に写っています。下の写真をクリックするとわかると思いますが、右にも拡大写真を掲載いたしました。お店の中に缶ビールの自動販売機を見たのは初めてでした。ノンアールコールビールも、ちゃんと入っているようです。
クリックすると拡大

こちらが建物の中です。こちらでも炬燵(こたつ)でした。左の人は焼肉を食べられていました。肉は皇牛(すめらぎぎゅう)でいろり焼き(1785円)から皇ひれ(3045円)の焼肉がありました。皇牛は、日本の肉牛のルーツといわれている純血日本種で天然記念物の見島牛の伝統を守り続けていく黒毛和牛で山口県の自慢の牛肉です。山口県の代表的な牛肉は皇牛と高森牛と無角和牛です。
このあと、お客さんが沢山入ってこられました。


店名にもなっている竈(かまど)が沢山並んだ、この場所で食事をいただきました。


天井は高く飾り付けも趣向を凝らしていました。


こちらにも上がって食事をすることが出来ます。映画の中の山賊の家のようです。


こちらで人気の3つ料理が「山賊焼」と「山賊むすび」と「山賊手打うどん」で、周りを見ていると「山賊焼+山賊手打うどん」の組み合わせを頼んでいる人が多かったです。


私が頼んだのが、叔母さんのお薦めで「山賊焼+山賊むすび」を頼みました。お店の名前らしく豪快な料理でした。おむすびも、私のいつもの茶碗ならば3杯以上の大きさでした。


こちらが山賊焼で鶏のモモ肉に串を刺して醤油系の甘辛いたれをつけて、香ばしく焼いてありました。山賊になった気分で豪快にかぶりつきました。
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おむすびの中身は梅干と鮭でした。


と思ったら、昆布も入っていました。つまり梅干と鮭と昆布のおにぎりだったのです。


おむすびの大きさを実感してもらうために写真を追加いたしました。写真をクリックするとさらに拡大いたします。
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屋外で炭火で焼かれる皇牛も美味しそうでした。


素朴な「おはぎ」と「草もち」も置かれておりお土産に買っていただき家に帰って食べました。特に草餅はヨモギの香りがいっぱいで昔ながらの素朴な味で美味しかったです。大きかったので半分に切って、一日置いておくだけで固くなってしまいました。まさに餅そのものだったのです。もちろん焼くと美味しくいただけました。


お店の奥が谷になっており、その川沿いにも屋外で食べれるところがありました。さすがにちょっと寒くて、まだやっていませんでした。火曜日だったので、こちらは定休日だったのかもしれません。


川沿いの掃除も店員の方が丁寧にされているのに感心いたしました。


山の奥に神社がありました。名前は魂稲荷神社で「魂」は「むすび」と呼ぶそうです。
この魂稲成神社(むすびいなりじんじゃ)」は、もともとは山口県岩国市美川町根笠の瀬倉部落(おそくらぶらく)にありました。河内大明神神社(津和野太鼓谷稲成の分身)を、1988年に移築したものです。当時の美川町の総代田村様のご尽力により、過疎化の為崩壊の進む神社をそのまま荒廃させるのはしのび無いと山賊の社長が協力し移築の運びとなったそうです。山賊の守り神ということになるようです。


左下の緑のマークが「いろり山賊 玖珂店」の場所です。赤いマークは錦帯橋です。青いマークが新幹線の新岩国駅で空色マークが去年2012年の12月に開港した岩国錦帯橋空港です。
叔父さんたちに、どのような人が「いろり山賊 玖珂店」利用しているのかと聞くと、地元の人が訪ねて来た人を案内したり、道を通っている人が、興味をひかれて入っているのが多いのではないかと言われていました。この辺りでは車で行けるレストランで最も大きいことでも利用している人もいる気がしました。ちょっとしたテーマパークのようなレストランなのだと思いました。

より大きな地図で 岩国周辺 を表示
国道2号線を走っていると、同じチェーン店である「いろり山賊 周東店」がありました。上で紹介のお店に比べると規模は小さいけれども高い櫓(やぐら)の迫力のあるお店でした。
  店舗 山賊 老松
  住所 山口県岩国市周東町2354-1
  電話 0827-84-3914


いろり山賊の歴史を調べてみました。 62年前の居酒屋・的場大学が起源で、長い歴史があることを知りました。
1951年 広島 居酒屋・的場大学が開店
1967年 広島 的場大学は大学と名を変えて堀川町に移設
1967年 株式会社ファミリーレストラン大学として発足
1971年 玖珂 いろり山賊 開店
1972年 玖珂 公卿七厘 開店 茅葺の建物
1976年 玖珂 竈(かまど)旧館 開店
1978年 錦町 一燈銭 開店
1981年 錦町 山賊砦 開店
1982年 玖珂 竈(かまど)新館 開店
1984年 広島 堀川町 本店 火災焼失
クリックすると拡大1985年 周東 老松 開店
1987年 玖珂 桃李庵(とうりあん) 開店
1989年 外食産業→情感産業 平成1年
1989年 玖珂 魂稲荷神社 移築完成
1989年 玖珂 公卿七厘火災焼失
2011年 錦町 長屋門完成
2013年 玖珂 4月10日倉庫と思われる建物で火災発生
枠内の写真はホームページから拝借した錦町の長屋門


2013年4月10日追記 タイトル : 山賊で火災発生
2013年4月10日 火災速報
 今日 2013年4月10日に玖珂店で倉庫と思われる建物で火事発生
 ケガ人なし・店舗は無事の模様
 本記事にネットから拝借した写真と動画を追加しました。

2013年4月10日に発生した火事の写真です。写真はネットから拝借いたしました。写真をクリックすると動画を表示します。
突然に「山賊 火災 火事 山賊火災 山賊火事」のキーワードでの検索によるアクセスが増えたので火事のことを気がつきました。
本記事への訪問者数およびアクセス数は下記の通りです。
        訪問者数   アクセス数
  4月09日    3         3
  4月10日   1150      1491  ←火事のあった日
  4月11日    257       333
  4月12日    81        91
  4月13日    30        33


動画も追加掲載いたしました。火が出た建物は大工小屋で、従業員の休憩所と食材をいれる冷蔵庫などがあった隣の倉庫も全焼したそうです。


火災が起こった場所です。写真や動画などから、赤色の火災のマークの場所が火事となったようです。緑のマークは店舗や神社です。
当時は強風注意報と乾燥注意報が出ており、強風のために火は山林に燃え移り、山陽新幹線のトンネル入口に近いことから新幹線は新岩国~徳山は上下線ともに正午過ぎから約40分間ほど見合わせていましたが12時48分に順次運転再開しました。この火災の影響で、山陽新幹線の列車に5~40分の遅れがでたそうです。

より大きな地図で いろり山賊周辺 を表示
ネット上での記事を掲載
広島でもなじみ深い“いろり山賊”玖珂店で火事
広島県民にとってもなじみ深い、山口県岩国市にある「いろり山賊」玖珂店で、10日午前倉庫など関連施設が燃える火事がありました。激しく燃え上がる炎。こちらは出火直後に近くを通りかかった人が撮影した映像です。撮影した人は「かなり風も強くて風にあおられて火もすごい燃えあがっているような。とにかく煙と炎がすごい」と話していました。10日午前11時すぎ、山口県岩国市の「いろり山賊」の関連施設が燃えていると、店の関係者から110番通報がありました。消防車15台などが駆けつけ消火活動が行われましたが、建物は全焼しました。店の関係者によりますと、火が出たのは大工小屋で、風にあおられて食材を保存する冷蔵庫などがある隣の倉庫に燃え移ったということです。国道2号を挟んで向かい側にある店舗には、当時客や従業員らおよそ70人がいたということですが、ケガ人はいないということです。「いろり山賊」玖珂店は、広島と山口の県境から車でおよそ40分程度の場所にあり、広島県民の人気ドライブスポットの1つです。

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たけのこ泥棒はダメです。 [筍]



そろそろタケノコの季節です。でも筍は無断で採らないように!

大阪の千里です。このあたりは立派な竹林があります。その竹林に「豊中市公園緑地課」がドキッとする看板を立てていました。沢山の看板が、竹林の周囲に立てられていました。ペンキが剥げて錆びてしまった看板もありました。


同じ竹林で絵を使った注意書き以外にいろんな看板がありました。いい竹の子が採れる場所のようです。看板に書かれている「公園緑地課」はどうやら、昔の名前のようで、今は環境部の「公園みどり推進課」にかわっているようです。ネットでは今も古い記事で「土木部公園緑地課」が検索されますが、以前に「旧土木部から(環境部へ)公園緑地課を移し、公園みどり推進課に名称変更しました。 」という記述がネットに書かれていました。


こちらの竹林のなかでは、まだ竹の子は覗いていないようです。立派なタケノコが出てきそうです。

自転車が初パンク [日々]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

関東地方に猛烈な強風が吹き荒れた2013年4月7日に、無謀にも今年初めて自転車を持ち出して印旛沼のサイクリングロードを往復して「吉高の大桜」に行ってきました。
向かい風では必死で漕いでも、恐ろしくスピートが出ないのに、追い風では軽く漕ぐだけで40km/hのスピードが出るほどの風でした。横風の時は風上側に車体を傾けて走るのも初めての経験でした。まるで競輪場の斜めのバンクを走っているような雰囲気でした。それでも無事に帰ってきました。翌日の朝、ふと玄関の自転車を見ると前のタイヤの下が凹んでいるように見えるので触ってみると、ぺちゃんこでした。中のチューブを取り出して空気を入れて顔の頬の部分に近づけて小さな穴を見つけました。空気を抜いても場所がわかるように蛍光ペンで〇印を付けました。左上の写真は穴を拡大したものです。

下の写真のようにタイヤの同じ場所を見ると、こちらにも穴が開いていました。タイヤの方は見てすぐに判る大きさでした。細いものが貫通したようでした。こちらも拡大写真を左に紹介いたします。


実は、このような穴が開いたことには身に覚えがあることなのです。印旛沼サイクリングロードの脇には沢山の桜が植えられているのですが、当日の猛烈な強風のために沢山の枝が道路上に落ちていたのです。出来る限り避けては走ってはいたのですが、あまりにも多量の枝があるので、何度か枝の上を走ってしまいました。タイヤは大気圧の7倍の圧力で固い状態なので木くらいでは穴が開くことはことはないであろうとも油断していました。おそらく偶然にも枝から針のような短い枝が真上に出ていて、偶然にもタイヤが中心を通ったものと思います。油断禁物ですね。それ以前に台風並みの強風の日に走ること自体も無謀でした。いい教訓になりました。


チューブを新しいものに取り換えて、自転車を買ったタキサイクルに行って予備のチューブを買ってきました。パンクしたチューブも小さな穴なので予備の予備チューブとして使うために修理していつも2本を積んでおくことににしました。タキサイクルの店長さんに再確認したところ、私の自転車の場合のタイヤ圧力は7.2kg/㎠(7.06bar 102psi)だそうです。右はポンプの圧力計です。微調整が難しいので7.4kg/㎠となりました。買った予備のチューブはサドルの下のケースに入れて、日曜日と同じコースを走って「吉高の大桜」に来て記念撮影をいたしました。この自転車では初めてのパンクでした。つまりタイトルの初パンクだったのです。
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こちらがタキサイクル(TAKIcycle)で買った予備のチューブです。普通は1000~2000円ですが、台湾製の安いチューブが置かれていたので、写真のものを買いました。527円のものが値引きされて501円と格安な値段でチューブが買えました。


穴が開いたチューブを修理するために買ったパッチです。ロードバイクに最適と書かれていたので迷わず買いました。ゴム糊は10年以上前に買ったものが残っていたので、そちらを使いました。


こちらが修理したチューブです。


パンクしたのが航空写真の緑のルートです。おそらく吉高の大桜からの帰りにパンクしたものと思われます。

より大きな地図で 吉高の大桜 を表示

千波湖は鳥の楽園 [水戸]



偕楽園の南東方向には大きな湖が広がっています。千波湖(せんばこ)です。一つの景観をを見せてくれます。

千波湖と桜川は水戸城の南側の外堀の役目を果たしていたそうです。面積は約332,000m²、湖の周回は3,000m。並木もありジョギングや散歩のコースとして親しまれている。堀のような部分が桜川で千波湖外周園路(ジョギングコース)によって千波湖と分離されています。上流(手前)に行くと桜川緑地があります。


昔の千波湖は水戸城の本丸の南東方向まで広がっておりさらに広い湖でした。主に昭和期の埋め立で狭くなったそうです。水色の部分が現在で薄紫色の部分が干拓前の千波湖です。江戸時代の後期に出された「水府志料」によれば、当時の千波湖の面積は約1,275,000m²(386,364坪)であったことから現在の3.84倍の面積があったことがわかります。この地図はSENBA LAKE OFFICIAL WEB SITEから拝借いたしました。


偕楽園から千波湖に降りると黒鳥(コクチョウ)が出迎えてくれました。黒鳥(コクチョウ)は南半球(オーストラリア固有種)の鳥なので、日本に渡ってくることはありえないので飼われている鳥です。すごい数の黒鳥でした。もしかしたら千波湖は"日本で黒鳥が最も多い湖"なのかもしれません。


こちらはガチョウ(鵞鳥)とハクチョウ(白鳥)です。千波湖ではコブハクチョウが沢山生息していると書かれていたので、この白鳥もコブハクチョウという種類のようです。ただしコブがある方が左のガチョウでこれはシナハクチョウに似ています。どちらも人懐っこくて人間を見ると近づいてきます。
白鳥の種類はコブハクチョウ、 コクチョウ、クロエリハクチョウ、オオハクチョウ、ナキハクチョウ、コハクチョウで日本に渡ってくる白鳥はオオハクチョウとコハクチョウだけのため、コクチョウ同様にコブハクチョウは飼われている鳥のようです。


カモも人に慣れていました。こちらは1mの距離が限度でした。千波湖の鳥たちというホームページ書かれていた鳥の名前は、コブハクチョウ、オオバン、キンクロハジロ、コクチョウ、カンムリカイツブリ、コガモ、バン、ホシハジロ、ミコアイサ、ユリカモメ、クイナでした。


かわいい鳥たちなので餌を与えている方を多く見かけました。湖畔には「自然な環境に生息させるために、餌を与えないでください。」と看板は立っていますが、餌やりは定着している感じでした。
餌の少ない冬に渡り鳥を守るために積極的に餌やりを行っている自治体も沢山あるほどで、さらに白鳥や黒鳥のように飼われている鳥が沢山ている千波湖では、餌やりに関しては賛否が、わかれるところです。子供の教育には看板を無視するのは好ましくないけれども、餌やりと鳥たちの数は相関関係で、この広い湖からみて適度に餌が与えられている感じで、今の状態でバランスとれている感じもしました。鳥たちに接することが出来て楽しかったです。湖畔のお店で餌を売っているくらいなので、気することでもなさそうでした。


遊歩道の脇では黒鳥たちが巣を作っていました。雛たちが沢山育っているそうです。


西側の湖岸から東の方向を見た千波湖の景色です。
遠くに見えるのは水戸の町です。


湖の真ん中にはいろいろと変化する噴水があり、時々きれいな姿を見せてくれました。西から水戸市内をバックにした噴水の姿を撮りたかったのですが、待ちきれなくて撮れませんでした。北側から撮った写真を紹介いたします。


あんこう鍋(どぶ汁) [水戸]



茨城県に来たら、やっぱりアンコウ鍋ですね。水戸に来て昼食は五鐵夢境庵でシャモの親子丼を食べたので夕食は、あんこう鍋を食べるために山翠を予約しました。

4人での夕食ですが、私は早めに来てしまったので、先に一人でビールをいただくことにいたしました。


お通しだけではさびしいのでビールの肴には奥久慈しやものタタキの小皿を頼みました。これでも小皿なのです。結局、メンバーがそろうまでにビールを二本ほど飲んでしまいました。お店を紹介します。
  店名 山翠 Sansui
  種類 郷土料理
  住所 茨城県水戸市泉町2丁目2番地40号
  電話 029-221-3617
  地図 http://goo.gl/maps/dD7b9
  営業 11:00~14:30 17:00~21:00
  定休 火曜日
  取材 テレビ東京 TBS フジテレビ


皆がそろったところで、さっそくあんこう鍋を頼みました。頼んだのは、どぶ汁と呼ばれるアンコウ鍋です。写真の大きなあんこうの肝をダシ汁にたっぷりと入れるのが、どぶ汁なのです。どぶ汁ではなく普通のあんこう鍋のダシにも肝と味噌を焼いたものが入れられるので、とぶ汁は特に肝が多いのだと思います。
コースではなく2人前の鍋単独を頼みました。コースではなく単独の鍋にしたのは、何度か水戸であんこう鍋のコースを食べたことがあるので、鍋以外は好きな料理を注文したかったからです。4人前ではなく2人前にしたのは、今回は飲むのが中心なので食べ切れないと思ったからでした。読みは正解でした。鍋単独とコースの値段を紹介いたします。ただし鍋は二人前からです。
コースには鍋以外に先付、お造り、あん肝ジュレ、あんこうの朴葉焼、香り物がついています。どぶ汁には雑炊がついています。どぶ汁でない場合は別料金で雑炊を頼みます。
  あんとう鍋 単独    3570円/一人前
  どぶ汁   単独    5775円/一人前
  あんこう鍋 コース   6983円/一人前
  どぶ汁   コース  10500円/一人前


IMG_5556-50.jpgどぶ汁に使われたあんこうの肝(あん肝)は、本当に大きかったです。これで二人前とは思えない大きさでした。この新鮮な生のあん肝をお鍋で乾煎りして味噌とだし汁を加えるそうです。右の写真がアンコウ(鮟鱇)です。アンコウは水深30m~500mの砂泥状の海底に生息し手足のように変形したヒレで海底を移動します。日本では、キアンコウ(ホンアンコウ)とアンコウ(クツアンコウ)が主な食用の種です。両種は別の属に分類されていますが、外見は良く似ています。そのため、一般に市場では区別されていません。外見的な特徴は頭部が大きく幅が広いく体は暗褐色から黒色で、やわらかく平らです。


野菜類です。ゴボウ、エノキ、春菊、白ネギ、白菜に二種類のコンニャクが入っていました。


こちらが鍋です。二人前とは思えない量がありました。あんこうの身もたっぷり入っていました。


鍋以外に注文した料理も少しだけ紹介します。この刺身コンニャクは格別に美味しかったです。これは食べてみないとわからない美味しさでした。このコンニャクも奥久慈のものだそうです。


あんこうのから揚げです。これ以外に奥久瀬しゃもの山椒焼きなど数種類頼みました。


そして最後は、どぶ汁の雑炊です。これは濃厚な雑炊で美味しかったです。不思議と肝が沢山入っているのに臭みはありませんでした。臭みを出さない秘伝の方法があるのだと思います。


久しぶりのホットドッグ [日々]

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一時期は日曜日の朝食の定番はホットドッグ(hot dog)でしたが、最近は軽いご飯で長くホットドックは食べていなかったので、急に食べたくなってお願いいたしました。

こちらが我が家のホットドッグです。土曜日にパンとソーセージとキャベツを買ってきて日曜日の朝に作りました。
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ついに特盛のつけ麺を注文いたしました。 [拉麺]


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2013年4月8日追記 
タイトル: ついに特盛のつけ麺を注文いたしました。
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特盛のラーメンは下でも紹介している通り、何度か注文いたしましたが、特盛のつけ麺は食べ切れる自信がなかったので、注文できていませんでした。でも是非とも紹介したかったので息子に特盛を頼んでもらって私は普通盛りを頼んで麺をシェアーすることにしました。上の写真が麺屋青山の特盛味玉丸太つけ麺です。下で紹介している普通のつめ麺と比較してみてください。

普通盛り(200g)と特盛り(500g)を比べてみました。
150円プラスするだけで麺だけでなく具も沢山乗っかるのが特盛のいいところです。シェアーしたとしても一人350gになります。
      らーめん つけ麺   価格
 普通   150g   200g   680円
 大盛   250g   300g   780円
 特盛   400g   500g   830円
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こちらは分厚い焼き豚が使われています。普通盛りだと1枚ですが、特盛になると2枚になります。
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つけ汁も大きな器で出てきました。
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家内は白濁魚介ラーメンを頼みました。
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2,549 327 80

2012年9月25日追記 タイトル:チャーシューこってり丸太つけ麺

久しぶりにラーメン店である麺屋青山臼井店の過去の記事に追加掲載をいたします。最近、見ている限りは、こちらのお店では男性の注文はつけ麺が圧倒的に多くなって来ているようなので、今回はつけ麺にいたしました。私が頼んだのが「チャーシューこってり丸太つけ麺」です。3年前にも紹介いたしましたが、その記事だとチャーシューは丸かったけれども今は短冊状になりました。昨年2011年8月15日の「白濁魚介チャーシューラーメン」と同じ形です。

こちらが麺のお皿の全体写真です。チャーシュー以外に味玉とメンマとホウレンソウと海苔が乗っていました。


つけダレと一緒の写真も紹介いたします。こんな形で出されます。


つけダレを拡大いたしました。


ラーメンやつけ麺の種類によって茹で時間が、こんなにも違います。一番短いのがあっさりの細麺で1分30秒なのに対して、今回食べた、丸太麺のつけ麺は6分です。さらに8分のものもありました。一番短い物に対して5.3倍も茹でるわけです。


こちらは子供が食べた大盛り味玉丸太つけ麺です。


こちらは家内が食べた、白濁魚介ラーメンです。つれ麺のつけダレに近い濃さのスープです。味はつけ麺に比べると甘みを若干抑えられていました。こちらの麺の茹で時間は2分30秒です。こちらのラーメンは下でも紹介していますので昔のものと比べてみてください。



2011年8月23日追記 タイトル:白濁魚介チャーシューラーメン

よく行くラーメン屋さんが2軒あります。先日、一年ぶりにラーメン屋さんの記事を更新いたしました。そこでこちらの、もう一軒のお店も更新いたします。お店の名前は麺屋青山・臼井店です。
この日(2011年8月15日)に頼んだのがチャーシュー・ラーメンです。ラーメンの食券を購入するとスープの種類を聞かれます。こちらではすでに紹介の通り5種類のスープが選択出来ますが白濁魚介を頼みました。スープによって麺の太さが違います。
太麺のラーメンは「こってり」で「細麺」のラーメンは「あっさり」なのでスープの特製に合わせて麺の太さを変えているそうなのですが食べてみると麺の太さを変えていることが実感出来る筈です。白濁魚介は、つけ麺のタレと思われるぐらい味わい深い濃いスープなのが特徴のラーメンです。
      太麺 白濁醤油    
      太麺 白濁魚介
      太麺 白濁にんにく油
      細麺 鶏ガラ醤油
      細麺 鶏ガラ魚介

分厚い炙りチャーシューが4枚入っていました。こちらのお店ではチャーシューを選ばなくても単なるラーメンにもチャーシューが入っているので普段はチャーシューは頼まないのですが、今回はブログ更新を意識して頼みました。標準的に乗っているトッピングはチャーシューに半熟卵にホウレン草にメンマにネギです。こちらの写真はクリックすると拡大します。
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こちらのチャーシューは一枚一枚炙ることと厚みが特徴です。厚みを実感してもらうためにこの写真を掲載いたしました。


お店のスタッフの男性陣はこのTシャツを着ておられました。Tシャツは売られており売上は東北大震災の義援金に寄付されるそうです。つけ麺で有名な大勝軒とつながり深いことがTシャツからもうかがえました。


エアコンが新調されていました。実は昨年(2010年)の夏はエアコンが故障していたために配られたウチワで扇ぎながらラーメンを食べていました。すごく暑かったことを思い出しました。これで熱いラーメンでも暑い思いをせずにラーメンが食べれます。右がラーメンの食券です。娘と食べにきました。上がチャーシュー・ラーメン980円で下が普通のラーメン680円です。この食券に注文に来たお姉さんがスープの種類を聞いて「サカタあ魚さ」の部分にボールペンで丸を付けていました。これで間違うことはないですね。
日時には2011年8月15日 13時12分と印字されています。



2010年9月6日掲載 タイトル:つけめん
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この日(2010年9月4日)は、よく行く臼井の麺屋青山というラーメン屋さんで、つけ麺を食べました。こちらはラーメンに関しては、5種類のスープが選択出来るラーメンと3種類のつけ麺を売りにしています。こってりスープのつけ汁に関して対しては平打ち麺と丸太麺の2種類から選べます。
こってりスープの、つけ麺は食べたことがありますが、あっさりスープのつけ汁の、つけ麺に関しては子供は経験がありましたが、私は食べたことがなかったので、今回は、そのあっさりスープのつけ麺にしました。麺は細麺になります。上の写真が細麺のつけ麺です。

下の写真があっさりスープのつけ麺です。すこし甘みを感じる美味しいつけ汁で、細麺にしていることがよくわかりました。食べ終わった後に、割りスープをもらって薄めて飲んでもいいし、そのままでも飲める濃さでした。
こってりのつけ麺も美味しかったけれども、このあっさりのつけ麺の美味しさも負けていませんでした。
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つけ汁と麺の両方並べて撮った、あっさりスープのつけ麺です。時々、半熟卵はおまけしてもらって2つにしてもらいます。 今回は通常通りでした。
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2009年8月30日掲載 タイトル:5種類のスープが選択できるラーメン
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数年前までは近所で美味しいラーメンを見つけることが出来ませんでしたが近所の人に教えてもらい2007年9月24日に初めて、今回紹介するラーメン屋さんに行きました。それ以来気に入って何度も行きました。食べに行った歴史を紹介いたします。
お店の名前は麺屋青山・臼井店です。初めて行って食べたのがうえの写真のラーメンです。ネットで検索すると結構出てきました。下で記載している日付はラーメンを食べに行った日です。
なかなかの人気店のようですが麺屋青山の成田店が評判で2号店として臼井に開店したそうです。スープは1号店と2号店では違うそうです。面白いですね。成田店にも行ってみたくなりました。
ここはラーメンを頼むと次の5種類のスープのどれにするか聞かれます。知らずに行くと迷ってしまいますね。3人で行ったので3種類を頼みました。上の写真は白濁醤油スープのチャーシューメンです。麺は太麺でした。写真のほとんどはクリックすると拡大するので気になるラーメンがあればクリックしてみてください。
  5種類のスープ いずれも鶏ガラ系
      白濁醤油
      白濁魚介
      白濁にんにく油
      鶏ガラ醤油
      鶏ガラ魚介

これは鶏ガラ魚介スープのラーメンです。 インパクトのあるスープでした。こちらは細麺です。
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最後が鶏ガラ醤油スープのラーメンでした。 鶏ガラ系のスープが細麺で白濁系が太麺の組み合わせになります。スープだけは2人からすごしづつもらい3種類とも味わってみました。どれもおいしいスープでした。特に鶏がら魚介スープは特徴がありました。


店構えです。このあたりではおいしいラーメン店が少なかったので気に入りました。この次は鶏白濁にんにく油スープのラーメンを食べてみたいです。
お店の前のポリバケツはチョット気になりますね。初めて行った頃からは営業時間が変わりました。昔は14:30~17:30までお休み時間でしたが今は営業しています。

 店名 麺屋青山 臼井店
 住所 佐倉市稲荷台1-10-2-102
 電話 043-461-5898
 時間 11:00~14:30,17:30~22:00 11:00~22:00
 定休 なし

2007年9月30日 白濁にんにく油ラーメン
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先週のラーメンがおいしかったので、また麺屋青山・臼井店に夕食で来ました。
前回5種類のスープ(白濁醤油、鶏ガラ醤油、鶏ガラ魚介、白濁魚介、白濁にんにく油)の内3種類のスープを注文しました。
まだ食べていなかったのが白濁魚介スープと白濁にんにく油スープのラーメンだったので、この2種類を注文しました。上の写真は白濁にんにく油ラーメンです。

10月4日の午前9時ごろ番組「スッキリ!!」の中で姉妹店の麺屋青山・成田店が扱われたそうです。

これが白濁魚介ラーメンです。スープのベースは鶏ガラです。2種類ともおいしかったですね。5種類のスープを味わった結果としては「白濁魚介」と「白濁にんにく油」と「鶏ガラ魚介」の3種類が特に好みの味でした。
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今回はつけ麺も注文しました。スープはこってりとあっさりの2種類が選べます。写真のものは「こってり」スープです。麺も2種類から選べます。平打ち麺と丸太麺から選びます。今回は平打ち麺を選びました。
味は子供曰く「麺屋武蔵・新宿店と同じ味でおいしい」とのことでした。よく有名店にラーメンを食べに行っている子供の評価から見てレベルの高いつけ麺のようです。魚介系のスープでした。漬け汁の器は焼けどするほど熱々でした。
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つけ麺に関してさらに紹介します。麺は平打ち麺と丸太麺の2種類から選べると紹介しました。(2007年10月6日に食す)
これが丸太麺です。それも大盛りです。
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これが平打ち麺です。これは普通盛りです。
食べ終わってスープを頼むと残ったつけ汁を鶏ガラスープで薄めてもらえます。最後に、それを飲み干して出て行くのです。
つけ麺はラーメンに比べるとボリュームがあることが判りました。満腹になりました。スープを飲むという観点からするとラーメンはスープを飲みながら麺が食べられるので私としてはつけ麺よりはラーメンの方が好みのような気がします。                  
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定番の餃子です。このお店の餃子は雑誌に紹介されていただけのことはあり、見た目のとおり美味しい餃子でした。この写真も是非クリックしてみてください。
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2007年10月28日 塩ラーメンもいただきました。

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このお店(麺屋青山 臼井店)で食べていなかったのが塩ラーメンです。ネットの中でも、おいしいと書かれていたいたので味が気になっていました。本日、子供たちと一緒にラーメンを食べに行く機会がありました。さっそく、塩ラーメンを注文してみました。魚介味のスープと細麺がよかったです。これは食べてみる価値がありました。魚介の味が、これだけ塩ラーメンに合うとは思ってもいませんでした。

追伸
器の中で2種類のスープに別れているそうです。玉子を挟んで右側(ゴマがある方)がホタテのスープで左側がカツオのスープだそうです。是非味わってみてください。言われるまでは気がつきませんでした。


2007年12月24日 特盛チャーシュー鶏がら魚介ラーメン
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プラス150円で写真の特盛ラーメンが食べれます。器もいつもの器よりも一回り大きく、かなりの迫力でした。
これを食べきれるのは結構大変なので、お腹をすかして行くか、手伝ってくれる人を連れいてくことをお薦めします。味は最高です。
チャーシュー鶏がら魚介ラーメンに特盛をプラスしました。ネギもタップリだし卵も半分増えていました。すごくお徳です。
大盛りがあることは知っていましたが前回に来たときに特盛があるのを初めて知りました。店員さんが「特盛・・・ラーメンお待ちどうさま」の声で知ったのです。そして目の前で豪華な大きな器のラーメンを食べている人を見て知ってしまったのです。

子供はあっさりスープのつけ麺にしました。


別の日に白濁魚介ラーメンの特盛を注文してみました。やっぱり迫力がありました。2食分はありそうです。気のせいか特盛にすると普通のものよりもスープが濃い目のような気がしました。
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2008年2月2日 特盛にんにく油ラーメン
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久しぶりに麺屋青山に行きました。今日、頼んだのは特盛にんにく油ラーメンでした。右側が普通のにんにく油ラーメンで左側が特盛のにんにく油ラーメンです。量の多さが判ってもらえると思います。

量だけではありません。特盛にすると玉子も半分が一個分になるし焼き豚も一切れ増えるので実質は400円アップ相当です。それがなんと実際の価格アップは150円だけなのです。
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2008年3月30日 揚げ背油とニンニクたっぷりのラーメン
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揚げ背油とニンニクを乗せたラーメンです。名前は「どてちん」と言うそうで他店で人気のラーメンを、ここ臼井の麺屋青山でも食べさせてくれるようになりました。
こってりのスープで、確かに揚げ背油とニンニクがタップリと乗っていました。麺はかなりの太麺です。普通は具に隠れて見えませんが写真を撮るために見えるように出させてもらいました。これが"小"、"中"、"大"共に680円で食べれるとはうれしいです。満足でした。
もともとは青山3号店 で出していたものだそうです。
もう一つ、書き忘れていました。このラーメンを食べるときは土曜日をお薦めします。ニンニクがかなりきついので翌日にも匂いが残っていました。


2008年8月17日 期間限定 激辛つけ麺
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よく行くラーメン屋さんではつけ麺も人気です。
期間限定メニューで激辛つけ麺をやっていたので注文してみました。こちらのお店では、子供はつけ麺が注文することが多いけれど、私はいつもスープを飲みながら麺が食べれるラーメンで、つけ麺自体が初めてでした。(池袋の大勝軒のつけ麺は食べたことがあります。)
麺の方は、いつものつけ麺と同じで平打ち麺か丸太麺が選べます。平打ち麺を選びました。680円でも沢山の具が乗っているのはうれしいです。限定ラーメンは今回初めて食べました。

いつものつけ麺と違うのがこの真赤なつけ汁です。ガーリックバージョンの辛いスープです。名前は「痛い つけ麺」だったと思います。見た目だけでなく実際にも辛いスープですが、なかなかコクがあり、スープを作る才能には感心させられました。ニンニクが利いていて、翌日にもにおいが残るので土曜日に食べることをお薦めします。スープの中にはスライスガーリック以外にはチャーシューが入っています。
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麺とスープを並べて撮りました。「ガッツ~ン」でした。
ただし、本場四川料理の本格坦々麺に比べれば、まだまだ普通の日本人にも食べれる辛さである上に口の中でいつまでも辛さが残ることはないのでご安心を!
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きっちりと完食させてもらいました。辛いのが特に好きと言うわけでもないけれど美味しくいただきました。これも8月限定なので食べれるのはあとわずかの期間です。


こちらは子供が頼んだ、こってりスープの大盛りチャーシューつけ麺です。麺は丸太麺を選択しました。
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2008年12月30日 にんにくと背油タップリのつけ麺
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8月24日に「期間限定 激辛つけ麺」を紹介したお店に昨日(2008年12月30日)行き、いつもと違うラーメン食べたので紹介いたします。「どてちん・つけ麺」というつけ麺です。上の写真がツケ麺のタレです。以前紹介した「どてちんラーメン」の、つけ麺版です。普通のつけ麺と違いつけ汁の中に沢山の具が入っています。ニンニク、もやし、キャベツ、ゴマ味噌、背油などです。

普通のつけ麺の場合は麺のトッピングはチャーシューに加えて卵と青野菜とメンマが入っていますが、つけ汁に沢山の具が入っている為か、チャーシューと海苔だけです。でもすごい特典があります。大盛りでも680円と値段は同じです。ちなみに小盛(普通)は180gで中盛は300gで大盛は400gの麺が出てきます。さすがに400gは食べきれないと思い今回は中盛にさせてもらいました。
これがラーメンの場合、小/中/大は130g/200g/300gです。麺は極太麺でした。
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大麺の太さを知ってもらうために、つけ麺の横に娘が食べた鶏ガラ魚介ラーメンの麺(細麺)をおいてみました。すごく違うことが判ってもらえると思います。
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麺とつけ汁も一緒に撮りました。こんな感じで出てきます。
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この日は14時ごろに行ったけれど行列が店の外まで出来ていました。一番下の写真を見てもらうと判りますが以前の営業時間は11:00~14:30と17:30~22:00で間に3時間の休み時間がありましたが今は11:00~22:00と通しになりました。
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2009年8月10日掲載 タイトル:夏野菜冷麺
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これが2009年8月限定の夏野菜冷麺です。食べたのは2009年8月10日です。夏野菜としてはナスビとトマトとインゲンとミョウガとキュウリが入っていました。麺は細麺でアッサリ系のタレでした。

限定ラーメンは今回の夏野菜冷麺も含めて3回食べました。判る範囲でネットで今までの期間限定ラーメンを調べてみました。
 2006月 6月 秋刀魚風味ラーメン
 2006月 7月 カレーつけ麺
 2006月 8月 冷やし棒々鶏麺
 2006月 9月 汁無し担々麺
 2006月10月 きのこ”もりもり”味噌ラーメン
 2006月11月 ホタテ薫る塩ラーメン
 2006月12月 キムチつけ麺
 2007月 1月 担々麺
 2007月 2月 オムレツ風炒め麺
 2007月 3月 味玉チャーシューめん 辛ねぎ和え(背油チャッチャ系)
 2007月 4月 山岸さんお疲れ様でした 大勝軒もりそば
 2007月 5月 地鶏ちゃーしゅー麺
 2007月 6月 オニオンブラック
 2007月 7月 ピリ辛つけ麺 鮭バージョン
 2007月 8月 爆弾麺
 2007月 9月 きのこの味噌らーめん
 2007月10月 松茸と鱧のつけ麺
 2007月11月 鯛の塩らーめん
 2007月12月 変なつけ麺 すきやき風
 2008年 1月 麺屋青山風タンタン麺
 2008年 2月 エビそば
 2008年 3月 焼き麺あんかけ
 2008年 4月 闇そば
 2008年 5月 家系インスパイア
 2008年 7月 冷やし中華
 2008年 8月 痛いつけ麺  ←食べました。
 2008年 9月 秋刀魚そば       
 2008年10月 ? 
 2008年11月 ごまダレつけ麺?
 2008年12月 カニ玉ラーメン    
 2009年 1月 札幌ラーメン 塩バター ←食べました。
 2009年 2月 
 2009年 3月 いわし つけ麺
 2009年 4月 
 2009年 5月 
 2009年 6月 
 2009年 7月 
 2009年 8月 夏野菜冷麺 ←食べました。  

これが2009年1月限定の札幌ラーメン塩バターです。三角形の塊は木の実を練り込んだバターだそうです。食べたのは2009年1月31日でした。
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驚いたことに麺屋青山臼井店の最近の限定ラーメンを全て食べてブログに掲載されている方がおられました。
Jaxのらあめん日記さんです。やまさんの日記 さんもかなりの限定ラーメンを掲載されていました。

一部リンクさせてもらっています。リンクしていないもので見たい場合はそちらを見てください。

水戸城址 水戸市立第二中学校 [水戸]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

水戸城は大きなお城でしたが、建物として残っているのは三の丸にあった藩校の弘道館の一部と県立水戸一高敷地内に移築復元された薬医門くらいです。クリックすると拡大ただし地形に関しては当時の影響を大きく残しています。この道路は昔の三の丸と二の丸の間の堀でそこに昔かかっていたのは大手橋です。橋の右側が二の丸で左側が三の丸で、三の丸には今でも弘道館の一部が残っています。そして右の階段を上ったところに右の写真の大手門がありました。

そして大手門が建っていたところには水戸藩の第一代藩主の徳川頼房(とくがわ よりふさ)の像が建てられていました。
この城の歴代の藩主です。(1609年以降はすべて水戸藩)
代  在任期間    名前  よみ  前藩主との続柄   備考
 1 1602 - 1603年 武田信吉 のぶよし 徳川家康の五男   武田藩
 1 1603 - 1609年 徳川頼宣 よりのぶ 徳川家康の十男   紀州藩
 1 1609 - 1661年 徳川頼房 よりふさ 徳川家康の十一男 水戸藩初代藩主
 2 1661 - 1690年 徳川光圀 みつくに 先代の三男     水戸黄門
 3 1690 - 1718年 徳川綱條 つなえだ 先代の甥
 4 1718 - 1730年 徳川宗堯 むねたか 先代の姪孫
 5 1730 - 1766年 徳川宗翰 むねもと 先代の次男
 6 1766 - 1805年 徳川治保 はるもり 先代の長男
 7 1805 - 1816年 徳川治紀 はるとし 先代の長男
 8 1816 - 1829年 徳川斉脩 なりのぶ 先代の長男
 9 1829 - 1844年 徳川斉昭 なりあき 先々代の三男 偕楽園・弘道館創設
10 1844 - 1868年 徳川慶篤 よしあつ 先代の長男
11 1868 - 1869年 徳川昭武 あきたけ 先々代の十八男


クリックすると拡大します。昔の建物は少ないけれども空堀などの景観は町の各所で見受けられました。右の写真はWikipediaから拝借した薬医門です。この門は、本城橋のたもとに建てられていた城門と推定されています。安土桃山時代の建築様式がみられ佐竹氏時代のものと考えられています。薬医門とは、門の建築様式の呼び名で扉を支えている本柱とその後ろにある柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で側面の姿は対称形でありません。正面から見ると軒が深いため、門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられたそうです。今は本丸跡になる県立水戸一高敷地内に移築復元されています。


大手門跡のすぐそばには、ここが水戸城であったことを記した石碑が建てられていました。石碑には「茨城百景 弘道館 水戸城址」と書かれていました。
石碑の後ろのフェンスの近くのの看板の説明文には次のように書かれていました。説明文の写真をクリックすると拡大します。
クリックすると拡大茨城県指定史跡
水戸城跡(塁及び濠)
水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾の族が栄えたのである。15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。
それまでの本城の外に宿城(のち二の丸)を築くなど、城郭を拡張して約164年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。
こうして54万余石を領する佐竹義宣はの本城となり城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成とと結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。
その後は家康の子信吉、頼信が一時封ぜられたが、慶長14年(1609年)に第11氏頼房が藩主となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。
水戸市教育委員会


昔の水戸城の地図を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つけました。結構貴重な地図だと思います。これがネットから拝借した昔の水戸城の本丸と二の丸の地図です。クリックすると拡大します。        
クリックすると拡大地図を表示
上の昔の城郭の地図と同じ範囲を現在の航空写真で見てみます。昔の地形がきれいに残されていることがわかりました。
多くの城址は公園になっているところが多いのですが水戸の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。水戸市立水戸第二中学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていました。水戸市立水戸第二中学校は二の丸の元祠堂、祠堂附地所、元彰考館のあった場所に建てられたことが判りました。

本丸や二の丸の外側の地図を探して見ました。①~③が上の地図の範囲です。やはり大きくて堅固な城だったようです。①の「下の丸」は上の地図では「東二の丸」と書かれていました。のあたりが偕楽園です。
クリックすると引用させていただいた記事を表示します。

大手門の近くの石碑あたりから見た昔の二の丸方向です。昔風の建物がありました。これは水戸市立第二中学校です。昔の二の丸址に建てられてるために、このような景観の学校にしたのだと思います。すごいので紹介いたします。


こちらが学校の正門です。とても学校の門とは思えないです。通学時間帯だともっと学校らしい写真が撮れたと思います。


2011年11月に撮影されたGoogleのストリートビューがありました。校舎の一部は完成しています。門や塀などは建設中でした。これから2012年に完成したと思われます。写真をクリックするとストリート・ビューを表示します。
クリックするとストリートビュー

正門を拡大いたしました。「水戸市立第二中学校」と書かれているのがわかると思います。普通は水戸市立XX第二中学校という名前が付けられるのが普通ですが、ズバリ第二中学校という何も驚かされました。


塀も昔の城の壁のようでした。


正門から中を覗かせてもらいました。こちらが校舎です。ここで学んでいる中学生たちは思い出にもなるし自慢だと思います。


左の建物が体育館だと思います。弘道館の跡地の一部に建てられた水戸市立三の丸小学校も昔の景観にこだわった学校でした。これだけ昔の景観にこだわった学校は水戸以外で見たことはありません。

マムシグサの花の写真を撮りました。 [植物]

が表示された写真はクリックすると拡大します。

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浦島草(うらしまそう)の写真を掲載いたしました。似ている植物で「マムシグサ」と「アオマムシグサ」というのがあるので探した結果、見つけました。ウラシマソウに比べるとマムシグサは圧倒的に少ないです。
最初に見つけたときは、ほとんどが、蕾でした。そろそろ花が咲いているだろうと、写真を撮りに出かけました。まだ花は少なかったけれど撮ってきたので紹介いたします。これは紫の色素が入っているので「マムシグサ」だと思います。あと一週間すると沢山の花が見れそうです。

こちらは色から見ると「アオマムシグサ」のようですが10cmも離れていないところに咲いていました。同じ場所に咲いていました。こちらの花には紫の色素がなく透通るような緑の花でした。上の花とどちらがお好みですか。「アオマムシグサ」はきれいなので家の庭にも植えています。
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一週間前の蕾の状態の写真です。浦島草の花は地面から出てくるのに対してマムシグサは一番上の写真のように茎から花が出ています。少なくともウラシマソウではないことはわかりました。それに茎の模様が違いますね。マムシ草はまむしの模様のようです。


マムシグサとアオマムシグサです。読んで比べてみてください。クリックすると拡大するので読みやすいと思います。
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参照文献 : 牧野新日本植物図鑑



「浅草に来たらアンヂェラスのお茶とケーキ」を実行 下町のケーキ屋さんで懐かしいプリン [東京]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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米久の牛鍋を食べた後のデザートはアンヂェラスのケーキにすることにしました。メニューを見て迷わず私が頼んだのがプリン(400円)でした。今は少なくなってしまった昔懐かしいプリンが食べれる気がしたからです。期待通り昔なつかしい味のプリンが出てきました。モロッコで食べて以来のプリンでした。その時の記事はこちら→ポチッ

700円のフルーツポンチが気になって息子が頼んだのがこちらです。これは昔ながらの寒天で作られたタイプのフルーツポンチです。値段から想像するに手間がかかった一品なのだと思います。
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こちらも懐かしいエクレア(270円)です。こちらは家内が注文いたしました。カスタードクリームがたっぷりと入っています。
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苺のショートケーキ(580円)を注文したのは、もう一人の息子でした。
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お店の名前であるアンヂェラス(320円)を頼んだのは娘でした。こちらのケーキはホームページにもよく掲載されていました。
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飲み物とケーキがすべてそろいました。コーヒー(530円)が2つにカフェオーレ(670円)が3つです。店員さんに撮ってもらった右の記念写真からテーブルの上を切り取って掲載いたしました。
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こちらのお店は「浅草に来たらアンヂェラスのお茶とケーキ」のキャッチフレーズで有名な店だったのです。アンヂェラスと書かれた提燈が可愛らしいお店でした。
確かに、ほとんど満席に近い状態でした。ここは創業は1946年で、長い伝統を生かして下町のケーキとして広く知られているそうです。アンジェラスではなくアンヂェラスです。地元を代表する有名店で、かの川端康成、池波正太郎、永井荷風、手塚治虫もこよなく通ったそうです。アンヂェラスとは「聖なる鐘の音」という意味で、ダッチコーヒー発祥の喫茶店だそうです。
クリックすると拡大  店名 アンヂェラス
  住所 東京都台東区浅草1-17-6
  地図 http://goo.gl/maps/eDc4e
  SV  http://goo.gl/maps/rqyjB
クリックすると拡大  通り  オレンジ通り
  電話 03-3841-9761
  営業 10:00~21:00
  定休 無休
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SV : ストリート・ビュー

4月4日はワンコの誕生日 [むさし]


今日(4月4日)は家のワンコの誕生日です。13年前の2000年4月4日に生まれました。大きくなった今のワンコはすでに紹介しているので、記念に家に来たころの子犬のワンコを紹介いたします。上の写真は予防接種をして始めて、お外に出した時の写真です。今のワンコは左の欄のリンク集にある「家のワンコの得意技(動画)」をクリックすると表示します。
     今のワンコの記事はこちら→ポチッ
     雪の日のワンコ     →ポチッ
     近所のお友達      →ポチッ

それまでは家の中でした。もらいに行ったのは2000年5月28日で、場所はかなり離れたところで、東京都板橋区金井町ですが、私の家から行くのは京成電鉄→東葉高速→東西線→有楽町線で池袋まで行き都バスに20分間乗って金井窪バス停と遠かったのです。純血のビーグルがもらえるということで遠かったけれど、とりに行きました。行くまでは問題ありませんでしたが、家に帰ってくるまでは鳴き続けたので大変でした。
家について最初の写真です。事前にケージを買って準備を整えてからワンコをもらいに行きました。予防注射前で免疫がないのでお出かけ禁止です。


最初さびしそうにしていたので娘のぬいぐるみを沢山あげました。2階の娘の部屋に行ってぬいぐるみを持ってくる癖は、この時に培われたのかもしれません。


少し大きくなってきました。実は歩いて2分の場所にワンコの兄弟がいます。その人も、私と同じ日に板橋区金井町までもらいに行きました。全部で6匹のワンコがいたのですが、その中の2匹が兄弟だったので、兄弟が近い方がいいだろうと、元の飼い主の人が2匹のワンコを選んでくれました。おかげで今でもワンコ同士は仲良くしています。


大好きな木づちです。そろそろ外に出れる時期になってきました。


ついに庭に出ました。この写真と冒頭の写真をパソコンの画面にも使っています。この写真はクリックすると拡大いたします。
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このときからいたずらの片鱗を見せてくれました。


短時間の、お外でしたがいろんなポーズを見せてくれました。


このころになるとしっかりとした体型になってきました。


じゃれつかれるとうれしいですね。


2000年5月28日に迎えに行く時のメモを見つけました。
☆5月28日 午前11:00までに引き取りに来てください。
☆引取りの際は
 ①子犬を入れるもの(箱、カゴ、ケージ等)
 ②密封容器(小さくてよい)を2ケ
   1つは水もう1つはエサ入れ用(自宅に着くまで)
 ③ビニール・テッシュペーパ等(途中で大便をしたときに対応)
☆予防接種は各自で受けてください。それ迄は外に出さない様にとのことです。
 ∴入れ物の中に敷く尿とりパットと水、エサは用意していただいています。
池袋に降りたら西口に出て東京芸術劇場の方に向かうむとバスターミナルが有ります。5番乗り場から高島平操車場行きが、6番乗り場から高島平行きがそれぞれ出ております、どちらに乗車しても結構です。金井窪と言うバス停まで乗ってください。
歩道橋の下にバスが止まります、進行方向にラーメン屋(珍珍珍)が有り、そのてまえの道を左に曲がってください。交差点を渡ってグリーン新光と言うアパートの先の・・・・・・・と・・・・・・の間の路地を入ると目的地です。

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昔なつかしい味のプリン [モロッコ]


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気のせいなのか最近では、なかなかお目にかかれなくなった昔ながらの焼きたてのプリンに出会いました。写真はクリックすると拡大します。
場所はモロッコのカサブランカで入ったシーフード店のデザートでした。料理の方も、そのうちに紹介いたします。
一口食べて美味しさに感激しました。飾りけのないシンプルなプリンが、こんなに美味しかったかな? それとも、このお店が特別に美味しいのかは、わからなくなったほど久しぶりに昔ながらのプリンでした。是非、写真をクリックして大きな写真を見てください。昔、おふくろが作ってくれたプリンも思い出してしまいました。
最近は生クリームが入ったクリーミーなプリンがすごい人気ですが、焼きたてのプリンも是非味わってみてほしくなりました。

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うれしいプレゼント Surface [話題]



日曜日(2013年3月31日)にプレゼントをもらいました。最近、テレビで宣伝しているSurfceです。Microsoftが開発・製造し日本では2013年3月15日に発表された最新モデルのタブレット端末です。上の写真はSufaceが入っていたケースです。アップルのタブレット端末iPadに対抗して開発されたものと言われているものです。

キーボード機能がある着脱可能なTouch Coverが付属しているために見た目はノートパソコンのように見えますが、画面をタッチして操作するタブレット端末なのです。でも写真のようにマウスも使えるので家ではマウスを使っています。


Touch Coverは強力な磁石で本体にくっ付いていることから簡単に着脱可能でした。そのTouch Cover(画面保護+キーボード)の重さを量ってみると202gでした。実は電源ケーブルも磁石でくっつくタイプで非常に便利に感じました。


本体の重さも量ってみました。タブレット本体は685gでした。Touch Coverと合わせると857g(685g+202g)となります。仕様を紹介します。
  OS   Windows RT
  CPU  NVIDIA Tegra 3
  容量  32GB / 64GB
  画面  10.6インチ, 1366x768
  重さ   685g
  厚さ   9.3mm
  ソフト  Office 2013 RT
  発売  2013年3月15日(日本) 2012年10月26日(米国)


Touch Coverをセットして正面から撮った写真です。発売して16日目の最新モデルを選んでくれたのが、うれしいです。
コンパクトなので海外や旅行に使えそうです。ありがとうございました。


こちらがMicrosoft SurfaceのCMの動画です。

家族みんなで牛鍋を食べに行きました。 米久本店 [肉]


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日曜日(2013年3月31日)に家族5人そろって浅草に牛鍋を食べに行きました。家族そろって食べに行くのは久しぶりでした。
子供の小さいとき → 長男 次男 長女
何人かの前で「浅草で、すき焼きを食べに行く」と話すと、その中の誰かが「米久(よねきゅう)ですか?」と言われるほど、名前が知られたすき焼き屋さんです。実は、すき焼きやではなくて牛鍋屋さんなのです。

今回、紹介の牛鍋屋さんは浅草ひさご通り沿いにある米久本店(よねきゅうほんてん)です、この写真が浅草ひさご通り商店街アーケードです。


こちらが米久本店です。
  店名 米久本店(よねきゅうほんてん)
  住所 東京都台東区浅草2-17-10
  電話 03-3841-6416
  営業 12:00~21:00
  定休 水曜日
  地図 http://goo.gl/maps/xQ1eG


昔ながらの入口です。
米久本店は明治創業の牛鍋の老舗牛鍋屋さんです。創業年を検索すると明治5年、明治18年、明治19年、明治28年といくつか検索されます。明治5年と明治18年が出で来るサイトは少ないので、明治19年か明治28年と思われました。同じ浅草ですき焼きで有名な今半本店が明治28年であることから、この創業年と混同されものと思われる面もあることから明治19年創業が正解ではないかと思います。明治19年が正しいとすると1886年創業なので今から127年前に開店したことになります。


内部も昔のままで、ド・ドーンと太鼓を鳴らして部屋に案内されます。


席に案内されました。2つのガスコンロの上にひっくり返された小さな鉄鍋が置かれていました。確かに我々が知っているすき焼きではなさそうでした。


これが小さな鉄なべです。この小さな鍋で、どのように牛鍋を作るのか興味が湧いてきました。ほんとうに小さくて淵が低い鉄鍋なのです。


テーブルの上には陶器製の容器に入った「割り下」と「うす割り」と書かれたヤカンが置かれていました。


先ずは「上の牛鍋」を5人前ほど頼みました。おしながきを紹介します。
 牛鍋 野菜・玉子付 一人前
  牛鍋 上   3160円
  牛鍋 トク  3790円
 追加
  牛肉 上   2520円
  牛肉 トク  3150円
  ザク(野菜)    510円
  玉子      130円


我々が食べた部屋からの景色です。


こちらがザクと呼ばれる肉以外の具で白ネギと春菊と焼き豆腐と糸コンニャクが乗っていました。2人前と3人前に2皿に分かれて出てきました。こちらは3人前だったと思います。


こちらが「上の肉」です。こちらも2人前と3人前に2皿に分かれて出てきて、こちらの皿は3人前だったと思います。肉は十分な量がありました。息子たちには少なかったようで、あとで追加いたしました。
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お店の方が最初作ってくれます。最初が白ネギを並べて、次に焼き豆腐です。その次に糸コンニャクを入れます。


最後に肉を鍋に入れます。肉と春菊以外は最初に出てきたものをすべて入れます。


そこで割り下をかけます。肉の色が変わった時が食べごろと説明いただきました。春菊は食べたい時に自分で入れます。
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出来上がってきました。煮立っている割り下が食欲をそそります。
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拡大いたしました。


煮えてきたところで春菊も入れました。何度も肉とか野菜をを入れて割り下を入れていると煮詰まってくるので、その時に、上で紹介した「うす割り」入れるのです。
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生卵でいただくのは、すき焼きと同じです。


卵の器に出来上がった肉や野菜を入れて卵をからめていただきました。やっぱり美味しいです。


やっぱりビールですね。左の小鉢は御通しで出てきた牛肉時雨煮です。


追加で頼んだのはトクの牛肉です。


拡大いたしました。ネットで調べると近江牛と書かれていました。


食べごろの牛鍋の写真も紹介いたします。
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拡大写真を最後に掲載いたします。小さな鍋で作ると、いつも出来立ての牛鍋が食べれることに気が付きました。少し赤いところが残っている状態で食べてもいいし、よく火が通った状態で食べるのもいいのです。しゃぶしゃぶのように肉は食べたい寮だけを自分で入れて煮えたら食べました。