奥宮(奥社) 徳川家康の墓 [日光]
こちらが日光東照宮の徳川家康が埋葬されているの墓の上に建てられた宝塔です。拝殿なども含めて奥宮あるいは奥社と呼ばれており日光東照宮の中でも標高の最も高い位置になります。徳川家康は元和2年(1616年)に駿府で数え年の75歳(満73歳)で亡くなり、家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て元和3年に江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。それが現在の日光東照宮なのです。久能山東照宮は今も徳川氏祖廟として尊ばれています。
徳川家康
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 470年前
死没 元和 2年 4月17日(1616年6月 1日) 397年前 満73歳(数え75歳)
改名 竹千代(幼名)→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
1543年~ 1555年・元服~ 1563年~ 1567年~
神号 東照大権現
戒名 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
徳川家康は死後の処置に関して下の遺命(遺言)を残しました。勧請とは神仏の分霊を他の地にも祭ることです。
右の狩野探幽により描かれた家康の肖像画はWikipediaから転用させていただきました。
1.遺体は駿河の久能山に葬ること
2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
3.位牌は三河の大樹寺に立てること
4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること
こちらが陽明門( )から奥宮( )までの参道( )です。
陽明門 → 眠り猫 → 坂下門 → 奥宮拝殿
眠り猫から奥宮まで順番に紹介します。
より大きな地図で 日光東照宮 奥宮石段 を表示
奥宮への入口にあたる東回廊にある入口で、この入口の上に「眠り猫」の彫刻があることで有名な場所です。入口の奥に坂下門があるのが判ってもらえると思います。ここから奥宮への石段を登り始めます。
こちらが坂下門です。右側の立て看板には「坂下門 この門を潜り石段を約二百段登ると家康公の御墓所奥宮がある。」と書かれていました。
正確な石段の数知りたいところです。坂下門からの石段の段数として一番多い表現が「約200段」で、次に多い表現が「207段」でした。眠り猫の位置と坂下門の間にも数段の石段があります。江戸時代には、坂下門は将軍しか入れなかった「開かずの門でした。奥宮が一般に公開されたのは1965年からだそうです。
全体的には清楚な感じですが柱や天井の金具は七宝焼の上、軒下の欄間には鶴などの彫刻がありました。
石段の上から見た坂下門です。
坂下門から少し進むと長い行列になっていました。待たされながら一歩一歩進むので奥宮に着くまでかなりの時間を要しました。撮った写真の時間で確認すると坂下門を潜ったから拝殿に着くまで16分を要しました。200段を普通に歩けば3分弱だと思うので待たされながら進んだことが判ってもらえると思います。もし自分で石段の数を数えるとすれば、待たされない下りで数える方が楽だと思います。
石柵は石をくり貫いて作ったものだそうです。
石段は結構な幅がありますが一段毎に一枚石を用いられています。やっと奥宮の鳥居が見えてきました。
鳥居近くから見た石段です。
鳥居には徳川家康の神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が書かれていました。鳥居は最初は石製でしたが1683年の大地震で破損して唐銅鳥居にかえられたそうです。
鳥居の横には1654年創建の御宝蔵がありました。案内板によると、御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収められていたそうです。
御宝蔵の屋根の部分は青銅で包んである感じでした。
御宝蔵の脇から、やっと奥宮の拝殿が見えてきました。
拝殿に昇る最後の階段の両脇には狛犬が置かれていました。2体の狛犬は松平右門大夫正綱と秋元但馬守泰朝の二人から寄進されたもので二人は徳川家康の遺臣であり、寛永年間の奥宮造営の功により特に奉納を許されたそうです。こちらが右側の狛犬です。
こちらが左側の狛犬です。頭の真中に角がある狛犬でした。
角がある狛犬は珍しいと思われがちですが、元々は2体のうち1体には角がありました。1体は角がなく口を開いた阿形(あぎょう)で、1体は角があり口を閉じた吽形(うんぎょう)と呼ばれていました。阿(あ)と吽(うん)は、息がぴったり行動することを「阿吽の呼吸」といわれている由来にもなっているそうです。昭和時代以降は左右ともに角が無いものが多くなったそうです。
最後の石段です。拝殿が目の前でした。
やっと長い行列が出来ている理由が判りました。一人一人が拝殿に参拝されていたのでした。
拝殿正面です。神社の参拝作法が書かれていました。二礼・二拍手・一礼です。
拝殿の全景です。
拝殿の飾りです。
こちらが鋳抜門(いぬきもん)と宝塔です。石造りの玉垣の中心に放蕩があります。
見事な鋳抜門を拡大いたしました。鋳抜門の前にも狛犬があり、拝殿階段下の狛犬と同じように左側の狛犬の頭には角がありました。
南東方向から見た宝塔です。高さは5mです。
宝塔は最初は木造でさらに石造に改められましたが天和3年(1683年)に大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えたそうです。
宝塔は八角九段の基盤を築きその上に設置されており、前面には寛永20年に朝鮮から献上された三具足(香炉、燭台、花立)が備え付けられています。八角九段の基盤や朝鮮からの献上品が写っていたので、この写真だけは今回ではなく2008年11月14日に撮ったものを使いました。
上の写真の朝鮮から贈られた三具足の部分を切取り・拡大・露出調整いたしました。奥から花立(花瓶)、香炉、燭台です。鶴のクチバシの部分がロウソク立てになっているようです。日本の真宗大谷派・真宗仏光寺派・真宗高田派では燭台に鶴亀燭台(亀の上に鶴が乗った形)を用いるそうです。
右の写真はネットから拝借したもので、朝鮮国王から対馬藩に贈られた三具足(万松院所蔵)ですが、日光東照宮のものに似ています。
南西方向から見た宝塔です。ここの標高は700mを越えています。
宝塔の製作者は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。
納められているのは家康公の遺骸(神柩)は建立以来、一度も開けられたことがないそうです。
こちらが奥宮だけで売られている眠猫絵馬(魔除け)と眠猫守(開運招福)です。奥宮限定だけに人気でした。
宝塔の西側にも短い行列が出来ていました。
これは叶杉(かのうすぎ)で、皆さん順番に拝まれていました。
説明文には「諸々の願い事をこの杉のほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている」とありました。なるほど、皆さん、叶杉にお参りしているわけです。案内板を見ると叶鈴守もあるようです。
上の写真の中に叶鈴守の見本が写っていました。
ムサシママさんから鬼門に関してコメントをいただいたので方向を示した地図を追加掲載させていただきました。
よく「日光は江戸の鬼門に当たる」あるいは「江戸の鬼門に寛永寺が建立されその延長線上には日光がある」との記載があります。地理的な方向は次の通りで、江戸からは北方向なのです。鬼門方向と言われている理由は謎のままです。
赤色ライン 江戸城( )→日光東照宮( ) 北
緑色ライン 江戸城( )→寛永寺( )の延長上 北東(鬼門方角)
青色ライン 久能山東照宮( )→日光東照宮( ) 北東(鬼門方角)
大樹寺 家康位牌
高野山 徳川家康霊屋
マークやラインをクリックすると写真を表示します。
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仏教の聖地の夕食は精進料理じゃなかった! でも岩茸料理は美味しかった。 [九華山]
九華山は断崖絶壁にお寺があるような中国仏教の四大聖地の一つ ここはホテルといえどもお寺と宿坊が立ち並ぶ場所 当然、精進料理と思っていたら精進料理は中止して肉も魚もありの料理でした。
精進料理ではなかったけれども究極の山の幸の料理と呼べると思えたので紹介させていただきます。コース料理のように一人ひとりに料理が出されました。
調味料として酢と醤油以外に豆板醤系のものがいくつか置かれていますが特に付ける必要はなくそのまま食べれました。
飲み物はワインと白酒(パイチュウ)でした。白酒(パイチュウ)はアルコール濃度が濃いので最後に我慢できなくて私だけビールを頼んでしまいました。(笑)
これが今回のメニューです。上の写真の右端の「菜単」と書かれているのがこのメニューです。16品になります。出てきた順番とは違うようです。写真は出てきた順番に並べています。メニューと料理の写真で前菜とデザート以外に①~⑭]の番号をつけたのでなんとなく中国名がわかると思います。100%の自信がないので、間違いがあればご指摘願います。
⑤ ⑬ ⑭ ⑩ ⑧ ⑫ ⑨ ④ ⑪ ⑥ ⑦ ③ ② ①
ここからは出てきた順番に料理を紹介します。
①先ずはスープから 具は豆腐と野菜です。日本の中華料理と雰囲気が違う中華料理を目でお楽しみください。
②中央は百合根とキノコで右のは蛙だと思います。たぶん! この蛙は渓流に住んでいる石蛙と呼ばれるもので高級食材です。メニューには石鶏と書かれています。これは石蛙のことのようです。石鶏(石蛙)と石茸(岩茸)と石魚(小魚)が三石料理と言われています。今回は石茸料理もあり小魚ではないけれど石桂魚もあったことから三石料理が含まれていることになります。
味付けはなかなかよかったです。
③金華ハムと干し竹の子 チンゲンサイも乗っています。
④竹の中に入っているのは栗と鹿肉です。栗が沢山入っていて山の料理料理だと実感させられました。
⑤揚げ物です。徹州満口香との料理名がつけられていました。
⑥包み物です。
⑦岩茸(石茸)と肉団子のスープ
岩茸は木耳(きくらげ)とは違い野生でしか取れないし断崖絶壁で採取するため貴重なものだそうです。 感触は木耳のような歯ごたえのあるものではなく厚めの海苔のようでした。一度は食べてみたいものだと思います。岩茸はこのあたりの名物で別の食事でも沢山食べることが出来ました。日本では岩茸と呼ばれており非常に貴重なものです。日本でも同じような食べ物「岩茸の"おやき"と"天ぷら"」が放送されていました。
⑧韓国のチヂミのような食べ物です。
⑨料理名は「清蒸石桂魚」 この魚は美味しかったです。メニューから判断して中国名は「石桂魚」かな? 日本名は判りません。身は「ころっと」とした感覚の身でした。川魚の王様といわれる有名な桂魚より細身で小さい魚でした。コロッとした身は桂魚に似ていますが、桂魚より、さらに臭みはなく、場所がら大きな川がないので清流の魚と思われます。一人前のお皿に丁度いい大きさでもありました。
⑩きのこのホイル蒸しです。いろんなキノコが入っていました。
⑪「腐れ豆腐」を揚げたものです。いつもは生なので熱を加えた料理ははじめてでした。お酒に合います。
当然ですが「腐れ豆腐」は発酵した豆腐で腐ったものではありません。(笑)
⑫鍋物もありました。料理を載せる目の前の銀の皿の上にドーンと置かれました。もちろん一人前です。
⑬キノコのスープです。⑫の鍋が目の前の皿の上に置かれていたのでキノコのスープは、その横に置かれました。
⑭野菜炒めです。この後は果物で終了でした。
このテーブルを見ると「ほんとうに仏教の聖地ですか?」と思ってしまう雰囲気なのです。
宿坊が沢山ある中でこのホテルだけが際立っていました。4星のホテルであることは確かでした。インターネットも出来ました。接続は無料です。
枯山水 [高野山]
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11月30日に高野山に行ったことは、すでにいくつかの記事で紹介しております。一番東にある奥の院までバスで行き、後は歩いた高野山を散策いたしました。
奥の院からは参道を歩いて一の橋の近くで精進料理を食べました。そこから高野山の西の端に当たる大門までお寺を中心に歩いて行き、その後も女人堂も歩いて沢山のお寺を散策いたしました。
お寺にはいろんな庭がありました。枯山水(かれさんすい)と呼ばれる水のない砂の文様のお庭もありました。その中から二つのお寺の庭を紹介いたします。
一つ目が真言宗総本山である金剛峰寺の少し西にある親王院です。上の地図で見ると場所がわかると思います。この門をくぐると枯山水の庭が広がっていました。
門をくぐると枯山水の庭が広がっていました。丁寧に手入れされていました。枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式です。例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水です。石の表面の紋様で水の流れを表現することもあるそうです。
同じ庭ですが少し遠目からの写真です。建物がよくわかると思います。ちょっと気になるのが梯子です。どのお寺にも同じように、梯子がかけられていました。これから雪が多くなってくるので雪下ろしのためでしょうか。
こちらは女人堂の近くにあった蓮華定院です。この門をくぐると枯山水が左右に広がっていました。
これが蓮華定院の枯山水のお庭です。模様のつけ方が面白かったです。
こちらの蓮華定院は、幾何学的な枯山水の文様が印象的でした。
蓮華定院は比較的、大きなお寺で塀の文様も趣がありました。高野山の沢山のお寺は奥の院と金剛峰寺以外は宿坊をやっているのです。上の地図の赤い「宿」のマークが宿坊のマークなのです。今回、紹介の2つのお寺も宿坊をやっていました。
場所を紹介します。緑色マーク( )の寺院に枯山水の庭がありました。
より大きな地図で 高野山の枯山水の寺院 を表示
日光東照宮の参道 [日光]
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より大きな地図で 日光東照宮参道 を表示
日光東照宮の真っ直ぐに延びる参道も独特の趣があります。ここでは、その参道を紹介いたします。この参道の赤色ピン( )の場所がスカイツリーの高さ634m(ムサシ)と同じ数値である標高634mの場所だそうです。ちなみにムサシは左のサイドバーに写真を掲載している我が家のワンコの名前でもあります。福餅を売っていた場所は石鳥居と表門の間の右側です。菊花展が行われていたのも石鳥居と表門の間の右側です。地図上のアイコンをクリックしてみてください。杉の木々に覆われていることが判ってもらえると思います。地図上のマークをクリックすると写真が出るようにいたしました。写真の下の「記事」の文字をクリックすると、そのブログの記事を表示いたします。
上の太い赤色ラインが一直線に延びる参道(参道入口→石鳥居→表門)です。
地図の中で参道( )ならびに参道脇のマークは次の通りです。
参道入口 石鳥居 表門
輪王寺 三佛堂 輪王寺 大護摩堂 標高634m
福餅の販売所 菊花展
表門より内側は参拝料を払って入る有料エリアです。
細い青色ライン( )は 表門から陽明門を経由して奥宮拝殿までの道のルートです。
表門 陽明門 奥宮拝殿
眠り猫 三猿 想像の象
坂下門
参道入口( )から撮った参道の写真です。この中に標高が634m(ムサシ)の場所があるそうです。参道入口( )から表門( )までの距離は約325mです。
輪王寺護摩堂( )近くの参道からの景色です。丁度、参道の真中あたりです。
石鳥居に近づきました。石鳥居も大きく見えてきました。
同じあたりから参道の入口方向を撮った写真です。
東照宮と書かれた大きな石の社号標が印象的でした。元和4年(1618年)に九州の黒田藩主黒田長政により奉納された石鳥居( )は重要文化財です。
石鳥居の大きさは高さ9m、柱の太さ3.6m(周長)、柱の間隔が6.8mで京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居と共に日本三大鳥居の一つに数えられています。江戸時代に作られた石造りの鳥居としては日本最大だそうです。
表門から参道の入口方向を撮りました。石鳥居( )と表門( )の間には広場があり、写真の右側に五重塔がありました。
その五重塔のです。この時、五重塔の特別拝観が行われており、五重塔の初重(一層目)の内部の金に彩られた心柱と初重外回りの十二支の彫刻を見ることが出来ます。
こちらが表門( )です。有料エリア側(内側)から撮った写真です。
参道の横に日光二社一寺の一寺である日光山・輪王寺がありますが、輪王寺本堂三佛堂( )も陽明門と同様に補修工事中でした。
右の写真は2008年11月14日に訪問した時に撮った輪王寺本堂三佛堂の写真です。創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めたそうです。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されていますが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうです。
参道のもみじです。もみじの後ろにある建物は輪王寺護摩堂( )です。
もう一枚もみじのきれいな写真を掲載します。同じ輪王寺護摩堂前です。
追伸
標高が634mの位置を示す表示をネットから拝借いたしました。五重塔まで90mの位置とのことなので石鳥居まで80m位の位置だと思われます。最初は左の看板だったと思われますがモニュメント形式に変更したのだと思います。
スカイツリーの高さ634mは、地面から高さで標高ではありませんがスカイツリーが建っている黒田区は海抜0m地帯なので標高もほぼ634mと理解していいようです。従ってスカイツリーと同じ標高634mという表現でいいようです。
冒頭の地図に赤色ピン( )でモニュメントの位置を追加いたしました。下の写真でもわかるように記念切手を売っている赤色の建物のすぐ横です。右の写真はスカイツリーが完成した2012年2月29日より前の2011年5月のGoogleのストリートビュー(SV)の画面です。最新のSVは2015年10月です。
ストリートビュー → 2011年5月 2015年10月
壇上伽藍 [高野山]
高野山の真言宗総本山の金剛峯寺の近くに壇上伽藍(だんじょうがらん)という場所があり、そこには15以上の建物がありました。ここは総本山金剛峯寺が管理しており、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建ですが真言密教の道場としての高野山の中核となる部分でもあります。
その壇上伽藍の中のいくつかの建物を紹介いたします。上の写真は敷地の中にある蓮池です。池の中島に善女龍王を祀る祠があります。
こちらの建物は蓮池の横を上に上がっていたっ場所に建っていました。この建物は大会堂で、安元元年(1175年)に鳥羽法皇御追善のため、その皇女であった五辻斎院頌子内親王の御願で建立されたものです。
もとは奥之院に近い東別所上乗院内にあったものですが、まもなく西行法師が内親王と相談の上、長日談義の学堂としてこの地へ移築されたそうです。最初は蓮華乗院と呼ばれていたそうですが江戸期より伽藍において行われる一山の法要の際、ここが威儀を正す場となったことから大会堂」と呼ばれるようになったそうです。
これらは東塔と三味堂です。東塔は白河上皇の御願によって大治2年(1127年)に建立されたものですが、焼失再建を繰り返して、現在の建物は昭和59年(1984年)に残されていた図面を参考に再建されたものです。
三味堂は伽藍の中では、もっとも小さい堂で金剛界大日如来を本尊としています。1166年~1169年の間に延長6年(928年)に建立の堂を移築、理趣三昧を修したところから三昧堂と呼ばれるようになったそうです。
現在の建物は文化13年(1816)に再建されたものだそうです。
この不動堂は建久9年(1198年)に鳥羽院皇女八条女院の御願により行勝上人が創建された一心院の本堂であったと伝えられています。現在の建物は鎌倉時代後期の再建と考えられています。この不動堂は国宝です。
本尊の不動明王坐像は平安時代後期の作で重要文化財、その脇侍である八大童子立像は運慶作で国宝に指定されています。(現在は霊宝館に収蔵)
これは金堂です。この金堂は高野山一山の総本堂で、弘仁10年(819年)建立の伽藍諸堂のうちで最初に建設に着手されたそうです。もとは講堂、御願堂などと呼ばれていたそうです。金堂も幾度となく焼失しており、現在の建物は昭和9年(1934)に再建されたものだそうです。
後ろの真赤な塔は根本大塔で幾度となく落雷に合い消失の憂き目をみて、現在の大塔は昭和12年、過去の記録をもとに再建されたものだそうです。高さ48.5m、四方各25mの大きな塔です。
Googleの航空写真で壇上伽藍を紹介します。
日光東照宮で福餅を買ってきました。 [日光]
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日光東照宮の表門の前で福餅が売られていることを菊花展の記事の中で紹介いたしました。上の写真で左端の白いテントで売られていました。
こちらが福餅が売られていたテントです。幟(のぼり)には「福徳 東照宮の福をお持ち帰りください 大福」と書かれていました。福徳は日光東照宮に大福を献上している福徳庵のことで、このテントが唯一のお店のようです。
店名 福徳庵
店舗 栃木県日光市山内2301 東照宮境内
営業 9:00頃~16:00頃
定休 不定休 ただし冬季は休業
事務所 栃木県日光市御幸町578番地1
電話 0288-25-7508
HP http://fukutokuan.com/index.html 2013年10月7日開始
福餅は大福(大福餅)で、沢山の種類があり、買うのに待たされるほどの人気でした。クリックすると大福餅の種類が判ると思います。写真から読み取れる大福を紹介しますと、「塩大福」「塩大福よもぎ」「ずんだ大福」「竹炭ごま大福」「白つぶ大福」「桃大福」「豆大福」「抹茶大福」です。これ以外にも沢山の種類がありましたがこの中から3種類を買いました。値段はすべて200円でした。
買ったのが、こちらの「塩大福よもぎ」と「ずんだ大福」と「豆大福」でした。福徳庵は下記のメディアで取り上げられたこともあり人気のようでした。
2013年10月31日 テレビ東京 L4YOU ! プラス 特集
2013年03月01日 NHK総合 どすこい! スイーツ旅~とちぎの恵みにごっつぁんです
2010年10月23日 フジテレビ もしもツアーズ No.1争奪!
柔らかいうちに食べたかったので家に帰ってすぐにいただきました。こちらが「ずんだ大福」です。ずんだ豆の餡が入った大福餅でした。
食感を感じていただくために「ずんだ大福」を拡大いたしました。
こちらが最もオーソドックスな「豆大福」です。
大福の由来は江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)にさかのぼるそうです。その鶉餅が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされています。腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したそうです。
上の「豆大福」の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒方のために拡大写真を掲載いたしました。
日光東照宮の菊花展 [日光]
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先々月のことになりますが2013年10月28日に、日光東照宮に行ったときに参道を進んで表門に入る手前の右の林の中で菊花展が行われており、一番手前の、よしず張の展示場の中を覗いて見事な花と多様な花の形に驚かされましたので、菊の花を紹介したいと思います。私が見た、よしず張の展示場には大菊が展示されており大別して三種類菊が展示されていました。菊に関しては詳しくないので調べた範囲で記載いたします。もし間違いがあれば修正いたしますのでご指摘を、お願います。上の菊は「大菊 厚物」で私の中で大菊と言えばこの菊がイメージされていました。
下の菊は「大菊 管物」で2種類が展示されていました。こちらも見事な黄色の菊でした。
こちらも「大菊 管物」で見事な臙脂色の菊でした。見事な長さの花びらです。針金は輪台で、白い紙は台紙と呼ぶそうです。
こちらは「大菊 一文字」に分類されるようです。「御紋章菊」とも言われるそうです。その名の通り、天皇の「菊のご紋」のように、平たい花弁が一重で並んでいます。花弁の数は14~16枚程ですが「菊の御紋」と同じ16枚が理想とされています。
上の臙脂色の菊の花を拡大いたしました。どうやら理想的な16枚の花弁のようです。
こちらは菊の御紋のように黄色の一文字です。
こちらはピンクの一文字です。今回、紹介した「厚物、「管物」、「一文字」以外に「厚走り」や「大つかみ」があるそうです。沢山の展示場所があったのですが、時間の関係で一つの展示場だけになってしまいました。次回には、すべてを周ってみたいと思いました。
一文字菊は綿玉を使って花の形を優しく整えるそうです。そのやり方を紹介したいので写真をネットから拝借いたしました。左端が整える前で右端が完成した姿です。
表門から参道方向を撮った写真で菊花展が行われていた場所をあらためて紹介します。左端の大きな杉の木裏の建物が、今回の菊の花の写真を撮った「よしず張の展示場」です。もっと左の奥に沢山の「よしず張の展示場」がありました。すぐ横の白いテントでは福餅が売られており人気でした。
高野山真言宗・総本山 金剛峯寺 [高野山]
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高野山真言宗総本山が金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
高野山に何度も来ているのですが、今までに金剛峯寺に2度しか来ていません。子供のころに祖母祖父と来た時と高校の遠足のときだけです。奥の院は必ず行ったのに自分でも不思議に思っていますが、ほとんどが自転車で来たので走る方が主体だったせいだと思います。今回(11月30日)は、じっくりと見ることが出来てよかったです。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、現在は118寺の寺院が密集する宗教都市です。
中国で行ったことのある九華山も同じような宗教都市でした。中国ではいくつかあるようですが、日本では宗教都市と言えるのは高野山だけではないでしょうか。
真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が京都の東寺とともに、宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めています。2004年には高野山やかつての表参道である高野山町石道(こうやさんちょういしみち)などが、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録され観光客の人も沢山訪れています。
現在は金剛峯寺という寺号は1つの寺院の名称になっていますが、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であったそうです。
見ての通り総本山としての威厳のある門構えでした。高野山の中だけで高野山真言宗は118の寺がありますが、全国では3554の高野山真言宗の寺があるそうです。さすが総本山です。寺院の格付けは順に総本山→大本山→遺跡本山→別格本山→準別格本山→別院→一般寺院、だそうです。
門の裏側です。名前の書かれたお札が沢山張られていました。これも、なかなか趣がありました。このお札は千社札(せんじゃふだ)と言うそうです。神社や仏閣に参拝をした記念として貼るものだそうですが長い年月が経過して紙の空白部分が腐食すると墨の印刷された部分のみが残り、これを「抜け」と言うそうです。この写真の千社札はほとんどが「抜け」の状態のようです。千社札に使われる文字の書体は江戸文字の「籠文字」が用いられるそうです。最近では見苦しくなるような迷惑行為になることもあるので貼る人は寺側の思いに配慮がいるようです。
こちらが金剛峯寺の主殿です。全体を一枚の写真で撮りきれない大きさですが、目いっぱい後ろに下がって撮ったのが、この写真です。
主殿は壮大な建物だけではなく美しい建物でもありました。
屋根のカーブが見事でした。
別の角度からも紹介します。
入口の高い石垣にある鐘楼は六時の鐘(ろくじのかね)です。この鐘楼は豊臣家きっての勇将であった福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立しました。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘が、かなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。
入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。
神戸市東灘区の岡本の家に住んでいた1962年頃(1961~1963年)に父方の祖母と祖父と祖母の妹さんが神戸の家を訪ねて来た時に高野山に行きました。その時の金剛峰寺での記念写真です。冒頭の写真の場所で撮りました。
祖父が左端です。祖母は真中で祖母の妹さんが右端です。祖父と祖母の間に立っているのが私の母です。2013年12月24日~28日に宝塚の実家に行くので、この記事を母に見せるつもりです。
その時の金剛峰寺の主殿の写真です。この時は冬の時期でした。
奥の院は、かなりの雪でした。左が祖母祖父で右が奥の院の参道を歩く祖父です。この時は白浜にも行きました。
この時、奥の院では武田信玄の墓の写真(左)を撮っていました。右が今回、撮った武田信玄の墓です。両方ともにクリックすると拡大するので興味のある方はクリックして比較してみてください。
航空写真でも金剛峯寺(金剛峰寺)を紹介いたします。
より大きな地図で 金剛峰寺 を表示
高野山の総門 名前は「大門」 [高野山]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
この建物は高野山の大門と呼ばれています。下の地図のように高野山の町の中の西の端に静かに建っている、名前の通り大きな門です。
町はずれにあることから訪れる人も少なく静かな場所ですが、クリックして拡大してみるとわかるように歴史のある、すばらしい建物でした。五間三戸(柱間が5間で入口が3間)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。高野山は世界遺産に指定されている場所です。その高野山全体に対する門(総門)が、この大門なのです。つまり世界遺産に入っていくにふさわしい門だと言えます。
通常は写真をクリックすると2倍に拡大いたしますが、この上の写真だけは4倍(面積では16倍)に拡大します。是非ともクリックしてみてください。
こちらに来たのは11月30日で、泊まっていた大阪のホテルから日帰りで来ました。ケーブルカーで高野山駅に着いて、そこからバスで東の端(地図の右端)にある奥の院に行き一の橋近くの、お寺で精進料理を食べた後に高野山の町を徒歩で散策しながら縦断して西の端(地図の左端)にある、この大門まで来ました。
Google地図です。上の地図と比較してみてください。左端の赤色マークが大門です。右端の赤色マークが奥の院です。他の色のマークは別の記事で紹介した寺院です。赤色ラインがお薦めの奥の院の参道です。奥の院から赤色ラインと緑色ラインを歩いて寺院など散策しながら大門まで来ました。まっすぐ歩けば3.9kmの距離ですが寺院に寄りながらなのでもう少し長くなったと思います。新しい記事を掲載した場合はマークを追加いたします。名前を知りたい方はマークをクリックしてみてください。
より大きな地図で 高野山 寺院 を表示
町のはずれまで来ると大きな門が見えてきました。道の左側には、すでに紹介とした南峰堂本舗という名の饅頭屋さんがあります。 さらに進み石段に近づくと全景が見えてきました。
石段を登ったところです。静かな場所でした。
門の前には大きなたて看板がありました。それには平成27年4月2日~5月21日に高野山開創千二百年・記念大法会が行われることが書かれていました。
高野山の開創当時は現在の地より数百メートル下方の旧道の九十九折谷(「つづらおりだに」あるいは九折谷)に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。その門が現在の門の前身だといわれています。
現在の位置に移された時期は、永治元年(1141年)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230年)には五間二階の楼門に改められたと記録されています。
その後、天正5年(1577年)に焼失しましたが、慶長9年(1640年)、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって再建されました。
現在の大門は、元禄元年(1688年)に焼失したことにより、同13年(1700年)5月造営の釿始を行ない、同14年7月大門中柱を建て始め、同16年9月上棟、宝永2年(1705年)8月に至って落慶供養が行われました。
高野山の文字が印象的でした。実は学生時代には自転車で何度も(6~7回)、ここに登ってきました。山道を登ってきて最初に目にするのが、こちらの大門だったので思い出深い建物なのです。
文政元年(1818年)に屋根、箱棟の修理が行われ、近年においては明治28年(1895年)に屋根の部分修理および二階の縁廻り、一階側柱の根継が行われており、昭和61年(1986年)には、全面解体修理が施されました。この時、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻したそうです。
現在は建設当時の朱色でしたが学生時代は白木の状態で、こげ茶色の門でした。
カラフルな文様が高野山の文字の上に描かれています。その中に魚が2匹います。写真をクリックすると探せると思います。果たしてどの文字の上に泳いでいるでしょうか。
大門の仁王像(金剛力士立像)は、その大きさからすると、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ、我が国二番目の巨像となるようです。
右の阿形像の像高は 5m46cmあり、左の吽形像は5m58cmあります。
こちらが右の阿形像です。阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立したそうです。
冒頭の写真をクリックするとわかると思いますが、両仁王像の前に、お花が立てかけられていたのが印象的です。
こちらが左の吽形像です。吽形像は同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明しています。
両像の造立に関わる関連資料が別に伝わっており、それによると、元禄9年(1696年)から10年にかけて、康伝、康意、康敬、運長など、当時の著名仏師による仕様見積書等がそれぞれに提出されていたことがわかりました。当時の仁王像造立過程を知る上で貴重な資料ということから、重要文化財金剛力士立像の付属品として取り扱われることになりました。
大門に掲げられている柱聯(ちゅうれん)です。文字が読み取れないのは写真が、ぶれているのではなくて色が落ちて滲んで読みとれないことは朱塗りの梁りの文様がクリアーなことから判ってもらえると思います。
そこでネットで調べた結果、右側には「不闕日日之影向」、左側は「検知處々之遺跡」と書かれていることが判りました。言われてみれば、そのように読み取れます。
これは「日々影向文」と呼ばれるものの一部で、全文は「卜居於高野樹下 遊神於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡」だそうです。その意味は「弘法大師は高野山を入定の地と定め、弥勒の浄土である都卒天の雲の上におりつつ、弘法大師のいわれのある旧跡や遺跡に日々影向する」と解釈されるそうです。
最後に高野山の総門である「大門」の正面からの写真を再度掲載いたします。
日本最大の木造門と言われている右の写真の知恩院の三門よりも高さにおいては上回ることからも、大きさが実感してもらえると思います。形式はいずれも五間三戸・二階二層門です。
高さ 正面桁行
知恩院 三門 23.8m (幅50m)
東大寺 南大門 25.46m (幅29m)
高野山 大門 25.1m 21.4m
南禅寺 三門 21.8m 22.0m
高野まき [高野山]
高野山と言えば、高野山の名前のついた、この「高野まき」も有名です。11月30日に高野山に行ったときも、写真の「高野まき」がいろんなところで売られていました。この高野槙が昔からお供えされているの知っていましたが、その経緯は知りませんでした。このさいと思い調べてみると、 高野山の「禁忌十則」に、尊厳護持のため、「禁植有利竹木」という決まりがあり、果樹、花樹、竹、漆などを植えることを禁止されたため、花の代用が必要であったそうです。
そのために花でもないのに「高野まき花」と言われているのでしょうか。調べてみると、やはり槙花(まき花)とは「槙の枝」のことでした。
本来ならば生花店なのですが、ご覧のように高野山では生花店は高野槙の専門店です。店名に槙の文字が使われているのが印象的でした。こちらは山本槙店です。
そして冒頭の写真のお店は中槙花店だと思います。そのほかにも宮崎槙花店、五味生花店、大谷生花店がありました。
高野槙の専門店を紫色のマーク( )で表示しました。緑のマーク( )は不思議な本屋さんとか虎屋薬店とか饅頭屋さんとか、今までに記事で紹介した趣のある商店です。マークをクリックするとお店の名前を表示します。
コウヤマキ(高野槙・高野槇、Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の種で日本固有種で、常緑針葉樹で高木となります。別名ホンマキ。コウヤマキ科は1属1種であり、コウヤマキのみです。
庭園に植栽し、材木としても利用されます。世界三大造園木の一つで、木曽五木の一つです。古代には、棺材として最上級とされた。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されています。和名は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来しています。高野山では霊木とされています。
より大きな地図で 高野山 槇店 を表示
お寺の生垣でも、よく見かけました。こちらの西室院(にしむろいん)の高野槙の生垣もすばらしかったです。写真をクリックすると拡大するので是非とも拡大写真を見て欲しいです。西室院の場所はこちらです。→ポチッ奥日光三名瀑 竜頭の滝 [日光]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
奥日光三名瀑の華厳の滝と湯滝はすでに紹介いたしました。残る奥日光三名瀑は竜頭の滝です。竜頭の滝(りゅうずのたき)にも行きましたので紹介いたします。竜頭滝と書かれることがある竜頭の滝は湯ノ湖に端を発し戦場ヶ原を流れ下ってきた湯川の末流にかかる滝で、長さ約210mの急斜面を途中で二手に別れ、まるで大岩を噛むように豪快に流れ下ります。「竜頭」の名前は、二枝に分かれた滝を正面から見た姿を「龍の頭」あるいは二手の流れの中央の岩を「龍の頭」と見立てたとも言われています。
滝に沿って東側に散策路があり、急流状になっている滝を側面から見ることができます。
その散策路からの景観を滝の上から順番に紹介していきます。こちらが竜頭の滝の一番上のからの景色です。湯川を渡る橋の上から撮りました。落ち口は明確な位置はありませんが、湯川は、ここから急斜面となって流れ落ちていきます。滝の先に見える湖が中禅寺湖です。
少し下ったところの竜頭の滝です。昔は上流部の一部を龍雲滝と呼び分け時期もあったそうです。
滝は徐々に急になり階段状になってきます。滝の形状による分類では、竜頭の滝は渓流滝に分類されます。華厳の滝は典型的な直瀑です。もう一つの奥日光三名瀑である湯滝は段瀑あるいは渓流瀑ですが、段瀑に分類するのが妥当な感じでした。
直瀑 落ち口から滝壷まで一気に落下する滝
分岐瀑 落ち口から幾重にも分岐して流れる滝
段瀑 2段や3段、またはそれ以上の階層がある滝
潜流瀑 地下水が崖の途中より直接落ちる滝
渓流瀑 滝口から傾斜した岩肌を滑るように流れる滝
海岸瀑 海岸の崖の上に滝口があり、海に直接落ちる滝
さらに下がったところの竜頭の滝の景観です。
見どころのところは広いスペースが作られており沢山の人がゆっくりと見ることが出来るようになっていました。このような場所が2ケ所ありました。
その中でも竜頭の滝の看板が立てられている場所は、最大の見どころなのだと思います。皆さんここで記念撮影をされていました。
その場所から撮ったのが冒頭の写真です。竜頭の滝の黒々とした岩壁は、男体山の火山活動の末期に噴出したデイサイト質の軽石流が形成したもので、かつて巨大な湖だった戦場ヶ原を埋め尽くしたものがここまで流れ下ってきたものだそうです。
ここには竜の頭の形をした岩がありました。
竜の頭の形をした岩を真横からも撮りました。
さらに下流側の竜頭の滝です。滝を下った湯川はすぐ下流で地獄川の右支流となり、0.5km先で中禅寺湖に流入しています。
竜頭の滝の一番下には「龍頭之茶屋」がありました。さらに「龍見台」の看板があります。
茶屋の中入って「龍見台」の意味が分かりました。茶屋から竜頭の滝が正面から見えるのでした。
茶屋から見た竜頭の滝の一番下です。二枝に分かれた滝を正面から見ることが出来ます。滝の途中の竜の頭に似た岩から竜頭の滝の名前が付けられたと書きましたが、こちらの茶店からの景観から竜頭の滝の名前がつけられたとも言われています。二枝に分かれた滝を正面から見た姿を龍の頭に見立てたものとされ、二手の流れを竜の髭(ひげ)に見立てて、中央の岩を頭部に見立てたとも言われています。確かにそう言われれば水の流れがヒゲに見えてきます。
あらためて奥日光三名瀑を紹介いたします。竜頭の滝だけは、一枚の写真で滝全体を紹介しきれないことが判りました。緑色マークが湯滝(落差50m 幅25m)で、空色マークが今回紹介の竜頭の滝(落差60m 幅10m)で、赤色マークが華厳の滝(落差97m 幅7m)です。奥日光三名瀑の中で湯滝が最も標高の高い1475m(落ち口)のところにあり、その次が竜頭の滝で最後が華厳の滝です。
湯滝 竜頭の滝 華厳の滝
より大きな地図で 奥日光三名瀑 を表示
日光三名瀑の裏見滝(うらみたき)と霧降の滝(きりふりのたき)も含めた航空写真も紹介します。 日本三大瀑布の華厳の滝は奥日光三名瀑であり、日光三名瀑でもあります。共通の華厳の滝を除くと水利用の多い奥日光三名瀑の方が日光三名瀑よりも迫力があるようです。2枚の裏見滝(左 落差19m 幅2m)と霧降の滝(右 落差75m 幅3m)の写真はWikimediaなどから拝借いたしました。
奥日光三名瀑 華厳の滝 竜頭の滝 湯滝
日光三名瀑 華厳の滝 霧降の滝 裏見滝
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高野山のメインストリート [高野山]
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奥の院の入口である一の橋口から金剛峯寺のあたりまでの間には沢山の商店とお寺があります。まさに宗教都市のメインストリートと言えます。そこのお寺をいくつか紹介すると雰囲気が伝わると思います。最初は不動院への参道です。
今回の紹介しているあたりの地図を掲載いたします。赤いラインのあった寺院を東から順に紹介していきます。すでに紹介したお土産屋さんなどの商店もこの赤いラインの道路にありました。
こちらは別格本山の三宝院です。
ちょっと変わった雰囲気の寺院がありました。成福院の横の寺院です。
こちらが成福院です。
こちらが別格本山の持明院です。
別格本山の大円院です。
大円院の塀が立派なので掲載いたしました。
こちらが常喜院です。
常喜院には地蔵尊がありました。ちょっと違った雰囲気を感じさせてくれる場所でした。
これが増福院です。
壇上伽藍に隣接した寺院である勤学院です。
空色マークが今回紹介した寺院の門あたりの場所を示しています。
黄色マークは精進料理と木製ガードレールを紹介したお寺です。
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中国の女性を勇気づけるお寺 通慧禅林 [九華山]
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九華山の通慧禅林の「如来」「阿弥陀仏」「薬師仏」です。(たぶん)
九華山の仏像はどこも、この写真のように3体で金色に輝いています。仏像自体は比較的新しいそうです。文化大革命で仏教が禁止されたために一旦は廃れたのだそうです。九華山は即身仏にこだわっています。
ここは中国で唯一の女性の即身仏があるお寺です。
金箔で飾られた仁義法師の即身仏がありました。女性は高僧でもない身分は普通の尼さんだったそうです。即身仏になったことで女性を勇気づけているお寺と説明されました。
お坊さんがなくなられると座禅を組んだ状態でカメの中に埋葬され3年後にカメを開けるそうです。
稀に即身仏になるそうです。と言っても九華山全体でも現存するのは4体だそうなので極々稀と言うことだと思います。
緑檀の数珠 [九華山]
この緑檀の数珠は九華山の百歳宮の釋慧慶住持(住職)から直にもらったものです。
この住持は中国仏教の四大聖地の九華山で最も偉いお坊さんだそうです。記念に飾っておきます。緑檀なのに茶色だなと思っていましたが時間が経つにつれて緑色に変わってきました。 クリックすると拡大します。
百歳宮 [九華山]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
ここも即身仏がある有名な百歳宮(百岁宫)というお寺です。写真は一般の人は入れない最も奥の小さな部屋です。
ここに九華山仏教會副會長の九華山で最も偉い言われるお坊さんの釋慧慶住持(釋慧慶・住職)に自らここを案内してもらいました。貴重な写真です。
百歳宮の入口です。ここは中国安徽省にある仏教の聖地・九華山(九华山)です。
住所 安徽省池州市青阳县219省道
219 Provincial Road, Qingyang, Chizhou, Anhuisheng
そして釋慧慶住持(釋慧慶・住職)の話を伺ことが出来ました。会談した部屋の中にも有名人と住持の写真が飾られていました。
←左の写真をクリックすると飾られていた写真を表示します。面白いのはクリックして出てきた写真の一番左側の写真がテニスプレーヤーのアガシ選手です。この場所にアガシ選手が来ていることには驚ろかされました。紹介した緑檀の数珠は、このときにお土産としていただきました。
下の人が九華山でもっとも偉いと言われている釋慧慶住持(釋慧慶・住職)です。そして、手に持っている茶碗が、このお寺で最も貴重な宝物の一つだそうです。
御利益があると言うことで、冒頭の写真の一般の人は入れない最も奥の小さな部屋で、特別に触らせていただきました。(左の写真)
長年、九華山でガイドをされていた人も、この部屋には入ったことがないため、すごく感激されていました。
日本人では初めてだろうと黄山の旅行社の日本部長に言われました。
釋慧慶住持から名刺をもらいました。二つ折りになっており裏側にはこのように肩書きが書かれていました。
百歳宮は山の上にあることから九華街からはケーブルカーで上りました。ケーブルカーは急斜面です。ピッツバーグのケーブルカーを思い出してしまいます。ケーブルカーは全長は452メートル、高さの差は223メートル、客38人+乗務員1人を載せることができて、運\行速度は5メートル/秒だそうです。
下の写真はケーブルカー(右)から九華街の駅を撮ったものです。見える街が九華街で沢山の人が住んでおられました。
百歳宮は創建当初は摘星庵と呼ばれ、祇園寺、東崖寺、甘露寺とともに四大叢林のひとつです。別名は万年禅寺ですが、言い伝えでは「大方広仏華厳経」81巻20年がかりで自らの血に金粉を混ぜて書き上げた明代の高層である無瑕が天啓3年(1623年)に110歳で円寂したことにちなんで「百歳宮」と称されるようになったそうです。無瑕の即身仏があることでも有名です。こちらの写真も九華山の代表的な雰囲気を感じさせてくれるのてクリックすると拡大するように設定いたしました。
黄色のラインがケーブルカーです。ケーブルカーの右端の少し上にある緑色マークの建物群が百歳宮です。臙脂色のマークは宿泊した東崖賓館です。
より大きな地図で ケーブルカー を表示
百歳宮からの景色です。九華街とは反対側の景色です。向こうの山は断崖のお寺の古拝経台があった山です。古拝経台も後日、紹介したいと思います。若いお坊さんも沢山おられます。
九華山では緑色のマークの6ケ所の寺院を訪問いたしました。空色マークが九華山で最高峰の十王峰(1342m)です。黄色のラインがすでに紹介したケーブルカーで赤色のラインがロープウェイです。青色マークが前記事で紹介した赤十字病院(紅十字医院)です。
中国に関してGoogle地図は地図と航空写真で約500mのずれがあるのです。これはいまだに解消されていません。そのずれを表したのが黄色のピンと緑色ラインです。具体的に月身宝殿(肉見殿)の位置のずれを標示しているのです。黄色のピンが地図上の月身宝殿(肉見殿)の位置で緑色マークが航空写真での位置なのです。
より大きな地図で 九華山 を表示
早朝の九華街の風景 [九華山]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
日本の高野山は仏教の聖地であり仏教都市でもあります。その高野山を前記事で紹介したので中国の仏教都市である九華山(きゅうかさん)を紹介いたします。九華山(九华山)は仏教の聖地として特別な場所なのです。沢山のお寺が集まった場所が九華街です。ここにはお坊さん以外にもお寺に関係ある人たちが沢山住んでいます。
これらの写真は朝の6時から7時の間に散歩をしながら撮ったものです。
大手の銀行が二軒あるのが判ります。メインストリートですね。昼間はにぎわっていると思います。お坊さんが立っているのが判りますか。
九華山は中国仏教の四大聖地のひとつと言われて中国では有名な場所です。ネットで調べてみると「文殊・普賢・地蔵・観音の四大菩薩がそれぞれ住むと信じられている。」とのことでした。
中国仏教の四大聖地とは
浙江省の「普陀山 291m」(観音菩薩) 青色マーク
四川省の「峨眉山 3099m」(普賢菩薩) 黄色マーク
山西省の「五台山 3058m」(文殊菩薩) 緑色マーク
安徽省の「九華山 1342m」(地蔵菩薩) 赤色マーク
です。
確かに断崖のお寺 古拝経台(九華山)でも地蔵菩薩が祭られていました。参考に日本の仏教の聖地(仏教都市)である高野山に紫色マークを付けました。
より大きな地図で 中国仏教の四大聖地 を表示
九華山には沢山の見どころがありますが実は一番気に入っているのが生活が感じられるこの九華街の雰囲気でした。2番目にこの記事を持ってきたのもそんな思いがあったからです。一番九華街の雰囲気が感じられるのが街の中の道でした。その雰囲気を味わって頂くためにさらに道の写真を4枚掲載いたします。
日本で例える場所をあえて言えば雰囲気は違うけれど高野山のような気がします。しかし文化大革命は信仰心を破壊することで進められたことから、お坊さんさんたちも強制的に労働に就かされた上に、さらに古い貴重な文化財が沢山破壊されたために古い歴史のあるものが日本に比べて少ないとガイドさんは残念がっていました。特に仏像の被害は大きいく古い仏像は極端に少ない気がしました。
まだ静かな雰囲気ですが昼間は沢山の人が歩いていました。
朝が早いので人通りは少ないけれど、もう生活がはじまっていることが感じられます。山の上の塔もここの雰囲気にマッチしているような気がします。九華山紅十字医院の看板が目を引きます。赤十字病院のことを紅十字医院と書くことが判りました。
やはりまだ暗いです。荷物を運ぶ人が目立ってきました。
そこに生活している人たちだけでなく観光客の人も増えてきているような気がします。
白い色の建物の中に黄色い建物がところどころにありました。ここのお寺は有名なお寺以外はだいたい黄色の壁です。そしてお寺は宿坊もやっています。観光客の人がこれから出発するところです。閣提篭かな?
お寺が100軒くらいと説明されました。ここも黄色です。ここでは開封で報告したような赤い色は少ないです。こちらは長生庵と書かれていました。
昔は尼さんと男のお坊さんは別々だったそうです。尼さんのお寺があったのは断崖のお寺古拝経台があった山の麓あたりだったそうです。こんな歴史も高野山と女人高野に重なるものがあります。
水のある景色を角度を変えて2枚掲載します。
上から四枚目の写真はこの前の道路を撮ったものです。
遠くに大きなお寺が見えます。民家の雰囲気も独特です。
土産物屋さんの前にこれから山に登る人たちが集まっています。
朝早くから食堂が開いています。まだ6時半です。
蕎麦に似た麺のようですが器が立派です。おそらくどこかの旅館か宿坊からの注文ではないでしょうか。道端で食べる料理ではなさそうです。
同じお店です。家族で食べに来ている雰囲気です。
線香屋さん兼お土産屋さんです。
坂の上にもあります。
旅館です。独特な雰囲気の場所でした。中庭を囲んだ形に並んでいます。
道沿いには小さな旅館が連なっています。カラオケなどの大型娯楽施設もありました。聖地といえども観光地だなて感じがしました。もしかしたらお坊さんもカラオケに行くのかな? まさか!
こちらが九華山の仏教都市です。町の中にも寺院がありますが町の東が(右側)の山の尾根の部分に点々と見えるのも寺院です。こちらにも登りましたので、後日に報告いたします。赤色マークは町の中の化城寺という大きな寺院です。黄色のラインは百歳宮へ登るケーブルカーです。ケーブルカーの終点の少し上の建物群が百歳宮です。
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高野山と言えば精進料理 [高野山]
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高野山に来れば、やっぱり精進料理を体験したいですね。宿坊に泊まれば、もちろん夕食で食べれるのですが、日帰りで来ているので昼食で精進料理を食べることにしました。ネットで調べて写真のお寺に精進料理を12時に予約しました。場所は奥の院の入口の一の橋に近い熊谷寺です。高野山に着いて、最初に奥の院に行き参道を歩いて一の橋まで来ると丁度12時でした。
中に入るとさっそく、長い廊下を案内されました。
そしてこちらの部屋に案内されました。
部屋の前の廊下から写真を撮りたくなります。
部屋の中には人数分のお膳が並べてありました。暖かいものは後から持ってこられました。見ての通り5名で高野山に来たのです。
部屋と廊下を仕切る障子のシルエットがきれいでした。
待っていると暖かいものが並べられました。天ぷらは揚げたてが最後に出てくるのですが、それまで箸を付けずに天婦羅が来てから写真を撮りました。
デザートは季節柄(11月30日)、柿でした。
さっそく記念撮影です。
ご飯をよそいでももらった上に、お茶まで入れていただきました。
料理を紹介します。これは蒲鉾のように見えるのは麩(ふ)です。この生麩(なまふ)はおいしかったです。高野豆腐と昆布も精進料理の定番ですね。
こちらは、ごま豆腐です。これが精進料理の栄養源になっている気がしました。味は本場の高野山だけのことはありました。
調べてみると高野山の精進料理の一番の特徴は、ごまとうふを使う事だそうです。ごまとうふは昔、弘法大師がある民家に宿泊された際、亭主のもてなしとしてふるまわれたもので、大師は大変感動され、後世まで残すようにと言葉を残されたと言われたそうです。高野山のごまとうふは白ゴマと吉野葛以外使わず、般若心経を唱えながら練るという独特の製法で、滑らかにまるでとろける口当たりは多くの方を虜にし、おみやげに最も喜ばれているそうです。
天ぷらはもちろん野菜天ぷらです。藻塩で食べました。
煮豆に
酢の物です。
もっと豪華な精進料理もあるのですが昼食であることから今回の質素なコースの昼食プランAにいたしました。
質素な方が、高野山と言う場所のお寺で食べる精進料理らしく、周りの雰囲気にも合っているような気がしたのも今回のコースを選んだ理由でした。
昼食プランA 3500円
昼食プランB 4200円
昼食プランC 5250円~8400円
ネットでの精進料理の説明を紹介いたします。
僧侶は日々の暮らしの中で修行としての食事をします。本来食事は朝の粥・汁・香の物という一汁一菜から始まり、昼の白米・汁・香の物オカズの食事のみです。ただ、それだけでは夕方にお腹が減ってきますので、夕食を摂るのですが、本来夕食は「食事」という概念では捉えず、「薬食(やくじき)」という名前が付き、薬であると考えます。この薬食を肉、魚介類、ニンニクやニラ、タマネギ等の臭いのきつい野菜類を使わず、研究され創意工夫され進化してきたものが現在の精進料理と言われるものです。
暖かいお澄ましはいいですね。高野山では精進料理が何百年も作り続けられてきただけのことはあり、質素ですが美味しい料理であり、高野山の雰囲気を堪能させていただきました。
炊き立てご飯も最高のご馳走でした。
精進料理の「精進」とは次の意味が込められています。
・ 一心不乱に努力する事
・ 仏教の戒律を守る事
・ 仏道の修行に励む事
・ 肉食を断って菜食をする事
柿チップス [日々]
以前にビタミン大根と隼人瓜で紹介した地場で採れた野菜ばかりを売っている近くの野菜屋さんで写真のものを見つけて買いました。初めて見たものなので紹介のために掲載いたしました。
干し柿のような食べ物で家族内ではなかなかの人気でした。値段は300円でした。
見た目は少なかったけれど柿3個分とは驚きました。300円の値段も納得です。
想像の象 日光東照宮 [日光]
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東照宮にある日光三彫刻の「三猿」と「眠り猫」を紹介しました。もう一つの日光三彫刻は「想像の象」ですが、あまり知られていないようです。
「想像の象」は、「三猿」のある神厩舎(神厩)の参道を挟んで向かいの上神庫に飾られています。上の写真の大きな木の陰の左の建物が「三猿」の神厩舎で、右の建物が上神庫です。上神庫は三神庫の一つです。
その上神庫に妻面の軒下の壁に藤菜象が2頭飾られており、その像が「想像の象」と呼ばれる彫刻です。「想像の象」の下絵の作者は狩野探幽と言われ、探幽が実物の象を見たことがなかった事から「想像の象」と呼ばれるよになったそうです。上神庫は他の三神庫の中神庫と上神庫と共に寛永12年(1635年)に建てられた桁行7間、梁間4間、切妻、銅瓦葺き、校倉造り、高床の上倉庫で三棟合わせて内部には「百物揃千人武者行列」に使用される1200人分の装束や舞楽用の装束などが収められています。
妻面は見事な装飾で飾られていました。
妻面の2体の象の部分をさらに拡大いたしました。「想像の象」は日光三彫刻の中でも、もっとも大きくて鮮やかな色彩が施された彫刻でした。龍のように見える彫刻は麒麟(きりん)だそうです。下段中央の緑の顔の鬼の彫刻らしきものもありました。興味のある方はクリックして確認してみてください。
こちらが右側の象の彫刻です。象は恐ろしい顔をしており爪があることから獅子をイメージしている気がしますが、長い鼻やや二本の大きな牙は本物と似ています。さらに耳は形が違いますが大きいことがきちっと伝えられているのに驚かされました。
左側の象は尻尾の先が何本にも分かれているのが特徴です。3つ又の尾と表現されている記述もありましたがよく見ると裏側にも分かれた尾を見ることが出来るので、尾が分かれているのではなくて、ふさふさとした毛が生えた尾を表現したかったのではないでしょうか。2体の象の様子はかなり違います。下の象はどちらかと言えば獅子に近く上の象の方がお腹が大きくて実際の象に近い感じです。2体が、これほど違う理由は、狩野探幽が雄雌を描いたのか、別々に想像して書いたものなのか、調べた範囲ではわかりませんでした。上神庫が建てられた1635年以前に日本に象が来たは次の通りなので、想像で描くのも仕方ないことのようです。その後は1728年になるようです。
1575年 大友宗麟への献上
1597年 豊臣秀吉への献上
1602年 徳川家康への献上
2体の象の彫刻以外に同じ妻面に象の頭の彫刻もありました。
下段中央の緑の顔の鬼らしき彫刻も拡大いたしました。ネットで調べた範囲では、この彫刻の記載は見つからないので、見た目から「鬼らしき彫刻」ということにいたしました。象や麒麟の彫刻が飾られている面なので、何かの動物である可能性もあります。顔の周りの飾りは鬣(たてがみ)のようにも見えます。もし「たてがみ」だとすればライオン、つまり獅子ということになります。
上神庫の別の角度からの写真です。左側が「向拝」側です。沢山の灯篭(燈籠)が印象的です。この場所は陽明門から33段(12段+21段)下がったところなので外様大名が寄進した燈籠です。
三神庫は下神庫・中神庫・上神庫の総称です。春秋の祭りの1週間ほど前から準備のため扉を開けるので内部をのぞけるそうです。いずれも奈良の正倉院に代表される校倉造り(あぜくらづくり)を模した建物です。上神庫はすでに紹介したので下神庫と中神庫を紹介いたします。こちらが中神庫(なかじんこ)で桁行9間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺きの建物です。左に少し写った建物が上神庫で、右に少し写った建物が下神庫です。
こちらが下神庫(しもじんこ)で桁行7間、梁間4間、切妻、銅瓦葺きの建物です。左に少し写った建物が中神庫です。
東照宮の表門の柱にも象の彫刻がありました。
表門をくぐって左に曲がると「三猿」の神厩舎と「想像の象」の上神庫が目の前にあります。
写真をクリックすると広い範囲を表示します。
南峰堂本舗 [高野山]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
今回も高野山の中の老舗の紹介です。
創業123年の虎屋薬局を紹介いたしましたが、こちらは創業83年以上、大正時代の南峰堂本舗(なんぽうどうほんぽ)です。名物は酒饅頭のようです。高野山の町の西の端にある大門の近くにあるお店です。大門のそばにあるため「大門力もち」も有名です。これ以外にもいろんな和菓子を売っているので、この次に行く機会があれば是非とも食べてみます。
住所 和歌山県伊都郡高野町高野山大門803
電話 0736-56-2316
営業 7:30~19:00
休み 不定休
木の間に見える大きな建築物が大門です。南峰堂本舗は大門のすぐそばにあるのがわかってもらえると思います。
南峰堂本舗の前から高野山の町の中心の方向(東方向)を見た景色です。沢山の商店が並んでいます。このあたりでは釜飯も名物のようです。
高野山の商店 [高野山]
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高野山は海抜800mにある人口4042人の宗教都市です。世界遺産に登録された2004年以前は外国人観光客は年間4000~5000人程度だったそうですが2004年以降は徐々に増えてきて2009年は約35,000人になったそうです。「ミシュランガイド」に紹介されたこともあり欧州からの観光客が特に多いそうです。私も今回、高野山を見せてあげたくて3人の外国人と一緒に来たので、外国人観光客に少し貢献したのかもしれません。
日本人も含めた観光客全体の2012年の観光客の数は125.9万人だそうで、当然ですが、お土産屋さんも沢山ありました。新しいお店も景観に配慮した建物になっていました。
こちらは食堂です。名前は南海食堂と読み取れます。食堂の後ろは旅館群のように思われます。住んでいる方が4000人ほどなのにも驚きました。観光客の方が多いときは宗教都市でもあり、観光都市でもありますね。
お寺が118もありお坊さんも沢山おられるので足袋の需要は沢山あるのでしょうね。懐かしい老舗の福助足袋さんもありました。お店の名前は石橋法衣衣料店です。外人さんを意識したTABIの表示も印象的でした。
このあたりは高野山で生活している方が利用される商店が沢山あるところです。クリックすると拡大するのでわかると思います。
緑色マークが記事で紹介したお店です。紫色マークは高野槇の専門店です。
より大きな地図で 高野山 商店 を表示
ちょっとした4つの配慮 [高野山]
ここは高野山の遍照光院の前のメイン道路ですが景観を大切にする配慮がいくつかありました。気が付かれましたか。クリックすると拡大するので、探してみてください。
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道路のカーブ部分にはガードレールが設置されていますが、一つ目がそのカードレールが木で作られていることです。鉄の部分を両側から木で挟んで丸くしています。支柱も白ではなく茶色が使われているのも二つ目の配慮だと思います。冒頭の写真の中に道路標識がありました。ただし裏側だったので気が付かれない方もおられたかもしれませんが、実は道路標識の上に屋根が取り付けられているのです。標識自体は色を変えられないので少しでも景観に近づけているのだと思います。その屋根が三つ目の配慮で四つ目の配慮は道路標識の支柱にも茶色が使われていることでした。
お寺の写真を撮っても白いガードレールより格段に雰囲気がいいですね。せっかくなので写真のお寺である遍照光院を紹介いたします。高野山真言宗の総本山は金剛峰寺ですが、高野山には総本山の金剛峰寺を除いて117のお寺があります。その中に別格本山が27寺があります。その別格本山の一つが遍照光院なのです。遍照光院(へんじょうこういん)は、天長9年(西暦832年)11月に弘法大師によって創建され、白河上皇が高野山参りの度に御在所とされた由緒のある寺院です。
門からの内部の景色です。本堂には重要文化財快慶作の阿弥陀像外、寺宝は国宝、重文など多く狩野藤原採林の襖絵など手近に見ることが出来るそうです。高野山のお寺のほとんどは宿坊になっており、こちらでも個室(35室)大広間(2室)中広間(1室)があり、最大で個人は150名、団体で200名が泊まれるそうです。
別格本山の27寺を紹介いたします。
宝亀院、桜池院、天徳院、正智院、宝城院、西禅院、明王院、龍光院、親王院、
総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、
本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、
遍照光院、清浄心院、円通律寺
冷蔵庫が壊れた。 [日々]
冷蔵庫で同じような症状の方がおられるかもしれないので参考に状況と修理に関して報告いたします。今回は冷蔵庫が壊れたといっても冷えないのではなく冷えすぎるのです。最初に気が付いたのが冷蔵室に入れてあった刻んだネギが凍りついたことです。上の写真で左上の部分が凍りました。入れてあった食品が、いつになく冷たいので異常であることはすぐに気が付きました。
刻んだネギだけでなく水分の多い「めかぶ」は氷の状態になっていまいました。さらに1リッターの紙パックの野菜ジュースはパンパンに膨れて凍っていました。
冷蔵室も冷凍室も「中」から「弱」に設定しても改善の兆しがないことから温度計を入れて測ったところ冷蔵室の温度はマイナス(-)3℃を示していました。よく朝にはマイナス(-)5℃まで下がっていました。取扱説明書によると、正常だと「中」で+3℃~+5℃で「弱」だと+5℃~+8℃と書かれており約10℃も正常な状態より低いのです。冷凍室はマイナス(-)15℃で、すこし高めですが、正常の範囲でした。
電源を7分間ほど切ると、正常に戻ることがあると、取扱説明書に書かれていたので電源プラグを数時間抜いて入れなおしてみましたが状況の改善は見られませんでした。
それにしても取扱説明書の故障に関する記述はほとんどありません。故障と思ったら使い方が間違えていないか確認することしか書かれていないのです。
野菜室の温度もマイナス(-)1℃を示していました。野菜室では白菜が凍っていたので実際にはもっと温度が下がったものと思われました。
すぐに、温度計の写真を持って購入店に修理を頼みに行きました。この日か翌日には訪問日の確認の電話が入るとのことでした。冷蔵庫を購入したのは2008年11月24日で、すでに5年が経過していることから有償は覚悟していました。保証期間を確認すると冷蔵庫の場合は販売店の保証が10年であったことから無償で修理に来てもらえるとのことでした。さすがサービスで人気の「ケーズデンキ」さんでした。
家に帰って夕刻に「翌日に修理に訪問しても良いか」との確認がありOKすると翌日の朝に冷蔵庫のメーカーの修理人から電話が入り訪問時間の相談があるとのことでした。
翌日に電話があり16時半に修理に来られることになりました。見てもらった結果、故障は冷凍室から冷蔵室に入る冷気を制御する開閉扉のような構造のダンパーが開いたまま動かなくなっていたのです。問題のダンパーは右の冷気の吹き出し図よりさらに下に付いています。
冷蔵室を冷やすのは冷凍室の冷気をファンで循環させることを初めて知りました。その冷気が冷蔵室から野菜室に循環するので温度の差はあるにしても冷蔵庫全体が冷凍室のようになったのでした。冷蔵室の奥のパネルを2枚外すと一番下に制御用のダンパーがついていました。新しいものに交換して修理は完了でした。翌日に冷蔵室の温度を測ってみると「弱」で、+3℃と若干低めですが正常な運転になったようでした。
本屋さん [高野山]
高野山の町の中を歩いていると本屋さんがありました。写真のように沢山の本の名前が書かれていました。置いている本の名前だと思いますが高野山らしい雰囲気だったので紹介いたします。
書かれているいる名前をネットで検索しますと、やはり本の名前として出てきました。写真はクリックすると大きく表示するので題名が読見やすいと思います。
建物も、すでに紹介した虎屋薬局(築123年)に負けないくらいの雰囲気でした。
Google地図とストリートビュー(S.V.)で本屋さんを探してみました。お店の名前は「佛教美術研究所」でストリートビューの画像を掲載いたしました。写真をクリックするとオリジナルを表示します。
店名 佛教美術研究所
S.V. http://goo.gl/maps/fzHqd
地図も紹介いたしす。土井商店と(株)前板工務店の間の佛教美術研究所です。
より大きな地図で 佛教美術建機有所 を表示
虎屋薬局 [高野山]
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高野山に行ったときのことを、先日からいくつか掲載させていただいています。高野山の奥の院参道やお寺はどれもすばらしい建物ばかりでしたが、趣のある商店も沢山あったので、いくつか写真を撮りました。特にこちらの虎屋薬局さんは特別のような気がしました。こちらの写真はクリックすると拡大するので是非ともクリックしてみてください。
別の角度からの写真も紹介します。こちらもクリックすると拡大します。
写真を撮っているときは気がつきませんでしたが、ガラス窓越しに大きな虎の置物がありました。お店の名前が虎屋だから「まねきねこ」ではなく「まねきとら」と、したのでしょうか。確認してみたいですね。
木製看板の「とらや藥局」も趣があります。その看板の横になにやら説明文があることも、後から写真を見て気がつきました。
調べてみるとナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の英語版の明治44年(1911年)11月号に虎屋さんの店の写真が掲載されていることが書かれているとのことでした。
冒頭の写真あるいは2枚目の写真をクリックしても、わかるのですが、庇(ひさし)の上に趣のある灯篭があったので、拡大して掲載してみました。
灯篭の正面に「とらや」、左右に「くすり」と書かれています。
掲載するにあたり、虎屋薬局さんを調べてみると高野山の商店で最も古い建物で、明治23年(1890年)に建築されたものでした。今から123年前に建てられたものでした。
見た瞬間の印象は確かでした。
写真をクリックすると2倍に拡大した写真を表示します。
奥の院 [高野山]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
高野山に来て最初に訪れたのが奥の院です。奥の院とその参道は高野山の雰囲気が凝縮された世界に感じます。上の写真が高野山の奥の院です。残念ながらこれより奥は、左の看板に書かれているように写真撮影が禁止されているため全景は紹介できません。奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。高野山で建物の撮影が禁止されているのは珍しいです。それだけ神聖な場所なのでしょう。
上の写真もクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために奥の院の建物部分を拡大してみました。クリックするとさらに拡大します。この建物の奥に弘法大師の霊廟があります。
高野山で一番大好きな場所が一の橋から奥の院への参道(緑色ライン)です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓所や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。それらの中には武田信玄、上杉謙信、織田信長など有名な武将たちの墓所が沢山あり、それらの風景には圧倒されます。この参道は是非とも歩いて欲しいです。バスで来た場合は、奥の院前まで行かずに手前の一の橋口のバス停で降りることを推奨いたします。正式な参拝も一の橋から歩くのが本来の姿です。
奥の院側から参道を見た景色です。我々は12時に一の橋の近くのお寺に精進料理を予約してあり、時間がなかったので、先に奥の院に行き、奥の院側から一の橋に歩きました。
御廊橋のあたりの景色です。
樹齢千年を超える杉の古木には圧倒されました。400年~500年前の戦国の武将の墓所・墓石を見るとロマンを感じてしまいます。
後で紹介いたしますが、武田信玄(1521年~1573年)や伊達政宗(1567年~1636年)など有名な武将の墓所を見ると、なぜか感激してしまいました。
こちらが島津家久(初代薩摩藩主)と島津光久(二代薩摩藩主)の墓所です。伊達政宗の墓所も石の鳥居と大きな同じタイプの墓石でした。
こちらは庄内藩主の墓所です。
石田光成の墓所も見つけました。文化的に重要なものばかりで見ごたえがありました。
こちらも見事な墓です。安芸藩(広島)の浅野家(藩主)の墓所です。江戸時代の藩主あるいはその家の墓所は立派なものが多かったです。
こちらも墓の構えからして名のある家の墓所だと思います。やはり藩主の家だと思われます。調べた結果、徳川家康の次男である結城秀康の石廟で重要文化財に指定されていました。福井藩の藩祖、つまり第1代藩主でした。
是非とも見たかったのが武田信玄の墓所です。敷地は広かったけれど墓石は他の墓石に比べて小さかったのが印象的でした。右の白黒の写真は、私が小さいころの1962年頃(1961~1963年)に祖母・祖父に連れられてきたときの写真です。
2つの墓石の左の大きい方が武田信玄(第19代当主 1573年没)で、右の小さい方が信玄の子である武田勝頼(第20代当主 1582年没)の五輪塔です。
武将ばかりではありませんでした。歌舞伎役者の市川団十郎のお墓もありました。これはどうやら初代の市川團十郎(1660年~1704年3月24日)の墓のようです。これ以外にも沢山の有名な墓所を見ることが出来ました。
こちらが有名な「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」です。お堂の中に汗かき地蔵尊が安置されています。汗かき地蔵尊の謂れは、いつも人々が犯した罪の苦しみを、人々て代わって受けておられるので、その苦しみのため汗を流しておられるのだそうです。黒っぽい石に彫られた地蔵尊は、実際にツユが吹いて、汗が流れているように見えるときがあるそうです。
そして、お堂の右の奥の方に「姿見の井戸」があります。クリックして拡大すると文字が読み取れると思います。この小さな井戸「姿見の井戸」は空海が高野山に登ったときに掘られた井戸だといわれています。伝説では、この井戸の水は、どんな眼病にも霊験あらたかだそうですが、のぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうのだそうです。「中の橋」の近くに、この「汗かき地蔵尊」と「姿見の井戸」があります。
高野山の入口 女人堂 [高野山]
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すでに紹介した箕面の紅葉を見に行った前日(11月30日)は高野山に行ってきました。ケーブルカーで高野山駅に着きいてバスに乗ると最初のバス停が女人堂でした。高野山では沢山歩きました。最初に紹介するのが女人堂です。
昔、高野山は女人禁制の山で七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていたそうです。そのために各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれていたそうです。この建物は現存する唯一の女人堂だそうです。
高野山の入口であることから立派な石碑が道路の両側に建てられていました。右には高野山と書かれ左には真言宗の総本山である金剛峰寺の文字が書かれていました。石碑の裏には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていました。と言うことは今から56年前に建てられた石碑ということになります。
女人禁制は141年前の明治5年(1872年)に解かれるまで千年余りの間、つづいたそうです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。
実は女人堂は高野山の中の最後の参拝場所でした。ケーブルカーの駅からバスに乗ってここでは降りずに奥の院のまで行って、高野山の沢山のお寺を歩いて回って、ここまできました。ここからはバスに乗ってケーブルカー駅まで帰りました。
箕面の滝 [箕面]
龍安寺(箕面寺) [箕面]
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箕面滝に登っていく散策路(滝道)の途中に立派なお寺がありました。その瀧安寺は古くは箕面寺と呼ばれていました。今も通称として箕面寺と呼ばれています。上の写真は山門から観音堂を見たものです。
1358年前の658年に役行者により開かれたそうです。役行者は箕面の滝で修行中、大滝の上の龍穴において龍樹菩薩より法を授けられ、滝の下で不動明王と弁財天の像を刻んで堂宇に安置したと伝えられているそうです。本尊の弁財天は竹生島・江ノ島・厳島と並ぶ日本四ヶ所弁財天の1つとして知られているそうです。箕面寺は勝尾寺とともに浄土信仰の聖地ともなり、梁塵秘抄にも『聖(ひじり)の住処はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや』と歌われているそうです。1332年に後醍醐天皇の隠岐脱出を護良親王の令旨によって修法して功績があり、天皇より瀧安寺(ろうあんじ)の名と勅額を賜り、寺名を改めたといわれていますが、戦国時代以前には瀧安寺を使った文書は見当たらないとのことであり、現在の寺名が使用されるのは、もっと後の時代からと思われています。元の堂宇は、箕面滝の近くにありましたが、度々の火災や文禄の震災で衰微し、1603年に寺僧覚玄が現在地に移転再建したそうです。江戸時代に入り、後水尾天皇を始め、朝廷の帰依をうけ、1693年の開基1000年忌の際に現在に伝わる主たる建築が完成したそうです。
鮮やかな朱塗りの瑞雲橋の向こうは鳳凰閣で、この建物は1917年に建てられたそうです。
こちらの立派な建物は道場になっており一般の人は入れません。立派な石垣が印象的な、お寺でした。
「自是」の表示が厳粛さを感じさせてくれます。
紅葉と瑞雲橋と鳳凰閣は絵になる風景でした。瑞雲橋の下を川と滝道が通っています。
観音堂の裏側からの景色です。観音堂には国の重要文化財に指定されている如意輪観音像が安置されています。
りっぱな「もみじ」でした。紅葉の季節は、やっぱりいいですね。
滝道沿いのもう一つの散策 箕面 [箕面]
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箕面と言えば滝ともみじで、沢山の人が訪れます。沢山の人が訪れるところには沢山のお店が開かれます。一番多いのが「もみじの天ぷら」です。少し甘めの衣で揚げており、おやつ感覚でいただきます。看板には「箕面伝統銘菓 もみじの天ぷら 一の橋」と書かれていました。もみじの天ぷらでは有名なお店のようです。
もみじの天ぷらの作り方が土田商店さんのサイトに書かれていたので枠内に転記の形で紹介いたします。一年がかりで作ることが判りました。
収穫
一枚一枚手拾いした食用のもみじの葉を、水洗いし、樽に入れ、一年間塩漬けにし、灰汁出しをします。
塩漬け
流水で何度も洗い、一枚ずつきれいに並べそろえます。葉の軸もきれいに切り落とし、再度、樽に入れ塩漬けします。
あげ
一日かけて完全に塩抜きし、一枚一枚、衣をつけ、高温の菜種油で、15~20分かけ揚げます。
油きり
その後、缶に入れ、油をきります。油のきり方により、味・風味が変わるので、慎重に行います。
今の時期は焼き栗も沢山売られていました。
新しい形の焼き栗も作られていました。圧力を加えているようです。
干し柿を吊り下げている光景も風情がありました。滝道を歩いているとお寺やモミジ以外にも散策するものがあることを知りました。
そんなお店が沢山あるので見て歩くだけでも楽しくなります。